究極のウォークマン

     
      ↑昆明の茶花賓館にて。ThinkPadとバンコクで200バーツで買ったスピーカー。
       その向こうに日本から持参した電池式蚊取りが見える(笑)。


究極のウォークマン

旅と音楽

 私にとって旅とは、いや旅なんてかっこいい言葉を使う必要もなく、仕事であれ遊びであれ見知らぬ所へ行くことの楽しみは、そこで好きな音楽を聴くことだった。自分の好きな音楽が、その新たな風景とどう解け合うのかを感じるのが最大の目的だった。回数を重ねるとそれは、「あの風景に、この音楽はどうだろう」という事前の組み合わせ予想の楽しみにもなってくる。さらにはドンピシャの適合を喜ぶだけではなく、ミスマッチを確認する楽しみさえも生まれてきた。

 学生時代から大好きな北海道だったが、競馬の仕事で毎月のように訪れるようになると、やがて持参する荷物はカセットテープが最大のものとなっていった。「あの景色の中でこのテープを聴いてみよう」というのが北海道に行く目的のようになった。このまま行くと音楽論を書き始めてしまいそうなので先を急ぐ。

 この北海道競馬取材時代に目覚めてしまったものに「ヘッドフォンステレオはつまらない」がある。田舎を走る景色を見ながら、列車の中でビールを飲みつつ、ヘッドフォンステレオで音楽を聴くことは楽しかったが、牧場の車を借りたり、レンタカーで走るようになり、カーステレオで聴く音楽の魅力を知ってしまうと、それは閉ざされた世界のつまらないものに思えた。音楽は空気と融け合ってこそ美しい。これは後のタイやチェンマイでの生活にも影響してくる。

今もひとつ悔やまれることに、外国に日本の音楽を持ち込むという実験をしなかったことがある。
 椎名誠さんの初期のエッセイに、深夜の中央線で青江三奈を聞くというのがあった。もちろんウォークマンである。椎名さんは音楽には詳しくないので、これはひねった選曲ではなく、それがちょうどよかろうということのようだった。まだFM東京でナレーターをやったりする前のことである。

 終電間際の中央線の酔っぱらいサラリーマンを見ながら、ウォークマンで「伊勢佐木町ブルース」を聴いていると、なかなかよく似合っているなんて考察だった。当時私は演歌を聴かなかったから(デルタブルースに凝っていて日本の演歌をコバカにしていた時期になる。恥ずかしい)その選曲に納得したわけではなかったのだが、後になって、こういう試みはおもしろいなあと思い出したのだった。

ポルトガルのファドを日本の盛り場で聞いたりすると、また獨特の趣がある。ファドはもの悲しく演歌的だから日本の夜に合う。

「ファドの女王」アマリア・ロドリゲス

 隣の国でもスパニッシュはダメだ。あれは日本の音楽よりもリズミックで情熱的だから浮いてしまう。スペインのダンサーが真面目な顔で懇願することに、「お願いだから掛け声をかけないでくれ」というのがある。日本人観光客が踊りに合わせて「オーレ!」をやるのだが、そのタイミングが悪いので踊りがくるってしまうそうだ(笑)。

 日本で外国音楽を聞く実験はした。逆をやっていない。ポルトガルの「ここに地終り、海始まる」のロカ岬で水前寺清子を聞いたらどうなのだ。「三百六十五歩のマーチ」はあそこでどう響くのか。スコットランドのゴルフ発祥の地、セント・アンドリュースで「丘を越えて」はどうだ。「青い山脈」でもいい。それらをやっていない。やりたかった。悔やまれる。なぜやっていないかというと、それらのテープを持って行くのが面倒だったからだろう。あちらで購入したものを持って帰るのは簡単でも、わざわざ持って行くのはたいへんだ。
 今からでもやれるが、わたしゃ旅行なんて嫌いなんだ。部屋の中でごろごろしているのが好きなんだから、もう旅行には行きたくない。旅行嫌いは昔からだ。その嫌いなものを「せねばならない」と思って一所懸命にしていた時期にこの実験をしておきたかった。

 書き出すときりがないのでこの辺にするが、ともかく私にとって、どこかへ出かけるということは、常に音楽と一緒なのだった。それが基本になる。タイと中国のホームページ用の文章なので、欧米のことは飛ばしてタイと中国に行く。まあ書いたとしても基本的には欧米の場合も同じようなものだ。



初めてのタイ

 初めてタイに行くときも、ウォークマンは真っ先にカバンに入れた。テープは厳選に厳選を重ねた十本ぐらいだったか。自分でスペシャルを作ったりした。まだ行ったことのないタイだったが、ポップスのテープはあちらで廉価に買えるだろうという計算はあった。これはその通りだった。買えないものを持っていった。

 初めて見るタイの街角、整然としたオフィス街、中華街の混沌、中級ホテルの十階から見下ろす街並み、安宿の気だるく回るファンの下、ストリートガールが立ち、ドブネズミが徘徊する汚れた街、それぞれに合った音楽を探そうと試みたら、テープはいくらあっても足りなくなり、毎日のように買い求めた。毎日三本買っても一ヶ月で90本である。帰国するときテープ専用のバッグが必要だった。それを重ねるたびにテープの量は増え続けていった。タイにはまずタイの音楽だろうと、ルーク・トゥン(歌謡曲)、モーラム(演歌、浪曲かな)のテープを買い集めた。

