03/1/25 恋のためらい フランキーとジョニー(03/1/25)

 深夜、東京から家に着き、テレビをつけたら映画「恋のためらい フランキーとジョニー」をやっていた。アル・パチーノとミシェル・ファイファーだ。懐かしい。漫然と見続けてしまった。
 これを見たのはいつだったろう。映画辞典で調べてみる。91年制作の92年公開。となるとぼくがレンタルヴィデオで見たのは93年か。映画辞典には「プリティ・ウーマンのゲイリー・マーシャル監督が、今度は一転して大人の映画を」と書いてある。えっ? 『プリティ・ウーマン』のほうが先なの? 調べると90年だって。これ、年代順に並べるクイズだったら絶対間違っていた。感覚として『プリティ・ウーマン』のほうが新しいと思いこんでいる。

 上記、ジェニファー・ロペスの映画「Selena」に触れた箇所がある。ぼくが女優が歌った作品で一番好きなのがミシェル・ファイファーの『恋のゆくえ ファビュラス・ベイカー・ボーイズ』。彼女はここで吹き替えなしですばらしい歌声を披露している。うまいんだわ、これが。よってぼくの場合、「歌のうまい女優」というと真っ先にミシェル・ファイファーを思い出すことになる。 この映画は音楽監督がディブ・グルーシンだから音楽映画としてすぐれているのは当然だった。

 これらの作品は二つとも、邦題の後が正規のタイトル。さすがに「フランキーとジョニー」「ファビュラス・ベイカー・ボーイズ」じゃ作品内容がわからず客が入らないと見て、ださい邦題をつけたのだろう。後発の「恋のためらい」は同じミシェルの作品ということから「恋の」シリーズ連想か。以前も書いたけど、デミ・ムーアの「夢の降る町」なんて原題は「ブッチャーズ・ワイフ=肉屋の女房」だものね。アメリカのこういう感覚っておもしろい。
03/5/20


続荒野の七人-人名表記の変化(03/5/20)

 午後、ユル・ブリンナーを見かけたのでテレビに目をとめる。なつかしい。テレビ東京の午後の映画番組だ。

 いい企画だと思う。よそがみな同じようなワイドショーのようなものをやっているとき、安く買ってきた古い映画を流す。隙間ねらいとも言えるが、確実にこちらを選ぶ人はいる。私も中学生の頃、午後にやっていた10チャンネル(テレ朝の前身、日本教育テレビかな)のこういう番組で映画のすばらしさを知ったのだった。


 そのころ見た一本、「陽の当たる場所」(エリザベス・テーラー、モンゴメリ・クリフト)は衝撃だった。これ、何十年か後、沢田研二と夏目雅子で日本版リメイクテレビドラマがあった。TBSだったな。

 ユル・ブリンナーが出ていて西部劇だから「荒野の七人」シリーズだろうと思う。しばらく見ていたがあまりにつまらないので消してしまった。なにしろ格闘シーンでも、殴る拳と殴られる顎が30センチぐらい離れている。それで大げさにふっとんだりしている。当時のアクションてこんなにいいかげんだったのだろうか。ディテールにこだわるタイプではないが、あまりにそれが目立ちしらけてしまった。

 夜、テレビ欄を見てみると「続荒野の七人」66年制作とある。さらに映画辞典で調べると、「ユル・ブリンナー以外はキャストを総替えした続編。その分おもしろさも半減」と辛い評価だった。

 新聞のテレビ欄を見たとき印象的だったのは、出演者が「ユル・ブリナー」となっていたこと。一瞬「ブリンナー」の誤植だろうと思ったが、今の時代このへんが変ってきているのでそう表記するようになったのかもとも思った。なにしろ「ツァラトゥストラはかく語りき」が「ツァラトゥストラこう言った」になっている時代である。
 中断して恥話。いまニーチェのこの本のことを調べようとしたら出てこない。どうやら「ツアラストラ」が間違っているらしい。それで「ツアラトストラ」「ツアラトストゥラ」とかやっても出ない。困った。
 この名が拝火教のゾロアスターのドイツ語読みであることは知っている。それで百科事典のゾロアスター教の項を引き、そこからたどってやっと「ツァラトゥストラ」という表記にたどりついた。これで調べるとすぐに出た。アとウを小文字にせねばならないらしい。

