2003後半



03/6/4
トイレのマナー──サークルK




 昨年(02年)九月、北陸をドライヴ旅行した。
 能登半島にあるコンビニのほとんどはサークルKだった。名古屋で断然強いコンビニである。それまでぼくはなぜか勘違いして北陸を大阪京都と関連づけていた。ことばのやわらかさ等は京都であろうが、商業的には名古屋の影響が強いと知る。販売される地域によって名前を変える『東スポ』も、金沢には『中スポ(中京スポーツ)』が届いていた。ぼくは長年「大スポ(大阪スポーツ)」だと思いこんでいたのである。
 ちょうどそのころ「セブンイレブンがついに愛知県に進出」というニュースが流れていた。そこいらじゅうセブンイレブンの中で暮らしてきたので(それこそ日本はもちろんバンコクやチェンマイや台湾でも)コンビニ=セブンイレブンだったから、セブンイレブンはとうのむかしに全国制覇していると思いこんでいた。そうではなかった。愛知は地元企業サークルKの牙城だった。セブンイレブンの進出を許さなかったのだ。

 2000年2月に名古屋のサトシのところで世話になったとき、ごく普通の世間話としてこの辺のコンビニはなにが多いのかと尋ねた。サトシはサークルKと応えた。まったく聞いたことのない名前だったので、ぼくはそれを半分冗談ぐらいに解釈していた。超マイナーな地元企業だと思った。そうではなかった。名古屋文化圏はそこいらじゅうサークルKだらけだった。なかなか獨自の文化でよろしい。日本中なにもかも同じになったらつまらない。さて本題。

 能登半島のサークルKでスポーツ紙を買い、トイレを借りた。(あ、脱線するがこの「トイレを借りる」ってのはよく日本人英語の冗談で紹介される。直訳して相手にトイレを貸してくれと言ってしまうのだ。すると相手が苦笑いしつつ、「貸すわけには行かないがどうぞ自由に使ってくれ」と応えるってやつ。有名ですね。)
 するとそのトイレの中に

いつもきれいに使っていただきありがとうございます

と書いてあったのだ。手書きではなかった。プラスチックのボードだ。初めて見たので新鮮だった。これはじょうずな方法である。なるほどな、こんな方法もあるのかと感心した。

 セブンイレブンに代表される関東のコンビニのトイレはみな「トイレは清潔に使用しましょう」のような呼びかけか、「あとのお客様のためにきれいに使用してください」のような命令調だった。なのにこれは、客がトイレを使う前にまず礼を言ってしまうのである。これはうまい。こう言われたら誰もがきれいに使用しようとする。もしも汚した人がいたなら、これを読んできちんと掃除するだろう。逆にまた「きれいに使用してください」との命令調に反発して、わざとこぼそうとしていたヤツも、これを読んだらそれは出来ないだろう。「北風と太陽」の太陽作戦である。
 関東では見かけなかったから、間違いなく西から始まった流れである。それが名古屋のサークルKからなのか、ほんとは違うコンビニからなのかは知らない。ともかくぼくは北陸のサークルKで知り、うまい方法だと感心したのだった。

 よいものは伝播するのが早い。最近ぼくの住む田舎のコンビニ(セブンイレブンやホットスパー)でも、この「いつもきれいに使用していただきありがとうございます」がぐんぐん増えてきた。まだ手書きである。とすると、セブンイレブンの店員指導係のような人がこれを知り、効果大と認めて、チェーン店員教育として奨めているのだろう。
 なにも知らずこちらで見かけても、「おっ、うまい方法だな」と思ったろうが、すでに西で見ていたから、よけいにそれを感じる。こんなとき、旅行をして良かったなと感じる。いいものが流行るのはいいことである。
03/7/19

夏限定の渋滞


 午前十時に父を医者に送ってゆく。梅雨曇り。しとしと雨が降っている。
 いつもわたる橋にガードマンが立って交通整理をしている。工事中なのかと思う。そうではない。なのに、こちらからの橋の入り口にひとり、すれ違えるようにふくらんでいる橋の真ん中にひとり、さらには出口にひとりと異常事態だ。事故があったのでもない。ぽつりぽつりとしかクルマは来ない。なにを大事(おおごと)に三人もで交通整理をしているのだ。父も不思議がる。懸命に考えた。それできょうが土曜と気づく。

 本来の夏ならきょうは、埼玉、群馬、栃木等の海のない県からやってきた若者の海へ向かうクルマで、この橋の前後が延々と渋滞する日なのである。地理的にはこの橋を渡ると近道が出来る。地図を見てそう考えるのか他県ナンバーのクルマが異常に集中する。実は迂回したほうがずっと快適で早いのだがそれは地元のぼくであるからわかること。細い橋だ。すれ違える場所は橋の真ん中にしかない。それを知らないよその連中がいつもの感覚で橋につっこんでゆくから、あちらからやってきたクルマと真ん中でバッティングし、身動きできなくなる。互いにバックしようにも後ろはつかえている。動けないのに益々クルマは殺到してくる。よほどひどいことになるのだろう、何年か前、この橋から2キロ離れている十字路まで延々とクルマが続いているのを見たことがある。普段そんなことのあり得ない田舎なので、初めて見たときは何事かとおどろいた。それでこの時期の土日は交通整理のアルバイトを置くようになったようだ。いつも思うのだが、このバイトに金を払うのはどこなのだろう。町か、県か?

 いつも田舎にいると毎夏の恒例としてもっと早く気づいたろう。ぼくの場合、田舎に帰ってきて十二年ぐらいだが、その内十年は夏はチェンマイだったから、ほとんどこの渋滞のことを知らなかった。数年前に見たのが初体験になる。

 今年は冷夏である。ましてきょうは雨の日だ。誰もやってこない。走るクルマは疎らである。いなくても差し支えないのに、やつらも給料をもらう以上は仕事をしようと思うのか、これみよがしに指示棒をふりまわしたりしてかえってわずらわしい。異常気象であることをあらためて感じた。照り返しのきつい猛暑地獄の二階屋に住むぼくとしては助かっているのだが。

 この橋が出来たのはぼくが中学生の時だった。あちらとこちらがつながり、両村民には積年の夢が叶った。渡り初めをしたのは当時村長をしていた伯父一家だった。代々早婚の一家は、六十の伯父夫婦、四十の息子夫婦、結婚したばかりの二十歳の孫夫婦(嫁は十八歳)と三代で渡り初めをし得意満面だった。やがてその孫が二十代で早世し一族の栄光に影が射す。それはまた別の話として。

 今じゃ狭くてすれ違いも出来ない旧式の細い橋だが、出来た当初は文字通りの夢の架け橋だった。船でしか行けかなった向こうの地域に一気に行けるようになり、世界が狭くなったと感じたものだ。そういえば、真ん中のすれ違い用のぷくっとふくらんでいる箇所は、どうにも必要となって後から作ったのだった。出来た当時、こんなクルマ社会になるなんて誰も思っていなかった。いま隣で、何年後かに完成予定の新しい橋の工事が始まっている。

 梅雨が明け、真夏日になったら、あの橋の前後には延々とクルマの列が並ぶことになる。田舎の、年に数度の渋滞だ。
 土曜は父の行きつけの医院が意外に空いていてねらい目ということになっている。この時期の土曜は避けようと父に進言しておかないと。
03/7/26
理想の生活時間帯
(03/7/26)


 昨夜はWindows2000 ServicePack4のダウンロードのために明け方まで起きていた。つい先日、7月に発表になったものだ。
 以前読んだその種の記事に、99年にWindows2000が発売になった数ヶ月後には25000の不具合! が確認された、とあった。25000……。
 すぐにServicePack1が発表になる。ぼくはまだダウンロードになれてなく(いや、100メガ以上あったからそれ以前に無理だったか)パソコン雑誌「Windows2000」の附録CDでインストールした。
 一年後ServicePack2が出る。これも附録CDで入れた。毎月パソコン本を20冊は買っていた時期だった。それでも世は98の時代だからWindows2000のServicePackを丸々収録したCDが附録であるものはかなり限られていた。

 02年8月に出たServicePack3で初めてダウンロードした。一晩中かかった。それでもいくつものパソコンに入れねばならないので結局はこれも附録のついている本を買った。なにより再インストールをたびたびするからこのCDは必需品になる。ありがたいことに──あたりまえか──ServicePack2は1を、3は1と2を含んでいるので、最新のもの一枚で済む。今ぼくのもっているCDメディアはこれになる。このころになるともうマイナーOSのWin2kのCDをパソコン雑誌の附録で手に入れるのは難しく、かなり苦労した。2000円ぐらいのムック本をそのためだけに買ったのだったか。

