モバイル書斎

     ぼくはモバイル派なのか!?


 モバイルおやじである。本人はそう思っている。しかしどうもこれ、一般的なモバイルパソコン愛好者とはすこしばかり趣が違うようだ。一般的とはやはり、東京から大阪支社に向かう新幹線の中で企画書を書き上げてしまう切れ者サラリーマンや、香港までの機中でコラムを書き上げ、着くやいなやホテルから送稿する売れっ子ライターのようなものであろう。

 私の場合は、愛車の軽に乗り、田舎の景色のいいところで原稿を書いているというそれだけである。欧米でも−−いや欧米のことは書かないホームページなのでタイに限定して−−チェンマイでも、JJ(チェンマイではしゃれている部類の喫茶店)などでラップトップを手にした白人を目にしたりしているが、私はそれをやっていない。パソコン作業はアパートでやっていて、部屋から愛機は持ち出さなかった。
 元々が十分な資料を揃え、どっしりと構えて書きたい方なので、出先でちょちょいのちょいと文章を仕上げるという感覚は好きではない。同時にそれほどまでして仕事をこなさねばならないほどの売れっ子でもないし、そういうふうにならないようにもしている。

 飛行機や新幹線の中では雑誌を読んでいることが多い。仕事が済んだ後の帰京ならビールを飲む。そういうとき傍らのパソコンバッグには、春先まではVAIOが今はThinkPadが入っている。どこに行くのも一緒だ。でもそれを開けることはない。どうも人前でパソコンをONにすることには抵抗がある。そんなにまでしてやらねばならないことがあるとも思えないし、そんなにまでしてやらねばならない人生はいやだとも思う。



生殺しの酒

 そういうことを嫌う自分を探っていたら、酒のことを思い出した。
 酒に関して私がいちばんいやなのは「足りなくなること」である。これはもうはっきりと「足りなくなり半端になるなら飲まないほうがいい」と決めている。酒飲みにとっていちばんいやなのは「ヘビの生殺し状態」なのだ。

 たとえば友人の家に行く。晩ご飯をご馳走になるという状態になる。亭主と奥さんと私の三人。ビールの大瓶が二本。ひとりコップ三杯ぐらいか。ほどよく空いて二人は桜色。なんかもう酔っちゃったみたい。きょうは楽しかったわ。さ、ご飯にしましょ、腕をふるったお料理なの。いっぱい食べてね。というような状態が私は苦手なのだ。
 ちょうどエンジンがかかってきたところである。さあこれからだ。ビールでもいい。日本酒、ウイスキー、焼酎、なんでもいい。ワインでもつきあいまっせ。今夜は盛り上がりましょう! というところでおしまいはいくらなんでもなかんべさと思うのである。そのことがいやで行かなくなった友人の家が、大げさじゃなく、何十軒もある。

 考えてみると、長年のつきあいをしている友人に、酒の飲めないやつはいない。私からすると弱くて物足りないヤツも、彼の仲間内じゃ十分すぎるほど強かったりもする。そういうことか、と今頃気づく。そういうことなのである。

 ま、そういうわけで、とにかく私は何事に関しても半端が嫌いなのだった。若い頃は軽蔑していた「部屋で飲む男のひとり酒」をいつの間にか好きになったのも、好きなだけの量が飲めるからであろう。好きなだけ飲んで酔っぱらって寝てしまえばいいのだから、ずさんな大酒飲みオヤジがこれを好きになるのは自然な流れだった。





(←ここは人造湖。お気に入りの一カ所。景色がいいので、ここに駐車し、クルマの中で昼食をとっている人も多い。ただここはカメラを構えている後ろはすぐに道路でかなり交通量がある。写真の感じほどいいところでない。残念ながら。)

 たとえば。
 私は酒をチビリチビリとはやらない。好きなだけガバガバ飲む。なくなったらどうするか。飲まなければいいのである。
 次の給料日までまだ二週間あるとする。酒に回せる金は、高級ウイスキーなら一本、安物なら三本ぐらい買える額だ。私は迷わず高級ウイスキーを買う。だっておいしいからね。それを好きなだけ飲む。高級品をチビチビでもなく、安酒をガバガバでもない。高級品を好きなだけ飲む。二週間をこの一本でもたせねばならない、だからきょうはこれだけと決めてチビチビ飲む、ああ、もう一杯飲みたいなあ、でももうきょうの分は飲んじゃったもんな、がまんがまん、というような飲み方はしない。好きなだけ飲む。三日で空いてしまった。さあどうするか。後の十日を禁酒する。そういうやりかたである。