 自分のばかを棚に上げて言うが、この辺はしょせん外国語のカタカナ表示である。曖昧検索で出るようにしておいてくれないと、これからも困ることがありそうだ。そうそう誰もが確実にアとウを小文字にして正確に書けるのでもないだろう。いや、いまどきこんなものに興味があるのは、きちんと正しく記憶している人だけか。
 カリホルニアではカリフォルニアの検索は出来ないようなものだ。だけどカタカナで再現するならキャリフォーニャのほうが近いように、カリフォルニアが正しいなんてのは単なる今の決め事でしかない。カリホルニアでもツアラトストラでもいいではないか。

 先日『週刊アスキー』で読んだ話。パソコン初心者のお母さんが「新宿」が変換されないと怒っているとのこと。よく調べたらそのお母さんは「新宿」を「しんじく」と思っていたとのこと。う~む、これは難しい。曖昧変換で「しんじく」が「新宿」と変換されるようになっても困る。とするとツァラトゥストラと正しく表記できない私の頭は「しんじく」並なのか。

 と、別路線にそれてしまったようだが、そうでもなかったようだ。ほんとに書きたかったのは以下のことである。すこし関係はある。
 私の持っている98年発行の映画辞書はもちろん「ユル・ブリンナー」である。最近はどうなのか。こういうあたらしいものを調べるときこそネットは力を発揮する。するとネットの映画評ではもう「ユル・ブリナー」に統一されていた。末尾の音引きを省く最近の傾向にのっとって、「ユル・ブリナ」もかいま見える。
 産經新聞のテレビ欄が「ユル・ブリナー」と表記していたのは、これが一種の規格として決められからなのだろう。いつ、どこで、だれがやったのか知らないが。

 映画辞典でスペリングを見ると「Yul Brynner」である。ブリンナーでも間違いではあるまいが、白人が発音したときは「ブリナ」であろう。私もこれからは「ユル・ブリナ」と書くことにしよう。

 上写真はCD-ROMの映画辞典から。この作品DVDで4900円とか。
 「陽の当たる場所」を借りてきてもういちど見てみようかな。当時、家のテレビがまだ白黒だったので、カラーで見ていない。感動するのだろうか。
04/1/11


原作と映像
 『竹林亭白房』でchikurinさんが『鬼平犯科帳』について書いている。ぼくも原作を読んでいる(テレビは見ていない)ので興味深い。同じ原作がキャスティングによってどう違うかを楽しめるのは演劇ファンの視点だ。しかも脚本まで同じ人らしい。好きな人には楽しい世界だろう。

 ぼくは本を読むと頭の中に自分なりの主人公、ヒロインの映像が出来るので、他人が映像化したものを好まない。自分の中でできあがっている知性的な美しいヒロイン像を、ぽっと出の最近人気らしいバカ顔したネーチャンが演じていたりすると不快になる。だから見ないようにする。
 また「蒲田行進曲」のように最初が映画だったから、自分の映像を作る前にカザマ、ヒラタ、マツザカを押しつけられてしまったものもある。もっともこれは文句を言えない。あれは原作からすべてつかこうへいのものだったからだ。その後、いろんな人が演じたのだろう。見ていないけれどテレビでもやったのか。これまたカザマ、ヒラタ、マツザカで固定しているので見ようとはしない。見たくない。それでもまあこれはいいほうの例になる。

