インターネット論考

■私にとってのネット




 03年2月に突如として中国秦皇島で始まったホームページ内ファイル整理が、一ヶ月半後の四月半ば、桜も散った日本で今、やっと終りつつある。
 後藤茂さんのホームページ「チェンマイのさくらと宇宙堂」の頃に書いた「チェンマイ雑記帳『痛点のない心-ししまる君への返答』」等も今回完全削除し模様替えしたので、その辺に関する考えを記しておこうとこの項を立ち上げた。
 それは「ししまる君」や「『T-thai(定退)』に関することのようであって実はそうではない。インターネットに関する私の興味の原点についてである。

 私のこのホームページには、ネット上における掲示板での他者の書き込みを引用したファイルとして、「『T-thai(定退)』騒動」「流浪人を斬る!」「ししまる君への返答」の三ファイルがあった。今も残っているのは「『T-thai(定退)』騒動」だけである。
 これを削除する気はない。それどころか「流浪人を斬る!」は全面的に書き直して再登場する予定である。
「ししまる君への返答」が復活することはないが、あそこにある一部のネット上でのやりとりは、今後も参考資料として登場するかもしれない。その辺の事情説明が拙稿のテーマである。



 上記三つのファイルにおけるテーマは、一般的には「不特定多数の人にネット上で攻撃された私が反論した」と解釈されるだろう。私にとってはそうではない。


 まず「ししまる君への返答」だが。
 私がここでやろうとしたのは、一軒のちいさな店で三十人も女を買ったという彼に、「おんなあそびのレクチャーをする」ことだった。一見の客、裏を返す、なじみ、そんな初歩的なことを書いている。それが表のテーマ。

 裏テーマは、いわゆる「かまって君」であり、ネット上において、出てこなければ沈静するのに、沈静しかかると自分から出てきてまた火に油を注いでしまう彼の性格に対する興味だった。
 引用したネット上でのやりとりは、それを浮き彫りにするものに過ぎない。私の真の興味の対象である「ネットにおける匿名性の怖さ」とはあまり関係がない。関係はあるのだが、むしろ主役は「かまって君」のししまる君なのである。よって削除した。今後も「かまって君の性格研究」とか、そんなテーマでももちあげなければ再登場はあり得ない。まず間違いなくそんなテーマには興味がないので永遠に封印だろう。彼が絡んでこない限り、彼の名を書くのも今回が最後になるはずである。



 次に現在削除してある「流浪人を斬る!」について。

 ここにはインターネット特有の「匿名による攻撃性」がある。私のインターネットに関する最も興味深い分野になる。
 私はここで「流浪人」と名乗る見知らぬ人から突如として私の書いた文章にイチャモンをつけられた。イチャモンをつけられ煽られても知らない人だし、あちらは同じように文章を書いたりしていないのだからどうしようもない。無視していたら、今度は「卑怯だ、姑息だ、才能がない」と言いたい放題をされて去って行った。いかにもインターネットらしい事件だった。
 この件に関しては言いたいことが山ほどある。なのになぜいま削除してあるかというと、半端な文章のままで書き上げていないからだ。これにはきっちりけじめをつけるつもりだ。

 自分のホームページをもち、様々な文章を書いて痛感したことがある。それは「不愉快なことは書きたくない」という単純なことだった。私の中で「チェンマイで友人と楽しく遊んだこと」よりも、この「見ず知らずの流浪人というのにいいがかりをつけられたこと」のほうが遙かに重い。頭の中では流浪人に対する反論を書き、なんど推敲したか数知れない。その文章はもう今こうしていても口述筆記できるほど完成されている。記憶されている。なのに未だにきちんとアップしていない。それは現実にこの文章を書くという作業が楽しくないからだ。

