2009──山崎朋子まとめ読み・4
 5/10  「わたしがわたしになるために」──海竜社


 「サンダカン八番娼館」「サンダカンの墓」「あめゆきさんの歌」という著者の言う三部作が文藝春秋(「サンダカン八番娼館」は単行本は筑摩。文庫から文春)であるのに対し、これは海竜社というちいさな会社からの出版。1997年発刊。

 海竜社は《創業以来、女性書・人生書・家庭教育書・健康書・生活実用書を始め、人文・歴史等幅広い書籍の発行、発売出版活動を展開している》と謳う女社長の会社。山崎サンに最もふさわしい出版社である。

 この他にも何冊か山崎サンの随筆集を出している。とはいえ曽野綾子や三木睦子(三木首相夫人)の本も扱っているようだからサヨク一色ではないようだ。



 この本は山崎サンが各種メディアに書いた短文を寄せ集めたもの。随筆集は7冊目とか。もっと読んでみたいが私の出入りする図書館にはこれしかなかった。
 初出誌は「中央公論」「別冊文藝春秋」「東京新聞」のような著名なものもあるが、ほとんどはマイナーなメディアが多く、中でもいちばん多いのが「月刊福祉」というもの。社会福祉法人全国社会福祉協議会が出している本らしい。知りません。いろんな本があるものだ。

 しかし私にとって最も興味深かった内容のいくつかは、不思議にみな「初出不明」となっていた。たとえば「お米五升あれば」というタイトルのものは、二十二歳で上京したときのことを書き、「それから三十数年経った」とあるから、五十代半ばの文になる。年齢から逆算して、1980年代前半、昭和の終り頃である。ここに収められたほとんどが1995年頃に発表されたものであり、本書の発刊が1997年だから10年以上ずれている。それらがみょうにおもしろい。もっとそのころの随筆集を読んでみたくなった。



 収められたテーマでいちばん多いのは朝鮮である。サヨクの典型例として、山崎サンも、ひたすら日本は朝鮮に悪いことをしたと連発する。もっともっと謝らねばならないと力説する。最初の亭主(朝鮮人東大大学院生)からの流れか、朝鮮とのつきあいは長いようだ。そりゃあ朝鮮名をつけてもらって誇ったぐらいだからねえ。

 初出不明の短文に《「君が代」に追るるごとく……》がある。これも文章内容から判断すると五十代のときに書かれたものだ。
 昭和27年、短大を出て二十歳で福井県の都市部の小学校教員になった山崎さんは、「戦後7年経ったし、これからは以前と同じように」と、職員会議で、学校行事における君が代斉唱を提案する校長にただひとり反対する。

戦争で大勢の人が犠牲になって、それでようやく民主主義の時代が来たんです。<君が代>ではなく<民が世>になったんです。『君が代』の歌で戦場に送り出されて、それきり帰ってこない父親を持った子がどのクラスにもいて、『君が代』を聞くと涙が止まらないと訴える子だっているんです。それなのに『君が代』を歌わせるなんて」と。

 その後、彼女は町中から山間の小学校に転勤させられる。下宿には駐在がやってきて部屋を覗いて行く。それらを山崎さんはみな「君が代」発言が関係あるのではと推測している。いわゆるアカ、危険分子とみなされたのではないかと。

 このあと「サンダカンまで」にあるように、東京の教師募集への応募が運よく適い彼女は上京する。私はそれを「勇躍上京した」と感想で書いたが、この短文では「君が代に追われるように故郷を離れた」とある。



 もしもそうなら彼女はこのころからもうサヨク全開だったことになる。とするなら、革命を志す朝鮮青年との恋愛、結婚、れいの朝鮮名をもらうあたりの話もごく自然な流れだ。
 私はこの朝鮮人東大大学院生の影響で彼女はサヨク化したと思っていたのだが、むしろ日本を嫌っている学歴コンプレックスの強い彼女から積極的に彼に近寄っていったのかもしれない。

 その若いときからのサヨク傾向が、潜水艦事故で艦長の父を失い、「天皇陛下の船を沈めてしまった非国民」という白眼視から来たものであるのはまちがいない。
 「サンダカンまで」の感想でも書いたが、父親が健在で、高級軍人の娘としての恵まれた生活が続いていたら彼女の人生は180度違ったものになっていたろう。

 だが私はこの「君が代」に関する話を信じていない。これは現在のサヨク全開の、ある意味大御所の(笑)サヨク系ノンフィクションライター山崎朋子サンが、「当時からわたしはこんなだった」と自分を美化するために作りあげたフィクションだと思っている。おそらくその根底には、入学式や卒業式で「君が代」を歌わない日教組の連中との繋がりがある。

