──「愉楽の園」宮本輝
作品における「ほんと」と「嘘」。
「課長 島耕作」を読んでいる頃、自分の詳しく知らない国の話に感激した。たとえばニューヨーク篇などは、ニューヨークに住んでいる人が、いったい何日取材したんですかと訊くほどよくできていたと言われた。たしかにおもしろかった。世間の高い評価に対し、実際の取材は一週間だけだったと弘兼さんは誇らしげに語っていたものだ。フィリピン篇もおもしろかった。
が、タイ篇は、すこしも楽しめなかった。それは私がタイに詳しいからだった。一週間ぽっちの取材で作った嘘が見えてしまう。きっとフィリピン篇も、私がタイと同じぐらい詳しかったならあれほどは楽しめなかったろう。私はキリスト教が嫌いなのでフィリピンには行ったことがない。
かといって取材とは、長い間やればいいというものではない。きりがない。逆に、やればやるほど解らなくなってくるから、ある時期で割り切り、あくまでもこれは自分流の切り口、自分の作品世界なのだと一線を引かないと、飛べなくなってしまう。弘兼さんの作品に出来不出来はない。単に私がタイにだけ詳しかったことが悪い目に出ているだけである。
宮本輝は、同人誌時代に書いた最初の小説はバンコクを舞台にしたものだったと何度か随筆で書いていた。それは三十歳で芥川賞を受賞した「蛍川」のずっと前に書かれたもので、なぜ自分が行ったこともないバンコクを舞台に設定したのか我ながら不思議だと言い、いつしかきちんと仕上げてみたいと語っていた。
それからずいぶんの時が流れた。その習作を後に完成させたのが「愉楽の園」である。
今回ひさしぶりに読み返してみた。初めて読んだときもつまらなかったが、やはり今回も、この小説がおもしろいとは思えない。私は宮本小説のファンである。ほぼ全部読んでいるはずだ。なのに楽しめない。
作家が、見知らぬ国を一週間程度きっちり日程を組んだ取材旅行をして、「お、これは使える」「これはちょっと無理か」「よしよし、このイメイジだ」と構成してゆく課程が見えてしまうのである。そういう素材を並べて構成した後は、宮本輝ワールドの開幕である。いつもならその中にとけ込んで行き楽しめるのに、よく知っているタイなものだから、「んなアホな」が連発してしまい楽しめない。苦笑してしまう。
が、ここでまた、私が苦笑してしまいとけ込めない部分ほど、タイのことなどなにも知らず宮本輝の小説として楽しもうとしている人にはおもしろい箇所なのかも知れない、とも思う。
日本人が知り合ったばかりのタイ人のスラムに住む少年と、無償の愛がどうのこうのと会話をし、少年がまたさらにしゃれた言葉を返したりするシーンがある。それは小説世界としてとてもよく出来ているのだろう。私は、この日本人は英語で話したのか、タイ語で話したのか、と気になる。英語のようだ。スラムに住む無学の少年が無償の愛がどうのこうのなんて哲学的な命題をサラっと会話することなんてありえるはずがない、タイ語で無償の愛ってなんていうんだ、英語だとどうなる、それをその少年は理解したのか、そんなに英語力があるのか、とそっちに想いが飛んでしまう。どう考えてもこれは──べつに考えなくてもあたりまえだけど──スラムを表面的に取材した宮本輝が、そこを借り物の舞台として、頭の中で作って楽しんでいる世界である。タイとはまったく無関係だ。
以前あるタイ関係のホームページを覗いたとき、そこにはタイ関係書物の書評コーナーがあり、そこでこの「愉楽の園」が絶賛されていたことを思い出す。他人の作品にずいぶんと辛口の書評で、ノンフィクション系のものに対しては言いたい放題しているのに、なぜこの本への評価が甘いのか理解できなかった。宮本ワールドに幻惑されたのか。私にはどうしてもこれが彼の他の作品と比べてもよい出来とは思えない。
一般にこの種の書評に置いて──特にこういうホームページを作っているような人は──ノンフィクションに関しては辛口になりがちだ。それは事実体験談の羅列だから自分にも出来ると考え、していると思い、体験の深度だけに目を奪われがちだからである。「この程度のことなら、おれはもっとスゴいことを経験してるぞ」と。そのことから「だからおれが書いたらもっとすごいものが書ける=それが出来ないのは、単にそういうチャンスが与えられていないからだ」となってしまう。それは勘違いなのだけれど……。
下川祐治さんを尊敬しているのはまだなにもしていない時であり、自分も同じようなことをして、より過激なことを経験したり、下川さんが間違って書いていることを発見したりすると、自分のほうが高見に行った気分になってしまうのである。
さて私はどうすればいいのだろう。タイに詳しい連中に、さすがにこいつは詳しいなと思わせるようなものを書くべきなのか、そんな連中は最初から無視して、彼らには「あいつのは全部作り話、嘘だらけ、間違いだらけ」と疎まれようと、一般に受け入れられるおもしろさに走るべきなのか。そりゃまあ結論は出ている。オタク小説を書くわけじゃないから、ディテールにこだわっているわけにはゆかない。一線を引かないと。
結論が出ていながらまだもやもやしたものを引きずっているのは、いつしか私もタイオタクに足を踏み込んでいたからなのだろう。小説を書く前に、まずはそこから脱却しないとエンタテイメントの世界にはもどれない。去年の暮れからもうタイ関係のサイトには一切出入りしていないし(それは意図的にではなく素直に興味がないからだが)、パラダイムはだいぶまともになっているはずなのだが。
(02/5/23)