発想の逆転


モバイルノートからタワー型へ

 クルマの中でハンドルに乗せて、部屋の中ではおなかの上に乗せて、四六時中一緒にいたVAIOとの二年にわたる蜜月時代に終止符を打ち、タワー型パソコンで仕事をするようになった。小回りが利かなくなり不便になったこともいくつかあるが、忘れかけていた楽しみもいくつか思い出した。

 VAIOからタワーにもどっていちばんの不便が、モバイルVAIOはいつもスタンバイモードで使っていたから、いつでもどこでもすぐに立ち上がったのに対し、タワーはいちいち電源を入れねばならないことだった。立ち上がりを待つ時間が煩わしい。しかもソフトマニアとしてあれこれと常駐しているから人一倍時間がかかる。


 タワーも二十四時間電源を入れっぱなしでスタンバイモードにしておいてもいいのだが、その間も休むことなく回るファンの音がうるさい。ファンなどなかった時代が懐かしい。むかしのパソコンは静かだった。Pentium以降の発熱による傾向である。どうにも耳障りなのでそのつど電源を落とすことになる。この使用感の差は、バイクと大型トラックの違いみたいなものだから宿命だと思いあきらめた。

 VAIOを何週間もスタンバイモードで使い続けられたのもOSがWin2kだったからで、これがソフトの立ち上げや終了のたびにシステムリソースを消費してゆく9X系OSだとそうは行かない。定期的に再起動してリソースの解放をしなければならない。ソフトウェアを多用する私の場合だったら一日三回ぐらいは必然だった。

 それが2kなら、短いときでも二週間、時には一ヶ月も再起動不要なのである。正にもうモバイルそのもので、私はいつも寝床の隣に置き、メモ帳のように使いこなしていた。思いおこせば、VAIOべったり度はOSを2kに替えてから急上昇したのだった。まったく98やMEと2kでは天地の差ほども使用感が異なる。私は未だに98を使っている人が信じられないほどだ。

 ただこういうのはよけいなことで、人それぞれ満足していればいいことでもある。OSが表示される掲示板などでは、未だにほとんどの人が98のようだから憎まれ口になってしまう。私の場合は、自分のパソコン環境に関する不満の99パーセントが2kに替えることで解決した。とにかくもう私の場合、Win-2k様々である。


デスクトップの楽しみ
 一方、久々にデスクトップに長時間親しむことで思い出した楽しみとは、文章を書きながら音楽を聴くことだった。

 VAIOべったりの時代にも音楽は聴いていた。CDやテープである。クルマではラジオも聴いた。競馬や大相撲中継を聴きながらの文章書きも楽しかったものだ。

 タワー型パソコンで聴く音楽はそれらとはまた違う。パソコン内CDーROMプレイヤーで聴く音楽である。といっても、それが単に普通の音楽CDなら、それは今まで部屋でステレオから流していたものと同じBGMでしかない。この場合のソフトはパソコン用の音楽CDーROMという意味である。

 CDーROM付きパソコンというのはむかしは夢の機械だった。私が最初に買ったのは外つけプレイヤーだったし、今も覚えているのは、Win3.1の供給メディアがまだフロッピーディスクだったことである。たしか私の場合はフロッピー28枚だった。要領は40メガ程度ということになる。WinMeが800メガぐらいだからOSもまた相当に巨大化している。

 パソコンの調子が悪くなったらOS再インストールというのは今もむかしも常識だが、この28枚をとっかえひっかえのインストールは面倒だった。万が一のためにコピーを取り、1から28まで番号を打ったフロッピーを次から次へと差し出しては抜き出し、次を入れてとやっているのは、まるでトランプ手品の練習のような気分になったものだ。いやいや、次から次ぎではない。読み込みが遅く、パソコンの前でじっと待機していなければならなかった。あのジーコジーコと読み込むフロッピーの音を聞きながらだ。一時間も二時間も付きっきりだ。パソコンにCDーROMプレイヤーが着いてくるのが当然となり、CDを一枚入れるだけですいすいとインストールが進むようになったときは、ずいぶんと楽になったと思ったものだった。

 CDーROMプレイヤーが付いているデスクトップパソコンを手に入れたとき、ソフトウェアマニアの私は、早速パソコンCDーROM用音楽CDをあれこれと買いそろえてきた。クラシックやジャズや、ビートルズ全集などである。