 そうして03年7月ServicePack4が発表された。なんでも昨年8月に3が発表になってすぐに作り始めたというから、それほど完全なOS作りはむずかしいのだろう。XPも早くもServicePack1が出ているようだし。Win2kは、99年に発売になってから、毎年ServicePackという名の修正プログラムが発表されていることになる。果たして来年ServicePack5は発表されるのか。

 今回の場合は、なんというのかわすれたが「必要なものを感じたら随時マイクロソフトのサイトからアップデートする常駐プログラム」というのを入れていたので、月に二回ぐらいずつそれがあり、ちょいちょいアップしていた。これを常駐させておくとメモリを食い遅くなるから常駐を切ったほうがいいと雑誌にはあるが、まあその程度で遅くなるほど非力なパソコンではないので(ちょっと自慢げ)入れっぱなしにしておいた。そのお蔭で、本来のServicePack4は150メガぐらいあるのだが、ぼくの場合の必須ダウンロードは32メガほどだった。たすかる。
 とはいえアナログモデムであるからダウンロード完了まで170分と出ていた。実際それだけかかったのかもっと早かったのか遅かったのか記憶にない。とにかく昨夜は以前なら起床時間である午前四時まで寝ずに起きていた。目はしょぼしょぼである。

 しかしこれ、好きでやっていることだからいいのだけど、「ぼくにServicePackの必要性はあったのか!?」と考えると首をかしげる。出るやいなや次々とすぐにアップしてきたので、ただの一度も不具合を経験していないのだ。「××を使ったとき××になってしまう不具合を修正」というのがServicePackという名の修正プログラム配布の理由だ。対象者は世界中のユーザー、対象ソフトウェアもまた世界中のものだ。限られたソフトウェアを使っている限り、不具合未体験なユーザーも多いだろう。もしもぼくが今も最初のWindows2000を使っていたら、なんらかの問題でフリーズしてしまうような不具合は起きていたのだろうか。転ばぬ先の杖は安全だが物足りない気もする。とはいえServicePack5が発表になったら真っ先にダウンロードする。それはそういう性格故だが98であまりに痛い目にあった傷も大きい。考えてみれば「転ばぬ先の杖も物足りない」とはなんとも贅沢な言い草だ。かつての悩みを思えば罰が当たる。

 で、言いたいのはこのことになる。午前四時半ぐらいに寝て午前十時半に起きた。そうして飯も食わずちょこちょことパソコンをいじっていたら、今もう午後二時なのである。この時間に起きる生活時間の時もあったのだが(そのうちまたなる可能性もある)ひさしぶりにこれをやってみると、時間がもったいない感じがしてたまらない。いつもなら同じようなことが終ってもまだ午前九時ぐらいで、さてこれから午前中になにをやっておこうかと思うぐらいの餘裕があったのである。

 ここのところ夕方からの手料理作り(照笑)と晩酌、そのあとテレビを見たり本を読んだりしてくつろぎ、寝る、という「夕方から夜までの生活習慣」が根付いている。これは変えられないし買える木もない(花木園に行ってんじゃないって。笑える変換)変える気もない。すると、今から朝昼飯を抜いても午後五時まで出来ることはほんのすこしなのである。それでいて朝昼抜いて夜だけ食うと量も増えるし不健康な太りにつながるからよくない。悪いことばかりだ。どっちかは食べないと。

 さらには晩酌をしてくつろいだ後に、またパソコンの電源を入れて仕事をするのがけっこうわずらわしいのである。以前はいわゆる食休みをしてから明け方までこのパターンで仕事をしていたのだが早朝型を経験したらもうだめである。めんどくさくなってしまった。

 晩酌の後、午後九時ぐらいにもう、ほろ酔いのまま寝てしまうのがいい。そうして午前二時か三時に起きる。すぐに仕事。五時半ぐらいに朝風呂。風呂上がりに新しいファイルをちょいとアップして、ネットで新聞を閲覧して回り、八時過ぎまで仕事。朝のワイドショーを見つつパンとミルクの朝食。午後まで一気に仕事をする。午後二時から日テレのワイドショーでお茶の時間。午後五時まで仕事。五時からスーパーに買い物に行ったりして肴作り。午後七時から九時までゆっくりと晩酌。そのまま寝る。午前二時起床。

 とこれが今の理想になる。ワイドショーが午前と午後二つもあってバカみたいだが、一応生活習慣の中でスイッチを入れるということである。見ていない。べつに熱心に毎日見ていたとしても恥ずかしくはないからそのときはそのときで正直に書く。しかしまず見ることはない。ニュースそのものも暗くていやなものばかりだがコメンテイタのくだらなさにもついてゆけない。比較的いいものは日テレのズームイン朝の中の政治的コーナーか。テレ朝なんぞは死んでも見ない。
 なんとかこの超早朝型パターンにもどさないと困る。どうしよう。どんな荒療治でもする気なのだが。きょうなんか起きてからこの『作業記録』をつけただけでなにひとつやっていないのに早くも午後三時になり肴作りの時間が迫ってきている。これは困った。
03/7/29
深夜営業本屋の魅力
(03/7/29)

 昨夜も九時過ぎに近所(?)にあたらしく開店した統合型本屋に出かけた。
 この種の店が便利なのはレンタルヴィデオの関係から閉店時間が遅いことである。24時間営業のコンビニはこの田舎にもいくつもあるが、そこにある本はマンガとエロ雑誌、クルマ雑誌だけである。信じがたいことだが『週刊文春』『週刊新潮』さえない店が多いのだ。そりゃ売れないから置かないのであって店の責任ではない。そういう地域なのである。

 何年か前、かなり前だな東京にいた頃だから、『正論』の投書欄にぼくの生まれ育った村の若者(三十前後)がしっかりした内容の投書を寄せているのを見かけたときは、思わず感激して、帰郷したとき訪ねて行こうかと思ってしまったほどだった。なんの自慢にもならないが──いや書いてて恥ずかしいのだが──それほどぼくの田舎はレヴェルが低い。

 と書くとへそ曲がりから「思想的なことに興味を持たず漫画雑誌、クルマ雑誌だけを読んでいたらレヴェルが低いのか!?」と反論されそうなのでいわずもがなのフォローをしておくと、ぼくがいちばん嘆いているのは公共マナーのわるさになる。クルマからのタバコ、空き缶の投げ捨て、公共物破損、ゴミ収集日の無視とか、そういうのがほんとにひどい。そういうマナーが守られていてマンガとクルマばかりなら、それはそれでのどかな農村になる。
 そうじゃなく、悪いことは都会並みに早く伝播し、よいことはみるみる廃れ、そしてここが大事だが、都会的な「よいことへの再生能力がない」のである。これがぼくの住む田舎の最悪の面になる。日本有数のレヴェルが低い地域、としか言いようがない。

 このサイトのどこかで書いているはずだが、東北の豪雪地帯に行くとそのマナーの良さに感動する。厳しい風土の中だからこそ花の咲く春や夏を、自然の恵みを大切にするのだ。その感謝と慈しみの心が伝わってくる。ぼくの田舎ノヨウナ地域は、都会にまで発展し、廃れるだけ廃れてからやっと都会的な再生能力を身につけるのだろう。が、都会になることなどないのだから──なにかの間違いでなるとしても何百年後だ──ひたすら堕ち続けて行くだけである。住むなら都会の真ん真ん中か、もっとひなびた過疎の田舎、と決めつけ、ぼくが自分の田舎に拘泥しないのはそれが理由になる。

 そんなわけで田舎も、クルマとコンビニさえあれば都会的に24時間好き勝手に生きられるようになりつつあったが、ぼくにとって最も大切な趣味である雑誌の立ち読みに関してはまだまだ不満ばかりだった。それまでも零時まで開いている本の置いてあるレンタルヴィデオ店はあった。そこもまあコンビニと似たり寄ったりである。いくら雑誌好きでもジツワやタイシュー(アサ芸も)は読む気になれない。それが今回、やっとまともな本のある深夜営業の店に出会えたのだ。これはうれしい。うるさく流れるJ-Popsさえ無視できればかなりプラスポイントもある。

 昨夜、今までの近所の本屋にはなかった本を発見し小躍りしてしまった。音楽書である。CD附き楽器の手引き書だ。
 ちょうど出かける前、ギターを弾いていた。未だになじめない言いかただがアコギ(アコースティックギター)である。エレキに対抗した言いかただ。エレアコって言いかたにはすぐになじんだのに、どうもまだアコギには抵抗がある。阿漕に似ているからか(?)。

