あの人が死んだ時……

   


「今夜も思い出し笑い」から

 『週刊文春』(02/9/25日号)を読んでいたら林真理子の「今夜も思い出し笑い」の中にこんな一節があった。
 テーマは「人は、有名人になにかあったときの自分というのを覚えているものだ」であり、例として「美空ひばりさんや石原裕次郎さんが亡くなったときのことは大多数の日本人が覚えているだろう」とある。自身のことで「松田聖子が離婚したときのこと」を書く。彼女はその時ニューヨークにいたそうで、そこからの話が続く。

 なお左のイラストは本テーマの回とは関係なく、一年以上前のものである。というのは「作業日誌」に書いたように、引っ越しを決意して雑誌類をまとめて捨てたところなので(厳密には結束しただけでまだ手元にあるが)この買ってきたばかりの『週刊文春』も早々と束ねてしまったらしい。探したがない。それでそこいら中をひっくり返したらまだ捨ててないのが一冊見つかった。それがこれである。いま中身を見てみたら、いしいひさいちのマンガが森首相をからかっているから、昨年(01)の四月以前のものであるのは間違いない。

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おんどりゃあ、ATOK!

 本題に入る前にまたも脱線で恐縮だが。
 長年愛用しているATOKに対する不満をこまめに書いているが、上記芸能人に関しては実にすらすらと変換するのである。それが癪に障る。美空ひばり、石原裕次郎、松田聖子と一発変換である。おかげで裕次郎のユウの字はどれだっけと悩む必要もなかった。「美空」なんて普段使わない日本語(そんな日本語あるのか? きょうはいい美空だなあと使うの? 私はまだ使ったことがない。年寄りからも聞いたことがない))を辞書登録せねばという心配も杞憂だった。あきれた。その偏り具合にだ。ATOKというのは芸能方面には強いらしい。このATOKの言葉選びをやっている奴はセンスが悪いガキなのだ。急いで今、辞書で調べたが、「美空」という日本語は、美空ひばりの苗字以外には存在しないようだ。「若い身空で」の「身空」と、空をていねいに言う「み空」はあるけど。

 普段、芸能人の名前など滅多に書くことのない私だが、先日「北陸ドライヴ旅行」の中で「北の国から」のことをすこし書いた。そのとき「岩城滉一」と一発で変換したときからATOKの芸能人偏重は薄々感じていた。「岩城」の後に続く「こういち」は「滉一」であるようにもう予め組んであるらしいのだ。その証拠に「こういち」だけ変換しようとするとたくさんのコウイチが出てきてたいへんである。だが「イワキコウイチ」は一発で「岩城滉一」なのである。このコウイチの字が浩一や光一と比べて一般的でないのは言うまでもない。
「もーにんぐむすめ」と変換すると「モーニング娘。」と最後の句点まで出る。それが自慢らしい。たしか商品ビラでもそのことを自慢げに書いていた。みっともない。それがなんだというのだ。直木賞作家も出ないし落語の名人も出ない。このIMEを作っているのは高校生ではあるまい。大学生のアルバイトではあるまい。しっかりしたおとなが携わっているはずである。自分から知能の低さをさらしているようなものだ。「もーにんぐむすめと打って変換すると最後に附いてくる句点の〃。〃まで正しく変換される」と自慢していたが、そんなのはそう仕込んでくれなくても誰でも出来る、すぐに出来る、たいした問題ではない。だけど「小さん」と打つのは面倒だ。「談志」を作るのは面倒だ。人間国宝の名前は入れずモーニング娘の句点は忘れないという姿勢は、企業モラルとして相当に恥ずかしいだろう。馬場昇平、猪木寛二、鶴田友視、バカヤロー! ぜんぶ間違ってるぞ! おまえらの得意なのは芸能ガキ路線だけか!
 ハアハアハア……。
 と、ここはジャストシステムにケンカを売るコーナーじゃなかったんで本題にもどる。わたしゃ企業に抗議したなんてことは今まで一度もない泣き寝入り専門の気弱な消費者なんだけど、さすがにこれだけはそのうちしますわ、メイルかなんかで。いくらなんでも我慢できん。これだけ長年ATOK使ってきて、マイクロソフトに負けるなよと応援してきて、こんなみじめな気持ちになるのはもうイヤだ。


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大多数の日本人……。

 憤りを鎮め、鼻息を整えて、冷静になって考える。
 そうか、大多数の日本人は「美空ひばりが死んだとき、石原裕次郎が死んだとき、自分がなにをしていたか覚えている」のか……。
 覚えていない。なんにも覚えていないゾ。いつ死んだんだ、あの人たちは。その時自分が何をしていたかという以前に、あの人たちがいつ死んだか覚えていない。そんなにそれはおおごとだったのか!? オレってそんなにズレてるのか!?

