02/3/5
紅梅
(02/3/5)

 

 散ってしまう前にと庭の紅梅を写真に撮る。さくらの潔さもいいが梅の可憐さもまた格別である。万葉集の中ではさくらの三倍も梅が取り上げられているとか朝のニュースが豆知識で流していた。歌の題としてはそれはやはり梅だろう。私もやっと梅の価値が解る齢になりました。
02/3/28
椿



02年3月28日。
今年は春が早い。冬の椿が終って春を告げる白蓮、白蓮が終って春満開の桜のはずなのに、みんな一気に出そろってしまった。
季節が被ったといえば、この椿のほうが強烈か。椿には冬の花というイメイジがある。
これは侘助(わびすけ)という洒落た名を持つ、ちょっと珍しい品種。いい赤でしょう。
02/3/27
白蓮


02/3/27
庭の白蓮。白蓮が終って、しばらく経って桜なのに、今年はなんと被さってしまった。
白蓮はただしい。あたたかすぎて桜が早いのだ。
02/3/30

 いい天気だ。庭に出て桃の花を写真に撮る。かわいいねえ。ちょうど蜜蜂が花にとまっているところだったけど見えるだろうか。


 これは家の隣の畑にある桜。ここに愛猫が眠っている。お墓にもうちらほらと花びらが散っていた。ほんとうに早い春だ。
02/4/14
黄桜
(02/4/14)


 門のあたりで咲き乱れている桜のような黄色っぽい花がある。桜はもう終ったはずだしこれはなんなのだろうと母に訊いたら、桜のようなではなくそれは桜であり、黄色っぽいのではなく、それは黄色である、これを「黄桜」だと無知を嗤われた。しかも咲き乱れているのではなく、もう散る寸前だという。急いで写真に撮った。

 黄桜といえば、楠木トシエ(どんな字だっけ、敏江かな、これは漫才ののほうか?)が歌った「カッパッパ、ルンパッパ」でおなじみの日本酒しか知らない。黄桜が我が家にあるとは知らなかった。恥ずかしい。街中でも我が家にしかなく珍しいとのこと。まあ、花の種類だけは自慢できる家だ。

 田舎者には二種類ある。故郷が田舎であることを過剰に恥じてしまうタイプと、大自然の雄大さの中で育ったことを異常に誇るタイプだ。ぼくは前者になる。後者の代表は北海道出身の人に多い。
 ひたすらコンクリート的な都会に憧れ続けて生きてきたが、あれはいつだったろう、三十代だ、博識な人がコラムの中で、「夏にほんの数時間だけ咲く月下美人という花があるそうで……。」と書いていた。ぼくはそんなもの、こどもの頃からずっと見て育ってきた。それどころか、いよいよ咲き、すぐに萎んでしまうからぜひ見ておけという母の誘いを蹴って見なかったぐらいだ。時が過ぎて、自分が自分なりにぜいたくな環境で生きてきたのだと知ったとき、都会に対する不要なあこがれが消えた。
 ぼくは都会にはあっていたと思う。田舎の高校の同級生を見ても、みな東京に出ても、田舎友だち同士でつきあい、卒業と同時に、まるで逃げ帰るように県庁かなんかに就職して帰郷している。ぼくは東京が楽しくてたまらなかった。「都会の孤獨」なんてことが言われる。田舎者は五月病だとか友だちがいないとかそれに当てはまってしまうらしい。そういう例もいっぱいしっている。友人の妹なんて東京の短大に出てきて二ヶ月ぐらいでノイローゼのようになり帰っていった。
 東京と田舎の両方の良さを実感できるようになったのはうれしいことだ。
03/11/28

むべ
 庭になっているむべの写真を撮って掲載しようと思っていた。上記「むべなるかな」で思い出したので、いま写真を撮ってきた。ぼくは自分の育ちの数少ない自慢として、草花と果樹にだけは恵まれていたと書いている。庭にむべのなっている家もそうはないでしょう。食べたことはない。

むべ【郁子・野木瓜】アケビ科の常緑蔓性低木。暖地に自生。五〜七の厚い小葉から成る掌状複葉で、五月頃、白色で淡紅紫色を帯びる花を開き、佳香がある。暗紫色のアケビに似た果実を結ぶが、アケビと異なり開裂しない。甘く食用。茎・根など、アケビと同様、利尿剤。トキワアケビ。うべ。
季・秋。「郁子の花」は季・春。〈和名抄一七〉『広辞苑』より


「むべなるかな」のむべは副詞のうべの変化でこれとは関係ありません。
07/5/5
 生きていたハイビスカス

 これがいま私の人間以外の友人としてはいちばん長いつきあいの生き物であるハイビスカス。もう14年になる。この写真は田舎時代のもの。このときで12年だからいま14.5年にはなる。手入れもしない私によくつきあってくれている。ハイビスカスは寒さにさえ気をつけてやれば強い花だ。

 剪定もせずほったらかしだったので上の写真など人間の髪の毛で言ったら蓬髪である。レゲエのおじさんというかホームレスというか、好き放題伸び放題だ。とはいえ土は毎年換えていたし水も肥料もたっぷりやってかわいがっていた。枯れ葉もむしったしアブラムシがついたときは薬剤を塗布した。そういや手間のかからない花だったけどアブラムシにだけは悩まされた。樹木の多い茨城のときはともかく国立の八階でも一時ついことがあった。なんなのだろう、アブラムシってヤツは。よくぞ名つけたもので見事に脂ぎっている、いや油っぽい、虫だ。
 私なりにこれだけ咲き誇るだけの愛情を注いでいるつもりではいる。だから見た目は好き放題の手入れなしでも弊衣蓬髪のきたないおじさんとは違う。

