2008~2009
08/2/3


 
藤沢周平「山桜」映画化の憂鬱

田中麗奈「山桜」で時代劇初挑戦

 作家藤沢周平さんの人気小説「山桜」が田中麗奈(27)東山紀之(41)主演で映画化され、来年初夏に公開されることが8日、分かった。2度の結婚に疲れうちひしがれた女性が、本当の幸せを求めて歩み始める姿を描く。2人は初共演。来年女優デビュー10周年を迎える田中にとって時代劇初挑戦となる。

 原作は「時雨みち」(新潮文庫)の中の同名短篇。時代小説の第一人者、藤沢さんの作品では珍しい女性主人公の小説で、映画化は構想から7年越しで実現した。メガホンは篠原哲雄監督がとり、山形ロケを中心に今年春から秋まで撮影された。(ニッカンスポーツ)

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 2007年12月のニュース。2ちゃんねるの文藝板「藤沢周平」で今知った。「来年初夏公開」とあるから、今年の夏にロードショーか。
 「山桜」は私にとって数ある藤沢周平作品でも最高に好きな短篇。何度読んでも泣ける。
 それがくだらん映画化でまた汚される。なんともたまらん気分になる。この作品だけは映画やテレビに汚されたくなかった。

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●ヤマダヨウジ批判

 ヤマダヨウジの「たそがれ清兵衛」「隠し剣 鬼の爪」「武士の一分」と思い出すだけで腹が立つ一連の愚作がある。原作の味をぶちこわしている。藤沢作品に対する冒瀆だ。
 その辺のことを書いておかねばと思いつつ、それはマイナスへの突撃であり、しかもエネルギーは大量に消費するから、どうにもその気になれず、TopPageに書いておきながらやらずのまま今日まで来てしまった。死力を振り絞って書かねばならない。自分へのけじめだ。もう六年越し、七年越しか……。

 東山はロシアの血の入ったいい役者だ。「眠狂四郎」でもやれば似合うだろう。本来「眠狂四郎」は異国の血が入っていることになっている。
 がこの原作「山桜」の男とはまったく雰囲気が違う。なんつうキャスティングだろう。客を入れるためにキムタクやヒガシのような人気のある美男を起用せねばならない台所事情はわかるが、あまりに安易なキャスティングにうんざりする。原作のイメージは、もっとごつごつした偉丈夫で、汗くさい、素朴な男である。私のイメージキャスティングだと伊藤英明とか照英のようなルックスだ。ヒガシは端整すぎる。

 猫目の田中は、原作のヒロインは気が強い女なので、東山よりはまだイメージ的にましと思うが、そもそもバタくさい彼女の顔は時代劇ではあるまい。どういう発想からこのふたりになったのだろう。理解に苦しむ。

 なんとも憂鬱になる。公開後は、またこの映画ばかりが一人歩きし、原作「山桜」を読んでもいないのにわかった気になる勘違いファンが増えるのか。
 唯一の救いは、これは短篇であるから、ヤマダヨウジのような失礼な原作ぶちこわしはしまいということだ。

 ヤマダヨウジ愚作の中でも、特に「たそがれ清兵衛」は、「たそがれ清兵衛」と「祝い人助八」と「竹光始末」という優れた三作を共産党員ヤマダヨウジがミキサーでかき回し、美味しいところだけを抽出するつもりで、結果、賞味に耐えない気味悪い味にした最悪の駄作だった。時代も幕末に勝手に変えて江戸時代を批判し、さらには末娘が育ったという設定の岸恵子のナレーションで時代批判をし、共産党風味までつけ加えている。あれじゃまるで藤沢がそう思っていたかのようだ。この左寄り思想風味は醜悪である。なんともたまらん。

「隠し剣 鬼の爪」も「雪明かり」とごちゃまぜにしてわけのわからんものになっていた。原作を知らない若者が、恋愛物として観て、「最後のあれはいらなかったのではないか」と感想を書いていた。最後のとってつけたようなあれが「隠し剣 鬼の爪」なのだ(笑)。いかにヤマダヨウジとはいえタイトルにしたのだから出さざるをえまいよ。まあ三作の中では「武士の一分」がまだまともだ。他作を混ぜてぶち壊しにしていない。

▼高島俊男先生と「たそがれ清兵衛」
 高島先生が友人からプレゼントされてだったか、時代小説を読まないし、テレビも見ないかたなのに、DVDの「たそがれ清兵衛」を観たらしい。『諸君!』の「退屈老人日記」で触れられていた。このことは単行本になったらあらためて書きたい。

 そこで「語尾を変化させるだけで山形弁のつもりなのか」と失笑されていた。役者はきれいな標準語をしゃべっているのに、語尾に「だども」だとか「ですだ」を不自然に附けたりする。それで庄内弁のつもりらしい。この半端訛はヤマダヨウジの三作に共通しているくだらない点である。

 もうひとつ高島先生は、映画から時代を読み、幕末のすこし前だから年号は××、西暦××年ぐらいかと推測していたが(無学なので手元に本がないので××年としか書けない)、先生それは違います、それは共産党員のヤマダヨウジが封建制の江戸時代を批判するためにいじくったんです。無理矢理幕末にしてしまったんです。原作は関係ありません。どうか先生、このクソ映画から原作の藤沢周平作品を誤解なさいませんように。


 

 短篇だからヤマダヨウジのようにいじられまいと考えていたが逆か。「山桜」は短篇だからこそいじられる可能性もある。原作が短篇一作だけでは弱いかと、他の短篇とごちゃまぜにして「たそがれ」や「隠し剣」のようなとんでもないことをされるかもしれない。憂鬱だ。
 ニッカンの記事によると、この原作に惚れ込んだスタッフが七年がかりで実現した映画化ということだが、そこはそれ、映画人というのは、原作を忠実に映画化することはない。原作は原作、これは「自分の作品」とばかりに、必ずいじくり回して原作をぶちこわしにする。
 頼むから原作を壊さないでくれと今は祈るのみだ。

 なんとも憂鬱である。掌中の玉が汚された思いだ。

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 記事の、「藤沢さんの作品には珍しい女性主人公の小説」はお粗末。市井物の藤沢作品に女主人公は山といる。女だけが主人公の連作集、単行本もある。記者が藤沢作品を読んでいないことが明白だ。単にスポーツ紙の記者として映画化の記者会見に出かけ、適当に書き流した浅薄な記事なのが見え見えである。あまりの無知が他人事ながら恥ずかしくなる。

 ついでに言うなら、その前「藤沢周平さんの人気小説『山桜』」もヘン。これは短篇集の中の地味な一作。マニアックな藤沢ファンのあいだでは評価の高い一作だが、ヤマダヨウジの映画や、NHKのドラマから藤沢作品を読むような連中は、誰も知らないマイナーな作品である。 
 記者のいいかげんさが読みとれて笑える。
 いやはや憂鬱だ。(08/2/3)



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 「山桜」評判のよさに安心

 というわけで、映画化される藤沢作品「山桜」に、「たそがれ清兵衛」を観たときのように、不快と憤怒で眠れないような感想をもたされるのではないかと案じていた。

 ところが五月末に封切りされたらやたら評判がよい。私以上に藤沢作品に詳しいひとたちが、サイトでみな絶讃している。その褒めかたも、たとえば「これはこれで映画の手法であり」なんてのでは問題だが、そうではなく、「原作を壊していない」とみな好意的なのだ。安心した。
 田中とヒガシの配役にはいまだに納得していないが、とにかくヤマダヨウジのように原作を弄くり回してぶちこわすようなことはしていないらしい。




× 映画「シービスケット」のこと

 とはいえ、識者が誉めているから安心というものでもない。
 先日、ある競馬関係のサイトを読んですこし呆れた。私は競馬関係のサイトというのは読んだことがないので疎い。知りあいの競馬評論家がそんな形でサイトに関わっているとはまったく知らなかった。

 そこでは競馬映画「シービスケット(2003年アメリカ映画)」を、知りあいの専門誌記者や競馬評論家何人かが絶讃していたのである。
 あれは突っこみどころ満載のひどい映画だった。私には、とてもとてもあんなものが「競馬のすばらしさを伝える競馬映画」とは思えない。

 ひとつだけあげるなら、シービスケット(海軍用乾パンの意)は2歳時に35戦5勝、3歳時に23戦9勝という、とんでもない戦歴でこき使われている。なんとも憂鬱になるひどい使いかただ。そのあと、古馬になってから徐々に強くなる。いわば下積みの長い苦労馬である。ところがそれがまったく描かれていない。強くなってからの三冠馬ウォーアドミラルとの対決、そこに到る馬主同士のやりあいなどばかりがクローズアップされる。音楽を被せたレースシーンも美しいけれど競馬的醍醐味迫力はまったく伝わってこない。映画としてはともかく、これは「競馬映画」としては誉められたものではない。
 ところが、そのサイトでは、まじめな競馬記者として認めている何人かが、それこそ歯の浮くような賛辞のことばを並べていたのである。



 なぜこういうことが起きたかというと、理窟はわりあい簡単だ。ふだん映画など見ない人達(そりゃ長い付き合いだから、彼らがどの程度映画を好きかはよく知っている)が、競馬映画なので、その映画の翻訳家から試写会に招待されたのである。

 的外れに誉めたたえているのはまずは試写会に招待してもらった礼儀であろう。それは礼儀としてわかる。しかしそれ以前に彼らは映画など見たことがないのだ。競馬の登場する映画すらほとんど見ていない。「のるかそるか」あたりですら知らない。だから「意図的に誉めた」という以前に、褒めかたも貶しかたも知らないのだろう。

 私は彼らの競馬観を知っている。しっかりしたものだ。専門誌記者という仕事にも誇りと責任をもっている。それも知っている。そういう彼らがいくつもの競馬映画を観てきて、そのうちのひとつとしてこの映画に正面から向きあったなら、とてもそれは誉めるほどの物ではないとわかるはずなのである。それがわからない。観ていないからだ。だから形式的に儀礼的に誉めたたえている。



