02/3/17
渋谷宇和島──炭シャンプー(02/3/17)

 昨夜のお酒も楽しかった。しあわせです。
 しかしまあ土曜の夕方の渋谷。あの人出はなんなのだろう。駅前は身動きが出来なかった。いくら現在は田舎が中心の生活とはいえ、ぼくだって東京の真ん真ん中で二十年暮らしていたのだ。今だって週に三日は東京だ。だけどあんな気持ちの悪い人出はちょっと記憶にない。春先だし、学生はもう春休みだし、動物の浮かれる季節だからああいうものなのだろうが、ちょっとびびるよ、あれは。ごにょごにょと蠢く虫の集団の一匹になったのかと思うような気持ち悪さだった。

 都会で生きるとタフになる。タフでないと生きていられない。田舎で花鳥風月を愛でているかのような生活をしているから、すこし神経が細くなっている。ぼくのようなのは都会でもまれたほうがいい。積極的にあの人混みに突っ込んでゆくようにしないとますます神経が細くなり現代生活に適応できなくなる。本気でそう思った。


 「宇和島」で飲む前に、前々からぜひ買いたいと思っていた炭シャンプーを買いに東急ハンズに行く。「Clarifier=クライファー」は週刊誌でも宣伝しているから有名だ。このカタカナ読みはフランス語だろう。「浄化する」という意味らしい。通販やネット通販もしているが、東急ハンズで売っていると書いてあったので実物を見て買おうと思っていた。3800円。オヤジの使うシャンプーにしちゃ高いけど洗髪後の爽快感はなかなかのものらしい。使うのが楽しみだ。
 すごい売れ筋だと係の人が言っていた。薄くなってきた人が祈りを込めて3800円のシャンプーを使うのか。



 「宇和島」は愛媛県直送の海の幸が売り物の店。最初生ビールを飲んでいたが、やはり絶品の真蛸の刺身が出てきたりすると、我慢できず日本酒にしてしまった。愛媛の銘酒「梅錦」の純米を飲む。うまい。
02/4/10

5倍長持ち乾電池

 海外に出るときは、デジカメやMD用に日本製のアルカリ乾電池を何十本ももってゆく。なぜあちらで買わないのかとか、その理由については今までも何度か書いている。

 ぼくにとっての問題は、アルカリの四倍長持ちするリチウム乾電池が、四本で1500円ぐらいすることだった。単三アルカリ乾電池は、今一本百円を切っているから、ちょうどその四倍の値段になる。ただし海外に行くようなときにいちばん大切な「重さ」をこれで軽くできるわけだから、そうすべきなのだけど、なぜかこんなことに限ってケチくさくなるぼくは、未だにアルカリ乾電池を利用していたのだった。


 アルカリの五倍長持ちするニッケル乾電池を東芝が開発したと日本経済新聞で読んだのはいつだったろう。確かなのは、今年の正月、一月十四日に出発したのだが、そのだいぶ前ということだ。なにしろぼくは、この旅に出かけるまえに秋葉原に寄り、この電池の有無を訊いて回っている。その時は秋葉原のプロの人たちが、「えっ、そんなものが開発されたの?」と驚いていたぐらいだから、あくまでも経済新聞上のニュースだったのだろう。

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 昨日、地方の大型電気量販店に出かけたら、レジのところにこれがおいてあったので驚いた。すっかり忘れていた。メイカーが東芝だったことは記憶しているからこれに間違いない。アルカリの五倍長持ちである。
 値段は四本で680円だった。アルカリの1.8倍ぐらいの値段で五倍長持ちするのだから、四倍の値段で四倍長持ちするリチウムよりもずっとお手軽である。気のせいかアルカリ乾電池よりも軽く感じた。リチウムが値下がりするのを待望していたのだが、電池の種類が違うとはいえ、一気に半額になったようなものである。これはうれしい。次回からはこれを二十本もってゆけば足りることになる。

 この四本パックを四組買おうとしたぼくに、レジのおばさんが、「あの、お使い道はデジカメですよね?」と確認してきた。なんでもデジカメ以外は五倍長持ちの効能がないそうで(いったいそれはどういうリクツなのだろう?)、倍近い値段を出して買ったのに長持ちしないじゃないかとクレームがつかないよう、一々購入者にそう確認しているのだそうな。ぼくの場合は99% デジカメ用だから間違いない。
 ちょうど電池が切れかかっていたので早速入れてみた。五倍じゃなくてもいいから、せめて体感で三倍は長持ちしてほしい。果たしてどうか。



(4/23)
 過日購入しデジカメで使っていた、くだんの東芝製「五倍長持ちする乾電池」が切れた。
 う〜む、評価が難しい。言えるのは、五倍は長持ちはしていない。これは確実だ。値段は倍であり、ぼくは交換するのが面倒なので、倍長持ちすればそれで合格なのだが、どうかなあ、倍はもったかなあ……。いつものアルカリより、すこしは長く持ったような気がしないでもないが……。

 五倍はともかくリチウムと同じぐらい、体感で三倍ももってくれれば、こりゃあいいものを見つけたと満足する予定だったので、ちょっと複雑な気分である。今度アルカリを入れて、数日間、花の写真などを撮りまくり、次はこれを入れて同じ事をするという自分なりの実験をきっちりとしてみよう。期待が大きかった分、そうでもしないと気が済まない。東芝は自社製品のアルカリ乾電池と比べて5倍持つと明記しているのだが……。
02/7/16
アイマスク-視力矯正
(02/7/16)



 真ん中に小さな穴の空いてあるアイマスクが欲しくてしょうがなかった。視力の矯正効果がある。だいたいにおいてこのてのものは眉唾なのだが、こういう話が大好きなぼくは、その話を聞いたとき、厚紙に穴を空け、自分でそれらしきものを作ってみたのだ。すると驚くべきことにメガネがなくてもテレビが見えるのだった。最近老眼が出て眼鏡を外すわずらわしさに腹立っていたので、これはもう最高の便利グッズに出会えたと思った。