 たとえば映画「鉄道員(ぽっぽ屋)」を見たいと思う気持ちがすこしだけある。中でもみな口をそろえる「(原作にはない役の)志村けんがよかった」には心惹かれる。でもあの作品を読んで出来たぼくの中の映像は、健さんでもなければ大竹しのぶでもヒロスエでもない。コバヤシネンジもじゃまだ。よってみない。たぶんずっと見ないだろう。
 浅田次郎原作を、テレビ東京が連続してテレビドラマ化した。主演はみな西田敏行である。しかし「角筈にて」の管理職から「天国までの百マイル」の安男まで、すべて彼が演じるのはいくらなんでも無理だ。こういう形のドラマ化もありかと、西田ファンには喜んだ人も多いのだろう。もう七、八作を放映しただろうか。ぼくは二、三作をすこし見て、大好きな浅田作品のイメイジが崩れると拒んだ。そういえば「プリズンホテル」もテレビかVシネマか知らないけどドラマ化されていた。阿藤快が出ていたか。これも原作に何度も泣いたからこそ意地でも見ない。感動を汚されてたまるものか。

 つまらん感覚なのかもしれないが実際そうなのでどうしようもない。音楽にはそれがない。Jazzは好きな曲を多種多様に集めているし、松任谷由実の作品など本家よりフランス語のカヴァーアルバムのほうが好きだ。そうして考えてみると、やはりこれは映像に対するこだわりなのだろう。
04/2/25
恋愛小説家──見させてしまうのはすごいことだ
 上記、映画のアイコンを作ろうとしたら手持ちの素材にいいものがない。ネットで探し、結局ありきたりの「フィルムの絵」に落ち着いた。しかしこれもちょいと見にはすぐにフィルムとはわからない。むずかしいものである。
 たとえばスポーツならわかりすい絵がいくらでもある。サッカーからスケボーまで揃っている。音楽もそうだ。なにより楽器の絵はわかりやすい。テレビもパソコンも一目でわかるものが数多い。
 映画はない。まず思いつく絵柄にこのフィルムがある。それからカメラ、あとカチンコがあった。メガホンもあったがメガホンの絵で映画を連想するのもむずかしい。みなそれらしいけど、かといって誰もが一瞬で連想するというほどの説得力もない。どこでもその程度だったから、映画という分野に対するアイコンとして思いつくものはそれなのだろう。こういう文章の分類に、映画という文字をつけずこのフィルムのアイコンだけにしたら、果たしてどれだけの人がこの絵をフィルムと判断し、映画のことが書いてある項目と思ってくれるのだろう。で、本題。


 昨日、だから火曜か、深夜の午前二時から四時半まで日テレの映画劇場があった。作品があの「恋愛小説家」で、字幕スーパーのようなのでヴィデオに録ろうかと思った。ノーカットだろう。その時点ではさっさとヴィデオに留守録して寝るつもりだった。もたもたしているうちにいつしか一時を過ぎ、空いているテープがないと探しているうちに二時になり始まってしまった。テレビで流す映画を録画するなんてのもしばらくやっていないしどうでもいいことだ。「恋愛小説家」にしても、ヴィデオ化されてすぐに見ているが、タイトルとジャック・ニコルソン主演とアカデミー賞をとったぐらいしか記憶になく、大好きな作品とかそういうわけでもない。とか思っているうちに一気に引き込まれ最後まで見てしまった。いい迷惑だったのは午前四時半までテレビをつけられて熟睡できなかった妻だったろう。
 CMが入ってぶつぎりになるテレビで流す映画を二時間半も飽きずに見たなんて何年ぶりだろう。なんといっても飽きっぽいこのぼくに熱中させ見させてしまうのだからたいしたものだ。毎週土曜の深夜一時二時まで起きていて見る新日のプロレスは、見始めてしばらくすると飽きてしまいいつしかパソコン雑誌を読んだりしている。そういう自分をかなしんでいたのだが、これはやはり送り手側の問題と結論づけていいのだろう。

