2002
02/2/27
早春
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護岸工事批判


庭の白蓮

 朝九時に寝て午後三時に起きる。完全に昼夜逆転している。まあそのうちもどるだろう。
 母の用で起こされた。お世話になっているかたのところにお酒を届けて欲しいらしい。心優しい人で、手作りの野菜をいつも届けてくれる。この人の作る芹はとてもおいしい。

 その後、母にせがまれ、クルマで田舎をすこし走ってみた。堤防のようになった湖際の道を走り、山側の景色を見ると、いつもとは逆なので新鮮だ。ただしここは未舗装。でこぼこの砂利道をガタガタと揺れながら徐行していると、ぼくの愛車が雲南のマイクロバスレヴェルであることをあらためて思い知らされる。
 
 バブルの頃──計画自体はそのずっと前からあったろうが──この辺の川は、自然に曲がっているものを無理矢理まっすぐにし、コンクリートの護岸工事をした。まったく意味のない、金を使うためだけの工事だった。ちょうどその頃、イギリスでは、自然な川の再生能力を活かそうとコンクリートで固めた川辺を壊し、元にもどそうとしていると知った。己(人間)の非を認め、すなおに訂正しようとするかの国と比べ、理屈でそうとわかっていても、敢えて予算だとか計画だとかの面子にだけこだわる我が国のお役所仕事は醜い。自然な曲線を描いて流れ、芦が生い茂り、小魚のいるゆたかな川を、なぜこの時期に無理矢理まっすぐにし、水を浄化する一切の植物を抜き取った死の川にするのかと、日本の行政の迷走を嘆いたものだった。出来上がった川は、山から湖へとただまっすぐに流れる、都会を流れるコンクリートの用水路のようになっていた。それは病気治療のために丸坊主にされた年頃の女性を思わせる、あまりに無惨な姿だった。

 だが、自然は偉大だ。きょう、川に沿って走ってみると、わずかな川の曲がりに土をため、芦はしっかりと根付き、繁茂を始めていた。上流に行くと、コンクリートの護岸をあざ笑うかのように、すすきやセイダカアワダチソウが根を張っていた。
 はたして日本にも、イギリスのように自らの非を改め、無意味な河口堰やらなんやらの工事ををすなおに撤回する日は来るのであろうか。

 あたたかい冬だったせいか、家の角角に白梅が咲いている。偕楽園の観梅も始まった。いつもより開花が一週間早かった。老木に咲いた梅は美しい。梅は木も愛でるものだ。春霞のようなうすぼんやりした天気なので、白梅の色もまたぼんやりとしてしまい、訴えてくるものは少ない。美しいことばで褒めたいのだが、なんとも穏和で平和な景色以外に、とりたてるものがない。そんな中、山中でたまに出会う紅梅は色鮮やかだ。

 帰りに花屋(栽培もしているところ)に寄り、鉢植えのかわいい花(ポリアンという名だそうな)を買って帰る。母へのプレゼントにする。以前は商売として成立しなかった田舎の花屋が大繁盛なのを見ると、やっとそこまでの餘裕が出てきたのかと隔世の感がする。かつて貧しい農村地帯では文字通り花より団子で、庭先に草花を育てる餘裕はなかった。(この〃花屋〃は、夫婦が広い庭先に季節の花々はもちろん野菜の苗なども並べている、土のにおいのするかなり雑然とした店で、都会の切り花中心のおしゃれな花屋とはまったく違っている。説明が難しいが。)
02/4〜
ツバメ物語
(02/4/14〜


 朝七時。日曜の朝は報道番組が連続しぼくには楽しみな時間となっている。もうすぐ七時半、フジの「報道2001」が始まるなと思い、パソコンの電源を切ろうかなと思ったとき、「チチチッ」という声とともに部屋になにかが飛び込んできた。鳥だ。飛び回っている。ぼくの仕事机の右手上にあるクーラーに留まった。

 ぼくは二年前に失った愛猫の名を呼んだ。生まれ変わりを信じるぼくは、もともとそういう傾向があったのだけど、愛猫を失った後、なにがあってもそうなる癖がついてしまった。愛猫が生まれ変って会いに来たと思ってしまうのだ。これも雲南のホテルの午後、涼しい風が吹き抜けている部屋に、赤とんぼが部屋に迷い込んできて、しばらくぼくの周りを飛び回り、楽しそうにして出て行ったときなどは、なかなかに詩的でいいのだけれど、夜更けにゴキブリが出ても、そう思ってしまい殺すことが出来なくなった。ここまでくるとモンダイかもしれない。

 しかしこのツバメもかなり大胆だ。ぼくは二階の六畳二間を仕事場にしているのだが、その内の一間はパソコンの仕事用に完全密封状態にしてあるので昼でもまっくらである。ヴェランダ側の窓から入り込み、この奥の部屋のクーラーまでやってくるというのは、度胸がありすぎる。見ようによっては自殺行為と思えなくもないぐらいすごい。だからまたそんなふうに思いこんでしまう。
 見取り図を書けばわかりやすいのだが、ぼくは一太郎で簡単な地図を書くことすら出来ない。あれはマスターしたいんだけどどうすればいいんでしょ。

 数分ほどクーラーに留まったツバメを見ながら、愛猫の生まれ変わりと決めつけて話しかける。知らない人が見たらキチガイだと思うだろう(笑)。うるうるした後、、もうおうちに帰りなと言って階下にゆく。父母にその話をして二階にもどる。すると、とっくに帰ったと思っていたツバメがまだいたのである。ぼくが帰ってくるのを待っていたかのように、それじゃという感じでサっと飛び立ち出てゆく。出て行くといっても、完全密室の六畳間の中でホバリングしつつ、次の部屋との境にある狭い襖のあいだを通り抜け、さらに廊下との間の障子をくぐり抜け、廊下とヴェランダのガラス窓を通過してゆくのだからたいへんだ。やはりこのツバメ、ちょっとヘンである。ヘンだったのはこの後だ。すぐにもどってきたのである。


 そうして壁に掛けてある愛猫の写真に留まったのだ。ここまで来たらぼくがこのツバメに特別な感情をもってもしかたないだろう。なにしろ、この部屋の中に来ることすら異常なのである。間違って入ってくるような場所ではないのだ。

 ところで銀塩写真をパソコンで拡大して印刷したこの愛猫の写真は、ぼくが「おひかえなすって!」と題をつけた物である。なかなでしょ!?
 
 やがて出て行ったこのツバメは、すぐに二羽になってもどってきた。恋人なのだろう。どうやらぼくの部屋に巣を作るつもりらしい。いやはや二羽で鳴きまくるとにぎやかでうるさい。愛猫が生まれ変ってもどってきたなんとしんみりした気分は吹き飛んでしまい、ぼくには建て売り住宅を購入しようとして、亭主を説得しているおばちゃんのしゃべりのように聞こえてきた。
「ね、あんた、いい物件でしょ、思い切ってここにしましょうよ」
「でもなあ」
「ぐずぐず迷ってたってしょうがないでしょ、子供作る都合もあるし、もう四月なのよ四月!」
「それはわかってるんだけど」
「ね、もうここにしましょうよ、日当たりも間取りもまあまあだし」
「そうだなあ」
「ハッキリしてよ、ほんとあんたグズなんだから!
 ってな感じだった。

 果たしてこの後、どうなるのだろう。ツバメの巣を作らせるのはいいのだけど、昔の家のように軒下がないから、今は室内に作る。すると、室内がフンだらけになるから、その対策をせねばならない。それぐらいはまあ子供の頃から親戚で見かけているから知っているんだけど。問題は、ツバメのために窓を開け放しにせねばならないことで、これはパソコンのために密室にしているぼくの生活とは矛盾する。一見晴耕雨読の生活をしているようでかなりぼくの暮らしはサイバータッチなのだ。さてどうなることやら。



「ツバメ物語」の簡単な下書き。
 初めて来たのはいつか。後で日記で調べよう。
 一羽がまぎれこんできた。猫の写真に留まる。雄だったと思う。
 翌日からつがいで来るようになる。この雌がめちゃくちゃうるさい。で、大助花子を思い出した。

