あの人が死んだ時……−2

   

柳昇師匠の死──2003/8/3

 石原慎太郎のことを「今は同じ事をしても世界中にたったひとりしかいない東京都知事であるから」と書いていたら、柳昇師匠の、「おおきなことを言うようですが、今や春風亭柳昇 と言えば、世界中でわたしひとりしかいないわけでして」の有名なマエフリを思い出した。柳昇師匠もトロンボーンだったな、J.Jよりはだいぶ落ちるが。ってこらこら比べるな。トロンボーン漫談はおもしろかった。

 人の死というのは、直面すると生前の感覚と違っていておどろく。ぼく自身、馬場の死にあんなにうろたえて涙を流すとは思わなかった。柳昇師匠の死もそうだ。ずいぶんと文章量だけは豊富なこのホームページだが、芸能人の死でとりあげられているものはほとんどない。もっともっと有名な人の死や大きな芸能事件もあるが登場していない。開設時期の関係から書いてないが海老一染太郎師匠の死もそうだった。子供の頃から見てきたああいうものは、自分が生きているあいだずっと続くと思いこんでいた。元旦のフジテレビ「初笑いウルトラ寄席」で「おめでとうございま〜す」と小学生の時から毎年見てきた思い出は大きい。兄さんが亡くなり、弟さんだけをヴァラエティ番組やCMで見かけたりすると、よけいにさびしくなる。

 こんな言いかたは不謹慎だが、現在活躍中の大名跡の大御所が亡くなっても、ぼくがここに書くことはまずあるまい。だからこそ柳昇師匠のことを書いた自分に自分でおどろいた。それだけ好きな人だった。


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小林千登勢さん死去(2003/11/27)

 朝、アップの際にインターネットのニュースで知る。子供のころからNHKで見てきた人だった。それこそテレビ創世記に活躍した人になる。成人してからは出演作を見ることもなく遠い人だった。それが、11月の文化の日の前後に、田舎の芸術祭があり、今年の講演者として町にやってきたのだ。それで急に身近な人のように感じていた。ぼくは講演を聞いていない。会場まで父母を送迎しただけだ。
 こういうのには町の予算があり、例年それは違うという。景気のいいころはかなりの額を計上していたが、次第に町民もたいして聞きに来ないし、もったいないのではないかと近年は減少傾向にあったようだ。今年は80万円で、何人かの候補者に連絡したが、みな100万円以上を要求して決裂したとか。小林さんがいまどんな番組に出演しているのか知らないが、こんな田舎町に安い講演料(といっても1時間しゃべって80万円はわるくない)で来たのだからあまり旬の人ではなかったろう。
 つい先日の来町がなかったら、子供時代から親しんできた人だから突然の死におどろきはしたろうが、ここに書くことはなかった。階下に行き、まだ休んでいる父母に告げる。こちらはつい先日目の前で見てきたばかりだからおどろいていた。
 悲しみにくれる旦那さんの写真が載っていた。むかし漫才のぼんちが「そーなんですよ、川崎さん」と真似て話題になったレポーターの山本さんがご主人である。あの後ぼんちはチカダハルオが盗作して作った曲(というかあの人は盗作でなきゃ作れない)、なんというタイトルだっけ「恋のなんとか」、「♪A地点からB地点まで」ってそのまんまの歌詞。それで武道館コンサートをやっんだから奇妙な時代だった。

附記・午後のワイドショーを見たら「『おしん』の名演技で有名な」とテロップが出ていた。おしんなんて見たことがないから知らない。アジア各国やアラブ各国の人も知っている有名テレビ番組らしい。それが小林さんの役者としての存在を伝える最も有効な方法なのだろうか。
 「闘病中だった」という。長年病魔と闘っていたのだろうか。ぼくの田舎に来たときも闘病中だったのだろうか。どうも情報が半端でわからない。
 脚本家の市川森一が出ていて「NHK三人娘」と言ったので当時を思い出した。ぼくは小学生だった。三人娘のひとりは横山道代、もうひとりは誰だ、水谷八重子? 黒柳徹子だっけ? あとで時間があったら調べてみよう。ご冥福をお祈りします。

附記2・ネットで調べた。
 この日、都内の自宅前で取材に応じた夫の山本によると、小林さんは、6年前にぜんそくの治療のため訪れた病院で血液検査を受けて、骨髄腫の疑いがあると告げられた。それから3年後、多発性骨髄腫と正式に診断された。病名は小林さんにも告げられていた。新薬の投与など治療も続けたが、今年8月下旬に主治医から「餘命1年」と告げられた。小林さんは「できる限り仕事がしたい」と話し、10月は治療に専念したものの、11月3日には病院から講演先に駆けつけるなど、仕事をこなしていた。(ニッカンスポーツより)

 無理をして駆けつけたぼくの田舎町での講演が最後の仕事になったようだ。

附記3・ネットで調べた。
 《馬渕晴子さん、冨士真奈美さんとともに「NHK三人娘」としてテレビ草創期のスターとなった。》
 ひとりも当たっていない。お恥ずかしい。