 東京から持ってきた本にかなりの数のギター奏法手引き書があった。その中のいくつかは当時としては最新の「カセットテープ附き」だった。テープもさがせばあるんだろうけど、探すのも面倒だしとりあえず本のみで練習する。最初、「ジョー・パス ギタースタイル」というジャズギターの指南書で4ビートのコード練習をし、その後「ジャズ・ソロギター入門」というので「枯葉」をフィンガーピッキングで弾く。なんとなく物足りない思いで、これは何十年も前に買ったのであろう「カルカッシギター教則本」を手にして、クラシックギターの基礎の練習をした。何十年も前に買った古い本でもいいのである。なぜなら、中に載っている練習曲は三百年前に作られたものだから(笑)。

 クラシックギターの練習曲をフォークギターで弾いていたら、チェンマイの「三軒茶屋」(という飲み屋)でYAMAHAのサイレントギター(ガットギター・タイプ)を弾いたときのことを思い出し、ガットギターが欲しくなる。手元に6本ギターはあるがガットギターはない。耳にヘッドフォンをつけ、深夜にリバーヴを効かせたサイレントギターを弾いている自分を想像してしばしうっとりする。クラシックギターはもういちど正式に習い直そうと思っているので、サイレントギターではなく普通のガットギターを買うべきだろうなと思い直す。でもやっぱりサイレントギターも欲しいから、普通のとはまた別に買いたいな、出来るならイッセイ尾形が数年前から始めたように、サイレントチェロで擦弦楽器にも挑みたいなと、懐具合は無視して取らぬ狸のようなことに思いふけった。

 そのことがあったからか、普段はめったに見ない音楽雑誌コーナーに目がとまった。田舎の本屋だから置いてあるものもろくでもないし(「月刊 歌謡曲」のようなものばかり)、また充実していたとしても、ぼくのほうに最近の流行りものに興味がないから、ほんとに疎くなった分野になっている。楽譜附きのギター雑誌でも、取り上げられている流行り歌をこちらが知らない(笑)。それでも昨夜は、なんということなしに見た。
 すると下段にシンコーミュージックのCD附き教則本シリーズリットーミュージックだった。訂正8/3)「アコギ入門」とか(もうアコギは本のタイトルにまで使われるようになっていた)、「ロックギターソロ入門」とか、「なんちゃってジャズギター入門」なんてのがズラっと並んでいたのである。手にして読む。さすがに入門者用は読む気にならなかったが、その他はかなりおもしろくて、「なんちゃってジャズ入門」なんてのもふざけたタイトルの割に内容はまともで、思わず十一時近くまで(照笑)しっかりと何冊も立ち読みしてきた。1冊1600円なので何冊かはそのうち買いたいと思う。1冊の本をしっかりマスターするタイプと違い、ぼくは多くの本をかじるほうなので、これらの1冊から1曲学べるだけでも価値がある。田舎の本屋に通う楽しみを見つけた瞬間だった。ひじょうにうれしい。恵まれた都会に住んでいる人にわからない喜びである。(いや都会に住んでいるころも、月に一度のお茶の水の楽器屋巡りは楽しみだった。)

 今のところ「Jazz Life」ノヨウナ雑誌も置いてあるが、これは新装開店による最初の品揃えだからだろう。何ヶ月かコンピュータで統計を取ったあと、売れない本は消えて行く。「Jazz Life」やシンコーミュージックのCD附き教則本類も、消えて行く運命にあると思われる。この地域に楽器を弾いているヤツはいるのだろうか。聞いたことがない。ギターを下げている若者を見たことがない。
 そう、これは田舎の新装開店型本屋の「一夏だけの輝き」なのだ。マイルス・デイビスの「枯葉」を聞きたくなる晩秋にはこれらの売れ筋ならぬ「不売れ筋」は店頭からなくなっているだろう。せいぜいそれまで楽しむことにしよう。
03/8/13
父との思い出
(03/8/13)


 午後、父と一緒に新盆の家を回る。
 父が私に声を掛けたのは、いかにも父らしい気遣いによる。封建的な田舎であるからいちばん偉いのは長男になる。子供の時からそうやって育てられる。長男もそういう意識で育つ。家業を継ぐ農家の長男はそれでいいが我が家のような場合はどうなるか。親と同居し、面倒を見る長男でいるためには、父の跡を継いで教員になるか役場に勤めるぐらいしかない。よって田舎の教員は世襲制のようになっている。

 我が家の長男はそれを嫌ってサラリーマンになった。長男にそれを許したのもまた父の偉さである。考えようによっては我が家の不幸はすべてそこから始まっていると言えるかもしれない。もしも父が周囲の教員連中と同じように長男にそれを強要していたなら、兄もそれに逆らって家を飛び出すほどの人でもないし、現在に至る状況はすべて変っていたろう。父は、自分たちの面倒など気にすることはない。それよりも兄の人生なのだから好きな職業に就けと無理強いはしなかった。ただし教職に誇りを持っていた父が内心それを望んでいたのも事実である。姉の娘が「じいちゃんの跡を継ぐ」と言って教員になったとき、どれほどよろこんだことか。

 兄は全国を転々としていたからいわゆる長男のつとめをまったく果たしていない。それでも人一倍長男意識は強い。それは長男らしいことをしていないという罪悪感によって益々増幅していったのかもしれない。北海道、東北をやり手の支店長として転々している頃(=サラリーマンとしての絶頂期)は文字通り盆と正月しか帰省できなかったから、その分それこそこういう自分の存在を他者にアピールできる機会は逃さなかった。親戚やら近隣の知人やらを父母と一緒に訪ね、正当な嫡男であることをアピールする。退職したら帰郷して家を継ぐことを主張する。

 一方普段の医者通いとか買い物とか、父母の日常的な面倒を見ている私は、こういう機会にはいわば日陰の女(笑)のように、ひっそりと身を隠していることになる。なにより家名を大事にする母などは、普段長男がいないことを劣等感としているから、こんなときはこれみよがしに兄と親戚を訪ね回ったりする。さすがにそれは私にとって愉快なことではないから、その時期は東京にいたりした。でもお盆の東京もつまらない。友人も帰郷していない。それじゃ物書きの勉強として外国にでも行ってみるかと、ずいぶんと遅い私の海外旅行は始まったのだった。

 そうしてその後のほとんどの盆と正月をチェンマイで過ごしていたのだが、今年のようにどこに行くこともなく日本にいる年がある。兄としてはいつものようぜひとも父を乗せて挨拶回りをしたかったことだろう。それは我が家の長男であり、家屋敷を継ぐ正当な存在であることを普段会うことのない近隣の人々に主張する絶好の機会なのだ。父もまた、退職した兄がもどってきてこの家を継ぎ、家名を引き継いで行くのが願いなのだから、自分の後継者として兄と回りたい気持ちも強かったろう。それでも毎年そうしてきて、私が家にいる今年もそうすることは、あまりに不憫であろうと気遣ってくれたのだ。この辺もいかにも父らしい。母は「なぜ長男と行かないのか。滅多にない機会だからこそ長男と行くべきだ」と思っていたろう。家名のほうが大事だ。私に気遣ったりはしない。もしかしたら階下でそんな父母の言い争いがあったかもしれない。ともあれ私は、父にそう言われ、一緒に近所の盆見舞いに出かけた。

 これは「旧弊の残る田舎の長男話」だから、首をひねる人も多いだろう。
 一軒目に訪ねたのは父の後輩にあたる校長だった。昨年暮れに亡くなっている。ここの次男は私と中学が同厩(馬か? 競馬物書きの残滓)同級、同クラスだった。すばらしい人柄だったがあまり成績はよくなく、私の行った田舎高校を落ちてしまい、夜間高校から大学に進んだ。二十歳の時に中学のクラス会があり、それ以来会っていない。ひさしぶりに旧交を温めた。今は東京の小平市に住んでいるとか。あれ? いま父の跡を継いで教員をしているのか? 聞き忘れた。御父君はほぼ十年のあいだ入退院を繰り返す状況だったから覚悟は出来ていたという。容態を聞き東京から駆けつけたが間に合わず、死に水はとれなかったそうだ。

