自分の好きな演目を聞き比べ、自分好みのいちばんの噺家を書くのだが、ほとんどの場合は志ん朝になってしまう。問題はそれである。しかしかといって何人もの噺家の名を出したいからとそのための好きでもない演目選びをしたら不自然であろう。すなおに書くことにした。よって多くの根多に志ん朝の名が並ぶことになる。 しかし原則として、あたりまえだけれど、志ん朝が最高なので他は聴かずに書いたというものはない。最低でも五人は聞き比べたもののみ書くことにした。 ということで結局志ん朝のことばかり書くことになるだろうから最初に思い出話を書いてみる。 私が志ん朝の名を知ったのはフジテレビの「サンデー志ん朝」でであった。昭和38年である。その前の「若い季節」も見ていたから顔は知っていたが落語家であることも名前も覚えなかった。 「若い季節」なんてのはつまらない番組だった。当時もつまらないと思ったし今もそう思う。「お笑い三人組」等も。一貫してNHKで感心した覚えは一切ない。NHK嫌いは当時からだ。ならなんで見ていたかと言えばそれしかなかったからである。やたら当時を持ち上げる人がいるがあの感覚がわからない。今の方がずっとよい。 当時『週刊新潮』が毎週発売日の前日に「赤とんぼ」のメロディに載せ、女の子の声で「週刊新潮はあした発売で~す」というテレビCMを流していた。この番組はそれを模した「サンデー志ん朝が今から始まりま~す」とやっていた。タイトルも志ん朝主演のヴァラエティ番組であり日曜日に放送だからサンデー志ん朝なのだが、当時の二大週刊誌の「サンデー毎日」と「週刊新潮」の名をもじってもいた。私はそのタイトルと、CMのもじりから「パロる」ということをこの番組で初めて知ったのだった。当時パロディということばは一般的ではなく田舎の小学生だった私が知るはずもない。でもこういう感覚は好きだったから毎週見ていた。競演の谷幹一も好きだったし。全然関係ないが、このころの由利徹と佐山俊二の二人コントはおもしろかった。 しかしでは志ん朝が好きだったかというとそうではない。むしろ嫌いだった。落語家とは思えないかわいい顔の青年であり、多芸多才で活躍していることにむしろ反感を抱いていたのである。姉兄の買ってくる「明星」や「平凡」で見る真っ赤な外車に乗っているかっこ良さにも反発した。その他の落語家と違いすぎていた。 当時の高座を見ている小林信彦さんによると、そういうイメイジを持たれていたが、高座では古典落語をしっかりやり、マクラでも芸能界やテレビの話などは一切しなかったという。浮ついていなかったのだ。そういう切り替えの出来るしっかりした部分など知るはずもないから、当時から寄席番組は缺かさず見ていたが、他の地味な落語家を応援し、私は志ん朝に決して好意的ではなかったのである。それはたぶんに嫉妬だったのだと思う。 ついでながら「寄席番組を缺かさず見ていた」というのも別に落語ファンだったわけではなく、当時はお笑い番組といえばそれしかなかったのである。そのころから落語よりも漫才が好きだったし、落語も米丸や柳昇の新作落語の方が好きだった。わかりやすいしおもしろいのだから当然だ。そりゃ田舎の小学生でこの時期に古典落語が好きだったら異常である。まして周囲に落語好きなどひとりもいなかったのだから。 それでもこの当時聴いた「千早振る」や「目黒のさんま」「長屋の花見」等はよく覚えている。テレビは持ち時間が短いからかよく「寿限無」をやっていた。当時からくだらない話だと思ったものだった。のちに前座話と知りさもありなんと思う。時代の寵児は歌奴の「授業中」と踊りまくる三平だった。 いま落語を聴けば聴くほど志ん朝の秀でた藝に感嘆し、巨星を失った現実に愕然とする。だれもが口にすることだが「枯れた志ん朝も見てみたかった」。でもそれはもう叶わない。 と気張って一気に書かなくても最初はこんなものでいいか。なにしろこの巨大なファイルになるであろうこれの大部分は志ん朝のことを書くのだから。(05/8/3) |
