2007-3
9/10 「誰か」──宮部みゆき

 主人公35歳の勤めるのは某コンツェルンの広報室。コンツェルン全社に配る広報誌を作っている。上司の編集長は「大学を卒業して28年のヴェテラン社員」の獨身女である。ストレートに卒業して22歳、勤続28年でいま50歳か。雰囲気や会話からもその年齢のようだ。それ以下ということはない。
 広報誌の特集するテーマとして庶務課長にインタヴュウする。これも女。年齢は「編集長と同じぐらい」とか。50ぐらいだ。大きな企業の庶務課長で女だからこれぐらいだろう。
 が、このあとインタヴュウの最後、主人公が「いまいちばんの悩みは」と問うと、彼女は子育てだと言い、「上の娘が幼稚園年長組、下の娘が保育園なので、休日出勤の時など預かってもらえる場所がなくて苦労する」と話す。昔話ではない。「いまいちばんの悩み」である。これが出てきたのは単行本の三分の一ぐらい、思わず???と女編集長が初めて登場した最初のころのページを探ってしまった。たしか50のはずと。50だったらいくらなんでもこの女庶務課長の子供が小さすぎる。確認した。やはり「大学を卒業して勤続28年」だから女編集長は50である。同年配で庶務課長も50。
 となるとこの女庶務課長は44歳と46歳ぐらいで連続高齢出産をしたことになる。そんなことはありうるのか。ちょっと無理なんじゃないか。その年齢でひとり作るのにハヤシマリコがいかに苦労したことか。ノダセイコは授かってない。それが役職の会社員として働いている女なのに(当時は課長ではなかったにせよ役はあったろう)、連続で授かるなんて可能なのか。もしかしてあり得るのかもしれないが、だったらすこしぐらい前後に「遅くできた子供だったので」ぐらいあってもいい。なにもない。やっぱりこれは宮部さんの人物年齢設定がこんがらがったと解釈するのが自然だろう。書き進めているうちに女編集長の年齢設定を50にしたことを忘れたのではないか。10歳若返って40歳ならなんの問題もない。34と36の時に産んだ子供だ。だがはっきり女編集長を大学を卒業して28年と書き、女庶務課長をその女編集長と同年配と書いている。仮に短大だったとしても48だし、役職に就くのだから四年制大学出身だろう。

 どうなんだろう、こういうのって。自分で作った人物設定に取材で得た働く女たちのいちばん深刻な悩みは子供の託児所という情報を盛り込んだらこうなってしまったような気がする。ささいなズレだしどうでもいいのだろうけど、私は50の女庶務課長が幼い子供ふたりの扱いで苦労しているというこの箇所から一気に白けてしまった。これは男の場合よりも罪が重い。女には出産に適齢期があるからだ。


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 まあそれはちいさな疵として、平凡な運転手の過去を探る──しかも探偵でも刑事でもなくごく不通の会社員が──そのことによって浮かんでくる過去、といってさほどどろどろしたものでもないが──ただそのことで人それぞれの関わりはだいぶ違ってしまう──ここからこれだけの物語を作ってしまうのだからたいしたものだ。
 特別の盛り上がりもない不思議な作品である。それでも妹の困った性格や、当時殺してしまったと思った男はじつは生きていて、脇役の夫婦がじつはとどめを刺したのではないか、のような最後の推測は心に残る。
 この作品は宮部マニアの中ではどんな評価がされているのだろう。それを知りたい気がした。

9/15  博士の愛した数式──小川洋子

 何年か前、本屋の店員が選ぶ本の1位になっていたことを覚えている。寺尾聡が「博士」を演じて映画になったことも知っている。なぜか本も映画も無縁だった。
 今回やっと読んで感服した。傑作である。

 小川洋子の作品は本人も言っているように「なにかを失くす物語」である。それは肉体の一部であったり家族だったりする。ここでは「記憶」だった。主人公が記憶を失くす物語は「記憶喪失もの」としてよくある。「博士の」の場合は、語り部である主人公の家政婦と、脇役であるその息子は正常、家政婦として働く家の主人が「記憶が八十分しか保たない人」になる。

