2009
8/7  トルコのもう一つの顔──小島剛一


 船戸の「河畔に標なく」を読んだ。ミャンマーのカチン州が舞台なので多少の土地鑑もあり期待した。いつもの冒険譚で人殺しもたっぷりありおもしろかったけど、やはり南米舞台の作品と比べるとアジア舞台作品はいまいちである。

 その理由をわたし的に推測すると、民族の気質の差から来ているように思う。ラテン系のカラッとした人殺しと比べるとアジア人の場合は湿度が高い。南米の連中の、こちらが道路を横断していると跳ね飛ばしてやろうとアクセルを踏んで加速してくる陽気なキチガイ気質こそが船戸の硝煙の臭いのする殺人文学には似合う。(これは実話。というかありふれた話。ひとが道路を渡っているとクルマは減速してくれるという常識は中南米では捨てた方がいい。)
 単に残虐というなら充分に漢民族の殺人も残酷なのだが、やはり硝煙の臭いは南米がいい。よって私は船戸の「アジアもの」を読むと、そのあと気分転換に「南米もの」を読みかえすことになる。



 巻末に参考資料一覧と謝辞があった。参考資料とした吉田敏浩氏と高野秀行氏の作品を絶讃していた。謝辞は礼儀だが参考資料の絶讃は珍しい。
 高野氏は早稲田の探険部出身。船戸の後輩に当たる。吉田氏は明治大学の探険部出身。この種の作品を書くひとは探険部出身が多い。学生時代、音楽サークルにいて海外に興味のなかった私は「探険部」なんて存在すら知らなかった。
 その後すこし調べて知ったが、船戸は後輩の高野さんを可愛がっているようだ。絶讃は彼なりのサーヴィス精神か。

 ミャンマーは何度も行っている興味のある国なので、両氏の作品で勉強してみようと探してみた。残念ながら私の通っている図書館では資料として挙げられている吉田氏の「森の回廊」「北ビルマ、いのちの根をたずねて」、高野氏の「アヘン王国潜入記」等は入手できなかった。そのうち買いましょう。



 船戸の巻末資料で知ったことから高野秀行さんというかたは硬派のノンフィクションライターなのかと思ったが、どうやらそうでもないらしい。「極楽タイ暮らし」「幻獣ムベンベを追え」のような、けっこうやわらかい海外紀行ものも書いていると知る。チェンマイ大学で二年間日本語講師をしていたという経歴も身近に感じた。時代的にニアミスしている。もしかしたらチェンマイで擦れちがっているか。

 その高野さんの著書「アジア新聞屋台村」を読んだ。アジアの国別新聞を発刊している新宿の出版社での体験を書いたものである。ひとり語りのノンフィクションのようだが著者初の「小説」なのだとか。そういう味つけなのだろう。
 「出版社」といっても台湾人の三十代女性が経営し、タイ人の女子大生や、別の仕事をもっているインドネシア人や韓国人や、そういうごったなひとたちが編輯者兼ライターとなって台湾新聞、タイ新聞、インドネシア新聞のようなものを、あちこちから掻き集めたネタを載せて出している怪しい会社である。ある日、タイのことを書いてくれと電話が掛かってきて、高野さん(と思われる主人公)はライターとして関わって行く。それからのドタバタ劇。それぞれの新聞が何部ぐらい出ているのか、どの程度の収益があるのかわからないが、その怪しいエネルギーとアジア人それぞれの感覚の違いによる意外な展開は楽しい。この新聞、いまも続いているのだろうか。

 数多くのエピソードの中で、編輯者兼ライターのしっかり者韓国人女性・朴さんの「日本への片想い」の話は興味深かった。朴さんは高野さん、いや高野さんと思われる主人公が「竹島」と言っただけで「獨島です!」とすぐに突っ掛かってくるぐらいの典型的な韓国人だ。韓国人の友人と集まると一晩中日本への批判批難で盛りあがる。そんな朴さんが帰国するころ、高野さん、いや主人公にぽつりと洩らす。日本の悪口を言うのは韓国人の自分達にとって共通の話題でありいちばん盛りあがるからなのだが、共通で盛りあがる話題はそれしかないのも事実であり、そうしてそこまで日本に興味を持っている自分達と比して日本人は韓国に興味を持っていない、そんな「片想い」に疲れた、と。



 図書館でひさしぶりに「本の雑誌」を読んだ。私は三十年ほど前、まだ「本の雑誌」が有志によって限られた本屋に手作業で運びこまれている季刊誌だったころ、偶然赤坂の本屋で目にして惚れこんだ。ちいさな本屋だったが「本の雑誌」を受けいれていたのだ。毎号買っては本棚に並べた。バックナンバーを集めるぐらい愛読した。椎名さんの「オババ」、藤代三郎さんの「チンチロリン」が出る前の時代である。ずいぶんと「本の雑誌」に教えてもらって読んだ本もある。

「本の雑誌」がメジャーになってからは次第に疎遠になり(というか私自身が変化していったのだろう)時折図書館で手にする程度になっていた。椎名さんが流行作家になり、目黒さんも売れっ子書評家となって「本の雑誌」は図書館にもおかれるようになったのだ。
 今回手にしたのも数年ぶりぐらい。たまには読んでみるか、ぐらいの気分だった。私は「本の雑誌」の常連ライターほど読書に熱心ではない。あそこに書いているひとたちの読書への偏愛を感じると刺激されるというよりむしろ引いてしまうことが多い。「本の雑誌」を読んだから本が読みたくなるとは限らない。いつしかそうして疎遠になっていった。
 しかし今回はしみじみと「読んでよかった」と思う出会いがあった。

 パラパラとめくった。ほんの一二分でまた棚にもどすはずだった。「高野秀行」という名が目に止まった。前記の「アジア新聞屋台村」の高野さんである。船戸が参考資料として絶讃していたミャンマーに関する著書のある、チェンマイ大学で日本語講師をしていたあの高野さんだ。
 ということでそのページを読んでみた。「本の雑誌」であるから高野さんも本の紹介をしている。どうやら高野さんはもう何年も前からレギュラーライターのようだ。それすら知らなかったのだからいかに私が最近「本の雑誌」を読んでいないことか。そういや知人のかなざわいっせいさんはもう辞めたのか? 豊崎由美さんはまだ書いているようだ。

 高野さんの本紹介によると、以前どこかの雑誌で蔵前仁一、前川健一両氏との鼎談があったとか。海外旅行好きなら誰でも知っている旅本関係の有名人である。海外旅行に凝っているころ私も彼らの本を何冊も購入して読んだ。お二人と鼎談するということは高野さんもそれぐらい業界では有名人なのか。ここのところその傾向の本を読んでいないので高野さんだけ知らなかった。もっとも何冊も持っていた蔵前さん、前川さんの旅関係の本ももう処分してしまって今はない。「旅行人」をせっせと買っていたころが懐かしい。そういや当時の「旅行人」も初期の「本の雑誌」と同じように置いてある店を探すのがたいへんだった。
 その後調べて知ったことだが、作家として高野さんはすでに蔵前さん、前川さんより上のようだ。上とか下なんて言いかたは不粋だが、旅関係の作品が主の前記お二人が「ライター」なら、高野さんは明らかに「作家」であると知った。世間の評価である。

 鼎談の企劃は「私の選ぶ旅の本ベストスリー」のようなものだったらしい。高野さんは、そこで蔵前さんが最高の一冊として「小島剛一の『トルコのもう一つの顔』を挙げた」ことを記し、そのページであらためて「トルコのもう一つの顔」の紹介をしていた。
 それはトルコ語が話せる小島剛一さんというかたがトルコを旅行し、方言を拾い、様々な少数民族と接する旅行記であるらしい。言語学者なのだろうか。
 各地に散った少数民族の中には自分達がどういう流れの民族なのかもわからなくなっているひとたちもいて、そのひとたちが小島さんに問うのだという。自分達は何族なのかと。それに対して各地のトルコ語方言に詳しい小島さんが、「あなた達の話しているのは×族のことばであり、××地域に行くと、同じ言葉を話しているひとたちに会える」と、応えてあげるのだとか。それだけで小島剛一というひとの凄味が伝わってくる。
 中には「隠れ民族」というのもいて、政府という権力に対して自分達のことを隠して生きている民族だから、小島さんが自分達の秘密を漏らす可能性があると判断したら消してしまう(=密殺される)危険性もあるのだとか。そのことを高野さんは「まるで船戸与一の世界だ」と書いている。こりゃもう読むしかない。



 ということで入手したのがこれ、「トルコのもう一つ顔──小島剛一」中公文庫である。1991年初版、いままで8版を重ねている。
 いやはやおもしろい。こんなすごい本を読んだのもひさしぶりだ。たまたま手にした「本の雑誌」と、教えてくれた高野さんに感謝である。