 このころの彼女はまだ小学校教員養成所の2年間を終了しただけの二十歳の田舎娘だ。右も左も判らない最年少新人教員である。確乎たるサヨク思想もまだもっていない。そんな小娘が校長、教頭、先輩教員等が揃った職員会議で、校長の意見に対してただひとり挙手し、「ようやく民主主義の時代が来たんです。<君が代>ではなく<民が世>になったんです」と反対演説をするなんて、出来すぎた話。軟弱オヤジが「おれもむかしはワルだった」と強がるのと似ている。嘘であろう。おそらくじっさいは、「こういうことを言いたかったが言えなかった」程度と思われる。今の立場を鑑み、「わたしって若い頃からこんな過激発言をして問題になってたのよ」と言いたいがための創作だろう。



 朝鮮人の妻(未入籍だが)となった彼女は、在日朝鮮人から逆差別を受ける。日本人に帰化した元朝鮮人夫婦が経営する喫茶店を「朝鮮人の妻だから」という理由で解雇になるのだ。あなたたちも朝鮮人なのになぜそんなことをするのかと問う彼女に彼らは言う。
違う、違う。帰化したから、わたしたちは立派な日本人だ。わたしたちは、天皇陛下の赤子なんだ!」と。
 このことを彼女はこう回顧する。

国土を侵し、言葉を奪い、別な姓名を圧しつけ、ありとあらゆる富と文化とを強奪した日本国の頂点に位置する人の<忠良な臣下>となることによってしか生きられないという状況は、世界中のどこの国どこの民族にもなかったのではないでしょうか。わたしは、日本人のひとりとして、恥じずにはいられませんでした

 すごいことを書いている(笑)。当時からこれだけ天皇陛下を憎んでいたのなら、三十年後の今も岩波の雑誌「世界」で、「天皇」とのみ書き、皇后陛下を「天皇夫人」として、決して「陛下」をつけなかった感覚もよくわかる。

 しかし言っていることはおかしい。ありとあらゆる富と文化とを強奪した悪い国である日本のトップである天皇の「<忠良な臣下>となることによってしか生きられないという状況」というけれど、そんなものはない。彼らが好んで日本人になっただけだ。戦中に彼らが日本人のふりをして必死に生きのびようとしたとかならともかく、舞台は敗戦後すでに7年も経った昭和27年である。しかも彼らは都心で喫茶店経営という安定した立場も得ている。そういう彼らが今後も日本で生きて行くために選んだ方法が帰化という選択だった。いやだいやだと泣き叫ぶこどもに焼き鏝を押しつけるようにして帰化させたのではない。それは本人にたちの弁からも明白だ。なにゆえにこんな言いかたをするのだろう。

 それに対してこんな大上段からの反論は見当違いだ。山崎サンも、朝鮮人の妻という立場を選び、日本という国を批難し、日本人を嫌い、差別しているのだから、別の感覚のひとたちに朝鮮人として差別されるのは自然な流れだ。差別とはそういうものだ。お互いさまなのである。なぜ一方的に都合良く加害者の自分を恥じたり被害者の自分を嘆いたり、立場を変えるのか。理解不可能である。

 自分が朝鮮人の妻(=身も心も朝鮮人)として日本人を差別しているのだから、帰化して日本人になった元朝鮮人に、現朝鮮人として差別されるのは当然なのだ。なぜその簡単な論理がわからずこんな的外れなことを言うのだろう。日本という国を、戦前も戦後も今も、常に「加害国」として責めるように、山崎サンにとって自分と自分の関係者は、いつでも「被害者」である。とんでもなく我が儘だ(笑)。

「日本人のひとりとして、恥じずにはいられませんでした」とは、日本人の私が日本人の山崎サンに言いたい。サヨクは個人を主張するとき、都合の悪いことはみな国のせいにする。まるでだだっこだ。
 このひとは、あの東大大学院生の朝鮮人と結婚し、"夢の国"北朝鮮に渡ればよかったのだ。夢の国で餓死すれば日本という国がやっと見えたろうに。



 これまた初出不明の「父との会話」も興味深い。
 そういう形で父を失った彼女は、それをきっかけとして性格が激変する。私は「高級軍人の娘として恵まれた生活を送っていた明るく闊達だった少女が、潜水艦事故で父を失い、天皇陛下の船を沈めたと誹謗されることで、暗い子になってしまった」と思った。
 じっさいは逆だった。それまでの彼女は教室で先生に指名されても「はい」と返事をすることすら出来ず缺席扱いされてしまうようなおとなしい子だったとか。

