チェンマイ日記1999夏



届いていたファクス

 中国から帰る。チェンマイにもどってきた。疲れた足取りで階段を昇る。疲れてはいるが心は安らいでいる。ここはもう中国ではない。
 久しぶりに会ったアパートの管理人が、感熱紙をひらひらと振りながら「クン・ユキ、ミー、フェック・カー」と言った。ファクスが届いているらしい。雑誌社とは中国からもこまめにやりとりをしていた。用件は済んでいる。しばらくは来ないはずだ。誰からだろう。受け取って部屋に急ぐ。一刻も早く旅装を解きたかった。風呂に入り、着替え、体にまとわりついた中国をぬぐい取りたかった。




 部屋に入る。しばらく留守にしていたから空気がよどんでいる。クーラーをオンにする。旧式の大型クーラーがゴーンという音と共に体を震わせ涼しい風が吹き出す。バスタブにお湯を入れる。しばらくは時間が掛かる。シャワーが手っ取り早いがバスタブに浸かりたかった。ベッドに寝転がり枕元の灯りを点ける。ファクスを手にする。

 このアパートを気に入った一番の理由が、大きなバスタブと街外れの静かな環境だとするなら、各部屋にあるのが家庭用瞬間湯沸かし機であり、お湯の出がわるいことは、大きなマイナスポイントになる。満ちるまで三十分はゆうにかかるのだ。その間にファクスを読むことにする。

 ファクスは五枚あった。
 M美からだった。三枚はチェンマイ市内のホテルから、二枚は日本の自宅からである。
 チェンマイは楽しかったと書いてある。バイクを借りて走り回りました。バイク屋の奥さんには親切にして貰いました。感謝しています。サンカンペーンの温泉に行きました。マッサージは教えて貰った店に行きました。とても上手なおばさんでした。色々お世話になりました、と。
 帰国した日本からのものには、まだ中国からもどっていないのですか、もどったら連絡をくださいと書いてあった。
 私が中国に行っている間、彼女は初めてのチェンマイを経験していた。
 チェンマイが楽しかったというM美の感想が、旅の疲れをいやしてくれる。


つかず離れず

 M美と知り合ったのは四半世紀以上前のことになる。
  いやはやなんとも自分の人生の表現に「四半世紀」なんて言葉を使うことがあるとは思わなかった。普通の人間は一世紀も生きられない。私はもうすぐ生まれてきて半世紀になる。果たして半世紀という言葉を自分の人生を語る文章で使えることがあるだろうか。理想的なのは長年連れ添った糟糠の妻に「半世紀もの間、ありがとう」というものだろうが、残念ながら晩婚の私にそれはない。四半世紀ですら無理かもしれない。

  他になにかないだろうか。十八歳の時から世話になりっぱなしの先輩がいる。この業界に関わって今まで生きて来れたのもその先輩のお蔭だ。六十八歳まで生きれば、「大学のサークルで知り合って以来、いつしかM先輩との仲も半世紀に及びます」と言えるなあ、使えるなあ。使ってみたいものだ。生きてるかあ、それまで。

 知り合ったときは二十一歳の長髪の学生と十六歳の美形女子高生だった二人も、一世紀の四分の一の時間が過ぎると、年相応のおじさんおばさんになる。よくもまあ今まで切れずにつき合えて来れたものだ。その理由は間違いなく、滅多に会っていないからである。

 私達の大学の学園祭に彼女は友人と遊びに来た。目的はボーイハントだったろう。それは後に確認している。偶然私達がやっていたコンサート会場に来た。私の歌が気に入って声を掛けてきた。派手な娘だった。高校生のくせに化粧もしていた。マニキュアもしていた。その頃の私はそういうのが嫌いだったが、近寄ってくる美少女を拒めるほどのおとなでもなかった。

 それから、なぜか五年にいっぺんぐらいどこかで再会して、旧交を温め会うようになる。二度目に会ったのは、私が放送作家を始めたばかりの頃、テレビ番組の制作会社に出掛けたときだった。景山民夫さんに初めて会った時だからよく覚えている。当時売れっ子ナンバーワンの放送作家だった景山さんは、やがて放送業界を辞め作家に転身する。直木賞作家となり、「幸福の科学」で話題を呼び、不可解な死を迎えた。時の流れを感じる。「虎口からの脱出」「遠い海から来たCOO」。もっと生きていて欲しかった。

 景山さんに挨拶している向こうで、どこかで見たことのあるような娘が事務を執っていた。それが五年ぶりに会うM美だった。懐かしがって大声で話し合い周囲の顰蹙を買う。その夜は痛飲し昔話に酔った。

  しばらくしてまたその制作会社に行くと彼女はもういなかった。なんでもここの給料だけでは食えないからと、週に三日銀座のクラブでホステスをやっていたのだが、会社を辞めてそれを本業としたらしい。それはまあ、週に三日、数時間のヘルプをするだけで、会社の給料の倍も稼げてしまうのだから、多くの女が染まって行く道である。どんな店でどんな格好で働いているのだろうと興味も持ったが、そんな高級店に確かめに行けるだけの稼ぎはなかった。制作会社を辞め、物書きと肉体労働の二刀流の頃だ。

 そうして切れてしまうはずの関係なのに、それからまた五年後、同棲している男と別れて暇になった、どこかで飲まないかといきなり電話をしてきたりして会ったりする。更にまた五年後、今度は私が急に会いたくなって(昼間から泥酔していた)、彼女の実家に今どこにいますかと問い合わせて連絡を取ったりとか、つかず離れず、いつの間にか四半世紀も関係は続いてきた。色々珍奇な付き合いを持っている方だが、こんなヘンな関係の女は他にいない。


 五年前の暮れ、またいつもと同じように五年ぶりぐらいの電話を突然寄こしたM美は、正月休みにどこかに行きたいのだが、いいところを知らないかと質問してきた。私は十二月初旬から一月下旬までタイにいるので、よかったら来ないかと応える。「ええ〜、タイ……」。気乗りしない声で彼女は言った。なにしろ彼女にとって海外旅行とは、パック旅行で行くハワイ、グアム、サイパンのビーチなのである。顔もスタイルも良く派手好きという典型的なそういうタイプであった。彼女にとってタイというのは貧乏くさいアジアの国というイメージしかなかったのだろう。

 自分の好きなタイをM美にも好きになってもらいたかった。イメージを一新して欲しかった。まずはプーケットにでも連れて行き、高級ホテルに泊まって遊べば、今まで行ったどのビーチよりも素晴らしいと感激しタイを気に入るだろう。麻雀でいうなら場に三枚切れている字牌を切るみたいに安全な方法である。それは解っている。でも私は彼女をチェンマイに連れて来たかった。まったく前知識のない女性にいきなりチェンマイは暴牌かもしれない。放銃の確率も高かったが大丈夫だという読みにも自信があった。彼女はいまバイクに凝っていた。クオーター(250CC)に乗り、出勤も遊びも、いつもバイクだ。チェンマイに来て、あの風景、あの風の中を、ホンダドリームで走れば、グアムやサイパンのビーチとはまた違った異国の魅力を知るだろうと。
kc99
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