 中公新書なんて読んだことがない。そもそも様々な出版社から出ている「新書」と無縁である。新書ってのはどういう設定で作られたものなのか知らない。いまWikipediaで新書が誕生する流れを勉強してみた。原点は「岩波新書」らしい。岩波とは無縁だものなあ(笑)。「新書的智性」というものがあるとしたら私にはかけらもない。いままで読んだ「新書」は講談社と文春のを何冊か程度。
 まさか新書の「旅行記」(とくくっていいのだろうか、この凄い本を)にこんな本があるとは思わなかった。これからは「新書」にもきちんとアンテナを張って勉強しよう。

 だいたいにおいて旅関係の本というのは装丁も決まっている。高野さんの本を例に出して恐縮だが、みなカラフルでお気楽なこんな感じだ。出版社もこの本がベストセラー社であるように、そんなところが多い。いわばかなりパターニックな装丁、いくつかの出版社、限られた読者で構成される分野だ。とんでもないベストセラーも出ないが固定読者がいるので確実にそこそこ数は捌けるらしい。この種の本を出している知りあいの編集者もそう言っていた。

 なのに「トルコのもう一つの顔」は、中公新書という上掲のような地味な装丁、いや知的な装丁で、しかも内容はどんな旅行記もぶっとんでしまうような深みがあるのだ。内藤陳のように「読まずに死ねるか」などと読書を高見に置く気はないが、たまたまこんな凄い本を手にすると、そんな感覚すら芽ばえてくる。



 「本の雑誌」での紹介文で、高野さんは小島剛一さんがいま何をやっているかわからない、と書いている。が、自分のブログでこの本を勧めたところ小島さんから連絡があったそうなのだ。これはニュースである。
 読了してから高野さんのブログに行き、この本を絶讃している箇所を見つけた。

http://www.aisa.ne.jp/mbembe/index.php?eid=593#trackback

 その文は「地名や民族・言語名が細かくて、トルコか言語学か民族学のいずれかに興味がない人には読みづらいと思い、本の雑誌では紹介していないが、ここにはもう一度、強くお勧めしておきます」と結ばれている。日附は2009年3月26日。私が読んだ「本の雑誌」は9月号だから、ブログでそう書いたけど、それから数ヶ月後、やっぱりこの名著を「本の雑誌」読者に知らせたいと思って取りあげたようだ。ブログに小島さんご本人から連絡があったという流れもあろう。

 ネットで感想文を探してみた。どこもかしこも絶讃だった。中には「奇書」と書いているひともいたが、そのひともまたこの本の価値は否定していない。
 讚歌の根底には「意外性」もあると思う。いかにも旅行本らしい旅行本ではなく、中公新書というお堅い論説かと思うようなところから、冒険活劇みたいな深い内容のおもしろ本が出ていたからみなより魅せられたのだ。

 前川健一さんは、この本に関して「タイトルで損をしている」と言ったとか。まああまりピンとくるタイトルではない。内容のわかりやすいタイトルで、中公新書ではなく、よりメジャーなメディアで発刊され、広告も打ったなら、この本はもっともっと売れたのだろうか。かといってこの本、どんなタイトルにすればいいのか。ちょっと浮かばない。
 地味にじわじわ売れているのもこの本らしい。

 誰もが思うのがいきなりこんな凄い本を出してそのあと消えてしまった小島さんのその後である。1991年にこの本を出してから、小島さんはマスコミに登場していないのである。続篇を読みたいと思うのは読者すべての願いだろう。高野さんにメールをくれたということは、小島さんにもやる気はあるのだろう。なんとしても次回作が読みたいものだ。

 フランスの大学の修士課程時代、二十代前半からトルコ通いを始めた小島さんが四十歳を過ぎたころ、トルコ通いに区切りをつけ、突如本にしたくなって一気に書きあげ発行したのが1991年。1946年生まれの小島さんが45歳の時。こんな凄い本を一冊残してまた小島さんは表舞台から消えてしまう。「区切りをつけた」は、トルコ政府から危険人物として出入り禁止になったからである。
 そもそもなぜフランスの大学に留学を志したのか、なにがきっかけでトルコ語やそれに類する言語に興味を持ったのか、小島さんに関して知りたいことは山とある。



 ある感想文のブログに行くと、高野さんと同じように小島さんご本人からの書きこみがあった。小島さんの書かれたのは高野さんのブログもここもほぼ同じ文章である。御自分のやっているサイトの紹介だ。

http://d.hatena.ne.jp/myougadani/20080904

 このブログ主は教育関係の出版社社長であるらしい。2008年9月に「ことばに関する本ということで、どんな本が面白いですか、と言われたときにいつも真っ先にあげる本は、『トルコのもう一つの顔』だ 」と、この本を絶讃したら、2009年5月12日に以下のような書きこみがあった。


最近は、次のようなサイトを開設しています。
「ラズ語文法書・草稿」 http://lazepesi.dosti.free.fr と http://ayla7.free.fr/laz/grammaire.html

「ラズ語トルコ語辞典・草稿」http://ayla7.free.fr/laz/index.html

「フランス語を母言語とする人のための和佛辞典・草稿」http://ayla7.free.fr/japonais
2009-05-12 07:03:53
Unknown (小島剛一)
 ブログ主は「失礼ですがご本人ですか。感激です」と記している。そりゃ感激するよね。



 早速上記の小島さんがやっているというサイトに出かけてみた。多言語で作られており「日本語」を選ぶと日本語で読める。でもこれはラズ語の文法書。素人にはチンプンカンプン(笑)。
 高野さんへの連絡といい、上記ブログへの連絡といい、「謎のひと」でありネット検索でも見つからない小島さんが、そんなに熱心に活動しているのかと不思議だったが、日附を調べてみると、この「トルコのもう一つの顔」の感想を書いたブログ日附は2008年、そして小島さんの書きこみがあったのは2009年の5月。高野さんへも5月だった。
 どうやら、2009年の5月に、いままで眠っていたかのような小島さんが積極的にネット検索をし、自分の著書を評価しているブログに連絡を取りはじめたらしい。

 どういう心境の変化なのかわからないが、これが次作への助走ならこれほどうれしいことはない。小島さんの本のように他方面のプロが評価している玄人受けする作品は出版社捜しに苦労することもない。近々新作が読めそうだ。ありがたい。20年近い雌伏はどんな作品に結実するのだろう。わくわくする。



 肝腎の著作に関する感想を書いてなかった。すばらしい感想文がいくつもあるので今さら書く必要もないのだが、普通の旅行本との際立った違いは、「著者(=主人公)が語学の達人」であることだ。
 一般の旅行記は、ことば、気候、風習の違い、食べ物、男女の恋愛マナー、それらを「知らない旅行者」が体験して戸惑い、事件を起こす様を、同じく「知らない読者」が疑似体験して楽しむものである。

 ところがこの作品の主人公・小島剛一さんは、フランスで博士号を取得している言語学者なのである。英語フランス語はもちろん堪能であろう。そしてトルコ語が話せ、トルコの方言、トルコ語とは別言語であるクルド語(トルコ政府はクルド語をトルコ語の方言のひとつとしていて、そのことが後のスリリングな展開に繋がる)、その他の言語の研究にトルコに通いつめるのである。二十代の始めから十六年ほど、毎年。各地の言語に詳しくなり、前述したように、少数民族から「自分達の話しているのはどういう言語だ、自分達はどういう民族だ?」と問われるまでになる。



 TVドラマ「逃亡者」の魅力は、リチャード・キンブルが医者だからである。あれがこれといって特技のないただのひとだったら盛りあがらない。警察に追われる身でありながら、医者として病人を看過できず、ついつい関わってしまう(=治してあげる)ことが物語を複雑にし、おもしろくしている。
 この本の面白さはそれに通じる。

 小島さんはトルコ語が話せる。日本人がトルコ語を話せるというだけで人集りが出来る。どこに行っても大歓迎であり、バスの中でも僻地の村でも現地のひとと楽しいつきあいが続く。
 でもこれぐらいならたまにある。その国が好きなのだから、大学で専攻していた、あるいは獨学で学んでから出かけた、の類だ。その国の言葉が話せるひとの旅行記はある。だがその場合も学ぶのはいわゆる「標準語」だから、首都では通じたが田舎に行くと通じないことも多く苦労した、なんてことになる。
 ところが小島さんの場合は現地に住んでいるひとよりも方言や少数民族のことばに詳しい言語学者である。方言が理解できないどころか方言を話している人たちにその出自を説明してやるほど詳しいのだ。これは旅本関係の設定としてコペ転である。日本で言うなら、見掛けは紅毛碧眼の白人の旅行者が、日本人以上に日本の歴史や言語に詳しく、東北に行ったら東北弁を、九州に行ったら九州弁を話し、土地の人びとに日本の歴史を教えてやるようなものである。

 となると旅行本のおもしろさである「旅の障害」がなく盛りあがりに缺けるようだがそうではない。最後になって「最強の障害」が登場する。政府だ。クルド人問題だ。監禁され生涯牢獄暮らしをさせられるかもしれない国家権力という最強の敵である。
 各地の民族の方言を調べ、それをフランスで論文にしようとする小島さんは、「クルド語なんて言葉は存在しない。トルコに住んでいるのはトルコ人だけだ」とするトルコ政府にとって、触れられたくない部分に踏みこんでくる問題児なのである。当然、力尽くの排除に動く。そこの流れがスリリングだ。高野さんが「まるで船戸与一の世界」という所以である。

