毒字感想文




 圓生の録音室──高須偕充著  
 私が借りてきて読んだのは「青蛙房(せいあぼう)」出版の元本。昭和62年発刊だがまだひとりしか借りていない新品だった。ネットで探してきた左の写真は中公文庫のもの。

 昭和62年のその時点では三十代の高須ディレクタはさほど演藝に詳しい関係者ではなかったようである。十八の時に寄席で圓生を見ている落語好きではあったようだが。
 私は今回この本を読み、高須さんはこれっきりの人だと思っていた。聞いたことのない名前だし。ところが上揚の画をもらってくるとき検索して、今では多くの演藝本に関わっているこの業界の有名人なのだと知った。世に数多く出ている「落語をことばで収録した本」の出版に頻繁に名が出てくる。どうやら圓生関係の仕事をしたことがきっかけで、そっち方面で売れっ子、ある意味大御所になったようなのだ。昨年出て話題になった志ん朝の落語本もプロデュースしている。
 と考えると、たしかに昭和の名人を知っている演藝評論家はみな年老いたから、そういう「椅子」が空いていたのだと思いつく。圓生に生に接した若手として、いつの間にか高須さんが大御所になっていったのがわかるような気がする。ご本人もこの時点ではまさか落語関係の本を何十冊もプロデュースする立場になるとは思いもしなかったろう。その量から見て、もしかしたらその後ソニーを退社して自分のプロダクションをもっているのかもしれない。「仕事」と「運」にはいろんな流れがあるのだなと興味深かった。

 さて肝腎の中身だが、圓生の藝に対する熱心さと、気むずかしさがかいま見え、おもしろい。また著者が決して単純に圓生を礼賛していないのがいい。彼のケチな部分、金銭的な執着に遠慮することなく踏み込んでいるのも小気味よかった。ただ死後に書かれた本だからキツい部分はつらいなとも感じた。
 総じて「もしもおれだったら」と考えると、こういう名人と長い時間仕事場をともにすることは、貴重な得難いものであろうが、神経が参っちゃうなと思った。私は仕事で圓生師匠と口を利いたのは十回もないがあれで充分だった。まあ落語に限らず私は自分の好きなスターとお近づきになりたいとは思わない。間近に接する喜びより失望が怖い。

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 と以上は半分も読まない内のいわば「ろくに読んでもいないのに読んだつもりの感想文」。間違い、勘違いだらけ。以下はしっかりと読んでからのもの。

 高須さんは昭和十七年生まれ。昭和四十八年、ハイセイコーブームで私が競馬を始めるころ、三十歳で圓生と関わり、この企画を始める。年齢学歴は私からすると慶應の十年先輩になる。当時からCBSソニーの中でその種の企画ものを担当していたようだ。とはいえこの時点では落語に関してはビクターを始めとする他社の方が先行していた。まあCBSソニーって当時出来たばかりだ。初対面のとき、圓生師がそう発言して高須さんが会社の説明をするところが文中にもある。ソニーは有名だがCBSなんて音楽ファンでなきゃ知らない。高須さんが新卒のとき、まだCBSソニーはなかったはずだからどこか他社からの転身組だったのだろう。当時三十一歳の高須さんはこの業界では自他共に認める無名の若手ディレクタに過ぎなかった。

 私にとってCBSソニーは吉田拓郎がエレックをやめてここに移り『元気です』を出したことで覚えている。
 タクローが今で言う2Kぐらいのマンションに移っただけで堕落したと「帰れコール」をやられているのを見たときは、なんてフォークファンとは心が狭いのだと義憤に駆られたものだったが、古巣の弱小会社エレックを捨てて世界的にメジャーな社名CBSソニー(あのCBSとソニーがくっついたんだからすごいなと思った)に移籍したときは、あまり歓迎しなかったことを覚えている。私の持っているタクローのLPはエレック時代のものだけでこれ以降は一枚も買っていない。だから「春だったね」ですら昨秋父の病院に通うとき車中で猛特訓しないとまともに歌えなかったのだが。その後タクローはフォーライフレコードを設立して現在に至る。
 当時のエレックの人がタクローを「とても嫉妬深い人」と語り、「でもそれは出世する人には共通のことでいいこと」とまとめていたのを思い出す。つまりタクローはエレックの売り上げを支えているのは自分であるのだからもっと優遇されるべき、たいして貢献をしていないのが大切にされているのはおかしい、とか、金銭的なことに不満を抱いていたことが移籍につながったようなのだ。そのときはなんだかタクローのいやな面を見たような気がしたのだが、いまは当然と思っている。そういう我がない人は世に出ない。

