毒字感想文

ひまわりの祝祭  藤原伊織 出版社?

チェンマイの古本屋『宇宙堂』で買って読んだ。いかなるルートから入ったのかハードカヴァーの単行本だった。出版社はどこだったのか。文庫本は講談社のようである。これって出版社が代わるから単行本もそうだとは一概に言えない。ま、どうでもいいんだけどさあ……。

 時代小説を買おうと出かけたのだった。藤沢周平が読みたかった。いくらでもあると思っていた。するとない。店主のナベちゃんによると時代小説は旅人に人気があるので入ってもすぐに出て行ってしまい、なかなか入らないのだという。それは事実だろうが、多角経営を始めているナベちゃんにとって古本屋はもうどうでもいいのだとも感じた。本棚は埃を被りあまり商品も動いていないようだった。補充もされていない。ということで、喜んで買ったのではなく仕方なく買った一冊である。やはり仕方なく買った物にはこういう感想しか浮かばないのだった。

時代小説を探して本屋を探し歩いた。スポットライト手前の路地に最近出来たというタイ人経営の古本屋に出かけた。日本人用フリーペイパ『チェンマイエクスプローラ』にも紹介されている店だ。二階が日本本のコーナになっている。ここは今チェンマイでいちばん日本の本が揃っているのではないか。なかなかのものである。正直期待していなかっただけにその品揃えには驚いた。店主の青年に日本語の本があると店頭に日本語の看板を出した方がいいと言ってみる。いくらでも協力するよと。まだ開店したばかりなのでそこまではやっていないが、いずれぜひやりたいと彼は言った。たしかに乱雑な状況の中、本の整理に追われていた。まだそこまで気を遣う時期ではないのだろう。がんばってほしいものである。本好きはぜひ言ってみて欲しい。
 しかし残念ながらたくさん置いてある本の中身は薄かった。いわゆる「ライト推理小説」がメインなのである。これは店主の彼の責任ではない。彼は買い集めただけだ。とすると日本人旅行者がタイに持ってきた本がそういうものだということになる。そういうものなのか。わかるような気もする。

「山村美沙の小説なんて、読み終った後、むなしくなるんだよねえ」と、同行したTさんが言った。これ、なかなかの至言である。山村美沙、西村京太郎、内田康夫の本は、キオスクで売れる。ビジネスマンが東京から大阪に行くときにちょうど一冊読み終えられる旅の友なのだ。よおしこれから仕事をがんばるぞと発憤させてくれるような薬味もないが、おれ、こんなことをしていていいんだろうかと自身の存在に悩むような毒もない。正に毒にも薬にもならない二時間の時間つぶしである。それはそれで存在価値なのだが、Tさんのようにもう仕事もしていず、死ぬ時を待っているだけの人が、やることもないからと仕方なくこういうのを読むと、益々落ち込むことになる。むなしさを知っている人ほどそれを確認したくはないものなのだ。
 タイを訪れる旅人にとって本とは、東京から大阪への新幹線時間つぶしのように、成田からバンコクへの時間つぶしなのであろうか、圧倒的に多いのは、その種の本なのだった。そしてまたそんな本だから、すぐに手放すのだろう。壁一面にある十段ほどの文庫棚を見て、一冊も買いたい本がないというのもつらいものがある。まして「おお、すばらしい品揃えだね。チェンマイでいちばんだよ」と若いタイ人店主を褒め称えておいて一冊も買わないというのも申し訳ない。何千冊とあったんだろうなあ、でも買いたい物は一冊もなかったのである。
 と、ここで考えてみるに、そういうものが大量に流通しているのはういう本だからとも言えるのではないか。つまり、旅人だって大切な本は手放さないのだ。旅人がみんな山村美沙や西村京太郎ばかり読んでいるのではなく、そういう本だからこそ手放されているのではないか。かくいう私もそういう本は手放しても、大切な本は売らなかったではないか。
(今回、引っ越しをするTさんに、預けておいた大切な本を売られてしまったのは痛かった。それは悪意ではなくTさんの勘違いだった。Tさんには手あかのついた将棋の戦術書等が私にとって大切なものとは気づかなかったらしい。だが私からするとそれはもう絶版になっていて二度と手に入らない宝物なのだった。一方でまたTさんは、どうでもいい本をこれは宝物に違いないと大切にとって置いてくれたりもした。つきあいとは難しいものである。)

そういうわけでこの本は、読む物がなくなりいやいやながら買ってきたものだった。といっても、見知らぬものを間違えて買ってきたわけではない。下に記すがこの作家のデビュー作である『テロリストのパラソル』というのを読んでいた。中国だった。あまりいい読後感ではない。それでも、それだけでこの作家に対する意見を持つのはよいことではないと、二作目であるこれもきちんと読んでみようと、あえて選んだという側面もあった。 