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 横山光輝さんの死──2004/4/14

 漫画月刊誌『少年』の「鉄人28号」から『少年サンデー』の「伊賀の影丸」と愛読してきた大好きな漫画家である。近年は「三国志」等歴史物分野で活躍していた。
 自宅が火事になったそうなのである。しかしヘリコプタからの写真では家は燃えていない。寝室が燃えただけなのだそうな。なのに横山さんは全身やけどとか。重体と報じられていたが間もなく亡くなったと知る。寝たばこが原因とも言われている。69歳。まさかこんな形でまだ筆の握れる状態で亡くなるとは残念でならない。
 『少年』時代、ぼくは「鉄腕アトム」よりもずっと「鉄人」のほうが好きだった。漫画本「鉄人28号」の単行本はぼくが初めて買った単行本になる。またあらためて鉄人の思い出を書こう。横山先生、ご冥福をお祈りします。


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 鷺沢萌 自殺──2004年
 東京目黒区の自宅で11日未明に死亡した作家の鷺沢萌(さぎさわ・めぐむ)(本名・松尾めぐみさん、35歳)は、自殺だったことが15日警視庁の調べでわかった。産經新聞15日版より

 鷺沢の死に関するいくつかの文章を読み、その実態をかいま見ても、彼女の選んだ人生だからと納得していた。
 きょう『週刊新潮』を読んだら愛犬の話が出ていて、思わずホロリとしてしまった。その愛犬は捨て犬だったそうで、鷺沢にかわいがられていても常に過去の捨てられたときの恐怖を覚えていたという。街に出て、その辺のコンクリート土台つきの看板に繋いで買い物に行こうとすると、また捨てられると思うのか、まさに鳴き声ならぬ悲壮なまでの泣き声をあげてその土台を引きずってもついてこようとしたとか。今週号にそういう過去の「作家と愛犬の話」がプレイバックされていた。

 自宅で発作的な首つり自殺をした彼女は、二日後に電話が通じないことを不審に思った恋人に発見された。この「恋人」というのも新潮の文で知った。新聞等の報道では(当然のことであるが)「知人」とされていた。二日間、その犬は死体にずっとつきそっていた。飲まず食わずだったことになる。なんとも愛おしい。かってに先に逝ってしまった飼い主に、これはこれでまた捨てられたことになるのか。生前に撮った犬との写真がなんともたまらなかった。子供と動物の死ぬ映画は見ないは私の決め事である。

 三十五年と短かったけれど中身の濃いいい人生だったと思う。子供のころの田園調布生活。破綻してからの自力での日々。いわゆる「きょうできることを明日にのばすな」の感覚で、毎日毎日寸暇を惜しんで懸命に生きていた人のようだ。きょうできることを来年中には何とか、と思っているぼくとはだいぶ違う。不安になる時間を避けようと日々の予定をびっしり埋め尽くしても、ほんのすこしの隙間に悪魔は入り込んできて、死をささやく。その夜にささやかれた死の誘惑を彼女はことわりきれなかった。美人で酒豪、きっぷもよく、細かな心遣いも出来ると評判のいい人だった。仕事も順調、恋人もいた。すべてが張りつめた糸だったから切れやすかったということか。今度こそほんとにのんびりできるだろう。やすらかに。

【附記】
 西原理恵子はたしか彼女の麻雀仲間だった。彼女の弔文を読んでみたい。


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朱里エイコさん死去

2004年7月31日
ヒット曲「北国行きで」で知られる歌手朱里エイコさん(しゅり・えいこ=本名田辺栄子=たなべ・えいこ)が、虚血性心不全のため東京都足立区の自宅で死去、58歳。東京都出身。葬儀・告別式の日取り、喪主などは未定。
 7月31日、同居の男性が死亡しているのを発見した。死亡日時は同日午前とみられるという。
 朱里さんは16歳で渡米し、歌手修業。帰国後の72年「北国−」が大ヒット。脚線美で人気を集めた。母は有名なダンサーで振付師の朱里みさをさん。近年は目立った音楽活動はなかったが、昨年テレビ番組に出演した。(ニッカンスボーツより)



 かわいらしかったアイドルがむかしの面影もなく出てきて話題になった例は近年ではなんと言っても天知真理になる。熱心なファンにはたまらなかったろう。でも彼女はそのボケぶりとおばさんキャラをいつしかプラスに転用していた。

 天知真理の不細工なおばさんへの変身には私も愕いたが、この亡くなる数ヶ月前に見た朱里エイコの変わり様はその比ではなかった。
 ヴァラエティ特番の1コーナーだったろうか、とにかく朱里エイコが出てくることになった。「なつかしいなあ、『北国行きで』か」と楽しみに思った。好きな歌である。