 8歳で父を失い、妹ばかりを可愛がる母の差別待遇が始まる。
 それ以前から母親の妹贔屓は露骨だったようだが、帰宅はたまにでしかなくても彼女を可愛がってくれる父がいた。その父が消えた。しかも目に見える死ではなく、潜水艦事故により突如存在が消えたのである。遺体のない葬式だ。

後日註・このあと読んだ他の随筆集によると、父が生きていた当時は、母は妹と色違いのおそろいの洋服を着せてくれたりして、それなりにかわいがってくれていた時期もあるらしい。「母の露骨な(実子でない)山崎朋子いじめ」が始まるのは父が潜水艦事故で死んでからのようだ。そのこともまた彼女の母憎し、父恋し、を増幅しているだろう。

 たまに帰ってくる優しい父に甘えることにより母からの差別待遇に耐えていたのに、その父という存在がいきなり消えてしまった。すると彼女は日々優しかった父を思い、「お父さんさえ帰ってくれば」と脳内での父との会話を繰り返し、そのことにより変身するのである。
 名前を呼ばれても返事すら出来ず、いないのかと缺席扱いにされてしまうような影の薄い少女、小学校三年生にもなっておねしょをしていたような山崎朋子サンは、父を失ったことにより、突如一時限目から早弁をしたり、友人にイタズラをしたりする積極的な少女になったそうである。おねしょの癖もいきなり直ったとか。

 父を亡くして「明るい子が暗くなった」という私の想像はあまりに凡庸である。当たり前すぎる。そういう苦労をしたことのない凡人の発想だ。
 そうではない。遺体のないまま父を失うことによって、山崎サンは常に脳内に父を置き、脳内の父と会話することによって、今までとは逆の明るく積極的な子に変身したのである。しかしこの明るく積極的な子は本来のそれではない。なんともいたましい話だ。

 母からはその後もずっと差別されいじめられる。だが脳内で優しかった父と会話しつつそれに耐えて成長して行く。今も「父はわたしにとっていつまでも三十九歳のままだ」と書く。この辺、いたましい。なんとも気の毒でならない。

 同じくいまもいとしげに書く最初の夫(未入籍の事実婚)である朝鮮人の東大大学院生も、別れたときの二十代半ばのままである。彼女がこの世であいしたふたりの男は父とこの最初の結婚相手の朝鮮人だろう。ともに短いつきあいで別れ、時が止まってしまっている。じつにいたましい人生である。

 しかし本当にいたましいのは、彼女が真に愛したのはこのふたりであり、それではまずいかと、ときどき思い出したかのようにわざとらしく登場する、人生のパートナーとしては認められているが、とても男としてあいされているとは言い難い今の亭主であろう。



韓国共生園のこどもたち」という韓国の孤児園のことを書いた一篇にほんのすこし登場する回顧譚も興味深い。すでに知っているエピソードではあるのだが、その真の理由を知っているこちらが、それ以前に書かれた「理由を伏せたままの文章」を読むのは奇妙な読後感だ。

 山崎サンは「サンダカンまで」で、母親から一歳違いの妹と差別待遇を受け、疎まれたことを告白したあと、自分は実の娘ではなかったのだろうといくつかの根拠を上げて書いている。たぶん事実だろう。これが初のカミングアウトだった。それが2000年ごろ。対してこれらは1995年ごろに書かれた短文だ。

 ここではまだそのことを書いていない。本人はもうとうの昔に差別された真の理由をわかっている。でもそれはまだ書けない。伏せたまま書く。一歳年下の妹との扱いで母から差別待遇を受けた理由を、《自分は小学校三年生までおねしょをするような子だった、妹は優等生だった、容姿も含めて「これが実の姉妹かと疑われるほど違っていた」》とする。いわば妹は美人で優等生、自分はぐずでノロマなブスだから、母からの愛情が違っていたとしているわけだ。もちろん写真のモデルまでしていた山崎さんがブスのわけがない。自分でもむかしの写真を公開してさんざん自慢している。無理矢理のわざとらしい理由づけである。いや、わざとらしいと言ったら失礼だ。訂正する。そう言うしかないのだ。本当のことは書けないのだから。容姿も「これが実の姉妹かと疑われるほど違っていた」とは、なんとも切なくなる話である。おそらく妹は実母似、山崎サンも生みの母である実母似だったのだろう。だからよけいに母親は自分に似ている我が娘を溺愛し、自分とはなにひとつ共通点のない(他人なのだから当然だ)山崎サンを嫌ったのだろう。

