20102011
2010
2/22
 映画「ザ・ビーチ」のロケ地



 テレ東の「午後の洋画劇場」で「ザ・ビーチ」をやっていた。2000年制作。ディカプリオの「タイタニック」の後の出演第1作になる。「タイタニック」が世界的ヒットとなりアカデミー賞11部門を受賞し、主題歌も大ヒットといいこと尽くめの中で、賞とは無縁だったディカプリオが撰びに撰びぬいて出演した作品。つまらん映画だ。まさに「選んでカスを掴む」になる。

 というのは今だから言える話。当時はわくわくしつつロードショーに出かけた。ディカプリオは「ギルバート・グレイプ」の時から天才だと思っていた。彼が多くの出演依頼の中から悩んだ末に選んだという新作は楽しみだった。それ以上に「ロケ地がタイ」が、当時タイが大好きだった私には魅力的だった。

「ギルバート・グレイプ」と言えば主演はジョニー・デップ。兄役。智慧遅れの弟役がディカプリオ。地味だけれどいい映画だった。兄貴も弟もこんなビッグになるとは。



 始まってすぐ、ディカプリオが滞在し、事件の起きる安宿が1992年に泊まったことのある安宿オンオンホテル(安安旅社)であることに気づき、うれしくなったものだった。感想はそれだけ。(そのときの安安旅社の写真があるのだが、見つけだすのがたいへんだ。見つけたらアップしよう。)

 ノートパソコンをいじりながらの斜め見だったが、今回いくつかあらたに知ったことがある。とはいえ以下に書くことはもうこの映画好き、タイ好きにはさんざん書かれたことになる。ネット上にも山とあふれていることだろう。私のための私の記録なので御容赦願いたい。



 オンオンホテルからディカプリオ一行が列車で南にくだってリゾートアイランドに行くというので首を傾げた。どういう意味だろう。オンオンホテルはプーケットにあるのだ。すぐ近くだ。その後の会話で、「カオサンの安宿」という設定なのだと知る。バンコクの街中だ。

 安安旅社はプーケットの旧町にある。ビーチとは離れた地味なところ。白人のリゾート客もいないし静かだ。へそ曲がりな私は賑やかなビーチには泊まらず、そこに泊まってバイクでビーチまで走っていた。

 ロケのほとんどはピーピー諸島で行われている。これはマレーシア半島の西側、地図でわかるようにプーケットから出かけることになる。物語の発端となる序盤のロケをプーケット旧町のこのホテルで行ったのは理解できる。本当にバンコクのカオサンで撮影したらやじうまが押し掛けてたいへんなことになったろう。賢明な判断だ。

 おもしろかったのは、その次のちいさな嘘。食糧が乏しくなり、秘密の島の「ザ・ビーチ」から買い出しに出かけるディカプリオたちは「パンガン島」に行くのである。下の地図の右上。「Ko Phangan」である。

「コ」がタイ語で「島」。「コ・サムイ」で「サムイ島」。むかしは現地のひとが「コサムイ」というものだから、「コサムイ島」という日本人が多かった。ガイドブックやタイについて書かれた本にもそう載っていたりした。さすがにいまはもうないと思うけれど。

 上の地図でわかるように、右上と左下、ピーピー諸島とパンガン島はマレーシア半島の正反対の位置。これは「謎のビーチ」の位置を秘密めかすために設定したささやかなトリックなのだろう。パンガン島に買い物に出かける→パンガン島の近く、という。

 派手なネオンやオープンバー、たむろする観光客等、パンガン島の俗化した風俗が「素朴なザ・ビーチでの生活」と対比するために出て来るのだが、そのためにだけパンガン島に行くとも思えない。どこでも撮れる映像だ。これはプーケットビーチでのロケと思われる。

 これらのことを鋭敏なひとはロードショーで見たときに気づいたろう。そしてまた当時さんざんタイマニアのあいだで話されたことと思う。つまらん映画だなあとボケーッと一度見ただけだったので、今日まで知らなかった。あ、もうひとつ、タイ好きには「海好き」と「北好き」がいる。私は典型的な「北好き」だった(笑)。それが鈍さに繋がっている。