 重要な小物は「数式」と「野球=江夏タイガース」である。
 数式の楽しさは一般読者にどうだったのだろう。私は理系崩れであり数学が大好きだから楽しめたけど、数学嫌いにはこの程度の数字遊びでも着いて行けない人もいたろう。
 野球はその数字遊びを入れるにはかっこう素材だった。野球以外ではこうはゆかない。

 そういう設定でいちばん興味深かったのは主人公。高校生で妊娠出産。中退。いきなり十代から家政婦になる。始まりの時点で二十九歳。でも家政婦歴は十年以上。こどもが十歳。
 話の終りの時が主人公は四十歳か。映画では誰が演じたのだろう。私だったら誰をキャスティングしたろう。映画を見ていないだけにその興味が残った。だけどこれ、ほんとうにいい小説だけど映画的かな? 数字のおもしろさはどう映像化したのだろう。
 あとは野球か。小川さんは野球好きなのか。それともネタとして使ったのか。どっちなのだろう。かなりマニアックだったから、知らないのに調べて書いたとしたら、なかなかのものだ。

 傑作と感服したのは「テーマ」である。この設定を思いついたとき小説としての成功は約束されていた。芥川賞作家でここまで娯楽性の高い作品を次々と出しているのは宮本輝以来ではないか。

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 レンタルビデオ屋でDVDを見たら、主人公は深津絵里が演じていた。
 小川さんはたいへんなタイガース狂だとか。あの野球への思い入れはフィクションじゃないと知る。
 金光教の熱心な信者だとか。ふうん。

10/10
 白川道のタバコ

 白川道(しらかわとおる)の全作品を読了した。ついこのあいだまで知らなかった人なのに読み始めてからは一気だった。今年の夏は我ながらよく本を読んだ。猛暑の夏ですらあれぐらい読んだのだから秋の夜長になったらどうなることか。(その分、映画はまったく見ていない。)

 やがて忘れるだろうからきっかけを書いておこう。元々そのために書いている文だ。
 昨年、H子さんとの縁から半年ほどデータ入力のバイトをした。生まれて初めての長距離電車通勤をした。そのすがらだいぶ前にもう卒業していた夕刊紙を読む癖が復活した。この「夕刊」というのがポイントだ。朝刊は電車が混んでいて読めない。
 5円のときから愛読していた『東スポ』はお笑い新聞に堕ちていたし、なにより私がプロレスに興味をなくしていた。サヨクオヤジが酒場でくだまいているような『日刊ゲンダイ』は読みたくなかったから、必然的に『夕刊フジ』になった。ナイガイは問題外(笑)。毎日『夕刊フジ』を読むなんて何十年ぶりの習慣だろう。猪木とアリが闘っていたころ以来だ。「オレンジ色に燃える憎いヤツ」というテレビCMが流れていた。

 そこに白川道が随筆を書いていた。週一である。漫然と読んでいた。さして興味のあるものではなかった。無頼派作家として、麻雀や競輪を主にした人生論がメインだった。それでも名前は覚えた。
 今夏、何年かぶりに冒険小説を乱読し、馴染みの作家に読むモノもなくなったので、さてなにかないかというとき、突如彼の名を思い出し、図書館の本棚で手にした。
 全作品読了といっても、デビュウが遅く、寡作なので全部で十冊ほどか。でもみなおもしろかった。そのことはまた書くとして、タバコの話。

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 『夕刊フジ』の随筆の写真も、タバコをふかしている横顔を載せるぐらいだから、よほどのニコチン中毒なのだろう。いやはや全作品煙い煙い。
 やたら煙草呑みが登場する大沢作品にうんざりしていた。その不自然さのない真保裕一作品と出会い、ほっとした。しかしここでまたタバコばかりの白川作品に関わる。煙くていやになる。

ハードボイルドとタバコ

 「天国への階段」感想

 といって煙モクモクの全作品を否定するのではない。たとえば自伝である「病葉流れてシリーズ」は、麻雀競輪小説であるから、煙いのもよくわかる。また舞台が昭和四十年代だ。男はタバコを吸うのが自然な時代だった。あのころのタバコ嫌いは辛かったことだろう。作品中、いたるところタバコばかりで、男も女もみんな喫うのだが、まったく気にならない。
 同様に、舞台が現代でも「終着駅」はヤクザが主人公だ。これまたキャラとタバコがあっているので気にならない。

