──2004後半
04/1030
 田舎の図書館考──CDと落語の楽しみ 

 隣町の図書館に迷惑をかけてしまった。4冊の本がだいぶ返却日を超えている。申し訳ないと思う。
 その理由は、3冊はとっくに読み終っていたが、中の一冊「トンデモ本の世界」からの「毒字感想文」への引用が済んでいなかったからだ。引用といってもほんの数行なのだが、やろうやろうと思いつつなかなかせず、だったら3冊だけでも返せばいいのに、どうせならまとまって返そうなどと思って延び延びになっていた。今見たら10月12日が返却日だからたいへんなオーヴァーだ。やっといま引用したのできょう、病院へ行くときに返そう。そうすればほっとする。

 さて、返却日が遅れて申し訳ないと思っているのは事実なのだけれど、たいしたことないやと思っているのもまた事実。なにしろ私の借りてくる本は十年間で三人ぐらいしか借りてないし前回借りた人は三年前なんて本である。いや五年前、十年前に入っているが借りるのは私が初めてという本も多い。私はベストセラは読まないし、読むとしても三年遅れとかタイミングがずれているから他者には迷惑はかけていないはずである。だから約束を守らなかった自分を恥じており申し訳ないと思っているのは本心なのだが、心の片隅では実害はあるまいと居直ってもいる。正直なところ。

 品川の図書館で借りているころ、ベストセラが入荷してもすぐに借り出されてしまい、なかなか手に出来ないことに業を煮やした利用者が「あの本はまだ返ってこないの」と催促している現場を見たことがある。私からすると「そんなに好きなら買えばいいのに」と思ってしまう。だって今時、1500円の本を買えない人もそうはいまい。たぶんこういう人は話題作だからとりあえず読んでみよう、であって、その作家が格別に好きとかそんなわけではないのだろう。
 図書館を利用する人にはそんな本好きが多いようだ。というのは、たとえば船戸与一なら「虹の谷の五月」が、車谷長吉なら「赤目四十八瀧心中未遂」が圧倒的に借りられているのである。裏表紙内の貸し出し記録のところがびっしりと埋まっているほどに。ともにこの2冊は直木賞受賞作だ。ところがふたりのその他の作品を見てみると一気に借りた人が少なくなる。いやほとんどいない。受賞作が40人とするならその他の作品はいきなり3人ぐらいに減る(笑)。あとの37人はどこにいったのだろう。それもそのはずで、受賞作話題作好きな人がこの二人の作品を読んだところで、受賞作で一気に魅せられて全作品を読破、とはゆかないだろう。むしろ直木賞をとったのが不思議な二人なのだから。それは二人の全作品を読んでいるものとして自信を持って言い切れる。おそらく直木賞受賞作も借りはしたが読了していないのではないか。

 ところでこの「貸し出し記録」だが、隣町の図書館はまだコンピュータ化されていず、それを見られて勉強になった。上記のようなことはそれがなかったら書けなかったことになる。私の住んでいる町は隣町より規模が小さいのにそんなところだけ進んでいてすでにバーコードのコンピュータ記録である。どの本がどれぐらい貸し出されているかは係員しか見られない。
 昨日、病院の駐車場でクルマの中にあった高島俊男さんの「寝言も本のはなし」を読んでいたら、最近の図書館の本の整理法を批判していた。その理由として、「無料貸本屋になったからだ」とあった。これはまた『お言葉ですが…』の一項として書こう。

 現実に図書館に勤めているらいぶさんに聞くと、やはり昨今の図書館は、ベストセラを5冊一挙に入荷、のような状態が多いそうである。宮部みゆきとか(宮部はグレイトだけど)「ハリーポッター」とか。リクエストが多いのであり、現にみんな争うようにして借りてゆくのだからそれでいいのだろうが、たしかにそれは高島さんの言うように「レンタルヴィデオ屋の新作入荷」と同じ状態である。図書館の価値とはそことはすこし違うところにあるように思う。

