2010
4/11  白石一文を知る

 図書館で『小説新潮』のバックナンバーをまとめ読みしていた。目的は棋士であり作家でもある河口俊彦さんの連載「盤上の人生・盤外の勝負」。大好きな作品なので単行本になったら迷うことなく買うのだが、まだその噂はない。そこまで溜まっていないのか。いつ読んでもおもしろい。オールド将棋ファンは必読である。

 その中の一冊に新潮社が主催する「山本周五郎賞」の受賞作決定号があった。受賞作は白石一文 『この胸に深々と突き刺さる矢を抜け』 。2009年度の受賞作。
 本人による「受賞までの自分史」を読んだ。直木賞を受賞した作家が『オール読物』に書くのと同じ形式である。白石さんは「もうひとりの自分が作家白石一文を語る」という形で30枚ほどの自分史を書いていた。『小説新潮』に書いたことはいちどもないのだという。馴染みのない自分を『小説新潮』読者に自己紹介する形で書いていた。珍しいパターンである。だいたいにおいて賞を主催する出版社と受賞する作家は繋がっている。自分のところで育てたのでもない作家に賞を与える新潮社の姿勢はなかなか好ましい。もちろんそれは「これから金になる」と踏んだからであり、悪い言いかたをすれば「いままで無視していたのを横取りしてきた」とも取れる。



 と書いて浅田次郎さんのことを思い出したので確認してみた。受賞作『鉄道員』が直木賞とは縁の薄い集英社だったことは当時話題になった。浅田さんはもともとは『プリズンホテル』を出していた徳間のひとである。ヤクザ系の話を書いていた無名の浅田さんを起用したのは徳間だった。吉川英治文学新人賞をとった『地下鉄に乗って』も徳間。受賞前年に落選した渾身の大作『蒼穹の昴』は講談社。このころ『週刊現代』のエッセイで売りだしていた。講談社に直木賞に匹敵する賞があったら一足早く『蒼穹の昴』で受賞していただろう。浅田さんは徳間と講談社のひとである。
 その翌年受賞するわけだが、調べてみたらそれまで文藝春秋からは一冊も出していなかったと知る。意外だった。浅田さんほど直木賞が好きなひとはいない(笑)。今は銓衡委員だ。さらに意外なことに、その後も『壬生義士伝』が目立つぐらいで、浅田さんと文春の縁は薄い。受賞してから双方共にべったりの仲だと思っていた。勘違いである。
 とするなら、『小説新潮』に一度も書いたことのない白石さんが、新潮社の賞をもらい、そのことを書くという新潮社と白石さんの関係も不思議ではないのか。



 私は直木賞芥川賞に代表される「話題の作品」に興味がない。でも世の中はそれで動いているようだ。借りるつもりはないのだけれど、興味本位でそういう作品の図書館における「予約状況」というのを調べると、びっしりと先々まで埋まっている。どなたかのエッセイに「村上春樹の『1Q84』が図書館で四ヶ月待ち」とあった。いかに売れているか、話題の作品かを論じたエッセイなのだが、私はそのあとの「図書館で四ヵ月待ち」の方が目についた。そこまで待つなら買えばいいのに、と思う。でもこういうひとたちはラーメン屋の行列と同じで予約して待つのが楽しみなのかもしれない。

 週刊誌の書評等で誉められているものを調べて見ると必ず借り出されている。そのあとに予約も入っている。そういうことをたびたび経験した。後々の評価から、それは傑作というほどのものではない。単なる話題作だ。本好きというのは、「書評」や「受賞」で動くんだなと知った。そういえば「直木賞と芥川賞の受賞作は必ず読んでいる」と自慢するひとに会ったことがある。読書ってそんなものではないと思うのだが……。

 でもそういうアンテナを立てていない私は、話題作を5年も10年もあとに読み、もっと早く読めばよかったと悔いることも多いから、やはりそれはそれで大事なことなのだろう。今回の白石さんも「もっと早く読めばよかった」と思ったひとりになる。いま話題の「最新の直木賞作家」だからそんなに遅れてはいないのだが、賞なんてことに関係なく、もっと早く彼の作品を楽しみたかった。



 私が直木賞のことを調べたり、作家と出版社の関係を知ったり、受賞作がいつも貸し出し中であることを知ったりしたのは、「使いようのない図書館PC」が関係している。勤務しているかのごとく毎日図書館に通いつめて文章を書いていた。読書をしていた。その間、休憩感覚で図書館PCを借りて緊張をほぐした。ところがこれが規制だらけで何とも使いようのないゴミなのである。信じがたいことにこのブログ全盛の時代に、「ブログ接続全面禁止」なのである。内容に関係なくブログというだけで接続できないのだ。その他、掲示板も禁止。スポーツ紙には繋がるが、競馬を見ようとしたら「ギャンブル禁止」で見られない。禁止だらけでなにも出来ない。呆れた。緊張をほぐすどころかストレスがたまった。

 私のやりたいことで出来たのが唯一Wikipedia接続であり、文学関係のサイト閲覧だった。そういう理由でそれらのことを調べたのである。いわばヤケクソに近い。やりたいことがなにも出来ないから、しかたなくやったようなものだ。図書館PCのデフォルトホームページは自分の所(図書館のホームページ)になっているので蔵書調べはたやすい。Wikipediaや直木賞サイトで話題の本を知ると、あるのかどうか調べてみた。あるにはあったが(そういう受賞作は図書館は必ず揃えるようだ)みな貸し出し中だった。それで話題作の人気ぶりを知った、という話。それぐらいしかやること(いや、出来ること)がなかった。

 白石一文さんは『小説新潮』で知り、すこし読み、それから人物や作品の背景を調べたのだが、中には調べている内に出会い、その後まとめ読みした池井戸潤さんのようなかたもいる。だから、図書館PCは規制だらけでなんの役にも立たないと罵りたいのだが、今まで読んでなかった白石さんと池井戸さんというふたりの作家を知ったから、ケガの功名的に役立ったのかもといまは思っている。
 とはいえ「役立たず!」と罵りたい気持ちは変わらない。15台ほど用意されているがいつも空いている。あらたに借りようとするひとはけっこう見かける。でも連続しないのは、誰もが知りたいところに繋がらず「使い物にならん!」と腹立って次回の利用をしないからだろう。