 圓生と高須さんの発端はレコード化されていない円朝作の「牡丹灯籠」等の「人情話」を10枚組2万円という、当時としては破格の大作で企画制作することから始まる。この時点ではCBSソニーは後発の実蹟のないレコード会社だった。
 話題となったこれを完成させ、さらに企画は進み、「圓生百席」というLP192枚の歴史的大仕事にとりかかる。これは圓生師の没年、亡くなる三週間前にぎりぎりで完成を見た。先日ネットで見たら20万円で売られていた。
 この十年の仕事でCBSソニーは落語関係のレコード最大手となり、高須さんもこの業界の雄となる。
 れいの三遊亭獨立騒動の際、圓生が世間注目の中、獨演会を開いたとき、そこへの協賛でもめ、結局は花輪で落ち着くのだが、そのとき何度も「業界最大手」と出てくる。いつしかCBSソニーは落語企画レコードの第一人者になっていた。それはこのような長期に渡る大仕事を成し遂げたのだから当然のことなのだが、他人事的に遠くから見ると、三十歳の若手が大仕事をやり遂げることにより、四十歳で業界の有名人にのし上がってゆく道行きが見えるようでじつに興味深かった。
 この本が書かれたのは圓生没後の昭和六十二年。高須さんは業界の有名人として四十五になっている。

 前記、三分の一も読んでいない時点で感想文を書いたときは、高須さんが志ん朝の落語を収録した本の監修をしていることにおどろいたわけだが、考えてみれば私のもっている志ん朝のCDもみなCBSソニーだから高須さんの仕事なのだろう。だったらおどろくもなにも最も自然な帰結である。志ん朝の落語本は昨年の仕事だから高須さんももう六十一歳、押しも押されもせぬ落語CD分野の第一人者なのだろう。単に無智な私が知らなかっただけだ。

 さて肝腎要のこの本に対する感想。
 甘さが全くない。これってなんだろう。渋茶である。いや渋茶と言うよりマンション住まいの圓生に合わせてブラックコーヒーの方が適切だ。
 ふつうこういう本を読んだら、主人公の圓生と著者のつきあいにほろりとさせられる部分がある。それがまったくない。冒頭から、本を書いてみないかと青蛙房から話があったが、圓生師はおもしろいエピソードのある人ではないし、と断り書きがある。実際仰天するようなエピソードはひとつもない。また、金にシビアで気難しい人だと言われる圓生を、彼なりに巷間伝えられるようなケチではないと庇ったり、こんなユーモアもあると文中で何度か紹介したりしている。しかし決してそれは「ほのぼの」にはなっていない。また亡くなったときの無念を綴った文章でも、テレビ時代劇を見ても泣くぐらい単細胞な私にすら一滴の湿っぽさも浮かばせない。なんなのだろう、これ。不思議な本である。

 考えられるのは、著者が圓生が大嫌いだったということである。しかしそれはないだろう。いくらなんでも業務感覚だけで十年もは続かない。いや続くのか、真のプロは。
 私が文からまず感じることは、この高須さんという人の意志の強さ(それは気の強さとも言える)である。三十一歳の若造なのに古稀を迎える齢の落語界の名人・圓生と対等に渡り合う。業務的に手厳しい。そりゃ一枚いくらで吹き込むか、という金の話から入ってゆくのだから、生半可な落語ファン気質で出来る仕事ではない。藝人らしい提案にも自分の方の理を先に立て、即座にノーと言い、圓生に「どうもあんたは理窟の人で、あたしら藝人てのは」などとごねられるのだが一切妥協せず、機械的に仕事を進めてゆく。「機械的」とはなんともひどい言いかただが、そう感じられる。「能面のような」という表現があるが、表情のない顔で淡々と、と感じられる。たぶん立派な会社でひとつのプロジェクトをスケジュール通りに運営してゆく人にはこういうタイプが多いのであろうし、そうでなければやって行けないのだろう。圓生の狷介な性格により彼を始めとするスタッフがうんざりしたことも多々あったのかも知れない。私なんかだと圓生に妥協したり、あまりのうるささに怒ったりして、途中で決裂していたろう。高須さんという人のそういう人柄が完成させた壮大な業績だとは言える。まさに「プロジェクトX」である。もしかしたらテーマとしてもう選ばれているのか。見てないから知らないけど充分に成りうる素材だ。