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古今亭志ん生の出囃子である。好きで好きで普段でもいつしかトテチチトテチンチンと口ずさんでいることがある。三味線のチョーキング(?)もじつによく、ギターで模したりもした。 なんといってもメロディの良さだが三味線と太鼓の絡みもまたいい。笛が入ったVersion(実際に志ん生が使っていた)もあるが笛はきらいなので私にはないほうがいい。笛入り「一丁あがり」はほんのいくつかの根多でしか聴けないからむしろ貴重品か。 志ん朝の出囃子「老松(おいのまつ)」が嫌いである。志ん朝に関して唯一嫌いなものになる。「あの華やかな出囃子」と絶賛している評論家も多いし、なにより志ん朝自身が気に入って使っていたのだろうから、あれを聴いただけで涙ぐむファンも多いことだろう。だが私はどうにもあの笛の音がヒステリックに聞こえて好きになれない。これからもこれだけは無理のように思う。 談志の「あの町この町」もいい。さあいよいよこれから始まると浮き浮きさせてくれる旋律だ。手拍子を打ちたくなる。 その他名人上手の出囃子に関してあれこれ言われているが、私には「大好きなのが志ん生と談志。どうにも志ん朝の老松が好きになれない」が出囃子に関してはすべてになる。 そうか、もうひとつある。圓生が「圓生百席」でやった全演目で出囃子を替えたのは凄かった。こんなメロディもあるのかと感心させられたモノもあれば、ヘビメタみたいな怒濤の進撃もあり、こりゃすげえやと目を見開かされた。プロデューサの京須さんは圓生定番の「正札附(しょうふだつき)」だけでやろうとしたらしいが、それじゃ藝がない、毎回替えましょうと圓生が提案したらしい。最後の方は出囃子がなくなってきて苦労したらしいが今となっては圓生の凝り性がいかにすばらしかったかを示している。自分でも歌っていて歌手・圓生が楽しめる。観客のいない落語は好きではないのであまり熱心に「圓生百席」は聴いていないけれど。 このサイトhttp://arata.page.ne.jp/debayashi/は代表的な出囃子を聴かせてくれる。ありがたい骨折りである。感謝。 単純な電子音なので風情はないが、逆にまたメロディだけを純粋に聴くことが出来るとも言える。ここで「老松」を聴くと、いい曲なんだなと思う。要するに笛の音が嫌いなのだとあらためて確認した。まだまだ「この出囃子は誰でしょうクイズ」に答えられるほど体に染みこんでいない。この項はまた書き足すことがありそうだ。(05/8/3) 【附記】 出囃子演者の実力──あらためて圓生の凄味 私の持っている出囃子を集めたCDは2枚である。1枚は60余曲ほど。もう1枚、20数曲のを先日手に入れた。ともに音的には気に入らない。 志ん生の「一丁あがり」でも、聴いてて、いいなあ、うまいなあと思うパターンとそうでないものがある。なにしろ当時のものは音源にすら「収録日不明」とあるぐらいだから、近年のCDとちがって奏者のことまで書いてあるはずもない。これほど大好きな「一丁あがり」なのだから、機会があったら「××社のCD、演目××での出囃子『一丁上がり』が最高」と書いておきたい。たしかにそう感じる逸品があった。 60余曲でもほぼ網羅となってしまうのに、圓生は『圓生百席』で演目毎にぜんぶ出囃子を替えた。200を超えたという。さすがに150を超えるあたりからは苦労したらしい。すさまじい凝り性である。(05/8/8) |