 その山本周五郎賞受賞の「自分史」に、「若いときにちいさな賞をとった父は、それから作家専業になり、文学賞に応募しては落選していた。家計は母が支えた。そこに欲しくもないこどもが出来た。それが双子だった。父はこどもの名前にこだわっているような状況ではなく、自分の一郎と妻の文子という名から、ひとりは一文とし、もうひとりはそれを逆さにした文一と安易に名づけた」というようなことが書かれていた。一文はそのままだったが、それを逆さにしただけの文一は病気をしたので文郎に変えたとか。初めての子なのに、なんとも手抜きな命名である。それだけ若い父親は文学に夢中で、こどものことなど興味はなかったのだろう。まだ作家として芽の出ていない27歳のときに出来た双子の男児である。やがてその「父一郎」は何度も何度も落ちた末にやっと文学賞を受賞して、のような話になる。まるで作り話のようにドラマチックだ。でも実話なのだからすごい人生だと感心する。

 鈍い私はそこまで読んでやっと「父は一郎」から、「このひとの名前は白石一文。ということは父親の名前は白石一郎。えっ、白石一郎!?」となり、このひとが2009年下半期の直木賞を「ほかならぬ人へ」で受賞し「史上初の親子受賞」と話題になっていた「白石一郎の息子」であることに気づいたのだった。父親の白石一郎は七度も直木賞を落選し、八度目で受賞している。息子は二度目の候補での受賞だった。

「自分史」の中に、父親が「ある文学賞」の候補になり、何度もその賞を落選して家庭が荒れることが記してある。特定の名や賞を意識せず読んだのですんなり通りすぎていたが、その「父」が白石一郎であり、「ある文学賞」が直木賞であることを知ると、生々しさが増してくる。そういう育ちをしたのであるから、息子の白石一文さんの中には直木賞に対する複雑な思いがある。

 父白石一郎が最初に直木賞候補になったのは39歳のとき。息子の白石さんは12歳、小学生である。父が八度目の候補で受賞するのは56歳のとき。息子の白石さんは29歳。早稲田を出て、その直木賞を主催する文藝春秋社に就職している。父が候補になっては何度も落選し白石家を振りまわした直木賞主催の文藝春秋社にに勤めていることもまた「複雑な思い」である。愛憎半ばということか。12歳から29歳まで、父が直木賞候補になり、落選するという姿を見てきたのだ。賞の候補になると「候補になることを受けてくれるか」と出版社から問い合わせが来る。ここで拒めば候補作として世に名が出ることはない。白石さん(息子の方)は、候補を受け、落選しては気落ちする父の姿を見てきたから、いくつもの文学賞で、これまで候補作になることを拒んできたという。さもありなん。

 白石一文さんが早稲田の政経を出て文春に就職するのが1982年。父の白石一郎さんが八度目の候補で直木賞を受賞するのは1987年。その間に80年、82年、84年と候補になっている。こんなとき、その会社に務めている息子の気持ちはどうなのだろう。

 双子のかたわれである白石文郎さんも作家。こちらは慶應の経済卒。やはり双子が同じ大学というのはいやだったのだろうか。早慶に分かれている。ともに看板学部だ。優秀である。
 若いときに地方新聞の懸賞小説に入選したことを自信として、父親が作家専業になってしまったことから、家計は母親が働いて支え、幼い頃はそれなりの苦労があったと白石一文さんは自分史で書いている。父一郎さんが懸賞小説に入選して作家専業になったのは24歳、ほとんどまだ喰えていない27歳のときに生まれてきた双子だった。双子を早稲田と慶應の私立に同時に通わせているころはもう売れっ子作家だった。直木賞受賞はずっとあとだけれど。
 白石一郎さんが亡くなったのは2004年。だから息子が受賞どころか候補になったことすら知らなかった。候補になり、二度目の候補で受賞し、「史上初の親子受賞」を白石一郎さんはどう感じたろう。あと6年生きて欲しかった。何度も落とされた屈辱も親子受賞できれいに晴れたにちがいない。

 白石一文さんの直木賞受賞の際には、「親子受賞」に関し、「作家の息子は作家になりたがらないのに、よくぞなってくれた」という祝辞があったらしい。たしかに親子ですぐれた作家はめずらしい。



 『小説新潮』に載った原稿用紙30枚ほどの「自分史」はおもしろかった。しかしそこに一部掲載されている受賞作「この胸に」はちょっととっつきにくく、そこでは敬遠した。後に大好きな作品になるのだけど。
 この時点では私は一気に全作品を読破するほどの大の白石一文ファンになるとは思いもしなかった。

 受賞作の載ったこの『小説新潮』には、編輯者(書評家だったかな?)の書いた親切な「白石一文全作品解説」があった。これは助かった。私が白石一文ファンになったのはこれのお蔭とも言える。「これこれこういう経緯のひとである」から始まり、「最初の作品はこれであり、こういう内容だった。話題になった。次ぎにこういうのを書いた。これはこういう内容であり、新局面を開いた。さらに次ぎにこういう内容の作品に挑み」のように叮嚀に時空を追って解説してある。新潮社が主催する山本周五郎賞を授け、これからスターに育て、自分のところも儲けようという目論見があるのだから当然とも言えるけれど、私のような白石さんを知らないものにはためになる解説だった。



 直木賞に関することをすべて網羅している「直木賞のすべて」というすばらしいサイトがある。どこにも繋がらずなんの役にも立たず、うんざりした図書館パソコンだったが、ここには珍しく繋がった。ずっと図書館にまるで勤務しているかのように連日通って作業していたので、休憩のときはこのサイトに繋ぎ、山本周五郎賞と直木賞の関連や、むかしの候補作に対する評を読んだりてし楽しんだ。勉強になった。直木賞のみならず、候補となった作家はそれ以前にどんな賞を取ったか、どんな賞の候補になったかまで載っている。候補時の論評までしっかり記録してあるのだ。拝みたくなるようなすばらしいサイトだ。もうずっと前から知っていて(設立十年だそう。多分八年ぐらい前から知っている)調べ物の際には重宝していたが、ここまで連日利用したのは初めて。しかしまあこのサイトをやっているひとのエナジーには感心する。すごいひともいるものだ。頭が下がる。



 これはまた別の機会に書きたいが、文藝の賞ってのは撰者がひどい。自分の労作をろくでもない奴等にあんなひどいことを言われたらぶち殺したくなるのではないか。筒井の「大いなる助走」を思い出した。すぐれた作品を書いた作家が、渡辺淳一のようなろくでもないのにボロクソに否定されていたりする。他人事なのに我が事のように腹が立って精神によくない(笑)。それはまた「どれくらいの愛情」で触れるとして。

 白石さんと同時に受賞したひとに佐々木譲さんがいる。すぐれた作品を多数発表してきた大ヴェテランだ。なのに自分よりあとにデビュウしたのや、ろくなものを書いてない老害のようなのに言いたい放題を言われている。悔しいだろうなと思う。でも受賞しちまえばこっちのものか。

