3/6 | 電気ケトル購入──不便で知る便利──節電の話 電気ポットが壊れた。写真のようなタイプ。これは魔法瓶構造の最新型なので同様に扱うのはすこし気が引けるが、写真と同じ象印の製品で見た目はほぼ同じ。2万円以上した高級品?だった。保存温度もほぼ熱湯の95度から玉露用の65度まで3種類設定できる。安物はそれができない。とはいえ8年ぐらい前の品。 ボタンを押すと自動でお湯が出る。電動給湯タイプというらしい。そういやこれの前のタイプはポンプ式で押しだすモノだった。 それがいくら押してもカラカラと空回りの音がして出なくなった。湯沸かし機能と保温機能に問題はない。しかしお湯が出ない。 私は緑茶をメインに、珈琲、紅茶、★ポタージュ、味噌汁「しじみ70個分のちから」のようなもの、とやたらお湯で作るものを飲むから、ポットが壊れたことは即生活に支障をきたす。 早速価格comで商品を調べた。修理に出すかとも一瞬考えたが、すなおに寿命による御臨終と諦めることにした。 寿命とはべつに、前々から問題のある品らしいとは気づいていた。古い型なので異様に電気を食うのだ。もちろんそれは通年繋いだままにしている私の使いかたの問題だ。あれやこれや頻繁に温かい物を飲む私には必需品であり、通年通電して常にお湯をそばに置いているのは、数少ないささやかな贅沢だった。 ※ 餘談ながら、シナ人の「お腹にいれるものは温かいもの→躰に冷たいものをいれてはいけない」という思想は徹底している。地方の食堂でビールを冷やしていないのは、そういう文化がないから、いや、冷やしたものを躰に入れたら躰に悪いという文化が浸透しているから、である。常温のものでも温めて腹に入れるのをよいこととしているのだから、常温のものを冷やして口に入れるという発想は庶民のあいだにはない。冷蔵庫も冷凍庫もある。思想である。よいことだと思う。 一方、暑さから逃れるために冷たいものは快感、という感覚のタイ人は冷やす冷やす(笑)。飲物にはもう水からなんから常に氷入り。こちらはシナとは逆に、どんな田舎食堂でも冷えたビールが飲める。タイでキンキンに冷えたビールを飲んだ後、シナに行き、冷たいビールに餓えると、しみじみ彼我の差を感じる。タイだと田舎の掘建て小屋食堂でもビールが冷えているが、シナだと昆明のような百万都市の駅前食堂でも冷えたビールはない。もちろん冷蔵庫はある。ビールを冷やして飲むという習慣がないのだ。おまけに食器は缺けているし、ホコリだらけだし、洗うのが面倒だからとポリ袋を被せたどんぶりで出て来るし……。シナの悪口ならいくらでも言える。 私はシナの食堂で、冷えたビールがないと落胆したことが何百回とある。サービスのよい店もあり、私からそれを聞くと、「わかった、じゃあ今すぐ作るから待ってろ」と、店主が冷凍庫で冷やし始めてくれたりした。言うまでもなくビンビールが5分10分で適度に冷えるはずもなく、気持ちはありがたいが、もういいからと言ってやめさせた。このことで印象的なのは、「冷やしたビール」というものにみな首を傾げたことだ。「こいつはなにを言っているんだ!?」という顔で私を見た。それだけ「冷やして冷たいものを飲む」という習慣がないことになる。昆明飯店のような一流ホテルではそんなことはあるまいが、私の行く地元のひとが利用する庶民的な店はみなそうだった。 ※ シナ語でビールはピージューだ。今は表記できるのかな。啤酒。おお出来た! 以前はこの字が出せず、「口偏に卑しいと書く」などと説明があったものだ。大のビール好きの旅行作家・宮脇俊三さんは、「口偏に卑しいとは、なんと適切な漢字だろう」と書いていた。 私はタイ流、シナ流、両方取りいれていて、キンキンのビールも好むが、シナ人の健康法を見習って、真夏に熱い茶を飲んだりもする。真夏に汗びっしりょになって熱い茶を飲むのも楽しい。でも冷えてないビールはあまり飲みたくない(笑)。 昆明の駅前食堂で、バスの出発を待つあいだ、その冷えてないビールを飲んだ。コップがないとかで缺けたどんぶりだった。あのまずさを思い出す。ビンビールのビンも日の当たる棚にずっと置かれっぱなしで、埃を被り薄汚れていた。それをドンと叩きつけるように「笑ったら損をする」とでも思っているのか、ふて腐れた顔の店員が置いて行く。よく冷えていて(いや冷えてなくてもいいから)、きれいに拭かれたびんと、油分のない透明なコップで、笑顔とともに運ばれてきたものなら、味は百倍もちがう。しかし彼らからすると、見知らぬ人間になんで笑顔を見せねばならないのだとなる。一銭にもならないのに。 シナ人の「大陸的性格」とはつきあいきれないと「島国根性」の私は思ったものだった。 そしてまた、雲南省の奥深い景洪(ジンフォン)等の少数民族タイ族自治区に行くと、しっかりと「冷たいものは快感」というタイ人の文化は生きていて、庶民食堂でも冷やしたビールにありつけるのである。民族の血とはおもしろいものだ。 |
2013 07/04 |