 念のために書いておくと、儀礼的に誉めねばならない場のみであったなら、こんなことは書かない。それは試写会に呼んでもらった礼儀として当然のことだ。多少缺点が見えても誉めるのは礼儀である。それがおとなの社交だ。
 そうではなく、プライベートな場でも礼讃する文章を書いていたのである。どうやら礼儀ではなく本当に感心してしまったらしい。映画を見たことがないからだ。すなわちそれは──まことにくだらんたとえであるが──初めて美女のいる高級クラブに連れていってもらった感想のようなものである。よく見れば、美女と言っても派手なドレスや厚化粧に惑わされているだけでさほどのものではない。酒もたいしたものではない。それでいて金額はすごい。場馴れさえすればいくつもの缺点が見えてくるはずなのだが、なにしろ初めて行ったというそのことで舞いあがってしまっているから何も見えない。ひたすら浮かれ調子だ。それと同じである。
 競馬の専門家には競馬のことしか知らない人が多く、競馬以外のことでは話がはずまないことが多いのだが、これはしみじみ白けた一件だった。

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 ということから、好事家が誉めたからといって安心は出来ない。どうしようもないひどい競馬映画を絶讃する競馬記者もいるのだから。
 だが、今回は絶讃している藤沢周平ファンのセンスを信じることにした。
 みな基本的に藤沢作品が大好きで、「たそがれ清兵衛」でさえ否定していない。とにかくどんな形であれ藤沢作品が形になればうれしい人達だ。そんなファンの絶讃を信じるのは私にはこわいけれど……。

 弄ってあるのはヒガシの部分だけらしい。短篇であり、原作ではヒガシの出る場面はほとんどない。野江と弥一郎は作品中たった一度の邂逅なのだ。でも野江がまだ十代の嫁入り前から弥一郎はずっと想いを寄せていた。それを知った野江の心に希望の灯が灯る。それは今の家と離縁して弥一郎と、ではなく、自分を思ってくれていた弥一郎のためにも、今の家で頑張らねば、という決意だ。うつくしい。

 その弥一郎が私腹を肥やし藩を牛耳る奸賊を斬る。原作はここに到る流れは描いていない。突然の出来事として登場するだけだ。映画では、そこを創作したらしい。とはいえ原作を壊さないように作ってあると好事家がみな太鼓判を押しているのでだいじょうぶだろう。信じることにする。
 このあたりを作らないとヒガシの出番がない。ほんと、山桜の下で野江にひと枝折ってやるワンシーンだけになってしまう。あとは若いとき、道場から習いものに通う野江を盗み見知るシーンぐらいか。これではヒガシの映画にならない。彼の出演シーンを作ったのは当然だろう。

 すぐに切腹になると思われた弥一郎なのに、なかなか沙汰はくだらない。それどころか牢の中でも鄭重に扱われていると噂が流れる。藩の中でも弥一郎の正義の行為を支持する流れがあったのだ。
 それから数ヵ月、また春が来た。野江は思いきって弥一郎の家を訪ねる。農夫に手折ってもらった山桜をもって。面識もなく、閉門状態の弥一郎の家を訪ねるのだから勇気のいる行為である。
 弥一郎の母は、名を名乗った野江に、「まあ、あなたが」と弥一郎から何度も野江のことを聞いていたことを示す応対をする。「弥一郎はいつもあなたのことを話していました」「きっと来てくれると思っていましたよ」と続くことばで、野江は、自分が長いあいだ遠回りをしたことに気づいて落涙する。もう何度読んでも泣ける。電車の中で読んでいて、必死に涙をごまかしたことがあった(笑)。

 ここでまた、ここだけの出番なのだが、なんとも魅力的なのが弥一郎の母だ。いい役者を撰んでくれよと願っていたら富司純子だとか。安心した。いい配役である。野江の母の檀ふみは、正直しっくりこないが。でもまあ野江の母はどうでもいいのだ。(この映画では重要に描かれているらしいが。)弥一郎の母のキャスティングだけは気になっていた。気に入った。

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 年末にはDVDになるだろうか。楽しみに待つことにしよう。(08/6/5)

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 ちょうどその一年後、DVDで観ることになる。以下はその感想。

 
 09/6/20  「山桜」を観る

DVDジャケット 2008年12月24日発売

 この文章は上記の2008年2月に書いた「『山桜』映画化の憂鬱」の続きである。心から敬愛する藤沢周平作品の中でも、特に大好きな短篇だったので、ヤマダヨウジが藤沢作品をぶち壊しにしたように、これもまた映画監督の手によってひどいことになるのかと心配でならなかった。ここは上記の「心配篇」を読んでから読んでいただきたい。

 2007年の12月に映画化のニュースを知る。心配でならずそれを上記したのが2008年の2月。大好きな原作が映画化されるのが憂鬱だ、心配でいられないというのは初めての経験だった。
 それほどヤマダヨウジが残した傷は深い。だったら怒涛のごとく批判せねばならないのだが、あまりの腹立ちに書く気にならないのである。もう8年ぐらい同じ事を言っている。情けない話だが現実だ。ヤマダヨウジが「たそがれ清兵衛」からの三部作でいかに藤沢作品を汚したかを延々と書きたいと思いつつ、書かねばと決意しつつも、あまりにむなしい作業に力が湧いてこない。怒りはエネルギーになるというが、怒りすぎると憤懣やるかたなく腑抜けのように佇むばかりで行動できないらしい。

 映画「山桜」は、封切りが08年の5月31日。DVD発売が08年の12月24日。
 いまからDVDで観た映画「山桜」の感想を書くのだが、それは悪口ばかりになる。しかしそれは書くことが批判ばかりなので未だに書く気になれないヤマダヨウジが監督した藤沢作品とは意味が違う。逆である。



◎高島先生の「メルヘン誕生」──ほとんど悪口

 私淑している高島俊男先生が書かれた「メルヘン誕生」という向田邦子評伝を読んだときはおどろいた。一読して私には「全編悪口ばかり」のように思えたのである。高島先生がこんな毛色の違うものを書いたことは失敗なのではないかとすら思った。

 読みすすめている内にやっとわかった。
 高島さんは向田邦子が好きである。それは知っている。だからこそ著作の中でも異色のこんな評伝に関係したのだ。全体として、土台としてまず「好き」がある。そこから評伝を始めると、95%好きであるとするなら、好きであることには触れない「高島流」は、いきおい残り5%の不満足な部分を掘りさげることになる。するとそれは「悪口ばかり」のようになってしまうのだ。

 高島さんは向田作品に登場する戦前の家庭の雰囲気を好む。そこでの父は威厳がある。父親は近寄りがたい怖い存在だ。食事のときもこどもとは距離を置いている。父親だけ食卓やおかずが違うことも多い。こどもに向かって決して「かわいいよ」「だいすきだよ」「おまえは宝物だよ」などとは言わない。ひたすら厳しく接するだけだ。笑顔すら見せない。スキンシップすらめったにない。

 しかしそれは父として我が子がかわいく、護るためには全力を尽くすのは当然という前提の上に成りたっている関係だ。「おまえは私の大切なこどもだ。お母さんとあいしあって生まれたんだ。大好きだよ。宝物だよ」というのは、あまりに当たり前過ぎるから口にすべきことではない。そんなことみっともなくて言えたものではない。それが戦前の日本家族の風格になる。甘い言葉はなくてもしっかりと家族はつながっていた。

 乾いている多民族国家のアメリカと湿度の高い島国日本は違う。アメリカのように、いまの日本が毎日それを口にせねばならないようになってしまったことが狂っている。当時の日本の家族の在り方を是とする高島さんは、それを描く作家として向田作品を好む。

 そういう家族を描いた向田が好きな高島さんだから、戦前の父親がこどもに向かって甘い言葉は言わなかったように、「向田作品はすばらしい。文章がよい。気品がある」なんてことは言わない。それじゃ親子の絆をことばにして日々確かめあわずにはいられない今時の親子だ。「向田邦子評伝」を書くのだから、おれが向田邦子を好きなのはわかっているだろうという前提で、どんどん物足りない点、直して欲しかった点ばかりを書いて行く。悪口のオンパレードのようになる。

 向田邦子作品が大好きで、好きということは讃えることだと思っていた人は、この本を買って戸惑ったろう。
 しかし時が流れれば、向田邦子論評としては白眉とされている。甘さのない苦味だけのチョコレートの魅力だ。

 映画「山桜」を観て、高島さんのこの気持ちがわかった。
 以下私もこの作品に関する不満ばかりを書くのだが、それは全体として満足だから物足りない部分に触れるのである。全体が不愉快で不愉快で批判を書く気にすらなれないヤマダヨウジ作品とはまったく違う。「山桜」は95%満足とした上で5%の不満を書く。それは根底に満足しているというふんわか感があるから楽しい作業である。一方98%不満のヤマダヨウジ作品を批判したなら、隅から隅まで真の悪口だらけになってしまうから救いがない。かといって2%を褒め上げるのも憂鬱だ。だから書く気になれない。

 というわけで、以下私の「山桜」感想、高島先生風に一見「悪口ばかり」の誉め言葉である。





 主演の田中麗奈が私の考える野江とは雰囲気が違うので心配していた。でも猫目ではあるが私が思っていたよりも日本的な容姿でヒロインとしては合格点。着物を着なれていないから所作がちょっとあぶなっかしい(笑)。それはそれで御愛嬌か。原作でも重要な気の強さを見せる睨みは成功だったのかどうか。すこし物足りないが、監督も本人もがんばったのだろうからよしとするか。

 手塚弥一郎役は東山紀之。さすがという演技を見せる。私の描く弥一郎のイメージは伊藤英明や照英のような、いかにも剣術使いらしいもっと汗臭い、体育会系の感じであり、あまりに知的で端整に演じる東山はミスキャストという想いは今も変らない。だが東山はそれを払拭する見事な弥一郎を演じる。



 弥一郎は、もうずっと前から藩校剣術道場の格子窓から習いものに通う野枝を見ている。まだ野江が最初の結婚をしない頃だ。今の野江は亭主に死に別れ、出もどりから二度目の結婚をした23歳。二十歳の未婚は年増と言われ、十代で子を産んでいた時代だ。今の弥一郎は29歳ぐらいか。野江が習いものに通っていた16ぐらいのときに格子窓から見ていたのだから、そのころの弥一郎は22歳ぐらいになる。7年越しの想い。最初の亭主に死に別れて実家に帰ってきたときはすぐに縁談を申しこんでいる。

