チェンマイ日記1999夏


苦い思いのままに

 その年、十二月三十日の夕方、M美は初めてドン・ムアン空港に降り立った。晦日である。

 私はその前日にバンコクに着き、彼女と一緒にチェンマイにもどる手だてを模索していた。地方への下り便は飛行機から列車まで何もかもが満員だった。身動きが取れなかった。状況を甘く見過ぎていた。タイにはソンクラーンがある。日本の盆と正月とゴールデンウィークをひとまとめにしたようなタイの一大イヴェントだ。佛歴では四月が正月である。
  それと比べると西洋歴の新年なんて小さなものだと思っていた。私は大晦日にM美を連れてチェンマイに帰れると本気で考えていた。


 空港で彼女を迎えるとき私はかなり焦っていた。彼女に初めて来たタイを絶賛させようという私の計画は、その時点で実現不可能な机上の空論になりかかっていた。

  晦日の夜にタイにいることは五回ぐらい経験していたが、バンコクにいるのは初めてだった。遊び好きのタイ人のことだ。さっさと帰郷なり遊びに出掛けて、日本の正月の官庁街のようにガラガラになるのではないかと想像していた。とんでもない。バンコクはいつにもましての渋滞だった。


 私が知っているいくつかの宿は満員だった。チェンマイのUさんに紹介してもらったホテルも満員だった。

 前回訪タイするとき、飛行機の中で知り合ったパキスタン人の奥さん(!?)だという日本人女性のことを思い出し、彼女がバンコクに所有しているというマンションの一室を、その時の約束通り一泊800バーツで借りるということで宿を確保した。

 彼女は家族と一緒にパキスタンに住んでいるのだが、日本との往復の際に泊まるため、また蓄財の感覚でバンコクに一部屋を所有しているのだった。日本人と知り合うと、わたしのマンションに泊まりませんか、安いですよと誘いかけ、小遣い稼ぎをしているらしい。すでに一度泊まっている。気に入ってはいない。でも今は救いの神だ。まったくどこで作った関係がいつ役立つか解ったものではない。


 私としてはそれだけでもだいぶ苦労したつもりだったし、部屋が取れたというだけで安心していたのだが、M美には気に入らなかったようだ。そりゃあグアムやサイパンのパック旅行で行くホテルから比べたらかなり貧乏くさい。だけど状況を理解し、清濁合わせ呑むのも大人の礼儀なのではないか。十六歳の高校生ならともかく今はもう三十代後半の女性なのだから。

 シャワーを浴び、湯の出が悪い、生ぬるい湯しか出ないと怒る彼女に(それもまたチェンマイのアパートと同じ瞬間湯沸かし機が原因だった)、水の量をより少なくすれば熱い湯になると助言する。瞬間湯沸かし機に慣れた者の、ちょいとした生活の智慧のつもりだった。しかしそれも「あたしは思いっきりお湯を出さないとシャワーを浴びている気になれないの!」と吐き捨てるように言われると、そんなことを披露した自分が惨めになってくる。この辺からもう今回の二人の時間が楽しくないものになるだろうとは覚悟していた。


 餘談ながらタイではなぜあちこちで瞬間湯沸かし機なのかをフォローしておくと、タイ人には湯を浴びるという習慣がないからである。あくまでも水浴びなのだ。正月のチェンマイのようにかなり冷え込む地域では、温かい湯で暖まった方が快適だろうと思うのだが、そんなときでもみな水浴びをする。「寒いけど、水の方がすっきりしていい。サバイサバーイだ」と震えながら言う。決して負け惜しみではなく、寒い朝に水で顔を洗うことで目を覚ますことがあるように、お湯というのは好まないようなのである。

 タニヤに生息する刺身好きで熱い風呂好きという日本人慣れした一部の女を覗けば、タイ人はみな水浴びだと言える。冷たいことこそがサバーイなのだ。寒いときですら水を使うのだから暑いときに熱い湯を浴びるという習慣は理解しがたいとなる。湯を使う人は外国人等少数であり、少数の人のための最も手軽な温湯装置というものを考えたとき、最も簡便でリーズナブルなのは小型瞬間湯沸かし機となったのだろう。

 タイの小規模のホテルでは、ボイラーで湯を沸かし全室に配水するよりも、湯の欲しい外国人はこの瞬間湯沸かし機でかってに湯浴みをしてくれという方法を採る。その方が安く上がるし設備も簡単ですむ。
 これはそのレヴェルのホテルに泊まることの多い私などからすると誠にその通りで、田舎町の半端な高給ホテル、一泊700バーツぐらいで、半分も客が居ないというようなところに泊まると、ボイラー配水になっており、誰も湯など使わないから管理がいいかげんなのだろう、蛇口をひねり、三十分流しても一時間流しても湯にならず、困り果てることがたびたびある。こんな時、たとえ湯量はすくなくても、すぐにお湯が出てくる瞬間湯沸かし機はありがたいのである。
フアヒンの正月

 翌日、大晦日の朝七時、ホテルからトゥクトゥクを飛ばして彼女とエカマイ(バスステーション)に行く。長蛇の列に並ぶ。すこし不安ではあるが、タイのバスはいくらでもある。なんとかなるだろうと思っていた。なんともならなかった。私の前で窓口が閉められた。
「今夜発のチェンマイ行き最終便の切符がいま売り切れた」と言われる。なかなか劇的なシーンである。こんなに長い列なのに私の前でちょうど売り切れだった。

