2007--真保裕一
07/7
 真保裕一に遭遇

◎好きな理由──徹底したプロット

 あたらしい住まいのすぐ近くに図書館の分室がある。引っ越してきたばかりの春先はこの地が珍しいこともあり、自転車に乗って蔵書の多い本館まで出かけていた。ずっと充実している。同じ市内ならどこでも返却が出来るので、近くのここはそれに利用するだけだった。やがて次第に本館まで出かけるのが面倒になりこのすぐ近くの分室を利用するようになる。
 私の読書範囲は狭くて深い。よってすぐに好みの作家の本は払底した。あたらしい作家に手を出すことになる。真保裕一はそういう中のひとりだった。

 名前と高評は茨城に引っ込んでいるときから知っていた。図書館で何度も手にしている。借りるまでに至らなかった。まだそのときは好きな作家で読みたい本が残っていた。
 今回「最近の作品では携帯電話はどのように使われているか」を調べようと思ったことからひさしぶりにハードボイルドを読んだ。分室にある大沢作品を読み尽くしてしまった。本来なら勉強のための読書にもどるべきなのだがもうすこし娯楽作を読んでいたかった。なにかないかと探して目についたのが彼の名前だった。
 まだ下記の五冊を読んだだけだがひじょうに私好みですばらしい。よい作家に出逢った。ありがたい。

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 なにがどのようにすばらしく私好みなのかという理由はすぐにわかった。プロットがしっかりしているのである。長篇を読んでいると、「あれ? これおかしくないか?」と思う箇所が出てくる。ページを繰って何十ページ、時には何百ページも前までもどって確かめたりする。夢見るほど憧れていた女性のはずなのに、実際にあったらシラっとしている。「この人、この女が好きじゃなかったっけ!?」と確かめる。あるいは「この科白、前にもいったろう!?」と思ったりする。それもまたもどって確かめる。
 記憶力抜群の人が重箱の隅をほじくろうと精読しているのではない。いいかげんな男が娯楽と割りきり漫然と読んでいるだけである。細かいことなど気にしない。そんな私にこんなことをさせてしまうのはろくでもない作品だ。他の項に書いたが、そういう意味で藤原伊織の「テロリストのパラソル」というのは私にとって駄作である。なんであんなものが江戸川乱歩賞と直木賞史上初の同時受賞(正確には同期か)なのか理解できない。
 浅田次郎の「王妃の館」というのもあちこち矛盾だらけでひどい作品だった。大沢作品も登場人物全員がヘビースモーカーで、やたらあちこちで「歯を食いしばって」ばかりいてうんざりする。

 真保の作品にはそれがない。隅々まで気配りがされている。
 その理由はアニメの演出をしていた関係から、徹底的にプロットにこだわるかららしい。
「黄金の島」に関するサイトがあった。『週刊現代』に連載された関係から講談社がやっている。彼が実際に書き始める前にプロットを読んだ編集者は、あまりの綿密さに驚嘆したと記されている。
 そこで真保は「いつも僕はラストまでストーリィを作ってから書き始めるんです」と語っている。(嘘か誠か筒井作品の中で言われていた)赤川次郎のような犯人を決めないまま書き始めるようなことはしないわけである。
 赤川のそれが事実かどうかは知らない。でもあれだけまるでマシーンのように多作していた人だから、「こんな形で人が殺されていた」という設定だけで、犯人もなにも決めないまま書き始めてしまった作品は数多いに違いない。
 真保作品にはそれがない。本来小説家は自分ひとりだからなにをやってもいい。赤川的な作り方がある意味小説家冥利と言える。真保作品にそれがないのは、多人数で綿密にうち合わせして作り上げるアニメを前歴としているからだろう。多くのセル画から成るアニメ映画は、どんな権力を持っている人でも思いつきでストーリィは変えられない。そんなことをしたらとんでもない混乱を巻き起こす。ほんのすこしストーリィを変えるだけで何千枚ものセル画が描き直しになる。黒澤明はアニメ監督にはなれなかったろう。
 真保作品の魅力とは、一枚のムダなセル画もない緻密な構成のアニメ映画のように構成されている点にある。

 それがいま私の感じている彼の作品の魅力になる。これからさらに読み重ねて行くと不満も出てくるかもしれない。それもそれで楽しみだ。今は緻密な構成の真保作品に遭遇することが出来、ひたすらうれしい。