 二階の二間の内、奥のほうのパソコン部屋に巣を作り始める。これには困ったが、仕方がないかとあきらめ、ほとんど窓を一日中開け放し状態になる。そこいら中にフン対策で新聞紙を敷き詰める。
 巣が順調にできあがる頃、恋愛話がもつれたか、花子ツバメが来なくなる。大助は日中はいないが、夜暗くなる時間には決まって部屋に来て、泊まってゆくようになる。二羽の愛は壊れてしまったかもしれないが、この時期、私は毎晩私の部屋に泊まりに来るこのツバメがかわいくてたまらなかった。また新しい彼女が出来るから、そんなにがっかりするなよと話しかけ、十時を過ぎる頃には、彼が眠れないだろうと部屋の照明を落とし、暗い部屋で物音を立てないようにして仕事をしていた。夜が明けると、勢いよく飛び出して行き、夜に帰ってくる。せっかく作った愛の巣(写真左)は、別れてしまったからか、見向きもしなくなった。

 それから数日して、ヤツは新しい恋人を作り、意気揚々と私に紹介した。前回のおしゃべり積極タイプに懲りたか、今度のはむくちでおとなしいタイプだった(笑)。またも新しい巣を作り始める。今度は、入り口のほうの部屋の蛍光灯の上に作り始めた。この写真はそのうち公開する。まともな人なら拒むパターンだろう。今年の五月はとんでもなく寒い日が続き、かと思うと真夏日になる不安定な天候だった。といっても毎年この時期は日本にいないのでよくしらんが。
 私がツバメのため、自分は部屋の中で震え上がりつつも窓を開け放したままで暮らしていることは、母が近所の人たちにしゃべったらしく、ちょいと田舎の話題になった(笑)。「なんとまあやさしい」と「バッカじゃないの」の両極端だったようだ。しかしまあ寒かった。五月にこたつの中にもぐってふるえていた。連休の時の船橋競馬の寒さも、ほんとハンパじゅなかった。

 新しい彼女が出来てから、大助ツバメは私の部屋に泊まらなくなった。私としてはつがいで泊まればいいと思うのだが──今度は隣の部屋だし、ふすまで仕切るから私の生活にも支障はない──なんだか雌が今まで泊まっていた戸外にいいところがあるらしく、大助は尻に敷かれて、一緒に戸外に寝泊まりしているようだった。どうもこいつ、おんなの言いなりになるタイプのようだ。私はそういうのが大嫌いである。今までの実人生でも、おまえにはちょっとあきれた、つきあいたくない、と縁を切った友人は、みな女至上主義のヤツだった。男同士の友情よりおんなを取るヤツとはつきあえない。まあツバメだから怒ってもしょうがないが、どうもこいつ、ほんと尻に敷かれてる。


 蛍光灯の上に新しい巣が出来て、昨日ちょっと覗いてみたら、卵がひとつ産んであった。いよいよ雛をかえすために暖める時期になる。だが、どうも新しい雌のほうが私を少し怖がっているようなのである。前の花子は、私の間近でうるさいほどにさえずりまわり、おまえなあ、うるさいから静かにしろよと言っても気にしないほどだったのに、今度のは私の姿を見ると、キャッと言う感じで、卵を暖めているときでも戸外に飛び出してゆく。もっと大助がしっかり女房教育をしなきゃならんのだが、なかなかうまくゆかんものだ。

 上の写真は、初めて来た頃に撮った写真。この蛍光灯の左側に巣を作った。今は泥の巣でもって、蛍光灯は傾いている(笑)。落ちないといいが。


《ツバメ日記》(02/6/26)
 私のコンピュータ部屋に作った愛の巣(文字通り本物の〃愛の巣〃)を、前の雌ツバメと別れたため放棄し、次の雌とのために隣に部屋の蛍光灯の上に新しく作った愛の巣。
 ここに巣を作ることを許可し(当然蛍光灯は点灯できなくなった)、以来ツバメの出入りのために常時窓を開け放すようになる。さすがに強風の日や大雨の日は閉じたが、毎日朝四時には開けてやらねばならない。これはかなりたいへんだった。そのツバメ重視の生活は近所でも目立ったようで、私はとても優しい人の評価を得た(笑)。


 ツバメが毎日巣に座ったまま動かないので、そろそろだろうと、ある日覗くと、卵が四つ生んであった。
 この写真の日附を見ると5月27日。ちょうど一ヶ月前である。デジカメは日附や時間まで自動で記録してくれる。ほんとに便利だ。
 デジカメのISO調節などをしないままAUTOで撮っていたので暗いままだ。失敗した。今から撮り直しは出来ないので悔やまれる。


 わかりづらいが、三羽孵った。一羽は卵のままだった。真っ黒いのが小さな巣の中にうごめきあっている。
 ツバメの巣作りは、ワラや小枝を銜えて運び、骨組みを作り、泥を銜えてきて壁塗りをする。仕上げは羽毛だ。ふかふかであったかい。爪楊枝ほどのワラを運ぶのにも一回につき一本だ。短く見積もっても一度に往復百メートルは飛ぶ。この巣を作り上げるためにどれほどの距離を飛んだろう。たいへんな飛行距離である。といってもそれは感激すべきことでもない。なぜなら寝ているのが楽な人間が必死に働いたのならともかく、ツバメにとって飛ぶのは日常だし、種族保持のための当然の行動だからだ。つまりこれは仕事であり趣味なのである。他にすることはない。よって大げさに感激するほどのことではない。えっちらおっちら二階まで上がってきて一緒に観察していた母は、そのことで「母のありがたさ」を私に痛感させたかったようだが−−しきりに強調していた(笑)−−私は「種の保存」と、クールに見ておりました。


 きょうの最新映像。でっかくなったわ。日に日にでかくなる。飛び立つのももうすぐだ。

 ツバメは越冬のために秋に飛び立つから、それまでは巣にいるのだと思っていた。飛べるようになっても、生まれ育ったこの巣は愛しいものに違いないと、かってな思いこみをしていた。そうではなかった。一度飛び立つともう来年までこの巣には近寄らないらしい。それはこの巣を観察していて納得した。とんでもなく小さいのである。ぎゅうぎゅう詰めだ。この写真はまだ三羽が見えているが、ほとんどの場合、重なって眠っていた。下になっている雛が心配になるほどだ。つまりツバメの巣とは〃赤ちゃんのベッドなのである。成人したおとなが、いくら懐かしいとはいえ赤ちゃんベッドで遊ぶことはあり得ない。眠ったりもしない。サイズも合わない。そんなことをするオトナがいたらちと問題である。(「赤ちゃんパプ」ってのもあるそうだが……。)
 そう理解すれば、空を自由に飛べるようになり、急降下で生き餌を取って生きるようになった成鳥ツバメが、ここにもどって雛時代を懐かしむなんてことがあるはずもない。私としてはたまに遊びに来て欲しいが。
 もうすぐお別れだと思うから−−きっと気づいたときは飛び立った後に違いない−−毎日撫でさすっている。来年も帰って来いよと。触るとすごくイヤな顔をする(笑)。「ああ、早く飛べるようになりたい。そうすればこのニンゲンに触られることもなくなるのに」と思っているのだろう。後数日か。



(02/6/28)
 朝六時。ツバメの鳴き声に、昨夜窓を閉めたままだったことを思い出す。寝過ごした。飛び起きる。すると窓のところに子ツバメの一羽が飛び出し、飛べずにもがいていた。まだ飛べないのに、ガラス窓の外から呼びかける親ツバメの声に反応して飛び出してしまったのだ。30センチほどの高さのところでもがいている。手でつかみ巣にもどす。自然界の摂理のままだったら、せっかくあそこまで大きくなったのに天敵に捕捉されて一巻の終りだった。とはいえ、ガラス窓を開け忘れる人間の失敗がなければ、とびだすこともなかったと言える。原因はこっちにあるのか。巣立ちは近い。

(02/6/29)
 いやはや子ツバメの成長の早さには驚いた。今朝もまたいちばん育ちのいいのが巣から飛び立ち、飛べずにもがいていた。その音で目覚め、巣にもどし窓を開ける。昨日とまったく同じである。
 ところが午睡の後、もうそいつは飛び始めているのである。さらには負けるもんかと二番目も思い切って飛び出し、見事に飛んだ。左の写真は、いつも下敷きにされていて餌をもらうのも遅く、いちばん小柄だった三羽目である。まだ飛び立てず巣の近くを歩いている。それですらこんなに大きくなった。数時間後には飛び始めるだろう。
 と、振り返ったらいなかった。数時間後じゃなくて十分後には飛んでいた。いやはや早い。