 田舎の図書館の品揃えはどうしようもなく語る気にもなれないが、図書館のよくあるパターンとしてありがたいのは、「賞をもらった作品は入れる」ことである。これは図書館員が真の良書を探すことをせず機械的に受賞作を入れているだけと批判することも出来る。それでも読みたいと思った作品がとりあえず賞をもらっていれば田舎の図書館でも見つけられるので助かる。あとはもう「おっ、こんなのがおいてある。なかなか趣味がいいじゃないか」と思ったことはただの一度もない。でも田舎はだからこそ田舎なのだ。コジャレていたら田舎じゃない。それでいい。

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 午後二時半に出発して病院へ。四時着。
 途中図書館で上記の本を返却。あたらしくまた長篇を二冊借りる。そのとき何気なくCD棚を見ていたら意外にも私のもっていないJazzが何枚かあることに気づく。喜々として借りる。本とは違って手続きが面倒だった。貸出期間も一週間と短い。でもそれは問題ない。早速今夜コピーする。明日返却でもいい。

 CDからCDへのコピーというのはなんともはや便利でありがたいものである。厳密には違法なのであろうがそれはともかく、CDからカセットテープというダビングと比べると、音質も落ちないし頭出しやスキップ等のCDの便利さはそのままだし日々感嘆している。高島俊男さんがカセットやCDから自分の好きな曲だけを選んで一枚のCDに焼ける機械があると知って驚愕驚喜し、早速購入して没頭しているのも頷ける。もしもコンピュータを知らなかったら私は未だにダブルカセットCDラジカセで、借りてきたCDをカセットテープに落とすという作業をしていたのだろうか。
 それを頻繁にしていたころ、すでにコンピュータはもっていた。しかしOSはフロッピで動かすものでありCDをコピーするなんて多機能になることは想像も出来なかった。そういう意味では短いパソコンの歴史であるが、たしかに「WINDOWS以前、以後」という分け方が出来る。Win95の「パソコンにはCD-ROMプレイヤがついていて当然」の時代からだいぶ変った。

 長年私はお金に雑だった。ろくでもない文庫本をまとめて20冊買い込み、まともに読んだのは(読めたのは)数冊だけで、あとは捨てるようなことをしてきた。いわばほんの一部しか読まないスポーツ紙と同じ扱いだ。それは本のためにもすべきではないだろう。なにしろ古本屋に売るのならまだしもゴミとして捨ててしまうのだから。今の時代、文庫本も20冊だと1万円になる。そうして、中に2冊気に入ったのがあったら、1万円で2冊買ったと解釈するようにしていた。図書館を利用するようになってやっとその辺のむだに気づきつつある。本当に好きな本は図書館で借りて読んだあとでも自分のものが欲しくなる。それからでも間に合う。そうすることにした。当時そんなことをしていたのはそれだけのお金があったからであり、いまそれをしていないのはそんなことをするだけの餘裕がないからであるが、今度もし餘裕が出来ても以前のようなことはしないように思う。それは雑な私にとっては大きな進歩になる。

 図書館でCDなんて借りたことがなかったし田舎の図書館だからと軽視もしていた。JazzとClassicはあと何枚か楽しめそうである。
 CDから当然「テープ」と連想が進み、品川の図書館には落語のテープがけっこうあったことを思い出す。そうして、これからまた毎日病院通いをする傍ら、落語を聞くのもいいかもと思う。でもこの図書館ではカセットテープがいっさい見えない。どういうことなのだろう。あまり人と話すのは好きではないが(こまったことである)思い切って尋いてみた。するとスチール製の棚にびっしりとそろっていたのだった。いや棚ではなく引き出しである。どうやら盗難予防のようだ。それで考えてみると、CDもレンタル屋のように中身も解説書もぜんぶ抜いてあった。ろくでもない田舎ほど盗難や万引き、援助交際なんてのだけ都会並みだったりする。果たして被害があったからそうしたのか予防なのか知らないけど、田舎の図書館の防備は都会以上だった。わびしくなる。
 本とCDを借りていたのでもうテープは借りられなかったのだが、明日からまたひとつ楽しみが増えた。

【附記】民度の差
 私の生まれ育った村(今は町。来年から合併で市)はどうしようもなく民度が低い。だいたいが茨城県というのは民度が低いのだが、その中でもこの辺一帯が格段にひどい。そのひどい地域の中でも私の町はさらに落ちる。となると日本でも下から何番目か。
 住んでいる町、向こう側の村、隣町、と三軒の図書館を利用しているのだが、向こう側の村も隣町も、図書館員はそこそこの働きをしている。自分の勤める図書館の蔵書、その置き場所に関して、それなりの知識を持っている。なのに私の町の図書館係と言ったら……。町のレヴェルはこんなところにも出る。

