チェンライへ走る 5
          

■帰路出発

 メーコックで北村さんに別れを告げ、チェンライを出発したのは午前十一時前だった。休み休みゆっくりと走っても、陽のある内、五時にはチェンマイに着けるはずだ。陽射しは、さして強くない。やはり雨期だからだろう。くすんだ夏。走るにはちょうどいい。

 途中まで、来たときと同じ旧道を走るつもりだったのに、町中を走っている内に迷ったのか、いつしか走りたくもない国道一号線に出ていた。この素晴らしく整備された広々とした道路は、時速百キロで走るクルマなら最高だが、100CCのバイクには適していない。大型トラックやバス、クルマが風を巻き起こしてとばすので、小型のバイクでは危なくてしょうがない。おれには、友人がこの道路で事故を起こしたという苦い思い出もある。
 とりあえず一号線を二十キロほど走り、パーサックでチェンマイへの道を右折する。ほっとした。

 田舎道をのんびりと、三十キロほど走ってメースアイまでやってきた。陽射しがきつくなっている。いちばん暑い時間か。



 ガソリンを入れる。雑貨屋に立ち寄り休憩する。
 リポーを飲む。店番をしていた若い母親と世間話をした。五歳ぐらいの可愛い娘が母親にまとわりつきつつ、おれの方をちらちらとうかがう。見た目は似たようなものでも、見知った人間でないことが解るのだろう。

 リポーは12バーツだった。その半端な値段で、昨日飲んだ町中では10バーツ、来るときのチェンマイとチェンライの真ん中にある〃温泉〃では15バーツだったことを思い出す。やはり〃観光地〃は高いようである。こんなことを書くとリポビタンのファンみたいだけど、おれがこういう飲料を日本でもタイでも口にすることは珍しい。休憩する雑貨屋では何か買わないとならないし、量を取るとトイレが近くなるから、小さな瓶のリポーを飲んだだけである。

 ここで休憩したのは、109号線に折れ、ファン方面へ抜けようか迷ったからだった。もうすぐ分岐点である。
 どうしよう。まだ迷っている。
■旅の卑しさ


 旅慣れていないものがたまに旅に出ると、心が卑しくなる。あれもこれもと欲張りになるのだ。

 一週間程度の日程で、パリとロンドンの観光地を慌ただしく見て歩き、有名店で買い物をしまくるというのもそれだし、四泊五日程度でタイにやって来たサラリーマンが、それほど欲求してもいないのに、体に鞭打って買春に励むのも同じようなものである。旅の卑しさだ。あれは無意味だと思う。そういう旅行を何度繰り返しても何も見えてはこない。

 おれは「三歩進んで二歩下がる」という、じっくり前進型の人生観が好きなのだが、こういうのは「三歩進んで三歩下がる」ようなもので、何回旅行をしようともいっこうに進んでいないのだ。短期の買春旅行を何度繰り返しても心の飢えは癒されない。タイも理解できない。卑しい行為だ。それでいいという人もいるんだろうけど。

 タイに男が遊びに行くとなると、どうしてもそっち方面ばかりの推測をされるのだが、それはまだタイの奥深さを知らない人の感覚だ。おれの親しくしている重度のタイ好きは──初心者の頃はともかく──みなそういうことからは卒業してしまっている。オンナアソビなんてものを卒業して、それからハマるタイがある。それは短期の旅行を何度繰り返しても気づくことのないタイの魔力であろう。

 しかし、どっちがしあわせなのかとなると、これは解らない。短期旅行を繰り返している内、それだけでは物足りなくなって長期で来たくなる人がいる。そのためには会社というのは足かせだ。辞めてしまう。無職渡世の始まりである。蠱惑的なタイの魅力に首までどっぷりと浸かる。桃源郷。でもそれが四泊五日の買春旅行を繰り返す人よりもしあわせであるかとなると難しい。大学を出て管理職まで行っていた人が、桃源郷からもどると、今度は日給月給の肉体労働で稼がなければならないという現実が待っている。また桃源郷にもどることを夢見つつ、その辛さには耐えても、いつまでこんなことが出きるだろうという肉体的な不安は、寝苦しい重圧となってのしかかってくる。