 ネットで調べてみた。
 以下のようなことがすぐに見つかった。まったくネットの充実ぶりはすごい。ぼくは97年に「CD版映画辞典」を買っている。15000円ぐらいだったか。それでも格安だと感じたものだった。それまで「ピア」等が出している分厚い本形式の映画辞典を毎年資料用に買っていた。3000円ほどか。それとは使いやすさが格段に違う。便利な時代になったと思った。その後UPグレード版が出ない。買う気でいるのに。ネットで無料で調べられるようになり商品価値がなくなってしまったのだろう。これは「goo 映画」というところで調べたが、そこの売りが「映画3万7千本 人名16万人」だって。こんなことを無料で出来るのだからCD映画辞典なんて売れるはずがない。
 常時接続というのは、それだけで手元に図書館をおいているようなものだ。なんとなくすこしばかりあこがれる。いつのことになるやら。

第70回アカデミー賞受賞作品(1998年)

作品賞=「タイタニック」
監督賞=ジェームズ・キャメロン「タイタニック」
主演男優賞=ジャック・ニコルソン「恋愛小説家」
主演女優賞=ヘレン・ハント「恋愛小説家」
助演男優賞=ロビン・ウィリアムス「グッド・ウイル・ハンティング 旅立ち」
助演女優賞=キム・ベイシンガー「L.A. コンフィデンシャル」
オリジナル脚本賞=ベン・アフレック、マット・デイモン「グッド・ウイル・ハンティング 旅立ち」
脚色賞=ブライアン・ヘルゲランド、カーティス・ハンソン「L.A. コンフィデンシャル」
撮影賞=ラッセル・カーペンター「タイタニック」
作曲賞=アン・ダドリー「フル・モンティ」(ミュージカル・コメディ部門)ジェームズ・ホーナー「タイタニック」(ドラマ部門)
主題歌賞=My Heart Will Go On「タイタニック」(ジェームズ・ホーナー作曲、ウィル・ジェニングス作詞)
美術・装置賞=ピーター・ラモント、マイケル・フォード「タイタニック」
衣装デザイン賞=デボラ・L・スコット「タイタニック」
編集賞=コンラッド・バフ、ジェームズ・キャメロン、リチャード・A・ハリス「タイタニック」
音響賞=ゲイリー・リドストロム、トム・ジョンソン、ゲイリー・サマーズ、マーク・ユラノ「タイタニック」
音響効果賞=トム・ベルフォート、クリストファー・ボイズ「タイタニック」
メイクアップ賞=リック・ベイカー、デイヴィッド・ルロイ・アンダーソン「メン・イン・ブラック」
短篇賞=「ビザと美徳」(実写)「ガールズ・ゲーム」(アニメーション)
ドキュメンタリー賞=「ア・ストリーム・オブ・ヒーリング」(短篇)「ザ・ロング・ウェイ・ホーム」(長篇)
外国語映画賞=「キャラクター 孤獨な人の肖像」
名誉賞=スタンリー・ドーネン


 ああこれって「タイタニック」の年だったんだ。そうだそうだ思い出す。作品賞を始め多くの賞をとったけど肝腎要の主演男優賞、主演女優賞をこれにとられて、日本的にはこの映画は無名だったから、それから注目されたのだった。
 「LAコンフィデンシャル」もこの年か。キム・ベイシンガーの娼婦はよかったな。いい映画だった。警察ものはオチがあのパターンが多すぎるけど。
 「フルモンティ」もこの年か。男のストリップね。作曲賞か。音楽が良かったものね。
 「グッド・ウイル・ハンティング」もしっかり賞をもらっている。マット・デイモンはああいう役が似合うんであって彼のアクションものはどうも感覚が違う。
 「メン・イン・ブラック」はメイクアップ賞か。なるほど。あの宇宙人のネチャネチャ感はなかなかだった。