 もしも小島さんがただのトルコ好きの旅行者だったらそんな問題は起きない。その代わり点在する少数民族に出自を教えてやるようなこともないから中身は薄味になる。つまり基本設定からして「いわゆる旅行本」とは逆なのである。それがマニアックな旅好きに絶讃される理由だろう。



 偶然にも私は今夏、数年ぶりに「船戸与一読みなおし」をしていた。デビュウ作「非合法員(イリーガル)」から始まり、「砂のクロニクル」までを読了したときにこの本を知った。久々に読んだ「砂のクロニクル」から、自分なりにクルド人問題をあらためて勉強し直したあとだった。なんとまあドンピシャの最良のタイミングだったことだろう。

 それを思うと、高野さんがブログで案じていたことも理解できる。
地名や民族・言語名が細かくて、トルコか言語学か民族学のいずれかに興味がない人には読みづらいと思い、本の雑誌では紹介していないが、ここにはもう一度、強くお勧めしておきます
 たしかにトルコやギリシャの地名、民族、言語がカタカナでこれでもかというほど出て来る。何度も掲載されている地図のページにもどっては地名と位置関係を確かめた。それすらも楽しくてたまらなかった。さいわいにも私はすべてがおもしろくてスイスイ読めたけれど、言語学への興味、というか、トルコにおけるクルド人問題を知らないと、この本はおもしろくないのかもしれない。すくなくともそれらを知らなかった時期の私は、この本を読んでもその魅力が半分も理解できなかったろう。

「知らないことをこの本で知る。それから目覚める可能性」もあるわけだが、どうだろう。やはりこの本はクルド人問題等の基本を知っているひとが読んでハラハラドキドキするものであり、何も知らないひとがこの本を読んでも楽しめないのではないか。それらを勉強してから読んだ私には、知らないひとが読んでどう感じるのかは想像出来ない。



 いや、しかし、また考える。
 もしもこれがトルコではなくアフリカの××という国であり、クルド人問題ではなく××民族問題であり、私の知らない世界であったとしても、私はドキドキしつつ読み勧められたのではないか、とも思うのだ。トルコもクルド人もじつはこの本のおもしろさとは無関係なのではないかと。これは「フィクションだったとしてもおもしろい世界」でもある。

 前記「出版社社長のブログ」は、「映画にしたらいい。『ミッドナイトエキスプレス』よりもおもしろい映画になる」と書いている。なるほど、無名の旅行者として行動していたときはさほど問題にならなかったのに、言語学者であり世界中が注目する論文を発表する可能性がある(=民族差別をしている政府にとって都合の悪いことになる)と政府側に知られたときからじわじわと迫ってくる官権の包囲網は、充分に映画素材として背筋の寒くなる迫力を備えている。そのおもしろさは智識とは無関係だ。だから基礎的な政治智識なんていらないのかもしれない。(懐かしいな、「ミッドナイトエキスプレス」。好きな映画だった。レンタルしてまた観たくなった。)

 クルド人問題等を知らないひとがこの本を読んでどう感じるかを知りたい。でもそういうことに興味のないひとは、いくら勧めても本をプレゼントしても、読んでくれない。むずかしい。思うようには行かない。かといって私だって自分の興味のない分野のことを、どう感じるか読んでくれ、見てくれ(映画・演劇等)と迫られても二の足を踏む怠け者だから友人を責められはしない。

 未読の作品にこんな傑作が眠っていると知ったのは大きな学習だった。
 世の中にはまだまだ知らない楽しみがあるようだ。
09夏  なぜかまた気分で船戸浸り

 船戸与一作品の一覧と読んだ作品をチェックした項目があった。何年前だったか。ちょっとコピーしよう。

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既読作品

蝦夷地別件(新潮社、1995年)
海燕ホテル・ブルー(角川書店、1998年;徳間文庫、2005年)
かくも短き眠り(毎日新聞社、1996年)
蟹喰い猿フーガ(徳間書店、1996年)
カルナヴァル戦記(講談社、1986年)
黄色い蜃気楼(双葉社、1992年
金門島流離譚(毎日新聞社、2004年)
降臨の群れ(集英社、2004年)
午後の行商人(講談社、1997年)
群狼の島(双葉社、1981年;角川文庫、1985年)
銃撃の宴(徳間文庫、1984年)
新宿・夏の死(文藝春秋、2001年)
神話の果て(双葉社、1985年;講談社、1988年)
砂のクロニクル(毎日新聞社、1991年)
祖国よ友よ(双葉社、1980年;角川書店、1986年)
猛き箱舟(集英社、1987年)
伝説なき地(講談社、1988年)
血と夢(双葉社、1982年;徳間書店、1988年)
蝶舞う館(講談社、2005年)
虹の谷の五月(集英社、2000年)
蛮賊ども(角川書店、1987年)
緋色の時代(小学館、2002年)
非合法員(講談社、1979年;徳間書店、1984年)
炎流れる彼方(集英社、1990年)
緑の底の底(中央公論社、1989年)
蝕みの果実(講談社、1996年)
山猫の夏(講談社、1984年)
夢は荒れ地を(文芸春秋、2003年)
夜のオデッセイア(徳間書店、1981年、1985年)
流沙の塔(朝日新聞社、1998年)
メビウスの時の刻(中央公論社、1989年)

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未読作品
龍神町龍神十三番地(徳間文庫、2002年)
満州国演義・霊南坂の人びと(週刊新潮にて連載中 2005年~)
河畔に標なく (集英社、2006年刊行予定)
国家と犯罪(小学館、1997年)
三都物語(新潮社、2003年)


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 この一覧をチェックしたのは2006年の2月。2005年の暮れに雲南で「蝦夷地別件」を読み、帰国してから作ったようだ。

 蝦夷地別件

 どこかからコピーしたのだろう、どういう順序なのか、見にくい。発行年月日で並びかえてみよう。
 カットとペーストを繰り返して並べかえた。これでだいぶ見易くなった。なんでこんな順序なのだろうと思ったら、どうやら引用がWikipediaらしい。そこでは作品が五十音で並んでいたのだ。これはおかしいと思う。発行順にすべきだ。有志が無料で書くWikipediaに文句をつけるのは野暮だが。

 せっかくの機会だから思いきってExcelで整理することにした。上記の年代順に並べかえたものは消す。よりよい表が出来た。すこし時間を食ったがこれでだいぶ資料として充実した。未読は赤字とした。とはいえ内容を忘れているのでみんな未読みたいなものだが。
 私にとって大事なのは「舞台」。また読み返すとき、どこが舞台かは重要だ。この一覧で確認して読むようにしよう。

発行年 タイトル 出版社 舞台 備考
1979年 非合法員 講談社 メキシコ
アメリカ
デビュウ作
1980年 祖国よ友よ 双葉社 ヨーロッパ
1981年 群狼の島 双葉社 マダガスカル
夜のオデッセイア 徳間書店 アメリカ コミカル味つけ
1982年 血と夢 双葉社 アフガニスタン
1984年 銃撃の宴 徳間書店 アメリカ 評判悪し
山猫の夏 講談社 ブラジル
1985年 神話の果て 双葉社 ペルー
1986年 カルナヴァル戦記 講談社 ブラジル
1987年 蛮賊ども 角川書店 ジンバブエ
猛き箱舟 集英社 北西アフリカ 友人がくれたこれを1992年にバンコクの安宿で読破してから私は船戸ファンになった。
1988年 伝説なき地 講談社 ベネズエラ
コロンビア
このミス1位
1989年 メビウスの時の刻 中央公論社 アメリカ
緑の底の底 中央公論社 ベネズエラ
コロンビア
1990年 炎流れる彼方 集英社 アメリカ
1991年 砂のクロニクル 毎日新聞社 イラン・ソ連・イギリス このミス1位
1992年 黄色い蜃気楼 双葉社 南アフリカ・ナミビア
1995年 蝦夷地別件 新潮社 日本
1996年 かくも短き眠り 毎日新聞社 ルーマニア
蟹喰い猿フーガ 徳間書店 アメリカ
蝕みの果実 講談社 アメリカ 短篇集・スポーツ
1997年 午後の行商人 講談社 メキシコ
国家と犯罪 小学館 評論
1998年 流沙の塔 朝日新聞社 中国
海燕ホテル・ブルー 角川書店 日本
2000年 虹の谷の五月 集英社 フィリピン 直木賞受賞作
2001年 新宿・夏の死 文藝春秋 日本
2002年 龍神町龍神十三番地 徳間書店 日本
緋色の時代 小学館 アフガニスタン
2003年 夢は荒れ地を 文藝春秋 カンボジア
三都物語 新潮社 日本・台湾・韓国 野球テーマ。評判悪し。スルー予定。
2004年 金門島流離譚 毎日新聞社 中国・台湾
降臨の群れ 集英社 インドネシア
2005年 蝶舞う館 講談社 ベトナム
2006年 河畔に標なく 集英社 ミャンマー
2007年
満州国演義-風の払暁 新潮社 中国 何作で完結するのか、いま五部まで出ているがまだまだ続きそう。
いま「南京事件」だというから、終戦まで行くのはまだまだ先か。
満洲消滅とともに完結すると思うが、れいによって後日譚を書いたりするだろうから果てしなく長くなりそうだ。
内容、文章量から言っても代表作となるのだろう。浅田次郎の「中原の虹」に落胆したように船戸の歴史解釈に納得出来ず嫌いになるのが怖くもある。
満州国演義-事変の夜
満州国演義-群狼の舞
満州国演義-炎の回廊
満州国演義-灰燼の暦
2008年 籔枯らし純次 徳間書店 日本
2009年 夜来香海峡 講談社 中国