 しかし彼の作品でいちばんヒットし、売れ、テレビドラマにもなったらしい、この「天国への階段」になると無理が目立つ。
 主人公も、主人公の運転手をしているがじつは主人公の実子である二十五の青年(青年はそれを知っている。主人公は知らない)も、主人公の過去の犯罪を追う刑事も、みんなニコチン中毒である。やたらタバコばかり喫っている。煙くて臭くてたまらない。
 しかも白川は、よせばいいのに、喫ったタバコのその先まで書く。駅前で人を待っているときに喫っていると、待ち人が来たら、アスファルトに吸い殻を捨てて靴で踏みにじる。公園での会話の場合もそう。投げ捨てて踏みにじる。道路や公園に捨てられ靴先でねじられた吸い殻とフィルターの画が浮かび気分が悪くなる。橋の上での会話では、吸っていたタバコを川に投げ捨てる。こういうシーンを平然といくつも書くのだから、現実の白川もかなり煙草呑みとしてマナーの悪い人なのだろう。現実の彼のマナーなどどうでもいいが、クールな主人公や、作中の重要脇役である人情刑事が、頻繁にこれをやると、そのキャラクターさえ疑わしく思えてくる。無神経である。そんな人情刑事はいまい。小説中の人情刑事のキャラなら、公園を汚している醜い吸い殻をひろってゴミ箱に入れるはずだ。なのにそこいら中にポイ捨てしている。すなわちそれは、周囲の人間が迷惑していてもそれに気づかず、ニコチンタールを摂取する自分の快感にのみ忠実なタバコ中毒者の無神経さである。

 この作品の主人公は、四十五歳。係累はなく、十八で上京し、犯罪で得た金を膨らませ、二十五歳で会社を興した。すべて獨力である。いまでは貸しビル業、ゲームソフト開発会社、人材派遣会社を経営する大金持ちだ。クールな性格、怜悧な営業方針、精悍な顔立ち、二十五歳の若さで起業した、それこそ成り上がりの若造として、常に自分より年上の企業人と接してきた彼が、どこでも誰の前でもまずタバコを取り出して一服する無神経な煙草呑みであることに納得できない。彼の経歴からしたら、他人様に失礼のないよう極力そういうことに気を遣って生きてきたはずだ。
 これまた二十歳の学生時代から、四十五十の男達と高額の麻雀を打ち、いわゆる「年配者に気を遣う」なんてこととは無縁の人生を歩んできた白川の作り出したキャラの矛盾である。
 主人公は二十代の会社社長として歩む。故郷を追われ、高卒で上京し、働きながら学資を貯めて早稲田の夜間に通った。そこで知り合った天才プログラマーとゲームソフト開発会社を作り、そこから成り上がって行く。その資金の7千万は犯罪で作った金を膨らませたものだ。こういう人がいつでもどこでも誰の前でも無神経にタバコを吸いまくるはずがない。

 北海道浦河の絵笛出身。父とサラブレッドの生産牧場をやっていた。それを乗っ取られる。そこから始まる復讐譚。喪失した故郷の自然の美しさを讃え、動物を育てるために必要な愛を語ったりする。なのに二十七年ぶりに訪ねたその故郷の牧場でも、タクシーで乗りつけ、その地に降り立つと、早速タバコに火を点ける。さすがにここには書いてないが、ここでもタバコはポイ捨てだろう。まさか携帯灰皿をもっているとは思えない(笑)。牧場を愛し、自然賛歌を謳いつつ、やっていることがそれと剥離している。現実にこんな無神経な人はいない。牧場は寝藁や干し草が多く、構造上火事になりやすいので喫煙には気をつける。牧場育ちで物心つくころから牧夫生活をしていた彼の無神経が理解できない。なぜせめてそういう場だけでも禁煙できないのか。主人公がそこでタバコを吸う必然性などまったくないのだ。
 ならなぜ喫うか? 答は簡単だ。主人公を操っている作家が、喫わないといられない人だからである。そのことによってこれが空気の澄んだ日高の牧場や、禁煙のゲームソフト開発会社のオフィスではなく、煙モクモクの白川の書斎で書かれた絵空事であることが見えてしまう。自分が10分に1本喫わないといられない中毒者だから架空の創作人物もみな同じように中毒している。