 と書くと「半落ち」の橫山秀夫を思い出す。あれはオチについてハヤシマリコにケチをつけられ、以後横山の方から直木賞に絶縁宣言したのだった。とまあ脱線して行くと切りがないので白石さんの話にもどる。

4/13  最初に読んだのはこの「見えないドアと鶴の空」だった。


内容(「BOOK」データベースより)
結婚して六年。繁村昂一は、二年前に出版社を辞め、失業中の身。いまは大手代理店に勤める妻の絹子が家計を支えている。

ある日、昂一が、絹子の幼なじみ由香里の出産に立ち会ったことから際どい三角関係が始まる。
やがて由香里の不思議な「能力」に気づいた昂一は、二人の故郷へと飛ぶ。そこには想像を絶する事態が待っていた―。
 物語の可能性をおし拡げる傑作長篇。

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 Wikipediaから白石一文作品一覧をコピーした。



 全14作。13作目の「この胸に」で山本周五郎賞、14作目の「ほかならぬ」で直木賞と一気呵成に頂点だ。
「見えない」は6作目か。最初に読む作品としては適切ではなかった。というのは、全作を読破したいま、この一覧を見て振り返っても、これはいちばん不満を感じる問題作だからである。でもまあ今になれば、それはそれで楽しい思い出のような気もする。



 さて、この作品。上記の「あらすじ」を読んだなら、誰もが「三角関係の恋愛もの」を想像するだろう。たしか年齢は、出版社をやめて失業中の主人公・昂一が31歳、広告関係の仕事をしてバリバリ働いている女房の絹子はふたつ年上の33歳、彼女の幼馴染である由香里は30歳だったか。主人公の経済は女房が支えている。いわば髪結いの亭主。

 絹子がCM撮影で海外ロケに出かけている時に由香里が産気づく。彼女は東大卒のエリートと結婚し、孕んだまま離婚している。こどもはひとりで育てるつもりだ。急に産気づいたので昂一が病院に連れて行き、出産に立ち会うことになる。医者や看護師に亭主と間違われたまま同室するのだ。待合室で待っていたのではない。ともに分娩室に入り出産を目の当たりにするあれである。もろにそれを見ることになる。

 帰国してこのことを知った絹子はおもしろくない。そりゃあいくら自分が紹介した親友とはいえ、自分の亭主が亭主面して友人の股からこどもが生まれてくる出産現場に立ち会ったら複雑な心境になるだろう。話をおもしろくするためにそうなっているが、医者や看護婦に亭主とまちがわれたって否定すればいいだけの話で、なにも立ち合う必要はない。この辺ザツだと思うけど、まあ目をつむって。

 絹子が仕事に出かけたあと、手持ち無沙汰の晃一は由香里の部屋に出かける。なんとなくそんな雰囲気になる。出産して間のない由香里は「わたし、まだあれができないのよ」と言い、口で処理してくれる。この辺のエロチックなシーンが秀逸で私は惹かれていった(笑)。

 それからしばらくしてまた訪れ、今度は結ばれる。バスルームでのこのシーンもエロチックだ。その他の作品でも共通するが白石さんの描く濡れ場は魅力的。一部では不評のようだ。やりすぎだと。それもわかる。

 絹子はふたりの中を疑う。絹子はスタイル抜群の顔だちの整った美人タイプ。晃一とプールに出かけるシーンがあり、水着姿の絹子の美しさが描写されている。両親の愛に恵まれて育ち名のある大学を出ている。上智だったか。理知的でクールビューティな絹子とは対照的に、由香里は色白でふっくらしたかわいいタイプ。幼いときに両親が事故死(じつは自殺)し、絹子の家から高校に通わせてもらった。高卒。これまたこれで魅力的。う~む、いい設定だ。

 絹子が泊まり掛け出張に出かけた日、無職で手持ち無沙汰の晃一は由香里の部屋に出かけて泊まる。ところが翌朝、東京にいるはずのない絹子が由香里の部屋にやってくる。出張はふたりの仲を怪しんだ末の罠だったのだ。ドアスコープから覗いてどぎまぎしている晃一に絹子は「あなた、そこにいるんでしょ」と言う。妻の親友との浮気がバレた。修羅場である。ところが絹子は激昂することもなく「さ、帰りましょ」と冷静だ。
 どうやら北海道時代の幼馴染みであるふたりには、ただの幼馴染みではない秘密があるらしい。晃一はそれを探るために北海道に飛ぶ。



 とまあ長々と不粋にストーリイを書いたのは、ここから物語が激変するからである。「あらすじ」を読んでも「三角関係恋愛もの」だし、ここまで読んでも、これは「ちょっと優柔不断の所のある、女に持てる現在無職の男が、年上のキャリアウーマンの美人女房と、女房とはタイプの違った魅力のあるシングルマザーとなった女房の親友のあいだで揺れる三角関係の物語」だろう。主人公が北海道に飛んでふたりの女の過去を調べるのだって恋愛ものの続きと思う。

 ところがここから、なんと「オカルトもの」「超能力もの」になるのである(笑)。強引になってしまうのである。最初の濃密なエロチックシーンからどろどろの恋愛ものだと思っていた私は、あっけにとられ、やがて苦笑していた。

 これ以降はいわゆる「ネタバレ」になるのでタブーなのかもしれないが、あまりにおもしろいので書いてしまう。それぐらい「強烈」だった。ただしもちろんそれは誉めコトバばかりではない。

 この由香里というのが実はもうすんごい超能力者なのである。こども時代、炭鉱地区に育つ。廃鉱で絹子と遊んでいるとき落盤があり闇の中に閉じ込められる。そのとき「手かざし」で坑道を塞いだ土砂を一瞬にして吹き飛ばして脱出する。すごいでしょ(笑)。まさかこんな展開になるとは。

 いま現在、ふたりの幼い頃を追い、それと思われる北海道の廃鉱に入った晃一は落盤事故に遭う。真の闇に閉じ込められる。もう餓死するしかない。実はこの落盤事故も幼い頃にここで落盤事故で死んだ小学生の怨念が起こしたというホラー理由がついている。閉所恐怖症の私はもうこんなのは読むだけで辛くなってくる。晃一、絶体絶命。

 しっかあし、心配の必要はないのだよ読者諸兄! 暗闇の中、昂一は唯一手にしていた携帯電話で東京の由香里に電話する。超能力者の由香里は愛する晃一がこんなことになるのではないかと予測していた。そして由香里は、その携帯電話を坑道を塞いだ土砂の方向に向けて置けと支持する。携帯電話を置いて晃一は後ずさりする。由香里は東京から北海道の廃鉱の中に携帯電話を通じてエネルギーを送る。すると眩い光が発射され土砂が吹き飛ぶのである。なんという、なんというすさまじい超能力(笑)。本人が直接手かざしで吹き飛ばした幼時の逸話には納得していた私も、この「携帯電話を通じて」のあたりでは鼻白んだ。ところでこれはどういうお話だっけ。エスパーの話だっけ?