 冷えこむ日に、インターネットラジオから韓国音楽を流し、ホットカーペットの上でノートパソコンをいじっていると、釜山あたりのオンドル旅館に隠って文章を書いている気分になって楽しい。あえて不満を言えば、K-popというJ-popを意識した流行り歌が多く、韓国演歌(トロット)でバーチャル韓国に浸りたい私には物足りないことだ。

 映画そのものはあいかわらずつまらなかったけれど、「ザ・ビーチ」で見たタイの風景にすこしばかり心が揺れた。

 それで今日はガスファンヒーターで部屋を春のように暖め、インターネットラジオのタイ演歌(ルークトゥン)を流して久しぶりにタイ気分にひたった。


 ラオスに近いナーンという町が好きだった。国境添いを、窓を開け、風を感じながらクルマで走るのは楽しかった。「こんなところに!?」と思うような辺鄙な場所に、白人が現地女性と一緒になって暮らしていて感動したものだった。あれは日本人の感覚とはまたちがう。そのころはまさか自分が感動される側にまわるとは夢にも思わなかった。



 下記のアドレスは、2000年ごろ友人が教えてくれたタイのテレビやラジオが視聴できるサイト。何年ぶりかで繋いだらまだ生きていた。ここの「田舎音楽専門局」は貴重だ。

◎http://thai.cside.tv/live/

2011
2011
4/29
 映画「花のあと」感想──あまりに軽い……

 DVDでやっと見た。映画になる前、映画化に関する感想を以前に書いている。2009年の8月1日だ。

 藤沢周平原作「花のあと」映画化

 ここで書いたのは山田洋次に代表される藤沢周平作品をぼろぼろにしてしまう忌まわしであり、これもまたどうせそうなのだろうという心配だった。
 毎度毎度の絶望はさいわい映画「山桜」で救われた。版権を所有する藤沢さんの娘さんも、やっと納得出来る映画を見たと語っていることを書いた。

 藤沢周平「山桜」映画化の憂鬱 08/2/3
     映画「山桜」を観る 09/6/20

 「花のあと」の映画化発表はこのあとすぐだった。私は、せっかくやっと「山桜」でまともなものが見られたのに、またしても原作をぶちこわすひどいのが創られるのかと欝になった。
 しかしどうやらそれは回避されそうだと安心する。それは上記の文にまとめた。「花のあと」というのは「めっぽう剣道に強いブスの物語」なのである。そのブスばあちゃんの孫への懐古談の形を取っている。といってもブスばあちゃんは、当時のブスである。今だったら個性的な美人だろう。ただ、色が黒くて口が大きいというのは、当時としてはブスだった。笑うときはいつも手を当てて口を隠している。

 それを当代一の美人女優の北川景子で作るというのだから原作とは異なったものになるのだろうと思った。テレビで喧伝しているのも「北川の見事な殺陣」のような話だった。原作にそれはない。剣の達人である主人公は、想いを寄せたひとの仇を、スッとちかより、短刀で心臓一突きする。それだけだ。チャンバラはない。

 だから、藤沢原作にこだわることなく、北川景子の時代劇として楽しもうと割り切っていた。
 そしてまた私にとってこれが一番重要なのだが、「山桜」が読むたびに涙した思い込みのある作品であるのに対し、「花のあと」は映画化と聞いてもすぐに筋が思い出せない程度のものだったことだ。藤沢作品には珍しいちょっと異色のコミカルな面も出した小品である。とはいえ熱烈な藤沢周平ファンとしては原作を壊されたらやはり不快になる。どの程度のどんな作品になるのか、それはそれで心配だった。

 映画公開前には「しゃべくりセブン」を始め、北川がバラエティ番組に出まくって宣伝をしていた。
 それが2010年の2月。半年後の秋にDVD化され、さらにそれから半年経った2011年の春、やっとレンタルDVDで見た。映画化されると知って案じてから一年半経っている。
 満足できる作品であって欲しいと祈るような気持ちで見た。
 以下、感想。