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◎ホワイトアウト

内容(「BOOK」データベースより)
日本最大の貯水量を誇るダムが乗っ取られた。人質は発電所員と下流域の市町村。残された時間は24時間。同僚と亡き友の婚約者を救うべく、ダムに向かう主人公・富樫のもう一つの、そして最大の敵は、絶え間なく降りしきる雪、雪、雪…。吹雪に閉ざされ、堅牢な要塞と化したダムと厳寒期の雪山に展開するハードアクション・サスペンス。





緻密な構成と下調べが完璧なすばらしい作品だなと感嘆した。感激を共有しようとAmazonの書評を覗くと。

a.夢中になって読めるのですが、読後感の薄い作品のように思います。
私は作品を読む際に、自分に投影しながら読んでしまうのですが、富樫の自己復権に賭ける気持ちは分かる一方、プロセスや結末が現実離れしていて人間くさくないのです。だからイマイチ共感できませんでした。

b.初めから映画化をねらったような、ある意味あざとい舞台設定である

c.テンポの良い文章と素早い展開で物語に引き込まれます。
ただ、人間を描くという部分では今一つ不満を感じました。
厳しい見方かも知れませんが、読んだ後心に残るものが薄いという感じです。


 と、言いたい放題である。言われたかねえなあ、素人に、こんなこと。でも言われるのが商売か。なんともたまらん。
 真保さんに代わって憤慨した。

 ネット時代である。以前なら書評はプロが書いたものが活字になった。いまは誰でも好きなだけ書ける。自分のホームページ、ブログだけならまだしも、Amazonのような公共の場でも言いたい放題が出来る。一億総評論家の時代だ。気分が悪くなった。

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 これを読んで感激した織田裕二が映画化を企画し、2000年に映画になっている。外国に入り浸っていたころなので全く知らなかった。脚本を真保さんが担当していて、原作のファンも失望しない仕上がりになっているらしい。ぜひ見てみよう。

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×無神経×

 gooの映画のサイトでは、Shinpoさんの名前を何カ所もShinboと表記している。ご本人もまちがわれないよう単行本の表紙に漢字名と一緒に「Shinpo」とローマ字表記をしているのにだ。無神経である。ネット世界(もちろん個人のサイトではなく、こういうプロによって運営される商業サイトのことである)にはこの種の手抜きが多い。まだまだ雑な世界だ。


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出版社/著者からの内容紹介
自由と、豊かな暮らしにあこがれるベトナムの若いシクロ乗りたちの前に、組織に追いつめられた日本人ヤクザ・タチバナが現れた。波濤(はとう)の先にあるのは、禍か希望か?
夢を追って命を賭けるか、愛を求めて身を捨てるか!





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 プロローグがヴェトナムのダナンから始まる。一転して横浜のヤクザの抗争。そこを終れた主人公ヤクザが逃れた地がバンコク。ヤワラーからカオサン。
 というところまで読んだ。たまりません。おもしろい。こりゃ今夜は徹夜になりそうだ。

 でも「シンハー・ビールはタイを代表するビール。値段も輸入ビール並みに高い」ってことはないと思うけど(笑)。まあ輸入ビールといってもタイで生産しているからあまり高くはないし、それほどシンハと値段の差はないけどさ。これはタイを二日、ヴェトナムを八日取材して書いた真保さんの浅さになる。
 ビールは生鮮食料品だ。ヨーロッパで日本から船に揺られて輸入されたアサヒスーパードライを飲んだことがある。泡すら立たずまずくて飲めなかった。
 タイで飲む外国銘柄のビールではハイネケンよりカールスバーグが好きだ。現地生産だからシンハと値段は変らない。シンハはいちばん歴史のあるタイの代表的なビールだ。だから真保さんの言っていることはまちがってはいないが意図とはちょっと違っている。それは時代が1993年だからまちがいない。
 シンハ(獅子)より安いチャン(象)が発売になり、もっと安いレオ(豹)も出たし、今じゃシンハ(獅子)は高級ビールかもしれないが。

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 最高におもしろくなる直前なのにPCに向かったのは「カオサンとヤワラーは1キロも離れていない。バスやタクシーを利用するにはもったいない」と出てきたからだった。
 日本から逃げてきた主人公やくざは仲介者によってヤワラーのアパートにいる。どうやらそこがヤバいということで近寄らないようにする。カオサンで見かけた日本人にヤワラーのアパートから荷物をとってきてくれと1万円の駄賃で頼む。その日本人青年は交通費がもったいないので歩いて行く。そこに「ヤワラーとカオサンは1キロ弱」と出てくる。