 司会に紹介され、太ってむくんだものすごく不細工なおばさんが出てきた。黒っぽい衣装で体を隠している。ロングスカートで足首だけ出ていた。私はそれをよくある「お笑い芸人の物まね」だと思った。もちろん男である。そうして下手な歌の、いわゆるズッコケがあり、そのあとに当時と同じ美脚のまま朱里エイコが派手派手に現れるのだ。そりゃ顔はおばさんだろうが、きっと唯一の売り物だった美脚は未だ健在なのであろう。奥村チヨとか中尾ミエとか、その辺を期待していた。
 ところがその醜いむくんだおばさんは、なんと本人だったのである。あっけにとられた。天知真理は太って、もたもたしたおばさんになってもまだ当時の面影を残していたし、いわば苦笑レヴェルだった。実際上手にヴァラエティ番組でさんま等にいじってもらい、むしろおいしい思いをしている。むかしからあんな顔だったしスタイルも良くなかった。天知真理の変身は想像の範囲内である。

 朱里エイコはもともと顔は美人ではない。歌唱力と美脚を売りにした。超ミニスカートから見えるヴォリュームたっぷりの美脚は魅力的だった。天知真理のように笑える場合はまだいい。私は「まさか……。」と絶句してテレビから目をそらした。正視に耐えなかった。あまりに無惨である。当時彼女の熱烈なファンだった人、何万人が街で出会っても、それが朱里エイコだとはわからないであろう。これほど無惨なものは見たことがない。

 死因は心臓病ということだが、腎臓等も悪かったと思う。とにかく不健康な病人だった。このことをきっかけにディナー賞を計画したというが果たして誰が行くのか。
 そのとき歌った「北国行きで」がどの程度の歌唱だったのか記憶にない。あまりのショックになにも覚えていない。

 訃報に関する話だからなにかまともなことを書かないと落ちが付かないのだが、とにかくテレビで見た彼女の姿はショックだった。病人なのはわかっていたからそれからしばらく後の死も予測できたものだった。
 あのテレビを見なかったら彼女は私の中でセクシーな上揚ジャケット写真のままだった。テレビに出たことはよかったのかわるかったのか。容貌の衰えは彼女自身がわかっており、だからこそ今までどんなに懐メロ番組に誘われても出なかったのだろう。あのとき出たのは食うに困り、どんな形でも再起の道を歩もうと思ったのではないか。

「北国行きで」は好きな歌だったがこのときのテレビを見なければ彼女の死をここに書くことはなかった。



 植木等と所と志村

映画「無責任」シリーズなどで知られ、歌手としても活躍した日本を代表するコメディアンの植木等(うえき・ひとし)さんが27日午前10時41分、呼吸不全のため東京都内の病院で死去した。80歳。三重県出身。葬儀・告別式は近親者のみで行う。後日、お別れの会などを開く予定。

57年から「クレージーキャッツ」のメンバーとして活動。61年に青島幸男さん作詞の「スーダラ節」が大ヒットし国民的人気者に。翌年の「ニッポン無責任時代」に始まる映画「無責任」シリーズで、日本中にブームを巻き起こした。テレビのバラエティー番組「シャボン玉ホリデー」では「お呼びでない」など多くの流行語を生んだ。

歌手としては「スーダラ節」のほかに「五万節」「ハイそれまでョ」などのヒットがある。93年に紫綬褒章、99年に勲4等旭日小綬章。

植木さんは今年1月、食欲不振を訴え、都内の病院に入院。今月8日には一時自宅にもどったものの、翌9日に再入院。今月中旬には病状が悪化し、この日、妻登美子さんと娘3人にみとられて、静かに息を引き取った。
[2007年3月27日22時0分]


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 クレイジーキャッツのメンバーが亡くなってゆくのは、身を切られるようにつらい。自分を支えている大地の足が崩れ落ちてゆくような気がする。そういう時が来ることはわかっていたが……。

 植木さんは生真面目な人だった。「無責任男」を演じることにはだいぶ悩んだようだが、一連のあれも不思議なほど透明感があり、サッパリしている。だからこそ受けたのだろうし、その後のしんねりねっとりの時代には受け入れられなかった。昭和三十年代の華である。

 植木さんのフォロワー(?)として最も熱心だったのは志村けんだろう。「だいじょうぶだあ」では「ほんじゃらげ」にふりつけをして踊っていた。
 だけど植木さんが気に入ってかわいがったのは志村ではなく所ジョージだった。これは興味深い。生真面目な植木さんにとって志村のシモネタはとても許容できるものではなかったろう。一方、所ジョージという人は不思議なほど生臭いにおいがしない。彼の乾いた清潔感が植木さんや黒澤明に気に入られたのはよくわかる感覚である。

 ところで志村もまた現実に接した人は、あれほどかっこいい人はいないと誰もが絶賛する。それは現実的な生臭さを全部コントに吐き出してしまうからかもしれない。とにかく現実の志村は清潔でかっこいい人らしい。

 だけど彼のシモネタコントは、「だいじょうぶだあ」を全部録画し、今はDVDに焼いて保持しているファンの私ですらひいてしまうのだから、植木さんのような高潔なかたが認めるはずがなかった。彼のシモネタはエロとともに糞尿もある。こどもには受ける。こどもはウンチオシッコチンチンが大好きだ。ことばのわからない外人に受けるのも理解できる。シモネタは世界共通である。外人の好きなコメディアンではダントツらしい。