 若い日のふたりの関係は、原作の雰囲気だと、「女っ気のない大学剣道部の連中が、下校する美人女子校生を練習場から覗き見てわいわいやっている感覚」である。だから寡黙で知的なヒガシはわたし的にはだいぶイメージが違う。

 原作では、野江の母が、このときのことを、弥一郎との見合話を持ってきた叔母から聞いた話として、くすくす思い出し笑いをしながら野江に告げている。野江は自分の知らないときに、そんな前から自分のことを見てくれていたひとがいたのだと胸を熱くする。習いものに通う途中にあるこの剣術道場は、稽古の奇声が聞こえてくる、若い娘である野江にとっては足早に通りすぎるような場所だった。

 原作のこの光景に関しては、「汗臭い剣道部の若者が、通りを行く美しい娘に惚れ、『いいなあ、おれ、あんな娘を嫁さんにしたいなあ』と口にして、周囲の仲間がドッと沸く」というような私の解釈が正鵠を射ているだろう。よって弥一郎は、汗臭い体育会系の朗らかな青年となる。私がヒガシよりも伊藤英明のようなタイプの方が、とこだわるのはこの辺に因がある。

 映画では、野枝の弟が弥一郎から剣術を習っているという設定になり、弥一郎が前々から野江を好きだったというエピソードは、弟が、弥一郎の友人達がそう語っているのを偶然耳にし、野江に伝える設定になっていた。原作では野江と弥一郎の距離は遠いのだが、映画では弟が弥一郎に心酔しているような形で、距離を近づけるようにしている。まあこれはこれでよい。ただ「道場の窓からの光景」は、私の推測するようなもっと賑やかなものだったと思っている。映画の弥一郎はあまりに寡黙で完成された大人になっているので、彼が道場の窓から剣術仲間達と通りを歩いて行く野枝を見て、わいわいやっていたという雰囲気が沸いてこない。あんな落ちついた佇まいの弥一郎が、野枝を好きなことを周囲にもらすというのも不自然だ。。

 野江が弥一郎との縁談を断るのは、最初の夫の友人だった剣術使いが野卑だったことによる剣術への偏見があったからだ。原作では「なぜ手塚の縁談を断ったのか」を母が問い、野江はそう応えている。映画では手塚に心酔している弟が、野江に問う形になっていた。



 野江の母役である檀ふみの評価が高い。
 私からするとまずこのひとは背が高すぎる。母娘が並んで歩くシーンがあった。母親が娘よりも頭ひとつ抜けていて興醒めだった。田中麗奈だって158センチある。あの時代の女としては大きい。なのにそれより頭ひとつ大きい170センチもある大女を、それも老け役の母親役として時代劇に使ってはならない。他者とのバランスが大事だ。髷を載せているから、通りすぎるエキストラの百姓や商人と比べてもでかすぎる。私だったら田中麗奈や亭主の篠田三郎とのバランスからもイメージキャスティングの時点でもう大女のこのひとはペケである。もっと小柄な女優を使う。158センチ以下が原則だ。使ったなら使ったで、背の高さが目立つ母娘が並んで歩くシーンは撮らない。

 映画が原作にない部分を脹らました点として、第一は弥一郎の行動だが、もうひとつはこの「野枝の母」だろう。短篇の中のほんのすこしの登場人物だが、映画では重要な役割になっている。

 野江は勧められるままに嫁いだ最初の結婚で夫に死に別れた。出もどりとなったので、家にいては家族に迷惑を掛けるからと、あまり乗り気ではなかったが縁談があったので今の家に嫁いだ。そのとき娘時代から野江が好きだった弥一郎も申しこんでいるのだが、父を早くになくした母一人子一人という環境と、剣術の達人に野鄙な印象を持っていたことから断ってしまう。野江の嫁ぐ磯村の家は、野江の家柄の方が上なので、それが狙いだったと原作にはある。あとは出もどりをもらってやることによる持参金か。武士の誇りを忘れ金貸しに夢中になっているひどい家だった。そのひどさは、映画では多少コミカルにデフォルメして描かれている。



 この作品の重要なキイワードは「まわり道」である。

 原作では、私腹を肥やす重臣を討った弥一郎がまだ刑罰が決まらず牢にいる時期、前年初めて会ってからちょうど一年、また山桜の季節、山桜の枝を手折って野江が弥一郎の家を訪ねる。
 迷惑ではなかったかと戸惑いつつ野江は名を名乗る。心労からか白髪の目立つ温和な容貌の弥一郎の母は、初対面の野江を、「まあ、あなたが野江さん」と旧知のように歓迎する。
「弥一郎はいつもあなたのことを話していました」「いつかあなたがこの家に来てくれると思っていました」「あなたが磯村のような家に嫁いだことを弥一郎はたいそう怒っていましたよ」「さあ、どうぞおあがりください」と言われた野江は、上がり框に触れたとき、自分がとんでもないまわり道をしてきたことに気づく。この家こそが自分の来るべき家だったのだと気づき、とめどなく涙が溢れる。
 何度読んでも涙の出る感動のシーンだ。

 ここで野江が思う「まわり道」がこの作品のキイワードなのだが、それは野江の心の中の出来事だからナレーションでも挿れる以外に処理のしようがない。
 どうするのかと思ったら、獨身のまま死んだふさおばさん(父の妹)の墓参りの帰り、自分にはもうしあわせは来ないと言う野江に、母親が、「あなたはほんのすこしまわり道をしているだけなのですよ」と語る形で解決していた。なかなかうまい演出だと思う。ただこのシーンで檀ふみが大女なのだ(笑)。今の時代でも、母親が170センチで娘が158センチという母娘はいるかもしれないが、やはり時代的に、セリフの内容的にも、娘よりも背の低い母親にして欲しかった。150センチの小柄な女が適役だろう。

 檀ふみは大学の一年後輩なので、それこそ学生のときから身近に見ている。キャンパスでも背の高さは目立っていた。いま五十を過ぎて、微笑みが、なんだか皇后陛下の微笑みに通じるほど格調高くておどろいた。大女は時代劇に不向きなどと書いてしまったが、名演はまちがいのないところだ。一番の名演は檀ふみ、同時に一番の不満も檀ふみの身長だ。





 ヒガシは名演だった。演出がいいからだが、それに応える彼も見事である。文句のつけようがない。

 中でもヒガシの殺陣はすばらしかった。重臣を討つとき、護衛の連中は峰打ちにする演出は見事だ。柄で当て身をくらわす殺陣も秀逸だった。

 写真は、奸賊を討ち、自ら目付に出頭する弥一郎に、自分の出来なかったことを遂げてくれた礼を、重臣(背中の男)が述べるシーン。重臣は「手塚殿!」と声を掛け、ふり向いた弥一郎に万感の思いを込めて頭を下げる。弥一郎も浅くだが、見詰め返して、目礼を返す。ことばのいらない武士のうつくしさが際立つすばらしいシーンである。

 原作に存在しない手塚弥一郎の演出で見事なのは、百姓にも礼を尽くしていることだ。郷廻り(百姓の監視役のようなもの)である弥一郎は、凶作にあえぐ貧乏百姓たちに頭を下げられると、自分も頭を下げて応える。これは心配りをした演出だ。

 いいかげんな落語などでは、「むかしは斬り捨て御免と申しまして、侍は気に入らないことがあると、そこになおれ、エイヤッと町人百姓を斬りすてたものでして」と嘘八百を並べたてている。当時、武士が町人や百姓とケンカをして刃傷沙汰に及んだら、たとえば百姓を切り殺したりしたら、侍も切腹せねばならなかった。それだけ厳しい規律だった。だからこその安定した江戸時代である。そんな「士農工商の身分があって斬り捨て御免」なんてことをやっていたら制度が保てるはずがない。そういう落語はみな江戸時代を悪として否定する明治大正に作られたものである。

 郷廻りに深々と頭を下げる百姓に、自らも頭を下げて応える寡黙な弥一郎は、それだけで彼の人柄をかもしだしている。この作品の時代考証の確かさがそれだけで伝わってくる。見事な演出だった。





 映画のラストは、手塚家の畳の上にあがった野江が、山桜を活けた弥一郎の母(富司純子)からやさしいことばを掛けられて落涙するシーンになっている。
 原作の上がり框で、一気に「まわり道をした。ここがわたしの来るべき家だった」と気づいて落涙するのと比すとだいぶ感激が薄れる。でもそのあとの、親しくなった二人が仲よく一緒に料理しているシーンは、殿様が帰国し、やがて無罪放免になった弥一郎が帰宅するとき、一緒に出むかえるシーンを想像できて楽しめた。

 牢から出て来た弥一郎には、彼を慕う若者や、感謝する百姓が群がるだろう。そして帰宅すると、母と一緒に野江が迎えてくれる。そのときの弥一郎の気持ち。この優れた原作短篇の味わいは、そういう「そのご」を想像する点にある。映画も見事に、ラストシーンに参勤交代から帰ってくる殿様の行列を遠景で映し、仲睦まじい弥一郎の母と野江の様子から「そのご」を想像させてくれた。私は思わず「弥一郎と野江の初夜」まで想像してしまった(笑)。

 その前の冬の時期、弥一郎の無事を祈る野江の御百度詣りもうつくしかった。



 とまあ好き放題なことを書いてきたが、今まで映画化された藤沢作品の中では断然よかった。ひたすらそれは「原作の味わいを壊すまい」とした映画人の気遣いによる。ことばも、ヤマダヨウジのようなわざとらしいインチキ訛ではなく、標準語で通しているのがスッキリしていてよかった。これもヤマダヨウジ作品を反面教師にして生まれた姿勢だろう。

 篠田三郎演じる野江の父親も、憎まれ役の村井国夫もうまかった。イヤミったらしい役柄の磯村の家の高橋長英、女房の永島暎子もうまかった。息子(野江の亭主)の千葉哲也のコミカルな演技はすこしクサかったが(笑)。

