2009──山崎朋子まとめ読み・総論
6/30    山崎朋子作品に関する感想──総論


 というわけで、2009年3月10日に、デヴィ夫人のブログを読むことから始まった私の「山崎朋子体験」は、そこで書かれていることが掲載されている岩波の雑誌「世界」3冊を読み、2001年発刊の山崎朋子自伝「サンダカンまで──わたしの生きた道」を読み、一気にそこから1972年発刊の代表作「サンダカン八番娼館」に飛び、そこから1974年発刊の「サンダカンの墓」、続いて「サンダカン八番娼館」「サンダカンの墓」と並んで本人が三部作という1978年発刊の「あめゆきさんの歌」と溯った。
 そのあと随筆集1997年発刊の「わたしがわたしになるために」、1992年発刊「生きて生きて」を読み、最後に対談集1985年発刊「アジアの女 アジアの声」を読んで一段落した。

 その間、長文の感想文を書きつつ進んだので、いやはやこの三ヵ月間、なかなかにたいへんだった(笑)。我ながらようやると思う。でも乗り掛かった船だからこれぐらいはやらないと他者に意見は言えない。山崎朋子サンという基本的なことも調べず感情だけで書いてしまうノンフィクションライターのやり方を批判するのだから、こちらはそうならないよう気をつけねばならない。

 どれぐらい書いたのだろうとホームページに書いた文章を原稿用紙換算枚数の出るテキストエディターに写して調べたら、いまこの時点で470枚。最終的に500枚を超えそうだ。山崎朋子の本の感想文をここまで書いたバカもそうはいないだろうから、ご本人に送って読んでもらうか(笑)。



  なんといっても楽だったのは「山崎朋子さんは、この30数年でなにひとつ変っていない」ことだった。俗に「作家のすべてはデビュー作にある」と言うが、世に出るきっかけとなった「サンダカン八番娼館」から現在まで、山崎サンは、最初に結論をおき、都合の悪いことは無視して強引にそこに結びつけて行く文章の手法、逆上してヒステリックに叫く性格、「それは兎に角として」という筆癖まで、37年間なにひとつ変っていなかった。これはこの37年間を一気に読んで意見を言うこちらとしては助かる。

 ひとは変る。37年前、学生運動家のサヨクだったのに今は保守論壇の中心になっているひともいる。その気持ちがわかる。若いとき、純粋な心が反体制からサヨク思想に走るのは自然だ。だからこそ若者と言える。世界中どこにでも共通する感覚である。あの中国でさえそうだ。反体制の叫びは学生から起きる。

 そのサヨク思想に、一所懸命学び生きてくると疑問を感じるようになる。そしてひとは成長して行く。しかし中には成長の止まったまま、追い詰められたサヨク思想に拘泥するあまり、依怙地になり捩れ凝縮して醜悪な木の根っ子みたいに固まってしまうひともいる。山崎サンは、典型的なそういうひとである。
 だけどそれはこういう気の毒な人生を歩んできたならしかたないだろう。私は山崎朋子というノンフィクションライターのライターとしての手法には憤懣を、能力には疑問を感じるが、ひとりの女の人生として見た場合、とてもとても彼女を責める気にはなれない。気の毒でしょうがない。なんともいたましい人生である。

 「変るのは変れたから。変れる能力があったから」とも言える。前述の現保守系思想家等は、サヨク学生から、自分の缺陥を反省し、現状を冷静に分析して、あらたな地平に踏みだす能力があったのだ。それまでの自分の生きてきた道を否定できず、全肯定して自分を護ろうとしたなら、変ることすら出来ないのである。その意味でも山崎サンは、山崎サンの表現を借りるなら、「思うだけで胸の痛くなる」存在である。

 自分を批判されて悔しかったデヴィ夫人は山崎サンに対する蔑称として「田舎者作家」としたが、本当は「お気の毒なかた」とでも書きたかったのではないか。デヴィ夫人の反論は自分に関するものだけを読んでのことのようだからそこに留まっているが、彼女も山崎サンの自伝を読んだなら、必ずそう思ったはずである。自分と同じように運命に人生を振りまわされた気の毒なかた、と。