初めてチェンマイに行き、レンタカーを借りてゴールデントライアングルをひとりでドライヴした。今思えば、初めてのタイであり、タイ語なんてひとことも出来ないのに、見知らぬ土地でずいぶんと荒っぽいことをしたと思う。幸いにも危険な目には遭わなかったが。
 オンボロジープを借りるとき、あちらは冷房ががんがん効くいいクルマだとそれをアピールしていた。暑い地だからそれが大事なのだろう。私がこだわったのは「カーステレオの音はいいか」ということだった。助手席に買い集めた数十本のテープを用意していた。
 ゴールデントライアングルの風景にイーグルスが似合ってしまうのには苦笑した。まったく彼らの音楽は万能である。

二回目の訪タイの時、バンコクジュライホテルで知り合った人から、貴重なことを学ぶ。彼は実になんというかものすごく、なにも荷物を持たずに旅していた。着るものもジーパン、シャツ、パンツと一着ずつである。洗ったときは部屋から出ず、乾くまで待っているのだ。あそこまで軽装で世界を歩いていた人を見たことがない。二十代後半でもうハゲかかっていたが、その徹底した旅の姿勢はなかなかかっこいいなと思ったものだ。
 その彼が、ウォークマンにスピーカーを繋いでいたのである。何もない彼の部屋にある、音楽を流しているその組み合わせは新鮮だった。そのとき、色んなものを持ってきている私の部屋に、音楽を空中に流すシステムはなかった。

 この時期私はまだ「ウォークマンとスピーカー接続」に目覚めていない。すでに「音楽は空気中に流してこそ」とは気づいていたが、北海道はともかく異国の旅先では我慢せねばならないものと諦めていた。「この手があったのか」と思った。日本に帰ると早速秋葉原に飛んでいった。以後、凝り性であるからして何種類も買い揃えることになる。バンコクで探さなかったのは、まだ地理にも慣れていないし、バンコクでなんでも揃うと知らなかったこともあるが、日本製品崇拝の気持ちが強かったからでもある。これは今でもある。そのジュライホテルで知り合った友人も、1バーツを惜しむ大阪出身のドケチバックパッカーだったが、ウォークマンもスピーカーもSONY純正だった。だからよけいにかっこいいと思ったのだろう。これ以後、私が海外に出るとき、ウォークマンと一緒に小型スピーカーは常に同行するようになる。







 押し入れの中のあれこれ突っ込んである段ボール箱を探したら出て来たスピーカー。
 こういうものを10種類ぐらい買ったが残っていたのはこれだけだった。もう一組、チェンマイに預けてある荷物の中にあるのを確認している。共にSONY製品。単三乾電池四本使用。チェンマイにあるのもSONYだった。

 上のものはカヴァーを広げた状態が象の耳のようになることからゾーサンのような愛称が着いていた。下のものは一目見て解るカタツムリ。この角は普段は後部に収められていて手で起こす。性能はゾーサンのほうがずっとよかった。値段も高かったのかな。たしか6千円と3千円ぐらい。それぐらいちがった。

 未だにこれが残っていたということは、それなりにお気に入りだったのだろう。バッグを背負って旅する旅人だったなら、今もこれを愛用していたことになる。
 写真を撮っている内にこれらを使っていた旅先の情景を思い出して懐かしくなった。(この写真2点、02/11/28追加)。



私のウォークマン物語

 あたらしいモノ好きだから買ったのは早い。こういう場合、可能な限り最高級品を買うことにしている。純正SONYの最高級品を買った。最初が肝腎である。それから後は趣味になる。かなりいい加減だ。今の製品しか知らない若い人は元々ああいう形のモノと思うかも知れないが最初のウォークマンは、値段も高く、それでいて今中国製で二千円程度のものよりも大きい、今から見るとかなり無骨なものだった。それでも革新的だった。それだけ初めて小さなモーターを作り、カセットテープより一回り大きい程度のテープレコーダーを作るのは難しい技術だったのだろう。

 SONYの次はpanasonicを買った。この辺まではまともなものを買っていた。そのあたりでウォークマン好きは止まる。ひとつは前記したように空気中に流してこそ、と気づいたのでヘッドフォンステレオで聞くことがつまらなくなったこと。電車の中がそんな若者ばかりになったので、みっともないと止めたからだった。五、六台買ったぐらいの時期にタイ狂いが始まったのか。

 CDウォークマンも発売と同時に買った。これは今も不思議に思うがほとんど利用しなかった。理由はやはり形が大きかったからだろう。一発で選曲が出来るというのはカセットテープと比べると画期的ではあったが、それ以上にあの本体とCDを持って歩くと嵩張ることが面倒だった、せっかくSONYの最新型を買ったのにまったくと言っていいほど利用しなかった。時代が前記したように猫も杓子も電車の中でシャカシャカシャカシャカの時代であり自重していたこともあろう。

 このころタイ語学習に燃えていて、タイ語のテープ附き教科書をなん種類も買い集めては毎日熱心に何時間も勉強していた。当然後々の保存のことを考えて「CD附き」のほうを買い、テープに落として聞くという面倒な方法を採っていた。よほどCDウォークマンは嫌いだったらしい。

