2009──山崎朋子まとめ読み・5
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 「生きて生きて」

 海竜社から1992年に出た5冊目の短文寄せ集め。
 「サンダカンまで」を読んでいて疑問に思ったいくつかが解決され価値ある一冊となった。偏ったサヨク思想全開に変りはないが(笑)。


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 その1消息不明の娘のこと

 自伝「サンダカンまで」で「小学校三年生以降一切触れられていない消息不明の謎の娘」について、この本のある一篇に「娘もいまは三十になり、ニューヨーク在住」と書かれている。逆算すると山崎サンが58ぐらいのときに書かれた文になる。

 この一篇の話の中心は目黒の柿の木坂について。
 いつしかここに住んで28年になる、街も変った、お隣の幼かったこどももいまは二児の父、あのころよちよちあるきだったわたしの娘も30になりニューヨークにいる、とある。あいかわらず山崎サンと娘の関係については不鮮明なまま。

 小学校三年以来初めて娘の美々(みみ)さんの近況を知り安心した。でも書いてあるのはそれだけ。何をしているかも既婚か未婚かも母である自分と仲がよいか不仲かもまったく触れず。相変わらず不自然である。

 山崎朋子サンの文章を読んでいつも思うのは、こういう誰が読んでも不自然に思う箇所がいくつもあるのに、それをフォローしようという姿勢がかけらもないことだ。不思議でならない。よくもわるくも鈍感なひとなのだろう。あるいは知っていて無視するほどふてぶてしいのか。

 私は、「そのことに感応できない精神病」だと解釈している。山崎サンは、こどものときからとんでもなく苦労してきた。心は屈折している。傷だらけだ。いつしかそういう自分を護るために、「自分にとって不都合な部分は目に入らない体質」が出来上がったのだと思う。だから不自然な箇所に気づかないのではなく、彼女にはもともとそんなものはないのだ。見えないようになっているのである。見えていないのだからフォローするはずもない。
 


 そういえばこの本の一篇に、タイのチェンマイのホテルで、「高校時代の同級生に偶然出会い、大声で話し掛けると、あちらも大声で応じてくる。互いに大声でやりあっていたら、後ろから友人が『山崎さん、誰と話しているの、そのひとは中国人よ』と言ってきた」というすさまじい話がある。
 日本人おばさんの山崎サンが見知らぬ中国人おばさんを高校の同級生と間違えて話し掛け、相手は何が起きたのだろうと中国語で応答し、おたがいに叫きあう。山崎サンはそれに気づかず延々と日本語で中国人のおばさんに昔話をしゃべり、「久闊を叙していた(山崎サンの表現)」のである。寒気のするような光景だ。

さすがのわたしも、ちょっと恥ずかしい思いをしました」「我ながらオッチョコチョイだとは認めますけど」と書いたあと、オッチョコチョイだからこそその中国人おばさんと、それから親しくなって楽しい話をしたとの自慢になる。

 これは山崎サンの病んだ性格をよく表しているエピソードだ。自分がそう思い込んだら一直線、相手の言うことなど聞いていない。相手など見ていないから何語で話しているかすら気づかない。ひたすら突きすすむ。突きすすむ自分に酔っている。だから相手の言語にすら気づかず叫き続けられたのである。

 政治的なこと、経済問題、それらを「わたしはむつかしいことは判らない」と平然と言ってのけた後、むつかしいことを判っているひとでも言えないほど言いたい放題をする偏向した姿勢が、見事にこのエピソードに集約されている。

 そういうオッチョコチョイの性格は他愛ないものだからどうでもいいが、こんなオッチョコチョイが偏向した思想で思いいれたっぷりに書くノンフィクションは怖い(笑)。オッチョコチョイはシリアスなノンフィクションなど書いてはならない。それがこのひとの最大の問題になる。



 その2.柿の木坂のこと
 
 その長年住んでいる柿の木坂についての随筆がいくつかあり、その辺の事情が理解できてすっきりした。
 結婚してすぐ、柿の木坂にあった古い大きな家を借りて、そこで山崎サン夫婦は「学生向け賄いつき下宿屋」を始めたのだとか。それを夫婦の収入とした。亭主は児童文学の文章を書いていたが収入は微々たるもの。こっちの収入が主だったようだ。水道のない古い屋敷だったというから──まかないは井戸水なのか?──たいへんだったことだろう。

 私は18から24まで武蔵小山(住所は目黒本町)に住んでおり、柿の木坂はアパートから自転車で10分程度の近場だった。山崎サンが下宿屋をやっていたのはこの時期である。私は慶應大学の日吉校舎──東横線日吉駅──に通っていたから、そこに一本で行ける東横線の都立大学駅、学芸大学駅にちかい山崎サンのところに下宿していた可能性もあったことになる。当時その近辺に住んでいた友人も多い。でもきっと山崎サンの下宿にいた学生は、民青の巣窟だった都立大の学生だったろう。サヨクの下宿経営者だから住むのもサヨクだった気がする。

 山崎朋子サンの「サンダカン物語」は意外に身近だったのだと知る。自分とは遠く離れた場所で書かれた物語だと思っていた。あの時代、すぐ近くで書かれていたのだとすこしばかり感動した。長崎天草のおサキさんのところに、山崎サンは、当時私の住んでいた場所に近い柿の木坂から出発していたのである。

 その「下借家経営時代」の話をもっと読みたいのだが、山崎サンにとっては思い出したくない時代らしく、その他には触れたものがない。自伝の「サンダカンまで」でも省かれている。
 だが「賄いつき下宿屋」を10年以上やっていたのだから、当然下宿人たちとの思い出話がないとおかしい。父親のことや別れた朝鮮人亭主のこと、それらにまつわることは何度も何度も書いているのだから、10年以上に及んだ下宿屋の思い出、そこで出逢った学生達のこともすこしは書いて欲しい。これもまた山崎サンの手法の不可解な部分になる。気に入ったことは短期のことでも何度も書き、そうでないものはこのように10年以上あるのにほとんど触れない。まことに不思議なひとである。

 自伝「サンダカンまで」だけで山崎サンの人生をわかったつもりにならず、これらの随筆集を読んで良かったと思うのはこういうときである。もともと自分の好きな物にだけ拘泥する傾向のある山崎サンは、自分の人生の集大成である自伝では、自分がつまらないと思う部分はみな省いてしまっている。「サンダカンまで」を読んで山崎サンのことをわかったつもりでいたが、これらの本を読んでずいぶんとあらたな面が見えた。いわば自伝が山崎サンお気に入りの部分のみを集めて作った山崎サンに都合のいい物語であるとするなら、あちこちの媒体に請われるままに長年書きちらかした短文には、当時はともかく今は触れたくないことも書いていたりするわけである。かっこいい自分のことしか書いてない自伝「サンダカンまで」より、これらの短文の方が山崎朋子研究(笑)のためには役立つものが多い。



「サンダカン八番娼館」の元ネタになる長崎への取材はそこからの出発になる。「我が家の全貯金9万円のうち6万円をもっての、大袈裟に言うと、我が家の将来を賭けての旅立ち」だったのだとか。
 とすると、その間、山崎サンが担当していたのであろう「下宿人の飯作り」も、ぜんぶ亭主が小三の娘の面倒を見つつやったことになる。やはりいい亭主である。いや、この亭主は、新婚の頃から炊事掃除洗濯等をぜんぶやる男女同権主義者だったそうだから、不得手なのであろう料理のことを一切書かない山崎サンよりも、この当時から下宿人の飯作りを担当していたのか。