 ということは林理論を正しいとするなら、オレは大多数の日本人ではないということか。薄々感じてはいたがやはりそうだったか。
 でもそうなのか、ほんとにそうなのか、大多数の日本人は美空ひばりや石原裕次郎が死んだとき、自分が何をしていたか覚えているのか? それは松田聖子が離婚したときですら自分がなにをしていたか、どこにいたかを覚えている芸能人大好きの林真理子獨特の感覚ではないのか? オレの理論だと、大多数の日本人は美空ひばりが死んだとき、自分が何をしていたか覚えていないと思うのだが、それは間違いか!? 
 まあこれは追々友人知人に尋ねてみよう。意外に大多数の日本人はそんなこと覚えていない可能性もあるとワタシは信じる。決して自分が大多数ではないらしいという僻みじゃなくてね。つまり、私流に言うなら、それは「スターの死より、自分が何をしていたかのほうが大きい」のである。たとえば生涯忘れないような大恋愛をしていて、それが成就したり壊れたりしたときなら、そのとき流行っていた曲を覚えている。だが何もせず部屋に引きこもっていて、人生の中でも忘れてしまいたいような時期だったなら、その時期に誰が死んだか結婚したか、なにが流行っていたかなんて覚えていないのである。あくまでも自分次第なのだ。記憶なんてのは。私はそう思う。

1989年(平成元年)6月24日、間質性肺炎。享年52歳。

 さらに正直に言いましょう。私には美空ひばりがそんなに大スターだったとは思えないのである。石原裕次郎もそうだ。それは私や私以下の世代に取ってね。もちろん彼らが光り輝く大スターだという人も大勢いるだろう。でも私にとって美空ひばりというのは、似合いもしないミニスカートを履いて、あのドスの聞いた声で「真っ赤な太陽」をブルーコメッツと一緒に歌っていた人なんだよね。あんなのすこしもいい歌じゃなかったからね。私の中学生時代だった。美空ひばりを真の大スターとして崇拝しているのは、彼女が天才少女歌手として世に出てきた昭和二十年代だかなんだか知らないけど、そんなときの人たちでしょう。若い頃の石原裕次郎がいかにかっこよかったかは形としては知っているが、現実に見ているのは──私はプロレス派だったので裏番組だった「太陽に吠えろ」はまったく見ていないのだけど──あの、太ったキャップだか署長だか知らないけどアクションを全然やらない偉い人だ。ありゃただの色黒のむくんで顔のデブだろ。すこしもかっこよくない。いや不細工だ。

1987年(昭和62年)7月17日。
 つまり、「美空ひばりや石原裕次郎さんが亡くなったときの自分を、大多数のかたが覚えているはず」というのは、そういう人たちにおもねった林真理子のおべんちゃらだと私は思うのだ。当時の芸能人が大好きだった私ですらかっこよくない美空ひばりや裕次郎の思い出しかないのに、数歳年下の林真理子にそんな思い入れがあるはずがないのである。世の中によくある、一見それらしいリクツだが、よく考えてみると真実味に乏しい、という奴だと私は思う。たしかにこの林真理子の文章を読んで、「そうよねえ、ひばりちゃんが亡くなったとき、泣き崩れたものだったわ」というおばさんもいるだろうし、「裕次郎が死んだとき、おれの青春も終ったよ」なんてオヤジもいるかもしれない、いや大勢いることだろう、だけどほんとにそれは「日本人の大多数」なんだろうか。林真理子自身も、ほんとうはひばりや裕次郎よりも、松田聖子が離婚したときニューヨークの高級ホテルにいたということのほうがずっと強烈な思い出なんじゃないのか。どうにもそう思えてならない。