 「総論」といっても今までに思うことはすべて書いてきたのであらためてまとめるほどのことはない。ただひとつ「なぜ山崎サンはあんなに売春婦を徹底的に嫌うのか!?」について考えてみたい。





 自伝「サンダカンまで──わたしの生きた道」には、謎がふたつある。

 ひとつは「娘・美々さんについて、小学校三年生以降の記述がない」ことである。その理由についてはここまでの文章で私の推測を書いた。まず当たっているだろう。不仲なのである。家庭を顧みず、炊事洗濯を亭主にさせて自分は外を歩いている母親に娘は反感を抱いたと思われる。両親が揃っているのに1歳3カ月から保育園暮らしなのだ。美々さんの屈折も深いように思う。

 それにしても、今までに何度も書いてきたが、自伝という大部の本の中で、そのことに触れずに進行させ終了させてしまう力業(笑)は正気とは思えない。なんともすごいひとである。週刊朝日の担当編輯者は、「娘さんにことにすこし触れてください」とは言えなかったのだろうか。不思議でしょうがない。

 その前に出た随筆に「娘も30になりニューヨークにいる」とあり、日本にいないことがわかる。しかし娘の仕事にも未婚既婚にも触れていない。自分との交流も書いていない。謎のままである。
 さらにそれから20年経って書いた自伝で、小学校三年生以降触れていないのだ。もう娘も50になるはずである。ひとことも触れていない。不可解としか言いようがない。こんな不自然なことをするひとにノンフィクションライターの資格はあるのだろうか。



 もうひとつの謎は、「実母のことに触れていない」である。こどものころから母親に、妹と差別待遇されてきた。姉妹とは思えないほど性格も容姿もちがっていると自分で書いている。そりゃそうだ、実の姉妹ではないのだから。
 こどものときから思ってきたそれは、やがて今わの際の母親の「他人にはなにもやらん」や、こどものいなかった母方の叔父が遺言により8人の甥姪に遺産を分け与えたのに、唯一山崎サンにだけはなにもくれなかったことで証明される。

 母親や叔父が亡くなったのは、詳しい年度は判らないが山崎サンが40代の時ぐらいか。
 自伝「サンダカンまで」で、母親はどうやら生みの母ではなかったらしいと、70歳まで隠してきた重大な秘密を明かすときに証左としてそれらのことを書いたが、私は、現実には山崎サンはもっともっと若いとき、十代のときにそれは知っていたと思う。当然だろう。

 こどもは、なぜ年子の妹と自分はあんなに待遇が違うのだろう、姉妹なのになぜ全然似ていないのだろうと疑問に思う。それを周囲のおとなに問う。まして思春期にでもなればかなり執拗に問うたはずである。父方では、自分達の血を引く山崎サンが血のつながっていない母親にいじめられているのは気分の良いことではない。おそらく父方の伯父叔母祖父母のようなひとによって、「おまえはあの女の本当の娘ではない」と、山崎サンはだいぶ早い時期に報されていたろう。

 それを知れば当然「じゃあほんとうのお母さんは誰? どこにいるの?」になる。山崎サンは産みの母を捜して会いに行ったのか、会えたのか、母は生きていたのか。それらは山崎サンが隠蔽しているのだから知りようがない。でもあの抜群のフィールドワークを誇る気鋭のノンフィクションライター山崎朋子サンが、たかが自分の産みの母親を捜しあてられないはずがない。調べるべき箇所は長崎広島に限られる。父は潜水艦の艦長をしていたのだから交友範囲もわかる。簡単に捜しあてたろう。なのにそのことを一切書かない。なぜか。



