2004──1~4


04/1/5
クルマ不調──GAIAX?




 ここしばらくクルマの不調に悩んでいた。
 午前中、いつもの修理工場に行って修理する。あちこちガタが来ている。いよいよご臨終間近のようだ。とりあえずバッテリを替え、エンジン・コンディショナで整えてもらう。だいぶ持ち直したが基本的にはもうダメらしい。う~ん、いまクルマを買う出費は痛いなあ。6年間7万キロ故障知らずの軽自動車だった。愛しい。ともだちである。10万キロ走ってお勤め満期終了と願っていたのだが無理か。
 15歳の猫が内蔵のあちこちが傷んでいてもうむりとわかったとき、20歳まで生きると思っていたから意外に早いその最後にうろたえたものだった。今回のとまどいも似ている。軽だからアイルランドで出会って感激した20万キロ走って故障知らずのカローラまでは無理としても、10万キロはいけると思いこんでいたのだ。

 だめとなったその理由なのだが、親しくしてもらっている修理工場の親方が言うにはGAIAXだというのである。思いつく限りのところを直し、部品を買え、試運転で路上を数キロ走ってきた彼が首をかしげつつ、もしかしてそういう油を入れてないかと問うてきた。お世話になったGAIAXに罪をかぶせる気はないのだが話の流れからは真実味がある。なんでもアルコールの入っているあの種の安い燃料は日本車には合わず、アルミやプラスチックの部品を溶かしてしまうのだという。外国車にはいいが日本車には向いていないのだそうだ。だから気づく限り自分の工場の常連には使わないように注意してきて、一時は張り紙までしていたとか。気づかなかった。
 エンジンそのものの何カ所か、たとえば燃料の噴出口等が溶けておおきくなってしまっているから、スカスカになっていたりして、これはもう修理工場の修理の段階ではないのだそうだ。
 エンジンのかかりが悪くなりノッキングが連発するようになったのは昨年の十二月中旬からだが、GAIAXを専用に入れるようになって1年以上経つ。なにしろ一昨年九月の「北陸ドライヴ旅行」の文中でも「ぼくはGAIAXを応援している」と高らかに宣言しているほどだ。もしも真実ならとんだ貧乏くじを引いたお間抜けさんということになる。まあすんだことはしょうがない。これで新車がダメになったら腹も立つが、老車(こんなことばはないが)だから無知ゆえの自業自得と諦めねばなるまい。

 田舎暮らしゆえクルマがないとなにも出来ない。都会と同じように週刊誌やスポーツ紙が買える24時間営業のコンビニが出来たことによって田舎暮らしが可能になったと書いたことがある。それはたしかなのだが、まずそれ以前に早朝でも深夜でもそこに行けるクルマがあることによってぼくの暮らしは成立していたのだった。
 そういうクルマの重要さ、あるいは出費の痛さ、ショックの理由はいくつかあるが、いまぼくの気持ちを占めている最も大きなものは、猫を失うと医者に宣言されたときと同じ、旧友を失うかなしみである。それでも猫の場合は代わりはあり得なかったが、クルマは新車が来ればすぐにそれに馴染むものと慰められるけれど。
04/1/14


田舎の医者──田舎者の月曜好き

 午前中母を歯医者。午後父を脳外科へ。
 それをしたくてここにいるのだからなんの不満もないが午前10時から午後6時まで時間を取られるとさすがにきつい。

 だいたいが病院というものは「数分の診察のために数時間待つもの」らしい。自分の経験はないが父の送迎で骨身にしみた。都会でもそうなのだろうか。以下は田舎の話になる。

 効率を重視するぼくにどうにも理解できないものに田舎者の「月曜好き」がある。父の定期的な肝機能検査なんてのは曜日も医者もどうでもいいものである。数分間医者と接し、前回の血液検査の結果(GOP、GTPの数値)を聞き、薬をもらって帰ってくるだけだ。たったそれだけである。それでも本人としては名高い院長に見てもらえる曜日を願い、そしてまた月曜の朝が好きなのだ。「土曜、日曜は休みだから月曜は混むな」と言いつつ毎度連れて行ってくれと指名してくる曜日は決まって月曜なのである。

 朝7時半出発。片道1時間をかけてたどりつく。待合室はたいへんな混雑だ。8時半に受けつけて診察の順番が来るのがお昼頃。ほんの一、二分、院長と「どうですか、体調は」なんて話をしておしまい。それからまた薬が出るまでだいぶ待たされて病院を出るのが午後1時。簡単な食事をして2時。家に帰ってきて3時過ぎ。ひどいときには4時、5時になる。一日が潰れてしまう。これは今は無縁となった月に一度程度の肝臓定期検診の頃の話で、父のためにその日一日を潰すことは覚悟していたからそのこと自体はどうでもいいのだが、どうにも納得できなかったのがこの「意味のない院長診察へのこだわり」と「月曜の朝」である。それでもまだ「院長診察」はなんとかわかりもするが、「月曜の朝」になるとかっきしわからない。
 なにかの都合で別の日の午後に行ったことがある。たとえば水曜の午後三時。誰もいない。ほとんど待つことなくすぐに順番が来た。医者は誰でもよい。肝機能の数値を見るだけなのだ。三時半にはもう病院を出られた。たいへんな効率の良さである。それを父に言い、なにより父自身があまりの月曜との違いにおどろいているのだが、しばらくして次に行く日の連絡を受けると、やはりまた月曜になっている。どうやら田舎者のこの考えを頭から取り去ることはむずかしいらしい。誰もがそれをわかっていても月曜の朝に殺到してしまうようだ。これは父とのつきあいから、どこの病院でもそうなのだと知った。律儀な年寄りは「月曜の朝一番」にこだわるのだろう。みな「月曜の朝は混むぞ」と言いつつ月曜の朝にやってくるのだ。
 能率主義のぼくは、「なぜ水曜、木曜の午後に30分も待たずに済むことを、この人達は月曜の朝に殺到して数時間待ちでするのだろう」と理解できなかった。今もできない。

 それでもそれは覚悟の上のことだったから、たいそうな不満であり、なぜ父がわかってくれないのだとうんざりもしたが、田舎の人が通う田舎の病院とはそういうものなのだろうとあきらめた。しかし納得できない田舎らしさはそれ以外にもある。
 母の歯医者は午前11時の診察予約。5キロほど先の町内なので10時半に家を出て10時40分には着いた。そんなに早く行く必要はないのだが、「前の人が来ないときは早くやってもらえるから」という理由らしい。キャンセルする人がいるからこのリクツはわかる。
 本屋で立ち読みをしたりして時間を過ごし、もう終った頃だろうと11時20分に迎えに行ったら、まだ始まっていなかった。もういちど本屋やホームセンター等で時間を潰して12時に迎えに行ったらそれでもまだ始まっていなかった。結局診察が始まったのは1時で終ったのは1時半だった。この辺のいいかげんさがたまらない。午前11時の予約で診療したの午後1時である。なんのための予約制度なのかと思う。往復を含めて1時間ですむはずが3時間もかかってしまった。

 医者知らずのぼくも歯医者にだけは世話になってきた。子供の頃、田舎の歯医者はどこも大繁盛だった。今はありすぎてまったく患者の姿の見えない歯科医院もある。
 当時の歯医者はいつも上記の父の通った「月曜の朝」と同じ状態。早朝に番を取り、やっと昼頃に診療してもらえる。町の人は暗いうちに歯科医院の玄関につるされたノートに順番を取りに行った。農村部のこちらはどうしたかというと新聞配達の人に頼んだ。もちろんお礼はせねばならない。とにかくニワトリ並の早起きをしての歯科医院の順番取りだった。それでも治療してもらえるのは午後になった。
 成人してから何度か行った東京の歯医者は予約制だった。よほどのトラブルでもない限り、午後1時の予約なら、1時すこし前に行けば時間通り1時からの診療となり、1時半には医院を出られた。それが予約制なのだと理解していた。

 ところが田舎の場合は、予約制ではあるが、どうやら医院のほうで重複予約を取るらしい。これは時間にルースな田舎者のほうに問題があるのだろう。予約をしておいて来ない人がいる。すると手が空いてしまうから、同じ時間に数人の予約を入れる。そのことにより、午前10時に予約していた3人がひとりも来なかったが10時半の予約の3人のうち2人が来たとか、結果としてうまくバランスをとっているようだ。しかし時には10時の3人も10時半の3人も全員来たりして、次々と時間がおしてゆく状態になる。午前11時に予約の母が診療を受けたのは2時間遅れの午後1時だった。これはもう予約とは呼べまい。都会のビジネスマンだったら仕事にならない。昨年暮れから母はその歯医者に10回ほど行ったが、まともな時間にまともに診療できたことはただの一度もなかった。歯医者としては手が空くことがないいいシステムなのだろう。假に抗議したなら、時間にルースな田舎者相手ではこう自衛するしかないのだと強弁するかもしれない。ほんの10分ほどの診療の歯医者に行くのに3時間は覚悟せねばならないのはつらい。

 自分なりに待ち時間を有効活用できるように努力はしている。ノートパソコンがあるからまだ救われる。とにかく気をつけねばならないのは、こういう「田舎時間」に慣れてしまうと都会では生きて行けなくなることである。今からまた都会に出るとかそういうことではない。時間に対するそういう感覚の問題だ。こういうのは「田舎はのんびりしていていい」とか「せまい日本、そんなに急いでどこに行く」とか、そんな形で片づくことではあるまい。
04/1/16


口内炎と大阪人

 口内炎が出来た。痛い。海外に一ヶ月以上いて不規則な生活をしていると決まって出る。体がピーッピーッとアラームを鳴らし始めたと解釈し、暴飲暴食、睡眠不足の日々を改める。いつもいいタイミングの警告になる。問題になる病気ではなく、それでいて痛くて飲み食いに不自由するから四六時中意識せねばならない。自重するにはちょうどいい。痛くていやだけどありがたい警告だと思っている。
 日本で出来たのはひさしぶりだ。妻も口内が痛いというので見てやったら同じくそうなっていた。妻の場合はわかる。不慣れな外国で一ヶ月以上暮らしているのだ。
 私の場合はなんだろう。原因がわからない。そういえばここ数年、欠かさず飲んでいた総合ヴィタミン剤を切らし数ヶ月ほど飲んでいない。らいぶさんにチェンマイで買ってきて欲しいとお願いし、買ってきてもらったのにまだ受け取っていない。ヴィタミンBの効能に口内炎と書いてある。ヴィタミン不足か。

 ドラッグストアに行った。口内炎の薬の置いてある場所を質問し、何種類かを手にどれにするか考える。最新のものに、5ミリ円ぐらいのシール状の製品があった。これを患部に貼るのだ。なるほどね。口内炎の治療の基本は痛い患部に軟膏を塗って覆うものだからシール状はいい発想だ。と思いつつ、いつも旅先にもってゆく慣れ親しんだものを買ってくる。こういうのは使い慣れた安心感がいい。

 それをレジにもってゆき、お金を払う。お金を出し、お釣りを受け取り、ポイントカードうんぬんと、私と店員がやりとりをしているほんのすこしのあいだ、しつこく「ちょっと、ちょっとお」と横合いから割り込んできて店員に話しかけ、じゃまをするおばさんがいる。かつて経験したことのない非礼だ。なんだろ、このおばさんは、とあきれた気分でそちらを見る。私の非難の視線を無視して、さらにしつこく店員(白衣を着た年配の男だったから薬剤師か?)に呼びかける。位置としては私と店員が向かい合ってやりとりをし、店員の背後からそのおばさんが話しかける構図になる。私からはもろにそのおばさんが見える。白髪頭の60年配、体型はいわゆるずんぐりむっくりになる。
 店員もあまりのその非礼にあきれたとみえ、振り返っては「はいはい、ちょっとお待ちください。いまこちらのお客さんの番ですからね」と子供に諭すように言っている。それでもそのおばさんは、わたしが話しかけているのだから早くこっちを向けとばかりにしつこく呼びかけ続けている。しょうもない人だ。

