2006
3/20

5/22

なぜか近頃ハリウッド嫌い

 こどものころ、けっこう熱心にテレビの洋画劇場を見ていた。田舎のこどもとしては知識があった方だろう。
 大学生のころ、時折劇場で映画を見ていた。ニューシネマが話題のころ。ロードショーで観るには小遣いが足りない。渋谷のパレス座が多かった。しかし真の映画好きから見たらなにも知らない学生になる。こちらも音楽を作ることに夢中だったし、映画という他人の作品を論ずる感覚には興味がなかった。とにかく当時も今も評論家ほど嫌いなものはない。

 三十を過ぎてから、ヴィデオデッキとレンタルヴィデオの普及で、狂ったように映画を見た。これは映画に魅せられたというより、二十代に見ていないことによる缺落している知識を補完したい気持ちが強かった。
 年に100本見ると決めて実行する。外国に出かける時期と被さったので実現できなかった年も多かったが、なんとか年に80本程度はキープする。
 そういえばチェンマイにロングステイしているとき、ロードショーが安いものだからけっこう見た。100本ぐらいはチェンマイで見ているか。

 18年ぐらいかけてレンタルヴィデオで1500本ほど映画を見た。
 それによってそこそこの映画知識が身につくと、まるで憑き物が落ちたかのように、またあまり見なくなった。
 その後は、ごくたまに雑誌などで読んで興味を持った作品を借りに行く程度。年に10本もない。

 同じ見ないでも修行以前とは精神的餘裕がちがっている。以前は興味がないから見ないのだと突っ張っていたが、いつもその奥で「見ていない。知らない」という劣等感がうごめいていた。今は平然としていられる。1500本修行のいちばんの価値はそれである。

 修行に一区切りついたとヴィデオを見るのをやめたのは2000年ぐらい。それでもこの年と翌年はまだ年に30本ぐらいは観ていた。
 最近テレビの洋画劇場ラインナップに、観ていない作品を見かけるようになった。それだけ空白期間が過ぎたのである。観たことのある気に入った作品をテレビでもう一度観るのも楽しいが、以前なら真っ先にレンタルしたであろう話題作を、テレビで初めて見るのもわくわくする。もっともほとんどの場合それは、「この程度か。レンタルして見るほどのモノじゃないな。足を洗って正解」という確認に過ぎない。
 そうして自分の感覚の変化に気づいた。

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 1500本観たといってもそのほとんどはハリウッド映画の娯楽作である。勉強のためではあったが、かといってこむずかしい名作を観るつもりもない。目的は映画通ではない。そこそこの一般的知識さえつけばいい。話題の新作を見ることが多かった。だから今では大嫌いだと明言できるが、ジュリア・ロバーツの作品などは全作見ているのだった。つまらんことだが見てなきゃ悪口も言えない。

 まともな作品はせいぜい「アカデミー賞受賞作コーナー」で名のある過去の作品を観たぐらいだ。映画で勉強するというなら私の1500本には網羅されていないヨーロッパ系の名作が数多くあるに違いない。「ニューシネマパラダイス」「諍い女」「セックスと嘘と」とか、その程度の話題の欧州作品は見ているが。
 いちばん数多く見たのがハリウッドのアクション物や恋愛物だった。要するに私が体験してみたかったのは、「毎日のように映画を見、話題作に関して詳しいことは楽しいか!?」だった。結論は「くだらん」である。
 ともかく私にとって映画とは「ハリウッドの話題の大作映画」だった。

 ところがこのごろそれを受けつけなくなってきたのである。
 テレビでかつて大好きだったハリウッドのアクション物をやる。あの当時のわくわくしつつ見たカウチポテト時代がよみがえるかと、楽しみに録画しておく。CMをカットしてDVDに焼くつもりでいる。
 時間が出来たときにそれを見る。爆破シーン。カーチェイス。銃声。殴り合い。