 LPレコードでもCDでも、チェンマイで買ったカセットテープなど、いくつものメディアで持っているビートルズを、なんで今更とも思うが、これはこれで利点がいくつもあるのだった。新型ハードウェアが手に入ったのだから対応するソフトウェアを買いそろえてお迎えするのは当然である。

 たとえば「クラシック名曲百選」である。NHKの名曲アワーのように動画まではないものの(そんなものいらないが)、音楽が流れ、らしき風景と作曲者のプロフィール、生没年、その曲の簡単な説明が表示されたりする。文章を書いているときはそれらはオフにして聴いている。BGMとして流しているとき、ふと「この曲って誰のだっけ?」と思う。クラシック半可通のボケ中年である私はケッヘルナンバーどころかモーツァルトかバッハかすらこんがらがるときがある。

 音楽用ステレオで聴いていたときなら、いちいちCDを取り出して確認せねばならない。そういうことが気になって成らないタチなのだ。でもそれはある種の几帳面ということだからまだいい。もっと悪いことに、齢を取ってそういうことが面倒くさくなりつつある。「えーと、これはなんだっけ、調べないとな、でも面倒だからいいや」と、知らぬは一時の恥を、調べずに一生の恥にする傾向が芽生えつつあった。

 クラシック音楽の知識がこんがらがっていようと直接生活にも現実の友好関係にも影響があるわけではない。あとでいいやと割り切ってしまえば、フリーランスの人間はいくらでも怠け者になれる。だからこそ怠け心に鞭打って極力自分を律しなければならない。

 その点パソコンだと、文章入力中のテキストエディター画面を「クラシック百選」の方に切り替えるだけで、たちどころに掲載されているデータを確認できる。ありがたい。ストレスがたまらない。「よし、覚えた、確認した、もうこんがらがらないぞ」と決意する。調べようと思いつつ面倒だからと逃げてしまうより、こう確認することのほうが精神的にはかなりす昂揚る。同時進行中の仕事にだっていい影響を与えるだろう。

 その百選の中から好きな曲を繰り返しかけたり出来ることはいうまでもない。また、クラシックでもジャズでも、一枚のCDすべてがお気に入りということもなかなかない。好きな曲を繰り返し聞けたりするのもこの種の機械のいいところだ。

 ところで、私には未だによく解らないことがある。
 たとえば「サイレント・サウンド」なんてイージーリスニングのCDがある。心落ち着かせるための静かなクラシック曲を集めたものだ。海外にもよくもってゆき飛行機の中で聞いたりする。ところがなぜかこういうCDに必ずといっていいぐらい、一曲はアリアが入っているのである。あの女性の金切り声で「ヒーホーヘエア、ハアアァァァァァァアアアア!!!」とめいっぱいソプラノヴォイスを張り上げるヤツである。これをやられたら眠るどころではない。目が覚める。この種の音楽を好きな人が多いことも知っているが、好きでない私などは一気に不快になる。なんでこういう選曲をするのかどうしても解らない。だってその他の音楽は抑揚の少ない、ゆったりした映画音楽だったりするのである。とにかくこんな場合には急いで止めたり飛ばしたりせねばならない。ステレオまで駆け寄るにせよリモコンで操作するにせよ面倒である。そういうこともまたパソコン内音楽なら机の前から動かずに一瞬にして出来る。なんとも便利なものだ。


ところがまたもや問題発生

 
そうしてしばし完全装備の便利なタワー型の恩恵に酔っていたのだが、これはこれでまた小さなささくれが生じてきたのだった。

 私が初めて買ったCDーROMプレイヤーのスピードは2倍速だった。すぐに4倍速になる。その後8倍、16倍とどんどん速くなるわけだが、未だにOSのセット画面では「4倍以下か以上か」というようになっているので、たぶん「4倍」というのがボーダーラインなのだろう。

 私の現在使用している機器は32倍速である。ウィーンという立ち上がり音から始まり、次第に「クーングーンゴーン」と筐体を振るわしての回転音はかなりのうるさいのだが、その実力には満足している。IBM-ViaVoiceのような500メガもあるようなソフトでもすいすい入ってゆくのを見ていると、かつてのフロッピー時代の苦労を思い出し、胸がすくような快感である。思わず「どんなもんだあ!」と大声で叫びたくなる。
 叫ぶ相手もいないし、さすがにそこまでくるってはいないので我慢するが、やはりこういうのもかつて粗末な周辺機器でさんざん苦労したからであって、「苦労は人間を小さくする」という私の持論はここでも確かめられるわけだ。