 私の精算が終り、「はい、お待たせしました。なんでしょうか」と店員がそのおばさんのほうに向き直った。私は財布に釣り銭をしまいつつ、いったいなんなんだこいつは、という非難の視線であまりに非礼なその女を見ていた。この田舎でこんなことなどあるはずがない。もちろん東京でもない。
 商品を二つ手にしたそいつが言った。
「あのな、これとこれ、どうちがうん、どっちこうたらええのん」
 この地方ではまずめったに聞くことのない大阪弁だった。なるほどね、そういうことだったのか。

 私の田舎では数年前から山間部に小さな別荘のような安物の家をたくさん作り売り出している。どういう税制なのか、けっ飛ばしたらひっくり返るような安普請の家を廉価で販売しているのだ。基礎工事がしていないので安く売れるのだという。しっかりと基礎工事をした上に建てるのではなく、ポンと地面に置いたような形の家は、うまく法の目をかいくぐり、税金がまったく違うらしいのだ。もちろんそれを売っているのは都会の聞いたことのない怪しげな会社である。それはもうほんとにペラペラヘナヘナの安普請の家が地面の上に置いてあるだけで、強風が吹いたらとんでゆかないかと心配になるぐらい見事に貧弱である。
 そこに全国から流れ者が寄ってきている。まあひとことでいえば都会では家の買えない貧乏人年寄り夫婦が、田舎に数百万円で買えるマッチ箱みたいな家を手に入れ、年金で老後を過ごそうと流れ着いてくるのである。町からしても、この連中は税金は払わず、町には金は落とさず、催し物にも非協力的で、それでいて救急車のようなのは頻繁に利用するので不具合ばかりが目立ち、もてあましているという。いい思いをしたのは、そのマッチ箱売りの業者だけである。

 この大阪弁の女はそんな中のひとりのようだ。大阪人はどこに行っても大阪人だ。それは世界の果てまで行ってもそうなのだから、たかが国内のこんなところに来たからといって変るものではない。それにしても、よくこんなあつかましいことができるものだ。いったいどういう育ちをしたらここまで礼儀知らずになれるのか。
 外国で出会う超個性的な旅行者の10人の内7人は大阪人である。これは多くの人が口にすることでもありぼくの体験でもある。「コリアン世界の旅」の野村進さんも同じ事を書いていた。日本人の割合からするとかなりすごい割合になる。「超個性的な旅行者」というと聞こえはいいが。

 それらのことも、それ以外の大阪的なことも、なんとなく外国世界のように感じていた。遠い世界の話だった。しかし実際に自分の生まれ育った地で、大阪弁といかにも大阪人らしい傍若無人な振る舞いを見て、かなり複雑なものを感じた。それほどこの地では大阪弁は新鮮だった。「異国人の侵略」を感じた。すすきの野原が一面セイタカアワダチソウになってしまったときの違和感と同じだった。
 生まれ育った地ではあるが、ここを終の棲家とするつもりはない。父がいなくなったら捨て去る地だ。そこのところだけ救いはあるが……。
04/1/18


通い鳩のいとしさ

 いつからか二羽の鳩が庭に来るようになった。
 父母が餌つけした。
 雰囲気からして、なにかではぐれた飼い鳩なのだろう。
 ぼくには野鳩と伝書鳩の違いはわからない。

 いつも仲のよいつがいだった。
 それが、昨年の秋から、なぜか一羽になってしまった。
 なんともそれがさみしげだ。なにがあったのか。

 今は冬。餌がないのだろう。
 以前は日に一度、きまぐれに立ち寄る感じだったが、ここのところ頻繁に来る。

 二階の私たちの住居にも来るようになった。


 妻が見つけ、私たちも餌をやるようになる。
 「はとぽっぽ」の歌にあるように豆が好きなようだ。
 パンをやっても、ついばみはするが吐き出してしまう。
 豆はうまそうに飲み込んでいる。

 下の写真の手は妻のもの。
 さすが私が「野生の猿のような女」と言うだけあって、父母が半年以上餌つけしても3メートル以内に近寄らないという鳩を、ほんの数日でここまで手なづけた。野生のもの同士の共感であろうか(笑)。

 メジロ、モズ、ひよどり、等もやってくる。かわいい。市販の餌を飼ってきて、毎日あげたいと思う。
 しかしこういうのもむずかしい。人間が力を貸すことにより彼らの生き抜く力をうばってしまう場合もある。
 さてどうするか。
04/1/20
 ひさしぶりのパソコンソフト、百円ショップ

 午後から土浦のパソコンショップへ出かける。いつも通る霞ケ浦の有料橋を渡らず、橋が出来る以前の道を迂回してゆく。冬晴れのいい日だ。きょうの目的は百円ショップの最大手ダイソーへ行くこと。近所にも百円ショップは一軒あり重宝しているのだが、先日初めてダイソーへ行き、その品揃えの豊富さにおどろいた。なにしろチェーン展開する自店のために東南アジア諸国に生産体制を持っている。意気込みが違う。

 天気のいい日にのんびりと田舎道をドライヴし、百円ショップで何を買うか楽しみに出かけるのだから、30分ほど時間を縮める有料の橋代720円をもったいないと考えるのは理にかなっている。その分でなにかを6個も買えるのだ。もっともいつものぼくは、この橋代を使って500円の自作パソコン小物ひとつを買いにいそいそと走ったりしている。

 きょうは妻も一緒なので遠足気分の彼女に菓子やジュースを買い与え、田舎の景色を見、音楽を聴きつつ遠回りしていった。橋代と百円ショップの話を妻にすると、妻も我が意を得たりとばかりにそうだそうだと賛成してくれた。中国にも百円ショップのような店は普及している。「10元店」が多い。日本円だと150円(最近円高で130円)だから感覚的にも釣り合っている。

 ここで橋代を惜しむぼくに「ケチ!」と言う女だと一緒になってなかった。これは假定ではなく実際そういうタイプが多いのである。ある友人(日本人)の元奥さん(タイ人)など、自分が朝から晩まで働いても月給1万円程度なのに、亭主が日本からもってきた金だとうん十万、時にはうん百万をヘロヘロと使いまくり、みななくしてしまって離婚の原因となった。そりゃなんの素養もない株に勉強もせずつぎ込んだらなくなるだろう。これはあまりに金額が大きいから現実感がなかったと庇うことも出来ようが、タイ人の抜けた部分を表してもいる。自分たちの金だと1バーツをも惜しむくせにこちらが1万円を惜しむとケチと言ったりするのだ。いまどきタイの娘で質素な倹約家を捜すのはむずかしいから、ぼくが云南の山奥の百姓娘に走った(?)のは自然だったのかも知れない。とはいえ友人の元奥さんも極貧の中で質素な暮らしをしていた娘だった。
 そういうタイ人の性格とは別にもうひとつ言えるのは、友人の女房仕込みがヘンだったということだ。ああいう育て方をしたらああなるだろう。妻の金銭価値が麻痺したらそれはぼくの責任でもある。女のすべては男次第だ。

 『タイ語抄──キーニオ』

 家の中にいる妻を気分転換に外に連れ出してやったようだが内実は逆。最近PS2でのマージャンに凝っている彼女は、ぼくひとりで出かけさせ、その間にこっそりマージャンを楽しみたかったようだ。小学生の子供が果てしなくファミコンで遊んでしまうのと同じ情況だから、ぼくはいま初めて子供に宿題をやってから遊べとファミコンを取り上げる親の気分を味わっている。あの大ファミコンブームの時に、子供にそれを与えなかった親もいるそうだが、ぼくにはそれはできない。どちらかというと子供と一緒に遊んでしまうほうだ。それにしても、相変わらず「役」の概念すらなく、ほとんどポンチーごっこレヴェルである妻を、何時間でも倦きることなく遊ばせてしまうマージャンは、やはり「亡国の遊技」である。果てがない。なんとか半荘でやめるように指導(?)しているのだが、ちょっと目を離すとしらんふりして次の半荘を始めてしまうので気が抜けない。

 パソコンショップでひさしぶりにソフトウェアを買った。「假想CD-Romソフト」である。以前のものが再起動すると消えてしまったりするので買い換えどきと思っていた。
 これも考えようによってはたいした問題ではない。なにしろ假想CD-Romで何枚ものCDを一度に使えるというのは以前は考えられない夢のようなことだった。文章を書きながら、音楽を聴き、何種類もの辞書を引いたり出来るのである。それの調子が悪くなり、再起動すると設定した假想CD-Romドライヴが消えてしまう。再起動のたびに假想CD-Romを設定し、辞書を入れてゆかねばならない。それは慣れてしまった身には面倒であるが、元々それをしなければならないものと假定したなら、パソコンで何時間か作業するときの準備の5分として、たいしたことではない。クルマで言うなら、走り始める前の5分間の暖機運転のようなものだ。必要な時代には誰もが当然のこととしてやっていた。出勤前にエンジンを掛けて暖めていた。ところがエンジンを掛けてすぐにスタートできる時代になるとそれが面倒でならない。便利さになれるのだ。このへんの人間のだらしなくなる早さはたいへんなものだ。

 所ジョージは60年代のイタリア車が大好きだそうで、故障ばかりするそれをなだめるようにして走らせるのが最高に楽しみなのだと言う。それは趣味人のなかなかオトナの感覚だ。ぼくもそういう感覚を身につけねばと前々から思っていた。それでなにかの都合で再起動するとそのたびに消えてしまうこの假想CD-Romソフトの現状をここしばらく許容してきた。

 ぼくのパソコンは、CがOSの入った起動ドライヴ。Dがアプリケーション、Eがデータ。FがCDドライヴである。その後が假想CD-Romになる。
 G=マイクロソフトの辞書ブックシェルフ、H=広辞苑、I.J=マイクロソフト百科事典、K=地図ワールドアトラス、L=映画辞書、となりその後は音楽CDだ。クラシックが数枚、Jazzが数枚マウントされている。一応XYZの三つは使わずに開けてある。体験上、ぜんぶを假想CD-Romにはしないほうがいいと悟った。これはきっと正解だろう。(このHの部分を『大辞泉』にしたいのだがまだうまくいってない。早く『広辞苑』とは縁を切りたい。)

 この設定が昨年秋頃から再起動すると消えてしまうようになった。音楽はどうでもいいが、GからLまでの辞書類はないと不便で話にならない。よってそのたびにこの設定をやり直すことになった。ソフトウェアそのものは消えない。假想CD-Romドライヴという設定のみが消える。作業はすでにイメイジファイルになっている辞書類をマウントするだけだ。所要時間は5分から10分弱。まともだと週に一度程度、調子が悪いと日に数回となる。慣れてしまった今はなんてことないが、当初はなんでこんなことになるんだとやり場のない怒りでコメカミに青筋を立てていた。愚かなことである。ほんの10年前にはパソコンのかたわらに何冊もの辞書を積み上げ、なにかことがあるたびに引いていた。それと比べたらいかに便利であることか。なんてことない準備作業なのだ。

 と、せっかく不便なことに慣れ、それを楽しめるほどにさえなってきたのになんで新しいソフトを買うのかというと、やはりたまにはそういう刺激がないとつまらないのである。パソコンそのものよりパソコン雑誌を読む関係だ。いくらパソコン雑誌が読むだけで楽しいとはいえ、なにひとつ買う予定がなくて最新の製品情報を読んでいてもつまらない。ある程度ハードウェア、ソフトウェアの買い換えは必要なのだ。それを感じたので買うことにした。
 ひさしぶりにソフトをひとつ買っただけで、早く家に帰ってインストールしたい、旧バージョンとはどうちがうのだろうとわくわくする。この刺激はたまらない。