 自伝「サンダカンまで」でも、この山崎夫婦にとって大勝負となる「長崎への取材旅行」のことは書いてある。理解ある夫が気持ち良く送り出してくれたこと、娘はまだ小学校三年でしかないが、身のまわりのことはぜんぶ自分で出来るようにしつけてあった、とか。でも賄いつき下宿のことは省いている。
 この部分を読んだとき、苦しい家計の中から女房を気持ち良く長崎への取材旅行に送り出し、自分は娘と二人の生活雑事全般引き受けて待つ亭主はえらいなあと思ったのだが、事実は下宿生の飯も作るのだからもっとたいへんだったことになる。読者にそう思われるのがいやで、山崎サンは自伝からそれを削ってしまったのだろう。
 あらためて「サンダカンまで」で山崎サンを語らなくて良かったと思う。このひと、かなり自分に都合良く人生を脚色している。



 このあと「サンダカン八番娼館」の大ヒットで印税が入る。その金でこの大きな古い屋敷の半分を買い、そこに家を建てて住んで今に至る。山崎さんが「サンダカン御殿」を建てたのは私の大学卒業のころだ。山崎サンの長崎への旅立ち、帰宅してそれを文章に仕上げること、大ヒットしての印税による自宅建築。それらは当時みな私のすぐ近くで起きていた出来事だった。柿の木坂と時代を考えると急に身近な話に思えてきた。

 そもそも私が見知らぬノンフィクションライター山崎朋子サンに興味を持ったのはデヴィ夫人のブログからだった。そこで山崎サンに反論するデヴィ夫人は、その文章のタイトルを「私をうんざりさせた田舎者の作家 山崎朋子さん」とした。そのことから私は山崎サンを地方在住の作家と勘違いしてしまった。デヴィ夫人関連から同じ苗字のヤマタク(山崎拓衆院議員)のことを書いたりしたので、おサキさんの長崎天草もあり、いつしか九州あたりをイメージし、その後山崎サンの文章を読んでも、長崎広島育ち、そこから雪深い母の実家福井で育ちとあるので、一時東京では暮らしたが、以降は地方在住の作家なのだと思い込んでしまった。ずっと東京目黒の柿の木坂というのは私にとっては目から鱗になる。勘違い思い込みはこわい。

 縁切りをしようとした男に襲われて顔を切り刻まれる駅は代々木上原である。これは私にとって初めての同棲まがいの暮らしをした街であり、山崎サンの事件はそれよりも遙か前のことであるが、柿の木坂といい代々木上原といい、遠いひとではないのだと感じた。



 その3.シバレンのこと

 一篇にシバレンのことが出て来る。山崎サンがアメリカ講演旅行に出かけたときの同行者は、城山三郎、柴田錬三郎だったそうだ。いくつものヒット作を持つ大物とサンダカンの一発屋だから肩身が狭かったことだろう。
 シバレンには一発屋のサヨク物書きに対する嫌悪があったらしく、山崎サンが「からゆきさん」のことを語った後に登場し、開口一番「わたしは、そのからゆきさんをたくさん買った男です」と言って聴衆に受けたり、「サンダカンの火なんかすぐに消えるさ」と山崎サンに面と向かってキツいことも言ったとか。

 なのに山崎サンの随筆に登場するのは、ちょうどそのころ親友だった梶山季之が死んだばかりで落ちこんでいたシバレンが、おれももうすぐあの世に行くのかと気落ちしているのを、山崎サンがあの世に関する意見を言って励ましてやったかららしい。あの世とこの世はカーテン一枚で仕切られているようなものだと言うと、シバレンは一転して「楽になった。ありがとう」と感謝したとか。

 こういうのって長生きしたものの勝ちである。あとからなんとでも書ける。シバレンはからゆきさんに対する理解もなく、山崎サンに嫌味を言ったイヤなヤツとして登場し、なのに元気のないところを励まされて感謝の言葉を述べるという、みっともない役どころになっている(笑)。いわゆる「完敗」である。あとから書くひとの勝ちだ。



 その4.潜水艦事故のこと

 潜水艦事故で亡くなった父親のことはどの随筆集でも何度も出て来る。山崎サンはかなりのファザコンである。でも8歳でやさしい父を亡くしたら誰でもそうなるだろう。まして母は実母ではなく妹と差別されて育てられるのだ。この本にも父に関する文章はいくつか出て来て、事故に関する前後のことがよくわかった。本当はそのことのみを書いた著書があるので読むべきなのだが入手できなかった。いや正直、疲れてきたので、なんとかそれは入手できそうなのだが、これ以上山崎サンの本を読む元気がない。

 自伝「サンダカンまで」では、いままでこれらの随筆集に収められた文章等にさんざん書いてきたことだから、その潜水艦事故に関しては簡単に記されていた。そこにあったことから、「名誉の戦死ではなく天皇陛下の大切な船を沈めた非国民」のように陰口を利かれたと私は受けとめ、感想文でそう書いたのだが、厳密にはちがうようだ。この随筆によると、直接言われてはいないらしい。そう思い込んでしまった少女時代の山崎サンが、誰かが自分を見て話しているのを見掛けると、そうにちがいないと思ってしまっただけのようだ。いわゆる被害妄想である。むろんそう実際に言っていた心無い人達もいただろうし、一概にそうも言えないのだが、ともあれこの件に関する実態はそういうことのようだ。

 大事なのはそのあと。そういう「天皇陛下の大切な船を沈めてしまった非国民扱い」(=山崎サンの思い込み)から、二ヶ月後、正式に「名誉の殉職」と発表され周囲の目が違ったのだという。このことが少女だった山崎サンに影を落としている。
 評価は一転して、その後その潜水艦事故は日活で国策映画になり、『オール読物』(後に山崎サンに大宅賞をくれる文藝春秋発行の雑誌である)には「水漬く屍」と題したノンフィクションが掲載され、そこには父から山崎サンへの手紙や山崎サンが父に書いた手紙も引用掲載されたのだとか。これまた稀有な体験である。

 そういう自分の少女時代の体験を<運命>だと戦争に絡めて評されることを山崎サンは嫌っている。でもこれは運命そのものだろう。たまたま「からゆきさん」で世に出てしまったけれど、それはたまたまであり偶然だ。山崎朋子サンは、このあとから今に至るまで日本国を敵視する人生を送ることを、幼い頃の運命で決められていたひとなのだ。



 その6.「サンダカン八番娼館」出版まで4年間の空白について

 山崎作品に関する感想で、「サンダカン八番娼館」を書きあげてから本になるまで4年の月日が流れていること──いわゆるブランクである──に関して、私は、山崎サンが、おサキさんという他人の人生を本にすることに対して彼女なりに悩んだのであろうと好意的に解釈してきた。これは山崎サンを支持する読者も同じであろう。ご本人もそういうことを書いているし、多くのひとがそう解釈し、出版に踏みきれなかった山崎サンのライターとしての責任と戸惑いを支持した。ネットの感想文にもそんなのが多かった。

 そのことから「苦痛に満ちた人生をひたかくしにしようとするおサキさんの心を、山崎サンがすこしずつすこしずつ解きほぐし、山崎サンを信用したからこそ、おサキさんは一生語るまいと決めていた秘め事をぽつぽつと語り始めた」のような定説になりがちだ。それは一面の真実だろうが、同時にそうでない面もあると思い、私は次のような意見を書いた。
 それは、「誰でも自分のことを隠しておきたいけれど同時に思いきり語りたい気持ちももっている」である。「おサキさんの中にも自分の人生を誰かに語りたいという欲求はあったはず」と自分が異国で体験したことを例に引いて書いた。