 つまらん、と止める。すぐに削除する。かつてわくわくしつつ見たものに、まったく興味をなくしている自分がいる。それどころか、爆破や銃声はもちろん、カーチェイス等のうるささにもうんざりして、見たくない自分がいる。
 これはきっと自分の中の変わり目として記憶すべきものだろう。

 若い頃、寝るときも音楽を流していた。
 今は、静寂の価値を知る。都会で静寂と静謐を得ることが出来るのは金持ちだけだ。
 きっと、それと共通している。
 私はやたらうるさいハリウッド映画を受けつけなくなった。

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 それでいてBSで偶然目にし、引き込まれるように最後まで見てしまう以前なら決して見なかった地味な映画が増えてきた。
 先日観たのはイラン映画だった。建築現場で働く青年。ビル作り。セメント袋をかついだり、一輪車で捏ねたセメントを運んだりする。ほこりっぽい映像。新入りの小柄な少年。非力でどじばかりするので青年は苛立つ。怒鳴る。ところがある日、その少年が男装した少女なのだと知る。それからは庇うようになる。ほのかな恋心。

 と書くと、いつだって「男装の美女」は妖しい存在だから、蠱惑的な恋愛ものを想像してしまうがそういうこともない。主役の青年はすこしもかっこよくないし、少年のふりをする少女もちっとも美女ではない。その辺の異国の建築現場で実際によくありそうな地味な映像である。
 少女の一家は査証のない難民一家(アフガンからだったか?)であることがバレて夜逃げのように去って行く。青年が見送る。それだけ。青年と少女は手ひとつ握らない。なあんもない。たっぷり金を掛けた満艦飾のハリウッド映画と比したらおそろしく地味である。
 でも私は最初から最後まで倦きることなく観てしまった。こんなものを楽しめるようになっている自分におどろいた。

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 三十代になってもこどものころから読んできた「少年サンデー」「少年マガジン」をまだ読んでいるとき、自分は一生読み続けるのかと思った。卒業できないのかと。いつしか卒業していた。それよりも『週刊文春』の政治経済記事を読む方が楽しくなっていた。
 二十歳前後を読者対象とした「ビッグコミックスピリッツ」を読み続けているときも、おもしろいからいいのだとしつつも、まずいんじゃないかなあという感覚があった。いつしかこれも離れていた。いま読んでいる漫画雑誌はビッグコミックのレギュラーとオリジナル、モーニングコミックとイブニングコミックだけになった。それも読む作品数はかなりすくない。

 漫画に関しては、いつまでも関わっていることを「まずいんじゃないか」とか「卒業」と考えたりした。大好きなものだったからだろう。
 映画はそうではなかったから、ハリウッド映画卒業なんて思ったこともなかった。好きではないから卒業もない。それに映画に関する限り年齢は気にしなくていい。
 でもまさかそういう時分が地味な異国の映画を楽しむようになるとは夢にも思わなかった。

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 映像に関してはもともとあまり興味がないからと割り切っていたが、それでも年ごとに興味対象が減少して行くのはすこしばかり気になっていた。
 テレビドラマは一切観なくなっていた。トレンディドラマと呼ばれたもの、フジテレビの月9とか、テレ朝の松本清張もの、なにひとつ観ていない。「大奥」なんて焼き直しは、バカらしくて三十年前のむかしから一度も観ていない。
 ここまでテレビドラマを観なくてもいいのだろうかと、哲人ならあたりまえのことでも、俗人なので気になってしまう。私が連続テレビドラマを毎回観たのはいつになるだろう。お笑い芸人が「渡る世間は鬼ばかり」や「家政婦は見た」のパロディをやっても、本家を一度も観ていないので笑えない。現代劇も時代劇も一切観なくなって長い。