 以来どこかで見かけたらぜひ買おうと思っていたのだが、あるようでない。東急ハンズに行けば確実にあるだろうから行こうと思いつつ、それほどせっぱ詰まったものでもないから、いつも東京から田舎に帰った後、しまったまた行き忘れたと悔やむことを繰り返していた。
 こういうアイディア商品は、欲しい人はなんとしても欲しいが、興味のない人はただでもいらんものなので、値段のつけ方は自由である。デザインのいい革製品で五千円、一万円の値が附いていても、欲しくてしょうがなかったぼくはきっと買ってしまったろう。

 来週こそ忘れずに探してみるぞと思っていたきょう、メガネの汚れ落としを買いに行った田舎のホームセンターで、それを見かけた。880円だったか、値段が安いのはもちろんだが、まさかこんな形で出会えるとは想っても見なかったから、大喜びで購入し、早く掛けてみたいものだとわくわくしつつ帰ってきた。
 
 体にものをくっつけるのが嫌いなぼくは、メガネをかけないと遠くが見えない肉体的弱点が自分に発露したとき、ものすごくイヤだった。なんとか掛けずに済まないかと医者にまで通ったほどだ。姉も兄も近眼じゃないのになぜ自分にだけ出たのだろうとそれも気に入らなかった。
 今でも腕時計をつけるのでさえ嫌いだから、この性癖は変っていない。指輪なんてとんでもない。メガネがきらいならコンタクトにしたらというのとは話が違う。あれも体にものをくっつける点では同じだし(より内部に入れる)、しかもそれはメガネを掛けないと見えないという肉体的缺点を他者からわからないように隠しているのだからよけいにタチが悪い。コンタクトレンズとシークレットブーツは同じ種類のものである。本来肉体的缺陥である近眼は、もっともっと差別されるべきものだろう。差別の大好きな日本人なのだから。だけどこれだけ多いとそれのしようがない。正にみんなで渡っている赤信号だ。

 それでもそういう運命をなんとか受け入れられるようになった頃、今度は老眼がやってきた。
 子供心に不思議なものがあった。たとえば普段は謹厳実直な人が、お酒を飲むと、陽気なばかおじさんに変身するのは、キチガイ水と呼ばれるだけあって、まことに不思議なものだった。
 同じように、新聞を読むとき眼鏡を外す人が不思議でならなかった。かっこわるいと思った。目が見えないからメガネを掛けているのに、今度はそれを外して字を読んでいるのである。理屈っぽい子供としては、どうにも容認できかねる現象だった。それが数年前から我が身にやってきたのである。これは、いよいよメガネを掛けないと黒板が見えないなと初めてメガネを買った高校二年の時とおなじぐらいショックだった。だって、「なんであんなみっともないことをするんだろう」と思っていたことを、自分もせねばならなくなったのだから。
 以来、外しておいてある眼鏡に手をついて壊してしまうことも増えた……。

 ぼくがこの穴附きアイマスクに期待したのは、これの売りである視力矯正効果ではない。それは年齢的にもう無理である。
 これを掛ければ、メガネを掛けてパソコン画面に文章を書く、資料の本を見るときはメガネを外して細かい字を読む、再びまたメガネを掛けて画面を見る、そういう老眼特有のみっともない行為をせずに済むのではないかと思ったのである。元来フィクション派なので、資料を見ながら文章を書くなんて調べもの仕事は年に数度もない。その分、そういうときよけいに苛立つ。なんとかこのわずらわしさから逃げたかった。

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 結論から書く。出来たのである。このアイマスクを掛けると、メガネがなくてもテレビが見えた。これで解決である。細かな字は元々メガネがなくても読めるのだから問題はない。ところが予想外のとんでもない事態が待っていた。(来週に続く。乞ご期待!)


 ってのは嘘で続きを書くと、このアイマスクには左の写真のように小さな穴が五つ空いている。かけていてもここから外が見えて、この小さな穴をひとつひとつ使って見るようにすると「視力の矯正にもなる」のが売りらしい。

 ここで「とんでもない事態」の正体を書く前に、この「視力の矯正」について考えてみる。老眼とは何か、これは鼾(いびき)などにも通じるのだが、筋力の衰えなのである。焦点を合わせる筋肉が衰えて、うまく調節できなくなったことなのだ。足の筋肉が衰えて、速く走ったりゆっくり歩いたりの両方が出来なくなり、ゆっくり歩くだけになるのと同じだ。
 それを「矯正する効果がある」とはどういうことか。衰えた筋肉を鍛えるのだ。そういうことだったのである。と書けばもう「とんでもない事態」の答を書いたようなものだが。

 その効果は絶大だった。「おお、テレビも見える、本も読める、これでもうメガネいらずだ。運転などはしないでくださいと書いてあるから、それはしないとしても、すくなくとも部屋の中にいるときはメガネがいらないなあ」と思ったのである。かつてレーザー手術まで受けようと思っていた身としては、たった880円でこんなにしあわせになっていいいのかと思ったほどだ。

 ところがすぐに頭がグラグラするような事態になっていることに気づく。これはなんなのだろうと考えてみる。すぐに正しく理解できた。普段使っていない目の周りの筋肉(=焦点を合わせるための眼球周辺の筋肉)をいきなり使い始めたことによる疲れなのである。食っちゃ寝をやっていた怠け者が、いきなり全力疾走を始めたようなものだ。筋肉が悲鳴をあげている。

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 すぐに放り出してしまった。
 今まで経験したことのない部分に筋肉疲れってのは、かなり気持ち悪いものである。高血圧で倒れる人は、眼底血圧があがりイヤな思いをするらしい。未経験なのでわからないのだが、こんな感じじゃないのだろうか。目玉の周りの見えない筋肉(筋肉はどこも見えないけどさ)が疲れて、ひじょうに気分がよろしくない。こりゃダメである。