 カセットテープのウォークマンから、CDウォークマン、MDウォークマンと変遷して行くのを常態とするなら、私のそれはだいぶ時代とズレていた。なにしろMD全盛になってからもカセットテープウォークマンの無線型(ワイヤレスウォークマン)なんてのを買ったりしている。その理由は、その当時最も音楽を聴く場所となっていたクルマにカセットプレイヤーしかなかったこと、タイの主流がカセットであったことが理由になろう。

さてタイとウォークマンの話である。
 すっかりスピーカーを繋ぐことに慣れてしまった私は、ウォークマンをそのままヘッドフォンステレオとして聞くことはなくなってしまった。日本から持参したスピーカーを繋いで、チェンマイのホテルやアパートで聞いていた。

 となると誰でも気づく。なんでこんなのを使う必要があるのかと。ウォークマンにスピーカーを繋いで聞くなら、最初からラジカセを使えばいいのだ。私はチェンマイでラジカセを買った。初めて買ったのはバンコクだったが細かいことはともかく、千バーツ(五千円)程度でラジカセが買えるのだから、なにも日本からウォークマンとスピーカーを持っていって使用する必要はないわけである。(ここで絵的にはぜひともチェンマイで愛用していたタイ製のラジカセが欲しいところである。みんなあげてしまってない。写真もない。残念。)

 ここにおいてウォークマンは、長年つきあってきた旅の相棒として、だいぶ存在価値を下げた。というのは、私の好きな音楽を聴く情景とは、「列車の窓から景色を見ながら聞くこと」と「部屋で寝転がっているときにBGMとして流れる音楽」なわけである。もう日本からバンコク経由で一気にチェンマイであるから、汽車になど乗らなくなっていた。たまに乗ってももう景色は知り尽くしているから今更ウォークマンでもない。飛行機の中で音楽を聴くほど飢えてもいない。雑誌を読んだり寝ていたほうがいい。となると音楽は、チェンマイの部屋でのBGMとなるわけで、それはラジカセの仕事だからウォークマンの出番はなくなっていったのだった。

とはいえウォークマンから現地購入ラジカセ派になるまでの経緯は恥を承知で書いておかねばならない。
 私はモノをよくタイの女にあげる。お金をあげることは失礼なような気がして、また二人の関係が不純であるような気がして、とてもいやなのだが、ものだと平気なのである。たとえば「貧しくて学校に行けなかった娘に、英語を獨学したいからラジカセとテープ附き英会話セットが欲しい」などと言われるとすぐに買ってやってしまう。向学心に弱い。金の首輪が欲しいなどと言われると嫌だ。これは私に限らず日本人の男の常なのだろう。

 今までマッサージパーラーの女に、日本人からもらったのだがと何台も腕時計を見せられている。気持ちはわかる。どうやら大学生ぐらいの連中が初めてマッサージパーラーに行き、一期一会の献身的サーヴィスに感激し、なにかを記念にあげたいがなにもないので、思わず腕にしていたデジタルウォッチをあげてしまうというパターンらしい。女はよく使いかたがわからないのだがとか、いくらぐらいするものかとか訊いてくる。タイ語を話せる私にその辺のことを訊いてみたいらしい。時計をくれた彼はひとこともタイ語は話せないという場合が多い。初めての訪タイのようだ。しかしこういうとき呆れてしまうのは、その時計、なにもいじってないのである。だから日本人の友達の電話番号が何十件もそのまま入っていたりする。時代は変っても日本人は無防備で気がいいのだなと思ったりする。

今度は自分の恥。七八年前、チェンマイにそれなりに本気で付き合った女がいた。ずいぶんといろんなものを買ってやった。出会った頃まず欲しがったのが私のもっているウォークマンだった。それはSONYの45000円した最高級品で見るからにメタリックでかっこよかった。小さくても重い。本当はあげたくない。街で安物を買ってやってごまかそうとしたが、すでに彼女らもSONYというブランドは知っていた。みんなに羨ましがられるSONYの高級品だからこそ欲しいのだ。多少後ろ髪を引かれつつだが、あげた。

 それ以後、私はSONYの最高級品を買わなくなった。女に取られてしまうからではない。あげるのはいいのだが、あまりにもったいないのだ。最高級品のウォークマンなら大事にしてもらえるかと思う。なにしろ彼女の月給は一万円程度なのだ。彼女もそれが高級品であることはわかっている。だがそこはタイ人である。大事にするしないというより、そういう感覚がない。タイというのはそこいら中、隙間だらけ埃だらけの国である。だから寝ていても涼しいすきま風が吹き込んできてサバイサバイなのだが、それは精密機械が健常に存在するには不向きの国ということだ。いかなSONYの高級品であろうと、いや精密な高級品であったからこそ、彼女に乱暴に扱われ、埃だらけの所におかれたら、あっと言う間に壊れてしまった。タイ人は、高級品だから毎回埃のないところにしまって丁寧に扱う、なんてことは一切しないようである。それはよい意味でのおおらかさにも繋がるのだろうが……。。