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義太夫語りに凝った旦那に周囲のみんなが迷惑するというお話。 タイトルであり落ちになっている、泣いている小僧が「そこがあたしの『寝床』なんです」となる正当なものと、志ん生が創りだした脱線して突っ走りシュールな笑いで下げるふたつに分かれよう。 93年に出た「落語ワンダーランド 志ん生!」では、表紙に「志ん生って? たけしより凄いんだ」とのコピイがある。当時、志ん生の斬新さを伝えるのに最も効果的なフレイズだったのだろう。読売新聞社の出したこのムック本、すばらしい企劃なのに内容がいまいちでもったいない。 私はたけしというより、昭和40年代中期に筒井康隆から学んだスラップスティックでシュールな、いわゆるハチャメチャを、それよりも遙かに早く実現していたんだなと、志ん生の天分に思いを新たにした。昭和30年である。嬌声をあげて笑い転げる観客。たいしたもんである。演者も客も。 「へたな義太夫を語る旦那、逃げ出す番頭、義太夫を唸りながら追いかける旦那、蔵の中に逃げ込み中から鍵を掛ける番頭、明かり取りの窓から義太夫を吹き込む旦那、蔵の中に義太夫が渦を巻く、七転八倒する番頭」と一気にたたみかけ、「翌日番頭は書き置きを置いて行方不明、いまじゃドイツにいるという」でさげるぶっとんだ感覚。どこにも「寝床」なんて出てきやしない。義太夫語りの音曲的な部分も最初から捨てている。あくまでも志ん生流の笑いに徹した一品だ。 これに感化された談志は落ちを「カムチャッカで鮭をとっている」とマイナーチェンジして使っていると書いていた。息子志ん朝は「共産党にはいっちゃった」とやったらしい。この感覚もたまらない。ところがクレイムがついて(誰だろう、共産党員から?)元のおとっつあんの「ドイツに行っちゃった」にしていたが、晩年(なんて使いたくないが)は、自分のそれにもどしていたそうだ。聴きたかった。市販の音源にそれはない。 しかしこれはあくまでも志ん生流の獨自の笑いの世界であり、別格とか特編にすべきように思う。やはり「寝床」は素人義太夫語りの「恐怖」から判じたい。 ------------------------------- 正当な「寝床」はまたふたつに分かれる。とはあくまでも私なりの分類。ほんとの通なら「××型と△△型」と分類するところだ。そこまで通ではない。 旦那の素人義太夫の恐ろしさを声色で模して真っ当から伝えるものと、そこはパスして、それに脅える周囲の連中のおかしみから語るものである。いやべつにふたつには分かれていないか。この演目のおもしろさは、素人義太夫に迷惑する周囲の連中のあれやこれやであるから、その怯えの中に、音曲的素養から現実の義太夫の恐怖(?)を織り込むか、その能力がないゆえにそこをパスするかで、集合論的に言うと、ふたつに分かれるのではなく、音曲的な部分のあるものがないものを包括することになる。その音曲的恐怖のよしあしが私なりの好みの判断基準になる。 ここにおいて最愛の志ん朝が最初に脱落してしまう。なぜならあの華やかで透き通った遠くまで響く稀代の美声が徒になるからだ。 志ん朝は父の志ん生版を取り入れながら欲張って正当版にしている。れいの「ドイツ(カンボジア)に行っちゃった」をさらりとエピソードとして挟み、きちんと正当な「寝床」のサゲを入れているのだ。でもこれはちょっと優等生的だった。どっちつかずでかえってつまらない。1+1は3にならず、元の1よりつまらない1になってしまった。とにかく志ん朝にはだみ声の恐怖がないからこのネタに関する限りペケである。旦那以外の周囲の状況描写は最高に楽しいのだが。 父志ん朝の「ドイツに行っちゃった」を一時志ん朝は「共産党に入っちゃった」とやっていた(笑)。これはいい。じつにいい。しかし時節がら抗議があったのだろう、その後使っていない。