 数日前に、林家いっ平が真打ちになり真打ち披露パーティがどうとかで、スポーツ紙にインタビュー記事があった。そこで彼はハワイで石原裕次郎に会ったときの思い出を語っていた。裕次郎は「昭和のスターは、おいらと美空ひばりとあんたの父ちゃん(林家三平)だよ」と言ったそうだ。いっ平は裕次郎が自分のことを「おいら」と言ったのと、自分の父親が三大スターに入れられていたのが印象的だったそうな。この三人が昭和の三大スターなのか。ひばりに裕次郎に三平を足しても、彼らが死んだとき、なにをしていたか覚えていない。やはりワタシは大多数の日本人ではないのか。これはもう確定的だ。
 でも、これはこれで自信を持って言えるのだが、私は三平のファンだったから、全盛期の彼の高座やくだらなくもおもしろいネタや、脳溢血で倒れた後のリハビリ中に「徹子の部屋」に出たときの痛々しい印象や、いくつものことを鮮明に覚えている。だけど彼が死んだときのことは覚えていない。ガーンとショックを受けたとか、そんな思いもない。それが普通なんじゃないのか。すぐれた芸人に関しては、芸の場を覚えているのがほんとで、年取ってから死んだとことを(まあ三人ともまだまだ若かったけれど)そんなに強烈に覚えているものなのか?
 今で言うなら、安室が離婚したときとか宇田多が結婚したとき何をしていたかを覚えている若者は多いだろうけど、その存在すら知らない人も多い。いくらなんでも「大多数」ってまとめかたは雑すぎないか? 大多数になりたいわけじゃないからどうでもいい。どちらかというとなりたくないと願って生きてきたほうだ。
 私にも私なりの「その人が死んだとき、自分はなにをしていたか」という記憶はある。それを書いて行こう。アトランダムに、思いつくまま。



わたしの場合

 まず思いつくまま強烈に覚えているものを書いてしまおう。それから追々思い出すままに行く。
 子供の頃、力道山とケネディ。これに尽きる。二人ともNHKの朝の七時のニュースで知った。冬の朝だった。飛び起きてテレビを見に行ったことを覚えている。なんといっても死ぬということを豫想していなかっただけに衝撃が大きかった。冬の日の寒い朝、小学生だった自分、今はもうない古い家。モノクロのテレビ。時代と共にある記憶だ。でもこれは子供時代だからたいしたことじゃないだろう。ともあれ「有名人の死を知ったあのとき」ということでは最初の強烈な記憶になる。
 後で知ったことだが、ケネディの死はいわゆる「衛星中継」の最初の出来事だったそうな。

1963年(昭和38年)12月8日午後11時10分ごろ、力道山こと百田(ももた)光浩(39歳・41歳説もある)が東京・赤坂のナイトクラブ「ニュー・ラテン・クォーター」で、住吉連合系暴力団の大日本興業組員の村田勝志(当時24歳)に登山ナイフで腹を刺された。1週間後の15日、腹膜炎から腸閉塞を併発し死亡した。

 しかしかといって私は当時から力道山の信奉者ではなかった。だってルー・テーズなんかと比べたら明らかにずんぐりむっくりでかっこわるかったし、あの空手チョップってのもねえ(笑)。私が当時から今に至るまでプロレスファンでいたのは(いられたのは)幼い頃からそういう視点をもっていたからだろう。多くの周囲のファンは、大新聞が報道しなくなり、プロレスは八百長だという風聞が定着し、さらに力道山が朝鮮人だとバラされるに至って、みな〃卒業〃していったのである。
 力道山信奉者ではなく、自分にとっておもしろいと感じるものなら世間の評判など関係ないと割り切っていた私に、力道山の死はプロレス卒業の理由にはならなかった。

1963年(昭和38年)11月22日(日本時間23日)、通信衛星による日米間のテレビ宇宙中継が成功。アメリカからの第一報は、ジョン・F・ケネディ大統領暗殺というショッキングなニュースだった。