 十日間の禁酒は辛くないかと訊かれそうだ。それは酒飲みだからして当然辛い。だが私には、量を決めてチビチビ飲むことから来る惨めさのほうがずっと辛い。それと比べたら禁酒の苦しみなんて辛い内に入らない。ただし、その量を決めたチビチビ飲みを快感とする人たちがいるのも理解している。片方はその几帳面(?)さを快感とし、片方はたまらなく惨めになるのである。この差はいかんともしがたい。私は惨めになるほうなのでがまんをしない。それが私のリクツである。そうして生きてきた。今更変えられない。



 このホームページの文章にケチをつけてくる人がいる。私にはその心理が手に取るように解る。この酒の話が端的な例だ。つまりそういう人は、「誰もが高級酒をちびちび飲んだり、高級酒を飲みたいけど安酒で我慢したりしているのだ。それが普通なのだ。あんたのように高級酒をがばがば飲んで、後は禁酒すると、そんな極端なことを出来る人ばかりではない」という反感なのである。そこには「決められた量を計算して飲む規則正しい生き方の楽しみは、あんたなんかにゃ解るまい」という反発もあろう。

 まことにごもっともである。私はその感覚を理解できる。だけど私は能書きじゃなく実際にそうして今まで生きてきたのだ。いまさら直しようもないし直す気もない。

 誰にでもそういう「生理的な反感」というのはある。そちら側にもあるだろうが、こちら側にもあるのだ。だったらどうする。通じない感覚はどうしようもない。そういう人はここに来ないでくれ、とそう言うしかない。それが最初のページでのお断りになる。まずいものよりおいしいものを食べたいように、気に入らないホームページに関わるより、手の合うホームページを覗けばいいのだ。世の中生きてゆくためにはいくつもの不快をがまんせねばならない。それが人生だ。なにもたかがインターネットで気に入らないサイトを覗いて不愉快になることはない。でしょ?



 ということで本題にもどると、私が乗り物の中や出先でパソコンを使わないおおきな原因のひとつにバッテリーの持続時間がある。

 パソコンも酒と同じだ。近年のバッテリーはだいぶ改良されてきてカタログには三時間は大丈夫なんて書いてあるが実質はまだまだ一時間ぽっちだったりする。時間を持たせるためには、ディスプレイの輝度を落としたり、ハードディスクをこまめに停止させたり、いろいろ細工せねばならない。酒の飲み方で解るように私はそういうことはしない。薄暗い液晶なんて見たくない。最速の状態で使う。よってあっという間に警告音が鳴りバッテリー切れとなる。それは酒における「生殺し状態」と同じなのだ。

 バンコクまでの六時間。スチュワーデスにパソコンの使用許可を取り、ノートを立ち上げて文章書きを始めたとする。やりたいことの半分も済まない内にバーッテリー切れとなり、じゃあ続きはホテルでやろうとパソコンをしまい、本を読むか、すこし眠ろうか、という物わかりの良さは私にはない。あったらもっと金に恵まれていた。それは半端な酒と同じである。そんなことをするなら、機内では本を読んでいればいい。寝ていてもいい。パソコンはホテルに着いてから電源を繋いで好きなだけやればいい、となる。それが私のやりかただ。

 とこう書くと、またまた「たとえ一時間だけでもそこで仕事をしておけば後々楽なのであり、誰もがそういう苦労をうんぬん」と言いたくなるかたがいるかも知れない。そんな人は来ていないと思うけど、なにしろインターネットであるから、間違って紛れ込んできている可能性もある。
 だからね、そうなんですよ。その通りです。それはわかってます。世界を飛び回る忙しいビジネスマンのかたなんかだったら、ちょいと資料を整理したりして、たった一時間でも貴重なものなんでしょう。それはわかってます。私が言いたいのは、私はしない、しないで生きられるような生活環境構築に努力している、ということです。私の意見、考えかたの表明であり、他者に押しつけているわけではないので、誤解なさらないように。

 そういえば先日、親しい人たちと飲んでいるとき、ある売れっ子競馬ライターの予想コラムやエッセイなどが、ひどい手抜きばかりだと批判が噴出していた。私はそれらの文章を読んでいなかったのでなにも言わなかったが、彼がホームページで、乗り物の中や飛行機を待つ空港などで、それらの仕事をばりばりとこなしていることを、ちょっと誇らしげに書いている文章を読んだことがあったから、それなりに印象的な話題だった。
 そういう形で仕事をこなし、読者に喜んでもらえるものを連発するほど才能のある人は、そうはいない。彼にその才能はない。私にもない。ないから私は、良い物を書けるだけの自分の能力に合わせた仕事量で生きている。彼はないのに、勘違いしたつっぱしりをしている。あわれでならない。ま、生き方は人それぞれだ。