 その他にも穴が目立ち、ツッコミどころ満載の問題小説だ。
 競馬、競走馬に関してもそう。私は日高と生産者の内情には詳しいから言いたいことはいっぱいある。でもそれはどうでもいいことだ。それは専門家の重箱の隅つっつきになる。そんなことはどうでもいい。問題は専門的なことではなく日常的なことである。キャラクターの設定だ。その代表として、登場人物がいつでもどこでも無神経に喫いまくるタバコは絶対におかしい。

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 白川道という作家の魅力は、自伝的要素の強い波瀾万丈の物語にある。そのことで一定の評価を得た。しかしそれだけでは不本意だったのだろう。だからこんなものも書けるんだぞと、麻雀も競輪も株も投資も出てこない、いままでとは傾向の違った、競走馬の牧場と幼なじみとの恋愛を基礎にした復讐譚のフィクションを発表した。それがこれになる。タイトルの「天国への階段」とはツェッペリンのあれである。文中一度もレッドツェッペリンの名は出てこないが、思い出のレコードという小物として登場する。この辺も演歌派が無理矢理作ったプロットが見えていてすこし苦しい。
 自伝の「病葉流れて」に詳しいが、彼は時の流行り歌と一緒に生きてきた人である。作品中に登場する当時のヒット曲が味わいになっていてなかなか味わいがある。「黒い花びら」とか。おそらく「病葉流れて」というタイトルも、当時流行した仲宗根美樹の「川は流れる」から来ているのだろう。歌詞は、 病葉を 水に浮かべて 街の谷 川は流れる……である。

 この小説を読んでもジミー・ペイジのあのギターソロは流れてこない。まったく結びつかない。結びつかないからこそ聞いてみた。ひさしぶりに。「Stairway to Heaven」を。でもやっぱり、それで絵笛から浦河高校に通う高校生恋人の姿は浮かんでこなかった。白川がどれほどツェッペリンが好きか、ぜひとも聞いてみたい(笑)。
 作中の人物たちは辛い過去もあり、作品中でやたら泣く。なのに涙腺の弱い私がそうなる場面はまったくなかった。それがこの作品の限界だろう。

 この作品が半端なのは、白川が従来の白川臭さを消して築いた新生面のはずなのに、その臭さが消えていないことにある。その象徴がタバコになる。いままでの煙モクモクのやくざの事務所や雀荘とは違う、社内全面禁煙のオフィスビルの作品を書いた。そのはずなのに、どの部屋に行ってもたばこ臭く、ついさっきまで喫っていたのがすぐにわかってしまう。そんな矛盾を内包した小説だ。
 日に何箱も喫うニコチンタール中毒者が、タバコを吸わない主人公の小説を書くのは不可能なのだろうか。そんなことまで考えた。

 東京新聞に連載されたという。全面的に補稿し、1200枚を追加したと後書きがある。それで2000枚強だから、連載時には800枚だったことになる。補稿の枚数のほうが多いのだから書きなおしに近い。その連載時の原稿を読んでみたいと思った。たぶん刑事たちの会議、捜査の進展、あのあたりが全面的に補強されたのだろう。まず間違いない。連載時のものは、かなり荒っぽかったように思う。(これ、「粗っぽかったの誤変換ではない。)

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 日高本線の絵笛のあたりは土地勘があるので懐かしかった。作中で絶賛されるほど美しくはないが(笑)、でもテレビドラマのときはきれいな映像だったことだろう。私も三十年近く前、初めて海沿いを走る日高本線に乗ったときは、うっとりした。