 ケネディもまた尊敬していたわけでない。親戚の人から自伝をもらって読み、若くして世界一の国の大統領になったのだから凄い人だとは思ったが、なぜか直感的に、どうもうさんくさいと思った。ニクソンのほうが本当は本物なのではないかと子供心にも思ったことを今も覚えている。
 後にケネディは異常性欲(病気なんだけどね)の人で、モンローやヘップバーンやらを愛人としてのとんでもない生活を送っていたことを知る。女房がギリシャの船舶王オナシスと再婚したことにも驚いたけど(しかしこれもまあ下衆だよね、オナシスはジャクリーンが好きだったんじゃなくて、アメリカ大統領夫人を女房にしたかったんだ。あれってすこしもいい女じゃないしな)、今も昔も私はケネディ一族をすばらしいと思ったことはない。


1980年(昭和55年)12月8日。享年40歳。

 ジョン・レノンの死。これはよく覚えている。二十代の時の最も強烈な死の記憶になる。
 そのとき私はトラックの助手席にいた。トラックは厚木に向かっていた。町田の辺りだったか。ラジオニュースがジョン・レノンがニューヨークで撃たれたと言った。私は「えっ、うそ!」と思わず声を出していた。演歌しか興味のない運転手は何事かと怪訝な顔をして私を見た。
 小野ヨーコとくっついてポールや他のメンバーと不仲になり、ベッドの中での会見とか、そういう時代のジョンだった。またなにかお騒がせ事件だろうと思った。すぐにまた続報が入り、死んだという。それでもまだ半信半疑だった。日附は12月8日。真珠湾攻撃と同じ日だったからよく覚えている。

 ここで「なぜジョン・レノンの死をそんなに鮮烈に記憶しているのか」と考えてみる。私はビートルズ世代である。いちばん好きなのは天才作曲家のポールだが、学園闘争があり、ラブアンドピースの時代でもあったから、思想的リーダーであったジョンの悪口は言えない雰囲気があった。周囲は圧倒的にジョンファンだった。レノンファンというのかな。ポールは反体制的意見を言わないものだから、ただの音楽馬鹿として軽んじられていた(笑)。その当時好きだった外国人ミュージシャンを挙げれば、長年関わってきた人だからベストテンの最後ぐらいには入るだろうが、私にとってジョンは、敬愛していたという人ではない。
 その頃から私はLove&Peaceは嫌いだった。いわゆる「Imagin」に対して、「ほんとにこんな世界がくればいいのに」とは思っていなかった。人間はそんなキレイなんもんじゃない。自分らだって現実には版権がどうのこうのと金の問題で裁判沙汰やったりしてるのに、キレイゴト歌ってんじゃねーよと、むしろ嫌っていた。どうにもミュージシャンというのは(アメリカのカントリー、日本の演歌を除くと)一様に反権力の恒久平和路線を好むのだが、ジョンなんてのは、ありあまる富を手にして、マザコン少年のまま知能が停まっている人としか思えなかった。
 そんなわけで私はジョンを崇拝していたわけではない。なのになぜあんなに鮮烈に覚えているのかと考えたら、それはやはり自分のことではないのかと思う。

 FM東京で構成ライターを始め、かといってそっち方面に営業に歩いて仕事を増やすわけでもなく、それだけじゃ食えないから肉体労働との二本立て生活をしていたころだ。そのことにに満足していた時期だった。ちょうどいいバランスだった。
 いま思えば笑ってしまうのだけど、そのラジオ原稿を書くために、様々な原稿の書きかたの本を買ってきて、たとえばその中にあった「イメージ連想法=テーマから考えられるすべてのことを列記してみる」なんてのを、深夜の運送屋の休憩室でやったりしていた。これはたとえば原稿のテーマが、「秋の風」だとしたら、「秋の風から思いつく単語をなんでもいいから書いてみる」のようなやりかただ。そういうことをすればいいのか、せねばならないのかと思い詰め、生真面目にやったりしていた。もらえるギャラは些少だったが自分の書いた文がラジオから流れてきてお金をもらえるということに感動していた。いわば「貧しいけれど輝いていた日々」になる。

 彼が死んだ時を鮮明に覚えているのはだからなのだろう。誰だって自分中心なのだ。
 といってもここに書いたようにジョン・レノンに対する批判を当時口にしていたわけでない。言えなかった。思わなかった。根底にはあった。腹の奥底ではそう思っていたと思う。それでも当時は、ごく素直に彼の死にショックを受け、彼を殺した狂人を憎んだ。そのことは間違いない。彼を知らない世代が、自分は子供心にも悲しんだなどと言おうものなら、おまえらとは関わりの深さが元々違うんだと怒鳴り散らす。
 この文章を書くに当たり、そう話をまとめたほうが丸く収まるのだが、あのときのショックは決して彼だったからではないように思う。かといって誰でも同じというわけではないのだが。