 タイに夢中になったとき、おれは自分の半端な職業に感謝した。タイに関わることによって、おれ的には十分に失ったものがあるのだが、元々がフリーターのようなものなのだから高が知れている。もしも組織に属する者だったなら、間違いなくおれもすべてを投げ捨てたひとりであったろう。そしてその投げ捨てた過去に、いつまでもいじいじとこだわるような……。

 回数を重ね、とうに旅の卑しさからは卒業したつもりだったが、こういう場面になるとまたその気配が顔を出す。

 この辺の道はもう全てと言っていいぐらいクルマで走っている。今更新しい発見などはあるまい。なのに「来たときと違う道を走ってみよう」という気持ちになるのだ。「クルマとバイクでは感覚が違うだろうし」などと理屈をつけて。

 これもまた旅先での欲張り感覚である。旅に出たなら、普段の百の行動を七十ぐらいに落とすのがいい。だが凡百の旅人はみな百二十を欲張ってしまうのだ。

 ファンとチェンマイを走ったときのことを思い出す。何度も走っている。山越えのある、クルマでもたっぷりの道のりだった。このバイクで今からあそこまで出て、遠回りをすることはキツいだろう。自重した方がいい。体調もまだ万全ではないし。

 そう自分に言い聞かせ、本来のルートを走り出す。ウイアンパパオまで四十キロと標識が出ている。これもカタカナ表記の難しい町の名である。タイ文字を読むなら、ウィアン(グ)パーパオがより近いだろうか。
 どうしよう、まだ迷っている。迷いつつおれはメーコックであった日本人女性のことを思い出していた。



■出口なし

 メーコックに、北村さんと同じ棟に泊まっている日本人女性がいた。着いた翌日に会った。こちらの顔を見ようともせず、挨拶もしない無礼な女だった。年齢は二十代半ばというところか。

 もっともこれは、旅先で出会う日本人にはよくあるパターンでもある。気にしていたら切りがない。ただその直前に、リュックを背負った短パンの、やはり二十代半ばの白人女性がやってきて、にこやかに「ハーイ!」と挨拶を交わし、世間話をしたばかりだったから、同じ年頃の無愛想な彼女が、よけいに目立ったのだった。

 オーストラリア人の彼女は、間もなくボーイフレンドもやって来て二人で泊まるのだという。タイの田舎はラブリーだなんて言ってる。朗らかな彼女が北村さんの隣の部屋に入ったあと、入れ違いのようにしてその向こうの部屋から、もっそりという感じでその日本人の女が出てきたのだった。

 北村さんから「けっこういい女」と聞いていたので、彼女を見たとき正直がっかりした。そこにいたのは、短パンから何カ所も虫に食われた跡のある大根脚をむき出しにした平凡な容姿の女だった。でもそんなことはどうでもいい。それはスケベオヤジの単なる過剰な期待だ。そうではなく、一見して〃険のある顔〃だというのがおれには気になった。

 このごろ顔の重要性に思い至る。「男は四十を過ぎたら自分の顔に責任を持たねばならない」という至言がある。生きてきた年月は顔に刻まれる。これは間違いない。顔は、男女を問わず人間の履歴書である。ねじれた人生を生きてきた人はねじれた顔になる。あたたかな人生を歩んできた人は、あたたかな顔になる。それはもう人間を越えているかも知れない。犬猫でも同じだ。飼い主からたっぷりと愛情を注がれて育った犬猫と、野良として苦しい生き方をしてきた犬猫とでは顔つきが違う。生きてきた歳月は、犬猫でも顔に出る。