 しかし圓生の落語を十年に渡って身近に聞いてきたのだ。「圓生百席」の中にはおもしろおかしいものも数多くあろう。本の最後に百席の目録で確かめると事実数多くある。でもこの本の中には「きょうの師匠の××には録音しながら思わず笑ってしまった」なんて箇所はひとつも出てこない。もちろんこの人は圓生が死んだからといって泣いたりはしない。いやそれ以前に、この著者の泣いたり笑ったりが一切ないのである、この本には。
 無理矢理この人の感情を探すと、圓生と一緒にクルマの中にいるとき、とても危ない運転をする「なんとかキリスト教会」のクルマと接触しそうになり、激怒した圓生に、「これがほんとのキリストごめん」とついダジャレを言ってしまい、それを圓生に「こりゃ一本とられましたな」と言われ赤面した、とそれぐらいだ。藝能マネージャがセクシータレントのマネージングにいちいちドキドキしていたら仕事にならないように、真剣勝負の録音の場で落語にわらってなどいられるかと言われればそれまでなのだが、私にはこの人の感覚が鉄面皮のように思える。でももう一度、そういう人だからあの「圓生百席」は完成したのだ。

 雪の日で、圓生からきょうの録音は延期しましょうと電話してきたのを、マンションの高い階から見ると降り積もっているようで大変だが実際の降雪は6.8センチでたいしたものではない、予定通りやりましょうと言う。圓生が、でも運転手(自家用専用)も危ないし、あまり外に出る気分じゃないしと躊躇するのを、「じゃあこちらから迎えのクルマを出しますから」と押し切ってしまう。その強さがうらやましい。そりゃスタジオのキャンセル料の問題等もあるだろうが。  十年のあいだで圓生から録音中止を申し込んできたのはこの一度だけだったという。

 圓生が落語協会から獨立して初めての獨演会を開くことになった。よく覚えている。永田町の都市センターホールである。マスコミは大きく取り扱った。レコードを出している会社はみな協賛という形で名を出し華を添える事になる。ところがそれはYという男の仕掛けで、W社がライヴ録音して販売し、その売り上げを(何割だか全額だか)門出の三遊協会に寄附することになっていた。それを知った高須さんは、そういうことなら協賛の名からCBSソニーの名を引っこめるという。みんなで協賛して、それから話し合い、どこかがレコードを出すならいい。だけど最初からW社と決まっているそれにはとても協賛と名は出せないと。
 「圓生百席」をやっているCBSソニーの名がなかったら困る、他社も最大手のCBSソニーが協賛するから協賛してくれるのだからとYは頼むが冷たく拒む。筋が通ってないじゃないかと。
 仲の悪かったらしいYを拒むのも判るが、翌日それを知った圓生が激昂して電話を寄越し、わたしのために、今は特別なときなのだからそこを曲げて、と頼むが、それも拒む。企業としてそんな筋の通っていないことは出来ないと。圓生が手荒く電話を切る。十数年のつきあいで唯一の激昂だったという。
 その会場には妥協して花輪を贈る。それで様になった。協賛の名には圓生のレコードを出している全社があったがCBSソニーだけなかった。
 これは企業人として筋を通す当然の判断なのであろうし(私にはわからないけれど)、Yという男との確執や、高須さんに相談することなくそんなことを決めてしまった圓生側に落ち度があるのだろう。だがあの当時の騒動と、その最初の船出となるあのときの話題性から考えたら、よくぞ拒めたものだとその鉄の意志に感嘆する。しかしその感嘆は絶賛ではなく私には理解できない感覚としてのものだ。
 と、いつしか私は主役の圓生より書き手の高須さんの異常な──あくまでも私から見てだが──感覚に興味を持っていた。

 この落語LPのスタジオ録音という形を、私は今までに何度も聞いているラジオ局からの放送と同じと思いこんでいた。今回まったくの別物なのだと知った。これはライヴでもなければ、志ん生や文楽が数多く残しているスタジオからのラジオ放送の録音でもない。スタジオで精密な画像を完成させるように気に入らない部分を何度でも録り直し、さらにはそれを秒単位で編集してゆく職人藝の世界だ。
「間は魔ですからな」と、神経質な編集作業の様子が何度も出てくる。当時のオープンリールのテレコ、1秒に38センチ進むアレを、1秒の38センチではなく、0.1秒単位の数センチを切って編集してゆく。当時だから手作業である。いまのデジタルレコーディングならともかく、編集者がいくら優れた職人とはいえ気が狂いそうになったろう。当時私もそういう仕事にいくらか関わり、テープ編集が下手だったので、読んでいるだけで胃が痛くなってきた。そのころFM東京のディレクタだったM先輩との仕事でも、いわゆるカンパケはそうして作っていた時代である。思えば懐かしくもある。
 圓生という人の藝に対するこだわり、完全主義がよく出ている。実際、専任担当者が忙しいので若手を使ったときは圓生の指示する0.1秒の間を彼が理解できず、すぐにお払い箱になっている。そのことに関して著者は完全主義者の圓生を褒めるのではなく、若手編集者に悪いことをしたと書いている。そこからも決して愉快なだけの仕事でなかったことが伝わってくる。圓生の完全主義との闘い。演目に笑い転げたどころではないのか。圓生はちょっとした抑揚も気になって何度も繋いだり切ったりしたらしい。今だったら声質までいじれるのに、とため息が出る。手厳しい圓生は納得出来るものが仕上がると機嫌良く帰っていったというが、スタッフはくたくたになったことだろう。楽しいと言えるような仕事ではなかったのか……。

