04/4/12  「ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法A」──福田和也

 同名タイトルの第二弾である。当然のごとく序文には「前回のものが予想外に評判がよかったので」と自信満々の宣言がある。こういう私的なこと(いわば自分自慢)を書いたものが評判がよく第二弾を出すのは熱心な固定ファンがいるということであり、そこに向けたものであるから内容は強気なより私的なものになる。それは著者とファンとの気持ちよい接触だ。それを熱心なファンでもないのにそのふりをして覗き見するのは(といってもこれは本屋で誰でも出来る覗きであるが)ちょっとうしろめたくわくわくする。
「読者諸兄があこがれるこれほどの作業をいかにして私がこなしているか、その秘密の一端をお見せしよう」なんて感じで始まる。福田和也に心酔している人にはたまらない展開だが、惚れ込んでいない人が、あのふくれっ面の子豚みたいな顔を思い出しつつ読むと、その自信満々がおかしい。
「ひと月に百冊読むといってもたいしたことはない、評論家の誰それさんなんかもっと読んでいるだろう、また三百枚書くといっても、赤川次郎さんや北方謙三さんはもっと書いているだろうから、これまたたいしたことはない」と書き、「だが私のように毎晩飲み歩いているのにこれだけ読み、書いている人はいないだろう」と自慢につなげてゆく。
 デジカメの便利さを語り、メイカ名、機種名を列記して使用歴を書く。結びは「どれにも満足できない。早く私の満足できる機種を開発してほしいものだ」になる。
 ついでパソコン。ノートしか使ったことがないそうだ。それは移動書斎としての価値であり、ノートを利用しているからこそこれほどの仕事がこなせるのだと語る。40Gbハードディスクに入れている辞書を開陳する。小学館、平凡社の百科事典、マイクロソフトのエンカルタ。
 エンカルタは他ふたつの百科事典と比べて薄味なので一度削除したがまた入れたという。その理由は、文章はすくなくて役に立たないのだが以外に価値のある写真が多いからだとか。エンカルタに対する辛口コメントがないのが残念だった。というのは、マイクロソフトの百科事典エンカルタは、思想的にかなり偏向しているのである。もしも福田和也がそれなりに利用していたなら彼の思想的基盤とは相容れないから、また彼の攻撃的性格とも重なって、ボロクソに言っていなければおかしい。ということは、ほとんど使ったことがないのだろう。

 そのあとちょっと得意げに愛用している「ワード」の話が出てきたので見切りをつけた。ぼくがこの本を読んだのは福田和也の電脳書斎術のレヴェルを知るためだった。それはデジカメからパソコンに至るまで、彼よりもその種の機械に詳しくなく、彼に心酔している人にとっては、それこそ指針として座右の書になるぐらい価値のあるものだろうが(ぼくがパソコンに詳しくなかったらそっくりそのまま真似したかもしれない)、そうではない人にとっては、この「ワード」が出てきた時点で(おそらくIMEもMSのままだ)しらけてしまうのである。二流のパソコン使いの知ったかぶりになる。まあそこに至る流れでその程度であることは読めていたが。

 その中にFOMAの部分があった。常にノートに通信カードを差し込み、これでネット接続しているそうな。「いまの時代ではこれがいちばん便利だ」と述べ、「缺点は通信代が高いことだ」と、その高さを「時にはぼくのようなものでもギョっとするほどの金額になることがある」と書いている。この場合の「ぼくのようなものでも」の「ぼく」とはなんだろう。もちろん「こういうことが仕事の一環であり通信費を経費としているぼくのようなもの」の意だろうが、「思わずぼくのような有名人のお金持ちでも」と取りそうになった。信者用の本を覗き見するとこんな勘違いをしたりするからよくない。

 ぼくは政治思想的に福田和也が好きである。彼のその種の文章、本は頷きつつ読める。一方、彼の文芸評論にはまったく賛同できない。あの「作家の値打ち」など腹が立って読めないほどだった。浅田さんを「地下鉄に乗って」でもう終っていると言われたときは不快でならなかった。船戸与一もひどかった。もっとも船戸はそれがきっかけとなって直木賞を受賞することになったが(笑)。政治思想と文芸を両極とするなら、この本は真ん中のどうでもいいものになる。だって彼の自慢話みたいなものだから。
 これはこれで商売としての戦術だから野暮ないちゃもんはつけないけれど、結局月に何冊読もうと何百枚書こうとどうでもいいことだわね。それは数で語ることじゃない。それで出てきたものがくだらなかったら、何冊読もうと何枚書こうと無意味だと知らせるだけだ。
 それと、こういうことに関しても顔は大きいと思う。福田和也もあの顔がすべてではないのか。
4/28
 パソコン雑誌の価値──またも云南に思いを馳せつつ
 以前のようにパソコン雑誌をすべて買うのは止め、自分の興味のある特集掲載号を吟味して買っている。よって買ったものはみな「永久保存版」と言えるぐらい濃い内容だ。大事にしている。
 先月の「PC JAPAN」と「PC FAN」のハードディスク特集はともによく出来ていた。その前号の「PC JAPAN」のWINDOWS不具合特集もすばらしい内容だった。ぼくは「WINDOWSトラブル解消法」のようなタイトルの2000円前後する単行本を買ってはズラリと本棚に並べているのだが、こういうのはあっという間に古くなりほとんど役に立たない。中身もモノクロである。その点雑誌は最新の情報だし、こういう巻頭特集は大判のカラーグラビアでもあるからいちばん力になってくれる。なにより読んでいて楽しい。

 ということで思い出話。
 チェンマイのHさんがやっているパソコン喫茶に行ったとき、「Internet」という日本のパソコン雑誌が本棚に並んでいた。2年分ぐらいか。大切そうに保存されているそれが、当時パソコン雑誌を全種類と言えるぐらい買い、当然そんなものを大切にしているわけには行かないから、ほとんど読み捨て状態だったぼくには、とても貧乏くさく見えたのだった。知識も情報も日進月歩であり、一年前のパソコン雑誌を保存しておいてもなんの役にも立つまいと。実際部品の値段やスペック等は回顧する以外にはなんの意味もない。(回顧も楽しいが)。

 しかし今はわかる。それは日本から友人に航空便で送ってもらったものだった。チェンマイでは売っていない。日本書店で航空便で届いた月遅れのものが倍以上の値段で置いてあるのをよく見かけた。貴重品なのである。日本に住んでいる旅人であるぼくにはその価値がわからなかった。いや帰国するとき持参したそれらをよくパソコン好きにあげては喜ばれたから自分なりに新しい雑誌の価値はわかっているつもりではあったが。

 で今度は想像話。云南に住むようになったら同じような形で好きな雑誌を入手する。友人に頼んで航空便で送ってもらう。その遠さと時間はチェンマイの比ではない。片道一ヶ月だ。それこそ到着日を待ちわび、バックナンバーも本棚に鄭重に並べ、毎日埃を払い、すり切れるまで(いやすり切れないように大切に扱って)読むだろう。いまHさんの店で大切にされている古い雑誌を見てもぼくの感想は以前とはまったく違うことになる。変るものである。

 先日「PC JAPAN」のホームページに初めて行った。二ヶ月遅れぐらいでその充実した内容の特集をネットにも掲載しているようだ。遅れはするものの写真も豊富で雑誌特集と遜色ない。とすると、ディスプレイで見るだけではあきたらないから、これをカラープリントして、雑誌気分で読むという手もある。普通紙じゃ気分が出ないから光沢紙を使うことになる。かの地でそういうことをしている自分を想像したらため息が出た。まったく具体的プランのない単なる妄想に近いものでしかないのだが。
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