 その二十代半ばの日本人女性の顔には、明らかに屈折と鬱屈が出ていた。しあわせな人生は歩んでいない。気の毒にと思う。




 おれ達を無視し、ふらふらとフロントの方に歩いてゆく彼女の後ろ姿を見ながら、困ったもんだという顔をして北村さんが言う。

 夜十時ぐらいになると、その女の部屋からは、インド音楽のようなものが聞こえてくるのだという。静寂に包まれたメーコックの夜だし、部屋が空き間を挟んでの向こうなのだから、物音はよく聞こえるのだろう。そしてその後、二時間後ぐらいに、今度は激しくトイレで嘔吐する彼女の煩悶が聞こえてくるのだという。毎晩だ。何をやっているかは言うまでもない。ドラッグである。

 起き出してくるのは昼過ぎ。ゲストハウスのおばちゃんにも挨拶はしない。食事から帰ってくるとまた部屋にこもっている。そしてまた夜になると、インド音楽と嘔吐である。

 部屋を掃除するメーバーンが、何かそれらしい痕跡を見つけたらしい。北村さんと親しいオーナーのおばちゃんは、先日まで彼女を「マイ・ディー(よくない)」と言っていたが、近頃では「ミー・パンハー(問題がある)」と、険しい顔つきで批判しているという。出ていってもらいたいと。

 北村さんも、常連のいる時期だったら彼女はここにいられなかっただろうと言う。ここでは一種のコミューンが出来上がっているから、彼女のように場を乱す人は居づらくなるのだ。今はオフシーズンだ。常連は誰もいない。

 これ以上ドラッグにこだわる日々が続けば、彼女はメーコックを追い出される。でもまたいくらでもある他所のゲストハウスに行き同じ事を繰り返すから、それは解決にはならない。ツーリスト・インのような小さなゲストハウスではなく、あえてメーコックを選んだのは、他人にばれないようにしてドラッグに浸りたかったからだろう。

 〃険のある顔〃というと含みのある表現になるが、より単純に言うなら、彼女は〃ふてくされた顔〃をしていたのである。男に振られたのか、会社を辞めたのか、何をしたらいいのか解らなくなったのか、理由は知らないが彼女なりの悩みを抱えているのだろう。そうしてタイにやってきた。どこかでクスリの入手法を知った。毎晩吐いているということは、ドラッグも初心者なのかもしれない。

 目つきからして解る本格的ジャンキーだったなら、おれ達が批判することもなかった。そんなものには関わり合いたくない。彼女は普通の日本人だった。ごく普通の学生か勤め人が、背伸びして非合法体験をしているだけだった。その無意味な突っ張りが、なんとなく痛々しかった。

 おれはドラッグを否定しない。他人に迷惑を掛けないなら、それぞれの責任において何をやろうと自由だと思っている。チェンマイでの知り合いにも、ドラッグを日常としている日本人は何人もいる。実際、大麻の肉体的害は煙草ほどもないだろう。違いは、大麻は怠惰になり、煙草は精神昂揚になるということだ。日本のお上が大麻を解禁しないのは、民衆が怠惰になり快楽主義に走ることによって生産性が降下すると懸念しているからだろう。

 おれがやらないのは、そういう形での心の解放や快楽を必要としていないからだ。おれの知る限り、ドラッグ好きに大酒飲みはいない。飲めない人の方が多い。酩酊する快感を酒で味わえずクスリで楽しむ人を大酒飲みが否定することはできない。酒も煙草もドラッグも、お上の認定や産業形態の違い以外は同じようなものと解釈している。

 ドラッグを否定しないし好奇心もある。でもやらない。体質的に合わないのだが、それ以上にシンプルで大きな理由がある。
 それは「クスリ好きに好きな奴がいない」ということだ。いやもっと的確に「大嫌いな奴がみんなクスリ好きだ」と言った方がいいだろうか。これは不思議だ、若いときから今に至るまで、おれには完全に一致した法則なのである。

