2014
8/25
●藤沢周平の駄作『海鳴り』


 中共雲南省山奥の夏休み。到着のころから逆算し、日本から先に船(本は重いので航空便だとたいへんな値段になる)で送っておいた本100冊ほどをたのしみに読む。その中に藤沢周平『海鳴り』上下巻(文春文庫)があった。

 藤沢周平の大ファンである。全作品の十割とは言いきれないが九割五分は、いや全集を読んだあと、全集発刊後に出た作品や、近年になって出た初期未発表作品なんてのも読んでいるから九割七分ぐらいまでは読んでいるだろう。
 今回この駄作に接して、藤沢さんにもこんな失敗作があるのだと非常に興味深かった。全集に収められている作品だというから、すでに十年以上前に読んでいるはずである。そしてきっとそのときも「つまんねえ」と思ったはずである。そしてれいによってすぐに忘れたのだ。

 好きなものを誉めたたえるのが好きだ。それがたのしい。一方、嫌いなものをいかに、どのように嫌いであるかと書くのは、たとえそれが他者の同意を得られるものだったとしても、労力の無駄と思っている。政治的なことなら、腹立ったら、このまま黙っていてはいけないと書くこともあるが、文学や映画等の作品でそんなことをするのはまったくの時間の無駄であろう。やったこともないしこれからもしたくない。たとえば大好きな藤沢作品をぶちこわしにした一連のヤマダヨウジ映画は、それこそ藤沢ファンとして、全身全霊を込めて徹底的に批判せねばならないのだが、いいかげんなまま抛り投げてある。一方、藤沢さんの娘さんが「やっと父の作品と呼べる映画が出来ました」と言った『山桜』のことはその讃歌を長長と書いた。やはりくだらんものを貶すよりは、気に入ったものを褒めるほうがたのしい。
 でも大好きな藤沢師のめったに見られない、というかあまり記憶にないひどい駄作なので、記念にその感想を書いておくことにした。藤沢師でも締切に追われた忙しい時期には出来の悪い短篇を発表したりしているのかも知れない。これまたあまり記憶にないが。しかしこれは長篇である。長い時間を掛けて書いたものだ。なら「代表的駄作」と言える。どんなに好きな作家であれ駄作は駄作である。ほんとにがっかりした。しかしまたそれはいかに藤沢作品が好きかということの裏返しでもある。



 ついでに言うと、新装文庫本にある後藤正治というノンフィクション作家の書いた解説もひどい。解説のほとんどが本文からの引用である。いわゆる手抜きだ。結びは《本書は、藤沢氏らしい、精緻な作りの時代小説である。市井ものの長篇としては代表作になるのだろう。》なんだろう、この最後の「なるのだろう」の「の」は。どうせなら「なるだろう」と断言したらいい。署名入りの解説であり、解説を引き受けるぐらいだから藤沢ファンだと思いたい。しかし藤沢作品を愛好している読者なら、とてもとてもこれが代表作なんかじゃないことは一読してわかる。
「なるのだろう」というのは「そのうちなるだろう」という未来に対する推測だろうか、それとも一歩我が身を引いた「わしゃよくしらんけど、きっとそうなんだろうね」という投げ遣りな意見か。駄作だと解説まで手抜き駄作である。
 しかしもしも後藤正治というひとが、真に藤沢ファンであり、私と同じく、「藤沢さんは大好きだけど、この作品はダメ。駄作。藤沢ファンのおれに、よりによってこの駄作の解説がくるとはなあ、皮肉なもんだ。といって解説で貶すわけにはいかないし、まあ適当にごまかして、それなりにしあげておくか」とでも思ったなら救いはある。でもそれなら解説を断るはずだから、引き受けたという時点で、このひともダメだな。



 大好きな作家の上下巻の大作(文庫本では上下巻だけど単行本は一冊だろう)を否定するのだから、ここは正座してきちんと書かねばならない。














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