しかしいい。番頭の悩みがよく出ている。 --------------- 同じく音曲のうまい文珍もダメ。下記の義太夫語りの大げさな模倣「ん~ん~ん~ん~」を米朝流に上手に演じているが、金馬の野太い声の「ん~」ひとつに適わない。私のポイントはここだ。 枝雀も笑いがたっぷりだが、声が高くてきれいなので落選。へたな義太夫の恐怖度が薄い。 談志のしゃがれ声も私の願う恐怖とはちがっている。むしろこれに関してはラジオで聴いた弟子の志の輔のほうがよかった。 一方で理想的なだみ声でも、ざこばはあまりに音曲的な要素がなくてつまらない。 そういうことから見直したのが金馬だった。音曲的なことはなにもやっていない。ただあの野太い声で発声練習風に「ん~~、ん~~」と、ほんの一二回唸るだけなのだが、これだけでジョーズのテーマのようにこれから始まる恐怖が豫測できて笑ってしまう。いやこれはほんとに目から鱗だった。たったそれだけで充分に私の願うものを表現していた。へんに巧いために文珍があれだけがんばっても出せないものを一声で表現していた。 となると同じように構成して唸っているのだが(ざこばは金馬を意識したように思う)恐怖が伝わってこない点でざこばは金馬よりかなり落ちることになる。やはりこの演目、旦那の下手さ加減の恐怖を押しつけてくれないとつまらない。そのために必要なのは野太い悪声である。可楽もこの金馬あたりの位置づけになる。 ※ 「うんとうなづくだけなのに、ん~、ん~、ん~、ん~と四方を回り、ん~と上にあげ、ん~と下にさげ、ん~~とぐるりと一回りして、これでまだたったひとつ、ん~を言っただけ」という音曲的笑いはこの演目に缺かせない。 それをやれるのは素養のある人、ということで、圓生、米朝となる。圓生は文句なし。米朝は最高に巧く弟子との格の違いを見せつける。でも笑いがすこし目減りする。文楽は自分も義太夫に凝って周囲に迷惑を掛けたというエピソードを思い出す。あっさり型。もうすこし粘っこい方がいい。 結論として、私は圓生のこれがいちばん好きだ。「圓生百席」でも思いのたけ実力を披露しているが、このNHKのライブ版がいい。スタジオ録音版だと音曲のうまさにかえってしらけたりする。圓生の音曲ものは巧さが目について(本人も自信満々なのであろう)あまり好きではない。「豊竹屋」とかむしろ嫌いである。巧すぎる。その点このライブ版の「寝床」は、巧さと笑いが最高の形でとけあっている。 「ふだんはあんなにいい人なのに、なんで義太夫になるとあれほど残忍になるのか」「きっと先祖が義太夫語りを殺した呪いだろう」「頭を下げてないとね。直撃を食うと即死です」と笑わせてくれる。これが私のベスト。 次点に意外な差し脚で金馬。音曲技術がなくても不気味さは出せるのだと、金馬の「ん~」は勉強になった。志ん生は別格。(05/8/8) ------------------------------- 【附記】 まだ聴いていない志ん生の寝床 きょうは昨日上記の分を書いたこともあって、いくつかの「寝床」を聴いてみた。文楽は音曲の部分は一切やっていないと確認する。発声練習だけだ。文楽の音曲を覚えていなかったのだがそれはそれで正しかったことになる。 志ん朝は旦那の義太夫の不気味さは自分では出せないとそこには触れていない。それ以外はさすがだけれど。 金馬はやっぱりおもしろかった。イヤミがなくこざっぱりしているから、人気があったことがよくわかる。 志ん生の「寝床」は、倒れてからのものだが、いつ聴いても楽しく、ネタに入るまでのマクラにも笑いがいっぱいちりばめられている。「♪佐渡え~」と歌い出し、「え~サド、サドやぁ~サドぉ~と」サドばかりやっているのは志ん生流の笑いの醍醐味である。あの「替り目」の、「一でなし二でなし三でなし、四でなし、五でなし、ろくでなし。