 読了したあと、テレビドラマについて検索し、キャスティングなども知った。
 小説を読むと自分なりのキャラクターが動き始める。それは獨自の容貌だ。どんな現実の美男美女が演じてくれてもギャップがある。この作品だとヒロイン母娘は誰が演じても私は満足しないだろう。
 だから私にとって、大沢在昌の「砂の狩人」を読んでいて、脇役の原という捨てゴロの達人であるヤクザに、「映画にするなら山本キッドに演じて欲しい」と思ったことはとんでもない例外になる。私ですらそう思うことがあるのだから、世の中にはきっとそういうことばかり考えながら小説を読む人もいるにちがいない。

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 白川道作品はおもしろい。だけどこの代表作と言われる作品は◎○▲△という競馬の予想印でいうなら△だろう。

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 浅田作品を見直す

 浅田次郎さんはチェーンスモーカーである。酒が飲めないし、しかたないかもと思う。でも煙草呑み特有の、「喫煙権」を主張したエッセイにはうんざりする。猛烈な喫煙肯定派である。
 登場人物が煙草呑みばかりの大沢作品、白川作品を読んでいて、ふと思った。
 エッセイの主張とは違って、浅田作品の登場人物は煙草呑みばかりではない。
 短篇の設定で、「この主人公はタバコを喫わない方が自然」と判断した場合、喫わせないのだろう。ご本人が重度のニコチン中毒であるわりに、浅田作品の登場人物はそれほど煙くない。
 さして気にしていなかったが、他者と比べて気づいた。よいことである。

 しかしそれは浅田作品がすぐれているというより、ニコチン中毒の他の作家が、やたら喫わせすぎでおかしいのだ。
 二日前から読む物がなくなったのでひさしぶりに北方謙三に手を出している。この人もやたら煙い。こまったもんだ。

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 人それぞれ……

 あるかたの[感想]を読んだら、この作品を読んでいるあいだ、ずっとツェッペリンのあの曲がリフレインしていたとか。大感動、大絶賛である。う~む、感想は人それぞれだ。私にはまったく流れてこなかった。
 これを読んで日高の牧場に行きたくなったと書いてある。まあこれはわかる。牧場でタバコのポイ捨てはやらないで欲しい(笑)。
10/29  読書感想文の猛者たち

 せっかくの光通信常時接続なのにほとんど利用していない。自分なりに満足の行く使いかたをしているつもりだが、もっともっとネットというのは便利なのではないかと、満足しているのに焦るという奇妙な感覚を覚える。現在、定期的に訪問するホームページやブログはまったくない。「お気に入り」に登録してあるのは、Amazon、Wikipedia、価格com、新聞社、日本将棋連盟、大相撲記録の玉手箱等、みな調べものをするところだ。これはこれで私流のたどり着いた結論なのだが近頃またさみしく思うようになってきた。

 もったいないので、なにか今までやったことのないあたらしい使いかたをしようと考える。
 珍しく読書量の多かった今夏、Amazonで読了した本の感想を調べ、同じ感覚の人がいるとうれしくなり、まったく違う感想には首をかしげた経験を思い出した。インターネットには読書感想文をメインにしたホームページやブログがたくさんあるはずだ。私と気の合う人もいるかもしれない。そんな人のサイトを捜して「お気に入り」に登録しようと思いついた。

 探した。あった。あまりの充実ぶりに腰が引けた(笑)。
 正直すご過ぎてなんと言ったらいいのか言葉がない。だって「四十代の働き盛りで毎日残業。会社に泊まり込むこともたびたび。妻と二人の子供がいる。(家を買ったらしく)郊外に住んでいる」そんな人が、すさまじい量の読書をし、圧倒的ヴォリュームの感想文を書いている。なにが彼らをそこまで燃えさせるのか(笑)。私にはわからない。
 失礼を承知で言うと、それは感動ではなく、呆れた、だった。本を読んで感想文を書くことってそんなに楽しいのか!?