 中学生ぐらいで假性近視の傾向が出てきたときにこれを使うと効果があるだろう。子供にはいい。私の場合は、今更これを使って視力アップしても、たいしたものではあるまい。ここまできてしまっているから。
 もしも毎日これを使い続け、筋肉疲労を軽減する目薬でも差していれば、かなりの効果があるのかも知れない。弱った筋肉を鍛え直して、老眼が治るのかも知れない。そう思いつつも、初めて味わった「目の筋肉が凝る」事態に、逃げ出してしまったのだった。いやあ、目の筋肉が凝るってのは、かなり気持ちの悪いものでした。


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○やっぱり100円ショップに!──05年日附不明

 そうして時は流れる……。
 100円ショップで「えっ、こんなものが!」と思えるものまで買える時代になった。

 ある日、最近はまったく使わなくなり、ホコリを被っているこの前記880円で買った穴あきメガネを目にした。「今ならこんなの、ぜったい100円だよな」と思う。初めて知ったときは「5千円でも1万円でも買う。それが近くのホームセンターで880円で見つけた。ラッキィ!」と思っていたのに、えらい違いである。

 私も茨城の田舎からまた上京し東京都下に住むようになっていた。100円ショップも田舎と違い、最大手のダイソーからいろいろある。ある日、見つけた。やっぱりあった。それもサングラス形式で、880円の品よりよほどよかった。
 でもあるよね。単に穴開けるだけなんだもの。

 デフレが悪いことで、なんとかインフレ傾向に持ってゆこうと国は努力しているらしい。
 しかし私は生まれて初めて味わったデフレの時代を楽しんでいる。100円ショップはその最大の恩恵だろう。(06/4/22)
02/11/29

もったいない
(02/11/29)

 チェンマイでDTMをやるのに、たしかまだラジカセが一台あるはずとiさんに問い合わせてみた。fさんの所にあると解った。なんとかまたあのラジカセを使えるかと思ったら、先日ランパーンのTさんの(彼女の家)で見た埃にまみれたCDプレイヤーのことが浮かんできた。

 ランパーンの田舎に引っ込むというTさんに、送別としてプレゼントしたオランダフィリップス社製のCDプレイヤーラジカセである。この十余年の間にタイで十数台のラジカセを買い、まるで使い捨てのように帰国するときに親しくなった人たちにあげてきたのだが、人にあげたものとしては、それが最後の一台になる。

 あげた相手は当然タイ娘が多い。雲南で妻と知り合ってからはそっちのほうは自粛したので、その後は相手もいないし、アパートに預かってもらったりした。今fさんのところにあるのが最後に買ったもので、その前に買った品がTさんにあげたそれになる。

 現在ランパーンの山奥にある彼女の実家にこもっているTさんだが、それを試みたのは初めてではない。一年半前にもそれをやっている。しかし「食うものがない」と短期間でチェンマイの街中に逃げ帰ってしまった。パソコン使いのTさんにとって電話もない田舎はインターネットも出来ずつらかったろうが、なんといってもこの食い物の問題が深刻だったようだ。

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「タイ料理はうまい」なんてのは都市部においての話である。田舎の貧しい農民が食べているのはそれはもう質素なものだ。蒸かした餅米を、その辺から取ってきた香味のある葉っぱと辛いスープで食うだけである。三日もこれをやっていると飽きる。

 Tさんによると、紙巻きタバコもタイ製の安物が一銘柄しか売ってなく(これは日本のしんせいとかいこいのようにタールが強い。そばで喫っている人がいるとすぐにわかる。石炭臭い)、普段は皆タバコの葉を巻いて自家製葉巻で喫っていたという。
 自家製葉巻とは豪気じゃないかなんて思うのは現実を知らないからで、ああいうものに接しているといかに商品としての紙巻きタバコが洗練されていてうまいものかよくわかる。Tさんはチェンマイから持参した紙巻きタバコを一日三本とか決めて節約しつつ喫っていたそうな。

 ラオカオというタイ焼酎がある。田舎者の飲むいちばん安い酒だ。これをなかなかいけるなんて喜んで飲んでいるのも、チェンマイのコンドミニアムに住んで都会暮らしをしている人の粋がりである。毎日あれしか飲むものがないとなったら、あんなまずい酒、見たくもなくなる。私はこれを中国で経験している。Tさんが逃げ出してきてしまった気持ちはそれなりにわかる。Tさんは自分をそれなりの食通だと思っているようだが、私からするとどうしようもない味音痴である。そのTさんが逃げ出してきたのだからいかにひどいかだ。

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 この出発前に、そのフィリップス社のCDラジカセを餞別としてTさんにプレゼントした。Tさんはすぐに逃げもどってきてしまったがCDラジカセはランパーンの家に置かれたままだった。私はTさんの彼女の家で活躍している愛機の姿を想像して満足していた。彼女や小学生の彼女の娘、両親が、高床式のタイの家で、大好きなタイ演歌をそれで聴いている田舎の風景を思い描いた。そして今年(02)の秋、初めてその家に行ったわけである。
 するとそこには誰にも使われることなく埃を被り薄汚れたCDラジカセが、粗末な板棚の隅の方に放り投げられていたのである。あれはさみしかった。

 さみしかった気持ちには説明がいる。こういう場合、誰もが想像するのは「せっかくあげたものが大事にされていなかったから」だろう。それも確かにあるのだが、私の場合はまたすこし違う。私はアニミズムでもってモノを見る性癖があるので、「活躍の場が与えられず飼い殺しにされてしまってかわいそうだ」と、そのCDラジカセを哀れんでしまうのである。この感覚のほうが強い。

 だからこの後Tさんに言った。
 Tさんはいま経済的にたいへん苦しく、先日も日本からの仕送りが届くまでタイ人の知人に200バーツを借りてそれで数日をしのいだと言っていたのである。私のあげたCDラジカセは7000バーツした新品だった。購入した当時の化粧箱もある。磨き上げて箱に入れて売れば今でもそれなりの値段になるだろう。こんなところでくさらせておくなら、むしろ売りはらって何らかの金に換えてもらったほうが嬉しかったと。