 と、うるさいことには気づきつつも、その実力に満足していた愛機のCD−R/RWプレイヤーだったのだが、深夜にこの「クラシック名曲百選」のようなものをBGMとして聞くようになると、さすがにその音が気になりだしたのである。

 ソフトウェアのインストールは、だいたいにおいて昼間、筐体を解体し、あれこれとグレードアップしたりしている時にやるものである。そこにおいては、回転音のうるささよりも機器としての能力が優先される。回転音がうるさくても高性能であることにより魅力を感じたりする。ところが深夜に文章を書きつつ、静かなクラシック音楽をBGMとして流そうとするとき、その回転音は、かなりのマイナス要素となる。

「クラシック名曲百選」のようなCDーROMは、MIDIデータ及び映像データを2曲分ぐらい読み込んで再生し、2曲目の終りになると、新たにまた2曲分を読み込み、のような仕組みになっているらしい。ということは、2曲の演奏が終る頃、8分毎ぐらいに「ウィーン」から「クーングーンゴーン」というCD−R/RWの全力疾走回転音を聞かねばならないということである。これがどれぐらいの音かというと、静かに低く流している音楽をかき消してしまうぐらいだから、かなりのノイズということになる。興ざめであること甚だしい。

 私のタワー型パソコンは、元々の静音設計のケースに、消音シートを張り巡らし、さらにはディポロギーシートという特許申請中だかの静音用の高価なシールをHDドライバー、FDドライバー、CDーROMドライバーに貼ってある。リムーバブルでないHDをスマートドライヴに入れてあるのはもちろんである。

 CDーROMドライバーも、銀色の鉛シートでぐるぐる巻きにされており、私としては「完全な無音になるだろうけど、そのぶん発熱が心配だ」と思っていたほどなのだ。なのにこのCD−R/RWプレイヤーの回転音は、完全武装されたゴツい筐体がふるえるほどの迫力なのである。この圧倒的騒音はどういうことなのだろう。
 組み立てている頃にはその高性能に酔っていたのに、深夜に仕事をしていると、私は急にこの騒音が煩わしくなってきたのだった。

 なにしろ読み込む音楽データがたいした量でないことは解っている。なにもそんなにむきになって回転しなくてもいいものをと思うのだ。まるで近所のたばこ屋に行くのにいちいち6000ccのキャデラックのエンジンをかけるようなものだ。

 そういえばむかし矢沢のエーチャンはそれが夢だと語っていた。糸井重里監修のベストセラー『成り上がり』の中で。
 私はあの本を読んでゲラゲラ笑ったものだった。ちょっとしたことに思いっきり贅沢するということ、ムダであることのかっこよさ、そんなことは私にも解る。でも角のたばこ屋にハイライトをひとつ買うのにキャデラックで行くという、ムダと贅沢とかっこつけは、私には周囲に迷惑なただのバカとしか思えなかったからである。

 とはいえ私もエーちゃんを笑えない。物書きの私に必要なパソコンはソーテック辺りの安物で十分なのだ。(でもやだな。考えただけでやだな。ソーテックの安物パソコンなんて。ここを読んでいる人にそんな悪趣味な人はいないと思うが。いたらすみません。)

 なのに私は不必要に高いパソコンを買い、とうとう自作パソコンまで作り始めてしまったのである。それもあれこれとCPUやら周辺機器やらを買い換えたりして、すでに使った金は70万を超えている。こりゃただの無駄遣いバカである。

 無駄遣いバカがそれに徹していると筋が通っているのだが、私の場合は、そこに生じるセコいことを気にしているから間抜けだ。キャデラックに乗りながら燃費を良くする液体を燃料タンクに入れているような矛盾である。

 私はいま、キャデラックCDではなく、近所まで煙草を買いに行く自転車CDを欲していた。全力疾走大回転のノイズに、なんとかならんかと頭を抱える。
 だが、すべては高性能へ高性能へと進化してきたのだ。周辺機器オタクだからして、押入の中には、どこも壊れていない2倍速のCDーROMプレイヤーだってある。だけどこのBGMを聞くためにだけ低回転CDーROMプレイヤーを外つけで使うなんてのも相当にヘンな話である。

 それは常に高性能を目指してきた私にとって、高性能がじゃまになるという初めての経験だった。毎月二十冊も買っているパソコン雑誌で何をやっているかというと、「あなたのWINDOWSを速くする!」なんて特集を読んでは、こまごまとした設定を変えたり、最近ではとうとうレジストリをいじるようにまでなっていた。