 二軒目は今年正月に亡くなった父の友人。小学生時代からの幼なじみである。一歳年上だった。耳が遠い以外は父よりも元気で、天気のいい日には家の周りの生け垣を、脚立に乗って手入れしていた。父を乗せて走るとき、よく見かけた。先輩がそこまで元気なことは、父の励みにもなっていた。足腰が弱ってきた父は脚立に乗っての作業は出来ない。同じく、あんなに先輩が元気なんだから父さんもまだまだだねとしばしば口にして、私の励みにもなっていた。
 妻の来日のために奔走し、厳寒の北京で査証を取得して帰国する。来日した妻が四月に帰国した頃か、父を乗せて走っているとき、ふと私はこの頃その生け垣を手入れしているそのご老人を見ていないことに気づく。父に問う。私が北京で奮闘している頃、亡くなっていた。こちらは前記の入退院を繰り返していた友人と違い、前日まで元気に生け垣の手入れをしていて、翌朝、トイレから出てきて胸を押さえ、あっさりだったという。近所で父より高齢の男はこの人しかいなかったから、私には大きなショックだった。果たしてこの二つの死の形、遺族にはどちらがいいものか。

 三軒目は父の教え子。一昨年に私が主催した父の米寿の祝いに来てくれた人だ。そのときから具合は悪く、無理して駆けつけてくれたのだった。父の米寿の祝いの後すぐに入院し、そのまま病院で亡くなった。公の場に出たのは私の主催したその宴席が最後になったという。長生きして、教え子の死を悼むってのもどういう気持ちなのだろう。父の気持ちを忖度すると複雑な思いがする。
 どこに行っても長老であり大御所である父の扱いは特別だった。たしかに、亡くなったおじいさんのところに、その恩師が盆見舞いに来てくれるのだから特別な存在ではあろう。

 ところでこの地では新盆を「しんぼん」と言う。東京に出たとき「にいぼん」ではなくそう言って恥を掻いた記憶がある。これも一種の方言になるのか。
 きょう、十三日に佛様は家に帰ってきて、十五日にあの世にもどる。新盆見舞いは、十三日が友人、近隣の人、十四日が親戚縁者、になる。今年亡くなった従兄弟への見舞いは、明日我が家代表として兄が行く。大切なアピールの場だ。それもあって父はきょう、私に花を持たせてくれたのだろう。私としてもつまらない親戚縁者の集いに行くより、上記したように、中学の同級生にも会えたし、先輩のご老人はなじみのある人だったし、きょう行けてうれしかった。封建的な場であるから、その親戚縁者の場に假に私が出たなら、「なぜ長男が来ないのか、なにか不都合があったのか」とそういう質問ばかりが集中して、さすがに私も齢だから笑顔で丸く応対するだろうけれど、不快になったに決まっているのである。そんな地域だ。

 家にもどってきたとき、父が盆小遣いだと言って一万円を暮れた。ガソリン代にしろと言う。返しても受け取らないだろうからすなおにもらうことにした。
 そのまま町に出て、さてこの一万円で何を買おうかと思う。統合型本屋で音楽本を立ち読みしているとき、東京から持ってきたまままだ手入れをしていないギターのことを思い出した。町に一軒しかないしけた楽器屋に行き、フォークギター弦、エレキギター弦を数組、ギターポリッシュ、ピック数枚を買った。きれいに磨き上げ、あたらしく張り替えてやろう。ピックが売り場に置いてなく、レジの中に隠してあるのがおかしかった。万引き防止なのだろう。

 部屋にもどり、ギターを磨く。ひさしぶりに張り替えた弦はいい音を出した。
 いつの日か、夏の午後、ギターを手にしてきょうのことを思い出し、泣く日があるに違いない。そのとき私は、いまここに書いたようなことを、過ぎた思い出として書けない。忘れようとしてしまうのだ。だから書いてみた。父が元気な今の内に書いておいて、後々読み返すものとしよう。
03/9/1
ヴェランダ修理──ひさしぶりのインタヴュウ


 二階の鉄製のヴェランダ──おっと調べてみる、verandaか、じゃあヴェランダだな──が古くなり、アルミ製につけ替えるのだとか。40万円かかるらしい。父のやることだが、二階は私の住処だから無縁ではいられない。朝早くから片づけがたいへんである。目的はヴェランダそのものより、雨漏りがするようになったので、古いそれを撤去しての屋根修理のようだ。
 ヴェランダを囲っていたよしずを取り払う。ところでこれ、前に書いたっけ? よしずってあしなんだよね。で、葦は悪しに通じるからって言い換えてよしず。髭をそる、するじゃ縁起がよくないから、髭をあたる。スルメをアタリメと言ったりするのも同じだ。日本語は楽しい。こういうことを初めて知った二十歳の頃、しみじみそう思ったものだった。

 おおきなよしずが6枚もあるから大作業になる。これは夏の終りにどうせやらねばならなかったことだ。中国製。どこの国のものでも同じようなものだけど、日本製はずっと軽くて扱いやすい。値段は倍以上する。三年程度の消耗品だから安いのでいい。というかもう中国製しか置いてない。それにしても今年は活躍の度合いが少なかった。二階の住居は灼熱地獄になるので私には冷夏で助かったけれど。
 ヴェランダに出しておいた鉢植えのハイビスカス等を廊下に取り入れる。なにしろ朝の八時には職人がやってくるから、寝たのが四時過ぎなのに七時には起きて始めねばならなかった。眠いけど、部屋の中も覗かれるしまごまごしてはいられない。終ると同時に職人が到着。なんとか間に合った。
 ところで《『お言葉ですが…』論考──職業の呼称》関連になるが、ここで私は「職人」と書いているけど、今の時代だと「職人さん」と書かねばならないのだろう。くだらん。「職人」という言葉に敬意を払っていれば安易に「さん」などつける必要はない。いまの世の中、心のこもっていない事なかれ主義の「さん」ばかり。

 作業が始まった。今、パソコンからJazz(スタン・ゲッツ&チェット・ベイカー 『ライン・フォー・リヨンズ』)を流しつつこれを書いているのだが、鉄製ヴェランダを焼き切るグラインダーの音で音楽なんて聞こえない(笑)。鉄工所のようなあの鉄の焦げるにおいがしている。かつて肉体労働をしていたので、そういう音もにおいも嫌いではないから平気だけれど。
 目が疲れてきた。すこし休もう。

 と、そこで、茉莉花茶でも作ろうかと思いつつ、作業現場を覗いて気づく。

 鉄のヴェランダを1メートル幅ぐらいに切り、運びやすいサイズにして、屋根からおろし、トラックに運ぶ。これを職人ひとりでやっているのである。このヴェランダの横幅はどれぐらいあるのだろう。四間てやつだ。どうにもこういう単位になるといまだにメートル単位じゃない。エーロクスケは好きじゃないがあいつがやろうとした鯨尺を残す運動には賛成する。1.8メートル×4か。
 とにかく職人ひとりでやるのはたいへんである。手伝うことにする。そのグラインダーで切り取った1メートル四方のヴェランダの鉄片が、四つ五つと溜まったら、彼はそれを紐で縛り上げ、梯子を伝うようにして下ろす。下ろしたら、アルミ梯子を下りて、それをほどき、トラックまで運ぶ。そしてまた屋根に上ってきて、を繰り返す。たいしたことではないのだが、ひとりでやるとたいへんな手間だ。私が梯子の下にいて降りてくるそれを受け取り、紐を解いて地面に置く。その手作り降下装置(?)を職人が上に上げる。次の鉄片を同じ段取りでやる。その四つ五つの鉄片を下ろし終ったら私の手伝いは終り。彼が屋根から降りてきてそれをトラックまで運ぶ。次のまた鉄片がたまったら声を掛けてもらい、手伝うことにする。たったこれだけの手伝いをするだけで作業効率は二倍ならぬ八倍ぐらいに上がる。1+1が決して単純に2ではないことを知る瞬間である。私がほんの少し手伝うだけで8倍ぐらいに効率は上がり、彼の疲労もまた半減ならぬ10分の1ぐらいに減る。共同作業はうつくしいなと、ふだんひとりで仕事をしているので、こんなことでも感激する。

 昨日は結局その「ヴェランダ取り壊し手伝い」が一日のすべてだったのではないか(笑)。なんかそんな気がする。その合間、上記のストーンズを書いたことぐらいしか結果を残していない。いやはやなんとも。

 昼に、職人がコンビニ弁当を買いたいと言うので数キロ離れたところまで載せて行く。だいぶ離れた町から来ていて彼はこの辺の土地鑑がない。車中で話す。愛知出身と知る。豊橋だ。
 午後手伝うときも、その辺をうまく私が聞き出すものだから、彼は興に乗って一代記を話し始めた。十代で東京に出たこと、さんざん悪さをしたこと。そこで知り合った女が私の地元の町の女だったこと。結婚してこちらに来たこと。言葉が訛っていないからよそ者あつかいされて苦労したこと。意識して訛るようにしたこと(笑)。息子が中学時代からワルで毎週学校に呼び出されたこと。せっかく入った高校も傷害沙汰で中退してしまったこと。でも今じゃ更正し働き者になったこと。十九なのに子供が出来て結婚すること。相手は十七であること。もうすぐ孫が出来ること。その嫁がとんでもなくコドモであること。女房には嫁だと思うと腹が立つから十七の娘が出来たと思えと言っていること。この種の商売も人脈であること。私の家のヴェランダをやるようになるまで、いくつも重なった人脈のこと。etc……。