 「蝕みの果実」はスポーツものの短篇集だ。つまらなかった。未読の「三都物語」は図書館で見掛けたが、日本・台湾・韓国を舞台にした野球小説だというので手にしなかった。私には興味のない話だ。読む必要はあるまい。他者のレヴュウは気にしないが評判も悪い。「船戸が書いたとは思えない」なんて酷評まであった。いやまあそれ以前に私は野球小説を読む気はない。

 2005年以降は「満州国演義」に全力投球のようだ。その間にも「籔枯らし純二」と「夜来香海峡」が出ている。知らなかった。「籔枯らし」は日本物だし、「夜来香」は中国ものだ。今までの経験からはともに食指は伸びない。最高傑作とまで言われる評判のいい「満州国演義」に手を出すまで過去の作品の読み返しでいいだろう。「満州国演義」は完結してから読む予定だが歴史解釈の違いで船戸嫌いになるかもしれない。



 船戸作品というのは、しばらく離れていると猛烈に読みたくなるときがある。餓えたように読んだあと、しばらくまた無縁になる。今夏、数年ぶりにそれが来た。ひさびさに貪り読んだ。
 読んだのはデビュー作の「非合法員(イリーガル)」、「夜のオデッセイア」「血と夢」の初期作品。1980年前後の作品だからもう30年近く前になるのか。旧さを感じない。いや厳密には政治状況も国名も変っていて旧いのだが、そこにある熱さは共通だ。読了したあと、現在の国名、政治状況、そもそもの国の成立の過程などを勉強した。勉強するとすこし賢くなったような気がしてうれしい。まあ急に賢くなることもなくそれは勘違いなのだけれど。でもそんな刺激を与えてくれる本は貴重だ。

 これらは自分の本で読んだ。中身にほとんど記憶がないので初めて読むように新鮮だった。忘れるというのは偉大な能力である。かつてハラハラドキドキしつつ読みすすみ感動して読了した作品をまた同じ気分で読み返せるのだ。数年後にはすっかり忘れているのでまた同じように楽しめるはずである。ありがたい(笑)。

 なんといっても南米が舞台の作品が好きだ。あらためてそれを確認する。「伝説なき地」でベネズエラ・コロンビアを楽しみ、そのまま傑作の「山猫の夏」のブラジルに突入するつもりだったが、すこし目先を変えて未読にも手を出してみるかと図書館に行きミャンマーが舞台の「河畔に標なく」を借りてきて読む。それからベトナムが舞台の「蝶舞う館」。それなりにおもしろかったがやはり舞台は南米やアフリカのほうがいいと感じた。南米アフリカ最高、アジアはまあまあ、ケチをつけるのが日本が舞台の作品。それが私の船戸作品感想の基本。ファンには共通の感覚か。

 そういえばカンボジアを舞台にした「夢は荒れ地を」も、カンボジアに何度か行った後だったから期待したが燃えなかった。その理由は冒頭に書いたが残虐な殺しや硝煙の臭いはアジアよりも中南米が似合うからだ。馳星周が新宿と中国人をテーマにしたように中国人には残虐な殺しが似合うが、それはまたそれでリアル過ぎて楽しめない。やはり南米と白人がいい。

 それから名作「砂のクロニクル」を読み返す。早いものだ、この本が出版され話題になったのは1991年か。私はこの本を持っていない。読んではいる。とすると図書館だ。親の面倒を見ていた時代、茨城の図書館で数年遅れ、1995年ぐらいに読んだのだろう。今回もまた図書館でぶ厚い元本で読むことになった。
「砂のクロニクル」を読んだあと、ネットでイラン、イラク、クルド人のことを調べて勉強し直した。船戸作品の効果である。「非合法員(イリーガル)」を読んだときは舞台となったメキシコのユカタン半島を、「伝説なき地」を読んだときはベネズエラをGoogle Earthで呼びだして假想旅行気分、そのあとWikipediaで勉強した。
 たいへんな話題になった「砂のクロニクル」を何年も読まなかったのもクルド人のことを知らなかったからだった。この本で知り、すこし勉強し、それから十年以上経って、そこそこの知識を持ってまた読み返すと感慨深い。いまの私はクルド人に関して常識的智識は持っている。以前からそうだったと思いがちだがこれを読むまでは何も知らなかったのだ。そのことは戒めとして覚えておこう。

「砂のクロニクル」のエピローグは秀逸であり救いがあった。たぶんあれは連載時にはなく書き足した部分だろう。連載時には発狂したシーリーンはケラケラと笑いながら消えて行くところまでだったはずだ。エピローグでハジとシーリーンは栄養失調で死ぬまでやりまくる。救いのあるラストだった。
 てなことを18年前の作品の感想として今ごろ書いているのも間抜けだが、初めて読んだのと同じぐらい新鮮だったのだからしょうがない。表にある多くの作品をまた新鮮な感じで読めるのだからしあわせもんである。と書いて思いだしたが、たぶん18年前の日記にも初読みの感想で同じ事を書いている(泣)。

 涼しくなるにつれ私の中でいま急速に「船戸熱気」が冷めつつある。ということは、「船戸は夏の文学」なのだろう。猫型の私は明日あたりからまた気分が変り、船戸とは数年縁のない生活にもどるような気もする。Excelで表にしたのが今年最後の船戸熱気か。
 涼しくなったら何に凝るのだろう。ぜんぜんわからない。自分の思いつきを楽しみに待とう。



 このあと直木賞受賞作、フィリピンが舞台の「虹の谷の五月」を再読して、私の数年ぶりの「船戸熱」は終了となった。
 突如として船戸が直木賞を受賞したのは福田和也の「作家の値うち」が関係しているが、今回読みかえしてみると、「虹の谷の五月」は構成がスッキリしていてわかりやすく、受賞作にふさわしいように感じた。
9/14  「怪獣記」──高野秀行

 船戸の「河畔に標なく」の参考資料で名前を知り、その後「アジア新聞屋台村」を読んだ高野秀行さんの本、二冊目である。以下はAmazonから。

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商品の説明
内容紹介
いったい、これは何だ!?
今一番注目の作家、高野秀行が、『幻獣ムベンベを追え』から18年ぶりに放つ、未知動物探索紀行。
世界中のUMA(未知動物)ファンが注目する、トルコの怪獣ジャナワール。
その正体を追う著者の前に次々と怪しいものが現れる。
イスラム復興主義、極右の陰謀、クルド民族問題、そして謎の黒い物体…。
奇縁とドラマに満ちた、驚きと笑いの本格エンタメ・ノンフィクション!

「何だ、これ?」
「あ、これ、ジャナワールの目撃者一覧みたいですよ」(中略)
「…目撃者の氏名でしょ、出生年でしょ、住所でしょ、電話番号でしょ…。個 人情報が全部出てますよ。48人分」
「え? なに、これ?」私は末澤と顔を見合わせた。末澤は照れ笑いのような 表情を浮かべていた。私も唖然としたまま口元が緩んだ。
あまりにわけがわからなくて笑ってしまうのだ。笑ってしまうのに、ものす ごく昂奮していた。(本文より)

ジャナワール:トルコ東部のワン湖で目撃情報多数のUMA(未知動物)。体長10メートルで潮を吹くといわれる巨大水棲動物。

ご推薦・反響も続々!!
UMAは実在するか? そんなことは知らない。けれども高野秀行がオモシロ イのは間違いない。ー―奥泉光

私、近いうち、トルコのワン湖周辺に、探検家高野さんの銅像ができると思う。それくらいの偉業を、彼は今成しつつあると、この本を読んで実感しました。――角田光代

笑いすぎて酔いが醒めちゃったよ高野さん!ーー酒飲み書店員の会(ときわ書房本店) 宇田川拓也


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 船戸の「河畔に標なく」で知った高野秀行さんの「ビルマ・アヘン王国潜入記」「西南シルクロードは密林に消えた」を読みたかった。が通っている図書館になかった。唯一あったのがこれだった。「アジア新聞屋台村」に次いで、高野作品2冊目となった。

「トルコのもう一つの顔──小島剛一」を読んだあとだったので、トルコという国、クルド人、ワン湖も馴染みがあり(行ったことはないので単なる思い込みというか勘違いでしかないが)、それでもその基礎知識のお蔭で楽しく読めた。