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 ATOKがよくわからん
 いま剪定していないので好き放題に伸びた状態を「蓬髪」とたとえようとした。が、変換されない。焦る。「ほうはつ」って覚えてきたがもしかしたらまちがいなのか。日本語ってのはむずかしい。「十手」を「じゅって」と打っても変換されず腹立って辞書登録した。のちに「もしかして、じって?」と、そう正しく打ったらすぐに変換されて赤面したときを思い出す。「ほうはつ」ではないのか!? 長年読み間違って覚えてきたのか? 冷や汗ものである。調べたら正しいとわかって安心する。
 一生使うことのないとんでもないむずかしいコトバが入っているかと思うとこんなのがなかったりする。ATOKの辞書基準は不思議だ。

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 国立にいた一年半、ハイビスカスはまったく咲かなかった。茨城と比べたら日当たりが悪い。マンションのヴェランダは軒先がせり出したようになっているので、斜めから差してくる日差しを受けるような形になる。全身で太陽の光を浴びるのとはちがう。充分に温かくはしていたが、しかたなかったかとも思う。それでも葉は青々と茂りながら決して花を咲かせないのは私の悩みを反映しているようでやるせなかった。花は人の心を映す。あながちうがった考えでもあるまい。花も私も鬱だったのだ。
 本当は上掲の写真に捨てた故郷時代のものではなく国立のものを使いたかった。でもほとんど咲かなかったのだ。写真も撮ってない。

 今年の二月半ば、いまの地に引っ越したとき、私は突如剪定した。買ったころは50センチぐらい、それから時を経て1メートル半まで伸びていた背をいきなり半分にした。すきかってに横っちょに伸びたりしていた枝もぜんぶ払った。それは通常夏前にやることだ。いくら日当たりのいい室内で寒さから守っているとはいえやってはならないことだった。狂気の沙汰である。だけど通年咲き誇っていたのに一年半もまったく咲かなくなってしまったハイビスカスに、あたらしい環境で一緒にやり直そうと言いたかった。枯れたらそれまで、ぐらいの覚悟だった。
 腰まで届くような豊かな黒髪の女をいきなり丸坊主にしてしまったようなものだから、しばらくはとんでもないことをしてしまったと悩んだ。こういうよけいなことをしては順調に動いているPCを壊したりしているのだが、それともまた話が違う。これは機械ではない。命のあるものだ。失敗してももういちど組み立てればいいというものではない。もしも枯れたら落胆はたとえようもなかったろう。

 とんでもない荒療治の剪定だった。万が一のことを思って心配でならなかった。日に何度も話しかけた。
 それでもこれは長年生きてきた根っこが力強く張っているから、さほどの心配はいらなかったようだ。やがて若々しい芽が吹き出してきた。いま夏に向けてつぼみを蓄えつつある。今度の部屋は明るいし日当たりもいいし、夏にはまた咲き誇ってくれるだろう。早く元気になって一緒に暗かった国立時代を忘れたい。

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 そのとき切り落とした大量の枝の中から形のいいものを挿し木にした。私が云南に出かけているあいだ御徒町から国立まで水をやりに来てくれたH子さんに分けて欲しいと言われていた。私も彼女には葵やアロエやいくつももらっている。彼女は私がはるばる茨城から長年のつきあいなのだと運んできたハイビスカスをもっと小柄なものと思っていたらしい。写真のような1メートル半の高さがあり、これでもかと咲き誇っている花を見て驚嘆していた。小柄な猫を想像していたら虎が現れたようなものである。

 この挿し木の命は諦めていた。本体が死ななかったことでよしとせねばと思っていた。
 鉢に挿されたそれはまるっきり「枯れ木」である。日当たりのいい場所におき、なるべく日光を当てるようにした。葉がないのだから水も要らないだろうし、へたにやりすぎたら腐ってしまうかもしれない。それでもたまにはそっと注いだりした。

 春になったある日、その枯れ木に緑のちいさな芽を見つけたときの感動は言い表しがたい。生きていたのだ。鉢に挿された枝はこの三ヶ月のあいだ、ちいさな根を生やし(見ていないけれど。見てみたい)自分の命をつないだのだ。



 枯れ木からちいさな緑の芽がいくつもいくつも育ちつつあった。



 ハイビスカスの成長は早い。ここまで来たなら春から梅雨、猛暑の夏を迎えて、一気に実るだろう。日々、この生長を見るのが楽しみである。夏になって花が咲くころにあげるとH子さんには連絡した。難病から生還した彼女もこの話を我が事のように喜んでいた。生きる命が与えてくれる感動は大きい。

 花屋にあるハイビスカスの鉢は青々と葉が茂り成長を抑える薬がもちいられている。土が見えないほど葉が茂っているが幹は箸ほどもない。生まれて数ヶ月だから当然だ。その点私のこれは14年ものである。これに葉が茂り花が咲いたら盆栽の趣になろう。
 日々語りかけるのが楽しみでならない。

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