 木彫りの人形と同じようなぞんざいな扱いを受けた私のウォークマンは、埃だらけになって動かなくなった。私は機械大好きの愛情派であるから、一年ほど大切に使ってきたかわいいウォークマンが、あげて半年も経たない内に、手垢だらけになり、薄汚れ、コードも乱暴にぐりぐり巻きにされて動かなくなっているのを見たら哀しくなった。当然日本にいるときの私は、こまめに拭いたり、時には専用洗剤で汚れを取ったりして常に清潔に扱っていた。以後、タイには最高級品は絶対に持ってゆくまいと誓った。彼女と別れたのも、そのへんの雑な感覚が合わなかったからだった。どうにも「四角い畳を丸く掃く」というタイ人の感覚にはなじめなかった。あちらからすると、私が異常に神経質でイヤなヤツだったことだろう。この辺の相性は難しい。

それからはAIWAを持って行くようになった。最新のウォークマンよりはひとまわり大きく(あの大きさが初期のウォークマンだった)、今でこそタイ製、中国製の安いものが出回っているが、その頃はマレーシア製であるらしい6000円ぐらいのそれが、最良最廉価の製品だった。
 チェンマイではもうラジカセで音楽を聴く習慣が出来ていたから、ウォークマンは、往復の飛行機の中とか、数日泊まるバンコクでの使用しかない。それもほとんど聞かない。いわば親しくなったネーチャンへのプレゼント用だった。これはかなりの数をあげている。

 安物ウォークマンとラジカセ、ギターが、私がタイで知り合った人々にあげた品物のベストスリーになる。それぞれ十台以上だ。それでも、ラジカセとギターはあちらで買ったものだが、ウォークマンは安物とはいえ日本で買っていったものだから性格が違っている。「なんでギター?」と思われるかもしれないので説明しておくと、私が自分で弾くためにギターを買う。5千円弱のフレット音痴だ。一二ヶ月の滞在で帰国するとき、持って帰るようなものでもないし、あげてくる。ギターをもらったはいいが、そのネーチャンは当然弾けない。あれらのギターはどんな運命になったのだろう。オネーチャンが田舎の弟にあげて、それによって天分のあった少年の能力が花開き、今ではタイ有数のギタリストに、なんて話になっていたらいいな(笑)。

云南の妻にあげたウォークマンは、panasonicの二万円ぐらいの奴だった。AIWAの安物がプレゼント用だとすると、これは自分用にもっていたものだ。妻にそれをあげるとき、それはマッサージパーラー嬢に腕時計をあげる青年のようにそのときの私にとって精一杯のモノだったが、結果はやはり落胆することになる。次回とんでもない山国の彼女に家までたどり着いたとき、それは見事に動かなくなっていたのだ。あれは哀しいねえ。自分の愛機が、見知らぬ国の山奥で死んでいるのを見るのは。逆に元気だったらうれしいのだろうけど……。

 だがこれは前記したように必然のようだった。最新の技術の粋を集めて小さく小さくするから、それはもう精密機械の世界で、その分、なにもしらない連中に手荒く扱われると弱いのである。見たこともない珍しいものを手にしたと周囲の人間が寄ってきてあれこれ触るから、壊れるのも早いのだった。
 妻であれ、前記のチェンマイの彼女であれ、精一杯普通に大切にしているのに壊れるのだから、それは壊れるモノが脆弱ということになるのだろう。一方、作るSONYやpanasonicの技術陣は、そんな埃だらけの所に放置されることは考えていないから、これはどちらが悪いと言うことではなく、ミスマッチと諦めるしかない。

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以後妻には、五千円程度の安物ウォークマンを与えている。左は妻の家のコンクリート土間で、簡易ステレオを演じている写真。こうするとウォークマンもちょいとしたステレオになる。

 彼女も愛機のご臨終に接した私の哀しげな顔を見ているから、高級品をもらって壊すよりこれのほうが気が楽のようだ。が、意外にこの安物、頑丈で壊れない。やはり高級品で精密だからこそ壊れやすいという言いかたは成立するように思う。

それともうひとつ、日本製品のすばらしさは日本人による品質管理の成果というの考えかたも大事である。

 というのは、左の写真の五千円の安物は日本ブランド(panasonic)の中国製である。だからこれと同じようなのは中国に溢れている。見た目もなにもかも同じようだが、日本のブランド品は、ただの中国製より確実に長持ちする。故障が少ない。これは妻も断言している。

 衣類でも、現在日本に出回っている安物はほとんどが中国製だが、じゃあ本場の中国製はもっと安くて同質の製品かというと、あいかわらず新品なのにポケットが抜けていたり、ボタンが取れそうだったりと、ひどい状態なのである。話題の(今じゃ落ち目の話題か)ユニクロも中国で作っている。あれも日本人が日本に向けた商品だからと目を光らせていて初めて成立する商法だ。この辺の中国人のいいかげんさはまた別項で書くとして。



MDの時代へ

 CDウォークマンを買ったがほとんど使用せず、部屋の中ではステレオ、クルマではカーステレオ、チェンマイではラジカセという形で音楽を聴いている内、世間はCDからMDの時代になった。

 一目見てこれは便利そうだと思った。なによりカセットの小ささとCDの便利さを持っている。80分のMDならそれなりの曲を入れられそうだ。

 このころ私は妻との関わりから中国に行くことが多くなっていた。妻の家にいるときはあちらで買ったラジカセでいいが、町のホテルにいるときが困る。妻の家はあまりに田舎なのでさすがの私も我慢できず、町のホテルで暮らすことが多かった。久しぶりにウォークマンと携帯用小型スピーカーの出番となった。違っていたのはウォークマンがテープではなくMDになっていたことだ。