 ただこのあと待望の前記二冊を入手し、それがあまりに強烈だったので先に読んだこの本の感想はおぼろになってしまった。
 それはその二冊がビルマの辺疆やジャングルを苦労して踏破する難行ものなのに対し、これはトルコの湖で怪獣捜しをするというお気楽な楽しい読み物だという違いもある。私は難行ものよりお気楽ものの方が好きないいかげん読者だが、このビルマものに関してはかつて自分の行った地域でもあり、さらには現在も関わっている地域の隣であることを知ったものだから夢中になって読みすすんだ。そのため先に読んだこの本に関しては感想がおぼろになってしまった。みなさん絶讃しているようだから私の感想はなくてもいいだろう。



 ひとつだけAmazonレヴュウの多くと違った感想がある。みな単行本の中に収められたプロカメラマンによる美しい抒情的な写真を絶讃していたが私はそうは思わなかった。これはその他の高野さんの本でも思うのだが、私はプロの写真家が撮った美しい大判の風景写真よりも、モノクロでいいから高野さんの撮った写真をもっと見たかった。単行本の中に数個所あるカラーの美しい1ページ大風景写真5枚よりも、1ページに10点ぐらい詰めこまれた高野さんの撮ったちいさなモノクロ写真のほうが興味深かった。写真家が同行している場合、契約や気遣いもあるだろうし、いろいろむずかしいのはわかるが、それが正直な感想になる。

 とはいえ本を読んでいたら誰でも見たくなるはずの、たとえば怪獣目撃者の描いた怪獣の画とかは高野さんの写真できちんとフォローされていて文句はない。ただ個性的な人物が登場するたびに、そのおじさんやおばさんの写真はあるだろうかと気になってしまう。高野さんのモノクロ写真でそれを見つけたときはうれしかった。ちいさなモノクロ写真は雄弁だ。もっともっと見たかった。
 そういう写真と文で綴るノンフィクションではないのだと言われたらその通りなのだが、この種の本にはどうしてもそれを期待してしまう。



 最初に読んだ高野さんの本「アジア新聞屋台村」の発刊は2006年、この「怪獣記」は2007年。
 次ぎに読んで感動する下記の「ビルマ・アヘン王国潜入記」は1998年、「西南シルクロードは密林に消えた」は2002年発刊である。もっと早く高野秀行ファンになり順序通りに読んでいたら感想もちがっていた。この二冊の苦労があったことをふまえて読めば「怪獣記」の軽さをもっと楽しめたはずだ。その意味では悔いが残る。しかしそれを超えて下記の二冊は感動ものだった。

9/20  ビルマ・アヘン王国潜入記──高野秀行

●じつは身近だった秘境!

 いやあ驚いた。ほんとに驚いた。この本を支持する旅本好き、タイ・ビルマ好きは多いだろうけど私ほど実感をともなって言えるひともそうはいないと思う。
 あとから考えてみれば当然だったのだが、どこかで何かが抜け落ち、地域を勘違いしたこともあって、私はまったく気づかなかった。気づかないまま遠い世界の話としてこの本に接したから、まず表紙裏の地図を見て「えっ!」と驚き、さらには読むほどにこちらの知識体験とシンクロするものだから、勘違いしていた自分を悔いた。もっと早く読めば、以下に書く「瀾滄での身体チェックに関する苛立ち」等、私の生活にもまた違った発見があったはずだ。なんとも悔やまれる。
 とひとりで唸っていてもなんのことかわからないので順序立てて説明せねばならない。



 私はヨーロッパに行く途中で何の前知識もなく思いつきで立ちよったタイに惚れた。これほど惚れこんだ国もない。一般に獨身男がタイやフィリピンに惚れるのは最初に女ありきの場合が多いらしいが私はそうではなかった。その証拠に未だにフィリピンは行ったことがないし、日本に数多くあるというフィリピンパブ、タイパブも未経験である。白人国を旅行していてキリスト教を始めとしてあれやこれや考えることが多々あったから、タイののんびり具合と佛敎国に見事にはまった。たぶんタイが日本と同じように白人の殖民地になった経験がないことも大きな要素になっている。というのはフィリピンに興味のない理由にそれがあるからだ。

 タイ語会話やタイ文字を一所懸命勉強した。惚れこむほどにタイのルーツを知りたいと思った。現在のタイ族は北部ビルマから南下してきたと知りビルマに出かける。そこがタイ族の故郷シャン州だ。シャンはシャムと同じくタイを表している。シャンの人びとの容姿は当然タイそのもの。シャン美人とチェンマイ美人はそっくりだ。だから私はビルマに何度も行っているがそれは北部ビルマのシャン州であり、いわゆる最大多数のビルマ人のいるヤンゴンに代表される中部、南部のミャンマー国にはいまだに行ったことがない。そっちのビルマ人の容姿は、スーチーさんに代表されるルックスだ。

 現在のタイ国が南下してきた?族の大河下流であり、ミャンマーのシャン州がその大河の上流なら、さらにその源流があると知る。それが云南省の少数民族?族(やっと?の字がPCでも表記できるようになった。うれしい)と知り、はるばると出かける。出来るならタイ・ミャンマー・雲南とそのまま川を遡る形でたどりたかったがそれは査証の問題で出来なかった。空路で昆明に飛び、ぐるりと大回りするしかなかった。
 そうしてそこで出逢った少数民族の純粋?族の娘と結婚までしてしまった。生涯結婚するつもりのない四十男の初婚だった。タイに惚れた男の結末としてはじつにわかりやすい。

 そのことに関して私が唯一こだわっているのは妻が?族ということだ。面倒なので説明していないから多くの知人が私は中国人(=漢族)と結婚したと思っている。というかほとんどの日本人は清国が女真族の国だとか、そんなことすら知らない。日本人の多くにとって「中国人」は昔も今もひとつなのだ。それはおおきな間違いであり、認識の最初はそこから始めねばならない。でなけりゃ満洲問題等も論じられない。「面倒なので説明していない」とは、その辺の面倒さだ。なにもしらないひとに一々中国の歴史の説明はしていられない。

 私の妻は中国国籍であるが中共に55いるといわれる少数民族の純粋?族である。たまたま支配されている地域の関係上中国国籍なだけであって、ことばも文字もタイ語だ。私はタイ人の娘と結婚したつもりでいる。なにしろ私はいまだに普通話(北京語)すら話せない。妻との会話はタイ語だ。そもそもタイ語が通じたので親しくなった。私は漢族が大嫌いだが、妻も中共12億人の98%を占める漢族にいじめられる少数民族だから、その点でも感覚は通じている。ということを、どうかここを読んでいるひとだけでも理解して頂きたい。



 北部タイに惚れこんだタイ好きならだれもが一度は行ってみたいと思うのがシャン州のチャイントンだ。チェンマイ、チェンライと北上して行くと国境の町メーサイがある。そのむこうに桃源郷(笑)と噂されるチャイントンがある。しかしそこまで行くのはビザの問題を始めむずかしい。ほとんどのひとがここで諦め、国境の川を見て諦めた。行ったことのある数少ない先達の話によだれをたらした。80年代、90年代初期の感覚である。その後、川向のタチレクへの入国は簡単になり、今は楽に行けるようだが。

 この本で高野さんが「チェントゥン」と表記しているので私もそれに倣おう。最初の頃チャイントンと覚えたのでそう言ってきた。もともとチェンマイ、チェンライ、チェンセン、チェンコンというタイのチェン(城塞都市の意)と並んでシャン州のチェントゥンは五大チェンと呼ばれていたのだからチェンでくくったほうが正しいのだろう。妻の発音だと「チントウグ」ぐらいになる。

 チェンマイから雲南の景洪(ジンフォン)への航空便が出来て初めて飛ぶとき、チェンマイ空港でそのアルファベット表記を見て、景洪もまた「チェンフォン」という「チェン」の仲間だと知ったときは感激した。まさにタイ族の聖地である。その他、妻のいる「孟連(むんりえん)」、そこから近いミャンマーとの国境・芒信(むんしん)等の「ムン」もタイ語の「むあん(街)」なのだ。
 いつも通過するとき手厳しく荷物をチェックされる県境の町・瀾滄(らんちゃん)が、タイ語のラーン(百万)チャン(象)から来ていることは《云南でじかめ日記》に書いた。



 ミャンマーのシャン州と言えば世界最大のヘロインの産地ゴールデントライアングルである。タイ・ラオス・ミャンマーの三国の国境があることから来た呼称だが、タイとラオスは芥子の花栽培を自粛していったから、現実にほとんどのヘロインを生産しているのはミャンマーになる。
 そして、シャン州、ヘロインと言えば「クンサー将軍」だ。長年ヘロインの闇将軍として君臨してきた彼がビルマ軍に白旗を揚げたのは1995年だったか。
 このころメーサイで銃撃戦があり、それを撮影してきたYさんのヴィデオをチェンマイの日本食堂『サクラ』で見た。慣れ親しんでいる町の中をタタタタという機銃の音と光が走るのは不気味な光景だった。Yさんはそのあとチェンマイで痴情のもつれから刺殺されてしまう。