 そうだっけ? 私はいつもトゥクトゥクだったので距離を考えたことがない。カオサンは10回ぐらい、いやもうすこし行っているか、20回ぐらい。通算滞在日数を合計すると5年ぐらいになるタイだからずいぶんと少ない。いずれにせよ詳しい地ではないし方向音痴だし、強いことが言えない。それでGoogle Earthで確かめようとPCに向かった。タイのことを考えるなんてひさしぶりだ。
 でもいくらなんでも1キロ弱ってことはないでしょう? だったら私は歩いている。もともとヤワラー組とカオサン組は仲が悪く共通点がないからそんなに行き来はなかったけど、そんなに近いのか。ジュライ沈没組でカオサンにハッパやヘロを買いにゆくのがいた。トゥクトゥクで20バーツだったからそんなものか?
 いまネットでバンコクの地図を見ている。確かめにくい。紙の地図があれば瞬時に判断できるのだが二月の引っ越しで『地球の歩き方』を何十冊もぜんぶ捨ててしまった。ドライブ用のタイ全土交通地図を持っているのだが押入の段ボール箱のどこか。

 Google Earthで俯瞰したが1キロ弱ってことはないよな。7月22日ロータリーからカオサンまでGoogle Earthの直線定規で3キロ弱。道路を歩いたら5キロはあるだろう。歩くのはきついんじゃないか。粗探ししてるんじゃないから細かいことはどうでもいいけどさ。ただ真保さんのことだからいいかげんなことは書かないと思う。すると、ヤワラーでも外れなのだろう。カオサンの中心地から歩いて1キロ弱のアパートを真保さんは舞台に選んだのだ。だから真保さんの表現は真保さんの作品内に限ってきっと正しい。でも一般的に「ヤワラーとカオサンは1キロ弱」は成立しないと思う。

 毎度の結論だけどよけいなことを知っているとこういう障碍が出てくる。もしも舞台がバンコクでなかったら気づかない。ここは通過地点であり本当の舞台はヴェトナムだ。これからホーチミンに移るわけだが私はサイゴンはそんなに詳しくない。作中にこれと同じような細かいミスはきっといっぱいあるのだろう。でもそれはヴェトナムオタクだけが気づくことだ。そうでない私は以下はこんなつまらないことに気づかず読みすすめられる。よかったよかった。

 ひさしぶりに7月22日ロータリーを見たら、あの辺のどぶ川の臭いまで伝わってきて胸に迫るものがあった。やはり中華街の思い出は強烈だ。みんなどうしているのだろう。あのころ、こんな不況になるとは誰も思わなかった。1ドルが80円のときもあったし。
 でも振り返ってみると、みんなそれなりに金を持っているのにドケチだった。貯金など一銭もないのに入ってくるギャラを右から左に使いまくって遊びほうけ、みんなに奢ってはいい気になっていたのは私ぐらいだった。だからきっとみんなは、この不況下でもしっかり生き抜いているのだろう。
 と、10ページしか読んでないのにずいぶんといろんなことを書いてしまった(笑)。

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 ネットにこの「黄金の島」に関するサイトがあった。『週刊現代』連載ということから講談社が組んだご本人の登場するサイトだ。そこには取材裏話まで書いてあった。十日間の取材旅行、タイが二日、ヴェトナムが八日とか。それだけの取材でここまで書くのだからたいしたもんだ。と、書いている今は三分の二まで読んだところ。深夜に読み始めていまお昼。このまま夕方まで読んで読了しよう。

 月木の帯でやっているテレ東の午後の洋画劇場を週に一回ぐらい見る。今週はずっと「ポケットモンスター」なので見ていない。子供向けなのだ。夏休みに入ったことを実感する。もしも自分が小学生だったら、これはもうたまらんだろう。今の子供は恵まれている。いやでも恵まれているけど不幸だ。なにより叱ってくれるおとながいない。むかしは電車の中で騒いだりしたらそこいら中のおじさんおばさんに叱られた。

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 読了。
 ネットの感想文を読んで、あまりの言いたい放題に腹が立った。
 ヴェトナムの警官の汚さのような部分は体験しないとわからない。私もカンボジアで痛感した。袖の下というとタイの警官のだらしなさ、ずるさが有名だが、権力が集中している共産国家の警官のきたなさはそんなものではない。私はヴェトナムではおとなしくしていたので体験していないが、作中の警官のきたなさは我が事のように伝わってきた。憤慨する。そういうことを知らない人にこの辺は批判できまい。

 褒めているものにもぶつかったが、これもこれでひどい。なにもしらないガキンチョが(私からすると)見当違いの視点で絶賛している。と思ったらほんとにまだ大学生でした。むきになってはいかん(笑)。