 植木さんの訃報を聞きながら、そんなことを考えた。
 というのは、信じがたいことだが、植木さんが生真面目でストイックなかたであることを未だに知らない人がいるのである。しかも私と同年代に!
 彼の演じた役そのままに、無責任なやつ、いいかげんなやつを植木等のようだと本気で口にする人がいることにおどろいた。

 まあ言うまでもないことだが、そういう人はその他のことに関してもなにひとつまともではないので、どうでもいいことではある。たしかな観察眼を持った人がこの件に関してだけ勘違いをしている、なんてことはあるはずもない。
 それでも、ほんの少数ではあれ、いまだにそんな人がいることにはおどろいたものだった。

 丹波哲郎の死 2006年9月24日

俳優丹波哲郎さんが死去 刑事、ボス役で存在感
 映画「砂の器」の刑事役やギャングのボス役で存在感を示し、国際的にも活躍した俳優の丹波哲郎(たんば・てつろう、本名正三郎=しょうざぶろう)さんが24日午後11時27分、肺炎のため東京都三鷹市の病院で死去した。84歳。東京都出身。葬儀・告別式は30日正午から東京都港区南青山二ノ三三ノ二〇、青山葬儀所で。喪主は長男の俳優義隆(よしたか)氏。
 劇団文化座などを経て1952年に「殺人容疑者」で映画デビュー。以後、ギャングのボスややくざの兄貴分といった役どころで異彩を放った。
 人を食ったような豪快な演技が持ち味で、60年代には米映画「太陽にかける橋」への出演をはじめ、「007は二度死ぬ」でショーン・コネリーと共演するなど、国際的にも知名度を高めた。
 「暗殺」で非業の最期を遂げる幕末浪人役、「砂の器」で殺人犯を追いつめる刑事役などで陰影ある演技を見せ、「不毛地帯」「二百三高地」「たそがれ清兵衛」など、日本映画の大作や話題作に多数出演した。
 テレビでも草創期から活躍し、時代劇「丹下左膳」「三匹の侍」などに主演したほか、アクションドラマ「キイハンター」「Gメン75」のボス役などで人気を得た。
 霊界研究家を自称し、心霊関係の著者は多数。映画「大霊界」シリーズの総監督も務めた。(ニッカンスポーツより)


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 丹波さんは好き放題のことを言いつつ、いつまでも若々しく百まで生きると思っていた。それが昨年、信じがたいほど痩せた姿を見て死期の近いのを知った。頬が痩け見まちがうほどだった。映画の封切りかなにかの舞台挨拶に現れたのだった。あれは多くの丹波ファンのために見せてはならない姿だったのではないか。それともあれもまた彼らしいと言うのか。
 どんな豪放磊落な人も死んじゃうんだなと感じた瞬間だった。豪放磊落とはいえ勝新のような人は早死にのイメージだ。丹波さんは長生きと思っていた。八十四歳だから男としては長生きかも知れないが私には早死にに思えた。
 羽田健太郎さんの死──2007年6月2日

        あるいはタケダテツヤ論

 テレビ番組「題名のない音楽会21」の司会などで親しまれた人気ピアニストで作曲家の羽田健太郎さんが2日深夜、肝細胞がんのため死去した。58歳。4月に体調が悪化、「題名のない−」の出演を見合わせ、休養していた。桐朋学園大を卒業後、フリーのスタジオミュージシャンになり、クラシックから映画、CM音楽まで幅広く作曲、演奏。「渡る世間は鬼ばかり」などの音楽を手掛け、編曲家としても活躍。

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「題名のない音楽会」は黛敏郎の番組だった。民族派の黛さんがテレ朝であんな番組をやっていたのだからおもしろい。エイロクスケやノサカアキユキがゲストの常連だったのもわらえる。

メイン司会者──Wikipediaより

  • 初代:黛敏郎−1964.8.1〜1997.4.27(※1997.4.10に逝去)
  • 2代:永六輔−1997.5.4〜1997.9.28
  • 3代:武田鉄矢−1997.10.5〜2000.3.26
  • 4代:羽田健太郎−2000.4.2〜(※2007.6.2に逝去)

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 黛さんが亡くなり、エイロクスケのワンポイントリリーフのあと、タケダテツヤが司会になる。最悪だった。見るのが辛く、見なくなった。

 私はタケダテツヤの信奉者ではないが毛嫌いしているわけでもない。ただ金曜日の八時はいつもプロレスを見ていたので金八先生は見ていない。いやもしも時間がぶつからなくても見なかった。あの女脚本家の左捲きシナリオは大嫌いである。ああいうバカが「おまえたちは腐ったミカンじゃない」などと言い、それを支持する連中が学校をおかしくした。いつでもどこにでもまわりを腐らせて行く腐れミカンは存在する。一刻も早く取りのぞき被害を最小限にくいとめねばならない。ああいう脚本家は人権派と同じ害毒である。