 以上、大ざっぱに振り返ったが、私なりにミャンマー北部、シャン州、麻薬のクンサー将軍等に関する基礎知識はあった。ということを言いたかった。
 また妻とのつきあいも十数年になるから、雲南の?族に関してもそれなりの知識はある。たとえば彼らのこども命名法は獨自であり、説明には実名を出さねばならず、それがわずらわしいので書かなかったが、長男次男三男、長女次女三女等、すべて生まれる前から決まっている。日本的に言うなら長男は太郎、次男は次郎と決まっているようなものだ。必ずそう附ける。しかし?族の姓は比較的すくない。となると佐藤太郎、鈴木太郎があちこちにいることになる。だから鈴木本家が長男に「鈴木太郎」としたなら、分家の長男は「太郎」を避けて「太郎衛門」「太郎左右衛門」のように下になにか附けて行く。それでも姓の数だけ同じ名前がいることになる。

 この日本の太郎に匹敵する?族の長男の名は「アイ」である。長男はみな「アイ」であり、本家分家で区別するから「アイなんとか」が異常に多い。女は長女が「イエ」だ。だから「イエなんとか」があちこちにいる。ものすごくわずらわしい。私の妻は本家の長女なので「イエ」であり(パスポートのアルファベット表記はYE)呼びやすくて楽でいいのだが、親戚の娘や近所の娘に「イエシャン」「イエシャンカム」「イエシャノン」と同じようなのが山と居て、会話の途中、「それは誰のことだ、イエシャンかイエシャンカムか!?」と確認することが多々ある。長年伝えられてきた文化なわけだが面倒なことである。かといって今の日本のこどもの奇妙な当て字の「痛い名前」よりはずっといいと思うが。

 妻のいる地域は「?族自治州」だが、ハニ族、ワ族、ラフー族等もいる。それぞれ文化が違う。着ている物でも見わけられる。
 些細なことだが、いやじつは重要かも知れないが、タイ族(この場合はタイ国に住んでいるひとたち)は世界的にもきれい好きな民族として知られている。大英百科事典にもそう書いてあるとか。日に数回の水浴びの習慣がある。
 雲南の山奥に住む?族にもそれは共通だった。彼らは河辺に住み、毎日必ず水浴びをして清潔にしていた。一方山に住むその他の民族には月に一度も体を洗わない連中もいるとか。それはそれで文化だから他者が口を出すことではない。水がないのだ。ただ私の場合、?族の娘だから恋愛が出来た、とは言える。同じくきれい好きな民族として日本人も大英百科事典に載っているそうだ。いやそもそもタイに惚れたことの大きな要因にそのきれい好きがある。
 漢族に差別され憤慨している?族なのに、妻にもまた水浴びをしないラフー族やワ族を不潔だと軽んじている感覚があり、差別とは人間の根源なんだなと思った、というのも《云南でじかめ日記》に書いた。

 前置きが長くなった。急ぐ。
 そういうふうにタイやミャンマー、云南省に関して私なりの智識を持っていた。
 それとはまったく関係ないものとして高野さんの著作に接した。そこでは私の知らない「ビルマ・アヘン王国潜入記」が語られていると思った。つまり「同じビルマの話でも地理的に遠い」と思っていた。未知の地の話だと。
 ところが高野さんが潜入して書いた「ビルマ・アヘン王国」は、いま私が通う妻子のいる場所に極めて近かったのである。ほんと、国境線の向こうとこっちだけの違いだ。
 地図を見てあまりの近さに驚き、そして高野さんの語る「この地域では長男はアイと名づける」のような文化に関する話がみな知っていることなので心底おどろいた。いやはやこの感動と驚愕はなんとも言い難い。





 これは「ビルマ・アヘン王国潜入記」の表紙裏の地図。スキャンして読みこんだ。

 中国云南省、ベトナム、ラオス、タイ、ビルマの位置関係がよくわかる。

 云南省の省都昆明、タイとミャンマーの国境と接するメーサイ、メーホンソン、ミャンマーのチェントゥンがあり、「ビルマ・アヘン王国潜入記」の舞台となるのが斜線の引かれている地域である。

「ビルマ・アヘン王国潜入記」の地域と、 ミャンマーの首都ヤンゴン(この地図ではラングーンと表記)がいかに離れていることか。文化的にもまったく異なる地域である。

 さらにミャンマーの最北部にはカチン州がある。斜線地域の上の部分である。ここも自治区だ。船戸の「河畔に標なく」の舞台となった今も紛争が続いている地区。高野さんが「西南シルクロードは密林に消える」で縦走するジャングルはここになる。

 この「ビルマ・アヘン王国潜入記」の舞台である斜線地域を拡大したのが下の地図。これも表紙の裏に載っている。






 この拡大地図になると私の言いたかったことがだいぶわかってもらえると思う。

 中国の地域に瀾滄(らんちゃん)がある。
 私は毎回昆明からの夜行バスでここを通過して妻の家に行く。その通過のたびに小銃を持ち防弾チョッキを着た中共軍人にしつこいほどの荷物検査をされ、それがもう憂鬱で行きたくなくなったほどだった。

 私がこの高野さんの作品舞台を、自分とは縁遠いものと勘違いしていた原因となったのが下部にある「クンサー軍支配区」だ。

 タイのメーホンソンの向こう側、そこがクンサー将軍の支配するヘロイン生産地であることは知っていた。地図の「横線地域」である。

 私はメーホンソンのミャンマー国境にも行っているし、チェンマイからメーホンソン、メーホンソンから国境づたいにメーサイまでもクルマで何度か走っている。だから「ビルマ・アヘン王国潜入記」の王国とはこのあたりだと思っていた。メーホンソンは日本の旅番組にもしばしば登場する「首長族」のいる地域になる。またこの地域には第二次世界大戦における日本軍の遺骨がまだ残っている。

 私はミャンマーのアヘンは地図にある「クンサー軍支配地域」だと思っていた。高野さんが「潜入」したのもそこだと思っていた。しかしミャンマーで最もアヘンを生産する地域は地図にある縦線と斜線の「コーカン軍支配地域」と「リン・ミン・シャン軍支配地域」であり、高野さんが潜入して住みこみケシ栽培をしてきた「ビルマ・アヘン王国」とはそこだったのである。「ムイレ村」というのが高野さんが長期滞在した集落だ。それは私の関わる雲南のすぐちかくだった。





 さらにその地域を拡大コピーし、画像ソフトで地名を入れてみた。赤線は道路である。

 高野さんは?阿(むんあ)の国境からミャンマーに入っている。このあと写真を載せるが私は昨年も?阿に行って来た。高野さんの本では阿となっているが?阿が正しい。当時は活字がなかったのか。

 高野さんは雲南の?阿(ムンア)からビルマ人のふりをしてミャンマーに密入国し、パンサンからヤンルン区までクルマで行く。

 そこからは徒歩で山奥のいくつものケシ栽培の集落を見て歩き、定住地としてムイレ村を選ぶ。そこに住みこんでケシ栽培をし、阿片中毒を体験してくる。もちろん阿片中毒はなりたくてなったのではなく、疲れが取れるとアヘンを喫っていたらいつのまにかなっていたのだ。

 打洛(たらっく)にも国境がある。ゲートを中国からのトラック、ミャンマーからのトラックが荷物を満載して通交していた。繁盛していた。


打洛の国境ゲート。2000年。そうとしか見えない色っぽいネーチャンをけっこう見掛けたから、ソンナコトアンナコトもあるのだろう。麻薬で栄え大金が流通しているのなら当然の話。

 ミャンマーのヤンルン区に行くのだから?阿より打洛から入った方が近いが、おそらく高野さんの行った1995年にはまだこの国境は開いてなかったのだろう。私の行ったのは2000年だった。打洛というのは写真からもいくらか雰囲気が伝わると思うが、陽射しの優しいのんびりした南国の町で私は気に入った。中国大嫌いの私には珍しくもういちど行きたいと思う町である。

 とはいえ、麻薬生産地に近い怪しい国境の町だから裏でなにが蠢いているかわかったものではない。そう考えてみると、たしかに下着が透けて見える派手な洋服の厚化粧娘もいたし、急にイメージが変ってくる。次回、再訪してみようか。






?阿の新国境。2008年。出来たばかり。こんな立派なのを作るほど物流があるのだ。高野さんが95年に通った旧国境はもっと質素で地味。行ったけれど写真がない。




打洛、国境の川。2000年。




 孟連(むんりえん)が私の《云南でじかめ日記》に何度も登場する?族自治州の中心地。

 そこから山奥までの悪路を越えると芒信(むんしん)の国境になる。この芒信は山奥の地味な国境。

 同じミャンマーとの国境でもずいぶとん差があると実感する。しかしそれは瀾滄から打洛まで、瀾滄から?阿までの舗装された道路と違い未舗装の悪路なのだから当然である。むしろこんなところに国境が開けている方が不思議だ。

 2008年の《云南でじかめ日記》に書いた「悪路」とは、この孟連と芒信のあいだの道であり、この路線(といってもただの泥道だ)の真ん中辺りが妻の家になる。いかに高野さんの書いた「ビルマ・アヘン王国」と私の通う地域が近いことか。