 私の友人にも「年に百冊読む」を課題とし、それを長年実行している人が何人かいる。ライターだから趣味と実益が一緒になっている。書評も書いている。彼らは大の本好きだ。だけど金にならなくても書評を書くかどうかは疑わしい。いや、読みはするが書かないだろう。書評はあくまでも仕事だ。
 プロとアマの境はともかく、確実に言えることがある。それは彼ら(=ライターの友人たち)は男女を問わず獨身であり、好き勝手な生きかたをしている連中ということだ。子供の教育費に悩む生きかたはしていない。かくいう私もこんなことを真っ昼間から書いていられるのは、いま妻子と離れているからだ。一緒にいたらここまで好き勝手は出来ない。(仲はわるくありませんのでご心配なく。)

 なのに彼ら(=ネット世界の読書感想文の猛者達)は、堅気の仕事を持ち、残業をこなし、妻と子供との時間、いわゆる家族サーヴィスもこなし、それでいてあれだけの量の読書と感想文記入をしているのである。猛者というか超人というか、私には信じがたいことになる。
 私も多量の本を読み書評を書くサイトを運営することは出来る。仕事に燃え、残業をこなし、時には会社に泊まり込むぐらい働くことも出来る。妻子をあいし、家族サーヴィスをすることも出来る。だけどそれらを三つとも同時進行させろといわれたら無理である。

 上記のことにはひとつだけ推測がある。それは「家族サーヴィス」だ。している人が書いていたらすごいと思い、そう書いたが、出来るんだろうか。しているんだろうか。どうにも無理に思える。そこまで会社に尽くしている。通勤時間に読書するとしても、帰宅してからの時間、週末のほとんどは、サイト更新に取られてしまいそうだ。どう考えても、これでいて女房孝行、子煩悩、どっちも満点とは考えがたい。時間的に無理に思える。妻子は、働き者で読書好き、PC好きのお父さんに一目置いてはいるが、互いの時間はバラバラなのではないか。と邪推。
 そういう超人も現実にいるからね。凡人がねたむのはやめよう。

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 とにかくまあ初めて「読書感想文のサイト」というものを渡り歩き、その充実ぶりにおどろいた。
 読了している何十冊かの作品が共通していたので、それらの感想文を選んで読んでみた。浅田次郎、真保裕一、大沢在昌、大崎善生、小川洋子、白川道、志水辰夫、東野圭吾、宮部みゆき、綿矢りさ等。意見が一致するものもあれば、異なるものもあった。それはそれで楽しい。みな知性と情熱のあふれる熱い文章である。すばらしい。

 と書くと、上記の作家がひとつのサイトで共通していたようだけれど、それは違う。たとえばあるサイトは千冊もの感想文(レヴュウと言うんだね、今は)がUPされていて、不勉強な私は名前すら知らない作家も多数いたけれど、一方で浅田次郎や大沢在昌の名は出てこなかった。ふたりとも大のベストセラー作家である。もちろんこれ、意図的に嫌っているのだろう。嫌いでも、あえて近づくことも必要と思うけれど。
 だからあっちのサイトで三冊、こっちのサイトで三冊と、渡り歩いて読んだ。それが楽しかった。「この人はこういう本が好きみたいだから、きっと××なんて読んでないよな」と思いつつ五十音順に並べられた作家の名を調べると、やはり××の名はなく、なんとなくそれでその人のありかたがわかったような気になったりする。
 私の場合だと、たとえば、学生時代は無理して読んだが、いまはぜったいにオオエケンザブローを読まないのがそれになる。

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 格差社会と呼ばれ、貧富の差が開く一方のように言われている。
 この「読書感想文サイトの猛者達」に接して(サイトを読んだだけで直に接してはいないが)、一日二十四時間の使いかたも、のんべんだらりんと一日を過ごしてしまう人、一分一秒もむだにしない人、と格差が開いているように感じた。それほどここにいる人たちはすごい。(あ、もちろん文章の内容はピンキリですけどね。)
 私もがんばらねばならない。そう思えたのが最大の成果か。

 とりあえず定期的に(といっても月に二回程度だろうけど)訪れる予定の「お気に入り」がいくつかできた。すなおにうれしい。

12/6
 「いま、会いにゆきます」──市川拓司

 図書館で借りてきて読んだ。タイトルだけは知っていたが内容は知らない。その分、楽しく読めたとも言える。
 この本に関して最も強い印象は、あの「バンコク留学生」というのと関わったとき、それに対抗した「バンコク遊学生」のブログタイトルが「いま、タイにゆきます」だったこと。そのときも映画になって世間的な話題になっているこれのパロディだとわかった。上手だと思った(笑)。一文字違いだし。それがなかったらこの本を借りることはなかったろう。どういう形であれあらたに作家を知り読了したことはいいことだから感謝せねばならない。