 磯村の家の端女(はしため)をやっていた少女は誰なのだろう、調べてもわからない。上手だった。光っていた。きっと大成するだろう。彼女が大成し、この奴婢役が自分のデビュー作なのだと、後々「山桜」が紹介される日が来るような気がする。記憶に残った少女だった。
 物足りなかったのは、野江の弟の北条隆博、妹の南沢奈央あたり。

 チェロの単音を中心とした音楽もよかった。庄内の景色とよくあっている。
 エンディングで一青窈の「栞」が流れてくる。この種の映画で日本語の歌つきのものを使うのは感動を壊してしまう可能性もあり冒険だが、これも成功と言える。まったく違和はなかった。(旧い話だが、サーフィン映画「ビッグ・ウェンズデイ」で、これをやって失敗していた。)

 とにかく、あまりに好きな原作なので、どんなものになったのだろうと冷や冷やしながら見た。とりあえずほっとしたというのが感想になる。DVDになったのは知っていたが落胆が怖くて今日まで手が出せなかった。半年ぶりの決断だった。これから安心してもう一度見よう。








 Amazonのレヴュウをいくつか読んだ。世の中にはいろんなひとがいるもので、「どうしてもヤマダヨウジのたそがれ清兵衛と比べてしまうので星3つ」というのがあった。ヤマダが星5つなのである。こんなやつとはぜったい友だちにはなれない(笑)。なにもわかっていないひとだ。

見合いで会った弥一郎と山桜のしたで再会して」なんてひどいのもあった。仲介者を通じて縁組の申しこみがあっただけである。実際には会っていない。こういうひとは原作を読んでいないのだろうが、映画を見ただけでも、今風の見合いのように面接しているのなら、野江が山桜の下で弥一郎を思い出せないはずがないことに気づくはずだ。なにを考えているのやら。なんともお粗末なひとである。時代小説の粋の部分がぜんぜんわかっていない。

 むかしは見合いといっても話だけが進んで行き、当人達は結婚式まで会ったことがない、なんてのもざらだった。江戸時代に限らず昭和に結婚した私の両親などもそれに近い。あまりにものを知らなすぎる。そういうひとが得意気にレヴュウを書いているAmazonというのもすごいところだ。いや、とてもよくできたAmazonのレヴュウを読んで感心することも多い。しかし今回のこれはひどいのが多かった。特にこういう明らかな間違いは、どなたかが指摘すべきだろう。

 小説ファンと映画ファンとは別物なのか原作を読んでいないひとが多く、映画のレヴュウではそれが目立つ。
 ヤマダヨウジ作品も、原作を読んでいなければ、それなりに見られる映画かも、とは思う。私のヤマダへの怒りは、ひたすら「名作の原作を好き勝手にいじくり、ぼろくそにされた」につきる。

 この映画は、原作に忠実に、原作ファンを失望させないよう、細心の注意を払って作られた佳作である。
 と同時に、原作ではまったく描かれていない「手塚弥一郎」という役柄、行動、セリフを、無から有に作りあげ、原作者の遺族からも感謝されるほどに仕上げたのだから、自分の映画にこだわる「活動屋」としても、充分に満足できる映画作りだったことだろう。

 写真はすべて映画「山桜」のサイトhttp://www.yamazakura-movie.com/ より拝借しました。



 映画「山桜」のサイトに、藤沢師の長女が感想を寄せている。以下はそのリンク。
 娘さんのこの感想が映画「山桜」のすべてを語っているように思う。



 ここで遠藤さんは「父が映画化を許したのは『蝉時雨』だけ」とし、自分達遺族も「父の作品を本当に理解してくださるかたにしか原作の提供は出来ない」と書いている。藤沢周平原作を映画化といえば、ヤマダヨウジの三部作が世間的にはいちばん有名なのだが、ひとことも触れていない。痛烈にヤマダヨウジに対する怒りが伝わってくる。

「山桜」映画化の話が来てから二年間、交渉を重ねたこと。それは遺族側からの「原作を壊さないで欲しい」という願いであり、プロデューサや監督、脚本家と話しあいが続いた。
決定稿まで数回の脚本のやり取りが続きました」とあるから、意に染まない脚色に意見を言って書きなおしたりもあったのだろう。

 そして作品を観た後、「父の原作を本当に大切にして頂いたと感謝の気持でいっぱいになりました。最初の約束を最後まで守って下さった小滝氏(プロデューサ)、そしてこの映画に関わって下さった全ての人に頭が下がる思いでした」と書いている。

 ここにあるのは、ヤマダヨウジによって原作をぼろぼろにされてしまった遺族の怒り、それでいてそれが世間的にはそこそこの評判であることの無念、映画関係者への猜疑心から映画化を承知しなかった経緯である。

 やっと藤沢師の御遺族も納得できる映画が出来上がったようだ。まことにめでたいことである。そしてまたあらためて原作をぶち壊しにする映画監督への怒り(それはそれで彼らも商売であり我を通すのは当然としても)が湧いてくる。それが映画であり、映画監督の在り方なのだとは思うが、私は、藤沢作品をぶち壊しにしたヤマダヨウジが監督した作品を許容することは絶対に出来ない。

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 田中麗奈映画を見る
 
 このあと、「暗いところで待ちあわせ」、デビュー作の「がんばっていきまっしょい」、「銀色のシーズン」「犬と私の10の約束「好き」「ドラッグストア・ガール」ゲゲゲの鬼太郎」等、田中麗奈主演作品を見る。

 それらに関しての感想を長々とここに記すことはない。
 私はただ、大好きな「山桜」が壊されないかと、それだけが気になっていた。これらの作品を気楽に見て、あらためてそれを感じた。
「がんばっていきまっしょい」はほのぼの青春映画。たのしめた。18歳の田中がまだ田舎娘だね(笑)。

「暗いところで待ちあわせ」は並。ディテールに文句はあるが書くほどでもない。
「銀色のシーズン」はくだらん。途中で投げた。
「犬と私の」は私は猫派なので途中でヤメ。
「好き」はインターネット配信された特別なモノらしいが秀作。田中麗奈の魅力をよく引きだしていると思う。
「ドラッグストア・ガール」は田中麗奈初のコメディとか。芸達者を揃えていたので期待してしまったが、その割には笑えない映画だった。横須加池之端商店街のロケがよかった。
「ゲゲゲ」も実写版という価値以外は興味なし。でも猫娘として出演した田中麗奈の意気や良し。
 やっぱり「山桜」なのだった。ともあれ、安心できてよかった。

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 基本は藤沢周平ファン

 北川景子主演の「花のあと」を観た。藤沢原作だがいじくりすぎていて原形を残していない。別物として観た。
 それで思ったのだが、私にとって「山桜」の主演は北川でもいいのだった。
 それであらためて確認したのが、私は田中麗奈や北川景子のファンではなく藤沢原作のファンだということだった。とはいえ芸能プロの力かなんかでとんでもないバカ女が主演していたら激怒しただろうから、ふたりが魅力的な娘であるのはまちがいないのだが。
5/3
「花よりもなほ」をテレビで見る


 深夜のテレビで見た。2006年作品。まったく知らない作品だった。なぜだろう。封切りのころはテレビCMをうったはずだし、テレビ時代劇を見ない(程度が低くて見られない)分、時代劇映画には興味を持っている。よく見ている方だ。なのになぜかCMすら記憶にない。

 番組表で知り、ネットで事前検索をした。
 見る気になったのは「原作がなかったから」。とにかくもう藤沢作品がヤマダヨウジにボロボロにされるように、好きな原作の映画は見ない方がよい。腹が立つ。これはオリジナル脚本だとか。なら安心してみられる。つまらなかったら消せばいい。



 先日同じく深夜に「ヅラ刑事(デカ)」をやっていた。これはよく知っていて、前々から見たいと思っていた作品だった。「スケバン刑事」のヨーヨーのように、モト冬樹がカツラを武器として飛ばすというバカらしさがいい。単純に笑えると期待した。

 モト冬樹がニコラス・ケイジに似ているというのはニコラス・ケイジを初めて見たときに感じたことだった。私が彼の名を覚えたのは「あなたに降る夢」の警官役だったから1995年、ビデオだから翌年だろうか。そのころまだ彼がビッグでなかったこともあり、私のこの意見はあまり賛同は得られなかった。

 私は誰と誰が似ているということに関して興味がない。だから友人からそういう話を聞いても同意することがすくない。そんな私がニコラス・ケイジを見ているあいだ、モト冬樹のことばかり思い出していたのだから印象的な役者だった。まあビジーフォーをむかしから好きだったことも関係あろう。

 彼がメジャーになったのは1996年の「リービング・ラスベガス」だ。これはアル中の男の役。顔形の雰囲気からもそんな役者だと思っていたから、何がおどろいたといって、そのご彼がアクションスターで成功したことがいまもって不思議でならない。どう考えても彼は、さがり眉の弱々しい顔のひとだろう。その考えはいまも変らない。いやニコラスのことはともかく。

 私は楽しく笑えるB級映画としてこの「ヅラ刑事」に期待した。だがこれはひどい出来だった。見始めてしばらくして、ためいきをつきつつテレビを消した。映画である必要がない。テレビのスペシャルでももったいないような出来だった。

 そんなこともあるからたまたま見るテレビでの映画に期待はしていない。それでも同じく深夜テレビで知った「ダメジン」「亀は意外に速く泳ぐ」の三木聡作品のようなうれしい出会いもある。



 ストーリィは、

 元禄15年の江戸で、青木宗左衛門(宗左)は父の仇を追って、信州から上京した若侍。しかし、剣の腕は立たず、寺子屋で算術を教えていた。そんなある日、仇を見つけた。しかし、長屋の人々のとの心地よい暮らしになじんでしまった彼は、仇が妻子と幸せな生活を送っているのを見て“仇討ちとは何だろう”と考え始める。そして、彼が出した結論は長屋の人々を巻き込む騒動に発展していく。

 キャストは、

岡田准一/宮沢りえ/古田新太/香川照之/田畑智子/上島竜兵/木村祐一/加瀬 亮/千原靖史/平泉 成/絵沢萠子/夏川結衣/國村 隼/中村嘉葎雄/田中祥平/田中碧海/石橋蓮司/寺島 進/遠藤憲一/田中哲司/中村有志/勝地 涼/石堂夏央/トミーズ雅/南方英二/浅野忠信/原田芳雄