 金銭的には毎度ラジカセを購入してもよかったのだが、なにしろ事情がチェンマイとは違う。まだチェンマイ・ジンフォン便も飛んでいない時期、妻に昆明まで出てきてもらい、そこで十日ほど過ごすのが私たちの逢瀬だった。二昼夜かけて昆明まで来る妻(当時はまだ入籍していないが)にはるばるラジカセをもってきてもらうわけには行かない。とんでもない悪路を、口から胃袋が飛び出しそうなほど揺れてやってくるのだ。最初の家から町まではクルマもない。耕運機か牛豚を屠殺場に運ぶトラックに同乗するのだ。そんな状態だから、妻は言えば持ってきてくれたろうが無理強いは出来ない。しなかった。

 チェンマイの時のように毎回買うという手もあった。同じく五千円程度のモノでいいから十日間音楽を奏でてくれるなら安い消耗品と捉えることも出来る。だが帰る時あげる相手がいない。この問題は大きかった。チェンマイだと、娼婦はもちろん、親しくなった食堂のオヤジにあげたこともあれば、喫茶店のウェイトレス、市場の青年にあげたこともある。こちらとしては気持ちよく食事をさせてもらい、あのすばらしい笑顔をもらっただけでそれだけの価値がある。
 が中国には笑顔はない。ありがとうもない。もう何度も通っていたが仲良しになった人はひとりもいなかったし、毎度ノイローゼになるぐらい嫌いな国だった。こんな国でモノを買い毎回あげるのは無理だ。妻にまた山奥まで運ばせる気にもなれなかった。中古屋に売ってくるという手はあったろう。それは今書いていて気づいた。五千円が千円でも価値はあった。ともあれ私は、中国ではラジカセで音楽を聴くことを我慢することにしたのだった。

よって日本からのMDの出番となる。そのために遅ればせながらMDウォークマンを買った。これはその時の最新型であるpanasonicだった。新しい物好き、機械好きの私が、新しいメディアであるMDというものを知り、学生の頃カセットテープでやったように、自分で編集してお気に入りのテープを作ってみたいという懐かしい気持ちになっていたこともたしかだ。それだけMDは簡単に録音再生の出来る魅力的な新製品だった。

 そうしてMDの季節(?)になる。昆明から夜行寝台バスで一昼夜かけて景洪まで向かうとき、妻と一緒に片耳ずつのイヤフォンでKinki Kids(笑)を聞いたのも今は懐かしい思い出だ。妻には「全部抱きしめて」が思い出の歌になってしまった。

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パソコン音楽の時代

 違法コピーCDの存在は以前から知っていた。著作権協会に入っている身でまずいなあと思いつつ、その魅力には抗しがたく何枚か購入もしていた。だって一枚のCDにひとりのアーティストのアルバムが10枚以上も入っているのである。そんなことが許されるなら私は一万円出しても買ったろう。最高に便利だ。なのにそれが違法コピーゆえたった100バーツ(300円)なのである。この魅力には逆らえなかった。バンコクで購入し、こっそり日本に持ち帰り重宝していた。(成田でチェックされたら取り上げられてしまうらしい。)

 たとえばそれまでは、ビートルズのあの曲はどのアルバムに入っていたかというような疑問が浮かんだら、本の資料で調べねばならなかったが、そのCDさえあればその必要もないのだった。楽な世の中になった。
 外国ではこの違法コピーCDは使用していない。まだその能力を活かせるだけのノートパソコンがなかった。

私が外国に持って行くようになったパソコンは、初代がDynabook、左の写真。これは外附けCD-ROMプレイヤーだったので海外へは持参しなかった。なにしろCpuがpentium以前だから話にならない。VCDを再生してもコマ落ちしていた。このDynabookは私にとってあくまでもワープロだった。

 それでもこれを持参したヨーロッパ旅行は忘れがたい。ベルギーで原稿を書き、日本に送稿したものだった。もちろんまだFAXである。これは出たばかりの時に35万で買いメモリ8メガを八万円(!)で増設したから43万円になったのだった。それでもこれを手にしたときはうれしくてたまらなかったことを思い出す。

 後にチェンマイでオートバイプロライダーのHと親しくなるのは、同じこのダイナブックをもっていたことがきっかけだった。ヨーロッパに住んでいた彼とブリュッセルの日本食レストランの話をして盛り上がった。そのHが、NECに勤めていてパソコンにとても詳しいと紹介してくれたのが、「チェンマイ日記」にも登場し、後に深い関わりを持つようになるTさんだった。あれこれと思い出す。


二台目はMebius。これはA−4フルノートなのでCD-ROMプレイヤーは内蔵されていた。Cpuもpentiumの150Mhzだから動画再生にも問題はなかった。

 パリで音楽CDを買い、携帯用のSONYのスピーカーを繋いで音楽を聴いた。北駅前の安ホテルだった。これには感激した。思えば「パソコンと音楽」という形態が固定したのはそのときだったか。