孟連の市場。手前は?族民族衣装のおばちゃんたち。


孟連と芒信間の悪路


芒信の国境。道路が整備され新築の建物が並ぶ他の国境と比べるとどうしようもなくマイナー。荒れているのがわかると思う。それだけ物流がすくなく流行っていない。日本人など誰も行かない超マイナーな国境なので貴重な写真と思う。というかネット世界でも日本人のホームページでは唯一のものではないかと思っているのだが。


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 今回この本を読んで、毎度私が立腹する瀾滄における身体検査の異様な厳しさが納得できた。もっと早く読んでおけばよかったと悔いた。

 なにしろこの県境に来ると、毎回必ずバスが止められ、迷彩服を着、防弾チョッキを着けた軍人が五、六人でバスに乗りこんでくるのである。なんど体験しても緊張する一瞬だ。

 中でも異国人の私はひとりだけ必ず下車させられ、パスポートやビザの確認と共に、スーツケースバンドを締めて荷作りしてあるハードケースを開けて荷物のひとつひとつをチェックされる。時には携帯電話やデジカメの写真まで確認される。《云南でじかめ日記》に書いたが、そうしてデジカメ写真を検閲すると、このホームページ用に撮った懐中電灯だとか公衆便所の写真なので奴等は戸惑う(笑)。
 その間、20分はかかり、他の乗客はイライラしつつ待つことになる。



 異国人の私がいちばん厳しく調べられるのだが、私以外でも少数民族の若者は厳重チェックされる。荷物検査はもちろん、というか彼らはほとんど手ぶらだが、彼らの席は、バスのクッションを引っ剥がしたりして何か隠していないかしつこく調べる。目つきは鋭く、手付きは荒々しい。威張っている。
 私にはそれが不自然な厳しさであり不快だったのだが、こういう地域であると知るなら、麻薬の運びだしということで厳重なのも理解できることになる。麻薬だから少量でも高価だし、現金欲しさにアヘンの運び屋をやっている青年もいるのだろう。ここの検問の厳しさは10年以上前からまったく変っていない。中国という国のその他の激変と比べると異常とすら言える。それはそれだけの現実があるからなのだろう。とまあ今回知ったのだが。

 大事なことを書いておかねばならない。それは「厳しいチェックは出て行くときに限っている」ということだ。つまり瀾滄から上、昆明の方からミャンマーに向かって下ってくるときはこのゲートはノーチェックなのである。中国からミャンマーにヤバいものが入ることはないということなのだろう。厳重チェックは、こっち(ミャンマー側)からあっち(昆明等の都市部)に出て行くときである。ミャンマーの麻薬が昆明方面に持ちこまれたらたいへん、という警戒のようだ。
 そのことすら深く考えなかったが、ケシ栽培地域のこの縦線地域、斜線地域を見れば納得できる。

 この検問の様子は厳しくて写真が撮れないのが残念である。一刻も早く立ち去りたいと思っている私に、小銃を持った嶮しい顔の兵士にカメラを向けるのは無理だ。



「ビルマ・アヘン王国潜入記」を読んでいて他人事ながら肝を冷やした箇所がある。
 それは無事ケシ栽培と阿片体験を終えた高野さんが、ミャンマーから中国を通り、そのころ基地としていたチェンマイにたどり着いたときの話だ。
 高野さんは自分が栽培して収穫した阿片をほんのすこし持参していた。黒い固まりである。見た目は正露丸のよう。それを軽い気持ちでチェンマイに住むミャンマーへの橋渡しをしてくれた友人達(ミャンマー人、タイ人)に見せる。自分の収穫物、思い出のひとしなとして。

 みんなが蒼ざめる。もしもここに来るまでに官権にそれが発見されていたら、高野さんが逮捕投獄されるのはもちろんとして、自分達全員に厄災がふりかかっていたと。言われて初めて高野さんも自分のやった愚かな行為と運よく発見されなかった僥倖に気づき、蒼ざめる。感覚が麻痺していたのだろう。
 なんともとんでもないことをしたものだ。このとき高野さんは30歳間際か。若気の至りである。

 私は、毎度のこの厳しいチェックに遭うたびに、誰か悪意のあるヤツが私の荷物にそんなものを入れておいたら一発でアウトだなあといつも脅えている。怖くてたまらない。高野さんの勘違いした杜撰さは我が事のように肝が冷えた。




私の飲み仲間だった近所のじいさん。故人。伝統のタイ刺青。

 ところで、妻の兄や親戚の男にはろくでもないのが多い。一攫千金を求めてビルマに翡翠掘りに行き、なにをしたんだか捕まって刑務所にいたなんて話も聞いた。つい先日は近所のオヤジが十代前半の少女に手を出して逮捕されたと聞いた。日本で言う美人局のようなのに引っ掛かったらしいが、そういう事件も起きている。

 それでもさいわい麻薬中毒やそれによる刃傷沙汰がないのは救われる。その点では地図上では隣接しているがそういう「文化」が雲南とミャンマーでは異なるのだろう。実際雰囲気も習慣もおどろくほど似ているから阿片中毒のオヤジがいてもちっとも不思議ではない。高野さんの生活したのはミャンマーのワ族の村だ。ここにも山の方に住んでいるワ族はいる。よく目にする。彼らにも芥子栽培と吸飲の習慣はあるのだろうか。

 写真のじいさんは身体中に刺青をしていた。腕にもびっしりとあるのが見える。私の所に来ると昼から酒を飲めるのでよくやってきた。一緒に飲んだ。56度のあれを昼から飲むのはさすがに私にもキツいから、たしか38度の高粱酒だったと思う。コップに入っているのはそれである。
 このじいさんなんかも若い頃、アヘンの経験はあったのだろうか。?族だからそんなことはしなかったのか。今となってはもう訊くことも出来ない。



 と書いていて思いだした。
 8年前、妻の家にいたら雨の中をカッパを着たおっさんと十代後半と思われる娘が訪ねてきた。ミャンマーの親戚だという。三日三晩歩いて来たとか。交通手段がないのだからそれしかない。上記拡大地図の、ミャンマー斜線部分、麻薬地帯から、芒信(むんしん)の国境ゲートを通ってやってきたのだ。彼らの場合は身分証明書を見せるだけで簡単に通れる。

 写真はその娘。なかなかかわいかった。娘心はどこでも同じだなと思ったのは、背中にザックをしょい、三日三晩山中の悪路を歩いて来たのだが、娘の荷物の中身がみな着がえだったことだ。質素な安物の衣服だったが、毎日服が変るのを女心だと思ったものだ。

 着いてすぐに四十年輩の父親は疲労困憊という様子で寝こんだ。次の日も苦しそうだった。疲れかと思ったが、じつはこのオヤジ、阿片中毒なのだとあとで妻から聞いた。ヤクが切れて苦しんでいたのだ。

 住んでいるのは見事にミャンマーのそういう地域なのである。ドンピシャ当て嵌まる。中国とミャンマーはちがうのだと知った。妻によると電気すら来ていないという。野良仕事のあと、楽しみなど何もないのだろう。写真にあるように、妻の家にはテレビもある。その男が、私が雲南暮らしで会った唯一の阿片常用者になる。アヘンを喫う亭主と、それをやめさせようとする女房が殴りあいのケンカになり、この娘が泣きながらそれを止めるのだと語っていた。
 阿片中毒のオヤジは、雨中を歩いて来た三日と、妻の家にいる三日でアヘンが抜けたらしく正常になった。そんなものである。帰ったらまた元のもくあみだろうが。

 二年後、この娘は親を助けるため自らタイに出稼ぎに行く。仕事の中身がなんであったかは言うまでもない。親しくなっていただけにそれを聞いたときは切なかった。そのショックはだいぶ引きずった。しかし何も出来ない。そのこともあってここはわざとピントのずれた写真にした。
 《云南でじかめ日記2002》に「ミャンマーから来た娘」という小見出しがある。このことを書こうと思ったのだがいまだに中身を書いていない。そういう理由による。



 そういえばさすが船戸の後輩だけあって高野さんもかなりのヘビースモーカーのようだ。どこに行っても喫っている。探険部のひとはみな愛煙家なのか。
 阿片吸飲も自然な流れだったろう。ただ高野さんも書いているが、阿片中毒からの脱出はそれほど困難でもないと思う。バンコクのジュライホテルにはヘロイン好きの連中がかなりいたが、みな帰国しているときはやらなくてもいられた。やりたくてもやれないが。断って一週間ぐらいはかなり苦しむらしい。

 阿片中毒に罹った高野さんが、その苦しさ、脱出に関して書いていることは興味深い。この本の大きなセールスポイントである。いわゆる今まで写真等で伝えられてきたがりがりに痩せた生きる屍みたいなのが横になったまま動けない阿片窟の地獄とはかなり違っている。疲労恢復薬として上手につきあえば阿片は価値ある物だと感じた。問題は、高野さんが書いているが、次第に躰が慣れ、効かなくなってくることにある。だからより多い量を、より長い時間で喫わねばならなくなる。酒もアヘンもたいしてちがいはない。