 ヴェランダに留まったツバメ。左の写真と同じ構図のものが下にもあるが決定的に違うのは、下のは親ツバメ、これは飛び出した子ツバメが、誇らしげに座っているところ。最初は部屋の中、次はヴェランダの上を飛んでいたが、思い切って向かいの電線へ、それができるともう一気に高い梢にまで飛んでゆく。

 目の前のある湖で覚えた子供の頃の泳ぎを思い出した。小学校低学年の夏休みである。子供会(笑)の泳ぎの時間が毎日あり、当番の父兄が船に乗り、見守っていてくれた。最初は背の届くところで泳いでいる。いよいよ背の届かないところに挑戦するときはドキドキものである。まずは5メートルほど先のクイを目標にして死にものぐるいで泳ぐ。ほんの5メートルでも、息をつかず、死にものぐるいでバチャバチャやるだけだからなかなか進まない。背がもう立たないのだから決死の覚悟である。手がクイに届いたときはほっとしたものだった。そのクイにしがみついて休み、今度は10メートル先にチャレンジする。そうして覚えた。漁師の息子は同い年でももうはるか沖合まで平然と泳ぎに行っていた。その辺が悔しくて頑張ったものだ。短距離の速い子、長距離の速い子、泳ぎの速い子と、運動が得意なのにもいろんなパターンがあった。私は走り高跳びや走り幅跳び等、飛ぶのが得意な子だった。プールが出来るのは中学生の時だ。それまで泳ぎの得意な子は駆け足等と比べてヒーローになれるチャンスがなかったことになる。

 人と比べると動物は遙かに覚えが早く、なにごとも人間がいちばん成長の遅いことを痛感する。哺乳類でもみな生まれてすぐに起きあがる。おむつをあてがわれてずっとしもの世話になっているなんてのは人間だけだ。ツバメ日記、もうすぐ「完」である。
 結局、親と共に出て行った子ツバメ三羽は、巣に帰ってこなかった。外泊である。明日の朝、どうなるのだろう。もう来ないのだろうか。カラスやトンビがスズメやツバメの雛をねらって飛んでいる。離れの軒下に巣を作ったスズメは被害を受けたようだ。なんとか私の部屋で孵化することにより、猫の生まれ変わりとかってに決めたツバメに役立つことは出来たようだが、まだまだ天敵が多いから前途多難だろう。週に一度帰ってくる兄は、糞で家が汚れると軒下のスズメの巣を竹の棒で突つき壊して回っている。ま、兄弟でもいろいろだ。


(02/7/3)
《ツバメ基礎知識》
 調べものをしに町の図書館に行った。予想通りまともな本はなかったので、仕方なくせっかく出かけたのだからとパソコンで仕事をしてくる。何億もかけて作った真新しい建物なので机、椅子、ソファなどは極めて快適。
 百科事典でツバメについて調べる。すこし気になっていることがあった。見事に巣立ちし子ツバメたちも元気に飛び回っているので一息ついたとほっとしていたのだが、また親ツバメがやってきて、もういちど巣をかけそうな具合なのである。しかも最初の時と同じように私のパソコン部屋に新たに作ろうとしている。「ひとつの季節に二回雛を孵すのか?」これが調べたいことであった。ブリタニカ百科で調べる。あった。

 日本の関東地方にやってくるのは三月末から四月初旬。その通り。
 卵は通常五個。我が家の場合は四個で内ひとつが孵らなかった。
 孵るまでに二週間。それぐらい。
 暖めるのは雌のみ。そうだった。母は暖めるのも雌雄一緒と勘違いしていて、ツバメはえらいと主張していたが、これは間違い。実際に観察していると雌だけだった。
 餌をやるのは雌雄一緒。そう、雄も頑張っていた。
 巣立ちまで二十日間。そうか、そんなにかかったっけ。もっと早く感じた。
 最初は小さな餌、やがて大きめの昆虫を与えるようになる。そう、巣立つ前日、親ツバメがトンボを銜えているのを見た。
 巣立った後も一週間ぐらいは近所の電線に留まり、親から餌の取り方を学ぶ。夜は水辺の柳の枝等で眠る。あ、そう。図書館から帰り、ヴェランダから表を見たらその通りだったので撮ったのが上の写真。電線に留まっての練習飛行。なるほど、子ツバメはちょっと蝶々っぽくふわふわと飛んでいる。本来のツバメではない。どう見てもあれはまだ練習飛行だ。自力で餌は取れないのだろう。一回り大きい親ツバメ−−上の写真だと真ん中−−がそれを見守っている。
 餌はすべて空中捕獲。水を飲むのも空中から。スズメ類では最も飛行に優れている。ああそうなんだ。水辺に降りたってスズメみたいに水を飲んだりはしないんだね。空から水面に滑空していってピッと飲むわけか。すべての行動を飛びながら行うわけだ。
 巣はすべて人工物に作る。これはすごいなあ。天敵から巣を守れるなら立地条件さえよければどこでもいいと思うけど、そこまで人間に依存しているんだ。もちろんイワツバメなんかはべつだ。ツバメは大まかに分けると五種類いるらしく、私が見かけるようなのはただのツバメでいいらしい。スズメ科のツバメだけど人間への依存度、言葉を換えれば友好度は、スズメ以上なんだね。害虫を捕る益鳥であることから「しあわせを呼ぶ鳥」と評判がいい。なんだかすこしスズメがかわいそうになるが。これは米をついばむかどうかの差なのだろう。

 九月末に日本を去る。なるほど。
 浜名湖の一部には日本で冬を越す何百羽かがいる。そうですか。
 子は、自分が孵った場所にまたもどってくる。来年ツバメがもどってきたら、それは間違いなく今年ここで孵った子ツバメなんだな。楽しみだ。
 ひとつの季節に二度雛を孵す。ああやっぱりそうなんだ。これを知りたかった。どうにも九月末に越冬のために日本を去るにしては、六月で雛育て終りは早すぎると思っていた。後一回あるんだね、やっぱり。昨日見た親ツバメが小枝を銜えているのでそうだろうとは思った。
 といって、このパソコン部屋に新たに巣を作られるのはちとつらいなあ。どうしよう。絵的に汚いから紹介していないが、実は蛍光灯の下なんかフンだらけでたいへんなのだ。飛べない子ツバメが落としたフンがかなりの量だ。部屋中に新聞紙を敷き詰めていたが、それでも親ツバメが飛びながら落としたものがいくつか窓についたり電気製品についたりして掃除が面倒だった。既に完成している巣があるわけだけど、あれは来年補修して使うことはあるそうだが、今年もう一回をあそこで孵すのには使用しないようなのだ。どうも雰囲気からして。

 以上、家にもどってから思いつくままに一人でF&Qのようにやってみた。これを書くためにコピーしたほうがいいかなと思ったのだが、結局せず、メモなしで出来たからまだボケてはいない。以前は二時間程度のインタビュー記事をまとめるのにメモすらいらないぐらいだった。ほとんど記憶していて、印象深いことをまとめるだけで規定枚数がいっぱいになってしまうのだ。テープなんて未だに聞いたことがない。一応問題が起きたときのために録りはするが。

 もういちどそっちの部屋に作るなら応援しようと、敷き詰めた新聞紙も取り払わないままになっている。でも、興味を持っているのはこっちの部屋なんだよな。しかしまあ人なつっこい。私の目の前を飛び回っていて、頭上三十センチぐらいのところに留まっている。親ツバメがフンを落とすと言っても、以前いたとき、二羽が二週間ぐらい毎日部屋にやってきて、落としたフンは二、三箇所である。特に雌にふられた雄が毎晩一羽で留まりに来ていたときは、あいつは一度も落とさなかった。思っている以上にずっとマナーはいいのだが、やはりこの部屋はパソコン機器があれこれとむき出しになっていて、万が一を心配してこれらに新聞紙を掛けたりすると、いきなりバカっぽい雰囲気になってしまい、仕事部屋ではなくなってしまうのだ。なんとか今までの部屋で妥協してもらえないでしょうか、ツバメさん。

 しかしあれだな、こういうふうに勉強すればするほど、どう考えても私の部屋で毎晩寝泊まりしていた一羽の雄ツバメってのは異常だ。ツバメはみな川に近い柳の木などで集団で寝泊まりするらしい。なのに毎晩、私の部屋に夕方になると泊まりに来た。あいつを寂しがっている私を慰めに来てくれた猫の生まれ変わりと思うのはそれほど不自然でもない。なんて思ってたらまた目がびちゃびちゃになってきた。傷はいつ癒える。もう二年半。
02/3/3
うちあげられた鯨
(02/3/3)