 私は年上ぶった言い方が嫌いだし、エンタテイメントは所詮好き嫌いだから意見の押しつけは出来ないと思っている。
 でもこの本を否定し、それどころか「読み終ったあと腹が立って床にたたきつけた」なんて感想を読むと、「それはあなたが、この作品を楽しむだけの懐の広さをまだもっていないからです」と言いたくなる。

 たとえば「実録 総理への道」なんて本がある。政治家が権謀術数を使い、のし上がって行く道道を描いたものだ。そういう世界が好きな人にとってはどんな推理小説よりもハードボイルドよりもおもしろい。勝負事が好きな人にとっても、本命がアクシデントで消えたり、突如差し馬が台頭してきたりの感覚で、はらはらどきどきである。
 しかし政治の世界になんの興味もない人から見たら、ジジーどもがなんかごちゃごちゃやっていると、これまた「床にたたきつけ」るだけだろう。それと同じ事か。

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 真保さんはある日、「ヴェトナムからのボートピープルを描きたい」と思った。遙か彼方からボロボロの船で命がけで日本にやってくる連中の心根を書きたいと思った。それには物語をわかりやすく説明する日本人主人公が必要だ。設定を「日本を追われたヤクザ」にした。組内の抗争で日本を追われたヤクザはヴェトナムに潜む。なにも知らなかった国。いつしかそこに馴染んで行く。なんとしても日本に行きたいと夢見る少年たちと出逢う。彼らの夢見る日本、自分の知っている日本、そのギャップ。
 彼らを助けて、自分もその漁船に乗って日本にもどってみようかと思う。海に乗り出すまでの準備、苦労。乗り出してからの嵐、少年たちとの反目。やっとたどりつく日本。漏れていた情報、迎え撃つヤクザ。主人公の死。やがて日本にいつくヴェトナムの少年たち。エピローグ。
 最後の勝利者として彼らをおくことは、映画「七人の侍」で真の勝利者は百姓だという結末を想起させる。

 これらは基礎教養?として、それなりのものをもっていないと楽しめない。登場人物の個性、設定、ストーリィ、結末、どこをとっても不満だらけで、なんなんだ、この本は! と床にたたきつけたくなった人には、それがなかったのだろう。政治に興味のない人が「総理への道」を読んでもおもしろくないように。

 私は海外旅行が嫌いだ。部屋で寝ころんでいるのがいちばんである。結果的にあちこち出かけたのは立場上知らないと馬鹿にされるからしかたなくだった。
 でもこんな人の感想を読むと、歩いてきてよかったと思う。そういう形で視野を広げておかなかったら、私もまたこれを床にたたきつけていたかもしれない。

 いやちがうな。もしも私が海外を知らなかったら、私はそもそもこんなタイプの本を手にしなかったろう。「床にたたきつけた人」は、かなりの読書家なのだ。真保さんの作品に関しても私などより詳しいらしい。Amazonの書評欄の常連らしいからかなりの読書家なのだろう。同時に目立ちたがりでもある。でなきゃ自分の感想を公に発表したりはしない。
 彼をそれなりの読書家、それなりの教養人、とすると、彼は自分とは感覚の合わないものは否定する人、なのだろう。そういう人は自分の方にそれを咀嚼する能力がないとは考えない。すべてあちらの缺陥と解釈する。

 ふ~む。なら何を語っても無理か。ここはすなおにこの作品を楽しめた自分に満足することにしよ


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出版社/著者からの内容紹介
12歳のあの日、父が殺され、少年時代の夏が終った。

人生を変えた殺人。胸に迫る衝撃の真相。
なぜ友の心に殺意の炎が燃え上がったのか?
魂の根源に迫る衝撃サスペンス。

12歳の夏――。
浜に倒れていたあの人。母のため息。家に寄りつかない父。
――そして事件は起こった。
21歳の今、あの夏の日々を振り返る。刑期を終えたあの人が帰ってくる……。罪と罰の深淵を見つめる魂の軌跡。


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◎繋がれた明日

出版社/著者からの内容紹介
仮釈放となった中道隆太を待ち受けていた悪意に満ちた中傷ビラ。
いったい誰が何の目的で?
孤獨な犯人探しを始めた隆太の前に立ちはだかる“障壁”とは?








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◎奇跡の人

出版社/著者からの内容紹介
交通事故で八年間入院生活をしていた相馬克己。過去の記憶が一切なく、知識も小学生レベル。それでも彼はひたむきに前へと進んだ…。主人公の圧倒的な人間愛にあふれた生命の鼓動。感動の書き下ろし長篇小説。









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 真保作品の致命的缺陥!?