 当時のそういう録音風景が時を追って並べられた、資料として極めて貴重な一冊と思う。しかし著者の感情が出ていない、顔が見えてこないということでは異様な一冊でもある。マンガでよく使う手法だが著者の顔が私にはのっぺらぼうだ。どんな顔も描きようがない。この場合、著者はそれが目的なのだと言うかも知れない。自分というものを消して、現場のその雰囲気だけを書いてみたかったのだと。だから圓生が亡くなったときは人に隠れて涙を流したがそれは見せなかった、と。でもそれはないだろうな。そういう湿り気というのは隠しても出るものだ。ここにはそれがない。まったくない。乾ききっている。
 これは圓生に関する話のみなのであろうか。他の落語家ならこの人が生の感情を出したものがあるのだろうか。この人の文章は、基本的に落語本はプロデュースであり、随筆的なものはないようだが今後も探してみたい。なんとも不思議な読後感の一冊だった。高須さんに興味津々である。

【附記】 感激したエピソード──

圓生と正藏
 この本に圓生と正藏の交友が書いてある。落語ファンなら誰でも知っているがこの二人、犬猿の仲だった。マンションに住むようになった圓生を、昔ながらの長屋住まいにこだわる正藏は「落語家がマンションに住むようになったらおしまいだ」と言って嫌った。一部の本には楽屋でもひとことも口を利かなかったと書いてある。不仲の原因は、いくつかの資料から公正に判断して、「正藏が過剰に圓生を意識していた」で正しいようである。
 圓生が意識していたのは志ん生や文楽だが、正藏も無視ではなかったようだ。この本にも、正藏がレコードを出したと聞き、それを圓生が聴いてみるくだりがある。「ふっ」と笑みを浮かべて、安心したような顔で圓生は去る。「勝ったな」と確認したように。

 ここには高須さんが実際に見たふたりの様子が書いてある。楽屋に行くとふたりで話していたこともあるようだ。そこに誘われて老大家ふたりに囲まれて鼎談したこともあるという。息が詰まるようだ。
 圓生が高須さんにだけ語った辛辣な正藏批判も強烈である。しかし圧巻は「蛸芝居」というネタを勉強するために圓生と正藏が二人して大阪まで行き、桂小文枝のそれを聞いてきたという下りだ。なんと藝に熱心なことよ。深夜、小腹の空いたふたりは蕎麦を食べたくなったが土地鑑がない。しょうがなく近場でラーメンを食べたという。高須さんは「圓生正藏が一緒にラーメンをすすった店は梅田のどのあたりにあるのだろう。分かれば入り口に碑でも建てたい気がする」と書いている。ごもっともである。あのふたりが一緒にラーメンをすすっていたとは信じがたい。藝にかける心意気は通じていたのだ。
 これでまた私は小文枝の勉強もせねばならなくなった。

文楽批評
 三十程度のネタを磨いて磨いて完成させ、「あたしなんか全部が十八番」と言っていた文楽の姿勢を、ネタ数の多かった意欲旺盛な圓生が「臆病で藝を固めすぎている」と批判していたことは有名だ。互いに尊敬し合っていたようだが批判的でもあった。
 この本に圓生宅のレコードキャビネットの話がある。「圓生百席」を納めるためにあつらえたものだ。最初はがらがらだったが「圓生百席」の発刊とともに次第に埋まってゆく。他人のレコードは納戸に下がってゆく。そんな中、ビクターの三枚組「桂文楽十八番集」は、他者のものはもちろん圓生自身の端物のレコードを納戸に移してもその特製キャビネットに最後まであったという。いかに認めていたかわかる。いい話だ。

円鏡批判
 東横落語会に円鏡が出ることになった。そのことを「寄席のようにいろんな人が出る場所には、ああいう客を呼んでくれる人が必要」と人気と価値を認めつつも「こういう場に出ることは反対」と辛辣な意見。誰でも推測できる意見だがきちんとこういう形で残してもらえるとありがたい。当時の円鏡は今で言うヴァラエティタレントでとても落語家と認められるようなことはしていなかった。

