-2005
05/2/28
 高倉健とクリント・イーストウッド

 高倉健が何年ぶりかで映画に出るそうで話題になっている。スポーツ紙でも読んだしワイドショーでも見かけた。監督は中国人だ。78年に制作公開された「君よ 憤怒の川を渡れ」が中国で大ヒットし(日本ではそれほどでもなかった)て高倉健は中国では伝説的な存在になっている。そういえば同じくこの作品でヒロインを演じた中野良子も山口百恵と並んで人気が高いことは有名だ。典型的日本美人なのだそうな。よくわからん。私は西村寿行の大ファンだったから原作は読んでいるが映画は見ていない。

 私は高倉健を嫌いではないからケチをつけるきは毛頭ないのだが、毎度彼に関する報道を見ていると、ちょっとなあと首を傾げることが多い。褒めすぎだと思う。いやそれはこの人の細やかな心遣いと義理人情の厚さ、すばらしい人格にはだれもが魅せられてしまうらしいからよく理解は出来る。知っているいくつかのエピソードを思い出すだけで胸が熱くなるほどだ。なんでもかんでもケチばかりつけているマスコミが文句なしに褒め称える存在は珍しくその稀な存在をすばらしいと思うのだけれど……。
 ただ、「かっこいいですよねえ、うっとりします」と二十代、三十代の女レポータが言っているのを聞くと、ほんとかよ、おい、と思う。健さんは七十四のおじいさんである。真っ黒に染めた髪は不自然だし年相応に皺深い。これをやたら何十年も前からと同じ口調でかっこいいとだけ褒めるのはいかがなものか。これでもしふつうの結婚をしていて子供や孫がいたならだいぶ存在は違ったものになっていたろう。どうにもあまりに持ち上げられてしまうのもかえって気の毒だなと思ったりする。

 いや私はいいのだ。本当に彼を好ましい存在と思っているから。首を傾げるというかある種腹立たしく思うのは、「ほんとかっこいいですよね」なんていかにもそれらしくしゃべっている女レポータが本当にそう思っているのかと、その薄っぺらさが不快なのである。これは吉永小百合をきれいだきれいだとそれだけで持ち上げるのと似ている。彼女だって生理がとっくにあがったおばさんだ。同級生には孫がいる人も多かろう。うすっぺらな「かっこいい」と「きれい」は失礼だと思うのである。

 アカデミー賞ノミネートの話題から、クリント・イーストウッドも同じ七十四なのだと知る。ふたりは同じ年だったのか。かたやマカロニウェスタンという関西風の口の悪い言いかたをするなら"バッタもん"の西部劇俳優からのし上がってここまでの存在になった。健さんもヤクザ映画出身だから出自は似たようなものになる。そうして七十四のいまもバリバリ現役で活躍していることも同じだ。
 だがふたりの歩みを見ると、イーストウッドが時代とともに年相応の老けかたを楽しみ、それにふさわしい役柄を設定し(彼は監督もするからそれが出来る)悠々自適の道を歩んできたのに対し、健さんは老いを否定したずいぶんと窮屈な生きかたのように思える。
 ニヒルでハンサムなかっこいいガンマンを演じていたイーストウッドは、自分で作った西部劇「許されざるもの」で体にガタの来た、馬に乗り損ねて落馬するようなかっこわるいガンマンを演じた。老醜を真っ正面から売り物にした。そのことによってさらに自らの価値を高めた。

 それを健さんに当てはめるなら白髪でしわしわの老任侠だろう。若い奴らに力でかなわずかっこわるさをさらげだす。だが最後に肝の据わりかたで格の違いを見せつける。いいかげん健さんもそっち方面を演じてもいいのだが、いや演ずるべきと思うのだが、相変わらず五十ぐらいの強い男を演じている。
『鉄道員(ぽっぽや)』では定年間近の鉄道員を演じた。それですらちょっときついのに劇中では三十ぐらいの新婚時代も演じた。いくらなんでも無理だった。この人は年相応の役柄を演じることなく役者生命を終えるのだろうか。もったいない話である。でも今更真っ白な髪をさらすわけにも行くまいし、これはこれで健さんの生きかたか。

 老いを真っ正面からとらえた美しい人生というと我が国の皇后陛下がそうである。まぶしいほどのプリンセスから今しわしわの老婆になったが、そこに歳月の重みと美がある。それは外国に行ってはしわとり手術を始めとする美容整形をして美を保っているタイの王妃と根本からちがう。タイなんぞの王室とは歴史が違うんだという貫禄を皇后陛下の美しいしわが示している。

【附記】アカデミー賞結果
 アカデミー賞でイーストウッドが監督賞を受賞した。七十四歳は史上最年長だという。やりたいことは全部やってのけるかっこいい男だが、中でも私の好きなのは大のJazzファンだからとチャーリー・パーカーの伝記映画「Bird」(音源はそのままパーカーのものを使った)を作ったことと、政治にも打って出て市長になったことだ。ほんとにもうやりたいことは全部やっちゃうんだものなあ。あとはなにがある。