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 ここから書くことがこの「もったいない」という小文の趣旨なので正しく理解して頂きたい。
 私は田舎の家で全く使用されず煙にくすぶっていた(朝晩にいろりで火を焚くので比喩ではなくほんとにくすぶっていた)CDラジカセの存在が哀れでならないのである。活躍の場が与えられていないことが気の毒なのだ。
 もしも経済的に困窮しているTさんから、「この間あれを売ったら千バーツになってほんとに助かったよ」と言われたなら、どれほどうれしかったことだろう。せっかくおれのあげたものを売ってしまってなどとは思わない。Tさんはそのお金で助かったし、後に中古屋からそれを買う人も安くていい買い物をしたと喜んでくれるはずである。CDラジカセにとっても本望だろう。愛用されるはずだ。
 そういう舞台も与えられず、粗末な家でいぶされているだけのそのCDラジカセがかわいそうでならなかった。というのが私の考える「もったいない」である。

 しかしその原因を探してゆけば問題は私にあるようだ。
 Tさんは音痴である。メロディ音痴よりももっとタチのわるいリズム音痴だから気の毒になる。音楽など何の興味もない。そのTさんにそんなものを餞別にやるということが間違いだった。
 さらに、彼女の家は山奥にあってたいへん貧しい。カセットやまして高級品のCDを買う餘裕などない。だいたいがそれを買うためにはどれほど遠くの町まで出かけねばならないことか。最初から何の役にも立たないことがわかっているプレゼントなのであった。

 もしも彼女の家で重宝し感謝してもらいたいと思うなら、タイ演歌のカセットを10本ぐらいつけてやればよかったのだ。最初から活躍することなどありえない機械だった。
 その勘違いはTさんがVCDを好きなことから来ていた。Tさんの部屋にはたくさんのCDがあった。それで勘違いした。でも考えてみればあれはただのエロVCDである。音楽ではない。そんな人に音楽プレイヤーをあげた私が間違っていたのだった。と今は思う。

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 『究極のウォークマン』に書いたことだが、異国の隅で壊れてしまっている、かつて大切にしていた愛用品のウォークマンを見るのはつらかった。
 それでも今回のことから考えると、むかしつきあったタイ人の彼女に壊されたSONYや妻に壊されたPanasonicのウォークマンなどはそれなりにしあわせだったのだと気づく。なぜならそれらは製品の繊細さを知らない無知による乱暴な取り扱いによって壊されてしまったのだが、それまでは人一倍使用されたのもまた間違いないからである。

 タイ人の彼女も妻も、最新型の日本の高級ウォークマンを周囲の友人に見せびらかしたはずである。うらやましがられたのも間違いない。妻の小学校高学年の甥は学校に持っていって見せびらかし、みんなに羨望されたとも聞いている。そうして壊れた。それはそれでモノとして大往生であったろう。
 その点Tさんにあげたこれは全く使われることなく、田舎の高床式の板棚で、煮炊きの煙を浴びつつ、使われることなく朽ち果ててゆくだけなのである。これは悔しい。かわいそうだ。

 十二月にあの家に行ったら、またいやおうなくそれが目に入る。使われることなどないのだからチェンマイに持ってこようか。すくなくとも私といれば毎日音楽CDを再生する役目を与えられる。一ヶ月後の帰国の時、音楽好きの誰かにあげたとしても、彼(彼女?)にとって、なにもせずランパーンでくすぶっているよりはずっと充実した人生なのではないかと思う。私はモノに対していつもこんな感覚で接している。




 上揚CDプレイヤ写真に手間取ってしまった。というのは、日本フィリップスではこの種の製品からもう撤退しているらしく、ホームページには売れ筋のひげそりやアイロン、脱毛機のような製品しかなかったらである。オランダの本社ホームページにつないで探した。なんでも各国ごとに生産製品がわかれていて、CDプレイヤ類はドイツがメインだとか。つまらんことだけど、イメージのものであれ、なんとしてもフィリップスの製品写真を入れたかったから苦労して見つけた。(03/5/16)
03/5/9

メガネ拭き

 メガネ拭きの特殊クロスが洗顔用としてネーチャンらの間でブームとか。そのことにずっと前に偶然気づき愛用していたので、なんだかうれしい。

 メガネクロスとして初めて使ったとき、とんでもなく汚れが落ちるなと愕いた。これはだれでもおどろく。全然違う。それまでのただの柔らかそうな布などは使う気がなくなった。
 これのもっとおおきいのがないかと探す。なにしろメガネ拭きだから10センチ四方で700円ぐらいだ。小さい。コンピュータ小物オタクとして、同じ布がディスプレイ拭きの商品としてあり、大きさは20センチ四方(四倍になる)あって、値段は同じ700円であると知る。
 以来もう何年だろう、何度も買い換え、十年近く愛用してきた。ウェストバッグに入れて肌身離さず持ち歩いている。

 近年、チェンマイでメガネを買うことが多い。1万円でけっこういいものが買えるからついつい気分で買ってしまう。ケースに従来のやわらかそうな布がついてくる。すぐに捨ててしまう。どこに行くにもその特殊クロスをもっているし、あれをつかったら普通の布など使えない。

 昨年暮れ、らいぶさんとチェンマイの市場で飲んだときも、メガネの汚れていたらいぶさんにウェストバッグからこの布を取り出して勧めた。らいぶさんは、いやいやたいしたことないですからとティッシュで拭いてしまったのだが(らいぶさん、覚えてますか?)、あれはあの布のすごさを知ってもらいたいからだった。

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 ワイドショーが繊維メーカーにインタビューすると、発売してから17年目の大ブームに戸惑い気味とのこと。もう17年も前に発売されていたのか。そのころからいいメガネ拭きがなくて困っていた。使い始めて十年弱だ。もっと早く知りたかったと悔やんだ。

 ケガをしたとき、傷の周囲を、丁寧に、痛くないように洗うのにいいと知った。重宝した。チェンマイでバイク事故をやり、おいわさんのようになったときだ。そのとき自分で撮った写真がたくさんあり、顔中赤チンだらけの顔は笑えるしアップしたいのだが、インターネットの悪意があり、顔さらしは自重せねばならない。自由なようでつまらん世界だ。ともあれ自分の長年の愛用品が話題になると、なんとなくうれしい。