 閑話休題。
 とはいえ機内はたいくつする時間である。なるべく眠くなるように前日は徹夜仕事にしたりして調整しているが、そういかない場合もある。出発前にかなりの時間を費やし、旅先に持参する本を厳選する。もってゆける荷物は限られているから、何冊かの本は、選びに選び抜かれた貴重品である。中国の山奥じゃ繰り返し読んだりする。まだ飛行機の中では読みたくない。とっておきたい。文章を書くにせよゲームで遊ぶにせよ、万能のパソコンが使えるに越したことはない。だが生殺し状態がいやで、私はパソコンを開けることはしない。
 バンコクだと前後一時間は使えないとして、使用可能時間は四時間ぐらいだろうか。ヨーロッパなら十時間である。標準装備でこれぐらいはゆうにもつバッテリーの時代になったら、長時間を過ごさねばならない飛行機の中と限定してだが、私もパソコンを開けるようになるかも知れない。十時間連続でパソコンを操作できるならかなりのことが出来る。もうすぐそんな時代になるだろう。

 いずれにせよ私は、世間で言うモバイル派ではないようだ。人前でパソコンを開けることはない。恥ずかしくて出来ない。あれは恥ずかしいなあ。人前で自分の彼女を裸にするようなものだ。それで昂奮する趣味はない。でも私なりには十分にモバイルおやじなのである。
 いかんいかん、あちこちと寄り道して未だ本題にたどりついていない。書こうと思っていたのはこんなことではない。原因の話ではなく現実のさらりとした話のはずだった。



クルマの中で書く

 「クルマで移動しつつ文章を書く自分」について書こうと思っていた。
 きょう、久しぶりにそれをやった。やはりこれは楽しくて、行き詰まったときの自分を救ってくれる価値あるものだと見直したからである。

 仕事をせねばならない。もうせっぱ詰まっている。でもその気が不足している。気分転換に外に出ることにした。

 秋晴れのいい日だった。
 すこしばかりおしゃれ(笑)をしてみた。むかし、休日にジャージー姿で一日中ゴロゴロしているおっちゃんをコバカにしていたのに、今じゃ自分がそうなってしまった。しかも勤め人でない私は、休日ではなく年がら年中である。これはいかん。物書きにとって大切なことは変身のための空間を確保することである。

 で私はきょう、ちょいと渋めのジャケットなど着て(といっても昆明で買った安物だが)、きちんと靴下を履いて(つまりいつもは素足につっかけなのである)、資料をたっぷり持ち、「よし、仕事をやるぞ!」と気合いを入れてクルマに乗ったのだった。
 この「つっかけ」なんてのはいい日本語ですね。サンダルよりずっといい。ほんとにちょいとつっかけるもんだから。


 冒頭の写真は、私がクルマで出かけて仕事をする「仕事場の1」である。高台にあり、湖を見下ろしながら仕事をする。私の故郷では最高の美景かもしれない。すこしうすらぼけた写真だが、これはこんな日だったのだ。腕が悪いわけではない。と思う(笑)。
 ここでの仕事は、春夏秋冬いつでも快適だが、敢えてよくない季節を選ぶと夏だろうか。陽射しが強すぎてパソコンの画面が見づらいし、仕事のため、クーラーをかけ続けねばならない。軽自動車のクーラーで真夏の暑さに対抗するのはしんどい。
 逆に冬はいい。小雪の舞う寒い日など風情があって最高だ。ヒーターなら軽自動車でも真冬に汗ばむほどの暖房能力がある。あたたかい缶コーヒーを飲みつつここで原稿を書くのは私のお気に入りになっている。

 と書いていて思いついたが、私は夏と冬はほとんど海外だから、こういう場所を利用するのは、圧倒的に春と秋が多いのだった。


 この場所、実は、高台にあるコンビニ横の駐車場からの風景なのである。そこには写真のような自動販売機が並んでいて便利だ。
 私の大のお気に入りの場所だったのだが、いいところは誰にでもいいもので、近頃はだいぶ賑わうようになってしまった。
 昼時など、金髪の鳶職のニーチャンが、おにぎりを食いつつ、ケイタイで彼女と口論したりしている。きたない日本語は聞きたくないので近頃は敬遠気味である。



 クルマで移動し原稿を書くという話をするつもりだったのに、酒のたとえ話だとか、つまらん前口上を長々と書いてしまった。と後悔していたが、ここに到るとやはり必要だったかと思う。クルマの利便さについてである。

 クルマの中で書くことは、充電しつつであるから、バッテリーの残量を気にしなくてもいい。助手席に資料を拡げて仕事が出来る。後部に何十冊でも本をおけるから調べもので不自由することもない。音楽もある。愛車は古い軽自動車なので未だにカセットのみというのがちと恥ずかしいが、多ジャンルにわたる五百本以上のカセットテープが揃っている。中にはタイ語、中国語、フランス語、スペイン語等のテープ&教科書もあるから、気分転換にそっちの勉強もすることも可能だ。そういえば最近、ぜんぜん外国語の勉強をしなくなったなあ……。