 このMebiusはCpuもハードディスクもすべて当時の最高級品で40万円した。ハードディスクは1.4Gだった。その時はこんなに大きなハードディスクは一生使い切れないのではないかと思ったものだが、それが今となっては笑い話なのは言うまでもない。いやべつに今にならなくても、一年後にはもう物足りなくなっていた。
 このMebiusとヨーロッパ旅行の楽しい思い出は多いのだが、いずれにせよこれはまだ「CDプレイヤー」である。十枚のCDを聞くのには十枚を持って歩かねばならなかった。実際このヨーロッパ旅行でも、フランスの音楽CDが増えてしまい持ち歩くのに苦労した。ああいうものはせっかく異国で買ったのだからパッケージだって大事にしたい。CDだけにしてプラケースやジャケットを捨ててしまえば軽くなるがそれは忍びがたい。よって旅先を歩くたびに、思ったよりもそれは大荷物となっていったのだった。


三台目がSONYのVAIO-PCGC1Rだった。最初購入したときのハードディスクは4.2Gだったか。あの小さな体にたいしたものである。当然CD-ROMプレイヤーは別売の外附けだった。

 まだ「究極のウォークマン」は完成していない。私は発売になったばかりの12Gハードディスクに換装しようと挑んだ。これは懇切丁寧な解説本が発売されていたからこそできたことだが、私の能力としては、今思えばよく頑張ったと言える。なにしろVAIO-C1は小さい。よくぞ壊さずに出来たものだ。

 それだけこの小さいVAIOが気に入っていた。どこに行くのも一緒だった。外国はもちろん日本でも、いつでもどこでも一緒だった。そこにハードディスク容量の限界という不便が生じる。でもその不便は、新発売になった8.5mm厚の2.5インチハードディスク12ギガに換装すればすべて解決するのだった。今後も仲良く付き合うために私は思いきって換装に挑んだ。なんとか成功した。

 私はハードディスクにC.D.Eとパーテイションを切っている。CはOS、餘計なモノはいれない。1Gもあればいい。Eはデータ。これも1Gもあればいいだろう。Dがソフトウェア。通常Program Fileに入れるアプリケーションを私はすべてここにまとめる。するとCディスクにOSを再インストールしても影響を受けないのだ。ここに10G確保できた。実際は9Gぐらいだった。これにアプリケーションが4Gぐらいあったが、それでも「假想CD用スペース」として5Gを確保できた。

 ここに『BOOKSHELF』『ENCALTA98』(2枚)、『World Atlas』『大辞泉』『シネマガイド全洋画2』を假想CD-ROMとして入れる。ここに私の理想とする「移動書斎」が誕生したのである。小さなパソコンを持って歩くだけなのに、その中には百科事典が、国語辞典が、英語辞典が、世界地図が入っているのである。これはこれでひとつの夢の完成だった。
 この環境が整ってから、私は外国での仕事にまったく不安がなくなった。時代はもうインターネットであり、チェンマイでもインターネットでの調べものができる時代になりつつあった。2000年の春のことになる。





究極のウォークマン完成


     

四台目はIBMのThinkpadだった。いまこれを書いているノートである。これのハードディスクはさらに大きくなり、購入時で20Gだった。私はこれを昨年(01年)の六月二十日、タイへの出発直前に発作的に秋葉原で購入するのだが、そのとき頭にあったのは「究極のウォークマン」がいよいよ出来るという昂奮だった。ここまで書いてきたいくつものことが重なり、やっとそういうものの形が見えて来つつあった。

 私の「移動書斎」としてのノートパソコンはすでに完成の域にあった。足りないモノはハードディスクの容量だけである。Thinkpadのハードディスクが20Gということは、VAIOの12Gより8G大きいということであり、それはその8Gに音楽CDを假想CDにして詰めこめるということである。それが究極のウォークマンになる。

 私はバンコクにSONYのVAIOと買ったばかりの真っさらなThinkpadを両方持って旅立った。前記した『BOOKSHELF』等のCD-ROMソフトもすべて持参した。

まずバンコクでやったのは、VAIOと同じ環境をThinkpadに作り上げることだった。細かいところにまで凝っているのでこれもなかなか時間が掛かる。

 つまらんことを言ってケンカを売る気もないが、私はデスクトップにアイコンを散らかしている人を見るとセンスがないなあと思う。ほとんどの人がそうらしいからこの物言いは不興を買うだろうが。私はランチャーソフトを使い、立ち上がった画面には、マイコンピュータ(中国語だと「我的電脳」)とノートンのゴミ箱の絵しか現れないようにしている。まあ人それぞれだから、それはともかく、そんなふうな凝り方をしているので、VAIOの環境をThinkpadに写すというのも大仕事だった。「ハードディスク丸ごとコピー」というソフトを持っているが、それは使わず手作業でやった。それが楽しみだった。

 この間にパンティッププラザで音楽CDを十数枚買っている。クラシック、ジャズ、レゲエ、ストーンズ、マドンナあたりだった。いや音楽CDではない。一枚に10枚のアルバムが入っているMpegCDだ。
 ついでに200バーツで外附けスピーカーを買った。偶然見つけたものだっだ、これには安いなあと感激した。今まで日本からウォークマン用外附けスピーカーを持ってきたとき、電池ではきりがないのでACアダプターを持参した。すると当然変電機が要る。ということで次々と荷物が増えていったのだった。220ボルト対応のパワーアンプ附きのスピーカーが200バーツで買えるなら(たった600円である)日本からあれこれと持参する必要はないのだった。これも目から鱗である。この時期、私はラジカセ派だったので外附けスピーカーに関しては疎かった。冒頭の写真にあるのがそのスピーカーである。

