2002〜2003
02/7/18 アムロ離婚(02/7/18)

 アムロの離婚が決定的らしい。「やっぱり」と思った人は多いだろう。男のほうの家柄がいいとか、年が離れているとか、アムロのほうがスターだからとか、結婚当初から色々なことが言われて案じられていた。ぼくも間違いなく離婚するだろうと予測していたひとりなのだが、マスコミの伝えるそれらの論調とはすこし違っている。
 ぼくはコムロ系の音楽が嫌いなので、彼女がレコード大賞を二年連続で取ったとか、紅白のトリをつとめたとかも単なるニュースでしか知らない。知っているとは、ぼく流に言えば、その曲を歌えることである。曲名も知らないのだから、こういうのは知っていることにならない。

 レコード大賞と紅白歌合戦は昔から今に至るまで、大晦日の二大イヴェントだった。両方とももう三十五年ぐらい見ていない。まあそれに限らず、ぼくはNHKの朝の連ドラも大河ドラマも一切見ていない。そういう人と、それを楽しみにしている人の間の溝は、深い。
しかしよくしたものだといつも感心するのは、旅先で知り合う人でも、「いい人なんだけど、なんか感覚が合わない。なぜなんだろう」と思う人は、見事にNHK朝の連ドラを楽しみにしている人だったりする。そういう人は、チェンマイでの住まい選びもNHKが受信出来るかどうかで選んでいたりする。チェンマイで「おしん」の再放送をヴィデオに録り、日本から送ってもらって楽しみに見ているなんて人と私が気が合うわけがない。それにしても、世の中にはいろんなリトマス試験紙があり、それがまた見事に試験紙としての役割を果たすことには感心する。

 ほくはアムロの価値を知らない。街で会っても、いや今目の前にいても、なんの興味もない。歌は知らなくても彼女を見たのは早い。「天才たけしの元気が出るテレビ」で、沖縄の空手少女として出演したのが彼女がテレビに出た最初のはずである。十四歳ぐらいか。そういえば、的場浩二ってのも、あの番組で暴走族をやっていたひとりだった。先日結婚を発表した千秋ってのも、本名で素人物まね番組に出ていたことを覚えている。そんなことはともかく。

 ぼくがアムロが離婚すると思った理由は、一般に取りざたされている前記したようなあれこれではない。ぼくは彼女に「雌雄同体」のような強靱さを感じたのである。彼女にとって大切なのは彼女のプロデュースする彼女自身の人生なのだ。だから彼女の選んだ男は、ぼくからすると「種を提供する雄」にしか思えなかった。雌雄同体に見えたが、ミミズのような完全なそれではないから、雄の種が要る。彼はそのために選ばれたのだ。種を提供し妊娠さえすれば後は用済みだった。

「自分でプロデュースする自分の人生こそが生き甲斐」という強靱さは、松田聖子などにも感じた。
 アムロの強さを沖縄の土壌と結びつけるのは安易だが、無視も出来ないだろう。彼女ほど色気と無縁の母親も珍しい。そりゃそうだ、雌雄同体なのだから。女性週刊誌は離婚の原因探しをするだろう。男がいた、女がいた、育ちが、金遣いが、仕事が、食事が、あれこれと重箱をほじくるはずである。でも最終的にはなにも出ない。お互いに好きな相手が出来たとかそんなこともどうでもいいのである。アムロにとって大切なのは『客観的に見た自分自身』だけなのだから。今後彼女が何回結婚し、何人子供を産もうと、その根本的な人生観は変わらないだろう。その意味で、紛れもなく新人類である。いや、ミュータントなのかな。
03/1/24 《今週の『週刊文春』より》(03/1/24)
タイ王室を激怒させた   「女王様は私の方よ」
浜崎あゆみ「逮捕寸前」不敬事件

 『週刊文春』にハマサキアユミがタイの王室に不敬でウンヌンという記事が載っていた。上はその宣伝からのコピー。彼女はタイ王女に礼を尽くすことを拒み問題になったらしい。文春はそれに批判的だった。
 タイ好きであり皇室好きなのだから当然文春と同じ意見と思われそうだが、ぼくの感覚は少し違う。彼女の感覚がわかる部分もあるのだ。