 ついで本日のメイン。隣の百円ショップダイソーへ。
 最初に行ったのは前回目をつけていた「ゴムの木シリーズ」のコーナー。ゴムの木で作ったちいさなまな板や台所用品だ。箸立て等もある。もう十数年ゴムの木をそばに置いていて(何本も枯らしてしまって何代目かになる)いくら養分をあげても太くならないことが不満なので、大木から取ったこれらの製品を見ると不思議な気がする。室内の観葉植物のゴムの木は何年経っても親指程度の太さにしかならない。ぼくとしては腕ぐらいの太さになってほしいのだが。もっとも20メートル以上の大木になる樹液を取るゴムの木をゴムの木と思っている現地の人から見たら室内で育てられている鉢植えの観葉植物のほうが異様かも知れない。
 この製品の発想はどこから生まれたのか。想像するに、樹液が取れなくなって役立たずとなったゴムの木の廃品利用なのだろう。つまりは建材としては不適性なのだ。調べたが百科事典にはそこまでは書いてなかった。ともあれ木目もきれいだし前々からぜひ買いたいと思っていた。料理用のへらとか何種類かを買う。

 2ちゃんねるで読んでから興味を持っていた「100円CD」の棚に行く。定番は著作権のないクラシック音楽。どういう音源なのか唱歌の類もけっこうそろっている。
 落語の棚があった。かなり古い落語が15分ほど入っているものが並んでいる。さすがに100円CDだから1枚15分の1演目だけで終りだ。ラジオが音源か。演者もマイナだ。音質もかなり悪いだろう。  2ちゃんねるで知ったのは「100円JazzCD」だった。今回あったのは1枚200円の上掲写真「ジャズヒストリーシリーズ」だった。とりあえずマイルスを買ってきた。5枚ほどあったシリーズ全部を買ってしまってもいいのだが、なんでもかんでもあればいいという時期は過ぎているので、どんなに安くても慎重になる。これはこれで正解だろう。どうせなら同じ安物でもプレイヤ名が載っているのをタイや中国で買ったほうがいい。

 その他あれこれと買って2500円ほど。200円のものも何点かあったので20点ぐらいか。ありがたいことである。たったこれだけの値段で大荷物だ。
 これでまた景気が恢復に向かいデフレからインフレになったらこの種の店はなくなってしまうのだろうか。それでも、これら一連の流れによって今まで千円していたものが、多少見てくれはわるいがほんとは百円で買える(作れる)と消費者は知ってしまった。この流れは止められまい。以前も書いたけれど、ぼくはどう考えてもマウスパッドが千円以上するものだとは思えなかった。パソコン小物大好きなぼくがマウスパッド蒐集をしなかったのはそれに因する。高品質と思われる(それでも本当は安いだろうけど)値の張るものを何枚か買って大事に使っていた。今が正常な値段である。果てさてこの流れは今後どうなるのだろう。
 帰りに入れたガソリン代を含めても1万円にならない楽しい買い物ドライヴだった。

【附記】
 CDを聴いた後の感想。曲目はクール時代のものが多かった。ビバップの好きなぼくとしてはあまり好きなマイルスではないが、それでもこれが200円で聴けるのは信じがたいおどろきである。1950年代のマイルスを聴いていたら、早くらいぶさんに会ってチェンマイで買ってきてもらったJazz-CDを聴きたくなった。
04/1/21
MRIとステロイド




 きょうは父がMRI検査をする日デアル。
 検査は指定時間の12:20分から。家を11時に出る。早めに着いたがすぐに頸部のレントゲンから時間よりも早く始めてくれる。MRIは以前ぼくもいちどやったことがあり怖くないとわかっているので安心していられる。先日CTスキャンをした。それで不確かだったのできょうMRIをやる。驚異の機械であったCTですら過去のものになってしまうのだから進歩は早い。

 CTで思い出すのは前田のリングスが選手の健康管理のために定期的にCT検査を導入したことだ。うさんくさく思われている格闘技関係の中では画期的な健康管理だった。猪木は野球以外のスポーツ選手高額所得番付に名を連ね、プロレスに夢を与えようとした。前田はこういうことをしてリアルな部分を強調しようとした。ところがどうやらCTというのはそんなに頻繁にやるべきものではないらしく、障碍が出る可能性があると中止になった。便利な機械はそれだけこわいことになる。

 父の左腕や背中の痛みの原因は、どうやら頸椎のゆがみから来ているらしい。CTでもMRIでもなく、原始的なレントゲンでわかった。CTやMRIで脳の内部にうんぬんとなるよりはよかったか。先生が「胃が潰瘍になったりする副作用が心配だが強力に効く薬」と言って処方してくれたのはステロイドだった。またプロレス方面を思い出してしまった。

 筋肉増強剤のステロイドという薬物のことを初めて知ったのはWWFのスーパースター・ビリー・グラハムでだった。彼は廃人になりステロイド禁止運動に参加する。来日した選手で印象的だったのはなんといってもダイナマイト・キッドになる。国プロに初来日した長髪の貴公子然とした細身の姿を知っている身からすると、新日にやってきた短髪の鋼の鎧を着たような姿はあきらかに異様だった。今は廃人だ。従兄弟の同じくムキムキマンとなったデイビーボーイ・スミスはもう死んでしまった。ホーガンもやめたから筋肉がぶよぶよしている。よせばいいのに今の新日の選手も多用している。棚橋はそうだろう。小橋も使っている。やめてほしいものだ。体を見せるのが商売とはいえ命を縮めてどうする。

 なお筋肉増強に使う肝臓を破壊するのはアナボリッ・クステロイド、父の関節の痛みを抑えるために処方されたのはステロイド・ホルモンで別物である。それはわかって書いている。普通の人はステロイドと聞いたら多くの薬に使われているステロイドホルモンなのかも知れない。プロレスファンとしてはすぐに筋肉もりもりのアナボリックのほうを連想してしまう。

 帰宅したのは午後5時。もう暗くなっていた。カーラジオで国会中継を聞きつつ帰ってきた。
 帰りに「セルフサーヴィスのガソリンスタンド」でガソリンを入れる。田舎にも最近増えてきた。残念ながらまだあまり安くない。いちばん大きな出費は人件費だから今にこれが主流になるのだろうか。それとも外国人労働者を使ったりして、なんとか世界でも珍しい抜群のサーヴィス形態である今の形を貫くのだろうか。外国を思い出して懐かしいので最初はなんどか利用していた。初めて自分の手でガソリンを入れたときはなんかうれしかったものだ。しかし寒風の中で自分で入れていると、あらためてサーヴィスのいい日本のシステムに感謝する。よりいっそうの普及のためにはもっと大きな価格差が必要だろう。リッターで2.3円、全体で100円程度の差ではまだみな普通のステーションに行くのではないか。

 直立不動で医者の判断を聴いたり、たいしたことはしていないが精神的に疲れた一日だったようだ。帰ったらぐったりして、赤ワインをすこし飲んだら眠くなってしまった。こんなことはめったにない。
(24日の土曜日にここを整理していたら、21日水曜日が欠落していると気づく。よってこれは24日に急いで附け足したものになる。とすると4日ほどUPしなかったここ数日は、ぼくなりにたいへんだったのかもしれない。)
04/1/28
 葬式多発 哀しい現実

 年明けから近所で葬式が多発している。連続して三軒あった。みな長期入院していた末での結果だし、年齢も八十歳前後なので驚くほどのことでもない。それでもそれなりに馴染みのある人たちだったから、ぼくにとっての今、「そういう時期」を痛感している。

 ぼくは十八で東京に出た。帰郷したのは数字的には十年前になるが、その間、半分は外国だったし、日本にいる半年の内の半分は東京だったから、真に田舎暮らしを始めたのは昨年からになる。なにより田舎にいるときは昼夜を逆さにした生活の中で熱心にパソコンで仕事をしていたので近所の人との接触もまったくなかった。夜更けや朝方にコンビニで買い物をしていたから誰とも会うことはなかった。

 つい先日「外国に丸一年出ていない記念日」を迎えた。いったい何年ぶりだろう、どこへも出かけず丸一年日本にいた。国内旅行もしていない。十八以来初めて田舎暮らしをした気になっている。最近は、足腰の弱くなった親に替わってゴミ収集所までゴミを運んだりして、近所の人と挨拶を交わし、季節のことばを添えたりするようになった。田舎で生きているという自覚が芽生えつつある。
 亡くなったかた達は、ぼくが子供時代のおじさんおばさんである。小学生中学生だったぼくの目に映った働き盛りの人たちだ。その人達が老い、あちらの世界に旅立ってゆく。子供だったぼくも五十になった。自然の流れである。ところがぼくの中では時が止まっている部分がある。

 老いとは──純粋に肉体的なものを別にすれば──周囲の環境から感じるものである。その中でも唯一絶対のものを単純明快に言い切れば「子供の成長」であろう。我が子が大きくなる。かつての自分に面差しが似てくる。身体的には自分を超える。生意気なことを言うようになった。時には自分を庇ってくれたりする。そういう経験をして人は成熟という名の老いを感じてゆく。それは子を持ったから生じる感覚だ。子を持ったからこそ老いさせられるとも言える。
 それを感じない環境にいるものは、男であれ女であれ、よくいえばいつまでも若い、わるくいえばいつまでも幼稚、となる。子供がいない人が年よりも若く見えるのは当然なのだ。一般には子供を育てることによって生じる世帯やつれのように言われるが、そうではあるまい。生命体として、日々「若さ」「成長」「老い」を身近に感じているか否かの違いだ。

 亡くなった人たちはみな、子を作り、孫に囲まれ、人として普通の人生を送っていった。だから本人も、送った人たちも、それほど寂しくは感じていないかも知れない。人としてみな自然の流れを体感しているからだ。むしろぼくのように、彼らとは他人でも、いまだに当時の小学生中学生気分から抜けきれず、すでに老人となった人たちを、当時の働き盛りのおじさんおばさんの映像のまま止めてしまった者が、いちばん寂しさを感じているように思う。

 ゴミ収集日にゴミを捨てに行く。そこでかつてのおじさんおばさんに声を掛けられるとうれしい。彼らはもうおじいさんおばあさんである。ぼくも五十男だ。だがそこで会う彼らがぼくにとって今でも働き盛りのおじさんおばさんであるように、彼らもまた何十年も会っていなかったぼくを「××さんちの××ちゃん」として扱ってくれる。ぼくの中で田舎の時間が三十年止まっているように、彼らもまたぼくに対して時間が三十年止まっている。五十のぼくを中学生に見るとき、彼らもまた七十余の身から壮年の四十へと時を飛ぶ。それは一種のタイムスリップごっこでもある。××ちゃんにされてしまうぼくがくすぐったくも甘い時を感じるように、壮年にもどる彼らもまた決してそれは不快な時間ではあるまい。

 そういう人たちが、櫛の歯が抜け落ちるように(この表現も死語だろうか)亡くなって行く。ゴミ収集所で見知らぬ三十代の女と会う。礼儀としてお互いに挨拶はする。面識はない。ぼくが東京に出ているあいだに、そういうおじさんおばさんのところに嫁いできたよその娘なのだ。よその娘ではあるが、子供を二人産んだりして、ぼくよりはずっとこの地にとけ込んでいる。今や主流だ。あちらからしても面識のないぼくこそがよそ者だろう。これでまたこの辺の人の大半である農民然としていればとけ込むのも容易だろうが、それとはまた違った雰囲気をぼくは身につけてしまっている。それはこの辺のホワイトカラーである役場勤めや教員とも異質のにおいになる。あたりまえだ。東京に三十年住み、物書き業なんてことをやっていたのだ(内実はフリーター同然としても)。