【附記・2】3/2
 以前『週刊文春』で高島俊男さんが言っていたことなのだが、「美智子様だの雅子様だの様をつければいいってもんじゃない。皇后陛下、皇太子妃殿下と正しい呼称があるではないか」に全面的に賛成である。私は皇后陛下のファンだから美智子様とか美智子さんとか言ってみたいが、皇后陛下と書くことがそういう皇后への敬愛の気持ちをいちばん顕せるのではないかと思い、そうしている。女性週刊誌が始めたのだろうが「美智子様」「雅子様」は気持ち悪い。むかし運送屋の助手をしていたとき、そこは共産党系組合の巣窟だったから、仕事中(走行中)にそういう「様」のラジオ放送を聞いた運転手から「なんで様なんかつけんのかね、同じ人間なのに」と同意を求められたときは困った。共産党だからしかたないのだが、でもこれも「皇太子妃殿下」ならケチはつけなかったように思う。その意味でこれはあきらかにサヨクが始めたものであるのも確かなのだ。一見ファーストネイムによる親しみやすさの演出のようでいて、狙いは「なぜ同じついこのあいだまで平民なのに、結婚したからといって様をつけねばならないのか」という問題提起なのである。でもまあこれぐらいの提起はあってもいいか。要は美しくないことである。私は感覚として「雅子様」とは言いたくない。でも「皇太子妃殿下」ならすなおに言える。それがすべてになる。
05/4/8
 談志がバラした正蔵出生のミステリ──

 きのう出た『週刊新潮』を立ち読み。最初「えっ!」と驚き、次に「そんなバカな」と嘆息した。談志の得意なフレイズで言うなら「洒落になんねえや」になる。

 こぶ平がたいへんな艶福家であった三平が銀座ホステスに生ませた子であることはいわばこの世界の常識だった。しかしそのことに触れないのもまた礼儀だったはずである。なんでこんなことをしたのか理解に苦しむ。談志に腹立ったのはれいの「拉致被害者」に見当違いの暴言を吐いたとき以来だ。『噂の真相』のようなクソ雑誌が書いてもかまわない。だけど業界内部の談志が口にしたのでは重みが違う。こぶ平の気持ち、なにより香葉子夫人の気持ちを思ったら言えることではあるまい。香葉子夫人が故人になったとき、こぶ平自ら口にするのが最善と思っていた。
 私ごときでもこのような内輪の秘密ホームページで触れるだけで、表では言わなかった。なんでこんなことをするのだろう。

 談志としては、正蔵襲名の派手なお練り等に批判的で、中身のないヤツがなにをやっても意味がない、それよりも今こそ出生の秘密を自ら明かして、のような意見らしい。後見人である小朝にも批判的、とあった。落語を「人間の業の肯定」とする談志の解釈は見事で、全面的に賛成である。このごろ暗い内容の落語を聞くたびに、「業の肯定」という解釈をもっていないと、やっていられないなと思ったりする。落語は決して笑わせてくれるだけのものではない。落語を聞いてやりきれなくなることもある。

 しかしどうなんだ。経済的に恵まれたおぼっちゃま育ちなのに、いつも寂しげな風情をもっていたこぶ平。あれは私が北野誠に感じたものと同質だ。あきらかに他のきょうだいとは違っていた。あれはこどものときに「ぼくはおかあさんのほんとの子じゃないんだ。他のみんなとは違うんだ」と知って刻まれたものだろう。
 談志はいまこそそれを明らかにし、肥やしにして大成すべきと考えたようだ。
 だが現実には、たいして力のない芸人が派手な襲名披露をやっていることに対する嫉妬、苛立ちと採られてもしかたあるまい。実際その部分もあるはずだ。落語界に血縁者のいなかった談志には、志ん朝のような実力者の血縁者に追い抜かれた恨み、生意気だと柳朝を始めとする連中にいじめられた悔しさは今もくすぶっている。

 一方で私は、大御所の談志が明らかにしたのだから、そういうことももうおおっぴらに書いていいんだなと気楽にも感じている。そしてまた、もしもこれがきっかけでこぶ平が大化けしたなら談志の功績だとも。その可能性もあるかも、と……。
 でも「なにを言ってんですか、わたしの子ですよ。私がお腹を痛めて産んだ子です」と懸命に主張したという香葉子夫人のことを思うとなんとも切ない気分になる。女しか産めず心苦しかった香葉子夫人が愛人が産んだこぶ平より十年遅れでいっ平を産んだときの誇らしさはいかほどだったか。あのときもう三十七だったか。意地でも男の子を産みたかったのだろう。そうして、そのことによって自分の存在価値の下落を知ったこぶ平の気持ち……。
 なんともまだ感想がまとまらない。ただし事は海老名家の個人的な話である。それをバラすことも業の肯定か。談志らしいとも言えるし、なんて非常識な男だと腹立ちもするし……。

北朝鮮拉致被害者に談志が吐いた暴言

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