 この本の一篇でそのことが語られている。本にしようと出版社に交渉したがはかばかしい返事が得られない。これはやはりこんな他人の人生をえぐったこんな本は出すなという神の声なのだろうと山崎サンは判断する。
 「サンダカン八番娼館」は取材し書きあげてから出版までに4年間かかっている。そこには山崎サンなりのこんな内容の本を出版していいものだろうかという逡巡もあったろうが、同時に売りこみに行っても内容がつまらない、文章が硬い、こんなのは売れないと断られているのも事実だ。そのことも覚えておきたい。ともすると「出版してもいいのだろうか」と悩んだ山崎サンの懊悩ばかりが前に出てしまう。本にしたくてもなかなかしてもらえなかったのも事実である。

 この本を世に出したのは、今も山崎サンが恩人と感謝する筑摩書房の臼井吉見氏の卓見だろう。

 中央公論(これは2001年発刊の「サンダカンまで」で初めて明かされる実名であり、それ以前のこの本や他の本では隠されている。C社となっていることが多い)から出してもらえそうになったが内容改変を迫られ頓挫する。あの「ある海外売春婦の告白」とか、そんな題にしろと言われたときだ。

 そんなころ何年ぶりかでおサキさんを訪ねる。おサキさんが言う。以下会話は山崎サンの本からそのまま写す。
おまえ、うちのことば本に書くと言うとったが、それはもう出たのか
 山崎サンはなかなか本にならない現状を話す。すると初対面から亡くなるまで16年間のつきあいのなかで唯一おサキさんは怖い顔をして山崎サンを叱ったとか。
朋子、何つうだらしないこつば言うちょるか。うちは字を知らんけん、言いたいことがあってもどうもならん。おまえが書かんで、誰がうちの胸ん中を書いちくるるとか!
 こう言われて励まされ、山崎サンは本にする決意をしたそうだ。そして筑摩の臼井氏との出会いにつながる。
 これは悩んでいる山崎サンをおサキさんが励ましたことばだが、おサキさんなりに自分の人生を語りたい意慾の見えることばでもある。私の推論もあながち的外れではあるまい。



 その7.三田佳子のこと

 「女優さんとわたし」という一篇に山崎サンと有名女優との交流が書かれている。
 三田佳子を絶讃している。彼女はアメリカのシアトルロケをしたテレビドラマで山崎サンの役を演じたときからの知りあいとか。シアトルというと「あめゆきさんの歌」の山田わかが上陸したところだから、テレビドラマとはそれだろうか。

 と書いたところでネット検索してみたら、この写真が見つかった。
 監督は新藤兼人。主役の山田わかの娼婦時代を秋吉久美子、評論家になってからを山田五十鈴。恋人役に松田優作。山崎サンの役に三田佳子という布陣でヴィデオにもなったようだ。

 DVDにはならず中古セルヴィデオとして流通し、それがネットオークションに載っていた。こんな写真を発見できるとは思わなかった。ネット時代に感謝である。

 ここで山崎はまず三田を「遊女物などの舞台や映像から受ける印象とは真反対の、堂々たる現代女性である」と讃える。つまりそれは山崎が「遊女物」などが大嫌いだということだ。それはそうだろうねえ、あれは「男性社会」で虐げられた「底辺女性」なのだろうから。
 山崎の役を演じる機会がなかったら、三田は山崎の嫌悪する遊女物などを得意とする嫌いな女優だったろう。自分にちかしいひとは好きになる。山崎の基本である。

 ドラマの中で「女性史研究家」という山崎の役を演じた三田佳子は、打ちあげパーティで、
女性の経済的・精神的自立が女性をいかに美しく豊かにするかという女性論を三十分あまりさわやかに語られて、ディレクターはじめ一同が「山崎さんよりもっと女性史研究家らしい」と、舌を巻いたほどである。》とか。



 三田佳子と言えば、息子が覚醒剤で3回も逮捕され、そのたびに泣きながら謝罪会見をしたので有名なバカ女優である(笑)。「すべては私たち夫婦の教育の失敗です」と頭を下げた。さすがに3回目になるともう笑う気にもなれない。2009年5月現在、その息子は服役中である。

 教育の失敗の基本は、高校生の息子に月50万円もの小遣いをやっていたことにある。それが豪邸の地下での乱痴気パーティ、覚醒剤購入の資金になった。こんなバカ女の語る「女性の経済的・精神的自立が女性をいかに美しく豊かにするかという女性論」に意味はあるのだろうか。見事なまでに母親業を怠り経済的自立のみに邁進した結果の破滅である。こんな女の語る自立論を、まともにこどもを育てあげた専業主婦は一笑に付すだろう。

 三田はむかしから毎年芸能人高額所得者番付に載るほど稼いでいた。「女性の経済的自立」には若い頃から熱心だったようだ。いまも覚えているのはNHKディレクターの夫と結婚したとき、月給の給料明細を見て「日給の明細かと思った」という談話だ。「女性の経済的・精神的自立」が、いかに人生を狂わせるかのいい例である。

 息子が逮捕されるたびに泣きながら会見する三田を見て山崎サンがどう感じたかぜひ尋いてみたい(笑)。山崎もむすめと疎遠のようだからよく似ている。「女性史研究家」の資質があるひとは子育てがへたなようだ。

 山崎朋子に一貫しているのは自分に近いひとの肯定である。いかにも女らしい。これはその端的な一例になる。
 今回私が読んだ限りではその後山崎の随筆に三田は登場していない。ぜひとももういちど三田に関して書いて欲しいものだ。



 その8.猫からつけた娘の名前

 パックツアーで出かけたローマで、食堂をやっている日本人女と知りあう。自分と同じ名前の朋子というひと。そのひとから妊娠したと手紙が来たので山崎サンは返事を書く。

「もし女の子が生まれたら、イタリアオペラの有名なヒロインの名前から取って、<ミミ>と名づけては?」と返事を出しました。
 仮にこのことが実現しますと、猫の名前からつけたわたしの娘<ミミ>と同名になるのです。さて、ローマの朋子さん、いったいどうされるのか──と、とても気になる昨今です。


 ふうん、山崎サンの娘「美々(みみ)」さんは、猫の名前からつけたのか。
 私はいままでの人生で一番愛した存在と言いきれる15年一緒に過ごした愛猫がいた。いとしくていとしくていまも思い出すだけで涙ぐむ。でもそのあと生まれた自分の息子にそこから名前をつける発想はなかった。
 すごいひとである。そりゃ娘と不仲にもなるだろう。

 しかしそれよりももっとすごいのは、偶然知りあった名前が同じだけの異国に住む同朋女性に、猫の名前からつけた自分の娘のことは隠して、「イタリアオペラの有名なヒロインの名前から」と言ってミミとつけさせようとし、そしてそれをしゃれたユーモアのつもりで文章にする感覚だ。このひとの缺落した部分がよく見える。
 ローマの朋子さんがミミとつけなかったことを祈る。そんな名をつけたら母娘が不仲になるのは確定だ。その後のエッセイには書かれていないようだからつけなかったと信じたい。



 その9.スペインに関するあまりの無智

 スペインのカタロニアを旅行してきたときの話。
わずか半月ばかりの旅行だったが、その思い出は、砂漠のオアシスのようなものとしてわたしの心の潤いとなっている。」のだとか。