 無口で穏和なおじさんが、こちらの誘導から、やがてなにか取り憑かれたように(笑)雄弁にしゃべる様を見ていたら、私は誘い上手であるのかなとバンコクのことを思い出していた。これは《チェンマイ雑記帳──競馬酒日記》に書いたことだが、「旅人は過去は振り返らない。自分のことはしゃべらない」も真実であろうが、同時にみな「しゃべりたい自分」も持っているのである。普段それを抑えている人ほど一度堰を切ったらその流れは激しい。ひさしぶりにインタヴュアをやってしまいました(笑)。

 夕方、ヴェランダがなくなると、その下から長年の埃、塵芥が出てくる。かなり土があり、父や職人は風によって吹きだまったのだろうと話していたが、それを聞き流しつつ、私は耳が痛い。私が育てた植物の鉢替えの時に落ちた土が多いことが一目でわかるのだ。よってそれを水で流し、スレート屋根をタワシでこすり、さらには風呂用のモップで仕上げるという作業にかかる。スレート屋根は新品のごとくきれいになり、父も喜んでくれ、あとは後日取りつけるアルミ製の新ヴェランダを待つばかりとなった。
 久しぶりの肉体労働に疲れた軟弱オヤジはもうそれだけで気持ちよくダウン。酒も飲んでいないのに午後七時ぐらいにはもううとうとしてくる。まあ睡眠時間も短かったが。
 九時からの「開運なんでも鑑定団」を途中まで見た。スイッチを切りそのまま熟睡。体を使うと睡眠が深くて快適だと今更ながら思い知る。
03/10/16

 父の誕生日

 きょうは父の誕生日。卒寿の祝い。いやこれは、え~と字を探す。「卆寿の祝い」と書かなきゃダメだな。卒の字の日用略字「卆」が九十であることから来ているのだから。この上には、九十九の「白寿──百より上の一がすくない」、文字通り百の祝いの「百(もも)寿」がある。この町にはこれを祝った人が何人もいるらしい。まあ先は長い。この上になると「茶寿」か。上のくさかんむりを十が二つと分類して二十と解釈する。下は米、八十八だから、足して「百八の祝い」。これをやった人はこの世にいるのかな? 世界にはいるだろうけどそこには「茶寿」なる言葉はないだろう。ん? 英語ってこんな言葉遊びの祝い事はあるのだろうか。あったとしても表音文字だから形が違うだろう。その上は「珍寿」だ。

 九十と八十四の夫婦(めおと)は村でもいないとか。
 この「村」とは古い単位だ。ぼくの町は昭和三十三年の町村合併で三つの村が一緒になったものだが、父母はそれ以前に自分たちが過ごした子供時代の単位で物事を考える。この感覚はわかる。昭和三十三年以前の村は、それこそ江戸(もっと前かな)から続く、いかにも村らしい情緒のあるいい名前なのだ。そこには秋祭りを始めとする多くの歳時があった。昭和三十三年に買春禁止法等と共に施行されたこの政策は、地域のつながりを無視したくくりつけだったからけっこうな矛盾を生んだ。古来よりつきあいのない地域を地図的にひっくくってひとつにしてしまったのだ。それによって新町村名が由来も味わいもない無機質なものになった。都市における鉄砲町、鍛冶屋町が自由が丘一丁目、緑が丘二丁目になってしまうように。
 来年四月にまた大型の行政改革による町村合併が行われる。数年前から田舎の町々はどこと合併するか大騒ぎをしている。歴史的に同じ藩に属していた(やはり江戸時代の区切りは基本なのだろう)隣町と合併すべきと主張する町長派と、歴史的には縁もゆかりもないが将来的に発展の可能性が高い隣町と合併すべきと譲らない助役派が対決したりしている。
 そんな近隣の町に、あちこちから腕を引っ張られる人気者として自衛隊百里基地で名高い小川町がある。ここに民間空港が出来るというのだ。どうやら本当らしい。何年後か、それがどんなものかわからないのだけれど。そうなると、クルマで三十分も走れば空港があり、そこから札幌や沖縄にひとっとびとなるらしい。この将来性のある町に近隣がすりよってたいへんなことになっている。もてる女の婿選びだから小川町もまた意見が分裂している。云南から里帰りして、父母の墓参りにこの空港を利用するなんてことがあるのだろうか。ないよな、なにしろ成田空港から一時間の地だ。假定してみると、成田でレンタカーを借りてひとっ走りだろう。改稿する頃はもう日本にいないかもしれないし、ぼくとは無縁のものになる。

 閑話休題、言帰正伝。
 今の時代だから長命の年寄りはいくらでもいる。女の九十は普通だ。近所には百でかくしゃくとしている人もいる。でもその連れ合いが元気なのは稀だ。よってあくまでも「旧村」の単位なのだが母によるとウチの父母一組だけだとか。不思議に思うのは、父と同年配、さらには年上で元気な友人もいるのだが、そんな人は連れあいを亡くしている。女が長命の国で奥さんが六十ぐらいで亡くなっているのだ。これは早い。そんな例が多い。めおとで長生きはむずかしいらしい。男やもめ三十年で九十もすごいと思う。

 ぼくが腕をふるった海鮮鍋で、母と三人で父の誕生日を祝う。
 人を呼んでの『卒寿の祝い』はとりやめた。上記のような理由で参加者が少ない。いや、いくらでも人は集まるのだが、なんの心の交流もない親戚縁者を数だけそろえても父は喜ばない。呼ばれるほうも迷惑だ。父が会って歓談したい同期の教職者はもういないし(師範学校時代の旧友には元気な人も多いがそれらの方々に全国から来てもらうのは不可能だ)、いちばんかわいい教え子達がみな体調不良だ。今夏、教え子の葬式に行きたくないと拒んだ父は哀しかった。列席する人に香典を頼むだけにした。
 むりに宴席を設定してもしぶしぶ首を並べる血縁者の集いになりそうだからやらなかった。古い地域だからそういう宴席はあれこれといまだに多く、今の時代、ことごとく不評なのだ。たとえば子供の七五三の宴席を旅館の広間でもうけたりする。親しいつきあいがなくても親戚は招待される。三万や五万は包まねばならないからいい迷惑だ、呼ばれないほうがいいなんて愚痴が伝わってきたりする。それじゃ呼ぶ方も呼ばれるほうも不愉快になる。日本の田舎はいま、古い因習の形式主義とアメリカ的な家族主義が混在した過渡期にある。もちろん勝者は明白だ。アメリカ的になる。

 三人だけで祝ったものだが、そんな昔話(下の尋常小学校のことも含む)をしたりして、忘れられない夜にになった。
 体育の日、兄の娘がハワイの教会で結婚式を挙げた。週末にはハワイ土産を持った兄一家や姉夫婦もやってきて卒寿を祝うらしい。
 ぼくは距離をおく。今夜で充分。
03/11/7
菊を観に行く


 午後二時半。階下に行くと父が、水戸の「三夜様」に菊を観に行きたいと遠慮がちに言った。なぜもっと早く言わないのだ、水くさいではないかとことばを荒げてしまう。ぼくが仕事をしているのだろうと遠慮していたのだ。二時半になっていつもの本屋にでも行こうと降りてきたので遠慮がちに口にしたらしい。仕事はしていたがそれは真夜中でも出来るものだ。父が行きたいのならもっと早い時間にいくらでも出発していた。水戸まで一時間はかかる。運悪くこの日はまるで十二月末のような暗い天気。日の落ちるのは早いだろう。急いで出発する。
 着いたのは三時半。もう薄暗くなりかけている。
 通称「サンヤサマ」は「二十三夜尊 桂岸寺」。そこまでは知っていたがさらにそのあとに「新義真言宗 豊山派」とつくと知る。まあ佛教もいろいろあってたいへんだ(笑)。
 下の写真。ちょっとわかりづらいが、扇に「白地に赤く」日の丸を意図したもののようだ。