 疎外感を感じる。ぼくはこの地で生まれ十八まで育ったが、東京に出ているあいだによそ者になってしまった。ぼくからするとよそ者のその嫁さんのほうが、すっかり地域に根を下ろしここの人になっている。
 ふるさととは人だ。生まれ育った地にいまもどり、よそ者気分でいるぼくにとって、ふるさととは五十になったぼくを未だに「××さんちの××ちゃん」として扱ってくれるおじさんおばさんだった。その人達がおじいさんおばあさんとして寿命を終え、次々に亡くなって行く。それはぼくのふるさと喪失である。出来るなら、ぼくが云南に家を建て、遅い子供を作り、遙か遠くの母国を思い、自分の黄昏を正面から見られる時期になってから起きて欲しい事態だった。今それが起きることは(年齢的に当然なのだが)なんとも身を切られるようにさびしい。それは、佇んでいるグラウンドが、次々と崩れ落ちてゆくような焦燥感だ。
 そうしてまた、ごく自然な人となりを考える。人は、親のいる内に子供を作るべきだ。親がいなくなる喪失感を、子がいる継続感で補ってゆく。それが生き物のありかたなのだろう。身にしみてそれを感じる。

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 ということを数日前から書こうと思っていた。近所のおじさんおばさん(実態はおじいさんおばあさん)が次々と亡くなってさびしいという話だ。近所の三軒の葬式に続き、遠縁のおばさんが亡くなった報が入ってきた。それもこの話に含まれるはずだった。しかしちょっと事情が変ってきた。

 一昨日、遠縁のおばさんが亡くなった。八十八歳だった。遠縁のおじさんの奥さんでありぼくとは血縁ではないのだが、聡明な人で、人柄もすばらしく、ぼくはおじさんよりもむしろ好きだった。おじさんはもう二十年も前に亡くなっている。おばさんにももう何年もあっていない。父母をクルマに乗せて行き、歓談したのは何年前になるだろう。三年前か。それが最後になった。血縁的には遠くても、若い日の父が宿酔いで授業が出来ず、学校を抜け出して昼寝をさせてもらったなんて思い出のある遠くて近い親戚だった。ぼくの家からは20キロほど離れている。

 きょうの葬式には、父母は高齢で出かけず、嫡男である兄も帰郷しないので香典だけを親戚に頼む形になった。
 午後、妻と一緒にそっち方面の大きな本屋(文教堂)に出かけた。水郷潮来方面である。近くを通るとき、もう葬式は終った時間だったが、線香だけでもあげに寄らせてもらおうかなと思った。ラフな普段着だがこういうのは気持ちのものだ。
 なのに寄らなかったのは、死因に関して一抹の疑問があったからだった。八十八歳の老婆(マスコミでは使用できないことば)が湖岸で行き倒れて死亡するとは不自然である。

 午後五時。本屋からもどってくると新しい情報が入っていた。自殺だったという。息子夫婦(といっても六十代でもう孫もいる)に疎まれ、孫からも話しかけられず、早く亡くなった主人のもとに行きたいと日ごと嘆いていた彼女は、夜の湖で入水自殺を図ったのだ。ぼくが死因に疑問を持ったのも、自分なりに「あのおばさんは息子夫婦に大事にされているのだろうか!?」と前々から感じていたからだった。

 父は一昨年米寿を迎えた。兄と気の合わないぼくは、兄のやった親戚縁者を集めた形式的な米寿の祝いとはべつに、父の教え子と趣味関係の友人を集めた宴席を獨自に設けた。息子二人が一致団結しないことは父をかなしませたようだが、考えようによっては、息子二人からそれぞれ趣向の違う米寿の祝いを二回もやってもらった、とも言える。両方とも出席した母によると、いかにも形式に則った兄のほうの祝いも、かつての教え子に囲まれて父が青年教師にもどったようなぼくのほうの祝いも、それぞれ趣があってよかったとのことだった。そんなことから自分と親の関係をもちあげるつもりもないが、いくらなんでも八十八歳の入水自殺はかなしすぎる。

 遠縁のおばさんは今年米寿だった。その前に自分で命を絶った。息子夫婦が、会話もしない母のために果たして米寿の祝いをやったかどうかは定かでない。彼らは老人ホームに入れようとしていたという。おばさんは拒み、それがいちばんの確執だったらしい。やらなかったと思う。なにしろそれをめでたいと思っていないのだ。面倒だとしらんふりをしたろう。いや格式ある田舎の家だから世間体を繕うために形だけでもやったか。いずれにせよ今はもうどうでもいいことだ。その前に八十八の老婆は自ら命を絶った。
 目も見えた。耳も聞こえた。歩けた。どこも悪くない。財産家だ。お金にも困っていなかった。
 長生きってなんなのだろう。これじゃまるで現代の姥捨て山だ。

 ぼくがひとつ残念なのは、今時の老人ホームはよくできていることを、おばさんが知らなかったことだ。昔とは違っている。もしも彼女が思いきって老人ホームに入ったなら、そこには年の近い気の合う友人もいて、口もきかない息子夫婦や孫と同居するよりずっと明るい展望が開けたかも知れない。だが昔気質の彼女には、家があり息子も孫もいるのに、そんなところにやられることは、とんでもない屈辱(それこそ姥捨て山と同じ)であり、受け入れがたかったのだろう。
 因果は応報だ。親にそんなことをした息子夫婦が子供達に大事にされることはあるまい。
 近いうち、彼らには会わないようにして、お墓に線香をあげてこよう。
04/2/13


信号無視で捕まる

 現在午後10時。まだUPしていない。アクシデントがあった。
 UPしようとした午後二時、階下の父から声を掛けられ銀行に行ったりホームセンターに行ったり、雑用が続いた。
 それから建前を見かけ、妻を連れて行って見学した。いや参加した。楽しかった。
 午後五時。母からぼくと親しい屋台焼き鳥屋のおじさんのところに行って欲しいと言われる。これはまあこちらとしても願ったり叶ったりだ。母の出費でうまい焼き鳥をみんなで食べられるのである。(我が家でいちばんの金持ちは大金持ち地主の婿取り娘である母になる)。そこまでは楽しい一日だった。

 この近辺でいちばんおいしい焼き鳥をわんさと買い、早くあたたかいうちに老父母に食べさせてあげたいとクルマを走らせていた。父母は年老いて歯が悪いから、ツクネやレバーをあたたかくてやわらかい内に食べたいのだ。妻も数少ない大好きな日本のごちそうになる。早く帰りたい。急いだけれどもちろんぼくはとばしたりはしない。前のクルマとも車間距離を取り、ゆったりと走っていた。
 こういうとき、今までここに書いてきたことがそれなり意味を持つ。ぼくのクルマは六年おちの軽である。とばせるはずもない。またぼくが、動物や下校時の子供を見ただけでスピードダウンすることも過去に書いている。
 
 昨日東京で会ったM先輩が作っているJ-Waveの番組を聴きつつ走っていた。先輩が原稿を発注してくれ、いましゃべっている女アナ(厳密にはタレントか)の原稿を来週はぼくが書くことになった。さて何を書こうかと思いつつハンドルを握っていたときだった。
 もうすぐ家まで1キロというあたりで、なんかピーピーというビンボクサイ音を聞いた気がした。バックミラーを覗く。50ccのバイクが映る。メガネをかけた細身の男が手を振っている。止まれという合図のようだ。警官のような格好をしている。なにか用らしい。どうしたのだろう。ぼくは前後左右を確認し、慎重に路肩にクルマを寄せた。彼が困っていて、ぼくがなにか彼のために役立つのだろうと思っていた。

 ところがやってきた彼が言うには、ぼくが信号無視をしたのだという。それを目撃したために数キロも追跡してきたと主張する。田舎のことだ。信号なんて数えるほどしかない。焼き鳥を買ったところからここに到るまで信号は二つか。クルマは至極普通に流れていて(あたりまえだ、ど田舎である)、ぼくもすなおに走ってきた。しかし彼の言うには、ある小さな感応信号の場所で、ぼくの前のクルマまでは青だったが、そこで赤になった。なのにぼくは前のクルマに続いて信号無視をしたのだという。まったく記憶にないが、感応信号であるから、ぼくが信号無視をしたとしても、赤になってからほんの1秒2秒を前のクルマに続いて無視したということだろう。そんなことで追いかけてきたの? いったいそれで、誰が誰に迷惑をかけたの? アナタは、それが給料をもらっているから必死にする仕事なの?
 それから1時間半の押し問答が続く。父母の楽しみにしていた焼き鳥は冷えて堅くなり、それどころかいつまで経っても帰ってこないので父母と妻にたいへんな心配を掛けることになった。

 続きは心が落ち着いてからまた書こう。

 そんなことがあり、家に帰ったのが午後七時過ぎだった。父母はあり合わせのもので食事を済ませており、せっかくの冷えた焼き鳥はなんの役にも立たなかった。
 ぼくは、朝からなにも食べていなかったので、くだんのことで腹立ちつつ、冷えた焼き鳥をあっためてビールを飲んだ。憤懣は未だに治まらないが、ふと気づけばもう午後九時になっていた。よって午後二時の予定がまだUPしていない。この分じゃ今夜の徹夜パソコンイジリもむりだ。やる気になれない。

 救いは、父母も異国人の妻も、その警官のやったことを理不尽である、くだらんと同意してくれたことだった。妻は「そんなものは認めない、金もない、払えないと突っ張ってくればいいのだ」と言うが、日本の場合ナンバーも控えられるし、そう行かないのである。かといって裁判で長期間闘うほどの根性もないし……。
 父も七十の頃、午後11時、詩吟の帰り、ひとっこひとりいない夜更けの真っ暗けの田舎の信号で、50ccバイクでひょいと信号無視したら、いったいどこに隠れていたのか(笑)田舎の警官があらわれ、罰金を取られたことがある。そのときも父は田舎の名士であるから、こんなことは無意味だとすこしばかり反論したら、よそから来た父を知らない警官らしく、「おじさん、文句あるなら今から署に行くか」とおどされたよし。憤慨していたことをつい昨日のことのように思い出す。
 父は実際信号無視をしたし、ぼくもまったく身に覚えはないのだが、ほんの1.2秒であれ赤信号を突っ切った可能性は高い。しかしそれでも思う。「警官のやるべきことって、そんなことじゃないだろう」と。

 ぼくのように警官の価値を認め、彼らの給料をアップせよ、よりよい人材の集まる職種にせよ、と主張し、自衛官の地位向上を願い続けてきたものがこういう目にあって、なにかというと彼らを加害者のように言いつのるオオエケンザブローとかクメ、チクシなんてのが優遇されている世の中だからよけいにとイヤになってくる。
 警官嫌いの基本は、東京のような大都会にいて、さんざんイヤな目にあって嫌いになるものである。ぼくは東京に三十年いたが一度もいやな目にあったことはない(厳密には国士舘空手部と殴り合いをやって血だらけになったときの渋谷南署の応対など不満もあるが)。警官に対する好意はそういう自分の体験から生まれている。それが変ることはないと思っていた。
 しかしこの茨城の田舎に関わるようになってからイヤなことが連続している。あまりにくだらない揚げ足取りのようなことが多すぎる。ゴールド免許が取り消しになったシートベルトもそうだ。街角にこっそり隠れてシートベルトをしていないヒトをこっそり探しているのだ。つまりは彼らは暇なのだろう。都会は犯罪が多発する。ちいさなことにかまっている暇はない。田舎ではやることがないからこういう住民のケアレスミスのようなことを重大事のように取り上げることになる。
 
 そんなわけで、きょうはこのまま寝ます。OS再インストールなんてやる気になれない。あまりに憤慨しているので寝られるかどうか(笑)。

 ひとつ学びました。大好きで愛しくてほおずりしたいぐらいかわいくてしょうがない買ってきたばかりの新品の160Gハードディスクですが、これぐらい腹が立っていると、さすがに触る気にはなれんのですね。パソコンどころじゃないです。
 一週間以内に払わねばならない9000円の罰金だそうです。遅れると督促状が来て600円の書留代が附加して9600円になるそうな。これ、120Gのハードディスクが買えます。それに匹敵するような悪いことをおれはしたのだろうか。それでも払わないと裁判沙汰になるそうで、実はそれをしようかと迷ったのですが、それはまた別項で。