 ひとつの推理は出来る。高級軍人だった父(とはいえエリートではない。百姓の息子が海軍を志し、優秀なので出世した)が誰かに生ませた子なのだ。もしもその相手が、親に反対されて結婚できなかった父親の初恋の人、のような経緯なら、ノンフィクションライター山崎朋子サンがそれを書かないはずはない。誇り高く自分の出生の秘密として書くだろう。

 小学校三年生以降一切触れられない、まるでこの世に存在していないかのようになってしまったひとり娘と同じく、自分は母親の実子ではなかったようだとその証拠まで挙げておきながら、実母に関してはひとことも言及していないのは不自然窮まりない。
 なぜか!? それは言及してはまずい女だったからだろう。ここでも山崎サンの「都合の悪いことはしらんふりをする力業」が発揮されている。
 山崎サンは妹と差別待遇をした育ての母が大嫌いだ。もしも実母がその育ての母よりも格上だったなら書かないはずがない。同時にそれは、格下だったら絶対書かない、にも通じる。

 なにが都合が悪かったのか。それは実母が売春婦だったからだ。性を異様に否定する感覚から「不感症なのではないか」、外国語が身につかないので「音痴なのではないか」に続く、私の山崎サンへのみっつめの推測である。

 もしも実母が小粋な藝者のような存在であったなら、山崎サンのことだ、母はなんとか小町と呼ばれた美人だったそうだとか、当時の写真を見るとわたしとそっくりだとか、三味線と小唄がたいそう達者で、潜水艦長だった父と燃える恋に落ちた、とかいくらでも書くだろう。なのになにひとつ書かない。自分を生んでくれた実母なのになにひとつ形跡を追っていないのである。いや、追ったのだ。追わないはずがない。追って実像を知ったから書けないのだ。学歴や階級社会の上下にこだわる山崎サンにとって、産みの母は育ての母と比べて何一つ勝てるところのない女だったのだろう。育ての母は戦争未亡人になった後、お茶や活花を教えて生計を立て、それで娘二人を大学にやるほど藝事に通じていた。大嫌いな育ての母になにひとつ勝てるところのない生みの母。それを知った時点で山崎サンは実母を人生から消したのだろう。

 それは「底辺女性史研究家」であるが、決して自分は底辺女性ではないとする山崎朋子サンにとって、絶対に触れてはならないタブーになる。不可侵領域なのだ。

 このひとの「底辺女性研究」とかで飯を食っていながら、その「底辺女性」とやらに親愛の情のカケラもない書きかたは、その出自のコンプレックスから来ているのだろう。

 あらためて、「底辺女性」とは、「底辺女性研究」とは、「底辺女性史」とは、山崎朋子による山崎朋子研究であり、山崎朋子の人生そのものなのだと確認できる。それが私の「山崎朋子まとめ読み」の結論である。




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 大宅賞受賞の時期──「〝南京大虐殺〟のまぼろし」と同時

 大宅壮一ノンフィクション賞に興味がないので知らなかった。調べてみると設置が1970年である。大宅さんの年齢や経歴を考慮すれば当然なのだが、意外に若い賞だった。もちろんもうすぐ第40回を迎える今では歴史ある賞になっている。
 第1回の受賞作「極限の中の人間」は未読だが、そのあとの第2回「日本人とユダヤ人」、第3回桐島洋子の「淋しいアメリカ人」、第4回が山崎サンの「サンダカン八番娼館」と鈴木明さんの「〝南京大虐殺〟のまぼろし」とみな読んでいる。「日本人とユダヤ人」「〝南京大虐殺〟のまぼろし」は今も愛蔵している大切な本だし、その後の受賞作もかなり読んでいると知った。ノンフィクションに興味のない私にしてはかなりのものである。

 とはいえ1997年の知人である野村進さん以降は読んでない。これも野村さんが受賞したから読んだだけだ。けっして自慢できる状況ではない。「サンダカン」が「〝南京大虐殺〟のまぼろし」と同時受賞と知ったのは新鮮な発見だった。調べて見るものである。

 「〝南京大虐殺〟のまぼろし」は、中国が保証金目当てに白髪三千丈感覚で主張した、いわゆる「南京大虐殺」がいかにうそっぱちであるかを証明した価値ある一冊である。同時にあの「百人斬り」が捏造記事であることを指摘し批判している。私がたいせつにもっているのは上掲写真の増補された「新」の方だ。
 山崎サンが日本は悪いことをした悪いことをしたと書きまくる「サンダカンの墓」以前に、すでに鈴木明さんはこんな本を書かれていたのだ。頭が下がる。



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 編輯者とはなんなのか!?