 事前に調べたといってもおおまかなストーリィと出演者だけなので、監督のことまでは知らない。以下は、いまAmazonで調べて知ること。

 『誰も知らない』の是枝裕和監督が初めて手掛ける時代劇。ドキュメンタリー出身で、人間の本質に迫る作品を、柔らかな視線で捕らえてきた監督らしく、人情で見るものを包み込むぬくもりある時代劇。

 ああ、「誰も知らない」の監督なのか。あれは見ている。この是枝さんという監督はどんな経歴なのだろう。Wikipediaで調べてみる。



 世界的話題になったのは上記「誰も知らない」だが、1995年に「幻の光」を映画化していると知る。
「幻の光」は、宮本輝作品の中で、最も好きな、と言っても過言ではない小説だ。宮本輝というひとは、こども時代に体験した大阪や北陸あたりのあの暗い情念で描いた初期の作品が最もすばらしいように思う。東欧あたりを描くようになってから一気につまらなくなった。美食や性は論外である。
 もっとも彼だってこども時代からのタンクが空になったので、次のステップのために東欧を選び、懸命に努力して開発した新ジャンルだ。体験を下地にした貧乏物語だけでは終れなかったろう。

「幻の光」は海外の映画祭に出品された話題作のようだ。主演は江角マキコとか。これは見てみたい。たぶん、「おれの大好きな小説をボロボロにしやがって」と怨むことはないだろう。大好きな小説ではあるが、ぜったいにこう描いて欲しいという要求があるわけでもないし。

 と書くとまたヤマダヨウジに対する怨みが沸いてくるが、それはそういう私の理想とかは関係ない。それ以前の話。話が矛盾し、藤沢の原作をムチャクチャにしているのである。これはそのうち書くとして。



 是枝監督のことを調べたのは、大阪のひとかと思ったからである。この「花よりもなほ」を見て、誰もがすぐに思うのは、吉本芸人が多数出演していることだろう。主演の岡田と宮沢以外は、脇を固めるキム兄、上島、千原兄、と関西の芸人ばかりなのである。(上島は東京で活動しているけど。)

 ワンシーンのみの出演にも、トミーズ雅やチャンバラトリオが出て来たりする。もうほとんど吉本タイアップ作品のようだ。
 さらにはロケ地に興味があったのでエンドロールを見ていたら、「立命館大学の皆さん」と出て来た。エキストラの通行人等を彼らがやっているらしい。なにからなにまで関西尽くしだ。是枝監督が大阪のひとかと思ったのは自然であろう。

 ところが生まれも育ちも東京。学校も早稲田。なぜこの作品が大阪ベッタリなのかがわからない。誰か知っていたら教えてください。もちろんとてもおもしろかったからそのことに文句があるわけではない。素朴に不思議なのだ。



 この作品がおもしろかったのは、彼らがいたから。すばらしいキャスティングだった。そしてまた誰もが熱演している。
 なによりよかったのは彼らから大阪弁のイントネーションが出なかったことだ。上島は兵庫県出身なのに関西弁を一切使わないことで有名だ。聞いたことがない。彼を関西出身と知らないひとも多い。キム兄は器用だからだいじょうぶだろうと思っていた。だいじょうぶだった。意外だったのは千原兄で、大阪臭さを感じさせなかったのはたいしたものである。見なおした。

 というのは、藤沢周平原作の映画「蝉しぐれ」に、今田耕司が出ていて、山形県が舞台の時代劇であり、わざとらしい半端な訛もまじったりする中、彼の大阪弁のイントネーションはあきらかに浮いていたのである。彼を起用する必然性はまったくなかった。いわば話題作りだ。彼が大阪弁から脱けられないことはスタッフも撮影途中でわかったろう。彼も直せなかったのか。正直、どっちらけだった。
 それがあったので心配していた。いかにも大阪っぽい雰囲気なのに、それを消して、千原兄が江戸の貧乏人を好演しているのは見事だった。



 誰もが絶讃するであろう脇役陣のキャスティングの妙、好演は、私にとってこの映画、二番目の魅力。
 一番目はセット。けっとばしたら倒れそうなバラックの長屋や、垢染みた衣裳、これが最高だった。それらが映しだされた最初のシーンで、この映画は最後まで愉しめるなと確信できた。

「たそがれ清兵衛」に関して、ヤマダヨウジが「衣裳代がふつうの映画の倍かかった」と言っていた。絢爛豪華だからではない。当時の雰囲気を出すために、新品をよれよれにする手作業で経費が嵩んだのだ。

 この映画はそれよりももっとたいへんだったろう。おわい屋(クソ売りですね)のキム兄の、いわゆる「醤油で煮しめたような」フンドシの汚さ、屑拾いの上島と千原兄のボロボロの衣裳、顔や髪の汚れ。撮影が始まるまでに、時間をかけてあれらの「化粧」をする彼らを想うと思わず笑ってしまう。そういえば千原兄はふだんと同じ髪形で出演していたが、ぜんぜん違和感がなかった(笑)。
 主役の岡田も宮沢も、十分に当時ふうに汚れている。質素だ。香川照之の汚い武士姿も見事だった。当時の長屋住まいなんてあんなものである。衛生環境が悪い。だから赤子が死ぬ。よって平均寿命が短い。



 江戸時代の平均寿命は五十だと、しばしば口にする人がいる。これは織田信長が「人間五十年」と謡った幸若舞「敦盛」の影響もあろう。やたらそこだけ一人歩きしている。明石家さんまなんかがその代表で、五十のひとに「江戸時代ならもう死んでましたで」と言う。いつしか自分がその死んでいたひとの年を越えたが。
 これは劣悪な環境で死んでゆく乳児の死亡から数えるからで、成人である十五歳まで生きたひとからの平均だと、男が六十過ぎ、女が六十五過ぎぐらいと言われている。



 とてもおもしろく愉しめた映画だった。
 不満はひとつ。武士のことばが軽い。気持ちはわかるが、すこし今風で軽すぎるように思う。まあわかりやすい映画に仕上げるにはしかたないか。それでも要所要所で、もうすこし岡田のことば使いを堅苦しくして、長屋の連中とのあいだに武士と庶民のへだてをおいた方がよかったように思う。最後はそれを取り払うにしても。



 いま調べたら、この映画、賞をとっていない。2005年制作で2006年公開だから2006年作品になるのか。あれこれ受賞している同年の作品より、よほどこちらのほうが優れている。
 いい映画を見られてしあわせな時間だった。
 岡田准一は、こういう良質の作品に主演したり、テレビじゃ「SP」だし、いい役者人生を歩んでいる。

 
 2009

 3/10    映画「20世紀少年<第1章>」を見る

(Wikipediaより引用)

『20世紀少年』(20せいきしょうねん、20th Century Boys)は、1999年から2006年まで週刊ビッグコミックスピリッツで連載された浦沢直樹のSFサスペンス漫画。完結編である『21世紀少年』(21せいきしょうねん、21st Century Boys)は、2007年1月から7月まで連載された。単行本は『20世紀少年』が全22巻、『21世紀少年』は上・下巻の2巻が発売された。



ストーリー

日本が高度成長期のまっただ中の1970年代。夢と希望に満ちあふれた時代。少年たちが空想した世界。地球滅亡をもくろむ悪の組織、東京を破壊し尽くす巨大ロボット。世界は混沌とし、滅亡に向かっていく。それに立ち向かい地球を救う、勧善懲悪の正義のヒーローとその仲間たち。こんな下らないストーリーを“よげんの書”と、少年たちは名つけた。大人になるにつれ、そんな空想の記憶は薄れていく。
しかし、1997年、コンビニエンスストアを営む主人公のケンヂは、お得意先一家の失踪や幼なじみの死をきっかけに、その記憶を次第に呼び覚まされていく。そして、世界各地の異変が、昔幼い頃空想した“よげんの書”通りに起こっていることに気づく。出来事に必ず絡んでくる謎の男“ともだち”との出会いによって、全ての歯車は回り出す。


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キャスト
第1章
ケンヂ(遠藤健児):唐沢寿明、田辺修斗(中学生時代)、西山潤(幼少)
オッチョ(落合長治):豊川悦司、澤畠流星(幼少)
ユキジ(瀬戸口雪路):常盤貴子、松元環季(幼少)
ヨシツネ(皆本剛):香川照之、小倉史也(幼少)
マルオ(丸尾道浩):石塚英彦(ホンジャマカ)、安岡壱哉(幼少)
モンちゃん(子門真明):宇梶剛士、矢野太一(幼少)
ケロヨン(福田啓太郎):宮迫博之(雨上がり決死隊)、森山拓哉(幼少)
ドンキー(木戸三郎):生瀬勝久、吉井克斗(幼少)
ヤマネ(山根昭夫):小日向文世、安彦統賀(幼少)
フクベエ(服部哲也):佐々木蔵之介、上原陸(幼少)
コンチ(今野裕一)(幼少):清水歩輝
万丈目胤舟:石橋蓮司
神様:中村嘉葎雄
キリコ(遠藤貴理子):黒木瞳
遠藤カンナ:平愛梨、畠山彩奈(幼少)
友民党CMのタレント:藤井隆、山田花子
田村マサオ:ARATA
敷島ミカ:片瀬那奈
アルバイト店員のエリカ:池脇千鶴
敷島ゼミの学生:三浦敏和・鈴木崇大(タカアンドトシ)
スクーターの若い男:中田敦彦・藤森慎吾(オリエンタルラジオ)
池上正人:藤井フミヤ
ノブオ:布川敏和
ケンヂの同級生:石橋保、入江雅人
ロックバンドのボーカル:及川光博
ロックバンド:ナイトメア
ピエール一文字:竹中直人
漫画家・角田:森山未來
諸星:津田寛治
コンビニの本部教育員:徳井優
市原節子:竹内都子(ピンクの電話)
木戸美津子:洞口依子
血まみれの男:遠藤憲一
ヤマさん:光石研
ヤン坊・マー坊:佐野史郎、山田清貴(幼少)
オリコー商会社長:ベンガル
遠藤チヨ:石井トミコ
ジジババのババ:研ナオコ
チョーさん:竜雷太
諸星の母:吉行和子
チュウさん:田村泰二郎
浜さん:横山あきお
へーちゃん:不破万作
自衛隊隊長:小西康久
SAT隊長:岩尾万太郎
通販番組タレントの片方:ダンディ坂野
コメンテーター:デーブ・スペクター、宮崎哲弥、木元教子
ジジババのジジ(遺影):田中健
フジヤマトラベル(声):中村正
渋谷のギャルの1人:木下優樹菜
滝口順平、阿藤快


