あの人が死んだ時……__3
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 西村寿行の死



2007/08/26 12:48
社会派ミステリーなどで知られる小説家・西村寿行さん死去 76歳

社会派ミステリーなどで知られる小説家・西村寿行さんが8月23日、自宅で亡くなっていたことがわかった。76歳だった。

FNN Headline


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 23日に亡くなっていたのに記事になったのは28日だった。その記事も「亡くなっていたことがわかった」とは不可解な表現である。変死だったのだろうか。
 西村さんは、いや大ファンだったのだからこそここはいつものようにジュコーと呼ばせてもらおう、ジュコーはたしか、秘書をしていた女性を愛人にして一緒に暮らしていたはずだ。その人と最後までうまく行き看取られたのならいいが、なんとなくこの記事からは寂しい最後のような気がする。もうすこし調べてみよう。

 私は西村寿行の大ファンだった。著作の九割方を購入し、本棚に並べていた作家は筒井康隆と西村寿行だけである。(高島俊男さんは小説家じゃないのですこし意味合いが違う。)
 この十年ほど新作の発表がなく、病気で苦しんでいるとは知っていた。だから覚悟していたことではあるのだが、なんとも残念である。

 近所の図書館には彼の作品がない。「蒼氓の大地滅ぶ」に代表されるようなパニックものは並ぶだけの価値があるだろう。どうも図書館というのは左巻きが多いからか、そっち方面は充実しているが全体として左に傾きすぎている。

 2ちゃんねるのニュース板で、寿行の死を悼む連中が、思いつくままに書き込んでいて癒された。寿行を心から好んでいたことがわかる文章が多かった。何にでも参加したがる的はずれも多かったが(笑)。

 充実したいい人生だったと思う。残念なのは病気療養の晩年の十年の様子がまったくわからないことだ。どこかで追悼特集をやってくれないか。

9/18 長島亜希子さんの死

 18日の午後、日テレのワイドショーで長島亜希子さんが亡くなったと流れた。18日の午前4時頃らしい。おどろいた。まったく予期したことがなかった。まだ64歳である。

 テレビは、亜希子さんが二十年以上前から膠原病を患っていたと報じる。すると入院生活をして重症だったのか?
 そうでもないという。昨日まで日常生活をこなし、まったく健康だったのだそうだ。夕方具合が悪くなり息子の一茂さん(いやカタカナでタレントのカズシゲと書くことにしよう)がクルマで病院まで運んだ。しばらくして平常にもどったとか。それが急変しての明け方の死である。

 いま百科事典で膠原病を調べたが、それでもこの急死の状況が飲み込めない。

 長島が亜希子さんと知り合い婚約発表になったころをよく覚えている。王のときも覚えている。王の奥さんが亡くなったときも胸が痛かった。恭子さんはまだ五十代だった。亜希子さんは東京オリンピックのコンパニオン、恭子さんはいわゆる「多摩川ジャル」である。
 なぜにスーパースターは奥さんに先立たれるのか。同い年でも女の方が長生きだ。まして年下である。アスリートとして活躍してきたひとだからこそ、晩年は糟糠の妻に看取ってもらって旅立つのが理想だろう。長島の気落ちを思うと冷静ではいられない。いい年になって天然の長島がほんとにボケて来たときも、ずっと支えてくれる賢夫人が亜希子さんだと思っていた。まだリハビリ中の長島、これからの火が消えたようになるだろう長島家を思うとなんともつらい。それは妻に先立たれてしまった時の自分を映しての嘆きになる。私はそんなかなしみに耐えられない。

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 前々から昨今の芸能人はなんであんなにフツーなのかと思っていた。中にはモーニング一族のように外見もオツムも並以下のも多い。まあそれが今風なのだろうとも思う。
 いま素人もみなそこそこきれいである。そういう時代には図抜けた美女は嫌われるのだろう。所得構成が正当な逆三角形と日本獨自の中膨れ樽型ではそういう点でも違ってくる。むかしの日本の美男美女は飛び抜けてきれいだった。それは吉永小百合が主演の青春映画をみるとよくわかる。高橋英樹も浜田光男もとびきりの美男だった。いま坂口憲司(この字でよかったか?)が人気のようだが若いときの坂口征二は息子よりも遙かにハンサムだった。(いまショボショボだけど。どうもハンサムは老けるのが早い)。
 私は近年「イケメン」などと紹介される若者を見ると「なんでこれが?」と思う。それは面立ちから中身がわかるようになった今の私の年齢とは関係ない。ごく単純に「なんでこんな粗末な顔がイケメンなの!?」と思う。そんなお粗末なのが多い。

 亜希子さんが亡くなり、婚約当時やカズシゲが生まれた当時のモノクロ映像が流れていた。長島も亜希子さんもすこぶる美男美女である。まったくあの22歳の亜希子さんよりきれいな芸能人がいまいるだろうか。理想の美女である。