 学生の時からずっと音楽をやっていたのだから、マリファナ好きなんて三十年近くも前から、いくらでも周囲にいた。自宅で栽培していて逮捕されたなんてのもいた。北海道で大量に採ってきて売ろうとして捕まり、顔写真附きで新聞に載ったのもいる。覚醒剤を打つ注射器をいつもポケットに入れているのもいたし、音楽以外でも、街の雀荘でフリー打ちをするとき、トイレに入ってシャブを打ってくる顔見知りなんてのもくさるほどいた。

 なのにおれがそれに染まらなかったのは、音楽仲間でも雀荘での知人でも、クスリ狂いは皆嫌いな奴らだったからという、ただそれだけの理由である。学生からヤクザまで、きれいに色分けできる。もしも大好きな人がみんなクスリ好きだったら、おれも今頃ジャンキーだったろう。おれの好きな人たちにクスリ好きはひとりもいなかった。これは小さいようで絶対的な違いでもある。つまり、クスリにハマる奴らというのには、彼ら獨自の精神構造──甘えであれ、カッコつけであれ──があって、それはおれの美学と相対するものなのだった。だからおれは、何度生まれ変ってもジャンキーにはならないような気がする。これは確信だ。

 チェンライのゲストハウスでドラッグに浸ることから、彼女なりに何かを学べば、それはそれでいい。他人の口出しすべきことではない。不慣れなドラッグになど手を染めても、悩みの解決にはならないのだが、それもまた自身の経験で学ぶべきことであって、年上ぶっておれごときが容喙すべきことではない。そう思うしかなかった。

 哀れだと思った。人を哀れむのは失礼だし、そんな高見にはいないのだが、チェンライの安ゲストハウスで、ドラッグを喫い、毎晩トイレで吐いている彼女が、なぜだか哀れでならなかった。出口のない哀しみである。

■山道へ



 ウィアンパパオに着いた。

 ここでまた悩む。1150号線に入り、プラオ経由でチェンダオに抜ける道を走りたくなったのだ。どうやらおれは、来るときと違う道を走りたくてしょうがないらしい。これもまた旅の卑しさだ。そういう自分を冷ややかに見つめるもうひとりの自分がいる。

 すこし風が出てきたようだ。陽が翳っている。止めた方が無難だろう。曲がりくねった山道になる。
 ウィアンパパオからプラオまでが五十キロ前後、プラオからチェンダオまでが三十キロだ。そこで国道になる。

 チェンダオからおれのアパートまでは八十キロぐらいだろうか。これはもう数え切れないぐらい走っている。よく知った道だ。残りの行程は全部で百六十キロぐらいか。

 チェンダオ側からプラオまで走ったことはあった。友人の奥さんの実家がプラオなのだ。山中のひっそりとした小さな町だった。好感を持った。山中の快適なドライヴコースだった。

 ウィアンパパオ側から入ったことはない。同じような道だと思う。五十キロだから、順調に行けば、一時間、悪くても一時間半でプラオに着くだろう。もしも多少悪路だったとしても、かつて通ったことのない道をのんびりと走るのは気分がいい。

 山あいの道を、気持ちよくバイクで走る自分の姿を想像した。同時に、ひとっこ一人いない山道で、パンクして難渋している自分の姿も浮かんだ。本格的にドライヴするつもりで来るときは、日本で購入した瞬間パンク修理剤や色々なものを用意してくる。思いつきで走り始めた今回はなにも持ってきていない。

 ガソリンを満タンにする。プラオまでは保つ。止めとけ止めとけと話しかけるもう一人の自分を無視して、いつしかおれは1150号線を走り出していた。
■変人度数

 バンコクで始まるタイ体験は、バンコクに留まる人、南に下る人、北に上る人と分かれてゆく。

 北の場合も、誰もがまずチェンマイまで来るが、そこから、チェンマイに留まる人、チェンライへ上る人、さらにどん詰まりのメーサイまで上る人に分かれる。別系統として、バンコク組、南部組、北部組から、タイに見切りをつけてプノンペンへ流れる派もある。