 最後にいつもの素朴な疑問として。
 編輯者とはなんだろう。私は文藝誌の編輯者という存在に長年畏敬の念を抱いてきた。たとえば編輯者時代の村松友視さん(中央公論社で「海」等を担当)は、自分の親のような年の大家の原稿にばんばん赤を挿れ、不要と判断した部分はバッサバッサと切っていたという。すごい話だ。その大家も村松さんにそれをやられても文句を言わないのである。村松さんも言わせないのだ。そのことによって文章はよくなっている(らしい)。そこにある信頼関係。あるいはまた担当編輯者でなければ読めないとんでもない悪筆等、その編輯者なくしては掲載すらままならない事情がある。
 そういうエピソードを読んできたから、私は、作家と担当編輯者は二人三脚、ある意味、優れた編輯者は作家以上の存在、と思いこんでいた。

 作家には物語を作る能力がある。編輯者にそれはない。だが作家が一般常識が缺落しているのに対し、編輯者はそっち方面はオールマイティである。その智識で上手にリードする。才能に溢れた暴走ダンプカーのような作家を、広汎な地域情報を持つ編輯者がナヴィゲートすることによってベストセラー連発が実現すると理解していた。ベストセラー作家の蔭に常に名編輯者在り、である。



 しかし昨今、浅田次郎さんに代表される売れっ子作家が、高校生でも気づくような有り触れた成語をあきらかに誤用したり、あるいはストーリィに矛盾が生じているのに、それが小説雑誌までならともかく、単行本にもなっているのを見ると、担当編輯者はなにをしているのだ、と気になる。それを指摘して直すのが編輯者の仕事だろう、作家に恥を掻かせてもうしわけないと思わないのか、と腹立っていた。
 ここの時点での私の怒りは、「このごろの編輯者は!」というものである。
 
 だが今回、昭和40年代からの、山崎朋子サンのあまりにお粗末な内容の作品を読んで、当時から編輯者ってのはいいかげんなのだと知った。出版社は文春である。一流出版社でこのざまなのだ。こうなってくると村松さんの話を信じていたそのことのほうが間違いなのかと思えてくる。あれは単なる村松さんのホラか?

 真に山崎サンのことを思う編輯者だったなら、山崎サンのあまりに偏った論のすすめ方に意見を言うだろうし、偏った論どころか不勉強による無智や誤りを晒している失笑ものの箇所には、資料を揃えて研究を迫ったろう。私ならそうするし、そもそも担当編輯者とは作家を支えるそういう関係だと思っていた。

 ここにおいて必要なのはオールマイティな広汎な智識ではない。なかなかそこまでのスーパーマンもいない。まして50代の作家と30代の編輯者のような関係だったら意見も言いづらい。大切なのは冷静に俯瞰してみる姿勢だ。作家に恥を掻かせまいという心づかいだ。その視点さえあれば、下調べの缺落している部分に気づき、資料を探し、こちらからの視点も必要なのではないかと進言するぐらいは出来るだろう。

 だがしていない。なにもしていない。そうして時が過ぎれば、山崎朋子というノンフィクションライターが、無智のまま調べ物もせず、ヒステリックに叫びまくり感情でだけ書いたお粗末な作品群が無惨な屍を晒している。担当編輯者は、それを自分の恥だとは感じないのだろうか。