04/11/11
県立図書館に行く──品揃えの不思議

 先日、田舎の図書館の品揃えがものたりない、CDの落語もない、そのてん東京はいいよなあ……とやっているうち、「そうだ、水戸の図書館を利用すればいいんだ」と気づいた。

 早速県庁に電話して尋いてみることにした。
 そのときのことをくだらんことだがちょっとメモ。私は県庁の電話番号を知らない。電話帳で調べようと思ったら電話機の下に埃を被って置いてあるのは「茨城県東部版」で水戸市は入っていない。たぶん県庁の番号はあったと思うのだが、私自身もう電話帳の引き方をわすれている。ただ東京のようなそういう番号を集めてある便利な一冊が我が家にはなかった。田舎に帰ってきてから何事も東京の感覚で判断してしまい、自分が茨城について何も知らないのだなと痛感しているのだが、このときもそれを思った。埃だらけの電話帳をたぐるのにうんざりし、104に掛けようと思ったが百円てのもむちゃくちゃだなと思い直す。親の電話なのでとくにそれを意識する。そこで「ああ、ネットで調べればいいのか」と気づく。そうしてネットで調べた。この場合の料金は電話代が3分8円50銭のはずである。安い。だが私の場合は、パソコンの電源を入れて立ち上げ、そこからピッポッパッと繋いでのことだからけっこう煩わしい。やはり常時接続は便利だなと思った。
 パソコンがいつも電源が入っていて、ネットに常時接続で、さらにIP電話が入っていたら、いま私がやろうとしていることがぜんぶパソコンで出来てしまうことになる。というかそれをやっている人は多いわけで、なるほど便利であろう。

 というわけで電話が繋がり、水戸市立図書館の位置を尋いた。掛けたのは水戸市役所だったか。そのうち向こうから「蔵書数なら県立図書館が」と言ってくれて、ああそうかとまた気づく。県庁所在地だから県立図書館があるのである。それは新県庁ビルにあるのかと問うたらそうではなく、むかしのまま旧県庁の隣にあるという。ぜんぶが引っ越したわけではなかったのだ。
 茨城県の県庁は、水戸市の真ん真ん中、いちばんいいところ、水戸城跡にあった。むかしは茨城師範もこの近くにあり、父はそこで学んでいる。数年前(いいかげんな言いかた)できあがった郊外の何十階建て(いいかげんだなあ)の県庁ビルに引っ越した。一気にぜんぶ行ったのかと思ったがそうではなかったようだ。たしかに今のところだと歩きやバスのお年寄りでも本を借りに来られるが、これで図書館まであんな郊外に行ったらクルマのない人は本を借りるなになってしまう。

 きょう県立図書館に出かけてみた。まずまちがいなく落語CDもあるだろうから期待度大である。
 風光明媚な水戸の景色というと偕楽園になるが、これは観光用に手入れされているから、そこそこの水準にはあるだろうけど、たいしたことはないように思う。春に咲き誇ってきれいなあたらしい梅林なんてここ二十年で作ったものだし。水戸の中でなんといっても美しいのは、この水戸城跡である。

 まずは図書館の駐車場がいっぱいで駐められず、写真の旧県庁の駐車場に駐めろとのことで、図書館に入るまで一苦労があった。

 写真は意図したものがまったく反映されていずなんの意味もないものになってしまったが旧県庁である。
 じつはこの水戸城跡の景色が風格があってすばらしいのだ。ここに水戸城があったのである。風雅高遠たる樹木とともに「ここが水戸城跡です。いい雰囲気でしょ」と紹介するつもりだった。しかししょせんデジカメと腕の悪さもあって、なんだか無機質なつまらない旧県庁の写真になってしまった。はずかしい。だったらいま私の立っている後ろにある、水戸黄門時代からの古木でも撮った方がよかった。