 圓生はどんなに人気者でも三平を認めていなかった。楽屋でも冷たい視線と接しかただったという。圓生の藝人気質からして三平のそれは認めるに値しない。当然であったろう。もっとも文楽はすなおに三平の大騒ぎに笑っていたというから、この許容範囲はご本人の性質でもある。圓生が自分を認めていないこと、冷たくされていること、それは三平もわかっていた。
 圓生の落語協会獨立騒動の最初の躓きは、志ん朝、談志、円鏡、三平と、当代の人気者を全員網羅した錚々たるメンバの中から、最初に脱退しないと表明した三平だった。三平は師匠の橘屋圓藏が圓生派に加わることから自然にメンバに入れられたが、師匠を裏切っても自分の藝に冷たい圓生と一緒に行動することを拒んだ。あとは圓生から二番手指名を受けた志ん朝に、二番手はおれだ、譲れといって拒まれた談志が謀反し、橘屋圓藏も落語協会復帰を決め、やがて円鏡、志ん朝もとあっという間にばらばらになって行く。もしも文楽と同じように、三平を微笑ましく包み込む懐の広さがあったら、圓生の獨立騒動も違う流れになったかも知れない。しかしまた三平を認めたら圓生ではなくなってしまうとも言える。

 私はまだ圓生のことばによる三平批判を読んだことがない。この本に明確な「円鏡批判」があるのは貴重と思うゆえんである。


愛人のこと
 圓生に愛人がいたことは円丈の「御乱心」を始めいくつかのところで書かれている。それでもこの本で「T女」とされて実際に接した高須さんの感覚で描かれていたことは勉強(?)になった。
 愛人だから葬儀のときも顔を出さず、電柱の陰から見送っただけと伝えられている。互いに顔も見知っていたのだから線香をあげに来てくれればよかったのにと夫人が語っていたとは今回初めて知った。

●愛人と夫人
 「某大物落語家」となぜか伏せられて語られている。圓生が「外にいる愛人が、女房が死んだからといってあたらしい女房として噺家の家庭に入ってきてもうまくはゆかない。愛人とは外にいてのものなのだ」と語るくだりである。誰が読んでも文楽のことだとわかるのだがなぜここだけ伏せたのだろう。不思議だ。

囃子への凝りよう
 この話は凄い。出囃子と送り囃子(専門用語で"あがり"と"うけ"というらしい)を圓生がレコード毎に替えたいと言い出したのだ。圓生の出囃子というと「正札附」である。もうひとつ桂三木助と同じ「つくま祭」というのを使っていたらしい。これは私はいま、メロディが浮かばない。所属が違うから(協会と藝術協会)寄席でぶつかることがなく互いに問題はなかったというのだが、ああいう我の強い大御所が同じ出囃子を使っていたとはおどろきだ。それだけ私が三木助のことを知らないということだが。

 高須さんはそれらで行こうとした。圓生といえば「正札附」だ。レコードに針を置くと毎度おなじみの出囃子が聞こえてくる。ファンがわくわくし安心できる瞬間でもある。
 でも圓生はそれを拒み、レコード毎に替えたいと言った。すべてのレコードに同じ出囃子を入れるなんてワンパターンでつまらないことだと。高須さんはその難渋さを考え呆れてしまったが、圓生は譲らなかった。そうしてやりとげる。
 選んで選んでレコード192枚全曲違う出囃子にした。1枚に2話あるときはそのたびに替えたからなんとその数240曲! 圓生という人の凝りようと完全主義がよく出ている。上記「T女」なる人はその手伝いをしたらしい。たいしたもんだ。

【餘談】
 私は志ん朝の出囃子「老松(おいのまつ)」があまり好きではない。笛が気に入らないのだ。出囃子は太鼓と三味線だけのほうがいいなと思う。鉦もいいけど。どうもあまり甲高い笛の音は……。
 志ん朝の出囃子と言えば「老松」だから、こんなことを言ったら熱烈な志ん朝ファンからパージされてしまうだろうか。かといって「あれにすべき」と名を挙げられるほど詳しくない。出囃子の研究というのはしてみたいものだ。まあそこまで熱心な落語ファンでもないが。

【餘談の二】
 先日志ん朝に三十過ぎの落語家にはならなかった息子がいることを知ったが、そういえば圓生も山崎さんという息子がマネージングしたり関わっていた。名人の息子はその業界には関わらないようだ。偉大な父をもつのも痛し痒しである。志ん生・馬生・志ん朝親子と、貴ノ花・若乃花・貴乃花親子は、現代の奇蹟なのだろう。
(05/4/11)

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