 「タイタニック」ってのはディカプリオの演技以外はすこしもいいとは思わなかったけどこれだけの賞をもらっている。主題歌賞なんて疑問だ。たいした歌じゃない。それでも要の部分は地味な映画の「恋愛小説家」がとった。それはいいことだろう。
 ヘレン・ハントは「ツイスター」ぐらいしか記憶にないがオスカーを抱いた女なんだな。最優秀動物演技賞があったらこの作品の犬だったろう。ゲイの青年を演じるグレッグ・キニアが好演していたが彼は助演男優賞候補になったのだろうか。

 二度目のはずだがほとんど初めての感覚で見た。それでも部分部分覚えていて思い出したから、二度目なのは間違いない。こうしてまた十年後ぐらいに、云南のテレビで見て楽しめたりするなら、忘れることも悪くはない。

【附記】 見る観る
 以前はテレビや映画、演劇の場合は必ず「観る」と書くようにしていた。でも高島俊男さんに「そんなことはどうでもいいんだよ」と教えてもらってから、「見る」でいいことにしている。高島さんは「とる」はみな「とる」でいいのだと言い、「撮る」「奪る」「録る」なんて使い分けも無意味と言い切る。一方でATOKなどは主語が「映画」だったらその後につづく「とる」は自動で「撮る」になるようにしたと自慢している。日本語の「とる」は「とる」であり、漢字に当てはめることは無意味だという高島さんの意見を信奉するが、商売文なら書き分ける。今の世の中そうなっている。「映画を取る」と書いたら無知とわらわれてしまう。商売に差し支える。生きて行くためにはそうせざるを得ない。

【余話】──中国の吹き替え主義
 去年の北京だったか天津だったか、テレビでエディ・マーフィの「ナスティ・プロフェッサー」をやっていた。中国語吹き替えである。前に見たものだし、SFXだけが売りのたわいない話なのでことばはわからなくても楽しめた。中国はみな吹き替えのようである。どうなんだろう、字幕で流すより技術的に簡単なのだろうか。それとも未だに数多い文盲に気を遣っているのか。
 文盲といえば、中国には「簡体字文盲」というのが多いそうだ。繁体字で漢字を覚えたがあの醜悪な簡体字なるものが普及し、それが読めない世代である。文盲ではなくむしろ知的な世代なのだが結果的にそうなってしまっている人々だ。
 中国でハリウッド映画の漢字字幕ってのも見たことがあるがこれはわずらわしかった。あたりまえだけど漢字ばかりなのだ。ひらがなカタカナの発明を偉大だと思ったし、その点では簡体字の出現も当然と思えた。
 テレビで吹き替えが主流なのは、やはり多民族国家であるから漢字を読めない人にも留意しているのだろう。今や日本の昭和三十年代と同じく仕事の後テレビを見るのを最高の楽しみとしている妻の両親は漢字文盲である。アメリカ映画を流されて字幕が漢字だったら楽しめない。吹き替え主流はそういうことなのだろう。もっとも妻によると、キスシーンなどがあるからアメリカ映画は子供の見られない深夜に放送されるという。十時には就寝する妻の両親には無縁な時間だ。またまともな時間に流していたとしても紅毛碧眼になじまない彼らは見ることはないだろう。
05/1/13
映画「壬生義士伝」
 原作は浅田次郎が『週刊文春』に連載したものである。この連載のまえに『週刊現代』の連載エッセイで目標は「三大週刊誌に同時に連載を持つこと」ノヨウナコトを書いていた。これによって実現となる。しかも時代小説である。なんという旺盛な筆力かと驚嘆していたら、無名のころに書きためたそれこそ「原作」があったのだとのちに知る。そうでないといくら浅田さんでもあの時期の同時進行は無理だったろう。
 最高に泣ける作品だと伝え聞いていたがまだ未読だった。数少ない未読浅田作品になる。映画も一昨年の日本映画では最高作品と称えられた。暮れか正月か忘れたが初のテレビ放映があり、HDDレコーダに録画してあった。それを妻と一緒に観た。