 タクシーを捕まえホアランポーン(ステーション)へ向かう。指定席のある長距離列車はすべて満員だった。チェンマイ行き特急は普段は自由席扱いの三等座席も特別にこの時期は指定席扱いとなっていて全車満席だった。北へも南へも長距離移動は出来ない。南に下る鈍行になら乗れるようだ。バンコクにいてもしょうがない。バンコクは嫌いだ。どこでもいい。やけくそで乗った。

 木の座席。大晦日の朝。ギターとラジカセで、酔っ払い騒ぎまくる若者達。M美はそっぽを向いている。彼女がふてくされていたから私もつまらなかった。一歩状況を変えれば、私はタイの若者達と一緒に、酒を飲みギターを弾いて騒ぐことが出来た。そうしたならまったく違った状況が生まれていただろう。

 高給リゾート地として有名なフア・ヒンまで行く。今思えば、若者達は皆ひとつ手前のチャームビーチで降りていた。私達もそうした方が正解だったかもしれない。南の下調べをしていなかった私は、チャームビーチがタイの若者に人気のある賑やかな場所であることをまだ知らなかった。

 チェンマイに行けなかった失点を取りもどすために、思い切って高級ホテルを奮発しようと思ったが、どこも満員で奮発の仕様がなかった。一泊三万バーツのところが空いていたが、それはこちらからご遠慮申し上げる。宿がない。高給、中級、安宿、どこも満員だ。人の良いサムローの運ちゃんが熱心に走り回ってくれ、やっと350バーツの宿の一室に空き部屋を見つけた。チェンマイなら百バーツもしないようなひどいところだった。泊まれるだけで感謝せねばならない。それからM美と二人、フア・ヒンで数日を過ごすことになる。

 彼女の機嫌は恐ろしく悪かった。大切な正月休みを何でこんな小汚い水シャワーしか出ない場所で過ごさなければならないのかと怒り狂っていた。はっきりと「なんでこんな国にわたしを呼んだのよ。来なけりゃよかったわ」とまで言われた。そこまで口にした女の機嫌を取るという回路は私の脳にはなかった。私自身、まさかこんな見知らぬ場所で新年を迎えることになろうとは思っていなかった。すぐにチェンマイにもどるつもりだったから着替えすら持ってきていない。

 それでも私にはまだ、こうなってしまったからには、ここで思い切り楽しもうという気持ちの切り替えぐらいは出来た。ふてくされるのもいい。でもそうしたら一番つまらないのは自分自身なのだ。そう思い、心を落ち着かせれば、初めて見るフア・ヒンの町は様々な魅力に溢れていた。

 波間に多くの石が突出していることからフア・ヒン(石の頭)と名つけられたここは、泳げる海岸ではない。タイ王室御用達で有名な高級ビーチだ。海岸で寝そべる白人美女は予想していたが、意外にもヒッピー風の外人が多く、みなマリファナ片手にくつろいでいた。

 煙が苦手な私は気さくな彼らに最初は近寄らなかったけれど、ふてくされている彼女を見ている内に、そんな好き嫌いを言っているよりも積極的に彼らと親しくなり、せめて自分だけでももうすぐ訪れる正月を楽しもうと思い直していた。

 深夜。大晦日から新年へのカウント・ダウンが始まる。私はホテルの前に出て、白人達と肩を組み、大声でカウントダウンを叫び、新年と同時にクラッカーの紐を引いた。
 爆竹が鳴り響く。タイ語、英語、ドイツ語、フランス語、オランダ語、スウェーデン語、いくつもの信念を祝う言葉が飛び交い、乾杯が続いた。それは今までに何度も経験したチェンマイでの正月とは、またひと味違った感動的なタイの新年だった。

 M美はホテルでふて寝していた。部屋から出てこなかった。彼女が十六の時から何年に一度ぐらいの割合で行われてきた私達のそんな行為も今回はなかった。私は二十年続いてきた奇妙な友情の終りを忘れようと白人達と踊り狂う。

 タイ全土のどこに行こうと、異様としかいいようがないほど朝から晩まで「ブロークン・ハーテッド・ウーマン」が流れている年だった。(後にこの曲は、中島みゆきの曲と知る。原曲はスローな暗い歌だが、タイではダンスバージョンにアレンジされ大ヒットしていた。)

 その数日後、私とM美は互いにひとことも口を利かないまま、フア・ヒンからドン・ムアン空港まで列車でもどり、空港で別れた。彼女は帰国した。私はチェンマイに飛び残った期日をいつも通り過ごした。彼女との諍いは、つい先日のことなのに、チェンマイでの私には遙か昔の朧な記憶のように思えた。

 いつものようその後の連絡は途絶える。でも今回は何年後かにまた掛かってくる今までとは違い永遠の別れになるはずだった。哀しくはなかった。仕方のないことだ。いくら気に入らないことが続いたとはいえ、彼女は私がベストを尽くしているのは見ていて解ったはずだった。それを認めようとせず、心を閉じてしまった彼女のわがままさを、私もまた容認することは出来なかった。むしろ別れてから、わがままな彼女におもねり、機嫌を直させようとした自分に腹立ったりした。なぜ女を怒鳴れないのだと、自分に自己嫌悪を感じたりもした。
kc99
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