 どうやら編輯者には、担当作家と一蓮托生のような思いはないようだ。たしかにまちがいだらけのお粗末な作品が後世で笑われても、そこに担当編輯者の名前はないから恥の共有はない。たまに後書きで記されているのは皮肉だが。



 しかし、二度目のしかしを書いてしまうが、浅田次郎さんは、自分の担当編輯者がいかに自分のために尽力してくれるか、苦楽を一緒にして作品を仕上げているか、というようなことを随筆でしばしば書いている。れいの「直木賞受賞第一作」の帯を編集者達が手作業で徹夜でつける話など感動的だ。それを信じるなら、今も昔も作家が担当編輯者と二人三脚で本を作っているのは事実と言える。もっともこの「徹夜手作業の腰巻つけ」は、自分のところの本を売りたいための行為であるから、すこし話は違うのか。

 ならなぜ浅田さんの明らかな熟語誤用等に意見を言わないのか。それが自社に大金をもたらしてくれる金の卵を産む鶏であり、大家であり、意見を言うなど畏れおおかったとしても、それでも意を決して言うのが担当編輯者の心意気、いや本来の務めなのではないか。

 ここから推論すると、私の思う「作家は物語を紡ぐ才能。しかし一般常識には缺けている。それを補うのが、物語を紡ぐ能力はないが広域な雑多智識においては作家以上のものをもつ編輯者。その二人三脚が最強のコンビ」という解釈そのものが誤りであり、編輯者には広域な智識などなく、作家の成語誤用にも気づかず、目的は本が売れて会社が儲かること(自分の給料も上がる)のみ、と解釈すべきなのかと思えてくる。こう解釈すると疑問は解ける。不満は残らない。



 しかし、三度目のしかしになってしまったが、読者の存在がある。ファンの多い浅田さんが小説雑誌に書いた短篇で明らかな誤用をしていたなら、必ず読者がそれを指摘するはずである。世の中には、小説を書く才能はないが、そういうことに関しては博識であり、そういう指摘が大好きな読者も数多い。
 その読者の指摘を作家に伝えれば、単行本になるときは直るはずなのである。なのに直っていない。とすると、編輯者は読者からの手紙ハガキなど読まないのか。読んでも作家が気を悪くするかも知れないと伝えないのか。

 考えれば考えるほど編輯者というものがわからなくなる。
 むかしはいたのか、私の考えるような本物の優れた編輯者が。それがそもそも幻想なのか。

 たしかなのは、二人三脚で支えてくれる編輯者に恵まれず、誤ったことを書きちらして後世まで恥を晒す作家が今も多々いることだ。


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 ターザン山本さんのトッピング

 インターネットで長年日記を公開している元週刊プロレス編集長のターザン山本さんには、勘違いして使用していることばがいくつかある。
 たとえばトッピングを、どこでどう間違えたのか「追加注文」のような意味だと思っているらしい。だから「ラーメンを注文した後、トッピングで餃子も頼んだ」のような噴飯ものの表記が、なにしろ毎日缺かさず長年連載している日記だから、合計するとかなりの数になる。なんとも読んでいてつらい。念のために書くが、これはラーメンの上にトッピングで餃子を載せてもらったのではない。別注文したことをそんなふうに書くのだ。

 ところがこの日記を公開している会社(山本さんのそれはいわゆる無料個人ブログではなく、その会社の運営するコンテンツとしてあり、ギャラも支払われていると思われる)には担当者もいるだろうに、何年経っても誰も注意しない。それ以前に山本さんには老若男女多様な取り巻きがいるのだが、彼らも誰も進言しない。

 毎回その種の間違いを指摘するのは2ちゃんねるの山本さんをウォッチングしているスレの連中だけだ。愛情というなら彼らがいちばん親身に山本さんの文を読んでいる。だが当然2ちゃんねるであるから山本さんには届かない。よってまちがいは延々と繰り返される。それ以外にも、入力してやる係(山本さんの手書き原稿を担当者が入力する形)が直してやればいいのにと思われる簡単な間違いも多い。