 そうして起動や表示を秒単位で速くしてはよろこんでいたのだ。それが今、「低能力のCDーROMプレイヤーでもいいのに、高能力のうるさいものしかなくて困った」という問題に初めて直面したわけである。初めての経験だ。どうすればいいのか。
 という長い長い前振りが終り、やっとテーマの「発想の逆転」である。毎度毎度ながったらしくてすまんすまん。
そうしたところに発想の逆転

 そんなある日、私は「CDプレイヤーの回転数を落とす」というフリーソフトウェアを見つけたのだった。インターネットで出会ったと言ったほうがかっこいいのだが、残念ながらそうではなく、パソコン雑誌の特集で見つけたのだった。附録のCDーROMに入っていた。こういうことがたまにあるから、あまた買っているパソコン雑誌も役立つわけである。まあ「見つけた」では何の意味もない。インストールして役立ってくれなければ。

 そしてそれは見事に役立ってくれたのだった。「NeriDrive」というソフトである。これをインストールすると、実行画面が出て、CDーROMプレイヤーの回転数を落とせるのである。私の場合は32倍であるから、それ以下に変更が利く。
 私は最も低回転の2倍にしてみた。音楽CDーROMからの読み込みデータはそれでも十分だと思ったのだ。特にリアルタイムで読み込むのではなく、「今かかっている曲が終りそうになったら次の曲データを読み込む」という先読み形式である。

 思った通りだった。2倍で十分なのである。効果は抜群だった。32倍がキャデラックのエンジン音なら、2倍は無音の自転車である。低く静かに流れるBGMのクラシック音楽を、CD−RWプレイヤーの回転音は、いっさいじゃますることなく、2倍速でゆっくりと回っては次のデータを読み込んでいった。
 聞こえるのは冷却ファンの回転音だけである。これも気に障るのだが、これはまた別の問題である。仕方がない。CPU高性能化に伴うファンの騒音は、パソコンマニアにとって大きなテーマになっている。

 というわけで、これはちいさな出来事なのだが、私にとっては発想の転換を強いられるとても印象的な出来事となった。なにしろ物欲が強く新製品大好き人間なので、旧製品にもどるというような発想とは無縁だったのである。
「高回転高性能の機器があるのに、あえてそれを低回転低能力にする」という今回の経験は、今後の人生にもなにか役立つような気がしている。それは「逆転の発想」としてだ。だが今回の経験は、あくまでも「発想の逆転」なのだった。(01/5/25)


 03年4月、不細工なデザイン(作った当初はとてもかっこいいと思っていたのだが)のこのファイルを作り直した。
 ひさしぶりに読み直してみるとほんの二年前なのに隔世の感がする。機械的な面もそうだが、実際は本人(わたし)の知識の差なのだろう。この当時でも知識も技術もあり、きちんとしていた人は、もっと快適なパソコンライフを送っていたはずだ。

 この文章を読んでなにがヘンかというと、まず「CD−Romプレイヤーが轟音をたてる」というのがおかしい。でも実際そうだった。あれは取りつけ位置が悪かったのか、そのあとケースを換えたら静かになった。その程度の騒音ならここに書いたようなことは必要なかった。正しく取りつけていて轟音がなかったら、こんな文章は書いていなかったことになる。よりよいケースに正しい位置で取りつけ、静かになったら、CD-ROMプレイヤは早速元の高性能にもどしてしまった。それがいいに決まっている。よってここに書いたことは、ほんのつかの間の出来事だった。

 それでもこのことはそれなりのサジェスションにはなったようで、最近やってみた「ノートに、『ホームページビルダー』の古いVersionをいれて使用する」なんて発想もここから来ていたのだろう。残念ながらなんの効果もなかった。『ホームページビルダー』が重くて困っているのは深刻な問題なのだが、それはホームページ自体が大きくなり、同時に写真閲覧ソフトを起動しているような問題であり、ホームページ作成ソフトを容量の小さい旧Versionにもどしても、軽くさくさく動くなんてことは実現しなかったのである。「高機能高性能の機械(あるいはソフト)を敢えて低機能低能力のものにする」というのは発想の逆転だったのだが、いまのところさしたる成果はあがっていない。
 それでもこれは「人生、のんびりゆこうぜ」の発想につながるから、そのうち役立つこともあるだろう。(03/4/14)


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