 最初のころ、出産したばかりの由香里のおっぱいを吸っているうちに怪しい雰囲気になり、「わたし、まだできないのよ」と、お口で処理してもらったりしたエロチックな雰囲気はもう微塵もない。「なにがテーマなんだ、この小説は!?」とこんがらがる。でもおもしろい(笑)。



 その他、由香里の超能力はいろんなところに発揮されている。
 まず私は由香里の結婚相手に疑問を持った。由香里は結婚したが孕んで離婚している。それはもともと優秀な子種を得るのにちょうどいい男と判断したからで予定の行動なのだという。その子種提供者に選ばれた男は東大卒の見栄えのする男。兄弟三人とも東大卒でみな各界で活躍している名門なのである。ここで誰もが素朴に思うだろう。由香里は両親が死んでいて身寄りがない。田舎から上京した高卒である。それがなぜ全員東大卒の名門の息子と結婚出来るのかと。本人同士はともかく周囲は反対するだろう。

 だがそれはすぐに納得出来る。子を孕んだまま離婚した由香里は慰謝料をもらったわけでもないのに裕福である。かなりの現金を持っている。やがてそれは宝くじに当たったからとわかる。幸運? いやいや、それも超能力なのだ。宝くじなど簡単に当てられるのだ。それほどすごい能力なのである。なら相手一家の心を操り結婚にまで持って行くのなど簡単であろう。私は若いころ大のSF好きだったが、この由香里ほどすごい能力のエスパーもそうはいない。エスパー伊東もかなうまい(笑)。



 ホラーもある。由香里に惚れた男はみな不幸な事故に遭って死んでしまう。それは自殺した由香里の父親の呪いなのだ。由香里を溺愛した父親はまだ昇天できず霊となって由香里につきまとっている。由香里を愛する男はみなこの父の怨念で不幸になる。
 絹子の父親は、由香里の一家が自殺したあと、娘の親友である幼い由香里を引き取り我が子のように育ててくれた。自殺した由香里の父親はそれに嫉妬し、あの世からの怨念で絹子の父親を交通事故死させる。

 由香里が晃一に惚れた理由、それはこの恩人である絹子の父親に晃一がそっくりだからなのだった。プラトニックだったけれど、由香里が今までいちばん愛したのはこの絹子の父親なのである。絹子が自分の亭主である晃一とそうなってしまう由香里に怒らない(というか、こうなることはわかっていたと諦めるのは)、晃一が由香里の愛した自分の父親にそっくりだとわかっていたからだった。

 というのだが、しかしなあ、ここまでまた大いなる疑問。なら由香里より先に絹子は「自分の父親とそっくりの男」と結婚するわけだから、それはもっと前に明らかになっていないとおかしい。この晃一の北海道行では、晃一は未亡人となっている札幌在住の絹子の母親に会いに行き、幼い頃の絹子の話を聞いたりするのだが、ここでも当然晃一は「亡き亭主と生き写し」のはずだから、そういう話にならないとへんだ。「じつは晃一は絹子の亡き父とそっくりの容貌だった」というのは後半になって謎解きの答のように出て来るのだが、この辺の関連つけがめちゃくちゃ強引なのである(笑)。というか矛盾だらけ。

 白石さんの作品にはこの「他人のそら似」がよく出て来る。重要なトリックだったりする。一部では安易だと批判されている。私もそう思うが、この時点ではこれが最初に読んだ作品なのだからまだ知らない。

 タイトルにある「鶴の空」の鶴とは、折り鶴のことだ。ラストシーンでは、折り鶴を大量に折り、それを燃やして、由香里が悪霊となって暴れまくる父親の除霊をするのである。無事成功。めでたしめでたしで、よくわからんハッピーエンド。ここでは「オカルト」になっている。すごいよ、もう(笑)。


 
 とまあ、エロチックな三角関係の恋愛もののように始まりながら、超能力ものというすごい方面に脱線して行き、ホラーも挟み、最後は折り鶴でオカルトチックに除霊して悪霊退散みたいな、なんだかよくわからない結末だった。

 全作品を読了して「大の白石ファン」を自称する今も、振り返ってみて、この作品はやはり「トンデモ」の類のように思う。感想文に失礼ながら「(笑)」を連発してしまったが、これは今後の感想文には一度も登場しないだろう。その他の作品にこの「トンデモ」はない。だからやはり、この作品は異様なのである。書いている内に何かが白石さんに憑依し、わけのわからんまま書きまくってしまったとか、そんな感じの作品である。

 ともあれ私の「白石一文体験」はここから始まった。これは今、幸運だったと想う。というのは、これ以外の缺陥のない作品から読み始め、何作目かにこれを読んだなら、とんでもない駄作と途中で抛り投げて否定していた可能性が高いからだ。初めて読んだ作品だっただけに、ともあれ最後まで読みとおし、あれこれ言いつつもこんなに長文の感想が書けた。それはきっといいことだ。

 ぜんぶ書きあげてからアップしようと思っていたのだが、この調子だとかなり長くなりそうなので、ここで一回アップしよう。(ここまでで1回目のアップ)。

4/14
 次ぎに読んだのがこれ。「もしも、私があなただったら」。

内容(「BOOK」データベースより)
会社を辞めて故郷の博多にもどり、何かに追い立てられるように暮らしてきた男、藤川啓吾。彼の前に、突然かつての同僚の妻・美奈が現れて言った。「藤川さんの子供を産みたいんです」。

―啓吾は東京を離れる折にも美奈に思いを打ち明けられ、にべもなく断っていた。時を隔て再会し、やがて確かに心を通わせ共に過ごす二人。制約のない「大人の恋愛」を描く傑作。

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◎料理とファッションと音楽+セックスシーン

 これも全作品を読了してからの感想になる。以降みなその視点からの感想であり一作一作の感想はこのあとない。白石作品全体の印象的な部分に触れることになる。

 白石作品は、「料理」と「ファッション」の取扱いかたが印象的だった。
 好きなことを書くのはひとの常だが、好きでないことでも必要と判断すれば作家は調べて書ける。とはいえそこに好き嫌いは見える。