2001年11月29日。享年58歳。
 ジョージ・ハリスンが死んだニュースを耳にしたとき、まったくなにも感じなかった。では大好きなポールなら動揺するのかと假定してみると、それでもそうではないなと思う。つまり、功成り名を遂げた人の死には心を動かされないのだと知る。私にとって死を惜しむ気持ちは──大好きな父などを別にすれば──「もったいない」というものらしい。ジョンの死はもったいなかった。まだミュージシャンとしてやり残したことがあった。だから心に残った。ジョージは彼なりに十分に才能を出し尽くしていたろうし、そういう人たちに対して、遺された奥さんや子供さんがかわいそうだという一般人に対するのと同じ同情をする気はない。ポールの場合も、あれだけの名曲を世界中に送り出し今後も歌われ続けるのだから、いま訃報を聞いたとしても、このしあわせもの、と思うだけだろう。

 結局年齢ということから、ビートルズ四人の中で、私が最も強烈に死を記憶するのはジョンであると、まだポールとリンゴは元気だけれど、今から決まっているようである。


1999年1月31日。享年61歳。

 しかし力道山やケネディ、ジョンをまだ先のある人だから惜しんだと言い、功成り名を遂げた人の死には動揺しないというのなら、ジャイアント馬場の死に錯乱し慟哭したことはなんなのだろう。これは先輩とか恩師とか、そんな感覚になるのか。もう六十歳ではあったが、まだまだ生きていて欲しいと思っていたし、入院したとは知っていたが、それが死に至る病とは夢にも思っていなかったのだ。
 代々木の居酒屋のカウンターで、K君という年下の友人と呑んでいた。午後七時前、ニュース速報でテロップが流れた。「ええっ! ほんとかよ!!」と言って、椅子をならして立ち上がってしまった。死の報道を聞いて声を出したのはジョン以来だった。カウンターの中のあんちゃんがなんだなんだと驚いた顔でこっちを見ていた。プロレスファンではあるが馬場にはなんの思い入れもないK君がクールだったことが救いになって、なんとかそれ以上取り乱さずにすんだ。

 うろたえたのはそれからだった。深夜、田舎に帰った。電車の中でもそのことばかりを考えていた。もう電子メイルを始めていた。一度も書いてはいないが、年賀状にメイルアドレスの書いてあった学生時代からの大の馬場派プロレス友達を思い出し、そいつにメイルを書いた。そこに書いたのは、「猪木なら、ブラジル奥地で行方不明になったり飛行機が墜落して死んだと突然聞いても驚かない。馬場だから驚いた」というようなことだった。すぐに返事が来た。そいつが私以上に取り乱していたので、なんとか私も落ち着きを取りもどした。以後、そいつとはメイルのやりとりをしていない。ただ一度だけだった。
 馬場さんが、豪華マンションを持つ大好きなハワイに元子夫人と楽隠居できるのにしないのは、「オレがいなくなったらアイツが好き放題するから」という理由だった。実際今プロレス界は、性格破綻者のアイツの好き放題になってしまった。馬場さんも無念だったと思う。いや、ベルトを統一すると言って大言壮語したのに今更二十年も前に封印したローカルベルトを復活させたり、さんざん全日をショーマンプロレスとこきおろしおきながら女をリングに上げたりしているのを見て苦笑しているか。
2000年5月13日。享年49歳。

 それよりもずっと若いのに同世代の鶴田の死に馬場ほどのショックを受けなかったのは、まだ馬場ショックが尾を引いている時期だったからだろう。馬場が節制と努力の人であったのに対し、天才肌の鶴田は暴飲暴食だったからとか、そんなことも関係あったかもしれない。もちろん追悼番組を録画したり、追悼本を買い集めたりしたのは言うまでもない。後に残された奥さんと三人の坊やが不憫だった。
 アメリカに助教授として旅立つ空港での鶴田一家の笑顔が忘れられない。日テレの特番だった。日テレはプロレスに対してあたたかい。テレ朝なんぞとは根本的に違うと感じたものだった。