 競馬にジャパンカップという国際レースがあり、毎年歓迎パーティが開かれる。当初(昭和60年頃)ぼくは珍しいもの見たさに参加していたのだが、海外の王室関係者が来るようになってからは行かなくなってしまった。元々競馬は貴族達の馬自慢から始まったことだから各国の王室とはゆかりがある。
 そのときの敬称である。アラブの王様にいちいち「Your Majesty」とか使わねばならないのは気が重かった。「You」と話しかけるのは厳禁だ。失礼なことはしたくない。かといって心から尊敬しているわけでもない外国の見知らぬ人に、そんな特別の呼びかけをするのも面倒だった。だって彼らはアラブの王様かもしれないが、ぼくからすると見知らぬおじさんでしかない。その人を「陛下」とは呼びたくない。ぼくがそれをするのは我が国の皇族だけだ。よって行かないことにした。

 ハマサキの場合も同じだろう。彼女はタイ王家を尊敬していなかったから普通にふるまった。(まあ尊敬以前にタイが王国であることすらしらなったろうが)。それは自然な感情である。だけどまたとんでもなく失礼であるのも確かだ。その責任は周囲にある。
 まず、彼女がその礼儀に納得していなかったら、行かせるべきではなかった。対面させるべきではなかった。行かせるなら、王女と対面するなら、郷に入ったら郷に従えを教え諭し、納得させてから行くべきだった。

 生意気盛りの彼女が、見た目も自分たちと同じでどこも変りない相手に、タイ王室の偉いかただから礼を尽くせと言われてむっとした気分がわかる。基本はぼくが見知らぬ外国人にYour Majestyと言いたくないのと同じだろう。でもぼくは、だからそういう場に行かないようにした。彼女は大役を引き受けて(なんとか大使って特使だったようだ)行った。ならきちんとせねばならない。
 彼女のやったのはとても失礼なことである。だけどそれは彼女自身というより彼女をリードする周囲のミスだ。責任はそこが負うべきであろう。

 ぼくも外国人タレントが日本の皇室に失礼な態度を取ったら怒る。だから感情を害したタイ国民も王室関係者も正常な感覚である。気分が悪かったことと思う。すみませんね、バカネーチャンで。でもあんなのを招待しようとしたあなたたちも問題ありですよ。元々あんなレヴェルなんですから。
 タイ国民に人気の高い王女が気にしないと言ってくれたので大きな問題にはならなかったようだ。
 それにしても、どういう経緯でこんなことが起きたのだろう。マネージャーや所属事務所の連中はなにをしていたのだ。稼ぎ頭の彼女に頭が上がらず意見できる雰囲気ではなかったのだろうか。くだらん話である。
03/5/7
フルタチイチロー、在日カミングアウト



 七時から九時まで古館伊知郎のインタビュースペシャル番組があったらしい。体の具合が悪く横になっていたので見過ごした。偶然つけて見たのは安倍晋三の最後の十分間だけ。前半は慎太郎さんが45分も出ていたと後で母から聞いた。見たかった。残念だ。

 おどろいたのはその中で、古館が在日であると自ら認めたとの話。私は見ていないのだが、そういうことにまったく興味のない母が見て、おどろき、話しているのだから間違いない。
 なんでも脱北者へのインタビューで、彼に「あんただって日本人じゃないだろう」と言われて、すなおに認めたのだとか。

 こういう又聞きは誤解の可能性もある。気をつけねばならない。そうでないと言い切れるのは、父母にとってNHKの番組を持っている古館は身近な好きなタレントであり、彼がそうであることを父母はいっさい知らなかったからである。たいへんな新事実を知ったかのように母が報告してきたのだからほんとうであろう。
 在日が大多数である芸能界のことを父母は知らない。私もよけいなことを、今は言わないようにしている。以前、父母のだいすきな沢口靖子がそうであることを教えたら、なんともいえないがっかりした顔をしたので、以降よけいなことは言わないようにした。父母から朝鮮人差別のことばを聞いたことはいちどもない。そういう家庭で育ったことをありがたく思う。それでもそのがっかりした顔が彼らなりのそれなのだろう。