 粗筋を決めただけで連載を始め、進行とともにディテールを決めて行く形を取る作品は、作者の思いつきで進行方向が変るから、序盤中盤終盤であちこちによれ、細かな齟齬が目立つ。序盤では穏和でいい人だったのに終盤では剣呑とした厭な性格になっていたり、太った大男だったのに中肉中背になっていたり、自分の記憶違いかと初登場のシーンまでもどって確認したりすることもたびたびだ。しかしそれもまあ作品の楽しみのひとつなのだろう。書いている作者ですらわからなくなるのだから読者もいいかげんにつきあっていればいいのだ。思うのは、私のようないいかげんな読者ですら気づいてしまい首をかしげるのだから、記憶力のよいキチっとした性格の人は、とてもこれらの作品は読めないだろうということだ。世の智的な人には小説類は一切読まないと言う人が多い。たぶんそのこともいくらかは関係しているのだろう。今回冒険小説と呼ばれる類をまとめ読みしていかにひどいものが多いか痛感した。

 その点、最初から最後までプロットもディテールも細部まで設定してから書き始める真保裕一作品は、そういう粗雑なミスとは無縁である。安心して読める。それが私にとって真保作品の最大の魅力だ。ご本人は「徹底した取材」ばかり礼賛されるのを嫌っているようだから、同じく初歩的な矛盾するミスがないので安心して読めるなんて褒めかたもすこしもうれしくないかもしれない。でも稀有なのである。娯楽小説にはずいぶんと杜撰な作品が多い。

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 そんな粗末な缺陥のない真保作品に缺点はないのかと考えてみた。すると、あった。よく言われることだが、完全無欠だからこそ、その完全無欠度合いがつまらないのである。と、これではまるでイチャモンだが、そんな言いかたも成り立とう。きちんとしすぎていることが「きちんとしすぎている」という缺点なのである。

 例えば名作の誉れ高い「奇跡の人」だ。事故で植物人間になっていた青年が奇蹟的に蘇生する。しかしすべての記憶を失っていた。おとなとして記憶を失っているのではなく、人としての記憶を失っていた。彼はそこからもういちど「赤ん坊として」生き直す。すべての勉強もそこから始めた。
 今は三十歳だが中学生ぐらいの精神年齢、智識。勉強の度合いもそれぐらい。寝たきりの赤ん坊から蘇生したから、一切世間の毒に汚されていない。誰もに好かれる瞳の澄んだ好青年ならぬ好少年である。
 この青年が失われた記憶を探し始める。周囲は止めるのだがそれを振り切って探し始める。この「周囲がとめる」というところに過去の暗さがほの見える。おもしろい。そしてたどりついた過去は、事故で人を殺し、女にまとわりつくチンピラまがいの生活をしていた自分だった。要するに好青年どころかろくでなし、害虫のような事故以前の自分の姿だった。

 例えば「繋がれた明日」。青年は十代のチンピラ時代に女のことからもめ、ケンカになったチンピラをナイフで殺してしまう。殺意はなかった。事故に近い。少年刑務所で服役して出獄してきた。いま二十代半ば。
 あらたに生きようとする彼の周囲の人間にとって事件当時の殺意も事故も関係ない。あるのは出獄してきた「人殺し」という事実だけである。殺人者という過去をもって生きる青年とそれに対する社会の目。その苦しみ。本人と家族。そこに撒かれる中傷のビラ。「こいつは人殺しだ」と。苦悩しつつ自分の過去と罪に対峙する青年。

 ともに傑作と名高い二作だが、この作品の主役が二人とも「ものすごく出来がいい」のである。目の前で起きる出来事に冷静に対処し、自分で思い立って調べものをする経緯でも、しっかりとノウハウをもっていて、実際の行動といい分析といい、まことに優秀なのだ。しかし二人とも以前はどうしようもないチンピラだった。ケンカで人をあやめたり轢き逃げをやったりしている。そんな男が、何年間か服役したから、事故で記憶を失ったからといって、こんなに優秀な人間に変貌するものなのか。そもそもこれほど優秀な人間なら、いくら無軌道な若い時代とはいえ、あのような盛り場に居座り、あのような事件を起こすはずがあるまい。と、これは読者なら誰もが感じる素朴な疑問であろう。とにかく常識、礼儀、言葉遣い、行動形態、なにをとってもあまりにリッパ過ぎるのだ。