 とまあタケダテツヤは好きではないのだが彼が努力して開拓している分野は、それはそれでいいのではないかと評価している。たとえば「醜男が努力して美人を娶る路線」のようなものだ。もちろんリアルタイムで見ているはずもないが、なぜか中国で放送されていて、あの有名なトラックの前に飛び出して「ぼくはしにましぇん」とかいう場面もあちらで見た。あれはあれでひとつの「夢」だからいいだろう。楽しみに見た人も多いだろうし(笑)。

 だから「題名のない音楽会」の司会者にどうしようもなく不向きな彼が決定したとき、私はもしかしたら化けるかも、と思った。彼がではない。番組がである。
 あの番組の内容をひとことで言えば、「音楽の奥深い魅力をわかりやすく敷延すること」であろう。目的は「誰にも」である。しかし現実にはかなりの好事家のみが楽しめる高水準だった。もともと音楽とはそんなものである。いま「のだめ」の影響でクラシックブームだという。いいことだ。ブームだからと近寄って勉強することにより、ブーム後も残る人も微少はいるはずである。それがブームの唯一の美点だ。きっかけはなんでもいい。間口は広い方がいい。

「題名のない音楽会」に音楽的素養のないタケダテツヤが絡み、そのことでこの番組を敬遠していた人が近づき、そこから音楽好きが生まれるならよいことだと思った。つまり今現在の「のだめ」効果を、「タケダテツヤ効果」として期待したわけである。
 いわばやたら気取ったフランス料理を九州の田舎者が手づかみで食べることにより違う魅力を引き出せるのではと思ったのだ。

 それは制作側も同じだったろう。黛の番組だった。黛と同水準の人を起用せねばならない。かといってなかなかいない。小型黛では意味がない。あれこれ悩んだ末、奇策としてタケダの名が出た。どうせなら黛とはまったく反対の路線をとったみたらどうだ、と。
 タケダも悩んだろう。音楽の基礎教養がまったくない。恥をかくことは目に見えている。だが制作者側の「たしかにタケダさんは恥をかくでしょう。でもタケダさんと一緒に恥をかく視聴者が大勢います。そういうかたを惹きつけ、一緒に成長してほしいんです」なんてえ口説きに負けた。いや彼自身、これをステップにして、音楽人としての自分を飛躍させたいと願った。決断である。

 だがだめだった。残念ながらまったくだめだった。音楽家でない人がどんなに努力してもどうにもならない世界だった。タケダテツヤと同水準のガマガエルである私は、タケダテツヤという鏡を見て脂汗を流した。正視できなかった。

 上記の司会者履歴を見るとそれでも二年半担当している。黛の番組を好んでいた人たちからは、「あのタケダという田舎者司会者を代えろ!」という抗議が相当あったろう。見ていて私ですら苦笑する場面も多かったし、懸命に番組にとけ込もうとするタケダは痛々しかった。私はきっとおもしろくないから見なくなったのではない。同じ田舎者、同じ無教養のタケダが苦しむのを見ているのがつらくなったからやめたのだ。

 次々と新境地を開拓してきたタケダテツヤにとっても、数少ない歯が立たなかったジャンルになろう。でもそれはタケダが悪いのではない。ミスキャストだ。所詮無理だったのだ。誰も黛敏郎の後釜にはなれない。それが私の結論だった。
 そうして私は「題名のない音楽会」を見なくなった。

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 日曜午前中は私にとって一週間の中で最も熱心にテレビを見る時間である。以前は早朝五時台の「早指し将棋選手権」から始まったが残念ながらそれは終ってしまった。
「報道2001」から始まり、「題名のない音楽会」の始まる九時からはNHKの「日曜討論」に行くようになっていた。しかしこれおもしろくない(笑)。十時からは「サンデープロジェクト」。同時間の将棋NHK杯は録画する。
 そういう生活の中、ある日「日曜討論」がつまらなくてチャンネルを回していてハネケンさんの司会に出会った。2003年ぐらいか。めちゃくちゃおもしろかった。芸大出身のゲイ、青島先生が出てきたころか。クラシックピアニストの青島先生にハネケンがジャズのフィーリングを教える、いかに崩してジャジーにするか、というようなテーマが二人の弾くピアノで雄弁に語られていた。タケダテツヤでは決して出来ないことである。ハネケンさんのオールマイティな部分、悪くいうとコマーシャリズムの部分が最高によい形で発揮されていた。以降、可能な限り見るようになる。また日曜の楽しみがひとつ増えた。

 タケダテツヤで見なくなって二年半、さらに三年も気づかなかったことになる。まあ外国巡りが多くて日本にいなかったこともある。それに競馬の季節は朝早くから競馬場に出かけるからいつもいつも日曜はテレビを見ているわけでもない。とにかく五年の空白をおいて私はまた「題名のない音楽会」を見るようになったのだった。

「題名のない音楽会」のメインテーマはクラシックである。クラシックとその他の音楽のコラボが楽しい。ハネケンはクラシック出身ではあるがジャズも歌謡曲もこなしていた。沢田研二の「勝手にしやがれ」のイントロはハネケンである。
 クラシックの人間が脱線(したふり)して庶民を語ってもつまらない。庶民をわかっている人がクラシックを解説するからこそわかりやすい。ハネケンはまさに適任だった。
 クラシック、ジャズ、歌謡曲、ジャンルを超えて自由に飛び跳ね、ハネケンさんは音楽のすばらしさを教えてくれた。