 くだらん。ほんとにくだらん。ぼくは自分が悪いことをしたなら、いくらでも罰を受ける、進んで受ける。いつでも死刑にしてくれというぐらいの覚悟を持った正義感で生きている。つい先日も(これ、書こうと思ってまだ書いてなかったけど)田舎の公民館で学生服姿で堂々とタバコを吸っていた中学生のタバコを叩き落とし、ひと悶着あったところなのだ。なによりも腹が立ったのが、それを見ながらしらんふりをしている周囲の連中だった。そういうぼくからすると、まったくもう「なんでこうなるの?」って感じである。

 すこしばかり冷静になって言えば、こんなことで警官を嫌いになっちゃいかんのだろう。でも、こんな無意味なことをやって庶民の警官嫌いを増やしているのも警察の実情だ。
 詳しくはまた後日書くけど、今回ぼくが思ったのは、ここに書いてるようなことを現場でぼくももっと主張すべきではないかということだった。もしもまた明日同じようなことで捕まったなら(ぼくは信号無視なんてしたことがないからあり得ないことなんだけど)ぼくはきょうとはまったく違って雄弁であると思う。しかし普段警官にそんな形で捕まることになれていない身には、今回そういう手練手管を考える餘裕さえなかった。

 ともあれそんなわけで、パソコン改造は一日延びた。昨日が充実した一日だっただけに、きょうもそれが続くと、田舎に引きこもっているようなオッサンにとっては、連続するすばらしい日になったのだが、天国と地獄になってしまった。残念でならない。うまく気持ちを切り替えよう。充実の土曜日になりますように。寝ます。
04/3/1
しだれ梅に迷い鳩

 
しだれ梅に迷い鳩

 朝方、粉雪が舞った。昨夜のニュースで「観測以来79年、最も暖かい冬」と報じられた翌朝である。皮肉なものだ。震え上がるほどの寒さを感じるのは何日ぶりだろう。真冬日である。

 庭の梅の木に鳩がとまり、朝の餌を待っている。寒空の下、可憐ではあるが痛々しい気もする。
 つがいで来ていたのにいつしか一羽になった。トンビに襲われたらしい。母が近所で死体を見つけた。「トンビがタカを」と格下に扱われるトンビだが小鳥にとっては十分に獰猛だ。高空を旋回しつつ獲物を狙い一気に下降して捕まえるという。

 かたわれを失くしてしまった迷い鳩。そもそもがつがいで、いったいどういう経緯でそうなったのか。それが不思議でならない。誰がどこで飼っていたのか、どうして逃げ出したのか、口がきけるなら尋いてみたいものだ。
 人になつく性質は野鳥とはあきらかに異なっていて、私たちを見つけるとすぐにやってくる。手の届きそうな近くで妻から豆をもらっている。人間がこわくて近寄れない野鳥が、餌の不足する今、物欲しそうに遠くからみている。さすがに野鳥は、どんなに餌が欲しくても10メートル以内には近寄らない。野鳥の餌を買ってきてヴェランダに餌台をおいてやろうかなと思うのだが、それがよいことなのがどうか迷っていてまだ実践していない。

 妻はテレビでかわいい子鹿をみても「あれはうまいんだ」と言う野生の女なので(笑)鳩を捕まえて食う気ではないかと心配したが、さいわいにも以前食ったときにまずかったそうで、今のところその気配はない。よかったな、鳩。命拾いだ。その鳩料理がうまかったらあぶなかったんだぞ。「鳩を食う」ということに関して私がすこしだけ眉をひそめたのかもしれない。極力そういうことはしないようにしているのだが。妻はすぐに日本人は食わないのかと尋いてきた。フランス料理には鳩料理もあり鳩を食うことは悪いことではない。しかし一般に日本では鳩料理は普及していないと伝える。

 満開のしだれ梅を見て、妻がこのきれいな花はなんの花だと問う。梅だと応えると実がないではないかと不思議がる。妻にとって梅の木は空に向かってまっすぐに伸び、花を咲かせ実のなるものなのだ。観賞用に改良された品種なのだと説明する。云南の山奥は日本的な風雅とは無縁の地域なので、食を別格とすればこういう風流なものに飢えるのがいちばんの懸念だった。最近では私の趣向を知り妻もそのことを気にかけていたようだ。妻からするとホームセンター等で何千円もする草花や観葉植物を買ってきたりするのは愚の骨頂なのだが、亭主が、というか日本人というものがそういうことが好きなら、すこしは近寄らねばと思うらしい。
 それで妻は云南の近所に薔薇の花が咲いている家があることを思い出した。薔薇がたいそう高貴な花で私が大好きであることを知った。以前は一緒に本屋に行ってもすぐに退屈していたが、今は熱心にガーデニングの本を見たりしている。門に薔薇でアーチを掛ける写真を見て、家を建てたらぜひぜひこれをやってみたいと話したりしている。ささやかながら希望的なひとつ。

 ところで私は、母が好きなために庭中にあふれている「しだれなんとか」が好きではない。母にはそれこそが風流らしく数え切れないほどあっちもこっちもしだればっかりだ。しだれなんとかは、オケラになって帰る競馬場のうなだれた首筋を思い浮かべ、どうにも好きになれない。
 樹木はまっすぐに空に伸びるのがいい。すんなりした青竹こそが美しい。庭中母好みのしだれなんとかばかりなので家運もしだれているのではないかと本気で案じている。
04/3/9


田舎の選挙──行政改革の滲透度


 昨日、息抜きにヴェランダに出ると、父を手伝って庭の草むしりをしている妻に話しかけているおばさんが見えた。なんか会話しているようで笑い声が聞こえてくる。急いで降りてゆく。杞憂とは思うが、ぼくはぼくなりに妻を護ろうとしている。こちらが案じるようなひどいことに意外に強かったりする代わり、つまらんことで傷ついたりするからけっこう難しいのだ。
「まあ、そう、云南から来たの、たいへんねえ、おっほっほっほ」
 図々しいおばさん声が聞こえてきた。
 ぼくを見るとすぐに作り笑顔で話しかけてきた。手にビラを持っている。もうすぐある町議選に立候補する共産党の応援者だった。
 近辺の市町村で共産党町議、村議は絶滅状態にあり、唯一残っているのが私の住む町のひとりなのだという。それで彼女はかなり遠くの市からみんなで応援に来たのだった。
 妻と話していたので邪険にも出来ず、一応礼儀正しく接したのでおばさんはぼくを支持者と勘違いしたようだった。
「革新の火を消しちゃならないんですよ」
「ほら、あちらを回っている人は(とビラを持って道路を歩いている同志を指して)タナカ知事、長野県のあのタナカ知事のほうで活動しているかたなんですよ」と誇らしげに言う。タナカヤスオは芸能人的価値があるらしい。

 共産党もひとりぐらいはいたほうがいい。そうでないとこの辺の保守王国のバカ町では町議は海外視察などと称して税金で外国に買春旅行に出かける。むかし台湾に行くのは恒例だった。そういうことに反対するのは共産党員ぐらいだから、ひとりぐらいはいたほうがいい。共産党に関することばで印象的だったのは二十歳のころに読んだ五木寛之の比喩、「共産党は香辛料のようなもので、ないと物足りないが主食にはなりえない」である。名言であろう。あってもいい。それなりに大事だ。だが主食ではない。
 おばさん能弁で、ひとこと相づちを打つと十倍ぐらい言葉が返ってきて終らない。妻の無事を確認できたからそろそろ切り上げたいのだが。
 ぼくは東京からもどってきたばかりで住民票を移しておらず投票権がないのだと言った。あなたの力にはなれないのだと。あっても入れないけど。それであきらめるかと思ったら、「あ~ら、どうりであか抜けていらっしゃる」とますますのってきた。一切口を挟まず通り過ぎるのを待つ。なんとか一区切りついたようだ。
「え~と、それじゃね」と妻のほうに話しかける。「さよならは何でしたっけ、シェーシェー? あ、ツァイチェンね、ツァイチェン、はいはいツァイチェン、ばいばーい」
 妻にそう言っておばちゃんは手を振りながら去っていった。タイプで言うと、あの社民党のナカガワトモコ型だ。だいたいこの種の連中はいくつかの型に決まっている。
 その夜、ぼくの真似する「あ~ら、云南から来たのおっほっほ。それじゃあねえ、ツァイチェン」は妻にバカ受けした。

 と、これぐらいならまだ我慢できた。相づちを打ったぼくにも責任はあったし。
 告示日のきょう、家の前に宣伝カーが止まり、水戸のほうからやってきたらしい党員が長々と演説を始めた。どうやら昨日の情報でこの辺には支持者がいると勘違いしたらしい。
 父がその唯一の共産党町議の人柄を評価しているのはたしかだ。町議を単なる名誉職と考えなにもしない自民党系百姓町議と比べ、たとえば身寄りがなく日々の暮らしに窮しているひとり住まいの年寄りがいるとすると、その人に生活保護をと町議会に諮るようなことをするのが共産党町議のいいところだ。父は教員を退職後、長年行政相談員をやっていたのでその辺に詳しい。しかし真っ向から基本政策を振りかざしてくるとなると話は別になる。
「またあの戦前と同じ暗黒の戦争の時代が近寄っている。なんとしても平和憲法を護って、戦争を始めようとしている小泉政権を打倒しなければなりません。みなさんの平和を護るのは私たち日本共産党だけです。」
 部屋にこもり、普段はあり得ない大音響でベートーヴェンの交響曲第十番をかける。しかし交響曲は静寂の間があるから、その合間から演説が聞こえてきてなかなか自分の世界に没頭できない。米帝打倒の共産党が米国が押しつけたあのひどい憲法を懸命に護ろうとするってのもヘンな話だ。米帝の押しつけたあの屈辱的な憲法を廃棄して、真の平和憲法を作りましょうとでも言うならともかく。
 あまりにうるさく腹が立つので、いよいよこれは隙間のない音楽、ディープパープルでもヘッドフォンで聞かないとダメかと思ったとき、やっと去っていった。

 ぼくの家は前後に道路が走っている。むかしは県道でそれなりの交通量があったがパイパスが出来てからは静かな田舎道になった。そこに選挙カーが押しかける。田舎の選挙故、なんの中身もない、ひたすら「毎度お騒がせしております、ありがとうございます、××、××でございます」の連呼が投票日まで続くことになる。田舎であることの最大の長所、静寂が明日からなくなるのかと思うとうんざりしてくる。

(続き)──田舎選挙の実態──3/10記入
 この田舎の町議だが、「月に二度の議会に出席して月給20万円」ノヨウナものらしい。すこし情報は古いが大勢に代わりはあるまい。とにかくなにもしない名誉職である。もちろんここから市議会へ、県議会へ、ゆくゆくは国政へ、なんてのがいるはずもない。小金の出来た目立ちたがり百姓オヤジの名誉職だ。
 こういうのに立候補する連中を見ていると、世の中はよくできているものだと思う。たとえば子供のころから目立ち根性だけは強く、学級委員長や生徒会役員になりたいのだが、成績も悪く人気もなくてなれなかったようなのが、五十をすぎてこぞって出馬している。ぼくは小学校から高校まで学級委員をやったが、それは成績がいいから選ばれてしまっただけで、当時から先頭に立って人を引っ張るようなことは好きではなかった。高校の後半はもう辞退していた。いや高二の秋からはほとんど学校に行かなくなっていたので選ばれなくもなったが。
 その感覚は見事に今に通じている。三つ子の魂百まで、なのだ。しかしこれまた当時からぼくは「影の大物」のようなのには憧れていた。自分が生徒会長になろうとは思ったこともないが、生徒会長になりたいという不人気で無能なヤツをなんとか当選させられないかと案を練るようなことは好きだった。頼まれると参謀をやっていた。だから総理大臣になるよりも幹事長となってそれを操りたいとする小沢一郎の気持ちはよくわかるのである。そんなことはともかく。
 立候補した面々を見ていると、親しかった同級生はいないし、ぼくよりも上の人が多いけれど、人柄ぐらいは知っている。「目立ちたがり屋で学級委員になりたかったけどなれなかった人」は共通している。おもしろい。学級委員をやっていて人気のあった人は地元で農業をやっていてもみな出ていないこともまた共通している。