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 だが言うまでもなくこれはただのイチャモンである。
 十九のチンピラ時代に女のことでもめ、ポケットのナイフで相手を殺してしまった。あちらから殴りかかってきたのに被害者の友人だった目撃者はこちらから仕掛けたと嘘の証言をした。罪を償って出てきた。まともに暮らそうと思ったのに突如「×号室の××は人殺しだ」とビラを撒かれる。そのことが原因で恋人に捨てられる妹。泣きじゃくり責められる。勤め先を辞め引っ越す。またやられる。
 現実の二十代半ばの青年にこんなことが起きたら、自棄になってまた悪事に走り、再犯、逮捕、再投獄。こんなものだろう。でもそれでは小説にならない。だから主人公は、周囲の白い目に耐え、家族に詫び、こつこつとまるで刑事のようにビラを撒いた犯人を捜して行く。その中で、事故とはいえ若者を殺してしまったのだからと被害者遺族への詫びを試みたりする。

 作者が意図したのは、若くして殺人という罪を犯してしまった青年の更正と、それに立ちはだかる社会の壁である。当然ながらそこにはあたたかく見守ってくれる心優しい人たちも存在する。ここにおいて主人公が短絡的な行動をする性格だったならそもそものテーマが成り立たない。だから「主人公があまりに立派すぎる。こんな立派な青年なら元々あんな事件など起こさない」という意見は小説の存在自体を否定するいちゃもんにすぎない。小説というもの、物語を楽しむことが最初からわかっていない人、になる。

 だけれどもまたそれは、極めて真っ当な、この作品に対する真正面からの意見でもある。これらの作品を冷静に読んだらそう感じるのが自然なのだ。「こんなに賢くて冷静でしっかりしたヤツが、なんでそんなチンピラだったんだよ(笑)」と思う人は多いはずだ。
「正鵠を射たまともな感想」
「そもそも小説の楽しみかたがわかっていない見当違いのイチャモン」
 両方ともただしいから厄介だ。

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 読書感想文の基本は好きな作家の好きな作品を褒めることである。ネット上にあまたあるそれらも基本的にはみなそうだ。プロットがしっかりしている真保作品には熱狂的なファンが多い。おそらく大多数は絶賛だろう。いや私だって絶賛派である。真保作品は本当にすばらしい。自分の作品に責任を持ち、隅々まで目配りしている。最初と最後で景色が変ってしまっているような雑な作品とはものが違う。でも上記のような感想を持つことも可能だ。可能だってのもヘンだが(笑)。
 どこかにこのことに触れたものもあるのではないかと思った。かといって検索には慣れていない。ヒットしなかったらすぐに諦める覚悟で少し探してみた。

 するとあった。その人はやはり私と同じく「そもそもこんな立派な青年があんな問題を起こすか!?」と疑問を持ち、真保作品を否定していた。乱読の人らしく、評判なので真保作品を読んでみたが、自分はこんなものは受けつけない、と結論を出していた。
 私はそこまでは行かない。雑なミスが連続するものよりも真保作品の安定度は断然素晴らしい。名前は知っていたのに食わず嫌いでだいぶ人より遅れてしまったが、これからもずっと読んで行きたいと思う数少ない作家である。
 でもそのことに怒ってしまって二度と読まないという人の気持ちもそれなりにわかる。そういう人の絶賛する作品は何なのだろう。そういえば、その人の文章は真保作品を否定したあと、「××の××でも読んで勉強しろ!」と書いてあった気がする。もちろん××は作家名と作品名である。今度機会があったらまた検索して(何という人がどこに書いたか記録していない)探しだし、その人の勧める「××の××」とやらを読んでみよう。
  
9/1

これはクリア「誘拐の果実」

内容(「BOOK」データベースより)
病院長の孫娘が誘拐された。“身代金”は入院患者の命だ!標的は病院に身を隠していた被告人。挑戦か陰謀か。悪魔のゲームの幕開けか!?そして、もう一つの誘拐が…。逆転に次ぐ逆転!衝撃と昂奮の傑作巨編。


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 感想は人それぞれである。不満点をどこにおくかで違ってくる。ミステリー好きでトリックや結末を重視する人と、私のように基本的な矛盾点に(のみ)こだわる者では、同じ不満が生じても根っこから違っている。そもそも私はミステリィファンではないので、奇抜なトリックとか大どんでん返しの落ち、のようなものはどうでもよい。物語の設定に矛盾がなく、すんなり読めることが大切になる。

 前記したように、私はどんなによく物語が出来ていても、「この主人公、今までの経歴と比べてしっかりしすぎていないか? こんなヤツ、おらんやろ」と感じるともうのめり込めない。その良くできた物語をスムースに進めるために「しっかりしすぎている主人公」は必要不可欠なのだが、いくらリクツでわかっていても白けてしまう。