 午前11時前後にテレ朝とテレ東が毎日時代劇を流している。それは早朝(というより深夜か)からパソコンに向かっている私が一息つく時間である。テレビを点けることが多い。テレ朝は「暴れん坊将軍」のような作品。テレ東のほうは昭和四十年代の時代劇の再放送。版権の切れたモノを買ってくるらしい。
 どっちかを楽しめてもいいと思う。昭和四十年代のモノなら、「この当時の作品はよく出来ていたよな」と言ったりして。そう思えない。半端なリアルさがよけいにつまらなくて観られない。
 じゃあ「暴れん坊将軍」を楽しんだらいい。時の最高権力者が庶民の長屋生活とふれあうという荒唐無稽の極地である。これもだめ。見ているうちに、こんなものを観ている自分がなさけなくてため息が出る。

「ドラゴンクエスト」に、「最愛の王妃を亡くして、それからは落ち込むだけの王様」が出てくる。元気のない王様に、臣下が「王様は、宿屋で生まれた子犬に名をつけてくれる心優しいかたでしたのに」と言う。がっくりきた。庶民の犬コロの名前をつけているような暇な王様がいるかい! まるで「暴れん坊将軍」だ。ウンコすら羽毛が詰まった便器にして、それをうやうやしく管理する専用の役職がいて、毎日の食事も何重にも毒味をするから熱い物など食ったこともない将軍が、好き勝手に長屋で遊んでいたら天下のご政務はどうなるんだ。まあ「暴れん坊将軍」に腹を立ててもしょうがないが。

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 すべては自然に任せようと思っている。世の流行りものに興味がなくなる一方、かつてはじーさまたちがわけのわからんことを言い合っているとしか思えなかった国会中継を、どんなドラマよりも楽しく見られるようになっている自分がいる。天秤は釣り合っているのだ。なによりテレビドラマを観まくり、その感想を書くことに燃えているような人を哀れんでいるのだから、テレビから離れることは矛盾していない。
 やたらドンパチの多いハリウッド映画を卒業するようになったのは自然の摂理として受け止めているのだが、まさかあんな地味なイラン映画を楽しめるようになるとは思わなかった。消えるもの、現れるもの、下がるもの、あがって来るもの、うまく釣り合っている。

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【附記】ロック嫌い
 これは別項の音楽に書くが、そういう感覚の変化は音楽にも押し寄せている。
 先日BSで1970年代のロック特集を見ていた。「ワイト島フェスティバル」だったか。
 大好きなジミヘンを「こいつ、バカだな」とクールに見ている自分に気づいておどろいた(笑)。
 まちがいない。あの当時のあの連中、反体制というポーズのただのバカ芸人である。ごく一部を除くとことばもおそろしく程度が低い。ジミヘンの天才的ギター弾きの能力とか、それは別物として。
 
 
5/18(木)
 ↓5/22

メリーに首ったけ──


 木曜の午後2時、テレビを点けチャンネルを回していたらテレ東が洋画劇場をやっていた。この時間のテレビ洋画劇場はテレ朝(当時はNET日本教育テレビ)が得意にしていた。日曜夜9時からの洋画劇場の再放送を午後3時ぐらいからやっていたのである。小学生のころ、私はこれで多くの名画を知った。エリザベス・テイラーとモンゴメリー・クリフトの「陽の当たる場所」、ウイリアム・ホールデンの「ピクニック」、オードリーの「ローマの休日」……。「第三の男」もここでだった。

 今はテレ東がそれを受け持っているらしい。「十周年」「2000回突破記念」と言っている。月曜から木曜まで週に4日放送して、1年52週で200本、それが十年というところだろうか。
 とそんな計算をしつつ、流れている映画をぼんやり見ていた。
 最初、男が私立探偵にメリーを探してくれと頼んでいるシーンでもなにも感じなかった。私立探偵がマイアミに住むメリーを発見し、着替えする下着姿のメリーをのぞき見するところでやっと思い出した。大ヒットしたキャメロン・ディアスの「メリーに首ったけ」だ。今やハリウッドでも最高級ギャラランクになったキャメロンの出世作でもある。