 読むのに一週間かかった。分厚い単行本ではあったがそれが理由ではない。おもしろくなくて読み進むのがイヤになってしまうのだ。深夜から明け方に睡眠薬代わりに読み、なんとか読み終えた。リッパな人なのかもしれないので強いことは言えない。個人的なことなら言ってもいいだろう。私個人はどうにも読者としてこの作家とは相性が悪いようだ。それは今更言わなくてもデビュー作の『テロリストのパラソル』でわかっていたことでもあるのだが……。

 よく知らないけど、これは二作目だったか。『テロリストのパラソル』が史上初の江戸川乱歩賞と直木賞をダブル受賞して、業界の寵児と注目され、満を持して発表された二作目がこれではなかったか。だとすると、これはかなり読者を失望させた失敗作ではないのか。発表された当時の雑誌の書評などを読んでみたいものだと思った。

 テーマそのものは悪くないんじゃないかと思う。簡単に書くと「ゴッホのひまわりは7まいだ。が実は8枚書かれていた。それが数奇な運命をたどって日本に渡っていた。絵画ブームにより百億の価値がある。それを巡る争奪戦」なのである。上手な人が書けば最高級のエンタテイメントになったのではないか。でもこの作品では盛り下がることおびただしい。うんざりした。
あまりのおもしろくなさに腹が立ち本はチェンマイに捨ててきてしまったのだが、筋書きを思い出しつつ書くと、まず最初に「高級ビルが建ち並ぶ銀座の一等地にあるボロ家で、無職のまま世捨て人のように生きる三十男」が登場する。主人公である。好物は「温めた牛乳とドーナッツ」だ。文中何度も「温めた牛乳」という言葉が登場する。ホットミルクではない。そうでないといけないのだ。「歯が悪く時々虫歯が痛む」となっている。ここにかつての広告会社の上司が登場し、博奕場に誘われる。わざと負けて金をすってくれという頼みだ。そこで「死んだ女房とそっくりの女」と出会う。

 というようなことがまずは延々と続き、著者が得意とするらしいアメリカのハードボイルド小説みたいなシャレた会話(なのだと思われる)が長々と交わされる。この辺でもう私は飽きてしまい、これはいったいどういう小説なのだろうと投げ出してしまう。
 女房は何年か前に自殺している。お腹の中には子供がいた。主人公は成人してからおたふく風邪を患い無精子性なのだ。お腹の子は誰の子だったのか。

 とここから、主人公は高校生の頃、絵画展に入選した天才少年だったとそっち方面の話になる。女房は二学年下で、当時からあなたの奥さんになって守ってあげると言っていたという昔話。主人公は筆を捨ててしまう。広告会社でアートディレクターとなり、日本一の賞を受けたりする。ここでも業界の天才児と呼ばれる。が女房の自殺により何もかもやる気がなくなり、会社を辞め、わずかな貯金を食いつぶしつつ、毎日古い映画をヴィデオで観、温かい牛乳とドーナッツの日々を送っている。広告会社を辞めた後、アメリカに何年かわたっている。そこでアメリカ人の知人との縁から射撃に魅せられ、才能があったのかかなりの腕前になったと、後々の伏線のためのかなりわざとらしいエピソードが盛り込まれる。