 もうひとつ山本さんの勘違いで有名なのに「びた一文」がある。金銭的な表現に使うびた一文を、なぜか山本さんは勘違いしているらしく、「もう断固として、びた一文動かない」と使ったりする。「ぜんぜん」とか「まったく」「ぜったい」の意味と思い込んでいるようだ。言うまでもなくびた一文は、「びた一文払わない」のように、鐚銭から来た限定された形容である。

 その他、「おみおつけ」を漬物のことだと思っている。「附け」を「漬け」と思い込んでいるようだ。山本さんの勘違いは多いのだが、それらを周囲の誰にも指摘してもらえず、日々晒し続けて行く現状は、あまりに無惨だ。



 山本さんのネット日記が後世まで残ることはないだろうし、浅田さんの作品と並列して記すことは例題としてあまりに差があると思われるかも知れないが問題の本質は同じである。
 高名な作家が立派な単行本で山本さんの「トッピング」と同じような簡単な間違いをしているのに(それは思い込み勘違いだから誰にでもある)編輯者を始め誰も指摘してやらないのだ。こうなってくると、高名な作家の担当編輯者から山本さんの取り巻きまで、じつはみんな意地悪で、他人が誤用で恥を掻いているのを見てほくそ笑んでいるのかとすら思えてくる。

 なぜ編輯者は作家の誤用を指摘してやらないのだ。なぜ山本さんの取り巻きは山本さんの勘違いに進言しないのだ。
 だれもが底意地の悪いひとに見えてくる。他人のことなど知ったこっちゃないのか。なんとも暗い気分になる。こんなことを書いている私がただの出しゃばりなのだろうか。

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 首相の言った慚愧


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 船戸与一に大薮春彦がアドヴァイス

 船戸の「血と夢」のあとがきには、銃器に関する記述で大薮春彦がアドヴァイスしてくれたことに対する感謝が綴られている。

 あっさりとそう書かれているだけだが、正確には、雑誌に掲載された船戸作品を読んだ大薮が、銃器に関する記述の「間違いを指摘した」のである。そのときふたりのあいだに交遊はなかったようだ。いわば大薮の出しゃばりである。ほっておけば船戸が恥を掻くだけで大薮には関係はない。むしろ同系統の先輩作家である大薮にとって、これからライヴァルになりそうな商売敵をつぶすのだから黙っている方がいい。まして面識もない。作家は我が強いから間違いを指摘してやったのに、船戸は恥を掻かされたと逆恨みするかも知れない。とにかく大薮には一文の得にもならない。

 でも大薮は出しゃばった。編輯者を通して船戸に注意した。そのことによって船戸は誤りを修正し、単行本では正しい記述となった。謝意を表している。
 いい話だと思う。こんな話をもっと知りたい。


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 どうやら編輯者の問題らしい……

 『正論』(09年8月号)の「編集者へ編集者から」という巻末のコーナーを読んでいたら、《『正論』に掲載された福田和也の文章に誤りがあったので編集者に指摘の手紙を出した。だが今回単行本になったのを読んだら、その誤りは訂正されていなかった。編集者はいったい何を考えているのか。自分の仕事に誇りをもっているのか》という投書があった。

 やはり思った通り、作家の間違いには物知りの読者からの指摘があるようだ。
 さてここでどう解釈すべきだろう。

1.編集者は読者からの指摘を福田に伝えなかった。
2.伝えられたが福田が応じなかった。

 ここでその誤謬がどのようなものであったかも重要だ。もしもそれが思想的なもの、あるいは歴史解釈であったなら、編輯者が読者の指摘を伝えても福田は応じないだろう。だが単なる時空の勘違いのようなものだったら応じると思われる。事実はどうなのだろう。知りたい物だ。

 私の推測は、スタッフを使って駄作乱発をしている福田はそんなこといちいち気にしていない、になる。これが正解のはずである。だがこれではまだ「編輯者が伝えたか否か?」の答はわからない。どうなのだろう。



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