 見始めたのが30分遅れの2時だったので、1時半からのハイスクール時代を見逃してしまった。それでも3時半までノーカットだったからたっぷり楽しめた。最後は時間があまっているのか、5分おきにCMが入るのがわずらわしかった。

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 感動したのは、まったく内容を忘れているため、ひとつひとつのギャグを初めてのものとして心から楽しめたことだった。信じられない(笑)。
 私はこの映画が大好きで、金沢のKにも勧め、Kも気に入ってくれ、レンタルヴィデオからダビングしてもっているぐらいなのである。
 見た当時なら、ギャグ満載の笑えるシーンの中から、おもしろかったギャグベストテンを言えるぐらい入れ込んでいた。今も見たばかりだから、おもしろかったギャグをいくらでも思い出せる。よくできたギャグが連発されていた。しかし時が流れると、すっかり忘れていたのである。この忘却能力は感動的だ。

 映画好きは好きな作品を何度も見るらしい。私はそれをしたことがない。みな一回限りだ。
 だから時が過ぎるとこんなことが起きる。そしてこれはわるいことではない。
 今はつい先日であるから、細かいギャグのひとつひとつまで覚えている。でもこれからの生活の中で次第に忘れる。
 十年後にまた見たら、私はまたまったく知らない映画として「メリーに首ったけ」を楽しめるだろう。メリーのセクシーな着替えシーンにドキドキし、犬を使ったベタなギャグに笑う。
 わるくない、と思う。

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 ところで、とすこしまじめに考えてみた。
 ストーリィ展開のある映画は、古いものでも覚えている。ストーリィの起承転結がその映画のすべてだからだ。いわば一本の線である。映画のタイトルとストーリィが一体になっている。タイトルを覚えているということは、あらすじを覚えているということだ。

 ところがこういうコメディは、点のギャグの積み重ねで出来ている。山あり谷ありでない分、記憶に残りにくいのだろう。
 「メリーに首ったけ」というタイトル、キャメロンの出世作という情報はしっかり覚えていた。キャメロンの代表作と言ったら真っ先に思いつく。彼女の作品を一作だけあげろと言われたらためらわずこの作品の名を言う。なのにじゃあなにか覚えているシーンを言えと言われたらなにも言えなかった。いやあの白い下着姿の着替えを覗くシーンだけは鮮烈に覚えていた。なにしろ「チャーリーズ・エンジェル」(デミ・ムーアが敵役になったヤツ)も、キャメロンの水着姿しか覚えていない。まああれはつまらん作品だったが。

 でもまあほんとに、一度見た作品をすっかり忘れていて、もう一度新鮮な気分で楽しめるのは、決して悪いことではない。前向きに考えられるなら。

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5/26
 当時つけていた「映画日記」が出てきたので、覗いてみた。以下のように書いてあった。こんな感じで1500本の感想を書いたのである。涙ぐましい。
 6年半前にここまで書いたものの内容を忘れているのだから、まこと忘却は怖ろしい。しかしながら30年前のものでもつい昨日のことのように覚えているものもあれば、同じ「映画日記」の中でも、87年の作品などみな中身を記憶していた。これで「メリーに首ったけ」が嫌いな作品ならなんの問題もない。どんな大作だろうが名作だろうが自分だけの評価で生きている。好きなだけに複雑な心境である。
 ひとつだけ言い訳するなら、これは15年連れ添った猫を失くした数日後である。金沢のKもそのために来てくれたのだった。この年の私はすこしおかしかった。記憶が飛んでいるのはそのせいと思っている。

●メリーに首ったけ──2000年1月16日
 キャメロン・ディアス主演のラブコメディである。この種のものは好きなので前から見たいと思っていた。昨年の十月はまだカミング・スーンだったろうか。相手役はマット・ディロン。どうでもいい。キャメロン以外はどうでもいい配役だ。原題は「Here's something about Mary」