 どうでもいい佛教雑知識。創価学会の悪口をいうとき「あいつら念佛でもとなえてりゃいいんだ」なんて言う人がいる。日蓮は「念佛地獄」と言っているように念佛否定。まったくの正反対。では日蓮宗、創価学会の念佛に当たるものはなにかと言うと、あの南無妙法蓮華経は、「題目」ですね。悪口を言うときはこれぐらいは覚えておきましょう。
 そういえばタイ語では──正確な言いかたはべつにあるだろうけど──学会員を「ナンミョー」と言うのだとか。これはライヴさんに教えてもらった知識。ためしに何人かのタイ人に「あなたはナンミョーを知っていますか」とタイ語で問うと、たしかに誰もが知っていた。普及しているようである。創価学会員と極真空手愛好者は世界中どこにでもいる。学会信者が黒人ミュージシャンに多いのは不思議だ。すなおにたいしたものだと思う。もっともぼくの知り合いでも、イギリスにいるときモルモン教に入信していたってのがいて、なんでかと聞いたら、「つきあっていた女に勧められて」だそうだ。日本で学会員になるのはそれなりに踏ん切りが必要だが、外人てのはそんなにこだわりがないのかもしれない。宗教は入信していて当然のものだから。
 極真空手に関しても、「万国びっくりショー」に町のびっくりさんとして出演し、石を素手で割っていた大山倍達を知っている身には現在の普及度は隔世の感がする。極真空手の歴史と普及は若者が思っているよりもずっと浅い。



 これはサンヤサマではなく近くの八幡様(こっちは神道ね)の菊花展。ミッキーマウス。ワタシはこんな感覚は好きじゃないけど珍しいので撮ってきました。ほんと日本てのは寛大というかハチャメチャというか。八幡様にミッキーマウスを飾るなよ(笑)。
 サンヤサマへは菊を観にけっこう行っている。三年に一度ぐらいか。有名な笠間の菊人形もなんどか行っている。ところがサンヤサマの近くにある八幡様は初めてだった。父は、師範学校の時以来だから七十年ぶりかなんて言って喜んでくれた。これもすごい年月だ。寿命の短いヒトなら死んでいる。
 もう四時半には暗くなってしまった。せっかくの日なのに残念だ。帰りに大洗港により晩酌の刺身を買って帰る。帰宅して六時半。意義のある日になった。

 烟草の投げ捨て
 ひさしぶりに市街地を走ったのでクルマからのタバコの投げ捨てを目撃する。大嫌いである。気分が悪くなる。一度もやったことはない。ああいうことの出来るヒトが理解できない。
 岐阜ナンバーだった。窓を開け、肘を出して運転している。左手一本で運転し、タバコをもった右手が見える。こりゃやるなと思ったら案の定平然と投げ捨てた。ああいうヒトの礼儀感覚はどうなっているのだろう。

「あれさえなけりゃいい人なんだけど」という言いかたがある。全般的にいい人の唯一の缺点だ。酒癖の悪さ、女癖の悪さ、時間にルーズとか……。
 そういう言いかたで、「タバコの投げ捨てさえしなければ、あとはマナーのいい人なのだが」は成立しないだろう。歩きながら平然と路上にタバコを投げ捨てるヒト、クルマから道路に投げ捨てるヒトに、その他のことではマナーがいいとか、心優しいとってもいい人がいるとは思えない。それは自己中心で他者の痛みを理解できないヒトだ。公衆道徳という糸が切れてしまっている。あるいはあるべきそれが元から缺陥しているか。
 きれい好きはいるかもしれない。いや多いだろう。自分のクルマの中はチリひとつなく、掃除機で掃除し、靴を脱いであがるよう清潔にして、ゴミはすべて道路に捨てる。家庭のゴミをコンビニに捨てたりする。自分のことしか考えていない。こういうのは、クルマの中が汚く、なにごとも無精でタバコも道路に捨てるのよりも、もっとたちがわるい。
 ぜったいに親しくなれないヒトの典型になる。
11/24
あのころの暖房


 きょうは寒い。昨夜も冷え込んだ。いよいよ暖房器具のことを考えねばならない季節になった。ぼくはこたつのような部分暖房に足を入れて、膝の上のノートパソコンで文章を書く、なんて形態が好きだ。部屋は寒いぐらいでいい。寒い寒いとこたつに足を入れ、熱いお茶がおいしい環境だ。
 でも文章はともかくこのホームページ作りはDualCpuパソコンでないと出来ないし、そのためにはイスにすわり机に向かわねばならない。全体暖房で石油ストーヴが必要だ。一応エアコンはあるのだが、隙間の多い田舎の家に電気暖房は経費ばかりかかって効率が悪い。このことで思い出すのは、品川のすまいの都市ガス暖房の強力さとありがたさだ。田舎に住むようになったころ、石油を毎日入れねばならないわずらわしさと、火の立ち上がりの悪さ、熱力、消したときの臭さでうんざりしたものだった。今は慣れたけれど。
 いよいよ冬ですねえ。嫌いじゃないけどね。ぼくは常夏の国向きのヒトじゃないと認識した。四季のあるのがいい。

 いま寒いので、足下にあんかを置き、下半身に毛布を巻いて机に向かうという簡易暖房をやってみた。このあんかは猫が交通事故に遭ったときあたためるのに使った思い出の品だ。
 そうしてまたつまらんことを思い出した。「足下にあんか、下半身を毛布でくるむ」とは大学受験のころのぼくの勉強スタイルだった。暖房はそれだけ。真冬の深夜になると手がかじかんだものだった。
 こういうことってのは「忘れたい記憶」に分類されるのだろうか。あるいは「どうでもいい記憶」か。ぼくは人に驚かれるぐらいむかしのことをよく覚えている。自分でも記憶力はいいと思っている。のんびりクルマで走っているときなど、「なんで今頃こんなことを」と思うような昔の記憶が突如浮かび上がってきて閉口することも多い。小学校時代のどうでもいい友人とのやりとりとか……。そんな中、これは今までただの一度も思い出したことのない記憶だった。たしかに忘れていたのに、同じ事をしたら三十数年前の記憶がまざまざとよみがえってきた。家すら建て直したからもう残っていないのに……。
 思うに、ぼくは一刻も早く田舎を出たい、早く東京に行きたいと思って生きていたから、その礎(?)となるこの受験勉強時代は興味のない記憶だったのだろう。といってもそれは「一所懸命練習して汗を流した部活の思い出」と同じようなものだから、悪い記憶ではない。深夜に長時間格闘して数学の難問を解いたときなど清々しい達成感があったものだ。
 うん、なかなかこれはいいな(笑)。まだしばらくこたつもストーヴも出さず、この方法で机に向かうことにした。

 てなごくあたりまえのことをなにゆえにぼくは新鮮な気分で書いているのだろうと考えたら、「冬はチェンマイ」がここ十数年の習慣だからだと気づいた。だいたい12月半ばには出かける。ここのタイミングもむずかしい。暮れから正月は仕事も多く年末進行で締め切りも早い。なるべく日本にいなければならない。それでいて航空会社が冬場の特別運賃として高くする直前に出かけねばならない。
 そうして二ヶ月ぐらいはあちらにいるから、帰国してからもまだまだ寒いとしても、真に寒い三ヶ月のうち二ヶ月はいないから、あまり日本で「寒い冬」を経験していないのである。その前の東京時代は、これはよくあるパターンで、半袖シャツでも過ごせるぐらい部屋を暖めていたし、なにより東京って寒くないのだ。(あ、真冬の競馬場は寒かった。皆勤だものね。)
 昨年も九月から二月まで海外だった。いつもは常夏の国だが一月末に真冬の北京を経験している。ありゃすごかった。今までぼくの知っているナンバーワンの厳冬である北海道より遙かにすごかった。あれと比べたらこんなの寒いに入らない。
 ところで今、寒暖計を見たら15度。これは暖房を入れるべきなのか。
11/24
ニワトリ話


 友人のサイバーターフライターK君の話。彼は宮城の田舎出身。中学生の時、夜店でひよこを買ってきた。あの緑色とかに塗られた小さくてかわいいヤツ。部屋で育てた。みるみるでかくなった。オンドリ。卵は産まない。けたたましく鳴く。毎朝夜も明けないうちからコケコッコーと。家族が怒る。K君は必死にピーコをかばう。
 あるひ学校から帰ってくるとピーコがいない。いくら呼んでも出てこない。じーさんがつぶしてしまったのだ。その夜のごちそうはトリナベ。泣きながら食ったそれが妙にうまかったとの話。笑ったけど切なかった。