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 私は浦沢直樹のファンなので彼の単行本は初期の「踊る警官」からぜんぶ持っている。
 ところが「モンスター」あたりから首を傾げるようになり、この「20世紀少年」でとうとう投げてしまった。これは大好きな筒井康隆に「虚構船団」あたりからついて行けなくなったのに似ている。私の頭が御粗末で高度な作品を理解できなくなったのだ。

 しかし今も日本はもちろん外国でも評価の高い「モンスター」ってそんなにおもしろいかなあ、なんか半端な作品のような気がするけど、というのは本音だ。私には「YAWARA」のほうが遥かにおもしろい。

 ビッグスピリッツを毎週読んでも「20世紀少年」のストーリィがわからない。単行本も買った。それでもわからない。単行本を5冊買った時点で、私には理解できない作品として投げた。それから幾星霜。

 今回この映画を見て、やっと筋立てがわかった。この映画がどういう評価を受けるのか知らないし(もう第2章も公開されているし、すでに評価を受けているのか)、世間の評判などどうでもいいが、私には「原作マンガの筋書がよく理解できてありがたかった感謝感謝の作品」になる。ここまで原作に忠実に映像化された作品もそうはない。それは浦沢が脚本にまで関わっているのだから当然か。それでもかなり変更されている箇所もあるらしく、それはそれでWikipediaの比較対照を読んで楽しかった。しかしまあすごいマニアがいるものである。



 出演者は芸能界オールスターキャストで賑やかだ。駄菓子屋のしわくちゃ祖母さんに研ナオコ。笑った。ほんの一瞬の出演。豪華だ。でも少年時代のケンジのズルの現場であり、今後もけっこう重要な役割。
 マルオの石塚が原作の人物とそっくりであり、石塚もうれしがり、浦沢もいちばん似ているキャストとしていたが、そもそも石塚をイメージして描かれたキャラなのだから当然だ。
 テレビで石塚が「体重に気を遣った」と語っていた。10キロ20キロの増減は毎度のことなので、半年に亘る撮影中、不自然になってはいけないと、同じ体重を心懸けたとか。

 もうマンガを完読したのでオチまですべて理解できたのだが、映画の第2章も第3章も楽しみに見よう。私の場合はレンタルDVDだけれど。



 端役として出ているタカアンドトシのタカが、自身のバラエティ番組に主役の唐沢寿明をゲストに招いたとき、私と同じ事を言っていた。つまり「マンガの筋書が映画で判って助かった」と。自分と同じひともいるのだと思い苦笑した。とにかく原作では時空がポンポンと飛び、登場人物が多彩だから、それこそスピリッツや単行本を何度も読み返さないとこんがらがる。その点、映画は親切だ。「わからないヤツはわからなくてもいい」ではなく、「誰もにわかるように」作られている。バカな私でも理解できた。

 この映画のお蔭で粗筋が分り、そのあと単行本をまとめ読みした。感激した。キツい評価も多いようだが、理解して読めば(?)充分おもしろい。
 途中でわからなくなり投げていた大作マンガを、この映画のお蔭で通読し、理解できた。心から感謝する次第である。やはり浦沢作品のファンとして、「わからないので投げた作品がある」のは悔しい。
 以下、マンガの方に続く。

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 マンガ「20世紀少年」を完読する

 4/10  隠し砦の三悪人──リメイク版を見る




 傑作の誉れ高い黒澤映画のリメイクである。劇場公開時から観たいと思っていた。
 「スターウォーズ」に影響を与えた、というかかなりの部分で〝原作〟と言ってもいいほど関わっているこの傑作を、「スターウォーズ」が映画史に残る大作となり、世界的な影響力をもつ今、日本がリメイク版を作るのである。期待しない方がおかしい。
 三船敏郎が演じた主人公・真壁六郎太を阿倍寛が演じる。楽しみだ。そして今日、遅ればせながらDVDで観た。



 激しく失望した。私はすなおなリメイク版だと思っていた。そうではない。これは黒澤映画をかってにいじくった別物である。太平と叉七という狂言まわしの設定を変更したのが許せない。代わりに設定されたのがジャニーズ事務所タレントだ。予想通りそれが雪姫と恋愛模様になる。くだらない。あまりにくだらない。
 雪姫もやたら庶民の苦労に理解を示す。苦笑もののヒューマニズムだ。



 役者は、六郎太の阿倍寛も雪姫の長澤まさみも新キャラの武藏とかのジャニーズタレントもよくやっていた。悪いのはみな監督である。
 改悪は許せないが、しかしそれが藝術へのこだわりなら、結果としてひどいものになっても許容すべきように思う。だけどこの安っぽいヒューマニズムとわざとらしい恋愛模様はそうではあるまい。興行を考えたのだろう。そこがセコい。

 映画「あずみ」もひどかった。それは主役の上戸彩があずみ役に向いていないからだ。だがそもそもが「上戸彩の映画を作ろう」という企劃から漫画「あずみ」が選ばれたのだとしたら私の不満は見当違いになる。だからそういうのは笑ってすませるとしても、この映画は違う。黒澤映画のリメイクであり、スターウォーズの原作であり、多くの映画ファンが注目した作品なのだ。上戸彩のプロモーションビデオのような「映画あずみ」とは位置つけが違っている。



 Amazonのレヴュウを見てきた。総じて感想は同じようだ。みな手厳しい。
 その中のひとつに「なぜジャニーズを使うのか。百姓のふたりは、ひとりが宮川大輔なのだから、もうひとりはほっしゃんだったらいいのに」というのがあった。同意である。宮川は好演だった。オリジナルと同じく、太平と叉七のままの設定にし、もうひとりもお笑い芸人がよかったろう。

 批判されるCGの使用や派手な爆破シーンなどは気にならない。今どきの映画なのだからそれはそれでいいだろう。逆に「スターウォーズ」のリメイクのようで笑えるシーンもあった。問題はよけいなヒューマニズムだ。



 小説が原作の映画を観て感動したことがない。白けるのでもう観ないようにしている。映画監督は必ず原作を自分用にいじる。それが彼らの誇りなのだろう。だれもが口にする。「原作は関係ない。これは俺の作品だ」と。だがそれでよくなった例を知らない。悪い例ならいくらでも列記できるが。
 前記「映画20世紀少年」がいいのは、原作者も脚本に関わって原作に忠実だからだ。

 今回は小説が原作ではないけれど、この監督もオリジナルの黒澤映画をそのままリメイクすることはよしとしなかったのだろう。「俺流の『隠し砦の三悪人』を作るのだ」と意気込んだのか。結果はひどいことになった。よいところはみな原作のすばらしさであり、いじったところだけが最悪なのだから、文句なしにすべての責任は監督にある。



 ひさしぶりにオリジナルを観たいと思った。<TSUTAYA>に行って借りてくるか。この映画に価値があるとするならそれぐらいか。
8/1  藤沢周平原作映画化「花のあと」



木村拓哉主演で大ヒットを記録した『武士の一分』、日本アカデミー賞で全部門優秀賞受賞の快挙を成し遂げた『たそがれ清兵衛』など、近年、映画化が続く文豪・藤沢周平の作品がまたひとつ映画化。珠玉の短篇小説「花のあと」(文春文庫刊)が映画化されることになり、主人公の以登を北川景子が演じることが決まった。

「花のあと」は、藤沢さんが郷里の山形県・鶴岡をモデルに創作した海坂藩を舞台にした短篇を集めた作品集「海坂藩大全」の中に収められた一編。女でありながら、男顔負けの剣術の腕を持つ以登は、ただ一度、竹刀を交えた江口孫四郎に一瞬にして恋心を抱く。だが、以登、孫四郎ともに決まった許婚があった…。

凛とした佇まいの以登を演じる北川さんは今回が時代劇初挑戦となる。今回の出演について「元々、時代劇はずっと挑戦してみたいと思っており、藤沢映画は演技をする者みなの憧れの作品でもあるので迷わず出演させていただきました。藤沢作品にしては珍しく、女性が主人公だと聞いたことも興味深く、一生に一度あるか分からない藤沢作品との出会いで役者として成長したい、という気持ちで臨みました」とコメント。また、撮影については「最初は着物に慣れることが大変でした。着物を身につけた状態での歩き方、座り方などの所作はとても難しく、クランクイン前にたくさん稽古しました。今回は、殺陣も吹き替えなしでやるということで、立ち回りのシーンもかなり練習が必要とされたので苦労しました」とふり返った。

http://www.cinemacafe.net/news/cgi/release/2009/08/6431/



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 また藤沢周平作品の映画化である。どんなに藤沢作品がすぐれていようと商売にならなければ作らない。賞を取ったヤマダヨウジの三部作はもちろん、「蝉しぐれ」「山桜」等もみな、そこそこ商業的に成功しているということなのだろう。

 ヤマダヨウジは自分の映画を成功させるために原作をいじくりまわしメチャクチャにした。それは藤沢周平作品ファンとして許せないことだが商業的に成功させようとしてあのようにしてしまった気持ちはわからなくもない。許せないが。

 「蝉しぐれ」は藤沢文学の最高傑作と讃えるひとの多い作品(私はそうは思わないのだけれど)だから、これの映画化を試みた感覚は納得できる。藤沢氏もこの作品の映画化は諒承したとか。でもこういう「こども時代と成人してからの二役が必要な作品」は映画としてむずかしいのではないか。観てそう思った。

「山桜」は短篇だが含みのあるすばらしい秀作である。これの映画化を企劃したひとの気持ちはよくわかる。私はヤマダヨウジ作品のようにまた原作を壊されるのではないかと心配したがよい出来になっていた。遺族も初めて満足の行ける映画だったと誉めていた。