 私にとっても海外での半月は短くてつまらない。山崎サンも、長期に亘る本格的取材を得意とするノンフィクションライターとしてわずか半月じゃなにも見えないと言いたいのだろうが、半月の海外旅行なんて出来ない一般人は反感を持つだろうな、この言いかたには(笑)。

 それほど惚れた地域のことを原稿料をもらって雑誌(「ジュリスト」有斐閣発行)に書くのだから、最低限の智識を得てから書くべきだろう。それが物書きの基本姿勢だ。なのにこのひとときたら……。

カタロニアはスペインなのだから、そこに住んでいる人たちはスペイン語を使っていると誰だって思うだろうが、決してそうではないのであり、そこに地域主義の面目躍如たるものがある。
 人びとは、「わたしたちはカタロニア人ではあるが、スペイン人ではない」と主張してカタロニア語を使う。
日本の場合、九州に言ったら九州語しか通用しないというのと同じなのだ

バスク地方では、空港を出た途端に「バスク人はバスク語を使おう」と書いた大きな看板が目に飛びこんできた。スペイン一国で大きく分けて4つの言葉があり、それぞれの地域が、国家の枠組とは別に鮮明な個性を打ち出している。

 寒気のするほどの無智である。カタロニアやバスクの民族闘争を何も知らないのだ。だから「九州に行ったら九州語しか通じないようなもの」と寝惚けたことを言う。民族が違うのだ。あえてそんなたとえを日本にするならアイヌだろう。スペインのことを何も知らずに書いている。信じられない。こんなノンフィクションライターが通用していた時代があったのか。いやいやこのひとは今でも「世界」に連載をもつ第一線にいるノンフィクションライターなのだ。おそろしい。

国家の枠組とは別に鮮明な個性」とは何とも恥ずかしい。しかし民族に関する智識がなく調べる気もないのだから、それはもう思いつきで「個性」とでも言うしかない。恥ずかしい。他人事ながら我が事のように赤面するほど恥ずかしい。金をもらってこんなことを書いたら笑われる。バカ丸だしである。

 智識のないことは責められない。恥じることでもない。だがノンフィクションライターが半月の旅行をし、そのことを金をもらって原稿にするなら最低限のことは調べるべきであり、それをせずにこんなことを書いたのは猛省すべきだろう。
 カタルーニャの歴史などどんなガイドブックにも書いてある。スペインに関する基本中の基本だ。一般常識とすら言える。

 何も調べず感覚だけで書いているので、つっこまれるのを避けようと、末尾に《わたしには、スペインという国の政治や経済のむつかしいことはよくわからない。》と、いつもの逃げを打っている。このひとの常套手段だ。女であることを主張し、論陣を張って男と闘うが、あぶなくなるといきなり「女をいじめないで」と逃げるのがいる。それと同じ。さんざんまちがいだらけの政治経済に関する意見を叫いておいて、最後に「むつかしいことはわかりませんが」と逃げる。ここでも同じ手を使っている。

 だがこれは「むつかしいこと」なんてレヴェルではない。どんなガイドブックにも書いてある一般常識だ。このひとはれいによって、「わたしがスペインに関して影響を受けた書物は」などと冒頭で何冊かの書名を上げて蘊蓄をかたむけている。本当にそれらを読んでいるならあまりに基礎的なバスク闘争を知らないはずがない。そんな難しい本を読破しているのに、こんな初歩的なことを知らなかったら、よけいに恥ずかしい。雰囲気だけのひとなのである。いかにもおんならしい。

 初めてスペインに行ったアホ女子大生のブログ旅行記でもあるならまだしも、大宅賞受賞の五十代のノンフィクションライターが金をもらって書いている文章なのである。



 このひとは基本的に無智であり、人格的缺陥からごくふつうの広い視点がない。「ものごとをごくふつうに偏見なく見る視点」というものを歪んだ育ちから失ってしまっている。
 いくつものトラウマから自然にブレーキがかかってしまってそうなったようだ。その分テーマを与えられると、そこに集中してフランティックに追及し掘りさげて行くらしい。自分でも何か仕事を始めると、他のことはなにも目に入らなくなりノイローゼになるほど集中すると書いている。その手法により結果的にそこそこのものを仕上げてきた。ようだ。私は評価しないが世間的にはそうなのだろう。

 だがついつい調子に乗ってこんなふつうの随筆を書いたりすると、その人間的缺陥が大きく浮き出てしまう。これは1986年だから54歳のときの随筆である。昭和61年にこんなひどいことを書いていたひとがいたのか。お粗末としか言いようがない。このあまりにお粗末な無智は弁明のしようがない。旅行をした時点での無智は恥じることではない。だがその後、最低限の基本情報を得ようとすらせず原稿料をもらう文章にしてしまった姿勢はプロとして責められて当然である。

 恥じるべき最初は、スペインのことを知らないままこんな文章を書いてしまったこと。作家としての恥。繰り返すが、知らないことはどうでもいいのだ。ただ原稿料をもらってエッセイにするなら、最低限のことを調べるべきだった。その怠惰は問題である。
 もうひとつ重要なことがある。
 それは、これを発表したのが86年、随筆集が編まれたのが92年だから、そこには6年の歳月が流れていることだ。山崎サンが手元にあった雑文を提出したのか、海竜社の担当者が掻き集めたのか判らないが、いずれにせよあちらこちらに発表した短文を集めて単行本にするのだから、もしもこの件に関して山崎サンに「スペインに関してあまりに無智だった」という反省があったなら、その時点でこの文は収録から外されたろう。平然と世間に恥を拡げるこんなものが収録されているということは、その6年間にも反省はなかったのだ。これまた恥ずかしいことである。いっさいの反省がない。山崎サンはいまだにバスクの獨立問題等も知らないのだ。これほど進歩のないひとも珍しい。

 題は「わがカタロニア讚歌」。このタイトルを見て楽しみに読んだスペイン好きはあまりの無智に絶句したことだろう。いやはやお粗末だ。



 その10.中国残留孤児のこどもとアホ、バカについて

 この随筆集の前に中国残留孤児の本を出したらしく、それに関する文がいくつか出て来る。
 私もこの件には興味があるのでぜひともこの山崎サンの本を読んでみたい。山崎サンの筆致と主張とは相容れないが残留孤児に関する勉強にはなるだろう。

この<孤児>のこどもたちの学校で真っ先に覚えてくる日本語が、「バカ」、「アホ」のふたつであると聞いて、心が寒くなりました。
 日本人のアジア観は、戦中も戦後も、基本的には変っていないのだと思わざるを得ません。


 この種のライターの得意技に牽強附会がある。あらかじめ決められた自分の結論にむけて、すべてを都合のいいように力尽くで結びつけて行くのだ。これなどその典型だろう。日本という国を責めるために中国残留孤児のこどもを利用している。

 こどもが最初に覚えることばは刺戟的なそういうものである。古今東西世界共通の常識だ。バカ、アホ、ウンコ、オシッコ、チンコ、マンコの類である。刺激的に刺戟的な場面で使われるから心に残る。それに動揺するおとなの表情がまたこどもには歓びになる。

 このひと、亭主は児童文学者であり、自分もそういう勉強をしているはずなのに、なんでそういう「こどものふつう」を、いきなり「日本人のアジア観」に結びつけてしまうのだろう。あまりに奇妙で笑ってしまう。こんなもの、中国残留孤児のこどもに限らず、戦勝国のアメリカ大使館のこどもであれ、ロシア人外交官のこどもであれ同じである。こどもが異国文化に接したら、最初はそういう言葉から覚えるのだ。