 ぼくが小学生のころ庭に小屋を作りニワトリを飼っていた。10羽ほど。餌係はぼくだった。アメリカザリガニを釣ってきて、適当にそのへんの石油缶かなんかで茹でてあげるとニワトリが驚喜したことを思い出す。フツーの穀物肥料よりずっとうまいらしい。
 ニワトリを飼ったのはタマゴ代を浮かせるためだったろう。近所ではどこでもやっていたように思う。そういう時代だった。やがてそんなことをするより買ったほうが安い時代になり誰もがしなくなってゆく。

 それから何十年かが過ぎ、子供が巣立ち、老齢の父母二人になってからチャボをつがいで飼い始めた。
三歩歩いたら物事を忘れるアホの代表とされるニワトリですら愛情をこめると人になつく。日中は庭で放し飼いにする。夜は小屋に入れる。チャボは父母の手から餌をもらい、犬猫のようになついていた。さらには良質の卵を産んでくれる。見た目も小柄で愛らしいが夫婦仲もなかなかのものなのだ。よその犬猫が来るとオスはメスをかばって闘おうとする。父母はかわいくてならなかったようだ。

 この辺はまだイタチとか野生の動物がいる。開発で追われ餌を求めて人家に出没するようになっていた。それが時代を表している。ぼくが子供のころに飼っていたころは、まだ山も多かったし、それこそ野生動物の数はもっともっと多かったのだろうが、人家のニワトリが襲われたことなんて話は聞いたことがなかった。古き良き時代で人と動物がうまく共存していたのだ。そういえば山に行くと野ウサギなんかもよく見かけたものだった。
 山が切り崩され工業団地が造成された。餌不足のイタチが人家に降りてくるようになった。父母のチャボが襲われて殺された。イタチは首筋から血を吸うだけなのか死骸は残されていた。それが痛々しい。父母は何度かまた友人からつがいで分けてもらい飼い続けた。襲われるたびに小屋の周囲をブロックで囲んだり、トタン板を地中に50センチほど埋め込んだりした。イタチは鶏小屋の周囲から土を掘って襲う。懸命の防衛も餌を探して必死のイタチの前には無力だった。何度かそれをやられてから父母はもうチャボを飼うことをあきらめてしまった。なにしろちょうど手から餌をもらうようになるかわいい盛りにやられるから失望も大きい。イタチだって必死だし同情の餘地はあるのだが、何度も襲われて殺され、動物を飼う気をなくしてしまった父母を思うと切ない。年寄り二人暮らしだから、庭を散歩して餌をもらいに来るつがいのチャボがいるだけで生活に潤いが出るのだ。ぼくが帰ってくる前の話である。

 今はどうなのだろう。
 田舎をクルマで走っていると動物の礫死体を頻繁に目にする。田舎者は運転が雑だ。ぼくは未だにただの一度も動物を轢いたことがないのがささやかな自慢になる。でも助手席に乗った人はみな「あんたは犬猫を見かけたら徐行するのだから当然だ」と笑う。
 礫死体は犬猫の場合が多いのだが、それと同じぐらいまだ野生の動物も見かける。山が開発され当時とは比較にならないぐらい野原や山林がすくなくなった。あんな中でもイタチやウサギが、つがいとなり、子を産み、まだ生きているのかと思うと、これまた愛しくなる。

11/23
秋の一日


 きょうは姉や兄が子供や孫を連れて大挙押しかけてくるので午前中に家を出る。なんでも彼らのこども(ぼくからすると甥や姪)の家族まで来るとかで総勢10人の来訪とか。
 朝の七時半からいつもの「報道2001」を見、10時からの将棋を録画して、その合間に「サンデープロジェクト」を見る、と日曜午前中のテレビ三昧を昼までやりたかったのだが、早くも十時過ぎにはバスンバスンとクラウンやシーマのドアの音がして赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。よってパタンと軽のドアを閉めて追われるように出発。まったくクルマの値段はドアの音でわかる。
 兄や義兄のおおきなクルマに挟まれた愛車を二階から見下ろすと、まるでつかまった宇宙人状態で、こんなときはさすがに世捨て人のようなぼくももうすこし大きい車を買うべきか、と思ったりする。こういうとき女房に恥ずかしいと嘆かれたり、こどもに「どうしてうちのクルマはちいさいの」なんて言われたりしたら、おとうさんは意地でもがんばるんだろうな。それがフツーの人生か。そういう小市民的自分を知っているから結婚しなかったのだろう。兄は支店長で義兄は高校の校長である。通勤の形態からしてどう考えても大きなクルマは必要ないと思うのだが、立場上あまりちいさいのには乗れないのだろう。二人とも世間の目を気にする人だし。それが正しい小市民ってもんだ。

 水戸方面に行くか土浦方面に行くか迷ったがひさしぶりに土浦方面にする。行き先はどっちでも同じ。パソコンショップ(笑)。水戸方面のほうが本屋が一緒にあって総合的(?)にすぐれているが、土浦方面のほうが自作用の細かい部品は揃っている。
 恥ずかしいからあまり書かないようにしているが相変わらずパソコンはいじくりまわしている。苦労の成果があって静音マシン作りに成功した。およそDualCpuマシンとしては最高級クラスの静けさだろう。深夜に音楽を掛けて音消しをしなくてもかすかなものである。スチール製のフルタワーケースの防音が役立っている。その中にも防音素材がたっぷりと使われているのだが。あとは今の三つ使っているハードディスクを大容量一個にして、ハードディスクの騒音と電力消費を抑えるだけだ。
 こんなことをしてると静音ウンヌンが果てのないビョーキだと言われているのを実感する。あれだけうるさかったファンの静音化に成功したら(もっともその大部分は涼しくなってファンを減らしたことなのだが)今度はチリチリというハードディスクのシーク音が気になるし、充分に価値のある静音電源を使っているのに、12センチファンを搭載したというより静音の電源が新発売になったと知るとそれが欲しくてたまらない。そんなもの買ってもほとんど目に見える効果(耳に聞こえる効果)なんてないのだが、それでもしたくてたまらないからビョーキなのだ。

 小物をいくつも買ってくる。
 その中のひとつ、12Vを5Vに落とす変換ケーブル。排気用に毎分2500回転の12センチファンを使っている。うるさい。ファンの音は小さいののキーンという高音も不快だが大きいののグオングオンという低温も気分のいいものではない。今の室温だと1000回転で充分だ。ところが低回転の製品は製作がむずかしいのか、2500回転で46デシベルなんてのは千円以下、時には500円で売っているのに、1200回転で21デシベルになるといきなり3000円に値段が上がるのだ。12センチファンはあまっている。なんとかこれを利用して解決できないか。
 それでその変換ケーブルを買ってきた。電力を12Vから5Vに落とすと回転数が減る。それにチャレンジしてみることにした。よくある手法なのだが、相談した店員からハッキリと「8センチファンならともかく、12センチファンを5Vに落とすと回らない可能性が高いです」と言われた。不安になる。ケーブルの値段は570円。消費税込みで598円。うまくゆけば2500円の節約だ。なにより廃品利用になる。やってみることにする。
 しかし考えようによってはへんな話だ。ファンにとって大事なのは風量だ。高性能のファンとは高回転で大風量のものになる。それが高いならわかる。なのに低回転で風量のすくないものが高いのだ。クルマで言うなら排気量が小さくてスピードの出ないクルマが高いようなものだ。まあパソコンの吸気排気用の12センチファンの場合、低回転でも風量が充分なので、静音を売りにしたこんな特殊なものが必要となったのだろう。

 この店は県内じゃ一、二を争うほど豊富な品揃えの店なのだが、秋葉原を知っている身には物足りなくてならない。最高のものを知ってしまうこともよしあしだ。近頃安ワインを飲むことが多い。安い日本酒はまずくて飲めないのだがワインだと飲める。それはワインが安いものでも品質が安定しているからでもあり(これは事実)、ぼくが日本酒ほどワインの味がわかっていないからでもある。このままでいい。ワインにまで凝りたくはない。よいものを知るのは人生の楽しみだが、分不相応によいものを知ると不幸になる。


競馬──マイルチャンピオンシップ


 クルマの中で大相撲千秋楽を聞きつつ帰宅。栃東優勝。しかし今場所は反省の多い場所になった……。あ、トトカルチョの話ね。
 わくわくしつつ早速ケーブルをファンに繋いでみる。現在ケースに取りつけてあるファンではうまく成功。12Vが5Vに落ちて見事に回転数が落ちた。騒音もすくなくなる。これがしたかった。なんだ簡単に出来るじゃないか、あの店員おどしやがってと思いつつ、もしかしたらと他の12センチファンではどうかとやってみたら回らなかった。運がよかったのだろう。ともあれ5Vでも回る12センチファンが一個あった。見事に安物の12センチファンが3000円のものと同じ低回転の静音ファンになった。うれしい。やったあ! って気分だ。興味のない人にはいったいそれがなんなんだと笑われそうだが、もううれしくてたまらない。なんだか偉大なことを成し遂げた気分なのだ(笑)。勝ったときの高見盛みたいに胸を張って歩きたい。