 原始的な阿片でもあれだけ気持ち良く元気になれるのだから、その魅力は深い。癌末期の全身に錐を打ちこまれるようだという地獄の苦しみもモルヒネを打つとスッと消える。人類はよくぞこんなものを見つけたものだ。癌末期の患者に中毒になるからと規定以上のモルヒネを与えないというのはくだらん決め事と感じる。

 この本にある、文献から引いて説明したアヘンの歴史は勉強になる。




孟連の町並。2005年。この写真だと3階建て程度だが、いまは8階建て、10階建てが出来つつある。

 見知らぬ世界の話だと思って手にした本が意外にも自分の生活圏内であることに愕き、まとまりのない文章になってしまった。
「ビルマ・アヘン王国潜入記」の読者は数多かれど、私ほどこの地域を身近に感じて感激した読者もそうはいまいと思った次第。いやいや私は未だにこの地域で「日本人を初めて見た」と言われるし、この十数年、何度も一ヵ月以上滞在しているがまだ日本人に会ったことがない。一度きりのバックパッカーの旅行者は多々いようが、こういう形でこの地域に関わっている日本人は他にいまい。とするなら、私がこの本から受けた感激は「日本でただひとりだけ」と言えるかも知れない。なんの自慢にもならないが日本人でただひとりならそれはそれでうれしい気がする(笑)。


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 旅行者と生活人の違い

 アジアに関する旅行記を多数出している「めこん」という出版社がある。この文章を書くのに「瑞麗」をチェックしたら偶然そこから出ている本に行きあたった。そっち方面専門のライターが書いている「雲南の最深部」とかそんな題だった。雲南に行ったことがなく、憧れていた時期なら購入したかも知れない。魅力的なタイトルと思っただろう。

 だが今は違う。そういう題をつけられるのは旅行者だからだ。むしろ反発を感じる。最深部に住んでいる人たちはそこを最深部だとは思っていない。
 私は旅行者ではなく、その最深部に妻子のいる男になってしまった。いわば故郷だ。こどもの教育のために日本に妻子を呼んで暮らしたいと思っているが、死ぬときはそこで死ぬことにしている。だからそこを最深部だとか辺疆とかは言えない。
 ここに書いた地域に行ったことのある旅行好きはいるかもしれない。しかしいま私の感覚は、そういうひとたちとはまったく異なるものになっている。
   西南シルクロードは密林に消える──高野秀行




 2002年に出たこの本は導入部から興味深い。そのころ高野さんは引き篭もりだったというのである。上記「ビルマ・アヘン王国潜入記」のような仕事をこなし、そのあとの虚脱期だったようだ。

 物語はいきなりカチン州兵士に化けて中国ミャンマーの国境を突破しようとしたらニセの身分証明書がバレて捕まってしまうところから始まる。警察車両による護送、沈黙の時、無口な中国人警察、いったいどうなるのか。ツカミはバッチシである。

 次いで出発前の東京。回想シーン。引き篭もり気味の高野さんは同時に酒が入ると大言壮語するホラ吹きでもあった。大酒を飲み、講談社のカメラマン相手に「西南シルクロード」について一席ぶつ。

 ホラから出たマコトでこの旅をせねばならなくなる。そして出発地の成都のシーン。
 よく出来た構成だ。あとはもう一気呵成。一気に読みすすめる。


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出版社/著者からの内容紹介

中国・成都からビルマ北部~インド・カルカッタまでの古代通商路。それは謎にみちた最古のシルクロードと言われている。
戦後、世界で初めて、この地を陸路で踏破した日本人ノンフィクションライターが見たものは?
ジャングルの自然、少数民族、ゲリラたちと織りなす、スリルとユーモアにあふれる奇想天外な辺境旅日記。

「とんでもないことになった……」
ロマンあふれるはずの旅は予期せぬできごとに次々と遭遇し、脱線し、迷走を深めていった。


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 なにより地図が雄弁なので見ていただこう。まずは一枚目。表紙裏の地図。
 太字の線が高野さんがたどった全体行程。中国の成都から始まって、ミャンマーを通りぬけ、インドのカルカッタがゴール。

 上部にある点線が、いわゆる「シルクロード」と呼ばれるもの。高野さんは伝説の「もうひとつのシルクロード」を探した。この他にもいくつもあるそうだ。



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 こちらは拡大図。裏表紙の裏。苦労したミャンマー・カチン州のジャングル地帯である。
 2枚ともなんとも不鮮明で見にくいが、これは元地図がわるい。いま手元にある本を見てもこの程度の出来なのだ。講談社にはもっとわかりやすい鮮明な地図にしてもらいたかった。これでもカラー補整したりしてだいぶ見やすくしたのである。

 まあ地図などあってなきがごとしの地域だから、これでも精一杯なのだろうとも言えるが、そうではなく「表現形式」である。気配りだ。紙質、色合い、もっと見やすい地図に出来たろう。なぜなら「ビルマ・アヘン王国潜入記」の草思社の地図はもっと見やすいのだから。やはりこの本の関係者がわるい。



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 拡大地図から私の興味ある部分をさらにピックアップ。中国雲南とミャンマーカチン州の国境。
 高野さんは瑞麗にしばらく滞在している。瑞麗も?族の自治州。高野さんの筆で大理や瑞麗は誉められている。つまらない町と貶されているのは保山。同意である。

 いやこの瑞麗で高野さんは全財産の70万円を盗まれるのだったか。いい町とも言っていられない。



 ここからのジャングルを行くすさまじい行程は、ぜひ読んでください、としか言えない。
 私も、ただの観光地でではあるが象に乗ったことがある。背中に篭が据えつけられている。高野さんが乗ったのも同じだ。高くて不安定だから揺れてたいへんだった。ぐわんぐわんと揺れる。船酔いのように気持ち悪くなった。

 象に乗ってジャングルを行く。前方に常に注意せねばならない。ふとした油断で木の枝がぶつかり、目尻をスパッと切る。もうすこしズレていたらたいへんだった、なんて記述は読んでいて胸が痛くなる。
 ヒルの降ってくる山中を、粗末な食い物で、一ヵ月も風呂にも入れず、いやはや読んでいるだけでつらくなってくる。あちらで買った靴が粗末で、足が痛くなる。爪が割れる。この辺もねえ、私なら靴だけは日本から最高のものを用意して行くが……。
 よくもまあがんばったものだ。がんばったと言えば、同行している兵士やポーターもたいへんだ。貴重な記録である。

 船戸が参考資料として挙げたあと、珍しく絶讃の言葉を附記していたのは、かわいがってる弟分の作品である以上に、心底感嘆したからだろう。



 笑顔ひとつ見せない、社交性などかけらもないと思われた兵士たちとの、時が流れるにつれての触れ合いがなんともいい味になっている。みな心に傷を負って無口になっているのだ。そしてそのあとに登場する高野さんの撮ったちいさなモノクロ写真。味わい深い。

 獨立を夢みるカチン州の兵士はキリスト教を信仰している。キリスト教と佛敎との絡みも印象深い。かつてキリスト教が、アフリカや南米で、どういう形で浸透していったか、現在進行形で見ている気がする。
 同時にまた「そういう形」の鬩ぎあいにおいて、佛敎は弱いなとも感じた。この辺、なにをいっているかわからないだろうから読んでくださいとしか言えない。一読すればすぐにわかります。キリスト教がなぜ世界を征服できたか感じられます。



 ビザを持たずにミャンマーへ密入国、そのままインドへも密入国になるので、そこからの帰国がたいへんだった。いわゆる「強制送還」になるわけだがそれはましなほう。牢獄での懲役の可能性もある。なんとか穏便な解決は出来ないかと領事館の係員が懸命に対応してくれる。何年も監獄に入る可能性も高かったというから、この旅行記で真にたいへんだったのはそこなのかも知れない。私としてはジャングル行が圧巻だったけれど。

 一般にこの種の旅行記では大使館領事館の人間は冷たい。あちらからしたらかってに旅行して問題起こして、いいかげんにしてくれ、という気分だろう。彼らの本音を聞いたことがあるが、とにかく平穏無事に暮らしたい(=任期をまっとうしたい)のがいちばんの願いなのだ。
 カルカッタの領事官は高野さんのために親身になって動いてくれる。高野さんも実名を出して心から感謝している。高野さんのやったことはルール的にはメチャクチャであり、非難されてもしょうがないことだから、この領事官は「いいひと」である。それは大使館領事館のイメージアップにもなっている。「いい話」だと感じた。

 不遜な言いかたをするなら、「ビルマ・アヘン王国潜入記」は私にも出来る。それに近いようなこともやっている。阿片にはまるかどうかは別にして。
 こちらは無理。読んでいるだけで溜め息が出た。よくがんばったものだ。拍手拍手である。



 最後にとても重要なこと。それは高野さんの筆力だ。「ビルマ・アヘン王国潜入記」は二十代後半の作品である。なのに正確で無駄のない精緻なすばらしい文章だ。三十前にこれだけのテーマでこれだけの文章を書けるひとはいない。特に旅行記というのは、体験談のもの珍しさに惹かれて読みはするものの文章そのものに感心した記憶がない。二冊とも、さすが船戸が絶讃した本だと感嘆した。


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