 チェンマイに行き、さらにまたCDを十数枚買い、いよいよあまっているThinkpadのDのパーテイションに假想CD-ROMとして、その中から選び抜いた音楽CDを入れていった。選び抜いた各ジャンルの十枚ほどである。それらの実体はみなチェンマイに置いて行く。『音楽を聴くもの』として私が中国に持って行くのはThinkpadのみである。


こうして長年私の夢見ていた「究極のウォークマン」はやっと完成した。その凄みは中国に行って発揮される。それは想像を絶したなんともすごいものだった。日附的に言うと2001年の7月に、私にとっての「究極のウォークマン」は完成したことになる。


(再生ソフトにはe−Jayを利用。Media playerでも出来るが、こちらのほうがずっと使い心地がいい)

北海道取材旅行時代、私が持参したカセットテープは30本ほどだった。アルバム30枚ということになる。それなりの荷物になるが、国内だからまだそれぐらいは持って行けた。
 チェンマイに行くときは、あちらで売ってなさそうなものを10本ほど持って行き、後は現地で買い揃えた。何度も同じ事を繰り返したから、必需品であるビートルズやショパンは何本買ったか記憶にないほどだ。毎回新たに買っていた。60バーツ程度だからたいしたものではない。タイのテープは質が悪いので何回か聞いたらノイズがひどくなる。すぐにワカメになってしまう。何回も買ったのは必然でもあった。

 中国に持参したMDは、日本で作ったスペシャルと、JazzをCDからコピーしたもの、レンタルした流行りものを落とした何枚かのアルバムだった。ちいさいからなんとか20枚ほど持っていったが、ぎりぎりまで荷物を絞っているので、それでもかなりの嵩になった。

 それらが今回は一切ない。すべてパソコンの中に入ってしまった。知らない人が私の荷物をチェックしたら、ウォークマンもないし、カセットテープもCDもないから、私は音楽に興味がないと思うだろう。
 ところがところがである。パソコンの中に入っているのはCD-ROM10枚である。音楽CD10枚だと、それはアルバム10枚でしかないが、そうではない。Mpegで圧縮されぎっしりと詰め込まれたCD-ROMが10枚なのである。一枚に、たとえばクラシックだと、ショパン、ベートーヴェン、リスト、シューベルト、モーツアルト、バッハ、チャイコフスキー、ラフマニノフ等の作曲家の作品が入っている。假にひとり10曲として100曲である。ポップスになると10枚以上のアルバムが集めてある。これも一枚10曲としても100曲を超す。私のThinkpadには様々なジャンルの音楽が、千曲以上も入っているのである。しかもあるのはパソコンだけ。テープもCDも見えない。だが、再生ソフトウェアを用意し、Thinkpadにヘッドフォンステレオを繋げば、いつでもどこでもその千曲が聴ける。スピーカーを繋げば、いつでもどこでもそれはラジカセに変身するのだった。あまりのその凄さに、私はウォークマンと数本のテープを持参した当時のことを思い、茫然としていた。

e−Jayの起動画面

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実のところ、今の私は、寝ているときも音楽を流していた若い頃とは違い、生活の中に音楽を必要としていない。いちばん好きなのは花鳥風月であり、朝風呂に入っているときに聞く妙なる鶯のソロヴォーカルや夜更けに松籟が奏でるソナタ以外の音楽は聞きたくないほどだ。

 だがそれなりに音楽は知っているし、普段はいらないと思っている分、突如として「あれが欲しい」となったときの飢餓感と切実さは、これまた人一倍なのである。といって殿様のわがままじゃあないからそれほど理不尽なわけでもない。夜更けに仕事をしているとき、「ストーンズのSatisfactionのイントロが聞きたい」とか「ショパンのセレナードが聞きたい」とか、その程度のことである。それは自分の部屋では出来た。旅先では無理だった。それが、中国雲南省の山奥でも可能となったのだ。私はどこへ行こうとも、常に千曲が入ったジュークボックスと共に移動しているのだ。

 このハードディスク・ジュークボックスに、いくつものジャンルからそれなりに千曲揃えておけばまずほとんどの場合、事足りる。まあ自分で自分のために揃えているのだから当然といえば当然でもあるが。
 たとえば「『I shot the sheriff』が聞きたい」と思った場合、聞きたいのがクラプトンであり、手元にあるのがレゲエを集めたアルバムの中のボブ・マーリー(こっちが本家だが)だったとしても不満を抱くことはない。『I shot the sheriff』が聴ければいいのだ。私の突発的な欲求とはその程度のものである。

 現在、家のデスクトップでは80Gのハードディスクを假想CD-ROM専用にしているので、そちらの充実ぶりと比べると旅先用の小さなノートは比ぶべくもなく貧弱であるが、そこまで欲張ってもいない。

 いまこの原稿は、雲南省景洪の宿で、深夜、昨日買った二胡のCDを聴きながら書いている。日本でも今「癒しの音楽」として話題のジャンルだ。たいそうゆったりとしていて気分がいい。私は以前から自分流の憩いの音楽としてヴァイオリンを愛好しているが、これはヴァイオリニストなら誰もが指向するのであろう、必ず速いパッセージの情熱的な曲が入っていて、それを必要としないこちらは鼻白んでしまうことがある。その点、二胡は楽器形態がそういう曲に向いていないのか、全編ゆるやかな曲調ばかりでたいへんよろしい。