 まず料理だが、主人公の男が作る場合もあれば、ヒロインが作る場合もある。多くの白川作品で、素材から料理法までかなり詳しく描かれていて作者の料理に対する興味が伝わってくる。たとえばそれは彼のために彼女が朝食を用意したというようなシーンだから5行で済む場面だ。そこに素材からレシピと呼べるほどの作りかたまで懇切丁寧に50行ぐらい書いていたりする。それは作家のこだわりという以上に、基本として白石さんは料理に関して語ることが好きなのだろう。とりようによっては、「おいおい、脱線してるぞ。なにもそんなに料理法に関してまで書かなくてもいいだろう」と言いたくなるほど詳細に書いている。これは私の大好きな、一部では大不評のセックスシーンに関しても同じで、白石さんは興が乗ると筆が止まらなくなるタイプのようだ。また彼女が彼に、ではなく彼が彼女に、のシーンもあることから、男が女に料理を作ってサービスするという形にも抵抗がないようだ。

 作品によっては参考資料として料理本の名を上げている場合もあるし、実在の料理研究家をモデルに書いた部分も見うけられる。白石さんは料理が好きであり、たぶん御自分でも書かれたような料理を作るにちがいない。「心に龍をちりばめて」のヒロインはフードライターが職業だ。
 作家であるから調べれば何でも書けるし、事細かに書いていることが苦手分野を隠すためだったりする事もある。「詳しいですね。本職顔負けです」と読者から誤解されることが作家にとっては「してやったり」になる。でも私はすなおに「白石さんは料理好き」と解釈する。



「好き」ということから言うと、私の大好きな白石さんの描く濃厚なセックスシーンは一部の読者、あるいは評論家から「無用。なんであんなにしつこく書くのか」と評判が悪いらしい。
 インタビュウ等で、白石さんは小説に対する誇りと可能性を情熱的に語っている。熱い想いと同時にそこからはかなり頑固で偏屈な感じも受ける。もともと優れた小説家が「いいひと」であるはずもない。偏屈と言ったら失礼か。小説家としての矜持とこだわりと言うべきか。読者に受ける昨今のライトノベル的な純愛モノを自ら拒んでいるようだ。車谷長吉風に言うなら「時代的毒虫」である。口当たりの良いものだけを提供することを自ら拒み、パステルカラーで仕上がる万人に受ける作品にあえてドロドロの極彩色の部分を作り出している。そのひとつが「あそこまで書かなくてもいいのに」「ああいう描写はなくてもいいのに」と高潔な読者(?)から嫌われる濃厚なセックスシーンだろう。計算尽くで書いている。反撥が悦びなのだ。

 私は「難病を持つ恋人とああだこうだの純愛で涙ホロリのベストセラー」が嫌いなので読んでいない。いや勉強のためにそれなりに読んだけど好きになれなかった。馬鹿らしくて途中で放り出した。目の前の死をテーマにしながらどろどろした部分には触れず爽やか作品にしてしまっている。刃物で何十人も殺戮するのに血の一滴も出ないテレビ時代劇と同じレヴェルだ。白石作品に近寄らなかったのもその手のものと同種と思ったからだった。だが違っていた。白石作品はそれらとちがいもっと深く突入していた。

 このことを書くと長くなるので本題の「好き嫌い」にもどると、そういう小説家としての計算で書いている濃厚なセックスシーンであり、一部で評判が悪いのも計算づくと取れる。でも基本は「好き」だからだろう。でなきゃあんなに熱くは書けない。それに関しては他作品の項で書こう。



 ファッションに関しても適度な詳しさで上手に訴えてくる。今時の三十歳前後の夫婦、恋人達を描くために、白石さんなりに彼らに似合う今のファッションを調べた感覚が伝わってくる。ブランド名や今時のファッション用語も頻発する。元文春記者らしい丁寧な下調べを感じる。
 これはすこし前に白川道さんの作品を読んだので対象的だった。白川さんは妙齢の美女を描く際、ファッションに関して「わしゃそんなのしらん」と最初から投げている。だからじつにあっさりしたもの。つまり「黒のスーツ」とか「白いカーディガン」とか、そんなものである。どんな美女が颯爽と現れるシーンでもそんなもの。おっさんが創った美女とすぐにわかる。
 白石さんは今時の三十前後の夫婦等を書いたとき五十代だが、当の年齢の読者が読んでも納得するよう、徹底的に調べて書いている。『週刊文春』の記者だったからこういう「今」を調べるのはお手のものだったろう。私は感覚的に白川さんの方なので(笑)、その実態はわからないのだけれど、熱烈な白石支持層からして、白石さんの語る料理やファッションは、当の世代に納得されているのだろう。

 当世の三十代男女の料理、ファッションに関して、白石さんは事細かに描写している。それは作家としての調べ物の成果であり、ファッションに関する興味は並、料理はご本人も大好き、というのが私の解釈になる。



 と、「料理」と「ファッション」の話を振ったのは、「音楽」のことを書きたいがためである。私は料理にもファッションにも口は出せないが、こちらなら出来る。

◎東京舞台と博多舞台

 ここまでの白石作品は「東京舞台」と「博多舞台」のふたつに大別される。東京舞台は文藝春秋社に勤めていた時期、退社して東京にいた時期に書いたもの。博多舞台は文藝春秋社を退社し、博多に帰郷して作家専業になってから書いたもの。それでもってごく簡明に白石作品の前期後期に分けられる。そして「博多舞台」は「標準語篇」と「博多弁篇」に分けられる。一度「博多弁篇」になってからはみな博多弁だ。
 この初期の「東京舞台」と、その後の「博多舞台」を左右の基礎石にして、あらたな世界としてその上に構築されたのが「新・東京舞台」であり、山本周五郎賞受賞の「この胸に」や直木賞受賞作の「ほかならぬ」がそれに当たる。
 私はこれらの中で、次第に整って行く「博多舞台」の作品が大好きだ。

 博多という狭い地域を舞台とし、地名や建物、通りの名もそのまま登場させての「博多舞台作品」は一種の実験だったとも言える。地方小説であり私小説の香りすらする。その代表作がこの「もしも、私があなただったら」と「どれくらいの愛情」になる。

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内容(「BOOK」データベースより)
会社を辞めて故郷の博多にもどり、何かに追い立てられるように暮らしてきた男、藤川啓吾。彼の前に、突然かつての同僚の妻・美奈が現れて言った。「藤川さんの子供を産みたいんです」。