 このことはホームページを持って知った新たな発見になる。元々嫌いなことは書かかないお気楽ライターだったが、その気になればいくらでも書けると思っていた。しかし、どうにも書く気にならないのである。それはこんな重いものばかりではなく、もっと簡単なものでもそうだった。 
 たとえば未だに書いていないもので『タイ語抄』の「あなた」がある。これはタイのマッサージのおばさんが、どこで覚えたのか初対面のこちらにやたら「あなた〜」と呼びかけてきて、それがものすごく気持ちが悪いというだけの話である。コーナーを充実させるために、短文でもあるし、さっさと書いてしまおうと思うのだが、どうにもやる気になれない。気に入った方面のものなら何十枚でも一気に書ける。「云南でじかめ日記-同胞のありがたさ」なんて、結末もハッピーエンドだし、きれいな娘さんに助けてもらって助かったって話だから、原稿用紙80枚分を一気に書き上げてしまった。
 なのにほんの数枚のこれが、ホームページ開設当時から未だに書かれていない。これですらそうなのだから、まして真剣本気で書かねばならない「流浪人を斬る!」になるともっと気が重い。それで今、削除したままになっている。が、これは書かねばならない。インターネットを語るとき、私にとって最も重要なテーマだ。

 そのときに書くことであるが、端的に言うなら「なんで人ん家に来るの!?」になる。
 私の悪口を言うのはいいのである。世に出した以上、なにを言われてもしょうがない。問題は、こちらの掲示板に書き込んで来るというその感覚だ。

 もしもこれがインターネットというメディアがなく、通常の世界であったなら、いくら流浪人というのがそういう性格であったとしても、手書きで同じような文章を書き、切手を貼って投函してまでは絡んでこないと思う。つまりこれ、極めてインターネット的な出来事である。

 これはまたあらためて書く。きりがない。
 そんなわけで、ネット上の書き込みを引用した三つのファイルの内、「ししまる君」と「流浪人」の二つが削除されているが、両者は性格が違う。「流浪人」は間違いなく復活する。私の最も興味のある分野なのだから、これなくして私のホームページはあり得ない。



 現在も掲載している「『T-thai(定退)』騒動」について。
 これは発端となった「『T-thai(定退)』感想文」も掲載しているし、話はわかりやすい。
 この件に関するやりとりで私が興味をもった最初は「インターネットにおける公私とはなにか」になる。引用した文に「『T-thai(定退)』は私的なものなのに、あんたは公的な場で評論した」という私を批判した的外れの投稿がある。これが代表的だ。言うまでもなく世界に公表しているネット上の文章に「私的」なものなどあり得ない。「私的な内容」との混同である。敢えて「ネット上の私的なもの」を探せば会員制メイルマガジンがまだいくらか「私的」であろうか。
『T-thai(定退)』はそうではなかった。公に公開しているのだから公的である。むしろどこにも宣伝せずやっている私のサイトのほうがよほど私的だ。この『T-thai(定退)』を私的とし、それに関する評論を書いた私を公的と責める感覚はどこから生まれてくるのだろう。不可解である。そしてまた本文にも書いたが、本当に私的であるかどうかは確実ではない。あくまでもその一読者がそう判断しているだけである。

 ここにおいてもうひとつ興味があったのが、これも本文で『ゴルゴ13』を例に書いたが、逆上して行くタイプの存在、そして、なあ〜んもわかってないのにわかったふりして出しゃばってくる野次馬の存在だった。これもまた匿名のインターネットだからこそ出来る特性であったろう。

 私にとって肝心なことを書いておく。
 それは、このテーマに関して、『T-thai(定退)』も、攻撃対象となった自分も、どうでもいいということである。『T-thai(定退)』も、それを評することによって不特定多数の匿名者から攻撃対象となった私も、私が興味を持つ対象としては、いわば「刺身のつま」である。だから「『T-thai(定退)』の読者に攻撃されたから反撃した」のではない。「攻撃という現象に興味を持った」のである。触媒である私の存在などどうでもいいのだ。