 というわけで、私にとって愛車で移動しつつの原稿書きは、バッテリーの残量を気にしなくて済み、好きなだけ資料を持参できるということから、飛行機や新幹線のような乗り物、喫茶店のような出先とは根本的に違った場所なのである。
 というわけで二カ所目の写真。



 これは、えーと、ごく普通の「人んちの空き地」(笑)。
 緑が目をいやすというのはよく言われる。ほんとかどうかしらないが私は樹木の下で仕事をするのが大好きである。大木への憧れと尊敬もある。チェンマイ郊外で大木に出会うと、必ずバイクを止め、しばらく見上げている。今じゃもうタイでもチェンマイにしかないと言われる並木道は悪漢である。
 屋久島に行って樹齢千年以上の杉と語り合いたいというのはぜひ実現したいことのひとつだ。西村寿行の『鯱』シリーズで超能力が高じて樹木と会話するようになるのはかっこよかったなあ。
 十一月末の写真なので新緑のような生色はない。来年、機会があったら若葉の頃の写真と入れ替えたい。

 これはきっと逆の感覚の人が大勢いると思うが、私は海がダメである。怖さがある。海の中にいると母の体内にいるように落ち着くという感覚がわからない。泳ぎ自体は巧いのだが水が嫌いなので滅多に泳がない。これって前世に関係していると思うのだが、それはさておき。

 冒頭の湖見下ろし高台があまり夏に向いていないとすると、この森の中は夏が最高である。木陰の下に車を停めると、クーラーをかけずにいられる。エンジンを停め、梢を渡る風の音を聞きつつする仕事は楽しい。ここでも、クルマだから、いつの間にか熱中し、バッテリー切れの警告が鳴ったとしても、エンジンを掛け、充電しつつ移動すれば、次の場所でまた仕事が出来るのである。いつでもすぐにその場で充電できるとわかっていれば、バッテリー切れも怖くない。



 という以上の文章を書いたのはここ。お気に入りの場所、三カ所目。
 クルマの窓越しに撮った夕日の写真。あっという間に夕暮れになってしまった。「秋の日はつるべ落とし」とはよくいったものだ。




 ここがどこかというと、本屋の駐車場なのである。田舎によくある郊外型の大型店舗だ。別角度から見ると下の写真。味も素っ気もない場所だが、ここが私の今いちばんのお気に入りになっている。

 クルマの中で二時間仕事をして、気分転換に十分ほど立ち読みに行く。さてまた仕事と、自動販売機で缶コーヒーを買い、クルマにもどる。アイデアに詰まったときでも調べたいものが出たときでも、なにしろ隣が本屋なのだから便利この上ない。

 図書館も同じようだけれど、図書館では飲食は禁止だし、バッテリーの問題もある。我ながらここにたどりついたのは名案だった。
 
 短時間気分転換に立ち読みするのは雑誌類だ。迷惑なお客のようだが、帰るときには毎度五千円程度の買い物をしてくるから、けっこういい客だと思っている。

 こういうタイプの本屋ならどこでもいいのかとなるとそうではない。これはこれで私なりに探し回って見つけたとっておきの場所なのである。
 田舎のこういう店は、本の他に、CD販売やヴィデオレンタル、ゲームソフト販売などあれこれやっているものが大半だ。本屋なのに日本語の流行り歌がうるさく流れている場合が多い。私はそれがダメである。くつろぐどころか苛立ってしまう。
 この店は純粋な本屋であり、無音か静かにクラシック音楽を流すという正統派なのである。田舎では稀な店になる。我が家からここまでクルマで四十分ほどかかるが、週に一度は出かけて駐車場で仕事をしている。



猫的な日常

 というわけで、今の私は、この「移動書斎」がないと仕事をこなせないほどクルマの中で書くことに助けてもらっている。どこかまた新しい場所を開拓したら追記することにしよう。

 と、後半部分を目の前にある昨年亡くなった愛猫の写真を見つつ自室で書いていたら、こういう行動もまた猫的なんだなと思いついた。ぼくは単なる猫好きではなく、いろいろな意味で−−たとえば運動能力などでも−−猫的なのだが、この落ち着く場所をちょいちょい変えるというのも猫そのものだと気づいた。私の猫も、居眠りするお気に入りの場所をよく変えていた。一カ所気に入るといつもそこなのだが、ある日気分転換に新しい場所を見つけると、古いところには近寄らなくなる。五、六ヶ所変った二年後ぐらいに、また元の場所にもどったりしていた。私の「モバイル書斎」も、同じ軌跡をたどることだろう。

(01/11/30&12/4)

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