 そしてハネケンさんは五十八歳という若さで逝ってしまった……。

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 次の司会者、いや進行役、メインスターは誰になるのだろう。そう、ハネケンさんは司会者じゃなかった。メインスターだった。だからおもしろかった。

 二週にわたって追悼番組だったが来週から本来の形にもどるらしい。予告では宮川さんの名前が出ていた。あのかたになるのだろうか。お父さんは亡くなって息子さんのほうである。
 お父さん、宮川泰さんとハネケンの絡みも最高だった。みんないなくなって行く。でも宮川さんはザ・ピーナッツの作品を始め名曲が数多く残っている。一般的には「宇宙戦艦ヤマト」か。関西のG汽侫.鵐侫 璽譴盖楡遒気鵑澄
 そういえば宮川さんのこともここに記すべきなのに失礼してしまった。『作業日誌』には書いたのだけれど。すみません。

 今後どなたが跡を継いだとしてもあの番組はうまくゆくだろう。えっ、意外でした? 偉大なハネケンさんがいなくなってしまったから、誰がやっても失敗するって書くと思いましたか?
 いや成功します。というのは「どういうふうにやればうまく行くか」をハネケンさんが実証したからです。方法が確立したわけです。教科書が出来たのだから楽です。ただしそれは誰でも出来ることではないから、ハネケンさんに匹敵する人を見つけられなかったら失敗します。私はハネケンさんの偉大さは、この方法論を確立したことにあり、ハネケンさんの「ようなこと」を出来る人は、けっこういるのではないかと思っています。いや、青島先生とあんなふうに遊べる人は、そうはいないのかな。

 ハネケンさん、やすらかに。

     
 谷幹一さんの死──2007/6/25

 舞台やテレビ時代劇などで名脇役として活躍した俳優でコメディアンの谷幹一(たに・かんいち、本名西村昌明=にしむら・まさあき)さんが25日午後2時28分、脳出血のため都内の病院で死去した。74歳だった。東京都出身。浅草で出会った渥美清さん、関敬六さん(いずれも故人)とのトリオで「スリーポケッツ」を結成し、人気を集めた。腎不全と闘いながら、今年2月まで舞台に出演していた。

 古き良き時代の浅草を知る名バイプレーヤーが静かに息を引き取った。

 関係者によると、谷さんは24日夜、自宅居間で大ファンだった巨人戦の中継を見ている最中に倒れた。隣の部屋にいたたま子夫人が気づき、すぐに救急車で病院に搬送したが、25日、夫人にみとられて亡くなった。

 1950年に高校を中退して新宿のムーラン・ ルージュに研究生として入団。翌年にムーランが閉鎖したため、地方巡業などを経て52年5月に浅草フランス座にコメディアンとして入った。ここで出会った のが、渥美さんと関さん。59年に「スリーポケッツ」というトリオを結成し人気者になった。首をかしげ、ニュッと目をむくポーズがトレードマークだった。

 その前年の58年にはテレビにも進出し、「月光仮面」におっちょこちょいの助手・五郎八役で出演。その後も「細腕繁盛記」や「江戸を斬る」などのドラマなどで名脇役として活躍した。先にテレビ進出した谷さんがプロデューサーに渥美さんを推薦し、ドラマ版の「男はつらいよ」が生まれたというエピソードも残っている。

 浅草仲間の渥美さんが96年8月に、そして関さんも昨年8月に他界。「おれもじきに行くからな」が口ぐせだった。きっと今ごろは天国で再会を果たしているに違いない。


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 渥美さんが亡くなったときも関さんが亡くなったときもこの欄に取り上げなかった。それは最期のひとりが亡くなったとき、時代の終りとして書こうと思ったからだ。つらいことの先送りである。
 三人の中でいちばん思い出深いのはもちろん渥美さんである。映画「男はつらいよ」は全作見ているが、それ以前のテレビ版「男はつらいよ」や「泣いてたまるか」、棟方志功夫婦を中村玉緒と演じた「おもろい夫婦」が強烈だった。作品の強烈さというのはそれに接したこちらの年代なのだと痛感する。とはいえそれらはいまでもすぐれた作品だろう。

 谷さんは「月光仮面」のころから脇役としての印象しかない。関さんも同じく。それでもこども時代から馴染んだ人たちであり、その人たちがいてくれれば自分もまたこどものままでいられると信じていた。
 時代の終りを記すのはつらいものだ。ずっと書くことをごまかしていたが、とうとうそのときが来てしまった。

 由利徹と佐山俊二のコントも好きだったなあ。こども時代に好きだった人がいなくなってゆくのは寂しいものである。

先代佐渡ケ嶽親方の死(07/8/14)