 昨日のことだが。
 競馬の帰りの飲み会で波崎町に打ち上げられた鯨の話になった。ぼくの田舎の住まいから近いことから始まった話題だった。クルマで40分ぐらいの町だ。近いのかな? ぼくにも印象的な話題だったからこちらものって話す。

 外国で読んでいる人もいるのだから説明がいる。
 茨城県波崎町(利根川を挟んで銚子の向かい)にゴンドウクジラが50頭も打ち上げられた。体調は一メートル半、体重は150キロぐらいか。内半分は死んでいて半分は生きているというよくある話。それを外海に帰してやろうと、みんなでかつぎあげ、船に乗せて外海まで運んで放してやる、とテレビも大々的に報道する大騒動なわけである。まあそういう〃美しいヒューマニズム〃もそれはそれでいいのだろうが……。
 問題は、死んだ鯨の肉を食った漁師の連中を、まるで悪徳な人間のように報じるテレビがあったことだ。これには気分が悪くなった。「鯨を食べましたよね?」「罪の意識はないんですか?」なんてやってる。さらには警察が出動して、鯨の死体をかってにもって行かないように見張りまで始め、テレビはそれをさも当然と報道している。なんちゅうこっちゃ。

 地元のおばさんが快活だったのが救いになった。
「昔からねえ、海の神様の恵みって言って、よくあるんですよ、こういうことは。うれしいですねえ。鯨は煮て食えって親に教えられたので煮て食べました。ええ、ご近所にも配って喜ばれました。おいしかったです」と笑顔。
 テレビ局レポーターが言う。「罪の意識は感じませんか?」
 バカな質問にもなんら動じない。が「笑顔」とはいってもモザイク越し。なんでだろ。さすがに音声までは変えてなかったが。鯨を食ったとおばさんのところに抗議が殺到して迷惑を掛けることを考慮したのか。ヘンな国だね。正しくは、「抗議が来たと抗議されることをあらかじめ避けただけ」だろうけどね。

 昔から浜に魚が打ち上げられたら、沖までとりに行かなくても魚がとれたと、海の神様の恵みだと、漁師はよろこんでそれを食べた。ただそれだけの話である。なんでそれをテレビ局の連中に責められなきゃならんの。テレビ局のそういう視点はどこにあるんだろう。

 ぼくが朝日新聞(および朝日的なもの)や社民党などを嫌う根本にあるのは、「あんたらはどこの国の新聞(政党)なのよ」ってことだ。「たとえ殺されようと殺したくない」なんていう寝ぼけたことを言っているのは(いや、ぼくもむかしそんな考えの時代があったのだけど。お恥ずかしい)世界中探したって平和ボケした日本のサヨクぐらいだ。人は皆、大事なものを護るために闘ってきたのである。今も、そちらが侵すならこちらも闘うぞの姿勢があることによってバランスは保たれているのだ。男が闘って女を護ってきたのだ。いつも泣くのは女だけってのは演歌の世界だけにしてくれ。

 この種の連中のたわごとで理解できないのが、やたら「国連」とか言うことだ。国連は神様の作った機関じゃない。金を出して大国が動かしている組織だ。それを祭り上げてしまう人は力の綱引きである現実認識が出来ず理想論を振り回している愚者である。社民党の辻元清美がアメリカの同時多発テロ問題の時、さかんに国連を連発していたが、あれがバカの典型である。

 鯨を食ってきた文化の日本人が、浜に打ち上げられた、しかも死んだ鯨の肉を食って、なんで罪人にならなきゃならんのだ。しかもそれに抗議するのがグリーンピースなんていうアメリカ系キチガイ営利団体ならまだ笑って済ませられるが、日本のテレビ局なのである。この国はこんなに勘違いしたままどこに行くのだろう。こういうのを見ていると、なにも考えず、なにも感じず、さっさと死んじまうのがいちばんだなと思ったりする。

 一緒に飲んでいた二人も、「あれは食って当然」との意見だったので、気まずくなることもなく丸く収まった。めでたしめでたし。まあそういう気の合う友人だから飲んでいるのだが。
02/3/18
ダイヤルサーヴィスの不可解
(02/3/18)

 最近、小さなことだが、なんとなく引っかかり釈然としないことがある。から請求書が来るのだ。0061である。金額は一ヶ月5000円ほど。以前は利用していた。だいたい8000円ぐらいだったか。昨年12月から後藤さん経由で国際テレカを使うようになった。お蔭で一ヶ月の使用料が3000円ほど、約半値になった。安いし便利だ。プリペイドカードだから前払いだし、日本テレコムとは無関係のはずである。以前使っていたのは東京60キロ以内じゃないので03に回さねばならなかった。接続料である。今度のは00531に掛けるから接続料もないはずなのだ。

 それまでは日本テレコムやKDDや国際テレカなどを併用していた。それが昨年の12月から前払い国際テレカ一本にしたのである。ただの一度も0061を使っていない。使っていないのだからとほっておいたら、1月分、2月分と請求書が来て、払わないと止めると通知が来た。止めるも何も使っていないので意味がわからない。どういうことなのだろう。もしかしてこの00531に掛けると日本テレコムに接続料が取られるのか。でも公衆電話から掛けたこともあり、そのときNTTのテレカは度数が減っていないのだから、やはり00531は無料電話であろう。4月2日に止まるそうだから、そのときから00531が通じなくなったら、これは日本テレコムを通した有料電話だったことになる。

 それと不可解なことに、この請求書にはどこに掛けたかは記してない。それで日本テレコムのサーヴィスに掛けて、内容を教えてもらおうとしたら、なんとこれが自動応答なのである。いわゆるつながった瞬間に「××について知りたい人は1番を、△△について知りたい人は2番を」とやるやつで、まずこれが五つも六つもあり、その中からひとつを選び、自分の知りたい項目に繋がったら、さらにそこからまた同様に、「請求書の再発行は1番を、内容についての問い合わせは2番を」となって行くのである。深層を掘り当て、やっとのこと請求書の内容を送付しろというところにたどりついたのだが、そこからがまた呆れかえった。

 こちらの電話番号を口頭で言えと要求してくるのだ。感応するのはコンピュータである。そこでまた「あなたの番号は××××番ですね。正しかった1番を、間違っていたら2番を」である。もうこの辺でかなり切れそうになっている。まあそれでも番号だから、機械も比較的素直に認証できた。すると、である。今度は住所を言えだ。ちょっとこの辺で呆れかえり腹立って叩き切りたくなった。請求書を送ってくるぐらいのつきあいがあるのだから、電話番号からそちらは住所を控えているだろう。すぐにわかるはずだ。なのになんでそんなものまで今更言わせるのだ。なんとか冷静に冷静にとなだめ、電話機に向かって自分の住所を言う。が、しょせんコンピュータの認識である。こちらの名前や住所を正しく判断できない。ナカガワ町と言ったのをフカガワ町と取り「よろしかったら1番を、まちがっていたら2番を」とやられ、ノーの2番を押し、電話機の前で何度も「ナ・カ・ガ・ワ・マチ」としゃべっているのはほとんどマヌケである。

 ぼくはIBMのViaVoiceとかボイスATOKとかを持っているし、音声認識ソフトはかなり初期から興味を持ってやってきた。今では「手で打った方がずっと早い。しゃべると疲れる」との理由ですっかり飽きてしまい触らないが、それらのソフトで、さんざん同じようなことをやらされてきている。それは仕方がない。購入者のナマリや発音の癖を認知していないパソコンにそれを覚えてもらわねばならないからだ。それですら、こちらがマイクに向かって言ったことが正確に認識されず、滑稽な文章に変換されてゆくのを見ていると、笑う以前に落ち込んだものだった。それはまだ我慢が出来た。自分の文章をすらすらマイク入力するための下準備なのである。だけどいまここでやっているのは、覚えのない請求書に対してより詳しく中身を書いた請求書を送ってこいというために、こんなことをやらされているのである。なんでこんな苦労をせねばならんのよ。

 日本中にこのサーヴィスに対して不満を持っている人はたくさんいることだろう。それよりなにより、とてもじゃないがこれは、機械に不慣れな年輩の人や訛っている人や短気な人には出来ない。対応できない人が多いことは即ちサーヴィスのようでいて、実はサーヴィスではないのである。
 いやほんと、比較的ぼくはこういうものに対して対応力のあるほうなのだ。機械に弱いオヤジじゃないし、ほぼ瞬時に選択し、進めて行ける。そのぼくが苛立ってしまうのだから、機械に慣れていない人にはどれほどつらいことだろう。言うまでもないが、いくつもの選択肢から、6段階ぐらい進んできて、もうすぐ必要なものに届くところまできて、たったひとつでもボタンを押し間違えたら、また最初からやり直しになる。