 毎度の山崎サンへの意見であるが、こういうことを主張したいのなら、「アメリカ人やイギリス人、フランス人、ロシア人のこどもはちがうのに、中国残留孤児のこどもだけがそうだ」と対比して書かねばならない。それが基本だ。そんなことはしない。出来ない。ありえないから。



 私はおとなの日本人だが、外国に行って最初に心に残ったのはそういう言葉だった。刺激的に緊張した場面で使われるのだから当然だ。たとえばJapなんてのは日本にいたならなんてことはないことばだが、異国で白人に言われるとものすごく不愉快になる。同じくStupidなんてのも一応意味は知っている程度のことばだったが、こちらが悪くないのに、憎たらしそうなイギリス人のガキから、「こいつ、STUPIDだね」と指差されたときは心底怒りが湧いてきた。言葉とはそんなものだ。

 中国残留孤児のこどもたちが、日本語が出来ないということからいわゆる「いじめ」の対象になった例はいくつもあろう。そこから日本を嫌いになり屈折してしまったこどももいよう。ことばに適性があり、素速く日本語を習得してうまくみんなに溶けこみ仲よくやった例も多いだろう。それらの問題を適切に指導して回避した先生もいたろうし、対処できず差別を助長したようなクソ教師もいたことだろう。。
 そういう事例を一緒くたにして、いや自分に都合のいい否定的な事例のみをピックアップして、極論に結びつける山崎サンの手法はいつもどおり異常だ。東南アジアにおける欧米の植民地化に一切触れず、悪逆な日本軍が軍靴でもってアジアを踏みにじったとそればかり主張するのと同じである。信じがたい偏向だ。

 そんなことすら無理矢理《日本人のアジア観は、戦中も戦後も、基本的には変っていないのだと思わざるを得ません》という固定した結論に繋げてしまうのだから病んでいる。



 その11.語学に関する山崎サンの姿勢について

 語学のこと。
 山崎サンは1974年からタイに行っている。観光地など見むきもせずふつうの農家に行って住みこんだとか。その辺が山崎サン御得意のパフォーマンスなので、著書にはなんども登場する。
 その後も、タイ人女性が「サンダカン八番娼館」をタイ語に訳すことになって会ったり、タイから東北に嫁いできてホームシックになったタイ人女性のもとに出かけたり、タイとの交流は長い。それは下の「アジアの女 アジアの声」にも出て来るので詳しくはそちらに書くとして。

 タイ語に関して山崎サンはこの本でこんなことを言っている。

日本人がタイ語を勉強するのも、タイ人が日本語を勉強するのも、共にとても困難なことです。文字はもちろんのこと、言葉の仕組みもまるきり違って、わたしなど、何回もタイに行っていながら、あの朝顔の蔓が伸びたようなタイ文字は一字も読むことができません。

 私は自分がタイが好きになることにより懸命に学んでタイ語が話せるようになったり文字が読めるようになったりしたこと、親しい友人達もみなそうであることを前提に、タイ語を覚えようとしなかった山崎サンを批判しようとしているのではない。そこはぜひとも御理解願いたい。私が指摘したいのは、そういうことに対する「山崎サンの姿勢、発想法」に関してだ。

 山崎サンは常に自分を正義にしてしまう。自分を正しい方に置く。思想的なことに関しては、ミギもヒダリもみなそうだから、まあ納得するにしても、この種の趣味的なこと、個人的なことにまでそれを押しつけてくるとうんざりする。呆れる。
 ここで言っているのは、自分がタイに何度も言っているのにタイ語が出来ないということである。そのことを自分の努力が足りないと反省することなく日本人なら誰でもそうだ、と決めつけている。自分擁護だ。その理由として偏った主張がこのあと続くのだが、それは後半にして。



 山崎サンに関して一番驚いたのは、下の「アジアの女 アジアの声」等を読んで知ることだが、「朝鮮語がまったく話せない、読み書きできない」ことだった。これには驚いた。だって好きで好きでたまらない朝鮮人と二年間の事実婚をし(交際期間を入れたらもっと長い)、朝鮮名までつけてもらい(自伝「サンダカンまで」に「我が名は羅敦香(ラ・ドンヒャン)」という一章がある)、当時から今に至るまでの一貫した「親朝鮮、嫌日の姿勢」は、「あんたは何人なんだ!?」というぐらい激しく偏った政治姿勢だ。
 そんなに好きで好きでたまらない朝鮮なのに、このひとが朝鮮語がまったく出来ないと知ったときは驚いた。素直に「このひと、なんだろう?」と存在そのものに疑問をもった。

 前記、「このひとは基本的な智識教養が缺落しているのだが、その分、与えられたテーマにはフランティックに取り組む」と書いた。それぐらいしか誉め言葉がなかった。でもそれも朝鮮語すら話せない、読み書きできないとなると疑問に思えてくる。このひと、ただ雰囲気だけでサヨクがっているだけではないのか。


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 ここですこし「最初の夫、朝鮮人東大大学院生」について

 山崎サンの語学修得意慾について考えてみる。そもそもその朝鮮人東大大学院生と知りあったのも、東京での小学校教員時代、演劇のスタシステムを理解するためロシア語を学ぼうと思ったからだった。紹介されたそのロシア語家庭教師が彼だった。つまりこの時期にはまだ語学修得の意慾はあったことになる。

 だったらその家庭教師と熱愛状態になり、同棲し結婚するのだから、彼の得意とするロシア語も最愛の彼の母国語である朝鮮語もすんなりとマスターしていると思うのだが、なにも話せないという。わからない。ほんとにこのひとがわからない。

 ただしこの時期、「東大卒なのに朝鮮人というだけで彼は職業につくことが出来なかったとあり、ふたりの生活を支えるために山崎サンは昼は事務職、夜はウェイトレスと朝から晩まで働いていたから、帰宅しても寝るだけでロシア語や朝鮮語を勉強する時間はなかったと反論するかも知れない。
 夫は日本語ペラペラだし朝鮮語を覚える必要には迫られていなかった。でも、だったら別れてからでも学べばいい。だってあれだけ好きな朝鮮なのだから。とにかく山崎サンが朝鮮語をまったく出来ないのには驚いた。
 というか、ことばというものは、一緒にいれば覚えてしまうものだ。「外国語を覚えるには、その国のおんなと同棲するのがいちばん」といまもむかしも金科玉条のように言われる所以である。
 在日朝鮮人の彼が差別されることに立腹し、朝鮮名をつけてもらうほど心酔していたのだから、「あいしているってなんて言うの」「あなたは私の命、は?」「来世でも一緒にいたいってどう言うの?」のように睦言で交し覚えしまうものだ。どうにも理解できない。



 朝鮮人であることにより差別され、仕事のない彼に出来ることは「パチンコ玉を景品に替えることだけだった(山崎サンの表現)」と、人種差別に怒り、山崎サンは批判的な視点で書いている。なんか奇妙な言いかたをしているけど、要するに亭主は朝から晩まで毎日パチンコやってたってことだよね。東大大学院生のパチプロか。その分、山崎サンが昼はキャバレーの事務、夜は喫茶店のウェイトレスと朝から深夜まで働いて生活を支えている。

 一見清く貧しく美しい二人のようだが、これって、美男の東大大学院生朝鮮人が、サヨクかぶれの学歴コンプレックスのある田舎から出て来たばかりのバカ日本人女を、うまくだましてヒモになっているだけじゃないのか。朝鮮名をつけてやったら大喜びするし、よく働くし、便利このうえない。。