【大相撲】名横綱、名伯楽の琴桜が多臓器不全のため死去


http://sumo.goo.ne.jp/kiroku_daicho/mei_yokozuna/kotozakura.html

 大相撲の第53代横綱琴桜で先代佐渡ケ嶽親方の鎌谷紀雄さんが14日午後6時19分、敗血症による多臓器不全のため千葉県松戸市の千葉西総合病院で死去した。66歳だった。頭からぶちかます取り口で「猛牛」の異名を取り、32歳で横綱に昇進した努力の人。引退後は親方として大関琴風、琴欧洲、琴光喜らを育て、名伯楽としても知られた。平成17年に定年退職したが、先月25日に琴光喜の大関昇進を見届けて、天国へと旅立った。

 「名横綱」「名伯楽」として大相撲史に名を残した鎌谷さんが、逝った。先月25日に愛知・一宮市で行われた琴光喜の大関昇進伝達式を見届け、「自分が大関になったときよりうれしい」と目を潤ませてから、わずか20日後の訃報。体調を崩して9日に入院し、腹部の痛みを訴えたため14日午前に手術を受けた。手術は成功したがその後に容体が急変し、娘婿の佐渡ケ嶽親方(元関脇琴ノ若)ら家族に看取られて、帰らぬ人になった。

 以前から糖尿病に苦しんで、左足が不自由になり、最近は心臓も目も患い入退院を繰り返していたが、5月に退院すると7月には名古屋場所へと駆けつけた。一昨年に相撲協会を定年退職したものの、けいこ場の座敷で弟子を叱咤し続けてきた。今回の緊急入院後には、巡業中の琴光喜や琴欧洲らから電話で励ましを受けたが、弟子の願いは届かなかった。

 現役時代は「琴桜」のしこ名で活躍した。1メートル82、150キロの体で一直線の押し相撲。頭で当たるぶちかましは、「猛牛」の異名で対戦相手を恐れさせた。テレビからゴツンと鈍い音が聞こえる頭突きを目にした大巨人アンドレ・ザ・ジャイアントら外国人プロレスラーは「まるでサイだ」と震え上がったという。

 豪快な相撲の裏側で、苦労を味わった。新小結で右足を骨折し十両陥落。大関に昇進してからもけがに泣かされ、3度のかど番を体験した。それでも腐らずに突進を続け、32歳で横綱になった。遅咲きの大願成就は、当時のサラリーマンたちに勇気を与えた。

 一途さは、親方としても花開いた。引退後は全国にスカウト網を築いて弟子を集め、竹刀を手に琴風、琴欧洲の両大関、平幕優勝2度の琴錦らを育て上げた。日大時代に歴代2位の27タイトルを獲得した“逸材”琴光喜を大関に昇進させたのが最後の大仕事だった。

 この日深夜、病院から千葉県松戸市の佐渡ケ嶽部屋に無言の帰宅をした。14歳で入門した一番弟子、元大関琴風の尾車親方は「おやじはわたしのすべてだった。とにかく厳しかったけど、気配りの利く人だからこそついていけた」と悼んだ。厳しく優しい“おやじ”の早すぎる死は、相撲界に大きな衝撃を与えた。


■鎌谷 紀雄(かまたに・のりお)

 第53代横綱琴桜、先代佐渡ケ嶽親方。昭和15(1940)年11月26日、鳥取・倉吉市出身、66歳。昭和34年初場所で初土俵を踏み、38年春場所で新入幕。47年九州、48年初場所で連続優勝して横綱に昇進。引退後に年寄佐渡ケ嶽を襲名、琴風(現尾車親方)、琴欧洲、琴光喜らを育てた。日本相撲協会の理事を務め、平成17年九州場所を最後に定年退職した。幕内優勝5回。殊勲賞4、敢闘賞2回。通算成績は553勝345敗77休。

★追悼

 “猛牛”といわれ、大きな頭でぶちかますと相手力士の胸は紫色にはれあがったという。そんな横綱琴桜の相撲は生で残念ながら見たことはなかったが、熱心な指導と、スカウト活動で佐渡ケ嶽部屋を相撲界一、二を争う大部屋に育て上げてからの先代には、取材でよく話を聞かせてもらった。

 忘れられない思い出がある。もう、25年ほど前のこと。都内の実家近くの理髪店で整髪中、ご主人がこんな話をした。「高校で柔道をやっている息子が最近、相撲に興味をもったみたい。指が太くてハサミも使えないから跡取りには、あきらめているんだけど…」。

 翌日、たまたま佐渡ケ嶽部屋に取材に行き、この話をすると先代は「どこの床屋さん?」と目の色を変えた。その夜、ご主人から電話があり、「親方がスカウトに見えて、息子は一緒に車に乗ってそのまま入門しました」。

 驚いた。なんという熱意、そして巨体の割にはなんと軽快なフットワーク…。佐渡ケ嶽部屋隆盛のわけがよくわかった。その息子は体は小さかったが、琴旭基のしこ名で十両一歩手前の幕下5枚目まで出世し、引退後はちゃんこ店を成功させた。「親方に声をかけてもらって本当によかった」。そんな思いの元弟子たちが全国に何百人といるだろう。ご冥福をお祈りする。

(相撲担当・今村忠)