 思えば、ぼくが初めてこのサーヴィス(もどき)に接したのは、外務省だった。外務省に国際結婚の手続きに関して電話を入れたら、この形式になっており、前記したように、なにが欲しいかで番号を選び、その中からさらに世界の地域で選び、国で選びと選択されてゆく。初めての時だったのでうまく出来ず、あまりの煩雑さにしばらくは近寄らなかった。上京して直接外務省に出かけたほうが早かった。
 と書いて思ったが、外務省ではなくて法務省だったか。ま、どっちでも言いたいことの大筋に違いはない。

 このサーヴィスが不便で不愉快で腹が立ったとしても、そのことを訴えるための人間が応答する電話番号は書いてない。機械的な応答にただはらわたが煮えくりかえるだけである。会社側は二十四時間応答する便利なお客様サーヴィスと思っているのだろう。これを設置することによって軽減できた人件費は相当なものに違いない。だけどどっちかというととこれ、便利なサーヴィスを設置してくれたと感謝するより、客を客とも思わない会社だとあきれ果てる感覚のほうが強い。

 些細なことなのだが、どうにもこの日本テレコムの件は、相手先番号のない請求書といい、機械だけの応対といい、心がささくれだって不快になる。そんなわけで今後絶対利用しない会社のひとつとして日本テレコム決定。




 結局そのまま払わないでいたら、払ってくれと電話がかかってきて、それで話をすることが出来た。簡単なことだ(笑)。
 覚えのない請求書の秘密はこんなことだった。数ヶ月前、私が父母に新しい電話機をプレゼントした。その最新の電話機は、自動でいちばん料金のやすい電話会社を選ぶらしい。よって母が頻繁に書ける千葉の兄への電話等を、自動で日本テレコムにつないでいたのだ。そのことで課金された料金だった。

 父は自動引き下ろしでNTTと契約しているから、聞いたこともない会社からの請求書を、ぼくが海外にかけたものだろうとぼくに回してきた。ぼくのほうでは覚えがない。前記したようにプリペイドカードに統一している。よって上記のような文章を書いた。我が家で使う15000円から20000円の電話代の内の何割かが日本テレコムになっていたということだ。

 こういう問題はよくあることらしく、女の係員は手慣れた感じで、「わたしらはべつにもあんたの会社なんか使いたくない」と言ったら、電話機の自動切り替えを切る方法を説明した。すぐに実行し、その後この問題は起きなくなった。

 それにしてもこの日本テレコムのダイヤルサーヴィスは不愉快だった。あの無機質な機械音に「よろしかった1番を、違う場合は2番を」と言われ、なんども電話機に自分の住所を繰り返していた場面を思い出すと屈辱で顔が熱くなる。日本全国で毎日何千人もの人が、あの指示に従ってしゃべっているのだろうか。(03/5/15)


02/3/10
甥のおいおい結婚式
(02/3/10)

 徹夜のまま、午後からボロボロの状態で出たくもない結婚式に出て夜十時に帰宅。ぶったおれて数時間。いま起き出して日曜の明け方。
 今まで何回ぐらい結婚式に出たことがあるか数えてないけど、まず間違いなく「ダントツでいちばんつまらない結婚式」だった。腹が立って腹が立って、腹が立ちすぎて笑ってしまうかと思ったけど、やっぱり腹が立っている。ぼくが物書きとして想像力をフルに発揮して、この世でいちばんつまらない俗悪な結婚式を作り上げたとしてもかなわない。あれだけのつまらなさはぼくには演出できない。想像力を遙かに凌駕した現実のつまらなさだった。よくぞあそこまでくだらないものが出来る。感心する。

 あまりに俗的な演出、式場側のつまらなさはともかく、つまらない祝辞、おもしろくない祝辞、それがあそこまで行くと藝術じゃないかと思うぐらい連続した。それが兄の息子という血的には近しい関係だったことが泣きたくなるほど悲しい。さらには出席していた親戚縁者全員がそういうものにそれなりに溶け込んでいたことがよけいになさけない(笑)。

 まあ元々ぼくは子供の頃から、絵に描いたような平々凡々一族の中の際だった変人だったのだけど、あらためて自分の一族が平々凡々な俗物の集まりってことと、そこにおいて、自分のほうがおかしいのではないかと思った部分も昔はすこしあったのだけど、そうじゃなく、自分が都会に出て、すぐれた人たちの中で恵まれた人生を歩んできたのだと確認した。自分が関わってきた数々のおもしろかった結婚式の中の、たいしたことが出来ず凡庸だったなと思うものでも、きょうのなんかと比べたら、感動ものの超スペシャル凝り凝り結婚式になる。

 このまま田舎にいると滅入ってしまう。人間ちゅうのは惨めな場に接すると、自分もまたそういうひとりなのかと、そのことで落ち込んでしまう。だけどその点には救いがある。いいタイミングで、今週は東京で、自分が学生時代から築いてきた関係の友人達との飲み会が連続する。きょうの結婚式のような俗的なものとは違う自分の世界があると確認できる。

 しかしなあ、今の日本はおおかたそうらしいけど、キリスト教徒でもないのに教会で結婚式を挙げて牧師の前でキリストに誓い、賛美歌を歌うなんてのは気違い沙汰だぜよ。そんなことを平気でやってるのは日本人だけだわ。で全員がそのことにきちんと対応しているならまだ納得するけど、出席者に賛美歌を歌える奴なんてひとりもいない(笑)。そのホテル内のインチキ教会がすぐに祭壇やら何やらをさっさと片づけ、今度はスモークもくもくの披露宴会場に変身だ。醜悪なテレビコントを見ているようだった。おれはあの外人牧師に聞いてみたかった。何度も愛だの永遠だのともっともらしいセリフを繰り返していたけど、あんたのキリスト様はこんな結婚式商売をしているあんたを許しているのかと。

 今じゃ金儲けのために教会側も平気になったけど、二十数年前は、「信者以外の人の結婚式は許されない」とキリスト教徒でもないのに教会で結婚式をあげようとする日本人を拒んだ教会も多かった。ぼくが初めて出たキリスト教徒でもない奴がキリスト教の教会で結婚式をあげるというくだらない体験は、学生の頃の目黒のサレジオ教会だった。まだ松田聖子が利用してなくて世間では無名の頃だ。たしかそれまではやらせなかったのに、その年から可能になったのだった。

 そういうことをしようとした友人といつしか切れてしまったのも当然だと思う。だって会いたくないもんね。感覚が違うから。でもきょうのはもっとひどい。ホテル内に作られた教会だ(笑)。結婚式ビジネス。なんていうの、マリッジなんとか? でもあいつほんとに牧師なのか? 日本の英会話学校の教師のほとんどが本国じゃただのチンピラであるように、あいつただの不良外人かも知れないな。まあこんなことにこだわっている自分がフツーの日本人として、おかしいとは思うのだけど、それで変人と呼ばれるなら、ほんと、変人でけっこうですわ。いや、教会の結婚式には文句はないんですよ。キリスト教信者が教会で挙げる結婚式はいいものだ。でもなあ、ぼくにはわからない。なんでたった一度の結婚式をあんなくだらないことでする。もっと友人でも親戚でもいい形の結婚式がいくらでも出来るだろう。わからん。


 もう五、六年前になるか。十年前チェンマイの『サクラ』で知り合い、今もつきあいのあるMさんがピサヌロークで結婚式を挙げた。奥さんの家でやるタイ式のものだった。その事細かな様子を「チェンマイ雑記帳」に書こうと思いつつ書かないまま来てしまったけど、きょうみたいな経験をすると、あれはいい結婚式だったなあとしみじみ思う。やはり忘れない内に書いておこう。
 あのサイ・シンという、出席者ひとりひとりが花嫁花婿の手首に糸を巻きつけて、お祝いのことばをかけてゆく儀式。細いタコ糸なのに、70本、80本と集まってゆくと、太い腕輪みたいになる。それは自然にすり切れるまで取ってはいけない幸運のお守りだ。庭の外に出た花婿が、屋内の花嫁のところにたどり着くまで、いくつものことばの関門(形式的なものだけど)をもうけて、そこを突破させてゆく遊び。Mさん、タイ語が下手だから苦労していたっけ(笑)。何人もの坊さん(3の倍数。それが結婚式の格になる。Mさんの場合は6人)による読経とひざまづいての誓い。ああ、なんていい結婚式だったんだろう……。そりゃあ結納金を坊さんの前の皿の上に花と共に並べ立て、世間に披露する習慣とか、日本人には戸惑うものもいくつかあったけど、なにより日頃の宗教とその形式による結婚式がなじんでいるのが心地よかった。と凄いことを書いているようで、世界中それがあたりまえだっての。日本だけだよこんなヘンなことしてんの。
 Mさんともしばらく会ってないけど、明日あたり電話して久しぶりに飲もう。今じゃ赤ちゃんも出来て三人、なかよく日本で暮らしている。奥さんもいくらか日本語が話せるようになっただろうか。