 いつも二枚もって歩いていたが、先日一枚を落としてしまった。今の一枚はだいぶ古くなり、この布って古くなると効果が落ちるようである。そのうちまたラオックスで買ってこよう。いやブームになったから、普通にもうメガネクロスとして田舎でも帰るようになったのか。ちょっと大きめが。



 画像を入れるためにネットで探し、上記のサイトに行って思い出した。そう、これは「東レのトレシー」である。初めてこれを発見したときのよろこびを今でも覚えている。ブームになってよかったね。ご同慶の至り。どうやら「ハンカチサイズで千円」が発売されているようだ。これでパソコン用を転用するひつようがなくなった。(5/15)
03/6/5

紅茶──フォートナム&メイソン


 まるで学生時代にもどったかのような「インスタントコーヒー狂い」の季節を終え(笑)、今は紅茶づけ。
 きっかけは何年か前にイギリス在住の友人からプレゼントされた写真の紅茶「フォートナム&メイソン」が出てきたから。写真はネットで探してきた125g入り。私の場合は250g入り三缶詰め合わせが出てきた。調べたら125gで1800円らしいから250gは3000円強として1万円のセットか。これは高いのか?、高級品? 世事にうといのでわからん。自分で買うとしたらと考えて……。高いよね。高級品なんでしょ?

 何年も前にもらったままになっていた詰め合わせが引っ越しの時に出てきたのである。もらったままほうっておき、賞味期限切れですてたものも多い。時を経て風味が増すこともないかわり、こういう物であるから完全密封によって味が落ちていることもなく(厳密にはかなり落ちているのだろうけど)私レヴェルでは十分にまだ飲める。

 これがうまい。よってここのところ、起き抜けにまずはストレートで、昼にミルクティで、夜はミルクで淹れるチャイ形式で、と日がな一日紅茶ばっかし。ノンシュガー。
 これをしばらく続けたらまたあの甘ったるいコーヒー牛乳みたいなアストリアの味が恋しくなるのかな。いやもうすぐ夏だ。アイスコーヒー(関西のレイコってのもなあ……、なじめない)の季節になる。今年燃えるのはどのブランドか(笑)
03/7/3

ウェットティッシュ&ファブリーズ



 小物オタクである私の必需品に「アルコール入りウェットティッシュ」がある。特にデスク上がべたつくこの時期は必需品だ。
 本当はアルコールの香りからもパソコン周辺機器専用のものがいい。だいたいがパソコン専用をうたっているものは100円ショップで100円で買えるものに千円ぐらいの値段をつけているから、さすがに高級感を出そうと、外見はかっこいいし、アルコールのほのかな香りも上品なのである。秋葉原で買ってきたそれが切れたので、近所のDIYの店に買いに行った。普通のプラスチックのボトル形式になっているウェットティッシュ(フタの真ん中から引っ張るやつ)と同じくそれのアルコール入りを買ってきたのだが、ともに安いヤツを買ってきたからかどうも満足出来ない。アルコールは含まれていて効能は変りないのだろうが、実用品であると同時に嗜好品であるから、なんとなくそれらしくないと不満が残る。

 ということでいつものよう「もしも中国なら」と考える。
 これは「旅の必需品」のネタになるか。ポケットティッシュ型のウェットティッシュは、乾期の雲南では必需品である。どれほど助けてもらったことか。ホコリまみれの長距離バスの中、一枚のウェットティッシュのありがたさはコトバではいえないほどだ。
 云南にはまだないだろう。北京のカルフールならあるかもしれないが、私の暮らす云南にはまだない。

 それはまだ我慢できる。バス旅で言うなら、三時間に一度停まる休憩所で、タオルやハンカチを湿しておけばいいことだ。ところがなぜか中国という国は、水回りがあまり完備されていない。私はそういうバス旅の途中、汗と埃にまみれた顔を洗うのに難渋した。飯屋があり、売店があり、熱いお茶はあるのだが、顔を洗う冷たい水の出る場所がないのである。あれは不思議だ。つまり、水が悪く、生水を飲む習慣がないからだろう。どこか湧き水のようなところからやかんに汲んできてお湯を沸かす。それで茶を飲む。でも生水を直接人が飲む施設は用意してないのだ。もうひとつは彼らの風呂に入らない習慣だろう。風呂に入らないし水浴びも滅多にしないから(タイ族はするが)、あふれるように水が出るという施設が貧弱なのだ。

 雲南に住むとして、ウェットティッシュはなくてもいいが、「アルコール入りウェットティッシュ」はパソコンライフの必需品になる。薬局でアルコールを買ってきて、自分でティッシュに浸して使うことになるだろう。何時間か使った後、キイボードやマウスをこれで拭くと、サッパリして気分が違う。真夏の時期、顔や手はこまめに洗うことは出来るが、パソコン周りのそれらはそうはいかない。私の日常に欠かせない一品である。って、そんなやつが云南の山奥で暮らせるのかなあ……。

 あ、そういえば数日前、初めて「ファブリーズを買ってきた。布製品の除菌消臭をするというアイディア商品だ。今年の(いやもう去年か)ヒット商品である。清潔な暮らしは、こまめに洗ったものと、お日様とほのかな洗剤のかおりがあればそれで文句なしなのだけど、たとえばクッションのような洗えないものがある。ファブリーズのコマーシャルでは、カーテンのにおいをテーマにしていた。それはわかる。煙草呑みがいたりすると、その臭いをカーテンが吸ってしまうから、他人からするとかなりくさい。部屋に入るとすぐにわかる。あれもこまめに洗えるものじゃないし。ヒットした理由がわかる。

 ぼくはイスに座り机に向かうパソコン作業と、寝ころんで、クッションを枕にしての読書あるいはテレビ・ヴィデオ鑑賞が生活のメインなので(書いていてなさけない)愛用のクッションは汚れが激しい。ポマードくさくてたいへんだ。と書くとわかりやすいがポマードを使ったことないから嘘になる。まあおやじの汗くさい。それがきれいに消えますわ。これおすすめですね。だからこそヒット商品なのだろうけど。

 ところでクッションが縮んでしまうのはなぜなのだろう。ふかふかの球状クッションを買ってきて背もたれのようにして使う。量がありすぎて使いづらいぐらいだ。それがしばらくするとヘタってしまい、そのうえに座布団を折り曲げて補助しても物足りないぐらいになったりする。なんで目減りするのかなあ。スポンジが縮んじゃうの?