 明日のスポーツ紙はこの話題で持ちきりだ。なんともつらいニュースである。
11/26 真部一男八段の死   

真部一男氏=将棋棋士八段

 真部一男氏(まなべ・かずお、本名・池田一男=将棋棋士八段)24日、転移性肝腫瘍(しゅよう)で死去。55歳。告別式は近親者で行い、後日、お別れの会を開く。

 1982年度の早指し選手権で優勝。著書に「升田将棋の世界」など。

(2007年11月25日22時48分  読売新聞)

2007/11/25-16:52 真部一男氏死去(将棋棋士、八段)
 真部 一男氏(まなべ・かずお=将棋棋士、八段)24日午後9時25分、転移性肝腫瘍(しゅよう)のため東京都渋谷区の自宅で死去、55歳。東京都出身。葬儀は近親者のみで行い、後日お別れの会を行う予定。喪主は妹の土佐絹代(とさ・きぬよ)さん。(了)
自宅住所は非公表──時事通信

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 上京し、アパートの隣人の影響で本気で将棋をやるようになる。それまでも駒の動かしかたは知っていたし、子供時代にはそれなりに指していたが、戦法も理論も知らなかった。こういうのは指せるには入らない。

 私の妻は来日してから、PS2のゲームで将棋を覚えた。私は教えていない。相手のやっていることを真似して、自然に駒の動かしかた、と金の作り方等を覚え、何ヶ月かいる内にゲームソフトの弱いレヴェルには勝てるようになっていた。たいしたものだと思う。大学以前の私の将棋実力は、この妻以下である。継ぎ歩や垂れ歩すらも知らなかった。

 隣室の拓殖大学生にいいようにあしらわれるのが悔しく、本気で勉強を始める。入門書を買い、戦術書で学び、いくらか力がついてきたら将棋センターにも出かけた。新宿将棋センターで6級から始めた。

 そのころの大御所は大山、升田、すでに大山から名人を奪取し「将棋界の若き太陽」と呼ばれていたのが中原名人だった。
 その中原の次の名人候補として囁かれていたのが当時四段の真部だった。中原名人と三戦して二勝一敗で勝ち越していると話題になっていた。私は将棋雑誌のそういう騒ぎでこの人の名を覚えた。同い年だった。美男である。

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 天下を取る人というのは同業者にはわかるという。何人もの棋士が真部を名人候補として褒め称えていた。その筆頭が原田八段だった。将棋連盟会長もやり、筆も立ち、会話解説ももうまい原田八段は、「中原自然流」「内藤自在流」「有吉火の玉流」「大内怒濤流」等の命名者でもある。すでに棋士としてはリタイア状態だったが、その発言や感覚は将棋ファンから一目置かれていた。その原田さんが過剰なほど真部に入れ込み、こちらが恥ずかしくなるぐらい褒め立てていた。将棋の打ち上げの席上で、逆立ちして室内を一周し、芸者衆からやんやの喝采を浴びた、なんてこともエッセイで紹介していた。原田八段としては非力な将棋指しではなく、文武両道腕力もあると言いたいのだろう。毎月の随筆に真部讚歌が目立った。

 しかしその根拠が何かとなったら、たしかに中原名人に勝ち越したりしていたが、結局はルックスだったのではないかと思えた。当時から。
 とにかく真部は眉目秀麗な美男だった。もしも彼が名人になったら芸能人的な人気も獲得しただろう。地味で若者に人気のない将棋界は常にそんな話題性を願っていたから、真部はかっこうのスター候補だったことになる。

 当時やっと三級から二級の実力がついてきた私には、次のスター候補として大々的に扱われている真部が、どうにもそこまでの大物とは思えなかった。三級程度とはいえいま一応三段ある私より当時の私のほうが遙かに将棋情報には詳しい。砂地に水の状態であらゆるものを吸いまくっていた時代だ。田舎の将棋好き好々爺のような今とは違う。
 多くの人が賞賛し、期待するので、真部が次の名人なのかと思う。そう思う一方で、私には真部がどうしてもそれほどの大物とは思えなかった。美男人気が先行しているように思えてならなかった。
 経歴を追えば、二十四で名人になる中原が、いかにすごい記録であがってきたかが解る。また棋譜を追えば、名人挑戦のとき、大山に対して振り飛車を採用したり、とんでもない人であることが解る。このころから穏和な人柄と容貌から原田八段は「いつの間にか勝っている中原自然流」と名つけたが、中原将棋はかなり強引な面もある攻撃将棋だと言われていた。

 その中原さんを倒すほどの凄みを私は真部にまったく感じなかった。ただ、その中原を倒すべき米長や内藤は中原よりも年上だったし(これは彼らが遅かったというわけではない。あまりに中原が凄すぎたのだ)、まだ三十の中原は充分に若くスターだったが、その中原を倒す若手として、真部が注目を浴びた気持ちはよくわかる。そういう流れの話は大好きだから、私も真部に期待した。それでも常に、「そんなに大物かなあ」とは思っていた。