 気に入ったのは、オープニングからエンディングまで、ギターとドラム(といってもシンプルなもの)で、挿入歌的に歌を入れる手法。これがフォービートのゆったりしたもので、べつに巧くもなくしゃれてもいないのだが、妙にいい雰囲気を出していた。

 ストーリーは。
 高校に、美人でかっこいいメリーがいる。それを好きなのが主人公の男。マット・ディロンは日本でいうなら柳沢慎吾か。メリーには精薄の弟がいる。ウォーレン。彼に対するやさしさから何となくメリーに好かれるマット。が、デイトの前に一発抜けと友人に忠告され、その最中に慌ててチャックにソーセージと豆(原語)を挟んでしまい、救急車の世話になる。

 それから十三年後。マット(テッドという役名だったか)は、私立探偵にメリーの探索を頼む。メリーは医者になりマイアミにいた。この私立探偵がメリーに惚れてしまい、テッドには、メリーは車椅子だ、子供が四人いる、120キロのデブだと大嘘をつく。さらには自分を高名な建築家だの、それがバレそうになるとボランティアだの嘘を付きまくる。
 その嘘を見破るのが、メリーの友人で、いつも松葉杖をついている脚の悪い建築家のタッカー。が、このタッカーもまた実はピザの配達人で、建築家ということも脚が悪いということも嘘。みんなメリーに惚れているということ以外は嘘ばかり。
 その頃、私立探偵の嘘が解り、クルマでマイアミに向かうテッドは、殺人犯と間違われたりしての大騒ぎ。容疑も晴れ、助けに来てくれた同僚のウガーとメリーの元に向かう。が、このウガーこそが、メリーが改名するほどつきまとわれて迷惑したストーカーの元恋人と解る。まあ、登場人物すべてがメリーに惚れているろくでなしという設定だ。

 メリーがかつて愛しあっていて、でもウォーレンを悪く言ったために別れた恋人のフレッドというのがいる。がそれはタッカーの作ったデマと解る。テッドは二人を仲直りさせてやろうと仲介する。ラスト。フレッドが現れてめでたしめでたし。身を引こうとするテッド。メリーが追いかけてきて、テッドに愛を告げハッピーエンド。
 キャメロンは魅力的だが、格別に美人な訳でもなく、改めてまたハリウッドスターというものについて考える。この直後、ポルノ「PRIVATE」を見ているが、そこに登場するポルノ女優の方がずっと美人だった。なんだろうな、欧米の美の基準は。
5/22(月)

知らなかった?「フリスコキッド」

 パソコン作業のあいま、寝室に午後9時からの「TVタックル」の録画予約に行く。
 テレビの電源が入ると、チャンネルがBS2になっていたらしく洋画が流れていた。始まったばかりらしい。ひげだらけの男が追いはぎに遭い、下着姿で走ってくる映像である。
 出演者のクレジットが出ている。時刻は8時15分。おそらく8時から10時までの映画だろうから、このまま見るとしても、先日の「メリーに首ったけ」に続き、またも導入部を見逃したことになるなと思う。見るかどうかはしばらく見て決めるにせよ。
 
 西部劇だった。アメリカの田舎の風景と、きちんと再現した当時の蒸気機関車の内部がいい。「蒸気機関車の内部」といったら機械の話になってしまうか。そうじゃなく蒸気機関車が引っ張る客車の内部。粗末な木造である。硬座だ。よく再現されている。
 主役はそのひげだらけのギョロ目のおっちゃんのようである。最近気に入っている地味なヨーロッパ映画かと思う。地味なヨーロッパ映画が西部劇なはずもないか(笑)。
 その客車の中、若い男がスカーフをマスクにして、いきなり強盗に変身する。それが見たことのある顔。ハリソン・フォードにそっくり。