―啓吾は東京を離れる折にも美奈に思いを打ち明けられ、にべもなく断っていた。時を隔て再会し、やがて確かに心を通わせ共に過ごす二人。制約のない「大人の恋愛」を描く傑作。




 あらすじは上記引用したように、東京での商社マンを早期退職して故郷博多にもどってバーを開いた男が主人公。そこにかつての同僚の妻が東京からやってくる。彼女には以前も好きだと言われている。彼は拒む。彼女はそのまま博多にいすわってしまう。この彼女も美人である。
 白石さんの作品に登場する女はみな美人であり、それは作者が男性主義であるからではないかとの批判もあるそう。これは他の作品の時に触れるとして、この作品はオカルトになったりせず(笑)、ふつうに恋愛ものである。結果もハッピーエンドで、大好きなエロチックシーンもあるし、愉しい。好きな作品のひとつである。ボロクソに言う人もいるが。

 さて本題の「音楽」の話。
 主人公はいくつだっけ、47だったかな、ヒロインの人妻は43だったような。この辺あとでまた確認し間違ってたら直すとして。
 とにかくまあそんな主人公が東京での一流商社でのサラリーマン生活をやめて故郷博多にもどりバーを開いた。商社でのそれは他人に責任をかぶせられたようなもので円満退社ではないのだが、ともあれ悪くない第二の人生のスタートである。当然内装に凝る。酒にも凝る。しかし思ったよりは売り上げは伸びない。そんなときヒロインの勧めもあり日本酒を置くようにする。するとこれが功を奏して売り上げが伸びたりするる。

 登場人物には主人公の幼馴染の従妹が登場する。ヒロインと同じ43歳。離婚経験あり。これまた美人。高校生の娘がいる。この従妹とは若いころお互いに惹かれあっていて、従妹は今も慕っている。娘は母が主人公と結婚してくれることを願っている。それを直談判する場面もある。まあようするにもてもてなわけで、それがフェミニスト(?)だかなんだか知らないけど、一部の人には「都合のいい男性小説」として否定されるらしい。私はもう楽しくてしょうがない。男だからだ。男なら誰だって自分が主人公のつもりになり、もてもての生活を夢見る。

 この美人従妹が主人公の店の「つきだし」というか「お通し」というか、それを担当してくれている。毎日作って開店前に運んできてくれる。もちろんそれにはそれなりの対価を払っている。ここでも料理好きの白石さんらしく彼女の作ってきてくれた「つきだし」の中身に触れたりする。思わず「うまそうだなあ」と思ってしまうほど。

 と、商社を辞めて故郷に帰った四十代後半の男が、念願の洋酒バーの店を出し、内装や酒や「つきだし」にも凝っている。となったら次は音楽だと誰でも思うだろう。まあふつうならJazzだ。商社マン時代に買い集めていたコレクションでもいいし、インターネットラジオでも有線でもいい。とにかく触れないとおかしい。主人公の好みで音楽は流さないことにした、酒を飲む場に音楽はいらない、でもいい。触れるのがふつうだし、触れないのは不自然だ。でもないのである。
 こういう私の発想を「通俗的」と哂うかたがいるかもしれないが、でもこの小説の舞台設定自体通俗的であり、その他の部分ではみな通俗的なのに、ここの部分だけ缺落しているのだ。白石さんは玄人裸足の音楽通であり敢えて触れなかったのか、音楽にまったく興味がないかであろう。そしてどう考えてもそれは「まったく興味がない」だと思われる。

 この白石さんの「まったく興味がない」はじつに興味深い。ネットにあったインタビュウでは、「女の顔の美醜にまったく興味がない」と語っている。となると別居中の奥さんはどんな顔なんだろうと興味が募るが、「生と死」「心の繋がり」「存在の価値」のようなことを追及して行く白石さんにとって、顔だちなんてのは表面的な造型に過ぎないのだろう。興味がないからこそ「スタイル抜群の絶世の美人」をひょいと放りこんでくる。名のある大学を出て、仕事も成功して高収入で、すべてに満点である。でも出自や自身の性癖に関して深く悩んでいたりする。それらすべてが大好きなこちらは楽しくてたまらないが、「なんでみんな美男美女なんだあ、なんでみんな一流大学卒なんだあ、なんでみんな高収入なんだあ!?」と不満を抱くひとからみたら、たまらない舞台設定でもあるのだろう。

 ともあれ、白石さんが音楽にまったく興味を示さないのは不自然である。作家はひねくれ者だから、たぶんそれはもう指摘されているはずだ。「美女ばっかり」という指摘の中、「ブス」を主人公にした「ほかならぬ」で直木賞を取ったように、そのうちまた料理のように、これでもかというぐらい音楽を押しだした作品を書くかも知れない。まあそれはないと思うけど、常識的には触れてくるだろう。それで背景が読める。楽しみだ。

「もしも、私が」は、最終的には自分をずっと慕ってくれたその知人の女房と結ばれハッピーエンドになる。その間、私の大好きな(笑)エロチックシーンもたっぷりある。反撥する人もいるようだが、男の私にとって愉しい男小説だった。


内容(「MARC」データベースより)
HOW DEEP IS YOUR LOVE? 離れていても、愛し合えるのか。現実よりもリアルで、映画よりも素敵な恋の物語を4話収録。『小説宝石』『オール読物』掲載作品に、書き下ろしの表題作を加えて単行本化。


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 中篇集である。みな佳作だが私はタイトル作の「どれくらいの愛情」がいちばん好きだ。
 さてこの装丁。白石さんが長年好きだった装丁師にデザインしてもらった待望の作なのだとか。このスプーンの柄は裏表紙にまで続いている。私もおしゃれだと思った。どれくらいか愛情を計るスプーンなのだろう。
 いま確認すると文庫本では変ってしまったようだ。同じ文春なのだがどんな事情なのだろう。

 これが白石作品としては最初の直木賞候補作品になる。

 


 
   
 
内容(「BOOK」データベースより)
誰もが振り返るほどの美貌をもてあます34歳のフードライター・小柳美帆は政治部記者・丈二との結婚を控えたある日、故郷の街で18年ぶりに幼馴染みの優司と再会する。幼い日、急流に飛び込み、弟の命を救ってくれた彼は今では背中に龍の彫り物を背負っていた―。出生の秘密、政界への野望、嫉妬と打算に塗れる愛憎、痺れるほどの痴情、そして新しい生命の誕生―ラストシーンが切なく鋭く胸を衝く、注目の著者の新境地