 浅田作品の根幹に彼の実人生とも関連のある「父の喪失」がある。佳作掌篇「角筈にて」が代表だ。「プリズンホテル」の主人公の屈折にも深く関わっている。この作品にもサブテーマとして出てきたのでおどろいた。根幹なのだからどんな作品にも出てくるに決まっているのだが豫想していなかった。
 新撰組の一員として死を選んだ父と同じく、遺児が父の形見の刀(父の親友がくれたもの)を携えて北海道に渡る(函館五稜郭の戦いに参加するということか? 酔っていたのですこし不明瞭)という場面で泣いてしまった。それまではやたらフラッシュクバック形式の多い作りに不満ばかりだった。妻はあまりにそれが多いのでたびたび筋がわからなくなり、その説明も面倒だった。なにしろほとんどことばがわからないのに感覚だけで理解するのだからたいへんだ。
 泣きはしたのだが妻と二人で父の三十五日供養をやっていて酒を飲んでいたこと、父と息子の話と個人的にタイムリーなテーマだったこと、ふたつ重なっている。果たしてしらふで父が健在だったなら泣くほどの作品だったのか疑問だ。そういう意味で父の三十五日に酔って観た、というのはひとつの得難い思い出なのだが、映画という作品を語る上では失態になる。とはいえ私は映画評論家じゃないからそんなことはどうでもいいに決まっている(笑)。


 全体の構成には不満ばかりだが、主役中井貴一は抜群だった。高倉健の跡継ぎはこの人で決まりだろう。「ふぞろいのりんご」のころは、どう考えても早世した父親ほどハンサムではないし、あの気弱な若者の役がとても似合っていて、この人は将来どんな役者になるのだろうと首をひねったものだった。すばらしい化けかたをしてくれた。ハリウッドの大スターに典型的な美男はいない。だからこそどんな役でもこなせる。中井も絵に描いたようなハンサムでないぶん、背もあるし(これは重要)前途洋々である。
 女房役をやった夏川結衣もよかった。

 近年の時代劇映画の傑作として名があがるものに「雨あがる」と「たそがれ清兵衛」がある。
 「雨あがる」は寺尾日明、いや寺尾聡宮崎美子の夫婦だった。武士の妻役を好演した宮崎はこれで助演女優賞をもらったのだったか。だが私には一所懸命に武士の妻を演じているのが見え見えですこしもよくなかった。宮崎に対しては「ピカピカに光って」以来好意的だし、こういう形で活躍することは「よくがんばっているなあ」とご同慶のいたりなのだが、かといって好演名演と褒める気にはとてもなれなかった。何事も一所懸命さが見えてしまったら興醒めである。宮崎の演じたのは仕官を目指し流浪の身の亭主に不満も言わず明るく仕える武士の妻の鑑のような役柄なのだが、一所懸命その「武士の妻の鑑」を演じているのが見えてしまうのである。いかにも当時の武士の妻らしく安宿等でも背筋を伸ばした美しい立ち居振る舞いをする。だがそれが普段はしていない人がこの映画のためにプロから手ほどきされて演じていると見えてしまうから、その美しい立ち居振る舞いにわざとらしさを感じてしまう。博学でもなく意地悪な見方をするわけでもない私にそう思わせてしまうのだから所詮たいしたものではなかったろう。
 寺尾の「ひょうひょうとしているが、じつは剣術の達人」という役柄も、「ひょうひょうとしていて、じつは見かけ通りそのまま弱い」に思えてしまって説得力がない。構えた木刀の先がプルプル震えていては興醒めだ。それは剣道の高段者でなければ止まらないことだから仕方ないのだが。
 たまには良い時代劇を観たい、という欲求が募っているころ、話題作のビデオ化ということで借りて観た。そこそこ得た満足感も、そういう欲求があったからであって、喉が渇いているときのジュースや山で出会う女のように、場と時を変え、落ち着いた視線で観たら高評価のこの映画、けっこう間抜けな駄作ではないのかとこのごろ思ったりする。ロケ地も「一所懸命探し回って最適のところを見つけました」とこれまた一所懸命が見えていた。この夫婦には判定3-0で中井夏川組圧勝。