 さて、言いたいのは以下のことになる。
 この町議なるもの、当選したなら、「何もしないのに毎月20万円、年に240万円、4年の任期で約1千万円」の報酬を得る。それに対して選挙民はどう考えるか? 「何もしないのに4年で1千万ただもらいなんだから、じゃあ選挙で1千万使わせてやるべえ」となるのである。これがこの地域の選挙の形だ。
 昨日、近所の公民館に何十台ものクルマが止まっていた。この地域から出馬した候補の歓送会である。わかっているようでいてなにもわかっていないぼくは、近くの温泉に行くために同乗していた父に、地元から出た候補に対してみな応援姿勢をとっており、なかなかいいではないかと好意的な意見を言ってしまった。言下に父が否定する。なんでもあれは出馬した候補が自腹を切っての飲めや歌えの大宴会で、それだけで何十万かの出費、駆けつけてくれた人には手当としてひとり1万円を支払うのでそれでまた何十万の出費と、そういう集まりなのだとか。票を入れる気など毛頭ない連中も無料の飲み食いと金欲しさに駆けつけるらしい。出前の寿司や日本酒なども安物を置くとあれこれと皮肉を言われてたいへんなので上物をそろえるという。なんともはや。

 三十年ほど前、親戚のおじさんが出たことがあった。当時東京の大学生だったぼくは住民票が田舎にあったので、たまたま帰郷していたこともあり、父母のところに来たそのおじさんに一票入れましょうと約束した。すると5000円くれるという。潔癖だったぼくは辞退する。腐敗した自民党政治を憎んでいたころだ。票を入れるのに金をもらうなんてとんでもいなことである。侮辱だ。それではまるで買収ではないか。ぼくはおじさんを応援するから入れるのだ、お金が欲しいんじゃないと気色ばんだ。学生の仕送りが3万円の時代だから、今に換算すると2万円以上の価値はあったろう。
 おじさんはとまどっていた。田舎の選挙とはそういうものなのである。入れてくれそうな近所の人に5000円ずつ配って歩いている。それを東京から帰郷していた大学生の甥がけなげ(?)にも一票入れてくれるというのである。お金をあげるのは自然だった。お年玉と同じようなものだ。元々それは必要経費なのである。当選すれば給料で補填される。気色ばんで反発され困っていた。田舎の選挙とは、そういうお祭りである。母も、親戚のおじを当選させるために預かった何十万かの金を懐に実弾配りに近所に出撃していた。
 このおじも、いわゆる田舎のいい家の跡継ぎなのだが、あまり成績が良くなく、進学できなかった人だった。そういう人が五十をすぎると名誉が欲しくなる。分類するとこのおじもまた「なりたかったけど学級委員になれなかった人」になる。


 このおじさんも定番として歳費で「海外視察──台湾北投温泉買春ツアー」に行き、畳一畳分の大理石に虎が描かれているというものすごい悪趣味な土産を買ってきた(笑)。我が家への土産は茅台酒(まおたいしゅ)だった。とんでもなく臭く50度以上あったので父も飲まずに置いてあった。父は大の酒好きだったが日本酒がいちばんで好みは限られている。ながらくそれはほって置かれた。
 数年後、大学生になったぼくは帰郷したとき飲む酒がなかったのでこれにチャレンジした。父からもらった体質か、仲間内じゃ強いのがちょっとした自慢になっていた。若気の至り。
 鼻っ柱をへし折られた。臭くて強くて歯が立たない。あまりにすごいのでもしかしたら燃えるんじゃないかとマッチで火をつけたらほんとに青白い炎がたった。初めて燃える酒を見た。
 数年前までぼくはよく「今まで歯が立たなかった唯一の酒、茅台酒」という言いかたをしていた。事実飲めなかった酒はこれぐらいだ。ラム酒を始め苦手な酒はいくつかあるが飲めないわけではない。
 云南に行くようになってこの臭くて強い酒が日常となった。だって他にないんだから。中国の酒の主流はこれなんだから。《云南でじかめ日記──北京秦皇島日記》には、北京のカルフールで真露やGINに出会えた感激を書いている。あんな普通の酒を飲めただけでしあわせだった。
 昨年の秋、妻がぼくの土産に買ってきてくれた酒は52度。茅台酒を彷彿させる酒だった。寒い夜更けの仕事時、ちびりちびり飲む。少量で酔い、初めてこれはこれでいいなと思った。
 高級酒である茅台酒は飲まれないまま、そのご家の新築でどこかに行ってしまった。今はもったいないと思う。そう思うまで三十年以上かかった。



 戦後民主主義の普及と教育により百姓は実態以上に美化されてきた。いつでも被害者の醇朴な人々として描かれてきた。時代劇の中でもいつだって農民は被害者だ。悪徳百姓なんていたためしがない。しかし現実はそれほど純ではない。十分に図々しくしたたかである。それはそうでなくては生きてこられなかったのだから自然のことわりでもある。圧政への正義の反乱のように伝えられてきた百姓一揆だが、士農工商穢多非人という身分制度をかさにきた、穢多部落、非人溜を襲い、放火強姦する質の悪い憂さ晴らしがあったことも事実だ。そういう性癖の一端がこの現代選挙への姿勢にも顕える。百姓は自然と闘い、自然と沿って、辛抱強く生きてゆかねばならない。それは実利主義であるから、口先だけの理想論にだまされたりしないということでもある。地元利益誘導型の自民党政治家、そのことによって生まれる腐敗を作り上げたのは、実利を要求する農民でもあるのだ。

 ぼくはかなりの濫読なのだが、この「百姓はそれほど純ではない」という意見を読んだのはほんの数えるほどしかない。立派な書物には数多くあるのかもしれないが、雑誌レヴェルではまだまだ重度のタブーなのだろう。「土を耕す人、農作物を作る人、無学な人=心のきれいな醇朴な人」という定型図式に異を唱えるのは誹りを覚悟した勇気のいる行為であるらしい。無学だからこそ粗暴な動物みたいな人も多いのだが、それは言ってはならないのだろう。(←この辺もオープンファイルにするときは削除しよう。小心者だも~ん。)

 有権者7000人ほどに定員15人ほどだから500票もあれば当選する。なんといっても有利なのは親戚の多い候補者だ(笑)。いざとなるといちばん力になるのは血縁らしい。血縁とはいえただではない。金は配る。配って確実に計算できる票という意味だ。それがすくない人は現金を配って切り崩しに歩く。すると当然二重取りなんてのが出てくる。見事なほど4年で1千万稼ぐそれと同等の出費を強要されている。狐と狸の化かし合いという気もするし、それなりによく釣り合いがとれているもんだとも思う。出るのは苦笑とためいきだ。
 今回も公示前一ヶ月から、近所から出馬する候補者はもちろん、父の教え子だとか、母の趣味サークルの知り合いだとか、姉の同級生だとか、いろんな候補者が年寄り二人の票が欲しくてビール1ダースや菓子折をもってぞくぞくと訪ねてきていた。笑っちゃうよね、兄の中学の同級生だなんてのが何十年ぶりかで訪ねてきて、父に「先生、お久しぶりです」なんて挨拶している。まともな神経じゃ出来ないことだ。でも父は父でそれを喜んでいるからやはり選挙はお祭りである。せっかく来ても兄の住民票は千葉だから票にはならない。ぼくも届けられたビールをすこしばかりお相伴にあずかったからすでに汚れた体か。

 候補者もバカではない。こういう出費があまりにバカらしいとなったらどうなるか。そう、「談合」である。候補者が1人オーヴァーだとする。当落線上にいる候補者は、同じくあまり有力ではない候補者のところに行き、立候補をやめてくれと頼む。そうすれば無風選挙となる。これまたただではない。百や二百は包む。それでも千使って落ちるよりはずっといい。しかしあちらだって名誉と4年で1千万をあきらめるかどうかだから迷う。おれが三百出すからあんたがやめてくれないかとなったりする。
 これが進歩するとどうなるか? その百や二百を狙ってのフェイントの候補者が出てくる(笑)。まったくもう。

 そうしてしばらくは定員通りの無選挙なんてバランスをとっているのだが、やはりこれは田舎のお祭りであり、いつもいつも無風状態とは行かない。候補者から何十万円もの"実弾"をもらい、票切り崩しに行く男たちは、戦い気分で昂揚している。せっかくの4年に一度のお祭りなのだからやっぱりやりましょうなんて焚きつけるのも出てくる。
 今回は3人定員オーヴァーらしい。ということは「1千万円使って落選する人が3人出る」のである。これは必死だ。いきおい選挙運動にも力が入る。力は入っても元々政策なんてなにもない。よって宣伝カーからひたすら名前を連呼するだけのおそろしく無内容でうるさいだけの選挙運動になる。

 これが村長選、町長選となるとスケールアップする。5千万はかかるようだ。大地主の素封家だったが、三度の村長選に落ちて無一文になった家がある。一度落ちた屈辱が忘れられなかったのだろう。(未完)
04/4/6  三月から鯉のぼり

 近所で三月末に早々と鯉のぼりがあがった。跡継ぎ長男が生まれたのだろう。誇らしげに五月五日の端午の節句よりもだいぶ早めにひるがえった。四月でも早くて目立つぐらいだからこれはそうとうに気が早い。それだけ待ち望んだうれしいことなのだろう。親よりもじいちゃんが。
 田舎では今も嫡男長男主義が根強い。鯉のぼりも長男のときは大騒ぎするがその後は次第に小さくなって行く。次男である私はこの傾向が悔しいが、藤沢周平等の時代劇で知る武家の次男三男の悲惨さよりはだいぶましだからないものねだりはやめよう。今の時代に生まれたしあわせをかみしめるべきだ。私のそのへんのネジレも長男が型どおりに親の面倒を見ていれば生まれていない。

 ここのご主人は私より五歳ほど年上の「団塊の世代」である。団塊の世代が孫を持つ時代になってきたことになる。私の兄にももう孫がいるが、これは息子が「できちゃった結婚」をしたからだ。今の時代、日本のサラリーマンで五十五歳で孫がいる男は早いほうだろう。三十歳で結婚してできた子供が同じく三十歳で結婚して子供を作るとなると六十前後が普通か。この場合、それよりも早いだろうが嫁いだ娘の子は考えていない。あくまでも団塊の世代の跡取り息子の跡取り息子が、男の子をつくった場合の話である。兄の初孫も女だ。男だったら我が家の庭に鯉のぼりが泳ぐのか。

 ところでこの鯉のぼり、春の空に高く泳ぐと言うより、電信柱と電線の合間で、まるで汚れた川底で釣り糸が絡まって死んでいるようである。電線が街の景観を壊しているので早く外国のように土中埋め込みにすべきだという意見がある。経費がかかるので遅々として進まないが、こんな写真を撮るとたしかにそうすべきだと痛感する。ある意味この写真の醜さも貴重か。
4/7  桜から桃へ
 しかしまあそれにしてもだからこそ美しいのだとわかってはいても桜の命は短すぎる。早々と散り始めもう裸になってしまった木もある。
 隣の畑に桃の花が咲いた。遠景で見ると桜よりも桃色が強いのがわかる。桜色よりピンク度合いが強いのが桃色になる。そういやあ「桃色遊技」なんてコトバがあった。
 去年も同じような写真を載せた覚えがある。あれから一年か。早いものだ。こうして季節は巡る。
 桜は散ってしまい跡形もなくなるが、桃はここから結実してあの芳香を放つ美しい果実をたわわに実らす。そんなことから、子のいないヨシナガサユリやトアケユキヨよりも離婚しようとも5人も産んだホリチエミのほうがえらいのではないかと突飛なことを思いついたりする。
 4月6日の火曜、7日の水曜と春うららのすばらしい天気になった。月曜の冷たい風とはちがっている。町内の温泉に父を送るすがら、らいぶさん一家の遠出も日がずれていたら最高だったのにと語り合った。
4/16  報道の切り口──アサヒの害毒、父母への詫び──産經に代えたころ