 ほとんど一緒に上京したのに、二部の短大しか出してもらえなかった自分は喫茶店のウェイトレスとして働きつつのかつかつの生活、妹は母からの仕送りで優雅な大学生活(明治大学)、その待遇の差、母親の差別の理由を、妹は容姿端麗な優等生、自分はおねしょしていたような劣等生だったからとしている。後の「サンダカンまで」を読んでいなかったなら微笑ましいエピソードに過ぎないが、それを読み、真実を知っていて読むのはつらい。



 もっとも「喫茶店のウェイトレスとして」の部分は、運よく給料の東京都の教員になれたのに、その朝鮮人の活動家とすこしでも一緒にいたいとサヨク活動に走り辞めてしまったからである。彼と知りあったのは東京都の教員時代、演劇のスタニフラフスキーシステムを学ぶためにロシア語が必要と家庭教師を雇ったら、それがその東大大学院生の朝鮮人だった。この時点ではそれぐらいのことが出来るぐらい生活は安定していた。だから仕送りで大学生生活を送る優雅な妹とウェイトレス稼業の貧しい自分の対比は単なる母への当てつけになる。それだけ怨みは深いのだ。今も。

 もしも母の実子であり、姉妹の学歴差別が、そのときは家計が苦しく長女を大学に行かせられず、次女は行かせることが出来たという経済的な問題だけであったなら、彼女は給料の良い東京都の教員としてなんの不満もなかったろう。ねじれた家庭の悲劇である。



 新宿風月堂の喫茶店時代の話に売れる前の寺山修司が登場する。後に互いに有名になってからテレビで対談し、寺山は彼女と初対面と思っていたが、あのころ風月堂で毎日コーヒーを運んでいたウェイトレスだったと山崎サンは告白したとか。なんだかこの番組をテレビで見た記憶が朧にある。

 自伝の中に何度か登場し、最愛の朝鮮人恋人と出会うきっかけとなる演劇用語のスタニフラフスキーシステムということばを私は五木寛之の随筆で覚えた。略して「スタシステム」と何度も登場する。当時の演劇青年の常用語だったらしい。新宿風月堂で五木と山崎サンは会っていないが、五木さんも常連だったから「きっと美青年時代の五木さんともすれちがっているはず」としている。当時の五木さんは美男だったろうなあ。



 山崎サンは母から差別されたことが悔しい。いまもトラウマとして残っている。この文章を書いているときの年齢、五十を過ぎた今も悔しくてならない。だがその真の理由を書けないままに書いているこれらを、後の「サンダカンまで」を先に読んで理由を知っていて読むと、これまたなんともいたましい。

 このあと七十間際になって書いた自伝「サンダカンまで」で初めて自分は母の実子ではなかったようだと初告白するのだが、まだそれを告白していない六十代に書いた短文を集めたこの本の中に、初出不明として散在する五十代のときに書いた文章は、母から差別待遇を受けたままおとなになり、いまだにその傷の癒えないひとりの女の屈折した心情吐露として、まことに哀切なものがある。

 今の私に山崎朋子というノンフィクションライターと相通じるものはなにひとつなく、政治思想的にはもう仇敵といいたいぐらい対立する立場なのだが、それとは関係なく、ひとりの女の人生として見た場合、なんともこのひとの歩んできた道が気の毒でならない。彼女は自分を底辺の女だなどとはまちがっても自覚していないだろうが、彼女の人生はまさに戦争によって歪められた「底辺女性史」そのものである。だから売春婦を扱ったような他の女性史よりも、山崎朋子作品としては、この「サンダカンまで」という自伝が最高傑作として輝く「底辺女性史」なのである。

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 山田わかは、無学ながら多国語を自力でマスターしていたふた回りも年上の亭主山田嘉吉に、一般教養から外国語まで教えてもらって成長して行く。
 山崎朋子は、専門学校しか出ていない(山崎談)が児童文学者としてすでに売文業を始めていた年下の亭主に、文章の書き方を教えられ、文を書くようになる。いまの亭主に出逢わなければ自分が文章を書くことはなかったと語っている。

 私の中で、山田わかと山崎朋子が重なる。ともに底辺からのし上がった女である。
 山崎朋子は、山田わかに、自分と共通のものを感じ、書いてみたいと思ったのだろう。

 山崎朋子まとめ読み5.に続く



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