たそがれ清兵衛」の真田ヒロユキ宮沢りえはよいカップルでともに名演だった。これまた共産党員ヤマダヨウジが藤沢周平の名作三作をくっつけて混ぜてぶち壊しにした問題作なのだが、それとはべつに二人の好演と衣装部の活躍は賞賛に値する。でもふたりの容姿が役柄に合っていたかどうかは疑問である。(「たそがれ清兵衛」は毒字感想文としてまとめようと思いつつまだやっていない。反省。それが書いてあればここに書くことも参照対比しつつわかりやすくなり楽だったのだが。)
 これにも判定2-1で中井夏川組勝利。

 唯一あえて難を言えば、餓死者が続出する飢饉の南部藩で、食糧不足をすこしでも補うため口減らしの入水自殺しようとする夏川(入水を中井にとめられたとき、食料としてわたしを食ってくだせえと言う)が、栄養たっぷりお肌の手入れもよく、色白ふっくらセクシーで、とても餓死者続発の飢饉のさなかにいる人には見えないことだった。でもこれはしょうがないよね(笑)。かといって役柄に似合う目が飛び出し頬がこけたガリガリの餓死寸前の女優を起用されても困る。そんな役者いないか。

 その他のことはあとで補記しよう。
 助演の三宅祐司もよく(でもあの人は顔がやさしすぎて武士は合わないな)褒めるところのいっぱいある映画だからこそ、なんか佐藤浩一の回想をメインとした基本構成に不満を持った。「たそがれ清兵衛」の末娘のナレーションという構成に感じた不満と同質である。
 まあこれの場合はもともと「たそがれ清兵衛」には子供はいないし、藤沢周平の原作をいじくりまわした共産党員ヤマダヨウジの作品だから話はまた違う。それでも、小説という原作をこういうふうにいじる映画人の感覚には違和感を覚える。そりゃ彼らとしたら小説をそのまま映画にしても意味はないと反発するだろう。おなじ「いじる」でも「蒲田行進曲」に反感を持たなかったのは、いやそれどころか大満足だったのは、小説も映画も舞台もすべてつかのものであるあれが映画としても完全に消化されていたからだろう。
 小説のほうは云南かチェンマイで文庫本で読む楽しみにとっておこう。
12/1(木)  初めてのBS映画──「オー・ブラザー」

 深夜0時半、眠る前にチャンネルを回していたら、BS2で映画が始まった。「オー・ブラザー」。
 何気なく見ていたが、1930年代を舞台に、主人公三人組が、十字路で黒人のギター弾きを拾うあたりから引き込まれた。黒人の名はトーマス・ジョンソン。十字路(クロスロード)の映像も、黒人青年の言う「ゆうべ悪魔に魂を売った」も、もろにロバート・ジョンソンのパロディである。ブルース好きにこのお遊びはたまらない。

 民放で映画を見ているとCMがわずらわしい。そのうえサラ金と保険ばかりなのだから憂鬱になる。またいきなり音量がでかくなるのも耳障りだ。
 年に100本のヴィデオ映画鑑賞を科していたのも今はもう昔。21世紀に入ってからは映画なんて年に数本しか見ていない。
 これは2000年制作(レンタルヴィデオ屋に並んだのは2001年だろう)の作品。新作が出たら必ずパッケージを手にして中身を確認していたから、この内容からして、かつてよく見ていた時代なら必ず借りていたと思われる。いくつか賞を取った佳品であるらしい。

 しかしアメリカってのは1930年代を再現できる自然が残っているのだからすごい。京都の一部でしか時代劇が撮れない日本とはえらいちがいだ。クロスロードの映像は良かったな。
 来年あたりからBSの番組表が気になるのかも知れない。

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