 まずまちがいなく彼だと思うのだが、言い切る自信がないのは、あまりに映像がきれいだから。
 これは先日BS2で見た「青い山脈」のときにも思った。吉永小百合、浜田光夫、高橋英樹の作品である。昭和30年代の映画なのに、おそろしく映像がきれいなのだ。発売されたばかりのヴィデオやDVDでもここまできれいな映像はない。新発売ヴィデオのずいぶんときたない映像を見てきた身には、不思議でならない。BS放送用にフィルムをデジタル処理してリメイクしたとか何か理由があるのだろう。

 今回のこれもハリソン・フォードの若さからして30年前の作品になるはずなのだが、あまりにくっきりと美しい映像なので、古い映画なのかあたらしい映画なのかわからない。もしもこの三十前後に見える若者がハリソン・フォードなら、まちがいなく三十年前の映画のはずだが……。

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 というわけで、地味なこの映画をまたも最後まで見てしまった。なにしろ近年の私は、話題の大作映画をレンタルヴィデオ屋から借りてきても、2時間の作品を30分ずつ4回に分けて観る有様である。集中力が続かないのだ。
 それはこっちの問題だが、あっちの問題でもある。私だってまだ地味なイラン映画を2時間ぶっつづけで観る気力はあるのだ。つまりはその大作映画が無内容ということになる。といって失礼なら「私には合わない」か。

 1時間が過ぎた辺りで、ぜったいにこれはハリソン・フォードだと思う。それは外見で自信を持ったのではなく、先週相撲を見ているとき、BS2が来週「ハリソン・フォード特集」をやると言っていたのを思い出したからだった。確信の理由がなさけない。
 ハリソン・フォード主演作品は全部観ているはずという自信が揺らいだ。しかしそれは主演作品であり、この映画はどう見てもこのひげもじゃが主役だから知らなくてもしかたないのでは、と自分を慰める。

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 エンドロールでハリソン・フォードと確認し、どこかで見た覚えはあるが思い出せないひげもじゃはジーン・ワイルダーと知る。ヨーロッパの舞台俳優だ、たしか。
 タイトルは「フリスコキッド」というらしい。
 この映画、道中物であり、相棒映画である。だがどう見ても主役はワイルダーだろう。
 でもタイトルの「フリスコキッド」とは、フォードの演じる強盗トミーの愛称であるから、主役はこっちなのか?

 見終ってから調べ物。いまインターネットが使えないが、映画の辞典は書物でもCDでもあれこれもっているから不自由しない。そういえばどんな仕事も一度はやってみたいと思っているのだが映画評論だけはやらなかった。何度も機会はあった。つまらんものな。他人様の作ったものにどうのこうの言うのって。褒めるにせよ貶すにせよ。映画の筋書き紹介で食っているライターを知っているがなにが楽しいのだろう。いや彼はそれにのっているのかも知れないが。
 ボケが進んでいるがハリソン・フォードの作品ぐらいはすらすらと思い出せる。

 私がハリソン・フォードを知ったのは「アメリカングラフティ」だった。というのは正確ではない。私だけではなく、多くに人にとって。
「スターウォーズ」で有名になったハリソン・フォードが、あの大ヒット作「アメリカングラフティ」ではまだ端役だったとあとから話題になったのだった。「アメリカングラフティ」でハリソン・フォードを知った、はたいがいは嘘になる。

 それから「インディ・ジョーンズシリーズ」で知らない人はいないぐらい有名になる。これと「スターウォーズ」が彼の代表作なのだろう。
 私が彼の作品として好きなのは「ブレードランナー」「刑事ジョン・ブック──目撃者」だ。

「モスキート・コースト」
や「フランティック」は、ちょうど毎年ヴィデオで100本観ているころの話題作だから印象深い。近所のちいさなレンタルヴィデオ屋には新作が1本しか入らない。いつ行ってもレンタル中。予約して待ったものだった。好きな作品である。
 人は誰でも「自分が主役」だから、そのときの自分の熱の入れようが想い出の深さに繋がる。私が一所懸命映画をヴィデオで見ていたころ、これらの作品が話題作だった。それと相まって想い出の作品になっている。