もしかしたら「見えないドアと鶴の空」や、この「もしも、私があなただったら」では濃厚ではあるけれどノーマルなセックス描写が、「心に龍をちりばめて」や直木賞受賞作「ほかならぬ人へ」に収められているもう一篇「かけがえのない人へ」ではSM的変態セックスへとエスカレートになっているし、

内容説明
胸に刺さる矢とは?著者の最高傑作、誕生 「週刊時代」編集長、カワバタ・タケヒコは癌に侵されていた。大物政治家Nの追及も、行く手が幾重も阻まれる。
そんな折り、恐ろしい罠にはめられてしまう。

内容(「BOOK」データベースより)
スクープ記事は大反響を呼ぶが、上層部から圧力がかかり、編集部内の人間関係もねじれ出す。もつれて膠着する状況のなかで、カワバタは、ある運命的な出会いへと導かれる。まるであらかじめ定められていたかのように。思考と引用をくぐり抜けた後に、「本当のこと」が語られる。現代を描き続ける著者が、小説という表現の極限を突き詰めた渾身作。いよいよ完結。


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内容紹介-Amazonより

愛するべき真の相手は、どこにいるのだろう?
「恋愛の本質」を克明に描きさらなる高みへ昇華した文芸作品。第二十二回山本周五郎賞受賞第一作! 祥伝社創立40周年記念出版。

「ほかならぬ人へ」
二十七歳の宇津木明生は、財閥の家系に生まれた大学教授を父に持ち、学究の道に進んだ二人の兄を持つ、人も羨むエリート家系出身である。しかし、彼は胸のうちで、いつもこうつぶやいていた。「俺はきっと生まれそこなったんだ」。
サッカー好きの明生は周囲の反対を押し切ってスポーツ用品メーカーに就職し、また二年前に接待のため出かけた池袋のキャバクラで美人のなずなと出会い、これまた周囲の反対を押し切って彼女と結婚した。
しかし、なずなは突然明生に対して、「過去につき合っていた真一のことが気になって夜も眠れなくなった」と打ち明ける。真一というのは夫婦でパン屋を経営している二枚目の男だ。「少しだけ時間が欲しい。その間は私のことを忘れて欲しいの」となずなはいう。
その後、今度は真一の妻から明生に連絡が入る。彼女が言うには、妻のなずなと真一の関係は結婚後もずっと続いていたのだ、と。真一との間をなずなに対して問いただしたところ、なずなは逆上して遂に家出をしてしまう。
失意の明生は一方で、個人的な相談をするうちに、職場の先輩である三十三歳の東海倫子に惹かれていく。彼女は容姿こそお世辞にも美人とはいえないものの、営業テクニックから人間性に至るまで、とにかく信頼できる人物だった。
やがて、なずなの身に衝撃的な出来事が起こり、明生は…。


「かけがえのない人へ」
グローバル電気に務めるみはるは、父を電線・ケーブル会社の社長に持ち、同じ会社に勤める東大出の同僚・水鳥聖司と婚約を控えて一見順風満帆に見えるが、一方でかつての上司・黒木ともその縁を切れずにいる。黒木はいつも夜中に突然電話を寄越し、みはるの部屋で食事を要求した後、彼女の身体を弄ぶのだ。みはるはみはるで、聖司という婚約者がいながら、何故か野卑とも言える黒木に執着している。黒木が言うには、五歳から大学に入るまでの十三年間、都内の養護施設を渡り歩いていたというが、黒木を見ていると、苦労が必ずしも人を成長させるとは限らない、とみはるは思う。
一方で、社内では業績不振も相俟って、他社との合併話が進行していたが、それを巡る社内の政争のあおりを受けて、黒木の後ろ盾である藪本常務の立場が危うくなっていた…。


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 美男美女のエリートばかり(でもみんなそれぞれ心に傷を抱えている)を主人公にするとアンチからは非難囂々の白石さんは、ブスをヒロインにしたこの作品で直木賞を取った。そこがなんともおもしろい(笑)。

 主人公は上記内容紹介にあるように、日本人なら誰もが知っているような名門出身。そこではハズレ者で、そのことに悩んでいる。でも親兄弟はすべてそういう主人公にやさしいという設定。つまり本人はかなり悩んでいるが「贅沢な悩み」なのだ。
 これまたすばらしい美女と結婚するが破綻。美女はむかしの男の元に走る。
 そのとき相談に乗ってもらったり、励ましてもらったりした上司がヒロイン。バツイチでブスの三十代。しかしそこは白石さん、このブスはスタイルは抜群だ。それに気づいて指摘されると、「ブスでバツイチなんだから躰ぐらいシェイプアップしていないと」と言ったりする。そしてもうひとつ小道具として、この女は「とてもいい匂い」がするのだ。それは「友人の調香師が作ってくれた特製の香水」ということになっているが、最後に「体臭」とわかる仕掛け。主人公と結婚するがガンで死んでしまう。こどもを産めなかったのが残念と言いのこして。
 ブスを魅力的に描いている。これで顔はブスの上に、躰も不細工、おまけに腋臭だったりしたら小説にならんか(笑)。スタイル抜群といい匂いという男好みの設定に、アンチのスタイル最低で悪臭の連中はまたボロクソに言うだろう。年上の心のひろい女につつまれる快感。「男の夢」であることはまちがいない。だからブスであろうといつもの「白川節」だ。

「かけがえのない人へ」のセックスはSM。女が主人公。屈折した男の屈折の裏に隠されたまっすぐな愛情にあとで気づいて悔いる、というような内容。東大卒のエリートの男と養護施設育ちの男との対比。まあいつもの「白石節」である。


 これはAmazonにあった白石さんの色紙。これを読むと御本人もこれを最高傑作としているようだがどうだろう。
 思うのは「連続物」ということ。「一瞬の光」から始まって「ほかならぬ人へ」で直木賞受賞に到るのだが、それは山あり谷ありの一本線だ。麓から右上がりで頂点にこれがあるのではない。ここで受賞して世間的話題としては頂点であるとしても。

 私の好みとしては、博多を舞台にした作品のほうがいい。でも直木賞受賞作としては、この形がベストなのかもと思う。
 思えば直木賞受賞作って、力作のあとの、すこし肩の力を抜いたような作品が受けることが多い。これもそのパターンか。大傑作とは思わないが、たとえば「この胸に」には、結末に明らかな缺点があると思われるが、そういうものはない。やはり理想的な形の受賞なのだろう。