 ここはいまも「三の丸事務所」だかなんだか分館として活動しているようだ。移転に関して客がいなくなってしまう地元商店街の反対もあったが、それとはまたべつに「あんな遠いところに行かれては困る」の反対も多かったことだろう。今までのところがJR水戸駅から歩いて10分で行ける至便なところであるのに対し、今度のところは水戸駅からタクシーで2千円円では行けまい。いやそれどころじゃないか。5千円の世界か。郊外にバベルの塔のように聳えている。最上階にいる県知事は黄門様になった気分だろう。たぶんほとんどのことはこの分館で済むが、ちょっとむずかしいことになったら、その郊外の県庁ビルに行ってくれとなるのだろう。バスにのってそこまで出かけたらもう一日仕事である。たしかに世の中、「弱者につらくなっている」。私も妻のことで県庁に通うことになりそうだ。

 写真に写っていない場所、私の佇んでいるところでは、菊花展をやっていた。毎年この季節、父と一緒に各地の菊花展を見に行くのが恒例だった。今年はゆけない。かなしい。それでもまだ父がいるから、このかなしみはたいしたことはないのだろう。来年からはもう菊の花さえ見ないようにせねば。

 県立図書館は、思ったよりも大きく、係員の応対もしっかりしていて満足できる内容だった。カードを作ってもらう。DVD、CDはだめだが、本は近所の町の図書館でも返せるというシステムもありがたい。

 さて今日の目的である落語CDの話。写真のようにずらりと揃っているのをみて驚喜したが、もういちどじみじみと演者を見て頭の中にハテナマークが連続した。どういうことだろう。つまり品揃えについてなのであるが……。

 大好きな、いや尊敬していると言っていい米朝の全集があるのは当然としても、小米朝、吉朝、小南、枝雀、雀々、雀三郎、ざこば、南光、文珍、仁鶴、はあ?「桂三枝全集」……。いったいここはどこなんだ。おれは雀々、雀三郎なんてしらないぞ。いやそれはいいんだ、彼らが思ったよりもうまい人であたらしい喜びを与えてくれるかも知れない。落語のCDがいっぱいあって、関西系も充実しているなら、それは喜ばしい。でもそうじゃない。関西系がずらりと勢揃いして、音楽やいろいろなCD棚の中で5列ぐらい占拠している中、関東は唯一談志が1列50枚ぐらい全集で揃っているが、あとはもうちょぼちょぼなのである。志ん生、圓生、志ん朝が5枚程度ずつ、金馬、文楽が2、3枚なのである。それに比してなんと関西系の充実していることか。なんで志ん朝が三枝の足元にも及ばず、文珍や枝雀の半分もないんだ。歪んでる。偏っている。いくらなんでもこれはひどいだろう。文珍で15枚、三枝にいたっては全集のほかに、「三枝爆笑なんとか集」なんてのまで数枚ある。なのに関東の名人クラスはまったくない。どういうことなんだ、いったい! ここは茨城県の県立図書館だろうが!! 担当者は大阪人か。担当者によってこういう品揃えはいじれるのだろうか。なんとも不可解である。らいぶさんに質問してみよう。

 左は帰るときにクルマの中から撮った壕跡。空堀。カメラのあるこの石畳が登城する道。大手門へ続いている。ほんとに風情のあるいいところなのだがうまく表現できなくて残念だ。
 父の通った師範学校はいま市立幼稚園になっているとか。三の丸小学校の子供たちが歩いていた。お上品である。あまり高級なものにあこがれたことはないのだが、こんなしゃれたところの小学校に通ってみたいものだと、ふと思った。ジャズが好きなパパのもとから(笑)。

 本を二冊、高橋順子さんの随筆集を借りた。詩人であり、車谷長吉夫人である。こういうのがあるのもさすがだなと思う。ぜひ読みたいのだが、かといって買うほどの気もなく(すみません)、立ち読みしたいと思っていた本だ。やっとゆっくり読める。「買うほどの気もなく」の理由は覗き趣味だからで、これは読書感想文として書く。

 病院通いのかたわら、楽しみがひとつ増えた。問題は、ここはもろに市の真ん真ん中なので、交通量が多く、図書館にたどりつくまでに苦労することだ。近道をこちゃこちゃ行くより、たとえ遠回りでも、のんびり走れる道を迂回することを好む私に、この混雑はつらい。
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