 その点この作品は、主人公、というか仕掛け人は、大人をきりきり舞いさせる少年少女なのだが、彼らの利発さに無理がない。とても賢いふたりは、成長しても賢い大人になる。筋が通っているので、前記の「奇跡の人」「繋がれた明日」等に感じた疑問とは無縁でいられた。

 私のこの単純で質素なこの[感想]は、大の真保ファンやミステリィの読書感想文に情熱を傾けている人から見たら「なに、それ?」と苦笑されるものであろうが、私にとってはこの作品、それがすべてだった。
 
10/10
 真保流パスティーシュ小説

内容(「BOOK」データベースより)
握手をするように人を殺す男。一歩踏み出したらもうもどれない。欲望の街・ロサンゼルスを彷徨する探偵・永岡修。地獄を見た親子を追い、人の心の砂漠を目撃する。世紀末を斬るハードボイルド巨編。







 私は翻訳小説が好きではない。いかにも外国の文章らしい、あちらの人獨特の比喩が鼻についてしまいすなおに楽しめないのだ。たとえばそれは白人の大げさなアクションに通じる。外国で道を尋かれる。白人が東洋人の私に道を尋ねることがまずおかしいが、それはともかく、そんなことがけっこうある。知らないと応える。すると両手を広げて、眉をひそめ、苦笑して、「おお、しらないのか、あきれた。困ったな、どうしよう」とやる。まるで道を知らない当方に問題があるかのようだ。人に道を尋ねておいて、なんなんだそのアクションは! と思う。まあ悪気はないのだろうが、こういう白人の感覚にはなじめない。それと同じものを翻訳された文章に感じる。その真ん中に居座っているのが「獨特の比喩」になる。

 翻訳小説しか読まないという人を何人か知っている。それがいかにもそういう人ばかりだとこちらも合点するのだが、慮外にも見かけも歩んできた人生も、朝食は海苔と納豆とみそ汁みたいな人が多いから、そのギャップに戸惑う。古き良き時代の趣を残す畳職人にそう言われたときは混迷した。彼らには私の嫌うものが好ましいようだ。臭いもので昂奮する人もいるし、人それぞれである。
 私のようにチーズをかぐわしいと思わないのも問題かもしれないが、納豆を否定してブルーチーズばかり食っている日本人もまともとは思えない。(現実の食生活では私はチーズ大好きですが。)

 この作品の好き嫌い、評価はそこいら中にあふれているので今更私が口を出してもしょうがない。駄作という人もいれば、真保作品のベストワンだと推す人もいる。
 ただ世間ではこの作品のテーマである「生まれながらの犯罪者はいるか!?」についてのみ激論されているが、私がこの作品から感じたも最も大きなものは、「真保裕一氏は、チャレンジの一環として、こういうスタイルの小説を書いてみたかったのだろう」だった。最初に「スタイルへのチャレンジありき」になる。「アメリカを舞台にした、日系人探偵が主人公の、典型的ハードボイルド小説」を書くことが、第一義だったということである。

 一年一作、毎回趣向の違った作品を発表する真保氏は、この時期、そういう作品に挑戦した。それがこの作品を読んでまっ先に浮かぶ感想になる。
 とてもおもしろいと思ったのは、デビュウ以来真保氏は「誰も書かなかった世界」にこだわってきた。それは傑作「ホワイトアウト」のダム運転員や「小役人シリーズ」と呼ばれるものに顕著だ。
 ところがここで挑んだのは、「最もありふれた形の、典型的ハードボイドル小説」だった。これもまたこれで挑戦である。なぜならそれは日本的な感覚を消した「外国人作家が書いたような小説」だったから。

 序盤はとくにそれを意識していたのか、いかにも翻訳文章のような比喩が連発する。「いかにも、らしい」を書くことを楽しんでいたようだ。と、ここでまともな感想文なら、その比喩のいくつかを羅列するのだろう。私は怠け者なのでそこまでする気にはなれない。でも感激した傑作なら、する。そうではないのでやはり今回はパス。私はそういう文章が嫌いなのだ。
 あまりにそれらしき比喩が連発するものだから、最初、「ハードボイルド小説のパロディか?」と思った。パロディでは失礼なのだろう。ここは清水義範のようにパスティーシュと言うべきか。まあパスティーシュもパロディの一部だ。

 私にとってこの作品はそれがすべてになる。渡米して十二年の主人公も、日系人の上司も、主人公のアメリカ人の恋人も、犯人像も犯人の周囲の連中も、みな「典型的翻訳小説のようなハードボイルドを書いてみたかった」という熱意の産物でしかない。まるで本物の翻訳小説を読んでいるようで、それが嫌いな私は、「一気に読み進む」とは行かなかった。その点、見事なパスティーシュだったと言える。
 なのにネット世界のレヴュウではそれに触れたものがなかった。すこしぐらい「これって真保のパロディなの?」がほしかった。みなすんなり作品世界にとけ込み、わいわいと論じている。とけこめない私は蚊帳の外だ。それはレヴュウを書いている人がみなチーズを好きだからであろう。