7/1
〈内容紹介〉
Amazon.co.jp
橋田浩介は一流企業に勤めるエリートサラリーマン。38歳という異例の若さで人事課長に抜擢され、社長派の中核として忙しい毎日を送っていた。そんなある日、彼はトラウマを抱えた短大生の香折と出会い、その陰うつな過去と傷ついた魂に心を動かされ、彼女から目が離せなくなる。派閥間の争いや陰謀、信じていた人の裏切りですべてを失う中、浩介は香折の中に家族や恋人を超えた愛の形を見出していく。
著者はデビュー作である本書で、「人は何のために生きるのか」「人を愛するとはどういうことか」という大きな問題に取り組んでいる。観念的になりがちなテーマを軸にしながらも、背景となる企業社会を残酷なまでにリアルに描くことで、地に足着いた存在感のある物語を作り上げた。無慈悲な現実の渦に見え隠れする感動、生きる喜び。そうした一瞬の光を求めてがむしゃらに生きる一人の男の姿が、そこにはある。

ロングセラーになった『僕の中の壊れていない部分』(2002年刊)に比べると、性描写が粗く、文体もまだ定まっていない感がある。古風な女性観にもやはり疑問は残った。だが本書の魅力はそういった批判を超えたところ、懸命に生きる人間の輝きをすくい上げようという、作品に込められた熱い思いにあるのだ。終始冷静で理知的な浩介が本当の気持ちを叫ぶ場面、著者の思いがページからあふれ出し、読み手は心を打たれるだろう。(小尾慶一)


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 デビュウ作だが、読むのはずいぶんと後になった。でもそれはそれでよかったか。感想は上記の評にあるのと同じ。私の大好きな白石さんの性描写(笑)はまだ粗っぽくて昂奮できるものではない。その辺、たしかにデビュウ作だ。でも平然とクリトリスとか膣の味なんて出て来て栴檀は二葉より芳しい。恋人はれいによって誰もが振り返る顔もスタイルも抜群の美女だから、いまの完成された白石性描写があったらもっと昂奮できた。惜しい。

 デビュウ作にはその作家のすべてがあると言われる。たしかにそういう場合もあるし、見当ハズレの場合もある。白石さんの場合はこの一冊にすべてが詰まっているように思える。
 アンチのひとから度々指摘されるように、美男美女が出て来て、しかもエリートである。主人公は役者になれるような美男。しかも物心ついたときからもう神童で、努力しなくても一番。東大首席卒。現在も大商社でエリート街道まっしぐら。恋人になるのはその一族でこれまた一橋卒の容姿抜群のエリート美女。そこに家庭内暴力を受け続けてきた貧相な少女をポンと抛りこんでのストーリィ。

 そういえば白石さんの文章で好きなことに学校や会社名を実名で書くことがある。ここでも東大、一橋、慶應と出て来るし、ヒロインの勤める会社もサントリーと実名だ。でもさすがにこの商社は三菱とすぐわかるがごまかしてある。とはいえ気味悪いインチキ会社の名にしないのはいい。よくあるW大学なんて表記になんの意味があるのだろう。早稲田と書けばいいし、ごまかすならきちんと架空の名を考えるべきだ。W大学はお粗末である。

 まだ文藝春秋社員である2000年に出された(ということは書かれたのは90年代か)このデビュウ作に衝撃を受け、白石さんを読んできた人を本物のファンと呼ぶのだろう。Amazonのレヴュウには誇り高く「『一瞬の光』を読んだときの衝撃は忘れられません」なんて書きこんであったりする。私なんか2010年の春にやっと知った新参者である。しかもそのときはもう直木賞を受けていたから「有名人読み」と嗤われてもしょうがないほどだ。

 二段組383ページの単行本。長篇だ。午前0時に読み始め、そのまま止められなくなって徹夜で読了したから充分におもしろいのだけれど、でも私は「一瞬の光」を読んでも白石作品に夢中にはならなかった。それは言える。だから出会いの形も読む順番もこれでよかったのだと思う。
 最初に読んだ「見えないドアと鶴の空」で、三角関係恋愛ものだと思い、その性描写に昂奮し(笑)、なのにどんどん脱線して行き、「なんじゃこりゃ???」と思い、他の作品も読まずにいられなくなった出会いは、思えば最良だったのかも知れない。図書館に通いつめていて、そういうことが出来る時期だったこともさいわいした。
 ともあれデビュウ作を読んで、これで「白石一文まとめ読み」もやっと終了。これからは次の新作を待ちつつ、じっくりと読んで行くことになる。すばらしい作家と出逢えて嬉しい。それに尽きる。


7/10  不自由な心


出版社/著者からの内容紹介

愛と命をテーマに、緊張感溢れる筆致で綴った、珠玉小説集。

大手部品メーカーに勤務する野島は、パーティで、同僚の若い女性の結婚話を耳にし、動揺を隠せなかった。なぜなら当の女性とは、野島が不倫を続けている恵理だったからだ…。心のもどかしさを描く珠玉小説集。

大手企業の総務部に勤務する江川一郎は、妹からある日、夫が同僚の女性と不倫を続け、滅多に家に帰らなくなったことを告げられる。その夫とは、江川が紹介した同じ会社の後輩社員だった。怒りに捉えられた江川だったが、彼自身もかつては結婚後に複数の女性と関係を持ち、そのひとつが原因で妻は今も大きな障害を背負い続けていた…。 (「不自由な心」) 人は何のために人を愛するのか? その愛とは? 幸福とは? 死とは何なのか? 透徹した視線で人間存在の根源を凝視め、緊密な文体を駆使してリアルかつ獨自の物語世界を構築した、話題の著者のデビュー第二作、会心の作品集。

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 デビュウ作の長篇「一瞬の光」に続く二作目。短篇集である。いや、五篇だから「中篇集」だな。やはり一作目と同じく今の白石作品と比べると若い。酒で言うなら青い。熟成されてない。当然だ、十年という月日がある。

 もういちど全作品を発表順に並べた表。



 ぜんぶ好きだけど、特に好きな作品は「もしも、私があなただったら」以降に集中している。やはり文藝春秋を止めて九州に帰り、作家専業になってからの作品がいい。一作目と二作目はまだ新人。でもデビュウから今に至るまで一貫してテーマはしっかり決まっている。三作目、四作目、五作目とのたうつように悩み苦しんでいる。
 六作目の私が最初に読んだ作品になる「見えないドア」は上記したようにかなり壊れた作品。「私という運命」で、時の流れの中で愛情を追っ掛ける。そして以降、一気に充実した。ように私には思える。
 すでに書いた結論の繰り返しになるが、私はこの一作目、二作目を読んでも白石作品に夢中にはならなかった。偶然だがいい出会いをした。そのことに感謝しよう。



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