 午後、父を近場の温泉に送ってゆくとき、「人質三人解放」に関する話をした。さいわいにも意見は完全に一致している。とてもまともな連中ではないし、親兄弟もまたまともではないと。
 父は産經新聞の社説やコラム(『産經抄』もビシっと書いてくれた)、さらには投書欄での意見も含めて、日本全国が自分たちと同じ意見であると思っていたようだ。それがまともな人の常識であったろう。
 申し訳ないがと水を差し、アサヒの社説、投書欄のことを話す。さすがに今回のことではアサヒの意見も調べた。というか出入りしているサイト等でたっぷりと知らされた。あきれてものが言えないほどだ。父も私からそれを聞きあきれていた。アサヒを取っている人から見たら今回の事件もまったく様相が違ってくる。私の身近な例でいうならアサヒ信者の姉一家では、今回の事件の解釈は全然違うだろう。小泉首相を冷たいと非難しているはずだと父に伝える。父にため息をつかせてしまった。でも我が家では産經に代えたお蔭で親子三人意見の一致を見ている。

 父と話しながら産經に代えたころを思い出した。我が家がアサヒから産經に代わってまだ十年ほどでしかない。高校生時代、「大学受験の英文解釈に天声人語の英訳がよくでる」を信じて、父に頼んでアサヒに変えてもらった。それまでの我が家は何十年も毎日新聞をとっていた。当時の毎日はなかなかいい新聞だった。今や「二流のアサヒ」に落ちぶれたが。
 そのころの私は「朝鮮人、中国人に会ったら土下座して詫びねばならない」と思って生きていた時代だから、アサヒ信奉はそれはそれでつじつまが合っていた。私が外国旅行に興味がなかったのは戦後民主主義教育を受けたせいで日本という国に自信がなかったからであろう。それこそあんな感覚で韓国や中国に行ったら贖罪の日々だった。
 やがて日々の勉強ですこしずつ目覚め自分の環境は整えた。アサヒなど反吐が出るほど嫌いになった。しかし自分が頼んで代えた田舎の新聞はそのままにしていたのだった。

 父母には新聞を代えるという発想がなかったようだ。もちろんアサヒを気に入っていたわけではない。自分たちの生きてきた時代を暗黒とされ、国のために散った命を無駄死にとされ、あの憲法を守れと言われ、ひたすらアジア諸国に詫びを繰り返す意見に、苦い思いで接していたのである。父母はアサヒの論調に全面的に反対しつつも、「今の世の新聞とはそういうものであり、自分たちはひたすら耐えねばならないのだ」と思っていたのだ。

 十数年前から田舎に帰るようになったとはいえ、元々が外国旅行に行くあいだのネコの面倒を見てもらうためだったし、日本にいるときも、ネコと一緒に二階にいて、父母とそういうことを話す機会もなかった。たまに話しても基本意見は一致していたからそこまで気が回らなかったのである。なにしろ新聞雑誌類を買いまくっていた時期だ。父母が何を読んでいるかと気にしたことすらなかった。思えば私がアサヒに代えたばかりに、長年父母に耐え難い屈辱を与え続けたことになる。心から申し訳ないと思っている。

 ある日父が寂しそうに言った「戦争に負けるとなにもかもがこうなる」は衝撃だった。アサヒが大キャンペーンを張っていた従軍慰安婦問題だったか。私はそれでやっとあのアサヒを父母に押しつけたままであることに気づいたのである。あのようなヨシダサクジの作り話を根拠に(当のヨシダがウソ話だったと認めている)アサヒが作り上げた自虐の極みであるオオボラである。まさか父母がその痛みを被っているとは思わなかった。
 すぐに新聞を代える手続きをした。父母は戸惑っていた。新聞などみな同じだと思っていたからだ。私はそうではないことを力説し、讀賣でもよかったのだが、母が讀賣を下品な新聞と思いこんでいる五十年前の感覚を引きずっているようなので、あえて母が存在すら知らない産經にすることにした。田舎ゆえこれは父母がそれこそ半世紀以上つきあっている販売店を代えることになり多少の悶着もあったのだが、私は強引にそれを振り切った。

 そうして今の日々がある。
 アサヒのころ、毎朝父はアサヒを隅々まで読んだあと、深いため息をついていた。中にはつらくて読み飛ばした記事もあったろう。そりゃそうだ、おまえらは最低だ、おまえらがこの最低の国の日本を作った、謝れ謝れ、アジアの国々に謝れ、と毎日言われていたのだ。自虐に酔う連中ならともかくまともな日本人なら耐え切れるものではない。それでも父は業苦に身をさらすように毎日隅々まで読んでいた。
 母は同時にとっている地元情報の茨城新聞しか読まず、そこで知人の生死や地域の話題を楽しむだけだった。不快になるものから逃げていた。新聞とはそういうものだと思っていた。

 今、父はもちろん母も産經を一面から読む。母は月一の石原慎太郎の連載や、社説、『産經抄』に気に入ったものがあると切り抜いてアルバムに貼っている。母から「きょうの産經の社説だけど」と、新聞の政治欄を話題に話しかけられるとは思ってもいなかった。なにしろテレビで知った事件に関し、翌日、自分たちの言いたいことを言い切ってくれる新聞があるのだ。それまで避けていたものが待ち遠しいものになった。読むことが快感だ。この差は限りなく大きい。日々の生活に光が射してきたことだろう。
 私の不手際でずいぶんと不愉快な時間を押しつけてしまったと悔やまれてならない。それでも二人が長寿ゆえ、なんとか間に合ったという安心感がある。これが二人が居なくなったあと気づいたなら、アサヒを押しつけたのは私の無知なのだから一生悔いたことだろう。産經新聞の存在には、私自身はもとより父母のことで感謝している。
「サンケイ? ありゃウヨクの新聞だろ!」と言っていた時代があった。恥ずかしい。
4/22  田舎の図書館

 田舎の図書館をうまく利用するのはむずかしい。といってもこの場合はロビー(?)のことになる。あの新聞雑誌がおいてあるコーナーだ。巡回する三カ所のうち二カ所は館内禁煙になったが一カ所は、なんというのだったか、あの換気扇が煙を吸い込む形の機械が置いてある。なにもそんなところに金をかけなくても、と思う。先日その近くにいて経験したが、せまい場所ではあの効果はない。なによりねじり消した吸い殻からいや臭いが漂ってくるし、機械はそこにたたずんだ人がスイッチを入れる形式だが、その使いかたを知らず入れないで喫い始める人もいる。喫煙所は館外にすべきだろう。

 ぼくが行くのは午後四時ぐらいが多い。行くたびに失敗したと思うのは高校生がいることだ。タイプは二種類。
 ひとつはいかにも太めのもてなさそうな女が三人ぐらいでコソコソやっているものだ。何冊か置いてあるファッション雑誌を一緒に覗きながらひそひそ話をやっている。内容はわからないものの(わかりたくもないが)やたらコソコソ、クスクスが聞こえてきて落ち着けない。耳障りだ。それでもまあこれはまだいいほうで、中には昼休みの教室のようにギャハハワハハをやるのもいる。これは嫌われようとも注意すべきなのだが、正規の読書室でもないし、こちらもスポーツ紙で競馬と格闘技を読んでいる程度だから、ついてないなと判断して出てきてしまう。我慢して読むことも出来ないし、嫌われ者の注意役になる気もなく、ひじょうに半端でむずかしい。一応クルマで10キロも走って出かけているのだから未練はあるのだけれど。
 もうひとつのパターンは恋人同士。田舎ではまだまだ高校生同士で入れる喫茶店がないのか、禁止されているのか、金がないのかしらないが、らぶらぶの(笑)二人がやってくるのである。デートコースとして。全身から掃除機で智性を吸い取ったようなバカ顔の男と自分をかわいいと勘違いしているブス女のカップル。これが町営図書館の閲覧コーナーで手を握りあい、目と目を見つめ合っている。ロミオとジュリエット気分。田子作とおよねさんなのだが。堪忍してもらいたい。かといってニラみつけたりすると勘違い女にあのオヤジ、あたしの脚を見ていたなんて誤解されるし──薄汚れたミニの制服から虫に食われたあとのあるぶっといダイコン脚が出ている──なにより醜い物には近寄らない主義だから、これまた早々に退散するしかない。といういことでせっかく行った図書館も玄関でUターンがしばしばある。

 もうすこし早めならどうだろうと昨日は午後二時に行ってみた。この時間ならまだ高校生は来ていない。
 すると、なんだかもう人生終った行き場のないオヤジの墓場みたいなっていた。これもなあ、困る。ほとんどもう黄泉の国だ。
 ともかくせっかく来たのだから必要と思うものだけさっさと目を通して帰ろうと踏み込んだのだが、隣にいる溺死体のカバみたいなオヤジの「ニチャックチャッ」「クッチョ、ペチョ」って音が気になってならない。ガムを噛んでいるのか飴を嘗めているのか入れ歯をいじくっているのか知らないが、とにかく絶えず口を動かしていて、そこからのその粘着音が聞こえてくるのである。やはり我慢できず5分もいられずに退散してしまった。こういう場で気持ちよく過ごすというのはむずかしいものだ。

 しかし考えてみると、元々そういう不満を感じるタイプで、だから無駄とは思いつつもスポーツ紙も雑誌もなんでも自分で買うようになったのだった。この年になって一切そういうことをやめて公共の場を利用しようと方針転換したのだが、長年の習性はなかなか直らない。いよいよこうなると朝の開館直前とかを狙うようになるのか。なんだかその時間は時間で別の鵺が住んでいるような予感もする。
 『Yomiuri Weekly』に安心する──ひさしぶりの週刊アサヒ 

 午後、父が腰が痛いというので医者に行く。いつものかかりつけの医者は心臓系なので系列の整形外科に行った。
 田舎に帰ってきてから、名所旧跡、護国神社等父とクルマで出かけられる範囲の様々な場所に出かけたが圧倒的に回数が多いのは医者になる。それを私は父への孝行ととらえていた。そうとばかりも言えないと気づく。きょう行った医院(クリニックと名乗っていた)は見事に建物がバリアフリーになっていて感激した。医者もまた待合室まで出てきて患者一人一人に話しかける等、今まで出会ったことのないタイプだった。今から書く『Yomiuri Weekly』もおいてある医院に行かなければいまだに読んでいなかったように思う。たいして売れていないのだろうし、それなりに水準の高い内容だから、エロ雑誌とクルマ雑誌しかない田舎のコンビニでは見たことがない。東京に出た際に手にしただろうが、ここまでこまめに読むことはなかった。
 それらのことを考えると、父との医者行も、単なるこちらからの孝行ではなく、こちらにも勉強になっているのだと気づく。病院とは無縁なので雰囲気も有り様も何も知らない。それらしきことを書く場面が必要となったら出かけて調べねばならなかった。この十数年の父とのつきあいから、地方都市のおおきな病院、田舎町のよい医院、ろくでもない医院に関しては、すらすらと状況描写出来そうだ。何事も無駄になることはないのだなと感心する。

 毎週、手にする週刊誌は『週刊新潮』『週刊文春』『週刊ポスト』『週刊現代』がほとんどである。あとは贈られてくるアサ芸、内容によっては『週刊大衆』『週刊実話』の立ち読みか。『週刊現代』に腹を立て『週刊新潮』で溜飲を下げ、『週刊文春』の変節を嘆く、のが毎週の習慣になっている。マスな言いかたをするならそれは、左よりの現代に腹を立て右よりの新潮で納得する、という形になる。もちろん本人は自分を真ん中だと思っているから右よりなんて意識はない。