 升田の石田流が有名だが、優れた棋士は何か獨自の戦法を考案したり改良したりしてわくわくさせてくれる。真部にはそれもなかったし、次の名人候補と騒がれる割りに棋譜的には注目を浴びるものもなかった。

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 私の懸念は的中する。そのご真部は伸び悩んだ。名人どころかタイトルひとつとれなかった。話題になったのは、草柳大蔵の娘でミス東京だった草柳文恵との結婚、離婚。江戸時代の名棋士天野宗歩の役での「銭形平次」への出演。埼玉の市議会議員で遙か年上のオザワリョウコとの同棲。そんなことばかりだった。
 一応A級八段までは昇ったがそこが限界。かつての名人候補の面影はもうなかった。

 数年前、大相撲で隆の若が話題になっているとき、真部のことを思い出した。隆の若は横綱大関候補として注目されていた。江戸時代の美男力士のようなルックス。身長もあり理想的な体型。夜遊びにも出かけず稽古ばかりしている相撲道への姿勢。なにをとっても満点だった。誰もが絶賛していた。私も期待した。大関はかたいと思った。だが熱心に観ていると、相撲内容から大物感は感じなかった。やがてケガが続いたこともあり、隆の若は幕下まで陥落し、引退となる。最高位は関脇だった。
 
 容姿のいいことから過剰な期待を集めてしまう人を見ると、私はいつも真部のことを思い出した。

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 真部が八段になり、まだ名人候補の期待が残っていたころ、ひとりの四段が誕生した。加藤一二三以来史上二人目の中学生棋士、谷川浩司である。将棋を観て思った。「中原さんを倒すのはこの少年だ」と。そこには真部将棋では感じなかった天才の閃きがあふれていた、「光速の寄せ」の登場は鮮烈だった。

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<訃報>真部一男八段が逝去/平成19年11月24日付で九段を追贈

 真部一男八段(55歳)が、平成19年11月24日(土)、転移性肝腫瘍のため死去いたしました。

 現役のまま死去いたしました(故)真部一男八段には、平成19年11月24日付で九段を追贈することとなりました。


・真部一男九段プロフィール(棋士番号111)

生年月日 1952年2月16日
出身地 東京都荒川区
師匠 (故)加藤治郎名誉九段
竜王戦-4組
順位戦-C級2組(A級-2期)
昇段履歴
  1965年 6級
  1967年 初段
  1973年4月1日 四段
  1976年4月1日 五段
  1978年4月1日 六段
  1980年4月1日 七段
  1988年4月1日 八段
  2007年11月24日 逝去
  2007年11月24日 九段

優勝履歴
  早指し選手権 1回(第16回-1982年度)
  優勝合計 1回

将棋大賞
  第2回(1974年度) 新人賞
  第4回(1994年度) 敢闘賞

その他表彰
  1997年 現役勤続25年




 日本将棋連盟のサイトからコピー。さすがに本家なので詳しくて助かる。そうだ、彼は私の大好きな加藤次郎先生の弟子だったのだ。忘れていた。「将棋は歩から」は名著である。

 年譜を見ると、四段になったのが二十一歳。早い。前途洋々のころである。二十八歳で七段。B1である。すこしブレーキがかかったとはいえまだ期待されていたろう。だがここから苦しむ。B1が最も突破しにくい「鬼の棲み家」と言われた時代だ。だが名人候補と呼ばれる棋士は軽々とここを突破して行く。しかし真部はそれが出来なかった。じつに八年もここで足止めをくう。88年にやっと名人挑戦リーグのA級に昇る。そのとき三十六歳。いま、知力、体力の最も充実する棋士の最強の時期は二十代半ばと言われている。とうに峠は越えていた。社会人ならこれからが充実期である。棋士が一般人よりもスポーツ選手に近いことがよくわかる。

 それでもまだ大器晩成の期待をかける人もいたが、A級にたどりつくことで燃え尽きたかのように、ここまでが精一杯だった。その後は、いきなり入玉を目指したり、奇妙な戦法が目立った。近年は『将棋世界』で筆を振るっている。
 これで思い出すのは芹沢だろう。二十四歳でA級に昇り、名人候補だった芹沢は、ある日自分の限界を知る。自分は名人には成れないんだと悟ったとき、芹沢は号泣したとヤマグチヒトミが書いている。その後の芹沢は自分を並の八段「ナミハチ」と称し、「ナミハチの戯言」に代表される随筆やテレビ出演、また「負けても対局料が出るのはおかしい」と連盟の規定に反発して、全戦負け続けるとかの奇行で話題となった。酒に溺れ早世している。
 真部も酒とタバコを好み無頼派として生きた。名人と期待され、挫折した人の闇はその人にしかわからない。

 将棋を好む限り私は真部一男の名を忘れない。他分野でも、隆の若のように真部のことを思い浮かべる人もまたいることだろう。
 あちらには師匠の加藤先生もいる。いつも「拍手、拍手」と讃えてくれた原田先生もいる。飲んべえの芹沢もいる。今頃みんなに来るのが早すぎると怒られていることだろう。合掌。



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