2002年4月28日。享年86歳。

 大好きなルー・テーズの死はショックだった。これは本当に功成り名を遂げたミスター・プロレスだし、八十代でも矍鑠(かくしゃく)していた人だから諦めもつく。だが、いつかその日が、と覚悟していた人のその日が来たことはショックだった。父の死を重ね合わせていた。それだけテーズという人は私にとって大きい人である。あえて心臓病の手術を受けて、健康を取りもどそうとしての死だった。手術を受けなければまだまだ元気でいられたのに、ただの年寄りになるのが嫌で開胸手術に臨んだのである。彼らしいといえばらしい。
 テーズの試合を振り返ると、プロレスにも永遠があるのがわかる。力道山に決めたバックドロップは今見ても寒気がするすごさだ。それどころか、受け身の下手な力道山に対してケガをさせないよう角度を計算しているのまでが見える。対して力道山の空手チョップはお笑いでしかない。グレート草津に決めたパックドロップ、黄色い泡を吹いて失神してしまったシーンが忘れられない。

1988年7月17日。享年42歳。

 プロレスラの死では、馬場を別格にすればなんといってもブルーザー・ブロディだ。この日の夕方、大井町線の中延駅前で、売店に並んだ『東スポ』にでっかく「ブロディ、刺殺!」と書いてあった。「嘘!」と言いつつ駆け寄って手にしたことを、つい昨日のように思い出す。

 結局人の死というのは、こちらに予測があればショックを緩和できるのだと気づく。どんなに大好きな馬場であれ、一年以上も入院し、もうだめらしいと噂を聞いていたならあんなにショックは受けなかったろう。ちょうど鶴田がそうで、肝臓移植で苦労しているらしいという噂を、インターネット時代でもあり、かなり聞いていた。死亡のニュースは、病院関係者のリークで正式発表以前にインターネットに流れてしまい、正規のメディアでは、『東スポ』がスクープ報道となったのだが、やっぱりそうだったかと、ショックよりもすでに覚悟していた自分に気づいたことを思ったことを覚えている。(02/9/23)



2002年11月22日。享年62歳。
《「雷電ドロップ」で知られた元プロレスラのサンダー杉山さん(本名・杉山恒治=すぎやま・つねはる)が22日午後10時42分、心不全のため、入院していた名古屋市内の病院で死去した。62歳だった。杉山さんは64年東京五輪のレスリング代表。国際プロレスなどで人気を呼び、全日本、新日本プロレスにも出場したことがある。引退後はタレントや実業家として活躍。最近は糖尿病のため、入退院を繰り返していた。 ──ニッカンスポーツより》

 サンダー杉山の死について書く。これは今まで書いてきたものとまったく違う。なぜならべつにショックは受けていないからである。今までに書いたプロレスラは私がその死にたいへんなショックを受けた人たちである。
 なのに書くのはプロレス的な思い出を記録しておくためである。よって以下の文はプロレスファン以外には興味のないマニアックな文章となる。門外のかたは読む必要はない。
 書こうと思ったのは以下の記事の赤字部分に感応したから。

《新潟県出身で明大ではレスリング部で活躍。ヘビー級で全日本学生、全日本選手権を制した。東京五輪出場後、65年に鳴り物入りで日本プロレス入団。同じ明大からプロ入りしたマサ斎藤、ラグビーから転向のグレート草津とともに将来を嘱望された。
 66年に参加した新団体の国際プロレスで、一気に花開いた。「雷電ドロップ」と呼ばれた必殺のヒップドロップを武器に、豊登と組んでTWWA世界タッグ王座を獲得。70年には
日本人で初めて「人間風車」ビル・ロビンソンを破り、IWA世界王座に就くなど、看板選手だった。72年には全日本に移籍してジャイアント馬場のタッグパートナーも務め、一時リングを離れた後の78年には新日本に参戦した。》

 他紙では「猪木も勝てなかったロビンソンに勝ち」のように書いているものもあった。このことに関して当時の試合を生で観た(テレビだが)者として書き残しておくべきと思ったのである。かといって私は猪木信者ではない。猪木を庇おうとしてするのではない。ただ、元新日のレフェリーであるミスター高橋が暴露本を出し、プロレスはすべてインチキとなっている時代に、これはぜひ書き残しておくべきことと思って筆を執ったのである。