 いつものよう、マイナスの経験をプラスに転化するようにと考える。
 タイに長年関わり、ちいさな不満が溜まってきた頃、中国に頻繁に行くようになり、いかにタイがいい国であるかを思い知った。見直した。あれは僥倖だった。今回もそうしたい。
 好きな友達としかつきあわない生き方をしている。それを繰り返してゆくと、選びに選び抜いて親しくしている友達なのに、些細な意見の違いから、すこしずつ不満が溜まってきたりする。だけどきょうみたいな経験をすると、話してもつまらないと近頃交際を断っているような奴だって、きょうみたいな俗臭の中にいると、十二分に個性的で自分の考えを持っている際だった奴なのだと見直したりする。さらにさらにその上には、こちらが頭を下げてつきあってくださいとお願いしたいぐらい大好きな人たちがいる。今週飲み会をやる予定の人たちはそういう人たちだ。
 外国に長くいて、「ああ、日本はいい国だったんだなあ」と思い知るのもこんな感じなのだろう。

 ぼくはいま必死である。あまりにつまらないものに関わってしまったために、ぼくの心はゲシュタルト崩潰を起こしそうになっている。
 親がこの世にいなくなったらまた東京にもどる。それは近年実現するに違いない悲しい覚悟だ。でもそうなれば、きょうのようなとんでもない不幸な時間とは無縁の世界へと移行する。そこに希望もあると知った。田舎にいて、上手に妥協できずいらついているいくつかのことは、東京にもどればきれいきれいに雲散霧消する。もっともその分、犯罪のようなものと身近になるわけだが、それもまた当然のこととして覚悟していることだ。

 出る予定ではなかった。だが面子を重んじる兄に頼まれ、たったひとりの弟が出なくては気の毒かと、直前になって妥協して出た。もう出ない。もう妥協しない。実際に失った時間は半日でも、この惨めさは当分つきまとう。オレはなんでこんなつまらない空間でくだらない時間を過ごしているのだというあの感覚は肌にしみついたまま拭いきれない。妥協せずまっすぐに生きてきた。それで失ったものもあるが確かなものをすこしずつ重ねあげてきた。この歳になったのだからいまさらもうつまらん妥協は必要あるまいと思っている。と同時に長年かかって築き上げたそれは堅固なものだと思っていた。ま、鐵の固まりだと思ったら豆腐だったことになる。そこがまた情けない。そう、そういうものであろうことは出る前から想像がついていた。でもそれでも耐えられると思っていた。耐えられなかった。いや、これもすこし違う。それは想像を絶する世界だったのだ。
 よかったのだと考えよう。自分を確認できたのだから、これはこれでよかったのだと。
 そう、よかったのだ。ぼくはきょう学んだ。それは出席しなければ学べず、もしかしたらという幻想が未だに一人歩きしていたろう。

 きょうは日曜日。競馬場への出勤はやめよう。こんな気持ちで出かけたって当たるはずがない。と思いつつ、(でも意外にこんな気持ちの時が意外に……)なんて考えてしまう自分がかなしい(笑)。しょうがないよねバクチは。中毒なんだもの。
 きょうは行きません。昼から思いっきり酒でも飲んで、PS2でゲームでもしていよう。



 一時間経過。
 文章を書いていくらか冷静になってきた。
 思えば、ぼくは自分の出身校である大学にも、在籍していた頃は、まったく誇りを持っていなかった。思いつきでとりあえず入ったに過ぎない。だけど社会に出て、その他大勢の人と接することにより、それまで自分がいかに優れた人たちの中でしあわせな時間を共有してきたのかと思い知った。以降自分の居た大学とそこで知り合った人々をすなおに誇るようになった。心の中に誇りが形成されていった。社会に出ず、たとえば象牙の塔にこもるような人生を選んだなら、今のこの自覚と誇りは生まれていない。これは異なる感覚の人々と接することによって生じた誇りだ。
 女房だってそうだ。数々のいいかげんな体験を通し、うんざりし、惨めな思いをし、そういう中から、この女ならと決めた。彼女の性格にも甲斐甲斐しさにも満足している。感謝している。これまた自慢できる存在だ。だけどこれもその中に埋没していたら忘れてしまう。不満だけが増長してくる。
 きょうの経験を他山の石としよう。あらためて自分の世界を誇りに思おう。この格言の「石」とは、くだらないものの意味だ。だからことことばを貴重なことに使うのは間違いになる。きょうのはほんとうに「他山の石」だった。

 冷静になってまたひとつ思った。やはりこれは近親の結婚式だったことが大きいようだ。たとえばこれが仕事上の形式的なつきあいだったなら(ぼくの場合はそんなものはないけれど)、どんなにつまらない結婚式でも、ぼくはそれなりに楽しんだのではないか。それどころかつまらなければつまらないほど「こりゃいいネタになる」とほくそ笑んだのではないか。そうだな、やはりそのことが大きい。

 子供の頃からありとあらゆることに関して感覚が違い、何でこんな人とおれは兄弟なのだろうと不思議に思うほどの兄なのだけれど、心の一部では未だに自分と通じるものがあるに違いないと密かに期待していたのだろう。そしてまた世間的には、兄は成功者であり、ぼくは未成功者だから、自分も世間的成功者と通じるものをもっていると思いたかったのかも知れない。いや、ぼくの考えはそれほど見当外れではない。兄は、自分が神前結婚式を紋付き袴姿でやった人なのだ。いい結婚式だった。保守的な日本人としてはぼく以上の人だった。今回の結婚式も主役は甥であろうとも費用等を一切負担するのは兄である。今の時代を考慮し甥の好みにある程度妥協したとしても、かつての兄らしいそれなりの頑固さを期待したぼくは、それほどズレていたわけでもなかろう。ところがズレていた。そこには流されるまま、すべてすなおに受け入れるだけの兄がいた。ただこれも当然だと思う。そういう兄だから会社の指示に従い、人殺しの薬も体にいいですよと売りまくって出世したのだ。企業論理以前に人間としての正義を考えてしまうぼくのようなものが会社組織からはみ出してしまうこと、適応した兄が出世したこと、その兄の行う結婚式であること、すべて筋は通っている。筋違いをしたのは、出席したぼくである。武器を構えた強盗の前に「話せばわかる」などと出ていって殺されてしまう人を嗤いながら、そういう行為をしたのはきょうのぼくだった。
 きょうぼくは、兄や姉、甥と姪、そして親も、親戚も、血縁者すべてが自分とは感覚の違う世界の人なのだと確認した。あらためての絶縁である。だけどぼくには、ぼくと同じ感覚の友人がいっぱいいる。近親者とは絶縁感覚でも、今までの人生で築き上げてきたツーカーの仲の友人がいる。それを誇りにし人生の礎にしよう。

 しかしまあ、たまらん一日だった。立ち直るまでにしばらくかかりそうだ。女房に会いたくなった。十日ぐらい雲南に行って来ようかな。あ、今から電話しよう。
02/4/28
田舎の葬式


 いい天気だ。きょうは先日九十九で亡くなった伯母の葬式である。九十九はは満であり、墓標は数えの百になるようだ。
 ぼくは出ない。それを決めて東京に出た。

 田舎の風習は奇妙だ。亡くなったと連絡が来た。出かける。そのとき持ってゆくのが「病気見舞い」なのだ。もう死んでいる。死んだとわかって、連絡が来て、そこに出かけるのに、あえて死んだことをまだ知らないと装い、病気見舞いを持ってゆくのである。当然それは赤い袋に入れる。形式的にまだ死んでいないのだから黒い袋に入れていったらとんでもない失礼に当たる。この辺が不思議でならない。そうして亡骸に挨拶し、翌日が通夜。今度は黒い袋に通夜見舞いを入れてゆく。さらに翌日葬式で、今度は香典である。