 古館が在日であることは彼がプロレス番組を担当していた二十数年前から公然の秘密だった。いや、こういう場合は公然の秘密とは言わないのか。口にしてはならない極秘だった、のほうが適切か。そもそも彼が獨自の語り口でのし上がってゆくのにも同じ在日のつかこうへいとの関わりや、和田アキ子の引っ張りとか、いくつも裏話があるのだが、それはともかく。
 脱北者にそう問われて古館はすなおに認めたという。いいことだ。番組構成から、彼はそうなったら認めるつもりで番組に臨んだのだろう。正しい時代になりつつあると思う。

 在日芸能人のカミングアウトに関して、腹を立てた最初の記憶は岡田可愛の件だった。「サインはV」で人気者になった彼女に女性週刊誌がしつこく在日疑惑を質し、彼女が涙ながらに「隠していてすみませんでした。じつはそうなんです」と語るのである。なんで悪いこともしていないのに謝るのか、泣くのかと、正義漢に溢れた田舎の高校一年であった私は腹だった。ライバルを演じた藩文雀(この字でよかったかな? もう死んじゃったね)が、その名前から台湾人であることを最初から明確にしていたので、よけいにこの涙の告白が納得できなかった。そういうことをする週刊誌の見識のなさを憎んだ。

 当時の私は日教組教員から受けた戦後民主教育に洗脳されていて、朝鮮人、中国人を見たら、日本は悪いことをしました、すみませんでしたと土下座して謝りたいと思いつつ生きていた頃だから、特に強くそう感じたともいえるが、その基本は洗脳から抜け出せた今でもかわらない。自身のルーツを恥じることなどない。彼女を泣かせた週刊誌に腹を立てる気持ちは今も同じである。

 なにが無意味といって、芸能人、役者、歌手、スポーツ選手、作家等に、在日朝鮮人や被差別部落出身者が多いと得意げに吹聴することほど無意味なことはない。なぜならそれは、最初から彼らの仕事分野だったからである。そんな業界にやんごとなきおかた(なにがやんごとなきだか知らないけどさ)がいるほうが異常なのである。和太鼓奏者や集団もみなそうだけど、それだって「太鼓とはなにか」と考えれば理の自然であり、そんなことをおおげさにとりたてることのほうがくるっている。私の好きな芸能人、スポーツ選手、作家等百人の内、九割方はそうである。だってそういう分野なのだから。そんなのあたりまえだ。
03/11/19 むかし銀座、いまキャバクラ

 週刊誌によると最近の美人タレントは前職でキャバクラに勤めていたのが多いのだとか。その代表として何人かの名前が挙がっていた。そういう方面に疎いので井上和香の名前しか覚えていない。あと、白石美帆もそうか。これもこのことを書こうと思い、ひとりぐらいは名を挙げないとと思ったら彼女が手近の週刊誌の表紙になっていたので目次から名を確かめたのだった。数年前に勤めていたキャバクラ時代も二十三歳だったのに今も同じ年なのが不思議だと書いてあった記事は覚えている。

 これは年を取ったために流行りものから疎くなったのとはすこし違う。純粋に興味がないのだ。そういう興味がなくなることを年を取った、世から遅れていると言うのだと言われるかもしれないがそうではない。むかしから世に対する興味が偏っているのでこんな感じなのだ。井上和歌(他大勢のそういうタイプ)は何度もテレビで見ているのに興味がないので名前を覚えなかった。一方数年前、サトエリことまだ佐藤江梨子がデビュしたばかりで無名のころ、水着で中古自動車情報誌の表紙になっていた。今じゃこんな仕事はしないだろう。もちろんそのとき名前など知らない。なんとまあ見事な肢体の娘だろうと、本屋の棚で長々と見ほれていた。その写真欲しさになんの興味もない中古自動車雑誌を買おうかと迷ったほどだった。今も買っておけばよかったと悔いている。というのはその後うれっこになった彼女は頻繁に雑誌に登場するのだが二度とそう思うだけの写真には出会っていないからだ。今の彼女はぼくの好みとしてはやせすぎなのだろう。