 日本プロレスの営業部長だった吉原功氏によって設立された国際プロレスは、プロレスとは何かと考えるとき、実に多くの示唆を含んでいる画期的な団体であった。
 吉原氏が「早大レスリング部出身のインテリ」ということも関係あったであろう。氏が獨立した老舗日本プロレスは、力道山のワンマン会社であり、力道山死後は、相撲界の後輩である連中が放埒経営するひどいものであった。試合の勝ち負けは、力道山生前の時は彼が、死後は彼らが、すべて仕切っていたのであろう。そこから獨立した吉原氏は、新しい形を作ろうとした。それが国際プロレスの画期的な面であり、そしてまた哀しいことに、そのことによって崩潰することになる。

 旗揚げ戦のメインは、新設されたTWWAチャンピオンの座を、前NWA世界ヘビー級チャンピオンのルー・テーズと、日本プロレスの前座レスラからルックスの良さで新団体のエースに抜擢された八幡製鉄ラグビー部出身のグレート草津が争うというものだった。相手のルー・テーズは新設ベルトの箔つけに選ばれた最強の鉄人である。プロレス的にはこういう場合、テーズ側に多額の謝礼を渡して負けてもらう。力道山のインターナショナルチャンピオンベルトから全てそういうふうに運ばれてきた。
 だが吉原氏はそれをしなかったために、弱いのに生意気な草津をテーズがバックドロップで失神させるという凄惨な試合となり、今までと同じプロレス的風景の延長として、ニュースター誕生と思いこんでいたファン(私もそのひとりだった)の前で、黄色い泡を吹いた草津は担架で退場という正に前代未聞の旗揚げ戦となったのだった。

 後にこの「ファンの思いこみを打ち破る」というのは、猪木が、同じような経緯で自分が新設したベルトであるIWGPの決勝戦において、勝つ打ち合わせのしてあった試合を、誰にもそれを告げずベロを出し失神して負けるというひとり芝居を演じ、プロレスにおける常識を自ら覆したことがあったが、そんなわざとらしいひとり芝居よりもずっと前に、本物の衝撃がここにあった。

 さてこの「猪木も勝てなかったロビンソンに勝ったサンダー杉山」の試合であるが、これがその八百長をしない吉原さんが組織のために八百長をしくんだひどい試合だったのである。とはいえこれは片八百長だと思う。つまり、金でもって説得されたロビンソンがひとりでやったことであろう。いやもちろん杉山も、事前にきょうはこういうわけでおまえが勝つからと社長から聞いていたかもしれない。というか、ほんとに今もまざまざと目の前に浮かぶのだが、当時の国際プロレスの連中とロビンソンでは力が違いすぎ、ロビンソンが負けてやるのが不自然なとんでもなく奇妙な試合だったのである。

 ガチンコ路線で行った吉原さんは、日本的な興行の壁につきあたる。自分たちのベルトであるIWAチャンピオンベルトを新設し、決定戦をやり、いちばん強いロビンソンが獲得したまではよかった。一切の反則をしないロビンソンは英国紳士を装って「いい外人」を演じ人気を博していた。実際はイギリスの貧乏家庭の育ちであり教育も受けておらず育ちの悪いロビンソンは性格が悪く、吉原さんは金銭的にも夜の遊びのたちの悪さにもたいへんな苦労をしたらしいが、それはまた別の話とする。この辺のことを書き出したら切りがない。
 当時高校生だった私のような先進的なファンには、強くてかっこいい外人が主役のロビンソン路線は支持されたが、やはり田舎では、日本人がチャンピオンじゃないと受けなかったらしい。どさ周りが基本のプロレスの中心は田舎における興行である。そのことを吉原さんも感じ、グレート草津以下、豊登らの手駒を次から次へと挑戦させたるのだが強いロビンソンは皆勝ってしまうのである。当時ガチンコなら力道山より強いと生前から言われていた豊登が、ダブルアームスープレックスでぶんなげられ、あんな強い奴と初めて会ったとロビンソンを絶賛、というかその強さに呆れはてていたことを思い出す。