 さて「花のあと」である。これの映画化は理解できない。「山桜」のときは「とうとう目を附けられてしまったか」と思ったが、これに関しては「なぜ?」と思うだけだ。
 しかしまあ毎度のことであるが、凛とした佇まいの以登だとか藤沢作品にしては珍しく、女性が主人公とか、原作を読んでいない記者の書くワンパターンフレーズはいかがなものか。なんとも醜悪でありみっともない。やっつけ仕事であることがよく分かる。

「花のあと」も「山桜」と同じく短篇である。だが「山桜」がいくらでも脹らませる深みを保っていたのと比すと、わたし的には、だいぶ味わいが違う。



 作品の筋書と設定を書くのは野暮だが書かないと意見が言えないので書く。しょうもない。
 まず物語は「以登(いと)ばあちゃんが孫達に昔の自慢話をする形」で始まる。こどもを7人産み、いま大勢の孫達に囲まれているしあわせなしわくちゃばあちゃんである。孫達も15歳を筆頭にかなり話がわかる齢になっている。自慢話は淡い恋愛絡みである。ばあちゃんの娘時代の自慢話。ばあちゃんは器量が良くない。孫からそれを揶揄される、ばあちゃんは「むかしはかわいかったんだ」と反論する、のように、藤沢作品には珍しくコミカルな味つけになっている。ろくに読みもしないで「珍しく女性が主人公」などと書く新聞記者がいるが、この作品が藤沢作品にしては珍しいのはじつはこの点である。それは以登の婚約者の描き方等にも出ている。その明るい作風から、病弱な藤沢師だが体調の良いときに書かれた作品なのではないかと推測する。



 長々と書くのも愚かなので要点をふたつに絞る。原作と映画の違いだ。

 こだわりのひとつめは「主人公の以登はブスであることだ。目が吊っていて口が大きい。特に口が大きいことと色黒は当時の規準では最悪であり本人も気にしている。だから笑うときは必ず手を当てて大口を見られないようにする。何度もそういう表現が出て来る。当時の規準ではブスでも今的にはけっこういける、との解釈も出来ようが、とにかく以登が不美人であることはこの作品の重要な要素だ。原作もそれを味わいとして書かれている。

 剣術に熱心だった以登の父は故郷に婚約者がいながら江戸詰で剣術修業に明けくれた。江戸で最先端の剣術修業を続けたくて帰郷の許可が出ても帰らなかったのである。以登の母が17歳のときに婚約していながら帰郷して結婚したのは24の時だった。二十歳を過ぎると年増と呼ばれた時代だからずいぶんと婚約者(以登の母)にはひどいことをしたことになる。

 それから数年して出来たのが以登。男が出来たら自分の剣の技をすべて伝えようと意気込んでいた父は落胆する。数年後、どうやら次の子は出来ないらしいと諦め、以登に剣術を仕込みはじめる。才覚があったのか以登は女ながら見る見る上達する。そして年頃になる。最近では父を打ちこむまでになっていた。

 腕試しがしたい以登は父と一緒に藩の剣術道場に乗りこむ。父にとっても自分のすべてを教えた娘の腕前を知りたいところだった。そこで以登は藩の二番手、三番手の男を打ちまかす。とんでもない強さである。一番手の男はそのときいなかった。このあたりの強さからも、以登が体格の良い男勝りの大柄な女であることが判る。

 しばらく後、花見の場で以登は見知らぬ男から声を掛けられる。先日は失礼したと。それが道場で立ちあえなかった一番手の男・江口孫四郎だった。以登の胸はときめく。淡い恋である。男も美男子ではない。剣技に優れた者同士に通じる感覚だったろう。

 この花見の場(もちろん桜)の設定もけっこう笑える。ここはいわば今で言う「ナンパスポット」なのだ。年頃の男女はそこに集う。娘達もナンパされたいのでいそいそと出かける。出会いの場なのだ。でもそんなことを期待してきた尻軽と思われるとしゃくなので決して話し掛けられても男とは口を利かない虚勢とか、これまた藤沢師にはめずらしくコミカルな味つけだ。以登もそれなりの期待を持ってきたくせに、男なんかに話し掛けられると困るからよと急いで帰ろうとする。



 以登は父に頼んで彼との立ちあいを設定してもらう。それは以登の家の裏庭、剣術修業の場で行われた。
 この試合の表現が秀逸だ。剣術試合なのだが以登は立ち合っているあいだ恍惚となる。藤沢文学はエロチックと毎度私は言うが、初めて出逢う自分よりも強い男との試合に以登は酔うのである。絡みはまるでセックスである。いや絡みはほとんどない。睨みあっているだけだ。だがそれはエロい時間である。結果はあっけなく孫四郎の勝ち。ふたりの出会いはそれだけだった。

 父は以後、彼と接触することを禁じる。以登にもすでに婚約者がいた。父は剣技のことから娘が彼に淡い恋心をいだいていることを知り、この場を設定してやったのだった。

 孫四郎に縁談の話があり婿入りしたと聞く。以登は不可解だった。相手は評判の美女であり男の噂の絶えない女だった。地味な以登たちとは行動がちがっていた。今も妻帯している藩の重職とつきあっていると噂があった。

 この辺の設定がわかりやすく微笑ましい。いわば田舎の高校生の話。以登はバレー部のエースアタッカー。田舎臭い娘である。大柄でゴツくてたくましい。色気などかけらもない。そういう田舎にもたまにひとりぐらい垢抜けした美女がいて、以登たちが川原をランニングしている横を大学生の運転するクルマに乗って通りすぎたりする。もうすでに経験したらしいと噂になったりする(笑)。まあそんな設定である。藤沢文学のおもしろさは現代物としても成立することだ。先生御自身が外国物の現代物ばかりを読んでいたという話がよくわかる。

 以登としては自分が想いを寄せた孫四郎が、悪い評判のあの女のところに婿入りすることは不快だった。自分とは結ばれないが、かといってあの女はないだろうと思う。自分にも婚約者がいるのだが、これが剣技などまるでだめで、それでいてやたら以登の体に触りたがる軽薄な男である。
 この婚約者は後に結婚してから以登に7人も子供を産ませ、剣技はだめだが出世の才能はあり藩の重職にまで登りつめる。この辺の人物味つけも「珍しく」コミカルになっている。



 ある日、以登はその女が孫四郎と結婚した身でありながら、妻子ある重役とまだ関係が続いている場面を目撃する。立腹するがまさかそれを孫四郎に伝えるわけにもゆかない。
 そこに孫四郎自裁の報が伝わる。江戸屋敷の重要な場で失態を侵した孫四郎は責任を取り切腹したのだ。
 以登は情報通の婚約者にその実態を探らせる。すると孫四郎の妻と不倫している彼の上役でもあるその重役が、婿入りしたばかりでそういう作法に疎い孫四郎に、わざと誤った手順を伝え、その通りにした孫四郎が重職の前で大恥を掻いたと知る。その責任を負っての切腹。

 この辺のストーリィには首を傾げる。妻子ある重役は離婚することは適わないし、する気もない。假に出来たとしても婿取りの孫四郎の妻と結婚は出来ない。そういう時代であり制度だ。不倫が程良い。長年つきあっているそういう相手である。女は獨身時代も結婚後も自分のものであり、あえて孫四郎を亡き者にする必要はない。孫四郎をそんな形で消しても、婿取りの女はまた次の男を婿に迎えるに決まっているのだから。この展開はちょっと無理があるような気がする。

 藤沢先生のストーリィに味方するなら、孫四郎は妻と重役の関係に気づいており、なにしろ藩一の遣い手であるから、このままでは孫四郎に切られると重役は脅えた、と解釈すべきか。あるいはちょいと意地悪をしただけで、まさか自裁にまで繋がるとは思っていなかったか。

 淡い恋心をいだいた唯一の相手、自分よりも強かったただひとりの男が、重役の鄙劣な手段で自裁に追いこまれたことに怒った以登は、その重役をひとけのない川原に呼びだして問い詰める。あなたがそのように追いこんだのであろうと。重役はその通りだと認め、そのことを知っているのはおまえだけだなと確認したあと、以登を殺害しようとする。薄闇の中、周囲にひとはいない。この女を消してしまえばすべては闇に葬れる。この重役もかなりの剣の遣い手なのだ。



 ここで重要なことのふたつめ。剣技に優れた以登は、切り掛かろうとするその重役にさっと身を寄せると懐剣を抜いて心臓を一突きする。男は即死である。抗う間もなかった。つまりふたりのあいだに派手な立ちあいはない

 帰宅してすぐに婚約者を呼びよせ死体の始末を頼む。この婚約者、こういう裏技には長けているのである。うまく処理され、重役の死は誰かと決闘しての死として扱われる。
 剽軽なキャラとして設定されているこの婚約者は、以登、孫四郎に続くいわば第三の主人公。演じる役者としては登場シーンも多く、孫四郎よりもオイシイ。役得である。誰が演じるのだろう。

 結びは、そんな話があったんじゃと以登ばあちゃんが孫達に昔話をしめくくる形で終る。という話である。

 婿になった以登の婚約者はやがて以登の父親よりも出世し、多くのこどもを作り、以登の息子もまた出世していま以登の一族は繁栄している。しあわせなばあちゃんが孫達に語り聞かせる昔話である。



 映画は、物語の重要な要素である「主人公の以登はブスだった」をひっくり返して、美男美女の恋愛話にする。さらに「懐剣で心臓を一突き」でしかない場を、「原作にはない対決の場をたっぷり収録」なのだとか。
 だから原作とはもうまったく違った話になっている。



 ではヤマダヨウジに藤沢作品をボロボロにされてから原作の映画化許可に頑なになっていた藤沢師遺族の方々はなぜこの作品の映画化に許可を与えたのだろうか。ヤマダヨウジの手法にいかに傷ついたかは映画「山桜」に寄せられた娘さんの感想に詳しい。
 今回もシナリオは読んでいるはずである。チェックした。慎重になっている。なぜ原作とはあまりに違うこの作品に許可を出したのだろう。