 私が興味を持っている本体は、こういう事柄に匿名で首をつっこんでくる連中の存在であり、逆上(あるいは冷笑)する彼らの気質であり、それを可能にするインターネットという場なのである。それ故にすでに『T-thai(定退)』というホームページは閉鎖されているのに、「感想文」も「騒動」も未だに載せている。これらは今後も共に色あせることはない。なぜなら。

 私が「感想文」で語ったのは作者のAさん個人のことではなかった。「Aさんのような人はいっぱいいる」と書き、「これからこうなるだろう」と予測したのだ。語ったのは「現象」である。だからこれは、現実のAさんの存在とは関係なく、同じようなことをする日本人おじさんがいる限り永遠である。実際いまやチェンマイはそんな年金生活者の日本人であふれている。

 「騒動」で取り上げたのは、インターネットというメディアを理解できず「公私混同」と勘違い主張している人や、匿名性による野次馬や、対象を愛するあまり、私への個人攻撃を始めたりする人間の気質であった。
 この「対象を愛するあまり」の対象は、この場合は『T-thai(定退)』であるが、実はなんでもいいわけである。「『ゴルゴ13』論争」を例に引いたように、世の中には逆上してくると、「三流評論家」だの「B級ライター」だのと本質とは無関係な言辞を弄して攻撃方法としてくる人がいる。その気質こそがテーマとして取り上げたいことだった。

 もしも作者のAさんが、「『T-thai(定退)』はもう止めたのだからあの文章も削除してくれ」と言ってきたなら、私は私の書いた『T-thai(定退)』の部分や投稿者のそれを別のことばに置き換え、元の具体的対象がなんであるかわからないようにして掲載を続ける。私があの文章でテーマとして取り上げたいことは『T-thai(定退)』や作者のAさんという固有名詞とは関わりがないからである。もちろんあのような興味深い実験が出来たのは、当時『T-thai(定退)』が当時とても人気のあるサイトだったからで、その偶然性(あんなことが起きるとは思っていなかった)にはとても感謝しているが。

 同じく「流浪人を斬る!」の場合も、「流浪人」個人はどうでもいい存在である。興味対象は「流浪人のようなことをする人の感性」てあり、それを可能にし、許してしまう「インターネットという場」になる。



 餘談ながら、最近気になっていることがある。それは、Aさんがホームページ『T-thai(定退)』を閉鎖してだいぶ経つのに、未だにネット上に『T-thai(定退)』が存在しているのだ。それも初期のファイルがかなり詳しく読めたりする。あれはなぜなのだろう。「君が代」について触れた初期のファイルを読むと団塊の世代であるAさんの左翼性がとてもよくわかって今更ながら興味深いのだが……。それはともかく。

 未だにファイルが存在する理由を私なりに考えてみると、Aさんは長期の連載中、何度かプロバイダーを変ったのだろう。閉鎖するとき、最後に連載していたところのものは削除したが、初期のものが残ってしまったのではないか。これっていまから削除することは出来ないのだろうか。ひとごとながらなんともやりきれない気持ちになる。

 我が事として考えると結構深刻である。完全引退した後にもファイルが存在するのは気持ちのいいものではない。
 私の場合、プロバイダー履歴は、MS、AOL、Nifty、OCN、ZEROとなるが、ホームページをアップしたのはZEROだけである。ホームページを閉鎖し、ネットから足を洗うとき、今現在のファイルをプロバイダーZeroから完全削除すれば、一般的な痕跡はなくなると思う。一般的とは、いわゆる「検索」で文章が出てくるような、だ。とはいえ完全削除したはずのエロサイトが見せしめとして復活させられたように、ハードディスクに保存されたものを技術のある人に悪意でやられたら終りである。それはまた別問題になる。
 閉鎖されたホームページのファイルが幽霊のようにネット上をさまよっているのを見ると、またインターネットが怖くなる。きれいに去りたいものである。
(03/4/14)



チェンマイ雑記帳-「あやうさの魅力」

チェンマイ雑記帳-『T-thai(定退)』騒動

inserted by FC2 system