 彼は一日中パチンコで遊んでいるだけだ。そして夜、アパートに集まった仲間達と熱く語るのは革命である。
 日本人妻がいることが仲間から批判され、このままでは彼の革命成就のじゃまになると、ある日山崎サンは彼の前から忽然と姿を消すという美しい別れになっているのだが、もしかしてそれってパチンコするしか能のないヒモから逃げだしただけなんじゃないか? そう思えてきた。



 だいたいが、「東大卒なのに朝鮮人というだけで彼は職業につくことが出来なかったと山崎サンは書くが、そのことにどこまで信憑性があるだろう。もちろん私も昭和三十年代に片親だからという理由で、成績は優秀なのに田舎銀行に就職できなかった例などを身近に知っているから、彼が日本の名のある企業に就職できなかったのはわかる。
 だが当時の日本には日本語の読み書きの出来ない在日朝鮮人もいっぱいいた。彼らはみなクズ拾いのような汚れ仕事をしつつ、立派に生きぬき子供達を育てていった。和田アキ子や長州力の親がそうである。
 和田アキ子は若い頃、自分の両親が文盲であることを告白している。そのころまだ彼女が(当然両親も)在日朝鮮人であることを知らなかった私は、今の時代にも文盲がいるのかとおどろいたものだった。ちょうど「サンダカン八番娼館」がヒットしている頃である。

 東大を出ているのに仕事がない、朝鮮人差別だと山崎サンは言うが、もしも彼が本当に山崎サンを愛していたのなら、女に朝から晩まで働かして自分はパチンコをやっているだけなんてことはしないだろう。男として出来ない。肉体労働でも何でもやって稼いだろう。なによりパチンコ屋は当時から朝鮮人経営だから社員になれたことだろう。それが高学歴の彼のプライドを傷つけたとしても、充分に人並みに稼げたはずだし、そうすれば山崎さんは仕事はひとつですんだ。経済的な苦労もしなかった。なのに男は働かない。パチンコをして革命理論を語るだけだ。それって山崎サンを愛してなかったからだろう。

「女は男社会で虐げられている」「男は女を都合良く利用するだけだ」「どんな女も男の性奴隷的存在」が山崎サンの持論だが、東大大学院生、朝鮮人、差別、左翼思想、もろもろのことで山崎サンは愛の盲になり、いいように男に利用されていたのではないか。
 朝から深夜までふたつの仕事をこなしてクタクタになって帰宅した山崎サンに、一日中パチンコをしていただけの性慾のありあまっている朝鮮人東大大学院生がのし掛かってくる。山崎サンの「女はみな男の性奴隷的存在」はここから生まれてきたのではないか。
 と考えると、かなり男にとって都合のいい女である山崎サンがかわいく見えてきた(笑)。
 
 男にだまされて売春婦になるようなのはみな山崎サンタイプである。
 この時期、好きで好きでたまらないこの朝鮮人東大大学院生に、「革命のために資金が必要だ。頼む」と言われたら、山崎サンは娼館に身を沈めていたのではないか。もちろんそのときも「わたしはその辺の男にだまされた愚かな娼婦とは違う。これは革命のための崇高な行為なのだ」と日ごと呟いていたろう。いやきっと「こういう経緯で娼婦になった女」も古今東西多々いたはずである。

 山崎サンの娼婦に対する異様な憎悪は、自身の中のそういう「男に尽くす女」を否定するためなのであろう。


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 話もどってタイ語のこと。
 そういうふうに、もう何度もタイに行き、といってだれもが行く観光地などは決して行かず、わたしは貧しい農村に住みついて農民の生活にじかに触れたのだ、というような主張をたびたびする山崎さんだが、タイ語に関しては話せず書けず読めず、《あの朝顔の蔓が伸びたようなタイ文字は一字も読むことができません》なのである。

 それでまた冒頭の話にもどるのだが、私が言いたいのはそのことではない。その心中、発想の基本についてである。
 日本人がタイ語を学ぶのは困難だ。だから誰もやらない。でもそれ以上に大きな問題がある。と自分勝手な推論をした山崎サンは、こんなことを言いだす。

しかしながらそれ以上にむずかしいのは、日本の場合、タイ語やインドネシア語を勉強しても、それが、お金を稼ぐ道になかなかつながって行かないという点でしょう。

 と、経済格差の問題にすり替えてしまうのである。

 アジアのことばを専攻する学生はむかしからけっこういた。私の学生時代にも文学部で中国語、朝鮮語、インドネシア語、タイ語、タガログ語を専攻している先輩、同輩がいたし、その十年後である1986年に書かれたこのエッセイのころはもうアジア語ブームだった。私がタイ語の勉強を始めるのは1991年からだが、タイで知りあう先輩方はもうみなこの1986年当時にはタイ語学校に通っている。話すのはもちろん読み書きできるひとも多かった。そういう世の流れを知らず、いや無視して、こんな見当はずれのことを言うのは、語学音痴の──というか自分の考えを常に絶対的なものと肯定してしまう──山崎朋子サンぐらいである。

 こういう誤った極論を言う根底は単純だ。「語学の出来ない自分を正当化するため」である。山崎サンは常に自分を正当化していないと生きられないひとだ。その正当化のために無茶を言うから失笑噴飯ものの山崎理論となる(笑)。

 このひとは「サンダカン八番娼館」で大宅賞を受賞後、アメリカ講演旅行に何度も出かけている。しかし英語はぜんぜん出来ないそうだ。聴衆は在米の日本人だからむろんそれは障碍にはならない。それでも英会話を必要とする部分は多々あったはずだから日常会話ぐらいは出来るようになると思うのだが。
 文章の随所に顕れている我の強いこのひとの性格からして、日常会話に不自由しない程度でも話せたなら自慢気に書くはずだから、まったく出来ないと言うのはかなり語学が苦手なのだろう。
 その他、アジア中をルポして廻り、日本軍がいかに悪いことをしたかと捜しまわっているわけだが、どの地域のことばも話せず常に通訳を介している。

 語学の才能は耳であり音感だ。そういえば山崎サンの随筆に音楽ネタはない。音感は悪いのだろう。音痴かも知れない。私の「不感症なのだろう」に続く山崎朋子サンに関するふたつめの推測になる(笑)。



 歌はともかく、語学に関してはかなりの語学音痴だと思われる。だってあれだけ大好きだった朝鮮人亭主がいながら朝鮮語が話せないのである。下の対談集「アジアの女 アジアの声」も、最初の対談は当然のごとく最も智識があり最も好きな韓国から始まるのだが、そこでも通訳任せである。
 そこでゲストの朝鮮人作家相手に、とうとうと自分がアジアの女性史に興味を持ったのは、朝鮮人と結婚しているとき、朝鮮人の妻だからと帰化した朝鮮人に差別されたことがきっかけで、と語るのである。もちろん日本語で。

 ここで相手が、「あなたは朝鮮人と結婚していて、朝鮮にとても好意的なのに、どうして朝鮮語が話せないのですか?」と問うたらおもしろかった(笑)。まあそれがあったとしても省いてしまうだろうが。



 山崎朋子サンは、とにかくすべてにおいて「自分肯定」である。
 この語学のことに関しても、「わたしはなぜか若い頃から語学が苦手だった。学生時代の英語もだめだったし、大好きだった彼に朝鮮語を教えてもらってもなかなか覚えられなかった。タイやインドネシアの底辺女性を取材するのだから、出来ることならあちらのことばで、と語学学校に通ったりして努力したが、どうしてもマスターできなかった。いまでも取材のとき、通訳を通さねば彼女たちのことばを理解できないことには忸怩たる思いがある」とでもあれば、親身に感じる。山崎サンなりに努力したのだなと思う。