 同時に読んでいる作品が浅田次郎の「中原の虹」と佐々木譲の警察小説だから、その間を縫ってあっという間に読めてしまった(笑)。

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 感想その一。幽霊ものではなくタイムスリップものという落ちはなかなかよかった。感想その二、文章の端々から村上春樹のにほいを感じた。大崎善生作品と同じように。
 村上春樹の偉大さは言うまでもないが、それはこれからフォロワーによってますます高められていくように思う。もちろん彼自身ノーベル賞をもらうべき人だ。まあスウェーデンのダイナマイト屋のノーベル賞もイギリスのビール屋のおまけのギネスブックもフランスのタイヤ屋の美食ガイドのミシュランもどうでもいいものだけれど。それでも村上春樹の文学は最もノーベル文学賞に似合うものだろう。川端や三島って外国語に訳されても味が伝わるのだろうか。(三島はもらってないけど。)

 いちばん気に入ったのは感情の高まりを極力抑えていること。「さあ、泣け」といくらでも出来るテーマだからこそ控えめにした姿勢には納得できる。主人公の男と女も決してかっこよくないのがいい。もちろんヒロインのようなタイプの、美人じゃないけれど、スレンダーな、獨自の魅力があるタイプは理解できる。でも基本としてこれは美男美女の物語ではない。市井の片隅に生きる地味な男女の、わかりあえるふたりだけの切ない物語だ。

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 そこで思ったのが、「さあ、泣け」を強調し、旬の美男美女をそろえてくる映像はつまらないだろうということだった。
 調べてみる。映画で世間的に有名になった作品だがテレビにもなっていると知る。まあするだろうな。いかにも視聴率がとれそうな話だ。中村獅童と竹内結子ができちゃった結婚をし、子供が生まれ、獅童の浮気発覚で別居になったとかを、ふたりには興味がないのに、スポーツ紙を読んでいて知っていた。その交際のきっかけがこの映画だったことを知る。よけいなことを知らないようにしている割りにずいぶんとどうでもいい智識をため込んでいる。生きていると仕方ないのか。

 私のキャスティングでは中村獅童も竹内結子も問題外になる。はしっこいヤクザの似合うような目つきの悪い中村は電車にもクルマにも乗れない大きな缺陥を持ったトロい主人公とは正反対だし、ヒロインも正統派美女の竹内とつながるところはない。これを映像化するなら、主演の男女は公募で無名の人を選ぶべきだ。美男美女でない無名の実力派俳優を使ったならまったく異なった作品が出来上がったろう。

 この物語の味わいは、世間的には目立たないふたりの「ふたりだけがわかるお互いの魅力」にある。日陰でひっそりと生きる名もない植物のような人生である。登場人物も親子三人にノンブル先生、犬のプーと極端に限定しているからこそまとまっている。ふたりの親や友人すら登場しない。友人はいない。親はいるが語らない。見せない。舞台をぎゅっと凝縮したそれがいい。

 映画とテレビのサイトがまだ残っており、映像や写真、キャスティング、あらすじ等、知ることが出来た。原作のままじゃ映像にならないからと、主人公の勤め先等の設定が大幅に変られ、登場しないからこそいいふたりの親等もしっかり顔を出しているようだ。その他おなじみの役者も顔を揃えている。くだらん。つまり小説からお涙ちょうだいになる都合のいいストーリィだけをいただいたわけだ。