 その後「推定無罪」や「パトリオットゲーム」で演技の幅を拡げたと言われた。私はそれほど好きではない。法廷ものは嫌いだし、パトリオットゲームは「愛国」という名を冠しているが実態は家族ものだった。
 これは今回BS2特集で放送されるようだから観てみよう。感覚が変っているかも知れない。どうも家族愛ものは苦手だ。当時と違って私も人の親になっている。
後日註・「パトリオットゲーム」は最高におもしろかった。前言撤回。)

 世界一の権力を持つアメリカ大統領が自らアクションする「エアフォースワン」では、なんかアクションの鈍くさいのが目に付いた。もうアクションにはきつい年になっていたのだろう。アメリカ人はこんな設定が好きである(笑)。「インデペンデンスデイ」とか。力信仰のアメリカ人にとって、大統領が暴れるのがいちばんわかりやすいのか。アメリカの「暴れん坊将軍」だ(笑)。日本人には、総理大臣が戦闘機を操縦して宇宙人と闘う映画は作れないだろう。

心の旅」はそこそこ。
今そこにある危機」はジャック・ライアンシリーズとしておもしろかった。

「逃亡者」はつまらなかった。でもそれは彼の責任ではなく、あれは2時間以内に収める作品ではないからだ。毎週エピソードの積み重ねがあり、医者として人を救ったリチャード・キンブルが、身元がバレて去って行く、その切ないワンパターン繰り返しの美学だった。それはテレビの「逃亡者」を楽しんだ世代だからはっきり言える。あれは映画としてちんまりまとめる作品ではない。
 オードリィの「麗しのサブリナ」の焼き直し、「サブリナ」もあった。この辺の「美」が「金持ち」をゲットする話もアメリカ映画は好きだ。

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 それから「スターウォーズ」が何本かあった。見ているのはそこまで。私がレンタルヴィデオを見なくなった2002年以降はどんな作品に出ているのだろう。知らない。それはネットで調べないと。
 私の持っているCD版映画辞書は98年発売だから、そこまでしか載っていない。このCD、たしか1万5千円ぐらいしている。今はそれがネットで無料で調べられるのだからいい時代だ。分厚い辞書のようなピアが出している映画辞書なら2003年まで載っているはずだが押入の奥。探す気もない。

 時間的、年齢的にはどうなのだろう。
「アメリカングラフティ」は1973年だった。あのとき1942年生まれの彼は31歳で十代の不良少年を演じた。後の大スターぶりを思うと、いかに遅咲きだったことか。

 この「フリスコキッド」は日本の劇場未公開だそう。そりゃ公開しても客の入る映画じゃない。ビリー・ワイルダーは日本では受けない。スティーブ・マーチンですら受けなかったのだから。
 その後ヴィデオになったがそれも廃盤とか。私が年に100本修行をしていたとき、このヴィデオはいつも利用していた何軒かの店にあったのだろうか。あったなら観ていないはずはないのだが。なにしろハリソン・フォード作品にはこだわっていたから。

 そういう意味では、最新作はともかく、古いハリソン・フォード出演作品では唯一と言っていいほど見ていないモノを見せてもらったことになる。
 明日からも「ハリソン・フォード特集」は続くが、このあとの「フランティック」「推定無罪」「パトリオットゲーム」は見ているから、いちばんいい曜日にいい作品を観たことになる。ついていた。

(と書いて……。
 いま、とても怖れていることがある。それはフロッピーディスクに克明に記録されている当時の「ヴィデオ日記」をひもといたら、「フリスコキッドを観る。おもしろかった」と書いてあるのではないかということだ。それは今、こうして書くほどに、「確実にある、ないはずがない」とジワジワと押し寄せつつある。もしそうだったらこれは過去を忘れたボケ老人の文である。さっきご飯を食べたのにもう忘れているような。怖くて確認できない。)