 で、金に困った連中が(ヤクザとファイナンス会社の社長という二組)家捜しをしたりする。そこでやっとゴッホの8枚目のひまわりの話が出てくる。ゴッホはそれを耳を切り落としたときの娼婦に詫びと共に与えている。娼婦は気味が悪いのでそれを旅回りの藝人に挙げてしまう。藝人はパリで知り合った日本人画家にただ同然の値でその絵を売る。その日本人画家が主人公の自殺した女房の祖父で、彼の帰国と共にその絵は日本に持ち込まれ、自殺した女房の実家に隠されているのではないかとなる。庭に地下室があったことを思い出し掘る。そこにはない。実家の奥の間には主人公の大ファンだった自殺した女房が収集した高校時代の絵が展示されている。その一枚の中にひまわりは隠されていた。ファイナンシャル会社社長がそれを発見して奪う。なおこの社長はホモであり、空手の達人のホモというのも重要な脇役として登場している。その絵を取りもどすために主人公は埠頭に向かう。ゴルフバッグに入れたライフルを手に。女房そっくりの若い女はそこで撃たれて死ぬ。主人公の怒りに火がつく。その自殺した女房にそっくりの若い女はファッションヘルスに勤めている苦学生で、主人公を引っ張り出すために絵をねらう連中が探し出してきた女だというのだが、絵を欲しいだけなのになんでそんな回りくどいことをするのか理解に苦しむ。最後は主人公がアメリカで身につけた射撃の腕がやくだのだが……。
 なんだかなあ、書いているだけでめいってきた。なんなんでしょ、これは。
テーマはおもしろいのだから、問題があるとしたら構成になるのか。この種の作品の手練れが書いたら、息をも尽かせぬノンストップアクションになったのではないか。それがもうまだるっこしくてまだるっこしくて、アクセルふかしつつブレーキを掛けているような構成だから焦げ臭いったらありゃしない。この構成のつまらなさは発刊当時にも評論家から指摘されたと思う。どう考えてもヘタだ。
 そういう根本的なものはともかく、いやこれも根本的なことかもしれないが、私は彼が作品の中で力を入れていると思われる「シャレた会話」というのについて行けない。思わず「そんなしゃべり方している日本人いねーよ」と毒づいてしまう。これは藤原伊織が手本とした作家、目指す作家のありようなのだろう。とにかくデビュー作からそういう会話が目立ち、好きな人もいるんだろうけど、私にはその日本人の会話としての不自然さが鼻について、とてもじゃないが楽しめない。そういう不自然な会話ということでは、村上春樹の作品があるが、あの場合は、不自然さを吹き飛ばしてしまうそれ以上のおもしろさがある。「そんなしゃべりかたをする日本人はいねーよ」と思いつつ、「いたらいいな、ぜひ会いたいものだ」と思わせる魅力がある。この人の場合、それはない。「シャレねばならない」と力んでいるから少しも魅力的な会話になっていない。これは前作もそうだった。
(2003/6/1)

 ホームページをリニューアルするチェックでこのコーナを調べたらここが半端なまま投げられていることを発見した。それすらも忘れていた(笑)。
 第二作目の「ひまわり」はひどい出来だった。それほどではないにせよこの話題となった第一作もたいしたもんじゃない。ついでといってはなんだが、これについても書いておこうと思っていたが、間をおいていたらそこまでの熱意が消えてしまったらしい。
「毒字感想文」とは即ち嫌いなモノの悪口である。時が経てばどうでもよくなる。好きなモノが時を経ても感動が色褪せないのとは対照的だ。これがどんな内容だったか、これについていったい何を書こうと思ったかすらもう覚えていない。

 と書いていたらいくらか思いだしてきた。
 この「史上初の乱歩賞、直木賞ダブル受賞作」をどこで買ったのかは覚えていない。田舎の本屋で買って持っていったのか、出発直前に成田空港で文庫本を買ったのだったか。確かなのは旅先に持って行く貴重な本として選び、云南の山奥の妻の家で何度も読んだということである。
 とてもとても何度も読むほどのものではない。そのときどういう経緯だったか荷物の都合で本を二冊ぐらいしかもって行かなかったのだ。それが『お言葉ですが…』だったら無尽藏の楽しみをくれたし、『プリズンホテル』だったら気持ちよく泣けた。しかしなんたることか、その「史上初のダブル受賞」に踊らされて、これを持っていってしまったのだった。大話題作だから読まねばと思いつつ、読まないままに時は過ぎ文庫本になった。結果として腹が立ち捨ててきた本なのだが、云南に持って行くときは、その「史上初」とやらの凄味をたっぷりと味わわせてもらおうと期待大だったのである。

 いま文庫本の出た月日を調べたら1998年7月であるらしい。とすると妻の家でこれを読んだのは98年の8月だろう。雨季で毎日雨が降っていて、外出も出来なかったことを覚えている。まだ云南に慣れてなく、あぶないのでこのときはパソコンを持って行かなかったのだった。

 一読してつまらなく、投げようと思った。が他に本がない。しかたなく読み進む。読んでいると同じような表現が目立つ。気になってならない。「この表現、前にも出てきたよなあ」と気になって前のページを手繰る。それが船戸与一のような一篇の中に何十回も出てくる、いや他の作品でも何十回も出てくる毎度おなじみの言いまわし、になると、林家三平的容認できる味わいになるが、この作品のようにそれが五六回であり、もしかして作者はそのことに気づいてないのではないかというレヴェルだと妙に気になる。これは単なる推敲不足であろう。
 他に読む本がないので、どうにも活字に飢えたとき、私はこの作品に出てくる同じ表現の箇所を携帯していた蛍光ペンで塗りつぶし始めた。

 その本も捨ててしまったし、今さらその繰り返し表現とはなにかと図書館で借りてきてここで指摘するつもりもない。どうでもいい。その後この人の作品はどうなったのだろう。傑作をものにしたという話も伝え聞くし、ひさしぶりに読んでみようかと思ったりもする。それでもこの二作の失望があまりに大きく、あれ以来本を手にしていない。




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