七、八、九、十、十一、と。この歌、いつまで経っても終んねえ」と同じ質の笑いだ。枝雀は「替り目」で、これを一桁増やして「十五~、十六、十七、十八、いつまで経っても終らんがな」とやっていた。だから談志が「みんな志ん生の真似。あっちもこっちもみ~んな志ん生の真似」と「新釈落語噺」で書くのだろう。でもそこには怒りというよりそこまでみんなに真似される志ん生への嫉妬が.見え隠れする。と、これは「替り目」で書くことか。 私のもっている志ん生のこの「寝床」は最高に楽しいけれど、マクラで遊びすぎていて、ぞろっぺい志ん生の「どこへ行くかわからない部分」をよくあらわした演目になっている。でも楽しいからいい。同じくマクラが異常に長い「佃祭り」はちょっとひどい。 聞き漏らした名作はないかと調べていたら、志ん生の音源に「決定盤 志ん生落語集ベストコレクション(11)松山鏡/水屋の富/寝床──コロンビアレコード」というのがあり、ここの「寝床」は、「58年の録音。頭の部分がすこし闕けているがサゲまでやっている珍しいもの」だと知った。1958年というと昭和33年。まだ脳溢血で倒れていない。音質は悪いらしいがしゃべりは全盛期だ。志ん生が丁稚の貞吉の「そこがあたしの寝床なんです」と下げている録音があるとは知らなかった。とすると志ん朝のあれはこれを手本にしているのか。なんとしても手に入れたい。でも本来の作りからは脱線しているとしても、やっぱり志ん生の「寝床」は「ドイツに行っちゃった」でいいと思うけど。 (8/9) --------------- 【附記.2】 その後の「寝床」 橘家円蔵(円鏡)可楽(当代)柳家さん喬柳家権太楼林家染丸 (後日註・これを書いたのは05年。このときはこう思っていた。その後私はざこばの「寝床」が大好きになった。当時は好きではなかったざこばのそこつな味がじつによくこの根多にあっていると思えてきたからだ。) |
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本来「おはつ徳兵衛」の「上」として演じられていた。今もある。それを「船徳」と呼ばれる形にしたのは文楽。 ほとんど内容は同じであるが全体の味つけが異なっている。「おはつ……」のほうがしっとりしている。船宿の夫婦は勘当になった若旦那に同情的だ。勘当した旦那の方を非難したりする。なんでもっと早くウチに来てくださらなかったんですか、ウチが苦しいとき若旦那にどれほど助けて頂いたことか、どうぞいつまでも好きなだけいてください、小遣い銭ぐらいアタシが作りますよ、と亭主や女将が言ったりする。 父志ん生、兄の馬生はこっちの型である。若旦那が船頭に成りたがる理由も、いつまでも無駄飯を食っていては申し訳ないとの気遣いから。それが本来の作りであり、ここから徳兵衛は一人前の船頭になり、彼が若旦那だった当時から彼に憧れていたおはつと雷の鳴る日に船の中で……となる。それが「おはつ徳兵衛」だ。 それはわかっているが、そこから若旦那の船頭修行の部分をピックアップして笑える噺にしたこれは、思いっきり「商家の非力な若旦那が力仕事の船頭を粋と思い憧れ、そうして巻き起こす珍騒動」に絞ったほうがおもしろい。こっちだと若旦那が船頭になりたがる訳は女にもてるから前々から成りたかった、となる。思いっきり能天気だ。このほうがいい。志ん朝のこれはそのタイプの最高傑作だろう。名人文楽の創ったそれを習い、見事に凌駕し完熟させている。 志ん朝は天才型の父志ん生にはとても適わないと、名人型の文楽に教えを請い、そっちを目指したと言われている。天衣無縫であり、同時に出来不出来の激しいぞろっぺいでもあった志ん生と、端正で隙なく、こじんまりとまとまっている文楽を比して、志ん生志ん朝親子を比較分類するのにわかりやすい解釈だから通説となっている。 