 推測するにそれは、「まったく異なっていたからこそ」ではないだろうか。ヤマダヨウジの「たそがれ清兵衛」のひどさは、「たそがれ清兵衛」「竹光指南」「祝い人助八」三作から、おもしろそうな部分を撰びだしてごちゃ混ぜにし、結果三作の持ち味をすべてぶち壊しにしてしまったことにある。むしろタイトルからすべて変えて関係なしにしてくれた方がよかった。なのにタイトルはもちろん、「藤沢文学の映画化」と大々的に歌ったのである。あの内容で。いかに遺族の方々が怒ったかがわかる。

 今回の場合は、原作からインスパイアされてあらたな物語を作ったという解釈が成りたつ。主人公の以登がブスであること、コミカルな味つけ、立ちあいの描写はないこと、それらをみんなひっくり返して、美男美女のチャンバラに仕上げたので、かえって遺族の方々は割りきれたのではないか。

 かくいう私も、この原作に思い入れはないし、原作のイメージ通りに、以登を片桐はいり(or 光浦靖子)、婚約者をせんだみつお(or 柳沢慎吾)のような配役にして原作に忠実に作られたらよろこんで見に行くかというとそうも思わない。そもそもこの作品が映画化と知っておどろいた。するとやはりこういう演出である。当然だ。そうでなければ映画にはならない。
 美男美女の恋愛があり、派手なチャンバラがあったほうが映画としてはおもしろい。原作にこだわらずオリジナル時代劇として見れば楽しめる気がする。



 とにかく私にとっては「山桜」だった。「たそがれ清兵衛」のひどさに憤慨していたから、あの作品が汚されることにだけは我慢がならなかった。その点この原作には思い入れもないし、美男美女の恋愛を中心にした原作とはちがった佳作に仕上がれば、それはそれで楽しみに見たいと思っている。

 ヤマダヨウジの最悪なのが三作を原作にしてぶち壊しにした「たそがれ清兵衛」であり、「雪明かり」と「隠し剣 鬼の爪」の二作を原作にした「隠し剣 鬼の爪」も矛盾だらけだが、「たそがれ」よりもはまだましであり、短篇「武士の一分」だけを原作にした「武士の一分」はよりまともだったように、欲ばらず藤沢文学を表現しようとすれば原作が秀逸なのだからそれなりのものは作れる。
 今回も短篇の「花のあと」だけが原作だから、原作とは異なっているが、異なっているからこそ、見て腹立つような映画にはならない気がする。



 映画がヒットするとテレビ版が作られることがある。もしもNHKあたりが三話完結ぐらいの時代劇にするなら、そのときはぜひとも剣技に優れたブス(当時の基準ではブスだが、今ではそれなりに個性的な美女とされるタイプ)を主役にした原作に忠実なものにしてもらいたい。それも一興だろう。

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 テレビに出まくる北川景子──2010年2月3月

 この「花のあと」映画化のことを知り、上記のことを書いたのが2009年の夏。もう撮影は始まっていた。いま「クランクイン」と使おうとしたが、どうやら和製英語らしいので自重しよう。外国での混乱を考えると和製英語はなるべく使わない方がいい。
 公開初日が2010年の3月13日、ずいぶんと時間が掛かっている。

 この2月3月の北川景子のテレビ出演はすごかった。ゲストを迎えるお笑い番組には軒並み出ていた。若者向けテレビドラマで人気があるらしい彼女を私はもちろん知らないのだが、この一ヵ月で充分に見知ってしまった(笑)。もっとも、整った顔だちの美人だけれど、銀座ホステスなんかにもよくいるタイプで、格別印象に残ったわけでもない。あらためて原作の「以登」とは共通点のないひとだと思った。
 写真は初日の舞台挨拶から。



 私が見るのは半年後のレンタルDVDになる。原作とはもう無関係の作品とわかっているので、願うのはただ藤沢ファンを失望させない、そこそこの佳作にしあがっていてくれ、ということのみ。(2010/3/12)

   恋するトマト


11/20  僕の彼女はサイボーグ を見て泣きました(笑)

 世の流れをとりあえず知っておこうと、話題の邦画をレンタルして見るようにしている。ふと思いついたとき、年に何度か。

 見るたびになんともたまらん気持ちになるのは「難病もの」ばかり、ということだ。と言えば邦画好きのひとはすぐにいくつも思いつくだろうから敢えてタイトルは羅列しない。その労力がもったいない。見始めてすぐに「なんだよ、また難病ものか」とうんざりした作品ばかり。思い出したくもない。とはいえラストまで見ておかないと文句も言えないので我慢して最後まで見るようには努力する。結果、みな見なくてもいいものだった。時間の無駄。限られた人生なのにもったいないことをした。

 ひとの死をテーマにすればお涙頂戴にはかっこうだ。じいさんばあさんが死ぬのではなく、元気いっぱいの若者、相思相愛しあわせなカップルの片方が、突如治癒不可能な難病で「もうすこしの命」と宣告される。なんとも安易なドラマが流行っている。まことにもってくだらん。でも世の中、そればっか。

 小説が原作のものも多いから、小説がそうなのだとも言える。小説も売りたいわけで、売りたいからそうなるのであって、それはやはり需用があるからなのだろう。
 ガンとか白血病が好きなようだ。さだまさしの小説の「解夏」なんてのも「もうすぐ失明」がテーマだからこの種のものになる。小西真奈美が好きなので「天使の卵」を見たが、これもそれの類。まあ原作の小説がそうなので小西に罪はないが。
 ケイタイ小説が原作だという「恋空」なんてのはもうこどもが精一杯知っている不幸を掻き集めたようなもので苦笑以前にこんなものを見たことがかなしくなった。「タイヨウのうた」なんてのも太陽の光に当たれないという難病ものだった。もう「いかに珍しい難病を見つけてくるか競争」になっている。いくらでも思い出せるがもうやめる。なんの意味もない。


内容紹介

『猟奇的な彼女』『僕の彼女を紹介します』クァク・ジェヨン監督最新作
パワフルな“彼女”とちょっと頼りない“僕”のピュアで切ないラブストーリー

【ストーリー】
ひとりぼっちで過ごす20歳の誕生日。寂しい大学生ジローの前に、突然キュートな彼女が現れる。彼女と過ごした数時間は人生の中でも最も輝ける時間となるが、突然彼女は姿を消してしまう。
そして1年後の21歳の誕生日、ジローは再び彼女に出会う。似ているけど、どこか違う、“完璧”な彼女に─。しかしそれは決して起こるはずのなかった、運命を変えてしまう“恋”の始まりだった─。




 というわけでこの作品にもたいした期待はしていなかったのだが、タイムトリップものは大好きだし、難病ものでもないようなので気楽に見た。若者向けの軽いコメディなのだと思った。
 しかし「ターミネーター」のパロディと「ドラえもん」的ストーリィだけかと思ったら、なかなかに魅力的な映画で、ターミネーターの綾瀬はるかが躰がちぎれて死んで行く?シーンはパロディなのに思わず泣いてしまった(笑)。苦笑すべきなのだろうが。

 ターミネーターやドラえもんと並んでむかしの映画「マネキン」を思い出すのもこれまた同じ感想。そしてまたボブカットの綾瀬はるかの演技がまた似合っている。このすこし前、綾瀬の女版座頭市「ICHI」を見ていたのだが、それよりこちらのほうが綾瀬はうつくしかった。というか、綾瀬はるかのうつくしさを最大限に描いた作品のように思う。私は巨乳好きではないが、彼女の豊かな胸の盛りあがりにはどぎまぎしてしまった。シルエットをきれいに映し出す監督がうまいのだ。



 この種の作品にはつきもののタイムパラドックスがいくつも生じるのも観劇後の楽しみだ。ネットで感想をいくつか読んだが、真剣に考えてこんがらがっているひともいれば、結末に怒っているひともいた(笑)。

 あたらしい映画にあまり興味はなく、邦画は古いものばかり見ている。新作はとりあえずの話題としてもっていようとたまに見る程度なのだが、時にはこんな掘り出し物に出逢えるからうれしい。

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 遅ればせながらの「猟奇的な彼女」


 この「サイボーグ」がおもしろかったので、かなり遅ればせながら同監督の出世作品「猟奇的な彼女」を見た。見ることが出来た。
 2001年作品だから、ほんとに遅れている。話題になったときから興味津々だったのだが、いわゆる「のりそびれ」で今まで見ずに来た。タイミングを逃してしまうと話題作に近寄れないままだったりする。この有名作品を見ることが出来たのもこの「サイボーグ」のお蔭である。感謝。

 のりそびれたもうひとつの理由。私は朝鮮美人が大好きだけれど、音としての朝鮮語は好きではない。あれはタモリの四ヵ国麻雀に代表されるように、かなり固いコトバで演説や罵倒に向いている。その点、いつも女性的でやわらかいなあと思うのが広東語だ。ジャッキー・チェンの映画で本来凄味のあるセリフでもやわらかく聞こえてしまう。関西人が関東弁に対して言う感覚で言うと、朝鮮語の響きは「バカ」でキツく、広東語は「アホ」でやわらかい、となる。

 十年近く遅れたが、観ないよりは観た方がいいかもしれない。前半のコメディタッチの部分は楽しめた。
 
 続いて同監督の「僕の彼女を紹介します」も見た。それぞれそれなりにおもしろかったけど、私は「死」をテーマ&娯楽に使うものはみなダメなので、結論感想として「イマイチ」になる。これも前半のコメディタッチは楽しんだのだが、後半はもうダメ。

 でもいまヒットする世の中の小説や映画はみな「死と娯楽」なので、それは私が世の中とズれているのかもしれない。でもこれからも「最愛のひとが死んでしまう」という映画は観たくない。ハッピーエンドがいい。映画を観て悲しい気分になるなんて真っ平だ。
 悲しい映画が好きなひとは実人生が楽しいのだろう。だから「假想悲しい気分」を金を払ってまで楽しみたいのだ。実人生が充分にかなしい私は、映画でまでかなしいものは観たくない。

「僕の彼女を」は、いわゆる「再生もの」になる。感想には「希望的」というのもあったが、私はまず「再生」のまえに、恋人が死んでしまうのがいやだ。


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