 そんなものはない。一言一句ない。それどころか高らかに朝鮮語も英語も話せないと言い、タイ文字にいたっては、「朝顔の蔓のような」と言う始末だ。よって、どこで何を聞いてもすべて通訳を通す。

 その通訳に、タイの農婦からフィリピンの売春婦まで、自分はこんな本を書いて、こんな育ちをしてきてと自分のことを延々と語らせるのである。恥ずかしくないのだろうか。

 確実に言えることは、もしもこのひとがひとつの外国語──たとえば朝鮮語──でもマスターしていたなら、平然と「相手の心は通訳を通してはわからない。相手の本音を聞きだそうとしたら、その国のことばをマスターするのは取材者の基本である」ぐらいは平然と書いたってことだ。なにひとつ出来ないから、逆にそういう話にはまったく触れない。

 それもまた簡単なリクツで、「現地のことばが話せない。もどかしい」と書いてしまったら、「じゃあ勉強しろよ」になってしまう。したくない。才能がないのは知っている。「だったら触れない。そんなものは最初からないことにする」になる。
 この「臭い物に蓋」は、ノンフィクションライターが最もやってはならないことなのだが、山崎サンは平然とそれをする。まあアジアの歴史を語るとき、欧米のことには一切触れず「日本は百年にもわたってアジアを軍靴で踏みにじってきた」とそればかり書くひとだから、この程度の矛盾は歯牙にもかけないのだろう。

 山崎朋子作品に関して評論を書いたひとがいるとしたら、誰もがこの点、「自分に対する反省がいっさいない」「自分に都合の良いことしか書かない都合の悪いことは無視」と指摘していると思われる。


   アジアの女 アジアの声

 1985年発刊の対談集。上記随筆集「生きて生きて」の中にも何度か「いまアジアの女性との対談を毎月やっているのだが」のように登場している。月刊『文藝春秋』に連載されたもの。
  読む前からつまらない本だろうなあと思い、読む気はなかったのだが、山崎朋子という今年77歳のヴェテランノンフィクションライターの著作に対して自分の感想を述べるのだから、色合いの違うものも読むのが礼儀と思い、これまた図書館奧の倉庫に保管されているのを出してきてもらって読んだ。

 対談相手はタイの王女からフィリピンのプロスティチュート(このカタカナは山崎サンの表現。売春婦とは書きたくなかったらしい)まで。

 一読して、というか何編かを読んで、つまらないので投げた。まったく読むに価しない駄作である。今回読んだ山崎作品の中でもいちばんつまらなかった。

(と書いた後、毒食わば皿までと我慢して通読した。結果、あらためてつまらない本だと思った。)



 その理由も明白だ。作家には、対談に向くひと、向かないひとがいる。巧みな小説家でも対談下手はいるし、ろくな作品がないのに対談の名手もいる。概して言えるのは、対談上手は雑学博士が多い。多種多様な相手に即座に対応せねばならないのだから当然だろう。話題に対して間口のひろいのが基本だ。せまい範囲の思想に凝りかたまったひとはあわない。

 山崎サンは一般的智識教養がない。それは本人も自覚しているだろう。していないのかな? 世間一般に関する雑学的智識教養がまったくなく、しかも思想的には自虐史観に凝りかたまっているのだから、こんなひとがアジアの女性と対談しても、中身は薄く、しかも日本は悪いことをしたすみませんばかりになるのはやる前から見えている。どこのバカがこんな企画を立てたのか。

 ともあれある日、文春の編輯者と話しているとき、瓢箪から駒で実現した企劃らしい。彼女にとってはありがたい存在になるその編輯者の実名も記してあり、この企劃を思いついた彼は即座にこの「アジアの女 アジアの声」というタイトルも決めたという。彼としてはヒット間違いなしの企劃を思いつき、単行本にしたら売れまくりと思ったのだろう。能無しである。長年山崎朋子を担当してきているのなら、このひとが一般常識に疎く、決められたテーマをこつこつと掘りさげ、積みかさねるようにしてしか作品を作れないタイプのライター=最も対談にはむいていないひと、であることはわかっていたろうに。
 世の中にはバカがいるものだ。つまりこの企劃、出発の時点で失敗は見えていた。



 山崎サンも自分の無能は知っているから、絶対にこの本で自分の価値を落とすわけには行かないと、対談相手は自分と感覚の似ているひとを厳選している。その中でも最初の勝負になる第一回は、いちばん詳しく智識もあり得意な国である韓国にした。このとき北朝鮮にも申しこんだが許可が出なかったと書いている。北朝鮮も、この作家が、ひたすら「日本は悪いことをしました、ごめんなさい」ばかり言う親北朝鮮サヨクだとわかっていたら許可したろうに。
 このいちばん得意な韓国編からして薄味でつまらない。読めない。だったらもう他は高が知れている。

 二回目はタイの農家のおばあさん。初めてタイに行ったときに知りあった老婦だ。懸命に、以前来たときも観光地に行かずいきなりこの農家に来て、一緒に田植えを手伝った自分をアピールする(笑)。小賢しくて笑える。
 ほんとに言ったのかどうか知らないが、「いつも革靴を履いている白い足の日本人女が、自分達と同じく田んぼに裸足で入ったので感激した」なんて、タイのおばあさんが山崎サンを讃えたことになっている。偽善タレントの体験記と変らない。なんとも「上から目線」のみっともない話である。これでタイ語が話せるのなら多少イメージも変るが所詮「朝顔の蔓のような」のひとである。

 そんなふうにまずは面識があり恥を掻かない相手を選んで行く。これはそうだろうなあ。怖いものねえ、知らないひとのことを知らないままに聞いて赤っ恥を掻いたら。むろんこちらが原稿をまとめるのだから後つけ智識で誤魔化せるとしても。

 いやはやお粗末。なんともいいようがない。中身がない。薄味。渡航前に下調べをしていき、帰国後にさらに調べ物をして智識をフォローして、それでこの出来栄えなのだから、現場はひどかったことだろう。なんとも言いようがない。まずい料理の典型である。



 どこの国に行っても、ひたすら日本は悪いことをしたと謝る。こちらから相手に「戦時中の日本人は何をしましたか」と悪口を聞きだそうとする。
 インドネシアの社会福祉家(山崎サンの表現)という相手には、日本が統治していた時代のことを誘いだし、語らせ、君が代を歌わされた、「海ゆかば」を今でも歌えると披露されると、《胸が痛んで、もう、言うべき言葉もありません──》と、してやったりになるのだが、そのあとに、

でもね、山崎さん、日本軍による強制的なこの教育、かならずしもマイナスばかりではなかったと思うんですよ、わたしは、あのとき日本軍によってほどこされた教育が、インドネシアの青少年の精神力を鍛えるのに役立ち、後年、(オランダ相手の)インドネシア獨立戦争を勝ちぬく基のひとつになった──と考えられるものですから。》と言われて鼻白んでいる(笑)。

 敗戦のあと、その地に残った日本軍兵士は、欧米からの獨立戦争を闘うアジア各国のを手伝う義勇軍として、インドネシアだけではなくヴェトナムでもビルマでも活躍し感謝されている。

 せめてどこの国でも、「日本はどんな悪いことをしましたか」と聞いたなら、「よかったと思うこともありますか」と訊いてほしいと思うのだが、ひたすら日本の罪を追及する山崎サンにそんな発想はない。