●7年ぶりの携帯電話機種交換 数日前、携帯電話の機種を交換した。ガラケーからガラケー。じつに7年ぶりの機種交換になる。(商売柄、きしゅと打つと騎手が真っ先に出てきて変換に手間取る。) 1990年代から2000年代初頭までは、新型機種が出るとすぐに替えていた。毎年のように。つまりその時期は私にとって携帯電話は最新のモバイルギアとして価値を持っていた。まだそんなに普及していなかったし、周囲の友人知人でも持っているひとはほとんどいなかった。 やがて一気に普及し、電車の中でアンチャンネーチャンが携帯電話で声高にしゃべり社会問題になるようになる。あれはイヤだった。あのころから携帯電話を使わないようになって行く。アンチャンネーチャンと書いたら「おっさんおばさんも多かったぞ」と抗議が来るか。非礼なひとに世代は関係ない。 電車の中での通話が消えたのは、マナーを護る日本人のえらさ、というよりメールの普及だった。一気にメールの時代になり通話は減った。ほっとした。電車の中の光景は、一気にメール打ちになったが、これみよがしにしゃべりまくるのを耳にするよりは遥かに気楽だった。 ※ 以降私は気分としてアンチ携帯電話になり、所持は続けたが、凝らないようになった。 先日、西東京で中央線に乗ったら、1車両の中で、全員が携帯電話を見詰めていたので気持ち悪くなり、降りてしまった。若者ばかりではない。老若男女そろってそれだったのだ。仕込でやっている撮影現場のような異様さだった。その後、都心の山手線に乗ったら、そんなひとばかりではないので安心した。文庫本を読んでいるひともいれば居眠りしているひともいた。やはり洗練されている地域はそれ一色にはならないようだ。 もしもあなたに、そういうことを危ういと思う気持ちがあるなら、冷静に、客観的に周囲を見て欲しい。電車の中で誰もが手元の携帯電話(スマートフォンと言うべきか)を見ている光景というのは気味悪いものだ。そういう感覚を持てば、電車に乗った瞬間にスマートファンを開くことはやめるだろうし、仕事中にくだらんツイートをすることもなくなるだろう。 昨日、自転車で走っていたら、スマートフォンを見ながら歩いているおばさん(たぶん40代)とぶつかりそうになった。そんなときに声を出すことなどほとんどないのだが、思わず「前を見て歩けよ」と口にしてしまった。おばさんに鬼のような顔で睨みつけられた。 携帯電話を捨てるというのはなんだか申し訳ない気がして、嵩張るものでもないから、ずらりと並んでいる。デザインの変化がよくわかる。 捨てられないのには、電話番号が漏れるのではないかという心配もある。なら破壊すればいいのだが、それが出来ない。まあパソコン用小物収納引きだしでさほど場所を取るわけでもない。もうすこし溜めてみよう。 ※ 2006年末に今のにして、それからはもう完全に「電話をする道具」と割り切ったので機種交換もやめた。 携帯電話もろくに使いこなせないオヤジと思われるとすこし悔しいので書いておくと、私はすでに90年代にモバイルパソコンに携帯電話を接続して自分のホームページ(当時はそう言っていた。ブログもまだない)に書きこんだりしている。 ただし正確に言うと、茨城から石川まで走り、その途中経過をアップしようとしたのだが、どこでも当時の携帯電話では電波が通じず、実際は当時出はじめたコネクションのあるグレー電話からのアップだった。 しかしまた一面において、私が「携帯電話もろくに使いこなせないオヤジ」になってしまったのも事実で、その後出てきたQRコードは私とは無縁のモノだった。2008年ぐらいだったか、インターネットをやっていても、やたら「QRコードを読みこんでウンヌン」というのが増えてきた。それをする必要に迫られることはなかったが、ある日、若者にそのやりかたを問うた。そのときの彼のこちらをコバカにしたような表情はいまも覚えている。附属カメラを接写モードにしてという簡単なことなのだが、必要がなかったから私がそれを知らなかったのも事実。あのときの彼の表情を見て、自分は他者にあのような表情はしないようにしようと誓った。 ※ 【追記】──タブレット購入 さてこれから、スマートフォンとガラケーの流れはどうなってゆくのだろう。私は画面を撫でるというのが好きではなく、DSを使いはじめて長いが、常にタッチペンを使ってきた。あたらしいもの好きなのにスマートフォンに手を出さないのは、ここに書いたようにもうケータイとは距離を置いているからだが、撫でるのか好きではないというのも大きい。 が、この「7年ぶりの携帯電話機種交換」を書いたのが2013年の7月、そしてこの10月に私はタブレットを購入する。Asus MeMOPadである。これも最初は指で撫でるのがいやでタッチペンを購入してそれで触っていた。しかし感度がちがうので、次第に触るようになり、いつしか画面の指紋も気にならなくなり、いまじゃ撫でっぱなしである。それが消えたから、スマートフォンへの障碍はなくなったことになる。次ぎにここに書くときは「遅ればせながらスマートフォン購入!」となっているのか。しかし現状は、ガラケーもほとんど使っていない。タブレットはどこに行くにも持参している。ふたつを持って歩くなら、ひとつでこと足りるスマートフォンになる可能性はかなり高いのだが……。 |