 脱線してしまった。急いで元にもどって。そういうキャバクラ出身のタレントの名に、元祖として細川ふみえの名があった。細川ふみえと言えば、とまた脱線してしまうが、大好きだったビートたけしは決して仕事仲間に手を出さないことで有名だったのに、「テレビジョッキー」のアシスタントだった細川とそういう仲だったと知ったときはすこし失望した。れいのバイク事故が深夜に細川のマンションに行くときだったのは定説である。細川といえば、売れ始めのころ、五反田のキャバクラ時代に客とラブホテルに行ったときの写真を週刊誌でバラされたことがあった。その男が売ったわけで、こういうことをする男の気持ちがわからない。くだらんやつだ。ヤマタクの愛人と同じようなことをする男もいる。

 やっと本題。その記事を読んで、「むかしは芸能予備軍は、銀座のクラブに勤めているパターンが多かったのに、今はそれがキャバクラなのか」と思ったのである。山口洋子のやっていた「姫」、田村順子の「順子」、そういうところに二十歳前後の美しい娘がヘルプでつく。通っているテレビプロデューサや芸能会社の社長にスカウトされてデビュとなる。娘のほうもそれが狙いだったのだろうし両者の思惑が一致したことになる。中村雅俊と結婚した五十嵐淳子、今じゃ個性派おばさん女優となった風吹じゅん等がそうだった。きれいだったけど歌はへただった(笑)。やはり歌が上手だと同じ芸能界デビュを目論んでも違う路線からアプローチするのだろう。ということはここで「キャバクラ出身のタレントは顔はきれいだが歌はうまくない」との推測も出来そうだ。

 しかしまあどうでもいいことだが、「モーニング娘。」に代表される今のタレントってあまりに美人度が低くないか。浅田美代子あたりから「隣のミヨちゃん」的などこにでもいそうなのが流行ったのかも知れないが、モーニング娘あたりを見ていても、かわいいなと思う美少女がひとりもいないってのは、いくらなんでもひどいだろう。それどころかぼくが電車の中で近寄らないようにしているのと同じ、育ちの悪そうな下品なのが多くてうんざりする。あれがアイドルなのか? 興味のないおじさんがひとりでうんざりしていてもしょうがないが、レヴェルの低いのに憧れたら憧れるほうのレヴェルも落ちるぞ。
03/12/1 雛形あきこ離婚

 うつくしい女は売り時が難しい。より高くと計算しているうちに下がってしまう株のように売り時を間違えなかったれいはすくない。女が最もよい子供を産める年齢は二十四歳と言われている。それが絶対的なものかはともかく、やはりこれぐらいの時期に生むのが後々のため(?)にもよいのは確かだろう。
 が、それを出来る美形の女もそうはいない。いつの間にか三十を超してしまう。その点でマツダセイコが二十代で子供を産んだのは正解であろう。その先輩には二十一歳で結婚し、今も順調な山口百恵がいる。

 私は雛形あきこのファンではないけれど、彼女が選んだ人生の進路、人気絶頂の二十歳の時にさっさと結婚し、さっさと子供を産み、さらりとまた復帰してヴァラエティ番組をこなしている姿勢を、好ましいと思っていた。そのままの姿勢で生きていって欲しいと願った。
 なかなかそうも行かないのだろう。離婚の報を訊いて残念に思った。それでも、結婚せず、子供を作らず、のタレントよりは好感を持つ。

「子供も産まない女の人を、年を取ってからも国の金で面倒を見ることはウンヌン」の森元首相の発言はかなり問題になった。そういう視点とはまた違うのだけれど、女のいちばんの特権は子供を生むことだと思っている。どんな男も女から生まれてきたのだ。その最大の特性を活かさないのはもったいないと思わずにはいられない。

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