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 けっきょく最も言いたいことは否定的な意見なので、そのまえに誉めるだけ誉めよう。
 まず、専用サイトから貼らせてもらったこれらの写真でもわかるように、北川景子が文句なしに美しい。もうそれだけであとはどうでもいいやというぐらい美しい。美しいことは功徳だ。
 江戸時代であるから今風の化粧はしていない。このひとが素顔でも美人なのがよくわかる。



 同じく、日本の四季を撮った映像がすばらしく美しい。
 桜舞う春、新緑の活力、冬の雪景色、(錦繍の秋はあったかな、ちょっと思いうかばない)とにかくもう「日本に生まれてよかった」としみじみ思うぐらい美しい映像だ。
 下の写真の色合いも抜群だ。雪の白さを引き立たせる赤い番傘の効果。映像美に関しては満点だ。

 また障子の開け閉めに代表される作法も、みなぎこちなかったが(笑)、叮嚀に演技していた(監督が演出していた)のも好感が持てる。とにかくこの作品の美点は、北川景子の美しさと映像の美だ。



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 北川以外に役者でいいなと思ったのは甲本雅裕。彼自身の演技もいいけれど、とにかくこの作品では、主人公・以登の許婚であり、剣術は弱くて話にならないが、決断力、行動力があり、結婚して後には大出世する、しかしこの時点では軽薄キャラの「片桐才介」はオイシイ役なのだ。このオイシイ役を、誰がどう演じるかには興味があった。私はせんだみつおのようなキャラが適役と思っていた。でも年齢的に合わない。重要な役どころである。誰が演じるのだろうと思った。甲本はうまかったし、起用は正解だった。彼もこのオイシイ役を存分に楽しんでいた。いちばん得をしたひとだろう。



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 以上で褒めるのはおしまい。以下は苦言。
 ひとことで言うと「現実感がない」に尽きる。時代劇としての重みだ。しかしそれは「こういう映画にそんなものを求めるのか!?」と問われたら困るし、私もたとえば黒澤時代映画的なリアリズムを求めているのではない。でも譲歩して譲歩して、北川景子が美しいからもうなんでもいいや、と思いつつも、それでもあまりにこの映画には重みがない。あまりに軽すぎて逆に感動的なほどだ。



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 たとえば以登の父親役の國村隼である。
(脱線するが、こういう文章を書くとき、ほんとにGoogle-IMEはありがたい。くにむらじゅんで一発で出る。これがATOKだったら何度変換せねばならないことか。芸能人の名をいっぱい書くときは断然Google-IMEだ。)

 面立ちも雰囲気もいい。いいキャスティングだと思う。だが……。



 以登の父親は剣術狂だった。故郷に婚約者(後の以登の母)が居ながら剣法の最先端技術のある江戸での剣術修業に夢中で、江戸詰を願い帰郷しなかったほどである。たしか24歳と17歳の婚約者同士なのに父親は30歳過ぎまで帰郷しなかった。そして男の子を願ったが女の以登しか生まれず、妻にもう子を望むのは無理となった時点で、以登が5歳の時から男の子としてスパルタ教育で剣技を伝えるのである。そして女だてらにとんでもなく強い剣士の以登が誕生した。

 なのにこの國村隼の父親、そういう匂いがしない。生まれて以来このかた、剣など触ったこともない雰囲気。書斎派の文人で武人とは思えない。これはちがうだろう。以登という最強女剣士の生まれた背景が伝わってこない。わるい言いかたをするなら、以登という凄腕女剣士は、剣術狂の父親が生んだモンスターなのだ。それを前面に出さなければ、藩の男よりも強い話に納得できない。娘の恋愛を案じる心優しい父親の味は出していたが……。
 言うまでもないことだが、ここで私の書いているのは役者・國村隼批判ではない。監督の演出批判である。

 いやもともと美人の北川景子主演の「おとぎばなし」であり、足を運んで観劇するのも北川ファンであり、そんなことを言うのは不粋だとはわかっている。そもそも5歳の時からスパルタ教育で剣技を仕込まれ、見事にそれに応えた以登は、色黒で骨太のゴツい女であろうし、それを北川景子が演じるという点で、そんなことはもうどうでもいいのだ、とも言える。