 土浦方面には前々から行ってみたいと思っていた「百円ショップのダイソー」があった。一部でダイソーのダイはイケダダイサクセンセーのダイ、ソーは創価学会のソーと言われているのだが本当だろうか。安くてよい品を提供してくれるのだからたとえそうであっても文句はないが。
 先日2ちゃんねるのジャズ板で「ダイソーの100円ジャズCD」が話題になっていた。まったく知らなかったので楽しみにしていた。ジャズはもちろん落語とか相撲甚句とかいろいろあったのでまとめ買いしてきた。これから聞くので感想はそれからになる。それにしてCDが100円とは……。

附記・そのパソコンショップ内に無料で使えるインターネットがあった。ADSLの接続デモのようだ。Yahooがデフォルトで設定されていて自由に閲覧は出来なかったのだが、それでもいかにそれが速いかは確認した。ああいうのを知ると欲しくなる。でも欲しくなるの度合いが、離れても夢にまで見るとかではなく(前述のゆっくり回るファンなんて、パソコンで仕事するたびに欲しいなあと思っていた。)、離れたら忘れてしまうレヴェル。11月21日の欄に書いたように、必要となった調べものをしていて、あまりの遅さにいらだつということが連発しない限り、まだまだ今のままでいけるだろう。ぼくのインターネットは、メイルチェックとホームページアップ、閲覧は新聞、スポーツ紙と、フリーソフト探しの『窓の杜』と『Vector』、2ちゃんねるの政治板、音楽板、パソコン板のみ。今のままで充分だ。これで速いのにしたら人の迷惑顧みずやたら重いページを作り始めたりする可能性がある。といってもぼくがいちばん遅いから迷惑を受ける人はもういないのか。ま、一瞬でページが開くのは快感でした。
03/12/7
M先輩の奥さんからのプレゼント


 木曜にM先輩の奥さんから宅配便が届いた。
 宛名に私の名と妻の名が併記してあるので、大きな荷物をわくわくしながら開けたら、中からこんなものが出てきた。左の写真。果たしてこれはなんなのだろうと悩んだ。竹の枠に織り込んだ生の葉っぱである。妻は首にかけて記念に写真を撮るんじゃないかと言っている。ぼくは、飾り物なんだろうけど、いったいこれはどう活用するのだろうと首をひねる。結婚を祝ってくれているというのだから、なにか意味があるのだろうけど……。

 まあわからんものはしょうがないと昨日、お礼の電話を掛けた際に正面から訊いた。クリスマス関係らしい。宅配便の品名の欄には「リース」と書いてあった。いろいろ辞書を引いたが納得する説明にはありつけなかった。
 ひとつわかったのは、ぼくはこれを市販品だと思ったのだがそうではなく、奥さんが近所の主婦に指導している教室で作っているものということだった。奥さんの手作り品だったのだ。先輩の住まいは川崎の新興住宅街、一軒家の並ぶところだ。そこでは近年、クリスマスプレゼントとしてこれが普及しているとか。もちろん奥さんも近所の連中もキリスト教信者ではない。

 いずれにせよキリスト教信者ではないぼくにキリストの誕生日を祝う習慣はないので、もらってもとまどうばかり。水をやって活かすのかと訊いたらこのままでも二十日ぐらいは保つからただおいておくだけでいいのだとか。どうしよう。どうしようって(笑)ただおいておくしかないのだが。
 M先輩はその辺のぼくの頑固さを知っているが、奥さんはぼくがメリークリスマスと無宗教ではしゃぐ男と思っていたようだ。もっともM先輩だってJ-Waveで連日クリスマス特集番組をやっているだろうからこだわってはいない。こだわっていたら仕事にならない。ま、世の中そんなものだ。
 ほんとにわからない時代だ。キリストその人だって信者でもない連中に祝われてもうれしくないと思うのだ。ぼくは信者でもないのがはしゃいだら彼に失礼だと思うのである。いわばなにも考えていない人よりもずっとキリストのことを思っている。それとも心の広い彼は「よきにはからえ」と言うのか。

 金曜の午後十一時過ぎ、チャンネルを変えているときにクメの番組のエンディングに行き当たった。「来週は一週間ぶっつづけでクリスマスプレゼントをお送りします」と言っていた。なにかと思ったら、クリスマスプレゼントと銘打って音楽コーナとかに豪華ゲストを連続して呼ぶらしい。クメの番組の信者にはキリスト教信者が多いのだろうか。いいかげんなヤツが多いのは解るが。
 ぼくにとって信者ではないキリスト教の開祖の誕生日を祝うことは、オウム真理教のアサハラの誕生日を祝うのと同じになる。だからしない。祝わない。こんなことを言っていたら今時の日本人失格なのか。創価学会の人はどうなのだろう。クリスマスを祝うのだろうか。外国の、特にアメリカの黒人には学会信者が多いのだが、彼らはクリスマスを祝うのだろうか。子供の時からキリスト教徒でも学会に入ったらもう祝わないのか。訊いてみたいものだ。もっともぼくだって友人のキリスト教信者がクリスマスパーティをやるというので招待されたら出かけるしメリークリスマスも言う。それが人の礼儀だ。だけどそうじゃない場合、きょうはクリスマスだと騒ぐ気はない。田舎に住んでいて助かるのは、さすがに片田舎だからしてそんなお調子者はいないことだ。
 ぼくの宗教観は今時のフツーの日本人としては外道でも、イスラム世界でなら信じる宗教に準ずる行為として常識的であろう。いやいやキリスト教徒だって異教徒の祝いを無前提に楽しんだりはしない。異常なのは日本人だけだ。

 すでに35カ国が参加しているイラク派遣に「死人が出るかも知れないから行くべきではない」とのリクツで多くの日本人が反対しているらしい。真の腰抜けである。
 その顕著な例がこの無節操なクリスマスに代表されているように思える。「靖國で会おう」と言って散華した英霊は、自分たちが命をかけて守った國はこんなはずではなかったと泣いているだろう。
12/8
 田舎の図書館

 きょうは月曜で図書館がどこも休み。午後から調べたいものがあったので残念だった。これが品川だと、荏原図書館が休みの日は源氏前図書館は開館のように、うまく調整してくれるのだが……。

 妻が図書館を気に入ってくれたようでありがたい。この田舎町の図書館はそう呼べるだけのレヴェルになかったのだが(ほんとにひどかった。有志に寄贈された千冊程度を並べた狭い図書室があっただけだった)、あの1億円を全国の市町村にばらまいた竹下の「ふるさと創生基金」だかで庁舎を建て直したとき、豪華な建物に見合うだけのものをやっとそろえた。相変わらず本のそろえ具合はピント外れでお粗末だが設備は整っている。木製の机も布張りの椅子も、大きな一枚ガラスの窓も、なかなか雰囲気があっていい。きれいで清潔な雰囲気だ。ぼくの知っている東京の図書館のどこよりも設備だけは豪華である。言うまでもなく中身はいちばんお粗末だ。
 家庭の事情で学問が出来なかった妻は、こういう場所で日本語の教科書を開くと、憧れていた学生気分にひたれてうれしいのだろう、ぼくが調べものをする数時間のあいだも不満も言わず待っていてくれる。いや熱心に勉強していて好ましい。

 本揃えのお粗末さとは、ちょいとしゃれたものがまったくないのはしかたないとしても(もちろん高島さんの本など一冊もない)、どうでもいいものが山と揃っていることだ。昨日なさけなくてため息が出たのは、ヤマダクニコの本が7冊ぐらいあったことだった。おそらく全冊だろう。係の趣味か。それでいて阿川弘之さんなど3冊しかない。
 イモとは田舎者の略であり差別語だ。「田舎者」がもう言ってはならないらしい。しかしこの図書館はまさにイモ丸出しである。ぼくは自分の生まれ育った田舎を自慢したことがない。いつも隠してきた。それはいわゆる民度の低さからなのだが、こうしてあらためて確認すると、わかっていたこととはいえ、やはりかなしくなる。どんなに隠そうとぼくの生まれ育った故郷はここしかないのだ。そしてまたイモに、自分がイモである自覚はない。
 イモとは、図書館すらない僻地をいうのではない。豪華な建物なのに、まともな本がなく、それでいてヤマダクニコの本が全冊そろっいるような感覚をいうのだ。

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