 きょう『Yomiuri Weekly』の「イラク人質解放」に関する記事を読み、しみじみいい週刊誌だなと思った。新潮は国民みんなが感じている不満をここぞとばかりに特集して売り切れた。週遅れの現代はそれに反発するサヨクに読んでもらおうと計算高い擁護記事を書いた。そこにはよくもわるくも商売気がある。お互い自分たちの読者層を意識しての大上段の構えだ。そういう綱引き的なものをフツーと考えている自分がいた。
 ところが『Yomiuri Weekly』の記事は、きわめてまともなことを淡々と書いている。そのあっさりとした王道ぶりに私は感激した。それは逆に言うと「だから売れない」になるのだろう。衒いを願う人から見たらあまりにまともである。だが衒いや歌舞伎にうんざりしている私には甘くもなく酸っぱくもなく、何杯でも飲める緑茶のような心地いい読後感だった。間違って手にしたような週刊誌だが、なんだかいちばん好きな週刊誌になりそうである。買おうかな。グラビア誌ってのもほどよい。でも商売的には失敗なのか。がんばってもらいたい。

 いいお医者さんで、父の話をよく聞き、レントゲンを撮って、体のあちこちを丁寧に調べてくれた。その前に医者はまず私のところに来て、これまでの病歴等を尋いた。私は、以前ここにも書いたが、左半身の痛みでステロイドを服用していること等を詳しく話した。父は齢九十にして目も耳も問題ないし頭も切れる。今でも私より漢字を知っているほどだ。それでもそういう老人だから打てば響くとはいかない。質問に的確に答えるには多少もたつく。間がある。そういう年寄りにいらだつことなく丁寧に接する医者と看護婦の偉さをあらためて感じた。帰りがけに医者がユーモアがあっておもしろいお父さんだと笑っていたから、ずいぶんとまともな年寄り患者であるとは身びいきでなく思う。

 診察室に父を送り出したあとは待ち時間だから、『Yomiuri Weekly』を何冊か読んだりしていた。ThinkPadを持ってきていたが、私への問診もあり半端な時間になってしまったので、クルマで仕事はせず待合室で待った。それでもう何年も触ったことすらないシュウカンアサヒを手にした。表紙に解放されたタカトーのおおきな写真がある見るからに内容も想像できるイヤな一冊だったが、『Yomiuri Weekly』に気持ちよく接したお蔭で、餘裕を持って読むことが出来たのである。
 記事はばからしくて読めなかった。知ったのは、林真理子が対談をやっていること。こういうのを知ると商売だなと思う。林真理子は『週刊文春』で本音を書いているようにアサヒではない。だからアサヒにエッセイを書くことはないが、対談なら連載できるし、アサヒも懐のうちに入れておくって事か。たいへんだな、生きるってことは。
 私がよくわからないことに新潮になかにし礼が連載エッセイをもっているってことがある。これはまた別に書こう。
 ウチダテマキコが連載エッセイをやっているとも知った。それに対する読者欄の投稿があった。それは「毎場所後にはウチダテさんの相撲評が載り楽しみにしています。朝青龍の、ついつい間違って左手を使ってしまうのならともかく、堂々と左手で懸賞を取るあの仕草は許せません」という内容だった。先週またウチダテが朝青龍を責めたらしい。相撲を知らない人のために念のために書いておくと、相撲の賞金は右手で、右・左・右と切って受け取るのが作法だ。それを左利きの朝青龍は左手でやっていて、それをウチダテがけしからんと主張しているのである。しかし今までにも逆鉾等何人かがいた。誰も責めなかった。朝青龍は横綱だから責められているのだが、これは朝青龍の反論にあるように、だったらなぜもっと早く言わなかったのか、今まで言わずにいきなり最近になって言うのはおかしい、が正論になる。
 これは相撲の項でまた別に書こうと思うが、外国人横綱の朝青龍を責めているのがアサヒなので笑ってしまった。もしも朝青龍が朝鮮人や中国人だったら、アサヒは全力を挙げて相撲の慣習を破り左手で賞金を受け取る朝青龍を擁護したろう。それを非難する日本人をかつて植民地時代にいかにひどいことをしたかなんてことまで言い出してボロクソに貶したろう。モンゴル人はアサヒに庇ってもらえないようだ。商売にならないものな(笑)。
 ATM今昔

 コンビニからプロバイダ等いくつかの送金をする。便利なものだ。ネット上から支払い表をコピーして印刷し、それをもって行けばバーコードを読んでピッで済む。
 十数年前、田舎に猫と一緒にもどってきたころは銀行で金をおろすだけで一仕事だった。田舎町には都市銀行がない。私の使っている富士銀行は水戸市にしかなかったので、そのたびに40キロ離れている水戸まで出かけた。数年後、農協が都市銀行と提携しておろせるようになったので助かった。農協は自分たちの世界が都市銀行に侵されるとは思っていなかったからだろう。いわば自信である。

 お粗末だったのは地方銀行だ。都市銀行と互いに提携し相互に引き落としが出来るようになったと言っているのにおろすことが出来ないのだ。私の地元だと常陽銀行になる。あれは自分たちよりも大きい都市銀行を許容したら客がみなそっちに行くという恐怖感だったのか。ATMに提携している、おろせますとシールが貼ってあるのに、長年地方銀行のATMでは都市銀行の引き落としが出来なかった。やろうとすると「現在このサーヴィスは停止しています」と出る。ひどい時代だった。コンビニでおろせる今が夢のようである。

 思えば二十代後半の気が狂ったように競馬をやっていたころ、銀行は土日が休みで、しかも日曜はATMも停止した。不便だったがいま思えばしあわせだった。日曜に競馬場で負けてもそこであきらめねばならなかったからだ。やがて日曜でも引き落とせるようになる。競馬場で負ける。オケラになる。銀行にあるのは月曜に必要な金だ。使ってはならない。でもそれは次のレースで当たるから問題はなかろう。何倍にもなるのだ。熱くなっている頭は都合のいいリクツをも考え出す。東京競馬場から府中の街まで足早に歩いておろしに行った。最終レースが終ったとき、なんてことをしてしまったのだろうとへたりこむ。ほんとになあ、よく今まで死なずに生きてきたもんだ。

 今じゃ競馬場の中にATMがある。先日初めて行った。長蛇の列だった。いつの時代でも同じ考えのオロカモノはいるのだろう。メインレースが終ったあとだったが、とても順番を待っていたら最終レースには間に合わないとわかったのであきらめがついた。欲望という名の温気が周囲を覆い尽くしているようで気味の悪い眺めだった。酔っぱらいが酔っぱらいを見ると酔いが醒めるように、並びながらも新聞を手に最終レースの検討ををしているんでいる人たちを見ていたら欲が醒めた。
 フランスの競馬場でATMを見たとき(というか私が利用したのはクレジットカードのATMか)、これが日本に出来たらやばいなあと思ったものだった。と言いつつ早速その競馬場で世話になったが。

 コンビニに金融を解禁したことは田舎暮らしをする人にとっておおきな意味を持つ。そういうふうに考えてみると、私が田舎暮らしを出来るのは、出来るほど田舎が便利になったからだと気づく。水戸の銀行までお金をおろしに行くような生活は、外国巡りの合間の休憩の時期だから出来た。今のように田舎暮らしをしているとき、そこまで不便だったら苛立っていられない。あのころはまだコンビニも普及していず、スポーツ紙を買うのにすら不自由していた。コンビニとインターネットがあるから田舎にいられるのだとあらためて感じる。

【附記】
 そのコンビニでお金を払うとき、けっこうドキドキした。スポーツ紙があるからだ。朝刊各紙は野球だったろうが(いくつかは『PRIDE』があったか)夕刊の『東スポ』の一面は間違いなく『PRIDE GP』だったろう。新聞の置いてあるコーナを見ないように私は店内をカニ歩きした。お金を払うときもそのコーナが目に入らないようにそっぽを向いて払った。すなわちそれは店員と体は向き合っているのに顔が横っちょを向いていることになる。ヘンな客だなあと思ったことだろう。
 と書いている今は月曜の真夜中。どうやら結果を知らずに火曜午後七時のテレビ放映を迎えられそうだ。楽しみである。
4/28  まるでコントのような──田舎の接骨医

 きょうは午前中に定期検診の神経外科、午後が接骨医と一日中父と一緒に医者を回っていた。
 午前中の神経外科は12時の予約診察なのだが、1時間ほど走り11時半に着いて待っていたら、実際の診察は午後1時40分だった。2時間待って診察は3分である。田舎の医者ではよくこんなことがある。誰が悪いかと言えば予約を平気で破る患者が多いからだ。よって医者のほうは重複して多めに予約を入れる。それがたまたま全員予約時間にやってくるとこうなる。こんなこともあろうかとクルマにたっぷりと本を積んであり、それらを待合室で読んでいたので退屈はしなかったがさすがに長いと感じた。父と一緒に診療室に入り医者の言葉を聞かねばならないので私も待合室に居なければならない。クルマの中でThinkPad作業をしているなら何時間でもまったく苦にならないのだが……。

 帰ってきて4時。軽食を取ってすぐに接骨医へ向かう。父の腰痛は整形外科で注射を打っても治まらず、接骨医へ行きたいと言い出したのだ。送り届け、私は近くの綜合型本屋であれこれ物色していた。
 1時間半後にもどるとちょうど診療が終るところ。これまた診察室に呼ばれて説明された。
 ジーサマの接骨医が医療本を開いて熱弁をふるう。あちこちに赤線が引いてある。まるで受験用の参考書だ。そこにはおおむね「レントゲンやMRIでは腰の痛みは見抜けない」ノヨウナコトが書いてある。カタカナの「プライマリー」が何度かあったがあれはどういう意味なのだろう。なにしろプライマリーと言えばパソコンのIDE接続での用語としてしか使用していない。いくつか意味は知っている。この場合は「根元の」であろうか。「レントゲンやMRIでは腰痛の根元的な解決にはならない」と言っているようだ。
 ジーサマ接骨医は80歳、隣でよくしゃべる髪をセキセインコのような色に染めた受付嬢兼看護婦のバーサマ女房も80歳。患者の父は90歳。父に聞くと、最初にまずこのジーサマ接骨医は「おれの言うことを聞くか。聞くなら治してやる」と言ったそうな。そういうタイプなのだろう(笑)。あまりにぞんざいに扱われるのでさすがに父もむっとしてかつての社会的地位をしゃべったとか。するところりと態度が変ったという。熱弁をふるうジーサマ接骨医と相づちを打つバーサマ看護婦の様子がおかしくて笑いをこらえるのが大変だった。要は彼らはCTスキャンだとかMRI全盛の時代に反発し、人と人がじかに接する整体こそが最上と主張したいらしいのだ。
 あまりに整体が万病に万能と言うので父は相談した。
「夜中に4回もトイレに起きて困っているのだが」
 ジーサマ接骨医は自信満々に言った。
「おれは6回起きる」
 回数の自慢じゃないだろうに。まるで志村けんと加藤茶のジーサマコントを見ているようだった。
「おれのところに通えば腰痛は治る。治してやる」
「先生、どれぐらい通えば?」
「まあ4ヶ月だな」
 4ヶ月毎日通うって、そんな……。
 とりあえず数回は通うことにしたが。

【附記】
 きょう(29日)何気なく本棚で見かけた「語源でわかるカタカナ英語」(集英社新書)という、買っただけでほとんど読んでいない一冊を手にしてパラパラとめくったらいきなり「プライマリー」と飛び込んできた。「医療では初期治療、第一次診療をプライマリーケアと言う」と書いてある。となると上記のものも根元ではなく、「腰痛の初期治療にレントゲンやMRIを使うのは無意味である」の意味だったのだろう。
 めったに開かない本を思いつきで開いたらいきなりこの言葉が出てきたのは、間違って書いたから直しなさいという神様の思し召しだったのだろう。どこの神様か知らないがともあれ助かった。感謝。

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