 世の中には映画やテレビでこの作品に触れ、気持ちよく涙を流し、原作を読まないまま、わかったと思っている人がいっぱいいるようだ。ネットの感想を読んでそう思った。そりゃあ「高校生時代に知り合い、愛をはぐくんで結婚したふたり。不器用。童貞と処女。妻が幼い子を残して二十九歳で死んでしまう。残されたの亭主と五歳の子供。親子二人の暮らし。汚れた衣服、散らかった部屋。一年後、妻があの世(じつはタイムスリップなわけだが)からもどってきた。六週間後、また去ってゆく。去ったあとにわかる生き帰りの秘密」というストーリィは泣ける。こうしてあらすじを書いているだけで泣ける。
 でもこの作品の魅力はそれではあるまい。いとしい人の死と期間限定復活は主題ではあるが、それ以上に重要なのは、「世間的に地味な二人。男はかなりの缺陥人間。そのふたりだけにわかる愛」だ。それがせつなくていい。断じて主演は誰から見ても美人の竹内ではあるまい。まあ原作と映像が異なるのは毎度のことだ。割り切るべきなのだろう。私は原作の味わいを大切にしたいので映像は見ないことにした。

 こういう場合、原作者の感想はどうなのだろう。自分の書いた作品とは異なってしまったけれど、当代一の美女が演じてくれ、世間的な話題になったからうれしいと思うのだろうか。激怒した例をいくつも知っているけど、この場合はどうだったのだろう。

 インターネットで検索したら、ずらりと並んだ感想はみな映画のものだった。それだけ小説世界より映画世界の方がキャパが大きい。
 Wikipediaの感想として、「作家の作品解説で、文学的評価が高いものでも解説のない赤字になっているのに対し、映像化されたものはストーリィからキャスティングまで異様に詳しく紹介されている」と書いたことがある。今回もそれを感じた。多くの人が映画からこの作品を論じ、原作は読んでいないようだ。世の中そういうものなのか。

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 この作品を読んだことで、近年大ヒットした小説、映画化された話題の作品で読んでないのは「世界の中心で愛を叫ぶ」ぐらいになった。いや、ホラー系は全然読んでないのでもっとあるけれど。
 たまには気まぐれでこんな本を読むのも楽しいと知った。

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 こういう文体の小説を書く人には常に「村上春樹」という名が被さってくる。本人も心酔しているのだろうしそれでいいのかもしれないが、もし「脱」を志したなら、その道は険しい。テクニックではなく「村上春樹流書きかた」が骨の髄までしみこんでいるからだ。ボクサーが練習で身につけた反射神経のように。

 「ああいえば、こういうだろう」「こうなったら、ああなるだろう」という村上春樹流手法は、村上春樹好き読者にもお約束ノリツッコミのように染み渡っている。出来上がっている。この本を気分良く読めるのは、その「村上流ノリツッコミ」が予想通り願い通りに展開されるからだ。しかしそういう形の賞賛が続いたらならさすがに作者も反発するのではないか。「おれは村上春樹のコピーじゃない」と。
 そこからの脱却はむずかしい。読者は若い頃の諧謔風味の村上春樹を読めるようで楽しいけれど。


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 死ぬ話は嫌いだ──12/17

 村上春樹流の文体、小説と映画のちがいのことばかり書いてしまったが、私は基本的にこんなかなしい話は嫌いである。いやかなしい話が嫌いなのではない。人の死で悲しくする話が嫌いなのだ。特に動物と子供の死はぜったいに受けつけない。難病ものもだめ。
 この作品も二十九歳の妻の死だから好きな話ではない。

 よみがえりは好きだ。死がマイナスワンであるのに対し、よみがえりはプラスワンだから。いや元々はいたんだからプラマイゼロか?
 よみがえりものの中でも浅田次郎の「うらぼんえ」のような年寄りものが最高である。

 と書き出すときりがなくなるのでやめる。とにかく人の死で泣けという作品は嫌いだ。

 ただし人の死、難病ものとはいえ「博士の愛した数式」のような難病と死は問題ない。死も天寿だし。
「世界の中心で」は私の嫌いな難病モノらしいので近づいていない。白血病とか。
 この「いま、会いにいきます」もこんな内容と知っていたら読まなかった。だけどこのタイトルから内容を読みとるのはむずかしい。全然知らなかったので、タイトルから希望的なハッピーエンドの恋愛小説かと思っていた。まあ読んだことに後悔はないが、かなしい話は嫌いだ。



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