 話を北部組に絞ると、チェンマイよりもチェンライ、チェンライよりもメーサイに流れる人の方が異才が多い。おっと、思わず厄災を怖れて〃異才〃などと気弱な表記をしてしまった。いかんいかん、こんなことを怖れていては前進できない。ハッキリ言おう。チェンマイよりもチェンライ、チェンライよりもメーサイに流れる人の方が、「奇人変人度、変態度が高くなる」ということである。おれのような半端なはみだし者は、このメーサイ組あたりになるともうついて行けない。話が合わなくなってしまうのである。

 おれの親しい人は皆チェンマイ組だし、北村さんもかろうじてチェンライで留まっている。これは小さなことのようだが意外に大きな分岐点なのである。たまにメーサイ組が長期滞在から帰国する前、数日間をチェンマイで過ごしたりすることがある。そんなとき『サクラ』の丸テーブルで彼らと話していると、しみじみと彼我の差を感じるのである。いい人達だ。和やかに穏やかに会話を交わす。でも、何かが違う。近くて遠い人たちだ。

 それは出会ったときにもう読める。基本的な性癖が違う。初めてチェンマイに来たという無職渡世のオヤジでも、話をしていると、(ああ、この人はすぐにメーサイに流れるだろう。それからプノンペンかな)と解る。彼はバスに揺られ、初めてのメーサイに行く。ハマる。次回からはもうチェンマイは単なる通過地点である。メーサイ直行になっている。一、二年が過ぎ、通過地点としてもチェンマイで見かけることがないので、「いよいよプノンペンにでも行ったんじゃないの」なんて噂していると、「××さんは今、プノンペンにアパートを借りて住んでいるそうだ」なんて情報が流れてきたりする。ほぼ百パーセントの確率で読み切れる。それぐらい違う。

■大将伝説

 今回もまた北村さんから大将(假称)のエピソードを聞いて笑い転げた。

 チェンライを起点とし、メーサイに上り、南部に下り、やがてまたチェンライにもどって来るというシャケのようなルートでタイに住み着いている大将は、今や伝説的人物である。いくら假称にしても誰もが知っている有名人だが、そこはそれ、最後の一線として名は伏せよう。股間はむき出しにしても目線は入れるという奴だ。



 新人に職業を問われた大将は得意げに言う。
 「そうやなあ、詳しくはいえんけど、ライターということにしとこうか」
 「どんなものを書いているんですか」
 「わいの作品は、タイに来る奴の七割、いや八割は読んでると思うで」
 新人は引く。とんでもない有名人といま相対しているのだろうかと。
 「すいません、ボク知らないんで、あの、すごく有名な人なんですか」
 「君の持っているその本にも載ってるがな」
 「えっ!?」
 というわけで、正解は『地球の歩き方』に投稿が掲載されているということだった。
 「ほれほれ、ここに載っとるのがわいやがな。『このゲットハウスは駅にも近く、フロントのおばちゃんも親切です』って、もう何年も前の作品(?)やけどな。ほんまはこれ、こっちのゲットハウスを最初に紹介したのもわいやねんけどな、今年から知らん奴に名前が変ってもうた。失礼やで、作家のわいにことわりもせんと」
 大将が大阪人であることは言うまでもない。

 自らもライターと名乗るだけあって大将は同業者(?)に対してシビアである。
 チェンライでスズキのカリビアン(あのボロジープですね)を借り、北村さんと藤山さんを載せて、チェンカム一帯を走ったことがあった。メーコックで北村さんを降ろし、おれと藤山さんはセンプーホテルに向かう。おれの運転するジープを見ていた大将は、「あいつは何者や」と北村さんに訊いたらしい。レンタカーで走り回るなどというのは、一バーツにこだわる大将からすると想像を絶した浪費でしかない。