 でも私は、以登の父親役には「剣術の匂い」を漂わせて欲しかった。そして藩の二番手、三番手の使い手を破ってしまった以登が唯一敗れ、それでこそほのかな憧れと恋心をいだく最強の使い手・江口孫四郎には、よりその雰囲気を望んだ。というか、これ、絶対だろう。なのに……。

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 ところが父親にその匂いがないように、江口役の宮尾俊太郎という役者(バレリーナらしいが)は、それに輪を掛けて線の細いハンサムぶりを強調するだけで軟弱そのものだった。これはひどい。ほんとうにひどい。もちろんひどいのは演出だ。キャスティングもおかしい。こんな線の細いなよなよとした男に藩随一の遣い手は似合わない。

 剣術で立ち合った以登は江口にほのかな恋心をいだく。それは自分よりも強い男に出会ったよろこびだ。藤沢文学特有のエロチシズムである。勝負はまるでセックスであり、自分よりも剣技の秀でた男に初めて叩き伏せられる以登はエクスタシーめいたものを感じる。それが恋心になる。
 なのにこの映画では以登は江口の美男に惚れるような形になっている。後々自害した江口を想う時でも江口の美男顔がふわっと浮かんでくる演出だ。それこそお目々にお星さまが浮かび、白い歯がきらりんと光りそうな少女漫画のような演出。以登が江口に惚れた本質が微塵も描かれていない。

 江口役は美男である必要はない。以登が恍惚となるのは荒々しい男の強さなのだ。後に以登が恋しく思い出す江口の残像は、飛び散る汗であり、無精ひげ(城詰の武士なのでそんなものはないけれど)であり、獣臭さなのだ。なのになんなんだ、この都会的ひょろひょろ男は。原作の価値をまったく理解していないよ、この監督は!

 私のこの映画の評価は、北川の美貌と映像の日本美のみなので30点ぐらいだが、父親役と江口役が剣の匂いのする役者と演出になったなら一気に80点ぐらいあげてもいい。それぐらいこのふたりは重要な役なのだ。監督の感覚が理解出来ない。

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 時代劇的重みがぜんぜんなく、まるで少女漫画を見ているようだと思う中で、唯一それらしい雰囲気を出している役者がいた。敵役の藤井勘解由を演じている役者だ。見事に時代劇になっていて、このひとは誰なんだろうと調べた。市川亀次郎という歌舞伎役者だった。なるほどなあ、役者の持つ「雰囲気」「空気」というのは正直なものだ。このひとだけちがうオーラを発していた。

 となると、「北川景子の映画だから北川が美しいしなんでもいいや」とも言えなくなってくる。市川亀次郎の存在感を考えれば、父親役の演出、江口役のキャスティングや演出を変れば、ことなった秀作が誕生した可能性もある。
「役者・國村隼批判ではない」と前記したが、市川の存在感を考慮すれば、武芸に秀でた父親役の光を発せられず、娘の恋愛を案じるしかなかったのは國村の責任であり、所詮現代劇の父親しか演じられないのだろうという「役者・國村隼批判」もありになる。

 そういう考えをするなら市川は罪なひとである。市川が光らなければ、私は北川景子の美しさを堪能し、少女映画的な演出を「わはは」でぜんぶ済ましていた。市川の存在感で不満を感じ始めたとも言える。
 小説から得ていた私の感覚では市川は若すぎるようにも思えたが、以登の知りあいと不義密通をしている藩の重役は、実年齢35歳の市川ぐらいでいいのか。私としてはもう一回り年上を設定して読んでいた。
 市川の重みで、「軽くてもしょうがないのだ」という考えは消えた。

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 以上、映画化を知って案じることを書いてから一年半ぶりで目にした、藤沢周平原作の映画「花のあと」の感想である。
 北川景子主演であり、長々と殺陣シーンがあるとわかった時点で、原作とは別物と割り切っていたのだから、これ以上の批判は慎むべきだろう。北川の美しさと日本の四季を捉えた映像美で満足することにする。
   



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