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【附記】フリスコはFrisco

 サンフランシスコをフリスコと言うのは行ったことがない若い時分から知っていた。
 有名な歌に「フリスコベイ・ブルース」があるからだ。だが綴った記憶がない。
 今回このページにフリスコとラベルをつけた。さてどう綴る? 自分用のメモだからまちがっていてもかまわない。

 以前、spindleケースに入ったDVDを通販で買おうと調べたら、某通販社が、それらの商品名ナンバーに「supin」とつけて分類していた。英語からならもちろん「spin」にすべきだが、会社内の整理では、ローマ字の「supin」で統一していたのだろう。間違いではなくわざとと思われる。だから私もフリスコを「furisuko」としてもかまわないのだが、これぐらいは原語でやりたい。

 サンフランシスコはSan Franciscoか? 自信がない。ずいぶんともうサンフランシスコなんて綴ってない。これでいいのだったか。ここから推測すると、フリスコのリはR、コはCか。問題はRかLか、CかKかだ。となると、Franciscoの略なのだから、そこから抜き出してFriscoか?
 たしかめる。当たっていた。こんなことでおっかなびっくりしていてもしょうがない。
 でもこういうのって自分が中学生レヴェルかどうかの瀬戸際だから、けっこう気を遣う(笑)。

 確認のために引いた英和辞書『英辞郎』に、いきなり「Frisco Kid──映画1979」と出ていたのでおどろいた。出版社の出した堅苦しい辞書にない融通さである。
7/4
 ラストコンサート




商品の説明
Amazon.co.jp
   偶然知り合った中年のピアニストと少女が恋に落ち、結婚する。しかし少女の身体は病魔に蝕まれており、夫が作曲したコンツェルトを聴きながら彼女は息絶えて行く…。
   言ってみればこの映画はこれだけの話だ。餘計な登場人物もシチュエーションもない。ひたすら恋する男女を追いかけ、美しい風景と音楽で感動の涙を流させるルイジ・コッツィ監督の演出。「センチメンタルで他愛のないおとぎ話」と言いたければ言うがいい。泣ける映画がイコール名作だとは思わない。だが『ラストコンサート』という映画には、シンプルで誠実な語り口、使いどころを心得た映像と音楽、ヒロインであるパメラ・ビロレージの清楚な魅力と、観客が素直な感情を抱くための舞台装置は充分に揃えている。センチメンタルと素直さは、ニア・イコールな関係にあることを気づかされる好編だ。(斉藤守彦)

これこそ珠玉の名作!, 2004/12/29
レビュアー: カスタマー
DVD化本当にうれしく思います。私も中学時代に「カサンドラクロス」を観に行ったはずがカップリングしていたこの作品を見て泣きながら映画館を出た一人です。やさしく耳に残るBGMとモン・サン・ミシェルの美しい風景が心に残り、いつかもう一度見たいと思っていました。クリスマスイブに届き、何度となく観ましたが、感動はむかしのまま。悲しいはずのストーリーなのに観終った時に暖かい気持ちが残ります。言葉では言い表す事の出来ない余韻を経験したい人は迷わず購入すべし!ですね。


解説
 人生に挫折し落ちぶれている作曲家は、ふとした事から一人の少女と出会うが、彼女の体は病魔に冒されており後三カ月の命だった。懸命に生き抜こうとする少女と再起に賭ける男、親子ほどの年齢差を越えたふたりの交流を、ステルヴィオ・チプリアーニの美しいメロディに乗せて描いたラブ・ストーリー。主人公ステラに扮したP・ヴィロレッジの初々しくも健気なキャラクターがかえって涙をさそう。イタリア製の安手な作品と言ってしまえばそれまでだが、堅実な造りは悪くない。地方では正月映画「カサンドラ・クロス」の併映作品だったが、純情な中高生はパニック映画を観に来て、この作品で泣いて帰るという凄い状況であった。



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