★絶句…琴光喜

 琴光喜に訃報が届いたのは、巡業地の秋田・大館から山形・酒田への移動中。「今はとてもコメントをできるような状態じゃない。すいません」と話すのが精いっぱいだった。名古屋場所後の大関昇進伝達式には、車いすで駆けつけてくれた。夏場所前に「このままダラダラやるなら辞めろ」と叱咤されて発奮したことが、大関とりに結びついた。昇進を決めた後、手を握って喜んでくれた師匠の笑顔が忘れられない。琴光喜は巡業先の宿舎で、涙した。

◆日本相撲協会・北の湖理事長(元横綱)

 「とにかくわれわれの意見をよく聞き、理解してくれる親方だった。相撲界のために今まで貢献し、大きな実績を残していただいた方が亡くなるのは本当に寂しい。突然のことでびっくりしている」

◆佐渡ケ嶽親方(元関脇琴ノ若)

 「一番の思い出は、自分が十両に上がった時に涙を流して喜んでくれたこと。相撲一筋の人だった。琴光喜が大関に上がったので安心しちゃったのかもしれないですね。最期は家族で見送りました」(サンスポより)


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 サンスポの記事が充実していてすばらしいので全文と写真を引用させてもらった。これだけ充実した追悼記事は、すでにだいぶ前から用意されていたのだろう。糖尿病が重症で健康体への復帰はむりと囁かれていたがこんなに早いとは思いもしなかった。琴光喜の大関昇進を確認したかのように逝ったのがかなしい。でも間に合って良かった。

 朝青龍問題で協会と高砂親方の指導力不足が取りざたされる今、あらゆる意味で名伯楽だった親方の死は象徴的でもある。

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 マスコミはまともなことしか書けないから外部のファンとして好き勝手なことを書こう。
 力士としてはたいしたことのない人である。だからこそ親方として花開いたのだろう。これは朝青龍問題に関して最高級の親方の資格として「たいしたことのない横綱(=最高番付)」として書いた。

 琴桜は横綱の地位にまで昇り、佐渡ケ嶽部屋を引き継ぐことが出来、しかも琴風、琴欧洲、琴光喜と三人の大関を育てる名伯楽としてすべての栄誉を手に入れた。親方時代に横綱を育て上げられなかったのが唯一の悔いになるが、多くの名横綱の親方としての不遇と比べたら、これほどしあわせな人はいない。
 そのしあわせの中でも最高のものは跡取りだろう。高い地位にいる力士(=部屋を継いだり起こしたりする地位)は娘が生まれると喜ぶ。息子を関取にして部屋を継がせるのは至難の業だ。その点、才能のある力士と娘を結婚させるのは容易だ。琴桜には娘が出来た。留学させるなど英才教育を施した。でもこの娘、よくできたひとではあったが父に似て器量はあまり良くなかった。なのに自分の後継者と目星をつけていた角界でも指折りの美男力士である琴ノ若とうまく結びつけられる。『Number』が相撲特集をしたとき、表紙に琴ノ若を使った。美男であり性格の良さも伝わり、いかにも力士としての雰囲気もあり、最高の表紙だった。
 自分の娘を自分が見込んだ力士と結びつけ、跡を継がせられたしあわせ。しかもふたりは夫婦仲がよく、あいだに出来た息子はまだ小学生ながら、中学を出たらすぐに角界入りをして琴ノ若を継ぐと言っている。ここまでしあわせな力士人生を送ったひとを見たことがない。

 美男力士といえば大島部屋の旭豊がいる。美男ぶりを買われ立浪部屋の娘婿となったが、離婚して訴訟となり、親方株の醜聞を残したのは記憶にあたらしい。
 琴桜の娘は、琴ノ若が惚れるほどよくできたひとだったのだろう。

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 力士として満点の人生を送った琴桜だが、ここにとりあげるのにはもうひとつの理由がある。私の田舎と関わっているのだ。
 私の故郷には夏祭り時に開く江戸時代から続く奉納相撲があった。当時はたいそう賑やかで古文書にも記録されている。
 よくある村おこしで衰退していたそれをアピールしようということになった。本職に来てもらい盛り上げてもらうことにした。その前年に講演を頼んだことがあった琴桜にそれを要請した。こころよく受けてもらえた。八月末の村祭りの土俵に琴桜は琴ノ若と何人かの幕下以下の力士を連れて来てくれた。もちろん百万以上の金が動いているのは言うまでもない。
 私はこの村祭りの土俵もその前の講演も出かけている。父の運転手として。
 講演は大鵬の話がおもしろかった。琴桜が名親方になったのは、天才の大鵬と凡人である自分の差を感じ取ったのが大きかったように思う。
 逸材がいると聞くと日本中どこにでも飛んでゆく人だった。娘さんは「いつでも動き回っている人」と父の印象を語っている。

 学生力士の超大物といえば久島と田宮である。久島争奪戦では佐田の山の出羽の海部屋に敗れたが田宮は獲得し琴光喜に育てた。久島は大成できなかったからこれも琴桜の勝ちである。久島が佐渡ケ嶽部屋に入っていたらどうなっていたろう。

 この欄にまた力士のことを書くことがあったら、それはもう大鵬しかいない。


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