 「ライターです」と北村さんが答える。
 「ふん!」と大将は鼻で笑った。
 「ライターゆうてもいろいろやからな。自称ライターもぎょうさんおるし(←そりゃ大将あんたやがな)」
 「でも本物ですよ。ぼく、彼の本、買いましたから」
 「信用せえへんで。偽物の本かもしれんしな。わいは信用せえへん。本物の作家がこんなとこくるかいな(←大将、卑屈になったらあかん)」
 偽物の本と言われてもなあ……。

 市場で大将と新人が飯を食う。大将がカオパット(焼き飯)を注文する。新人が「あ、じゃボクも」と、同じく注文した。大将、烈火のごとく怒る。
 「ええか、わいが注文して、あのおばちゃんがカオパットを作り始めたのを確認してから、すこし間をおいて注文するんや。わかるか、この意味が!」
 新人は、すみません、わかりませんと応える。
 「おばちゃんは今カオパットを作り始めた。一人分の飯に卵一個や。そこにあんたがすぐ注文したら、もう一人分の飯をフライパンに入れるだけや。一緒に注文したら、二人分の飯に卵一個なんや。わいが注文して、一人分の飯に卵を一個入れたのを確認し、半分ぐらい出来上がってから、あんたが注文する。そうするとおばちゃんは、別々に作らなならん。ひとりにつき、卵が一個や。あんたが今すぐ注文したら、おばちゃんはわいのカオパットにあんたの飯を追加して作る。すると、わいの食べる卵の量が半分になってしまうやろ!」」
 「すみませんでした」
 「わかればええんや。よくおぼえとかないかんで。旅の常識や」

 大将の〃カオパット卵事件〃と呼ばれる、伝説のその一である。この種の伝説は百話ぐらい知っているが、バカらしいので以下省略。

 三千万円の貯金を誇る大将は、両替のレートにもシビアだ。チェンライのどの銀行のレートがいいか、毎日チェックしている。一バーツの差にもこだわる。ソンテオなどには乗らない。歩いて行く。

 強い陽射しの中、率のいい町外れの銀行まで歩いて往復し、大将は熱を出して倒れた。しぶしぶ薬を買って飲む。ふらふらになりながらも大将は自慢げに言った。
 「薬を買うても、差し引きまだ八バーツ得しとるやろ。あの銀行まで行って正解やった」

■水に向かって吠えた犬
 大将の本職はトラック運転手らしい。若いときからケチケチ生活をして、三千万円貯めてタイに来た。四十歳。死ぬまでもう働かず、遊んで暮らす。利子生活者だ。景気のいいときのタイは、年利が十パーセント以上、最高では十五パーセントもついた。元金は減らさず、利子だけで生活が出来る。バックパッカーの間で語り継がれる「大将伝説」を作りつつ、大将はタイで悠々自適の生活を送るはずだった。それは完成された計画のはずだった。

 魔が差したとしか思えない。
 なぜそんなことをしたのだろう。バーツ下落が大将の心を揺さぶったのだろうか。バーツの貨幣価値は下落し、金利は一気に十パーセントを切った。しかしそれでも、一ヶ月三万円で暮らす大将には、金利で食うだけでも、死ぬまで使い切れない財産のはずだった。

 そんなとき、民間の金融機関から、「三千万円が一年で六千万円になる」という悪魔の誘いがあった。きっと大将は「六千万になれば、もしもこの先どんな経済危機があっても大丈夫だ」と考えたのだろう。この話に乗った。そして、三千万円は消えた。

 文無しになった大将は、帰国して、またトラックの運転手を始めたという。五十歳間近。とりあえず頑張って一千万円を貯めることを目標にしている。日本も不景気だ。しばらくは労働の日々が続くだろう。