 中国永住を念頭においているのだから、ファブリーズのようないかにも日本的なアイディア商品とは無縁の生活になる。とするなら、デフレの今、ファブリーズ三個分ぐらいの値段で安物の大きなクッションを買えるし、なるべく買い換えるようにして、こういう便利商品には頼らないようにすべきだろう。それが中国的に生きるってことだ。ほんと、物は豊富だからね。世界の工場といわれるだけあって、電化製品から衣類まで山のように商品があふれている。ほとんどが安かろう悪かろうだが。
 気に入った物を臭みを消してまで愛用するより、中国で生きる身には、毎月買い換える感覚に切り替えていったほうがいいようだ。
03/7/15  先日東京から持ってきた荷物の中のひとつ。カシオのお遊びギター。リズムボックスが内蔵されていて、音色も20パターンぐらい。けっこう遊べる。何年ぶりかで触った。
 2時間も遊んでいたらもうおなか一杯。ケースにしまう。またしばらくは触ることもないから記念写真。物足りないのは、ガットギターの2弦を6本張るようになっているので、弦の太さがみな同じ、張りが弱い。それがなんとも物足りなく、楽器を弾いている気になれない。

 と、思い出した。先日もってきたCDの中からスタンリー・ジョーダンが何枚か出てきた。すっかり忘れていて、この人誰だっけという感じ。聞いてすぐに思い出す。ギターを横にしてピアノのように弾く人だ。話題になった頃、新しい物好きとして愛好したがすぐにあきた。いま聞いてみると、う〜ん、イージーリスニングみたいでつまらんな。なんでこんなものが好きだったのかという気分。

 このギターを弾くことはもうないような気もする。でもハードウェアとしてのリズムボックはこれだけになってしまった(ソフトウェアとしてはいくつもある)ので、楽器を弾くときリズムの鍛錬は大事だから、リズムボックスとして使い、これをバックにアコースティック・ギターを弾くような使いかたをするといいかもしれない。おもちゃのような音だけで、あればだいぶ違う。
03/7/21
思い出のアンプ
(03/7/21)

 午後二時、突如として無性にエレキギターが弾きたくなりセッティングを始める。きっかけはここ何日か見かけていたこのアンプ。このB.C.Richの小型アンプはいつ買ったのだろう。記憶にない。時期はわかる。三十代前半の頃、物書きとしての仕事が軌道に乗り、とても忙しく収入も増えた。その分、音楽は時間的にも友人的にも出来なくなり、小銭はあるがストレスが溜まるという状態だった。そのころ、思いつくままこういうものや電子楽器等をヤケ買いのような形で買っている。そのうちのひとつだろう。ステージで活躍するような日の目は見ていない。引っ越しの時に東京からもってきて、適当な収納場所がないまま、廊下に置かれていた。毎日のように目に附く。いきなりこのアンプから音を出してみたくなった。すると物置に、捨てずにもってきたマルチエフェクターがひとつあるのを思い出した。取りにゆく。それがこれ。KORG製である。しかし本来捨てると決断したものを捨てきれずにもってきてしまったものだからACアダプターがない。それらをまとめて捨てたことを覚えている。接続口を見ると9V。ごっそりと放り込んであるACアダプター箱をかきまわす。Rolandの9Vってのが見つかった。使えるか? うまく使えた。となるとこれも捨てずにとっておいて正解になる。
 次の難題はコード。音楽用のシールドをすべて捨ててきてしまったので結線が出来ない。音響用のを抜いたりしてなんとか確保した。愚である。楽器用の高級品、ノイズレス・シールドを一大決心をして何本も捨ててきて、ほんの一ヶ月後にはこんな苦労をしている。

 何年も使っていないからか、もともと粗雑品なのか、あるいはシールドがあまりにお粗末だからか、ノイズがひどい。弾く気にならない。いやそれでもグワッシャーンとひさしぶりにエレキギターの音が出たときはちょっと昂奮もしたが。
 するとあれがあったではないかと思いつき、またいそいそと物置に向かう。RolandのCube40という真空管アンプ。その名の通り40ワットの出力。これはいとしいもの。B.C.Richの小型アンプがいつ買ったかも覚えていず使用もしていないのに対し、これはいつもコンサートで一緒に行動した旧友だ。ああ、いい音だ。なつかしいな、かわいいな。こいつは。今もいい音を出してくれる。

 そんなわけで一時間ほどギターをかき鳴らして往時をしのぶ。しばらく弾いていないし虚弱な体なので、すぐに息切れし指も痛くなる。音楽をやっていていつも思ったのは「体力勝負」ということ。エレキギターってのは思っているよりもずっと重く、あれを肩から提げて二時間ぐらいステージにいるのはたいへんな労働なのである。アコースティック時代もステージ作りとかが大変でまごうことなく体力勝負だった。なにしろあのころは演劇用のなにもない小屋を借りて、アンプからミキサーからみなレンタルしてレンタカーで運んだから、さあ開演というときにはもうへとへとになっていた。よく頑張っていたものである。虚弱オヤジへたりこんで本日のステージ、終了。

 思ったのはリズムボックスの重要性。買わねばなるまい。って、先日東京で四つも捨てているのになにいってんだろ。今は性能がいいだろうから1万円ぐらいで適当なのが買えるのではないか? まあこうしてひとり遊びするなら必需品である。というか自分でカラオケを作ればいいんだけどな。すこしやる気が出てきた。
03/10/14
宮本輝の萬年筆


 きょうは朝から図書館で調べもの。その合間に好きな本を読んで休憩する。好きなだけ本を読み、その間の休憩もまた本というのは本好きにとって天国だ。図書館勤めのらいぶさんがうらやましい。あ、本屋でバイトしようかな。でも知っている限り、本屋に勤めているからと立ち読みばかりしている店員は見たことがない。世の中そんなに甘くないか。