 その他にもいろいろある。今回の葬儀に近しい我が家の場合だと、玄米一俵、行器代、女人中(手伝ってくれる近所の女へのお礼)、取持(同じく男へのお礼)、花輪、果物籠、洗頭(棺桶担ぎ者へのお礼。誤字ではない)である。古い家なので特別に面倒なのだが、二十万程度は出費する。

 十年ほど前までこの地方は土葬だったので、洗頭の習慣が残っている。田舎のぬかるんだ道を棺桶を担いで数キロ歩くのはざらだから、たいへんな仕事だった。近所のおじさんがなるが、自分にはもう無理なのでと他の人に代わってもらうこともあった。そういえば、土葬の頃は墓堀り人夫もたいへんだった。あまり間がないと先に死んだ人の骨や髪の毛が出てきたものだ。子供だから怖いもの見たさで覗きに行ったものである。

 この辺の習慣は部落によって微妙に違い、今回の洗頭は七人だった。ぼくの今いる家の近所では五人だそうな。ああ、もちろんぼくがこんな細かなことをことを知るはずがない。すべて父母からの受け売りである。いま取材してきて(笑)書いている。
 洗頭とは三途の川を渡る船頭にかけてあるのだろう、六尺のサラシのふんどしを締めて棺桶を担いだ。そういう七人の男にサラシの六尺ふんどしを用意するのも喪家の仕事である。若い嫁などは知らないだろうから年寄りから教えてもらってゆく。そういうとこから若者は年寄りに敬意を抱くようになる。こういうしちめんどくさい習慣が人と人を繋ぎ、田舎のコミュニケーションとなっていたのだと知った。ぼくは田舎生まれの田舎育ちだけれど、十八から東京なので、この辺のことを何も知らない。

 上記、部落と書いたが、この地方ではそれは集落をあらわすごく普通の言葉で、ぼくが子供の頃の運動会のメインは、小学生から中学生、高校生、青年、中年とバタンがわたってゆく「部落対抗リレー」だった。メインらしくたいへんな盛り上がりだったものだ。ぼくが同和問題における部落の意味を知ったのは大学に入ってからである。そういうよけいな知識を必要としないこの地方のおとなたちは、今も素直にこの言葉を使っており、それは好ましい傾向だと思っている。
 でも学校においては、部落対抗リレーは今、「地区別リレー」となり、障害物競走が「山あり谷あり競走」となってしまっている。日教組による全国制覇である。くだらん。これもまたひとつの言葉規制である。
02/5/26
危険話
-夕暮れの無灯火(02/5/26)

 昨日、危ない目に遭った。 旧道(細い道)からパイパス(広い道)に出るときだ。左右を見、クルマの来ていないことを確認して発車しようとしたとき、左からスゴイ勢いでふっとんでくる乗用車が目に入り、急いでブレーキを踏んだ。なんとか事故にならずに済んだが、それは偶然の幸運だった。
 時刻は午後六時四十分。いわゆる薄暮である。いちばん危ないと言われる日没ギリギリの時間だ。私はすでにライトを点けていた。十分に注意したつもりなのになぜそんな危ない目に遭ったかというと、そのクルマがスモールライトすら点けていなかったこと、そして車体の色が黒であったことだ。田舎の道である。左右から何も来ないことを確認して発車しようとしたそのとき、左手からなんか黒いものがつっこんできているのがかいま見えた。ブレーキを踏む。時速80キロぐらいのクルマが目の前ギリギリのところを走り抜けていった。ライトを点けていたので、あちらはこちらを確実に確認していたろう。自分が通り抜けるのを待っているはずのクルマが乗り入れてこようとしたので、あちらも驚いたろうが、こちらも肝が冷えた。
 事故になった場合、私のほうは軽自動車であり、横っ腹である。あちらは2000ccクラスの乗用車であり80キロのスピードを出していた。まっすぐに突っ込んでくる。私のクルマがぐしゃぐしゃになって即死、あちらは軽傷のパターンだったろう。死人に口なしである。事故現場検証は私の前方不注意で終りか。

 事故にならなかったことを"偶然の幸運"と書いたのは、思い出すにも恐ろしいが、咄嗟の時、突如として視界に現れた真っ黒な物体に焦った私は、ブレーキではなく、なんとアクセルを踏んでいたのである。走ってくるクルマを確認し、急ブレーキを踏むはずが、アクセルを踏んでいた。そのクルマの真ん前に、さあ殺せとばかりに飛び出したことになる。それがなぜ助かったかといえばマニュアル車だったからである。左足でクラッチを切っていた。ブレーキと間違えて踏んだアクセルは空ぶかしとなり、前進しなかった。そのぎりぎり前を80キロのクルマが通り抜けていった。オートマ車だったら死んでいた。思い出すだけで冷や汗が出る。
 念のために自己弁護しておくと、私は二十年近く無事故である。運転は、無茶もしないし慎重なほうだ。ずっとゴールド免許である。アクセルとブレーキを取り違えるなんて初めての経験だった。それだけ薄暮の中を猛スピードで突っ込んできた真っ黒なクルマの突然の出現に驚き焦ったのである。



 インドには真っ暗な道を時速百キロで飛ばすバスがあるそうだ。そういう噂は私も聞いたことがあった。どなたかの旅行記にそれに乗車した怖い体験談があった。噂通り、真っ暗な道をを百キロでぶんぶん飛ばすそうである。恐ろしさにふるえつつ質問したら、見えるから心配するなとのことだったよし。もちろんライトはあるのだ。見えるから、という理由で点灯しないのである。
 インドのことは知らないが、タイでは何度も同じ事を経験している。夕暮れではない。もう真っ暗なってから。私は乗用車だったりバイクだったりした。ライトは点けている。
 脇道から大通りに出ようとする。左右からは何も来ない。乗り込もうとするそのときに、急ブレーキの音。こちらの車体ギリギリのところにバイクが急停車する。真っ暗な中、黒い顔の男がボロいバイクに乗っている。危ないところだった。あちらはこちらが見えている。夜目が利くのだろう。向こうの言い分からすると、自分はまっすぐに進行している、そこに脇道からいきなり私が乗用車で大通りに出てきた、危ないではないか、なぜ自分が通り過ぎるまで待たないのか、となるのだろう。だが彼は無灯火なのだ。ライトが壊れているのではない。夜目が利き自分が見えるからライトを点けていないのである。こちらからすると闇夜のカラスであり、彼の姿はまったく見えていない。

 ここにおける彼の間違いは、暗い道でライトを点けることを、「自分が前方を見るため」に限定解釈していることだ。自分は暗い道でも目が利くのでライトを点けない。点けなくても見えるから問題なし、となる。だがライトを点けることは、暗闇において、他者に自分の存在を知らせることでもある。むしろその意味のほうが大きい。そのことがわかっていない。そしてまた、「自分が見えるから、相手も見える」と勘違いしている。誰もが夜目が利くわけではないのだ。

 最初福井県で実験的に始まり、やがて日本中に普及したバイクの常時点灯が、一気に事故を減らしたのは有名な話である。この場合も、トラックなどの大型車に巻き込まれやすいバイクが、ここにいるよと、その存在を他者に知らせる手段としてライトは役立っている。今の日本のバイクはエンジンを掛けると強制的にライトが点く。アジアではまだそれをしていないようだ。タイで、昼に点灯して走っていると、多くの人がライトが点いているよと身振り手振りで教えてくれる。これは私が高校生ぐらいの時、日本でもあったことだ。ここでの感覚は、間違ったことをしているよと教えてくれるよりも、「無駄な電気を点けてもったいないよ」であったと思う。

 タイにおける親切なおじさんおばさんの忠告も、不用にライトを点けると目減りしてもったいないことから来ているのだろう。家庭における無駄な点灯のように。実際バイクのライトも頻繁に点灯していれば多少寿命は短くなるだろうけど……。でもそれ以上に大切なのは安全だ。



 昨日に引き続き、薄暮の街を走った。今度は田舎道と違い市街地だ。かなりの交通量である。昨日のことがあったのですこし観察気分で道行くクルマを眺めた。やはり十台の内、ライトを点灯しているのが三台、スモールライト点灯が五台だとすると、既にもうそういう時間なのに、まだなにも点けない状態で走っているクルマが二台ぐらいの割合でいる。この人たちもきっと目のいい人で、「まだライトを点けなくても見えるから大丈夫」という自分中心の理屈なのだろう。