 十分に美味しい骨を銜えていたのに、水に映った自分を見て、大将は思わずワンと吠えてしまった。骨は川に落ち、消えた。あのとき欲張りさえしなければ。

 カオパットの卵の量にこだわり、一バーツでも率のいい銀行を求めて歩き回り、日々のケチケチ生活の果てに、そうして大将は三千万円を失った。

 いろんな人がいる。でもこれに哀れは感じない。むしろ運命を感じる。大阪でドケチ生活をし、運転手をしながら金を貯めているときから、大将のその金はタイでだまし取られる運命にあったのだ。そう思えてならない。
■未舗装
         

 1150号線を走り出してしばらくすると、頬に水滴が落ちた。雨か。
 空を見上げる。どんよりとしている。風が、いかにも雨降りの前のように、いやな吹き方をしている。

 もどった方がいいだろうか。今更もうもどれない。そう思う間もなく、道の舗装が切れた。砂利道だ。

 知らなかった。ここからはまだ未舗装だったのだ。
 前進あるのみ。もう半分ぐらいは来ている。それしかない。
 急坂、急カーブが続く。上りと思えば下り、下りからまた上りと、めまぐるしい変化が続く。細かな砂利でタイヤが流される。ズズーっと滑って行く果ては、断崖だ。もちろんガードレールなどない。

 何度か同じ事をしている内、さすがにおれも真剣になってきた。スピードを落とす。

 崖から落ちたら死ぬだろうが、おれは死なないとも思っている。カーブを曲がりきれず落ちそうになったら、バイクを倒し、手放す。バイクだけが流れて崖下に落ちて行くだろう。そういうテクニックは出来る。バイク代四万バーツを弁償すれば済むことだ。

 そんなことを考えながら急坂を無鉄砲に走っていたが、なにもバイクを落とす必要はないし、敢えて弁償の愚を犯す必要もないのだと悟る。あたりまえだ。慎重になった。

 舗装と未舗装ではこんなにも違うのか。タイヤが流され、スピードが出せず、快適どころか苦痛である。時折吹きかける雨、突風でカッパがバサバサと揺れる。プラオまでは後何キロだろう。時速二十キロ。一時間どころか、これでは三時間もかかってしまう。

■プラオ義太夫


 山上に着く。眼下に町が見えた。プラオだ。山あいの小さな町だ。道路が舗装になる。ほっとする。ゆっくりと下りつつ、町に入る。町というよりも、小さな集落でしかないが。

 雨が降っている。細かな雨が降り続いている。タイの雨期は、一日に何度かドーンと激しい雨が降り、その時以外は晴れていると学んだが、経験してみると、日本の梅雨のように、うじうじと降り続く日もけっこうある。運悪く、チェンマイに帰るきょうがそれになってしまった。
 寒い。雨が体温を奪うのだろう。気温自体は低くないのに、バイクで走っていると体が冷え込んでくる。

 プラオには、Hさんが住んでいる。元外交官だ。プラオの鄙びた奥地に、いかにも日本的な邸宅を構え、でっかい漢字の表札を出し、老後を過ごしている。

 おれたちがおじゃましたとき、三十歳ぐらいのタイ人の奥さんは、お腹が大きかった。もう数年前の出来事だ。今はどうなったろう。

 大きなパラボナアンテナを庭に置き、日本の衛星放送を受信していた。あの頃はまだNHKの二十四時間放送は始まっていなかったが、それでも毎日、ニュースや野球、相撲を見るのが楽しみだと語っていた。
 裏手には、趣味の蘭を栽培するためのフレームハウスがあった。何百鉢もの蘭が色とりどりに咲き誇っていた。

 タイの山中で過ごす第二の人生。自分で設計して建てた家屋。若い異国人の妻。もうすぐ生まれてくる孫よりも年下の我が子。通いの家政婦。趣味の蘭栽培。日本の子供達が送ってくれる日本食材。すべてが揃っていた。それは絵に描いたようなタイでのシルバーライフだった。不満はなにがあるだろう。