 宮本輝の随筆集「生きものたちの部屋」を読む。その中の「インクと萬年筆」がおもしろかった。
 彼はタイトルの発案がすべてで、それが浮かべばもう書けたようなものとまで言っている。とするとこれも常識的な「萬年筆とインク」ではなく「インク」が先に来ることに意味があるのか? 内容は萬年筆が中心でほとんどインクは出てこないのだが。

 小説家になるとは言えず叔父さんの会社に転職すると嘘をついて辞めた会社の帰り。思い切ってシェーファーの太字萬年筆を買う。小説家就業記念だ。なぜシェーファーを買ったかはそれまでつかっていた愛用品が友人にもらったシェーファーだったから。それを先日届いた「文學界新人賞」落選の通知に腹が立ち、机に突き刺して壊してしまった。(どうでもいいが『文學界』は文学界じゃなくて学に正字を使わなきゃいかんのだね。面倒だけど固有名詞だからしたがいましょ。)賞をもらって会社を辞めたのではなく、なにももらわない内に辞めてしまったのは覚悟が潔くてかっこいいね。

 この『文學界』新人賞に落選した作品とは「バンコクを舞台にした『弾道』という作品」だとか。とするならこれが『愉楽の園』の原作になる。彼は「最初に書いた小説は行ったこともないバンコクを舞台にしたものだった」と前々から書いていた。いつかそれを書き直して仕上げたいとも。そうして後に出てきたのが長篇『愉楽の園』だった。つじつまは合っている。しかし『愉楽の園』の原型が新人賞応募の短篇『弾道』だったのだろうか。内容とタイトルが合っているとは思えないのだが。タイ人男と結婚する主人公の日本人女の生きる道を「弾道」と呼ぶのか? それともこれはとんでもない見当違いなのか。かといって彼が「弾道」というタイトルに似合う冒険活劇を書くはずもないし。この辺は彼のファンサイトにでも行って調べるか質問すれば教えてもらえるのだろう。そのうちいってみるか(行かないだろうけど)。

 貧しい時代に思い切って購入したこのシェーファーがぜんぜん使いづらい。まったく合わないひどいしろもの。それでも初期の『螢川』とかの受賞作はこれで書いたのだという。合わないからといってもう一本買うことは家計が許さなかったと書いている。この辺がぼくとは違う。ぼくなら借金してもいい萬年筆を買う。こういうことには我慢がきかない。宮本輝は、合わない萬年筆に苦しみつつ、その嘆きさえうまくプラスに取り入れてしまうことが出来るのだろう。まだ新人のこのころ、借金をして家を建てたり、二人目の子供が出来たりしている。三十歳になったばかりのそういう暮らしでは萬年筆一本にしてもそうなのだろうか。違うよね。合わない萬年筆で書く、あらたに買う餘裕などないのだ、というシチュエーションが好きなのだ。不幸好きの女のように。

 そこでまた友人からシェーファーをもらう。中細。とくにことわっていないからアマ時代にシェーファーをくれた友人とは違う人なのだろう。これが気に入って長年使う。いくつもの傑作をものにする。「我慢してきた日々」がわからないぼくは、心から「いいのに巡り会ってよかったねえ」と思ったものだった。だって合わない萬年筆で書くなんて、いつも靴擦れしてるようなもんでしょ。我慢できないよなあ。
 いやそれ以前に、いま書いていて思ったが、手書きの彼にとって萬年筆は最も日常的な大切な商売道具である。ぼくならもうこの時点で十本も二十本も、それこそ主立ったメイカの製品はことごとく買いまくっている。なのに彼は使いづらいのをずっと我慢して使用し、また友人がくれるまで買わなかったのだ。ぼくからするとヘンな人である。でもきっとそういう人だから大成したのだろう。

 ヨーロッパ取材の際に時間待ちのコペンハーゲン空港でモンブランに出会う。朝日に『ドナウの旅人』を連載する頃だ。ぼくが興味をなくして彼を読まなくなって行く時期に重なる(笑)。宮本輝は関西の風土がいい。外国は似合あん。でもフィールドを拡げるためにあれは必要だった。それはわかる。そのために東欧を選んだ感覚も。あまり似合わないヨーロッパにフィールドを拡げたから、もういちどこてこての大阪にもどってこられたのだ。
 外国が舞台の作品と言えば昆明の円通寺を書いた短篇があった。収録されているのは「真夏の犬」だったか。ぼくは彼の作品以前に円通寺に行っていたから、ちょいと行って書いたのがみええみのこの作品には惚れ込めなかった。作品としても成功作ではないだろう。
 このモンブランはとんでもなく高価で「こんなものを使う資格は自分にはない」とかなり迷ったという。すでに押しも押されもせぬ第一線の純文学作家であった彼が、こんなにも迷うとはいったいいくらぐらいした萬年筆なのだろう。彼は典型的な関西人で、小説『優駿』が馬事文化賞を受ける際の挨拶でも(あのころはぼくもそういう場に出ていた。ジャパンカップレセプションとか)、「映画になってもあまりもうからへんし、本こうてください」なんて言っていた。そういうタイプの人だから家を買うために借金したとか、馬を買うのに800万円がとか、わりあいストレートに金額を言う。その彼が「とんでない高額」と濁してしまうからよけいに気になる。最高級のモンブランてどれぐらいするのだろう。
 
 こういう話を読んでいれば物好き(これは物が好き、という意味です)の心には自分もいい萬年筆が欲しいという気持ちが湧いてくる。ぼくは字はいくらでも打つがぜんぜん書かないヒトだ。それでも手紙の宛先や署名は必ず愛用の萬年筆でしている。さすがに実字のひとつもないものは、書かないしもらいたくもない。最近の年賀状には裏も表もぜんぶ印刷ってのがある。あれはねえ、いらないわ。
 愛用品は長年使っているプラチナの太字。一万円ぐらいだったか。何本もだめにしてきてこれが残った。二十年近く使っている。外国製に対するあこがれはない。何本かブランドにあこがれて買ったことはある。パーカーとか。好きになれなかった。それは、単なるリクツと言われればそれまでだが、日本字を書くのには日本製の萬年筆がよいと考えているからだ。外国製の萬年筆は外国の字を書くためのペン先だと。よい萬年筆は欲しい。いますぐにでも欲しい。パイロットかプラチナの最高級品がいい。あ、この感覚はその他も同じようだ。いいクルマは欲しいけどべつに外車には興味がない。いま欲しいのはトヨタのエコカーだ。