 フィリピンの売春婦インタビュウでは、私は売春婦の本を書いた女だからあんたたち売春婦を差別してはいないとインタビュウ前にしつこく言ったりする。もちろん通訳を通して。くだらん。たしかに売春婦の本を書いてヒットさせ、たっぷり金は儲けたようだが、あんたは売春婦を差別している、あんたほど差別している女を知らない。文中から、行間から溢れだしている。よくもまあぬけぬけと言えるものだ。差別しているからこそそれを見抜かれまいと最初に強調するのだろう。差別しているかしていないかは話しているあいだに相手が判断することであって、最初に強調することではない。この辺にもこのひとのつまらなさが出ている。

 フィリピン人の売春婦(というか酒場によくいる、そういうことにもつきあうホステスである)は、自分は今までにいやいやながら2回ほどしたことがあるだけだと言う。すると山崎サンは気色ばむ。

あなたは、わたしに本当のことを言ってないわね。わたしはねえ、興味本位で娼婦生活の話を訊いているわけじゃなく、(中略)あなたが一、二回しか体を売ったことがないというのが本当なら、わたしのインタビュウの狙いに合わないから、わたしは他のひとを探してお話しを聞かなくちゃならない。お礼のお金もそのひとにあげなくちゃならない」と迫る。

 すごいね。言いかたがあるだろう。「お礼のお金も」のあたりにこの女の娼婦を見下した感覚がよく出ている。
 娼婦は「すみません、嘘つきました」と話しはじめる。



 フィリピンの26歳の民衆運動家(山崎サンの表現)と対談したときには、彼女が対談場所に連れてきた2歳半の娘が厭きてしまうと、「マイちゃん、今度は日本のこのおばちゃんのほうへいらっしゃい」と声を掛け、「お心づかいありがとう、山崎サン」と言ったと収録している。そういうことをしっかり記録し、自分をやさしい女だとアピールするから気味が悪い。山崎サンがこども嫌いなのはもう明白なのだ。
 でもこの本は山崎朋子サンの作品なのだからそういう仕掛けはありだ。自分の本で自分を人格者に装うのは当然の権利である。だからそれはいいとしても。

 そこで、どんなたいへんな活動のときも常に娘を一緒に連れていって育てている相手に感嘆した山崎サンは、「わたしも娘を生んでも女性史の勉強を続けたかったので、1歳3カ月から保育園に預けた」と語る。そうか、猫の名前から名づけられた美々(みみ)さんはそんな育ちをしていたのだ。やはり母親嫌いは間違いあるまい。しかしすごいな、母親が働かねばならない母子家庭でもあるならともかく、夫婦そろっているのに、「賄いつき下宿屋」をやっているのに、1歳3カ月からひとり娘を預けてしまうんだ。

 このフィリピンの若い民衆運動家の主張は、こどもは親と一緒にいるべき、であり、刑務所の中にいる政治犯の亭主のところにも頻繁に連れて行っている。フィリピンのシステムだと、獄中の親とこどもが一緒に暮らすことが可能であり、この幼い娘は収監されている父親と定期的に牢獄の中で一緒に暮らしているのだとか。自分のやりたいことのためには1歳3カ月の娘を金を払って他人に預けた山崎サンとは、そもそもの主張がまったく逆になるのだが、残念ながら山崎サンはそれに気づかない(笑)。同志だと思っている。

 それでいてこの篇の結びでは、「あら、マイちゃん、とうとう寺見さん(通訳)の膝で眠ってしまいましたね。重いでしょう、寺見さん。わたし、抱っこを代わりましょうか」とまたわざとらしいことを書いている(笑)。

 偽善も甚だしい。自分のひとり娘さえ1歳と3カ月から保育園に預け、そのせいかどうか自伝でも今は50になるはずの娘なのに、小学校三年生以降はひとことも触れていないような状況(おそらく義絶であろう)なのに、この場に及んでも「こども好き、やさしいわたし」を演じようとしているのである。自分をよく見せるためならなんでもする。なんとも恥知らずな女だ。



 広島の原爆に関する話がある。軍人の娘である山崎サンは長崎と広島で育った。潜水艦長の父親が亡くなったのが1940年。それからすぐに母の実家のある福井に行ったのだと思っていたが、そうではないらしい。どうも全般的にこのひとの年譜はわかりにくい。それは触れられたくない部分を抜いたりするからだ。
広島に原爆が落ちる二ヵ月前までいた」というから、1945年の6月まで広島にいたことになる。そのあと福井に行く。そして原爆が投下される。
 そこで「わたし以外の同級生はぜんぶ死んだ。わたしだけが生きのびてしまった」と語る。13歳。自分だけが生きのびたことに罪の意識があるような語りかたをしている。山崎サンのサヨク活動はこのときから始まったらしいのだ。いわゆる原体験である。いや原体験は父の死であろうが。

 なのに自伝も読んできたのに、それまで私はこの山崎サンが体験した同級生が全員被曝して死んだという凄絶な「広島体験」のにおいをまったく感じなかった。
 なぜだろうと考えてみた。書いていることが真実なら、こんな凄絶な体験談がなぜ私の記憶から缺落していたのだろう。答は簡単だ。何度も書いているが、山崎サンの戦争観、歴史観には、アジアに悪いことをした日本」という被害者アジア諸国と加害者日本しかない。つまりそれまで山崎サンの本を読んでも、「無差別大量殺戮をしたアメリカを許さない」のような表現はまったくなかったのである。山崎サンにとって興味のない国アメリカはそれまで一切出て来なかった。

 山崎サンがせめて、広島長崎への原爆投下や東京大空襲のようなアメリカの非道に激しい怒りを見せてくれたらもうすこし身近に感じるのだが、このひとの言いたいのは「悪虐国家日本」ばかりで、他国は眼中にないのである。せめて帝国主義の権化としてアメリカぐらいは憎んで欲しいのだが、このひとの憎いのは日本だけらしい。原爆に関しても、悪逆非道の国日本だから落とされて当然と解釈しているのだろう。だからこの話がまったく真実みをもって伝わってこない。

【後日記】私の大嫌いなひとに『美味しんぼ』の原作者雁屋哲がいる。彼の政治的主張は山崎サンとまったく同じである。ひたすら「加害者、悪い日本」の話だ。読んでいるだけで気分が悪くなってくる。だがひさしぶりに『美味しんぼ』を読んでみると、彼はそれと同時にアメリカを批判し、オーストラリアのアボリジニ問題にも踏みこんでいる。大嫌いなひとだけど、こんなひとですら山崎サンと比較すると、まともで公平にすら思えてくる。それほど山崎サンの主張と方法はいびつだ。こんなひと、見たことない。



 アジア各国の多様な女と対談し、持ち味を引きだせるほど山崎朋子には幅の広い知識はない。藝達者でもない。そもそもひととしての基礎教養に缺けている。己の分際を知らずこんな企劃を引き受けた山崎もバカだが最悪なのはこんな企画を立てた編輯者だ。誰と対談しても、やたら「わたしがわたしは」と自分を出してくる、それでいて中身のない、なんともお粗末な一冊だった。

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 この本にも、対談相手から「あなたは女優もやっているのですか」と、映画「サンダカン八番娼館」で栗原小巻が演じた山崎サン役を、本人が演じていると勘違いして問われたことが自慢たらしく収録されている。もう美人でナイスバディの山崎サンはそれほど栗原小巻にそっくりらしい(笑)。なんの中身もないクソ本だが、自分が美人でスタイルがいいことだけはしっかりアピールしていて笑える。

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 山崎朋子まとめ読み総論に続く
 



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