 これはこちらで買った音楽CDを本体に接続したCD-ROMプレイヤーで聞いている。次回はこれもハードディスクに収められる音楽の候補となるだろう。中国よりも、ロス辺りの喧噪の中で聞くとより効果を発揮しそうだ。

ともあれ、究極のウォークマンが完成してから、私はずいぶんと旅先でくつろげるようになった。前記したように、日常的に音楽がないといられないというほど浸っているわけではないが、音楽がどれほど心を救ってくれるかは、電車の中でもMDだかM-pegだかを手放さない若者よりわかっているつもりだ。だって、そんな若者時代を経て今があるのだから。

 この「究極のウォークマン」というテーマも、後藤さんのホームページに書いている頃から「チェンマイ雑記帳」のネタとして書かねばと思いつつ今まで来てしまった。あの頃から書いていたなら、次第に夢見たモノへ近づいてゆく様が同時進行になり、出来上がってしまってから後追いで書いているこの文章よりもずっと充実したものになったことだろう。悔やまれる。
 それでもなんとかこれを書きあげたことにより、今後の他のネタを書くことが楽になった。

厳密に言うなら、旅におけるカセットテープやMDのウォークマンから完全に足を洗えた(卒業した)わけではない。たとえばまた長距離バスに乗るようなことがあったら、あるいはヨーロッパのユーレイルパスを利用するようなことがあったら、またその出番は来るだろう。雲南のバスの中でパソコンを開くことは出来ない。振動で壊れてしまう。まだまだバッテリーの持ちも悪い。

 ただもうそんなことは極力しないし、私にとっての音楽が、異国の旅先でくつろいだとき、気に入ったものが聴けることと規定するなら、移動ジュークボックスとして、待望の状況が実現したと言えるようなったことは間違いない。差し当たっての問題は、ハードディスクを30Gにして、音楽CDの収録枚数を増やせるようにすることか。

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今年(01)の夏、パソコンで理想のジュークボックスを作り上げた私が、こんなのがもうすぐ出るだろうなあと考えていた「究極のウォークマン」が遂に市販された。意外にもSONYでもpanasonicでもなく東芝からだった。5Gの容量を持つM-pegプレイヤーである。(ハードディスクメイカーと考えると意外ではないのか。)
 これにM-peg音楽を詰め込むと正に究極のウォークマンになる。私がここに書いた「究極のウォークマン」とは、私にとってのソノヨウナモノであるが、この商品はズバリそのまま「究極のウォークマン」である。今後このパターンの製品はぞくぞくと商品化され、音楽を聴くケイタイ再生機とは、この形式の商品を指すようになるだろう。20Gハードディスクを搭載した商品もすぐに発売になるだろうから、音楽好きなら誰でも「ポケットに3000曲」なんて時代がやってきたことになる。

 となると次は著作権の問題になる。パソコンにコピーできない音楽CDも増えてきた。私のこの「私流究極のウォークマン」を実現させてくれたのも、最大の功労者は実は違法コピーCD-ROMなのだった。このことは心に銘記しておかねばなるまい。

(文章内容完成は01/7/2。書き上げたのは02/10/16。景洪の永盛賓館)



《附記》
 
 左の写真は新発売のアップルipod。ハードディスクはなんと20G。あっという間にここまで来た。商品レヴュウでは単純計算で5Mb5分の曲なら4000曲入れられると解説している。まさに究極のウォークマンである。北海道の競馬取材にカセットテープを30本持参していた私が夢見ていたものは正にこれだった……。

  この商品名「ハードディスク搭載デジタルオーディオプレイヤー」は、それこそ究極のウォークマンとして、音楽好き若者のアイテムとして普及して行くだろう。もうここまで来たら完全なジュークボックスである。
 でも、私がこれを買うことはないように思う。つい先日IBMが「2.5インチ80ギガハードディスク」の開発を発表した。発売は来年(03)の一、二月かららしい。私の興味はそれを買ってThinkpadの中に入れ、思いっきり音楽CDやVCDを詰め込むことに向かっている。

「贅沢な時間」というテーマの競演エッセイで、沢木耕太郎さんが「旅先をバスで移動する時間」と書かれていた。私にとっては、それは宿に着くまでの我慢の時間である。早く宿に着き、ふかふかベッドでくつろぎたいと思う。『究極のウォークマン』という小文を書こうと思っていた頃、望んでいたのは、沢木さんと同じようにバスの中から風景を見るときに耳に当てる音楽だった。ところが時が流れ、自分が旅に向いていない人間だと自覚するに従い、欲しい音楽がバスの中で聞くウォークマンではなく、到着した宿で、ゆっくりと風呂に入り、くつろいだ部屋で「スピーカー」から聞く音楽に変化してしまった。



 今昔物語──2010年2月

 ファイルの整理で8年ぶりに通読した。すごいね、まさに「今は昔」。ここまで激変の商品というのは今までなかったろう。あらためて、こんな品物に「そのときの最高級品を買うのはバカ」と思った。自分のことだけど。

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