 話もどって。
 この思い切って買ったとんでもなく高かったモンブランが大外れだったとか。タイ米は炊いた(大枚叩いた)のにまったく使わずに放置される。
 そんなときにまたも友人からプレゼントされて出会うのがペリカンの極太。こんなすばらしい萬年筆があったのかとピッタリはまったとか。あまりの相性の良さに外国に出かけて同じものを見かけたとき十本まとめて購入してくる。この辺の行為でやっとぼくの理解できる人になる。親近感を持った。好きなものはそうでなくちゃね。
 それ以来、なにもかもこれで書いてきたという。いい話だ。初期のシェーファーと、中期のこのペリカンは宮本文学の最良の相棒となる。
 そうして五本を使いつぶし、六本目になる頃、突如これがいやになる。極太の黒インク筆跡が自分の横柄さや傲慢さを象徴しているように感じて見たくもなくなったとか。
 この感覚はわかるなあ。これはペリカンがわるいんじゃなくて彼がそんな風に変る時期だったんだ。変るためにも、「ペリカンの極太と黒インク」との決別は必然だった。ペン先をすり減らし五本分も書いてきたんだから変るべき時期でもあったろう。

 随筆の結びは、ローマの空港で出会った1926年製のアメリカ製萬年筆コンクリンになる。インクは緑色。中古は嫌いなのにどうしても欲しくなって買ってしまったという。すごいね、ローマ空港は骨董萬年筆を売ってるの? う〜む、ぼくは中古はいらないけどなあ……。
 インクの好みがブルーブラックやブラック、それに疲れて突如として緑とか、こういう感じもわかる。ぼくがパソコンのキイボードをちょいちょい変えるのと同じだろう。(違います! と宮本ファンに叱られるか?)。
 この萬年筆に合うインクを自分で混ぜ合わせて作り、やっと気に入ったモスグリーンのインクが出来た。古いものだから当然インクは吸い出し式なのだろう。しかしインクの混合具合を記しておかなかったから、このインクが切れ、もういちど作り直さねばならなくなったときのことを思うとゾっとするで締め。
 これが十年前の話だから今はどうなっているだろう。果たしてこの骨董萬年筆、今も元気で働いているのか。モスグリーンのインクがそんなに長年気に入るとも思えない。なんかもう一波乱、いや一変化あったように思う。どうなったろう。ペリカンの七本目にもどったってことはないか?

 図書館で、シェーファーから始まりコンクリンに至る製品名を手帳にメモしてきた。「シェユ→シェジ→シェユ→モジ→ペユ→ペジ→コンクリンジ」と一行。萬年筆の一文字とユは友人からもらったもの、ジは自分で購入したことのメモ。最後のコンクリンだけフルネームなのは知らない製品だから。この一行のメモさえあれば周辺の話は思い出せる。取材をしていたころの習性だ。それが目的じゃないから書かないけど、もっともっといくらでも詳しく書ける。
 好きなんだよねえ、こういう小物の話。でもこれがクルマだったら興味ないし、十代の頃オートバイ乗りだったけどオートバイでもどうでもいい。パソコンなら興味あるが、これにはまだそれほどの歴史がない。あと何十年か必要だ。となると、ぼくがこんな感じで他人の小物話文章を取り上げる対象として萬年筆は唯一絶対の物品だったのか。

 そういえば先日、クーロン黒沢の「マイコン少年さわやか漂流記」を読んだ。本屋のパソコンコーナーで「Protocol入門」なんてのを読んでいたら、その隣に「「怪しいアジア」のクーロン黒沢の本があったのでびっくりした。今もあの田舎の本屋の陳列はおかしいと思っている。でもそうでなきゃ出会えなかった。
 彼の初期のマイコンとの出会いから香港のファミコンソフト不正コピー機を輸入して高校生の齢で大儲けし任天堂に訴えられるあたりの話は、ぼくには「怪しいアジア」シリーズの旅話よりずっとおもしろい。それはぼくの中の好きの比重が「パソコン>旅」だからなのだろう。最初に気に入った彼の本は「香港電脳マーケット」だったか。あれもそういうことが書いてあったから気に入った。

 今後も自分の『小物話』は書いて行くが、果たしてこんな他者のヒストリを長々と書くことがあるかどうか。誰かまた有名作家の「筆記具ストーリィ」を読んでみたくなった。手書きの浅田次郎さんや赤川次郎さんはなにを使っているのだろう。それに触れた文章を知らない。出版されているエッセイ集にそれはないと思うのだが、あるかどうかはファンサイトで質問してみればいいか。浅田さんのエッセイで原稿用紙の話があったことは覚えているが筆記具はなかったよなあ……?
 それよりも、こういう話ばかりをアンソロジーとして編んでくれないかな、どっかの編集者が。アンソロジー「萬年筆物語」。おもしろいと思うけど。

附記・書いたのは夕方。深夜、本の写真を入れようとAmazonに行ったら、売れてないらしくてなかなか順位に出てこない。やっと出てきたと思ったらこの作品だけ写真がない。目的はそれなのに。なんとかファンのサイトを見つけて写真を借りてきた。1995年発刊。彼の作品としてはあまり話題になることのない一冊だが切れ味のいい随筆集だ。
 最初タイトル「生き物たちの部屋」を勘違いして「生きている部屋」で検索していた。それじゃライヴハウスである(笑)。この和製英語、ネイティヴは気味悪がるというがさもありなん。(さもありなんのさもって「然も」って書くんですね。しりまへんでした。)

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