 以前、足首を捻挫し、まともな速さで歩けなくなったとき、それまで便利な街としか思っていなかった東京が、段差と階段が多く、信号の切り替わりも早く、いかに体の不自由な人にとって意地悪な造りになっている街かと思い知らされた。それはケガをしなければ絶対に学べない貴重な経験だった。「自分は見えるから」とライト点灯を怠る人も、私の捻挫のように、なんらかの不慮の事態を経験するまで、一方的なその論理の缺点には気づかないのだろう。その人はいいけれど、そのクルマに迷惑を受ける人が気の毒である。

 交通事故に関し、識者から聞いた「ヒヤっの法則」が頭に残っている。「ヒヤっとすることが三十回で一回の事故になる割合」なのだそうだ。今回のような私の体験がそうである。何回目だろう。事故が起きる三十回目のヒヤッに対して、一回一回体験を積み上げているのだと思うと、まるで十三階段を上り詰めているようで気が重くなる。
 しばらくは悪夢にうなされそうな厭な体験だった。
 運転を職業としている人なら、日に何度も体験している程度のことなのかも知れないけれど。
02/7/2
《常在戦場、ジャージーはだめよ》
(02/7/2)

 火曜の朝、パソコン改造用の金ノコを買いに数キロ離れたホームセンターに行ったとき、レジの辺りに見たような顔を見た。午前十時ぐらいだった。
 しばらく考える。背の高さから彼が小中学校が同じの二級下のヤツだと思い出した。高校も同じだった。それ以来だから会うのは、三十年ぶりぐらいになる。185センチぐらいあるか。小学校の時から頭ひとつ抜けて大きなヤツだった。早稲田に進み教員になり、昨年だったか小学校長になったと聞いていた。私の父などは師範学校を出た教員がほとんどいない時代・地域であることもあって三十代で校長になっているが(親戚には二十七歳で女学校の校長になった人がいる)、近年では国立大学の教育学部を出ていても退職間近の五十過ぎにやっと田舎の小さな小学校の校長になれる程度の狭き門だ。四十代半ばでなった彼はその意味でも目立っているわけだ。つまり近所の出世頭である。彼の消息も、息子が二人いながら二人とも教員にならなかったことが未だに残念な父から聞いたことだった。興味があるから詳しいのである。田舎の教員の息子はみな世襲制のように教員になっている。ならないのはうちぐらいだった。父は強制しなかった。それがなにより偉いと思う。なにしろハッキリ言ってしまえば、バカ息子が推薦だのなんだので三流大学に潜り込み、さらにはコネを使って教員になる歪んだ社会だから、なれるだけの能力を持っていながら二人ともならなかったのは、本当は跡を継いで欲しかった父としては内心かなりの無念があるはずだ。まあその分、娘が教員に嫁いだし、そこからまた孫が教員になったからそっちで満足してもらうしかない。前記優秀な彼は農家の息子である。

 見渡す限り水田が広がる純朴な農村地帯において、彼と私は当時の優等生だった。三流高校から早慶に進んだのも二人しかいなかったし、その後もほとんど出ていないぐらいだ。つまり当時の注目株である。で一方は見事に若くして校長先生になったのだが、もう一方は、近年親元にもどり老父母を医者に連れて行ったりして親孝行はしているようだが、正体不明なのである。なにをやっているかわからない。失業者であろうか。となる。信じられないことだが、この人格高貴にして才発賢明、意気軒昂にして優柔不断なこの私は、ご近所でそう思われているらしい。売れてないことはかなしいことだ。じっと手を見る。
 まあ俗世間の衆愚に真のジーニアスの価値はわかるまいとそっちに関しては居直ればいいのだが、本人がかなしいと思ったのはこの後だ。私は彼の姿をホームセンターの工具類の置いてある棚から見かけた時、思わず隠れてしまったのである。朝風呂に入った後からパソコン改造を始めた私は、もろに風呂上がり田舎オヤジそのままの、よれよれのジャージーに首の周囲が伸びてしわしわになったTシャツ姿だったからである。この黒のTシャツは何十枚も持っているものの中でも(思いつきでよく買うものだから数だけはある)図抜けてひどいものだった。まともならとうのむかしに捨てている。でもなぜかチェンマイで買ったもので、妙に愛着があり、自分でもこりゃひどいなあと思いつつも着ていたのだった。よりによってそのボロっちいTシャツである。さらにいえばジャージーの下も数ある中で最もかっこわるいやつであった。ぐうたらおやじの定番であるジャージーにだって上下はある。それは下の下であった。最悪の組み合わせである。一方彼は、校長室からちょいと買い物にでも来たのであろうか、それなりの風格を持った背広姿である。校長先生の格好だ。見た目は大きいなあ。ほんとこの場合、見た目の話なのである。

 去りゆく彼の薄くなったつむじを工具類の棚からそっと覗きつつ、私は昨日の姿を思い出していた。昨日東京に行くとき、私はきちんとした格好をしていたのである。黒のパンツに襟なしのオフパープルのシャツ、アイポリーのジャケット(中国で買った安物だけど)ラフではあったけど、なかなかいい着こなしをしていた。センスはいいからね。アパレル出身だから。ほんと。あの格好だったなら、私は彼に近寄ってゆき、久しぶりだねと挨拶し、しばしの世間話をしたろう。現況を尋ねる彼にもすなおに自分を語ったはずだ。それがあまりに落ちぶれたと思われそうなひどいかっこうだったゆえ、思わず隠れてしまったのである。これまで生きてきて初めての経験だっただけに、些細などうでもいいことなのだがなんとも心に残った。そんなことをした自分が惨めになった。見栄とか見た目とかとは無縁の世界に生きてきたので、まさか自分がそんなことをする人間だとは思ってもいなかったのである。

 この文章に深い意味はない。ただ、見た目は大切だとそう言いたいだけである。
 以前、高校の同級生に偶然会ったとき、彼女は買い物帰りの主婦のかっこうであることをしきりに恥じていた。これも臆面もなく言ってしまえば私は優等生であり目立っていたから、平凡だった彼女からするとそれなりの存在だったのだと思う、当時。彼女からするとやつれた(?)主婦の日常姿で会いたくはなかったのだろう。だがその時の私の気持ちは、彼女は学生時代もそのときも決して美人ではないし、苗字もよく思い出せないほどのクラスメイトでしかなかったから、女ってのはつまらんことに気を遣うものだなと思ったに過ぎなかった。ずいぶんとプライドが高いものなのだなと。

 私の母は、気分直しに散歩しようと私が誘うと必ず着替える。そのままの普段着では出かけない。散歩といっても実際に歩くわけではない。ゆっくりと田舎の山林の中を五キロぐらいドライヴするのである。母は、様変わりしてしまった景色を見て、昔はここになにがあっただの、あの家は今は寂れてしまったがすばらしい名家だったのだと懐かしがったりする。私もパソコンに倦んだときの気分転換にちょうどいい。車内にいるのだから誰にも出会わない。でも必ず着替える。どこで誰と会うかわからないと言ってこちらを待たせても着替える。大地主の娘として蝶よ花よともてはやされて育った誇り高い彼女にとっては(もうその高すぎる誇りが私はイヤでねえ、子供の頃から)、よれよれの服を着ているところを万が一なにかの間違いでかつての小作人などに見られたらたまったものではないということらしい。八十のババアがなにを着ていようとたいした問題ではあるまいと毎回その過剰な自意識を苦々しく思っていたのだが、今回の件で痛感した。母が正しい。人はいつどこで誰と会うかわかったものではない。そのときに、恥ずかしくないかっこうをしていなければならない。現に私は服装が恥ずかしくて隠れてしまった。これもまた「常在戦場の心」であろう。私は戦場において闘う前に逃げてしまったことになる。いや違うか。戦場に鎧甲冑を忘れたのか。褌一丁だったのである。恥ずかしい。よって私もこれからは、コンビニに飲み物ひとつ買いに行くときでも、ジャージー姿はやめようと誓った。

 今は火曜日の朝。これからコンビニに週刊アスキーを買い、アサ芸を立ち読み(後日送ってくれるから買わない)に行くのだが、ええ〜、着替えなきゃなんないの。めんどうだなあ。このままジャージーがいいんだけどなあ。朝だし、誰にも会うわけないし、すぐに帰って来るんだし……。
 ぼくはまだ戦場にはいないようである。

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