しかし志ん生の長女であり志ん朝の長姉である美津子さんがそれを否定しているように、あまりにこれは型どおりの、型にはめることを落ちとして考えた事による分類だろう。志ん朝はまごうことなき天才である。天才で名人だ。志ん生と文楽の魅力を併せ持っている。志ん生を天才型とし息子を名人型と型にはめるためのこの解釈には賛成しがたい。 志ん朝の最大の魅力は声だ。「二番煎じ」での、あの喉を聴いただけでうっとりする。どんなうまい二番煎じもあの清元の前にはかすんでしまう。 キャラクターなら若旦那であろう。「明烏」の「苦しくって」のひとこと。「酢豆腐」を始めとするイヤミな若旦那も絶妙だ。さらにそのいくつかある若旦那キャラの中でも、この「船徳」がベストだろう。「おはつ徳兵衛」のしっとり部分を切り落とし、陽気で見栄っ張りでスケベで非力な世間知らずのカラっと明るい最高級若旦那像を創りだしている。 土手を歩いているいい女を振り向かせようと喉を聞かせようとするところは志ん朝のオリジナルか。男連れと知ってしらけて引く間合いがいい。そんなことばかりしている船頭に旦那が言う「喉がいいのはわかったからさ」の苦情も抜群。これも志ん朝の喉があってこそ。この辺の明るいスケベな陽気さは「おはつ徳兵衛」の人情噺、色っぽいしっとりさとは無関係だ。まったくべつの噺に仕上がっている。 船をこぐ前にひげを当たるいなせぶり(待たされる客はたまったものではないが)は誰の創案なのだろう。志ん朝以外でも何人かこのくすぐりを聴いているが間の絶妙さは志ん朝だけのものだ。 まだもやいである船をこぎ出そうと気張るシーンも、私はCDで聴いているだけだが、色白の志ん朝が真っ赤になって気張り、客席が沸いているのが見えるよう。文句なしに「船徳」のベストは志ん朝である。 ------------------------------- 「キミ」と「ボク」の奇妙さ 子供の頃、ダイマルラケットやいとしこいしの漫才を聞くとき、会話中の「キミ」と「ボク」がなんとも不自然で奇妙だった。 「あのねキミ、それはちがうと思うよ」 「なんでやねん。キミがそう言うたからボクも賛成したんやないか」 「ちょっとまちいな。最初に言ったのはキミやないか。ボクはいうとらんで」 落語でもおなじことを感じていたように思う。だが私にとって関西の漫才のほうが身近で大好きだったし、ダイマルラケットは「スチャラカ社員」の中でも、漫才と同じように「あのね、キミ」とやっていたから、一種の関西弁として割り切っていた。 しかしこの「船徳」にもそれは登場する。船に乗ったふたりの旦那は、この「キミ」と「ボク」で会話する。文楽のこれを聴いたときから私にはそれがしっくり来なかった。舞台背景は明治なのであろうか。いや江戸に「キミとボク」はいないから明治大正なのであろうが。古い友人でともに社会的地位も身分もある人たちが、「あのね、キミ」「いや、ボクはね」「そりゃないよ、キミがそういったから」と会話していたのであろうか。私にはわからない感覚である。(05/8/20) |
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一でなし、二でなし、三でなし、四でなし、五でなし、ろくでなし、七、八、九、終んねえや」 | ||
? | この噺が嫌いなので誰が好きの対象にならない。あらためて書くが、『お言葉ですが…』で高島俊男さんが触れているのを知った。そちらに書いたのでまずはそれをリンク。いかに嫌いかについてはまた追記する。 落語──『お言葉ですが…』の落語 |
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志ん生「鶴亀」 | ||