10/28
 いろいろ言われてる「最愛」(笑)

出版社 / 著者からの内容紹介
十八年間音信不通だった姉が、意識不明で救急病院に搬送された。重傷の火傷、頭部の銃創。それは婚姻届を出した翌日の出来事だった。しかも、姉が選んだ最愛の夫は、かつて人を殺めた男だという……。姉の不審な預金通帳、噛み合わない事実。逃げる男と追う男。「姉さん、あなたはいったい何をしていたんだ……」慟哭の恋愛長篇。





 両親が死に、二歳違いの姉と弟は別々の親戚で育てられる。十八と十六のとき、二人のあいだには「ある出来事」があり、それ以後疎遠になる。そして十八年が過ぎる。物語の主人公である弟は三十四歳になっている。小児科医。勤務先病院の娘である恋人もいる。小児科医になった理由を恋人に問われ、彼は「むかし自分の子を殺したことがあるから(=中絶)」と告白する。この小児科医としての日々と現状を綴ったプロローグは秀逸だ。でもその後はまったく出てこず、ある[感想]では、この恋人の存在と小児科医になにか意味はあったのかと鋭くつっこんでいた。

 そこに姉が脳を撃たれ、ほぼ死は確実、という連絡が入る。集中治療室での物言わぬ姉と十八年ぶりの再会。弟は姉との空白の時間を探し始める。この「空白の時間を探す」は真保さんの十八番だ。

 世間では真保作品として「最愛」ならぬ「最悪」の評が横行している。以下はAmazonのレヴュウにあったもの。全面否定の一例。


By  naichin (静岡県)
すでに他の方がこの作品の問題点を語りつくしていますが、あまりにがっかりしたので私もひとこと。
私は真保裕一や東野圭吾や宮部みゆきは、作風が自分に合う合わないは別として、極端な駄作は書かない安定感のある作家だと認識していました。
しかしこの作品は酷かったです。
現実にいたら「はた迷惑」で「変人」としか思えない姉の行動を、全て好意的に無批判に受け入れていく弟。最初はこの認識が何かの伏線なのかと思い我慢して読んでいましたが、途中で「まさか○○が××なのではないだろうな」と思い始め、読み進んでいけば案の定・・・
まさか今更こんな恥知らずなオチをつけているとは思わなかったです。

私は著者の(ミステリー作家という枠に囚われない)ジャンルを縦断するような作品の幅に魅力を感じて今までずっと購入してきましたが、今後の作品を読む気がなくなりました


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 小児科医の主人公が、異様な執念と有能な刑事もどきの捜査で、姉の人生を追いかけ、浮かび上がらせる。姉の愛した現在逃走中らしい男のケイタイ留守電に、自分の推理を延々と吹き込み、ついにはその男から電話がかかってくるまでになる。
 この姉と弟には、非常時に際して弟がそこまでフランティックになるだけの過去がある。よって一連の行動に頷けないこともないのだが、穏和で気弱とさえいえる小児科医から、いきなりの粘着刑事的変身には戸惑いを感じる。私の感想はそれだけ。つまりそれは、今まで読んだ一連の作品に感じたアレと同質である。

 否定派の多くは、ストーリィの無理と後味の悪さを指摘している。私はそれは感じなかった。「そんなこと」の過去があれば、「こんなこと」の現在もあるだろうと、割合すんなり認めてしまう。ただ主人公の今までの静かな水のような生活、性格から、突如として激しく燃え上がる石油のような極端な変身についてゆけない部分を感じる。主人公も水を装っていたが本来は油だったのだと、姉の性格から解釈すれば、わからないでもないのだが。

 刑事並みの捜査能力に関しては、主人公にそれがないと物語が進行しないのだからケチをつけてはいけないのだろう。緻密な迷路を設定し、主人公にそこをそこを解きほぐしつつ猛進させる。それは手法だろうが、方向音痴で、迷路を見ただけで立ちすくんでしまうような私は、どうしてもその主人公の能力に同調できない。
 このタイプの真保作品には、今後もこの課題がつきまといそうだ。せめて「相棒小説」にして、超人ぶりを分散させると助かるのだが。でも今回の内容なんて、相棒のいるものでもないし、というかいちゃおかしいし……。


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