 そうしてもうどうしようもなくなり、吉原さんは帰国前のロビンソンに頼んだのだろう。日本人にベルトを渡してやってくれと。勝ったのが杉山だったのはタイミングの問題と思う。金でベルトを日本に置いて行くことを納得したロビンソンには、相手はどうでもよかったのだ。ともあれこのことで杉山は「初めてロビンソンに勝った日本人」と今頃書かれる栄誉を手に入れたことになる。
 そうしてロビンソンが実際にやったことは、これはもう今思い出しても情けなくなる。圧倒的にロビンソンが強く、元々スタミナのないアンコ型の杉山は息が上がってしまっていてどうしようもない。顔の汗を手のひらでぬぐい、フエーフエーっと切れた息の音がテレビからも伝わってくる。それでどうしようもなくなったロビンソンは、自分から杉山に体当たりに行くと見せかけてロープに突っ込み、中団ロープに片足を引っかけて場外にぶら下がり、そのままもどれずにリングアウト負けという、なんともひどい芝居をやったのである。
 後にボボ・ブラジルが同じく中団ロープに首を引っかけて負けるというのを全日でやる。これは首だから足よりすごい。相手は馬場だった。主役よりも確実に強いレスラが、アクシデントによる負けを演出するとき使う手だが、これを初めてやったのがこの「杉山ロビンソン戦」だった。日本人では、こういう負け方に憧れたのだろう、唯一鶴田が(相手は忘れた)やっている。

 しかしこれはなあ、アンコ型のどうしようもなく運動神経が鈍そうなのがやるならともかく、ロビンソンや鶴田が片足をロープに挟んだだけでぶら下がってしまってリングにもどれない、というのはあまりに不自然である。物心つく頃からプロレスファンの私にも、しみじみと情けない思いでため息をついたことが何度かあるのだが、これもそのひとつになる。なにしろリング上にいるのは息も絶え絶えの杉山であり、ロープに足を挟まれたロビンソンが、リングにもどれないよおとわざとらしく苦しんでいるのだ。「んなアホな」である。
 試合後、至宝のIWAチャンピオンベルトを杉山があの最強のロビンソンからついに奪ったとコールされ、れいによって似非紳士のロビンソンは杉山と握手し、健闘を称えているのだが、会場もしらけていた(笑)。そりゃしらけますって。でもそうでもなきゃ負けようがなかったぐらい実力差があったのだけれど。

 今回杉山の死により、スポーツ紙を読んでいて私が感じたのは、こういう当時を知らない人による結果だけの記事だった。こんな形の事実を知るものにはなさけなくなるようなものでも、時が流れれば「日本人で初めてロビンソンに勝った」と報じられるのである。なんだか世の無常を感じさせられる出来事だった。

 後に猪木はこのロビンソンを国際プロレスから引き抜き、60分3本勝負1対1の時間切れ引き分けという名勝負を残す。せっかく高額ギャラで引き抜いたロビンソンだから、しばらくは名勝負数え歌で盛り上げようと思っていたら、さらに高額のギャラで馬場に引き抜かれ、馬場があっさりとロビンソンから勝つことによって、猪木の勝てないロビンソンに勝った馬場、という屈辱的な結果となってしまった。
 が、時が流れれば、事実は事実として、「猪木の勝てなかったロビンソンに初めて勝った日本人」として杉山の名が残るわけである。なるほどねえ、世の中はこんなものかと思った。繰り返すが私は猪木ファンではないのでどうでもいいことなんだけどね。誰かに肩入れして書いているわけではない。現実の冷酷さ(あるいはつまらなさ)を確認しただけである。

 プロレスには関係なく、杉山氏の死には複雑な思いがある。氏は実業家として成功した。年商60億円以上の起業オーナー社長である。だが糖尿病で両足切断までした。今回の記事を読むと、さらに片腕まで切断していたという。おそろしい病気である。最後の片腕を切断する前に死んだのは、よかったのではないかとさえ思う。いわゆるダルマ状態になってまで生き延びることに意義はあるのだろうか。ちょうど兄嫁の父が歩けなくなり、人工肛門になり、生きていてもつまらないと嘆いている時期だったので(父を乗せて見舞いに行ってきた)、健康と生、そして死を考えさせられる出来事であった。
(02/11/30)



               

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