 おれ達がHさんを訪れたのは、タイ人との間に子供を作り、離婚をした日本人の、タイでの就学問題の相談だった。そのことにHさんが詳しいと知っていたわけではない。元外交官だから詳しいのではないかと推測して訪問したのだ。〃漁労長〃ことTさんの知り合いである。おれはただの運転手だ。Tさんのシビックで山道をドライヴしたいから付いていっただけだった。

 Hさんと話している内、話は肝腎の就学問題から離れ、次第に外交官時代の自慢話になっていった。スペインでの体験談に熱が入る。またおれが仕事柄、相槌を打つのが巧いものだから、Hさんの話は興に乗り延々と数時間も続いたのである。さすがのおれも相槌に打ち疲れ、他の二人が居眠りを始め、やっとお開きになった頃はみんなへとへとになっていた。

 帰りのクルマの中で、Tさんが、しみじみ呆れたという顔で、「あれじゃまるで義太夫語りだべさ(山形弁)」と言った。結局就学問題に関してはヒントすらもなかった。

 不満のない人生はない。Hさんは間違いなく日本語に飢えていた。自分の話を聞いてくれる人を捜していた。
 今頃どうしているだろう。

 近い内にまた訪れて、自慢話のお相手をしよう。相槌上手のおれは気に入られたみたいだし。
 そう思いつつ、Hさんの家へと続く道を横切る。


■帰路氷雨
         
 山あいの小さな町、プラオを走り抜ける。
 休みたかった。休むべきだった。未舗装道路を走って疲れていた。でもおれはもう、一刻も早くチェンマイに帰りたくなっていた。早く自分のアパートにもどって、熱い風呂に入りたかった。

 チェンダオまで三十キロ。また一山を超えねばならない。山を登り、降りてプラオの町に来た。また山を登り、降りてチェンダオである。舗装道路である分、さっきよりは楽のはずだ。チェンダオまで行けば、そこは走り慣れた道になる。知っている道は、知らない道よりも疲れない。ついさっきまでのおれは、見知らぬ道を走りたがっていたのに、未舗装道路五十キロの体験で、今は保守的になっていた。

 細い雨が降り続く。山道に入ると、空気が冷え込む。鬱蒼とした森の中を走り抜ける。午後四時。雨のせいか、もう薄暗い。八月の冷たい雨が降り続く。

 氷雨だなと思う。演歌『氷雨』には「外は冬の雨、まだやまず」のような歌詞があるが、氷雨は冬には降らない。氷雨とは夏に降る冷たい雨をさす。季語は夏だ。もっとも英語ではAUTUMN RAINであるが。季節の違いは、小春日和とINDIAN SUMMERのようなものか。

 寒い。体が冷えてくる。休みたかった。休まねばならない。だが休憩所がない。

 捜しながら走る。道路端に四阿(あずまや)を見つけた。なぜここにあるのだろう。迷うことなくバイクを滑り込ませる。停まる。カッパを脱ぐ、顔をタオルで拭く。寒い。でもほっとする。



 タイのバス停は、四阿形式になっていることが多い。陽射しを遮り、風通しがいい。しゃれた木造のバス停だ。でもこの山あいの道路はバスは走らないだろう。ソンテオはあるかもしれない。この四阿は何のためにあるのだろう。とにかく助かった。

 熱い飲み物が欲しい。雨期の気候を甘く見ていた。でもこれも勉強だ。次は日本からしっかりした雨合羽を用意してきて、寒くないようにして、もう一度このルートに挑戦してやろう。寒さに震え、薄暗くなってきた空を見上げつつも、意気だけはまだ軒昂だ。

 板張りのベンチに寝転がり、手帳にメモをする。「PM.4:30、休。プラオとチェンダオの真ん中辺り、アズマヤ」。

 エンジンの音が聞こえ、三人乗りのバイクが飛び込んできた。ずぶ濡れだ。カッパはバイクの前の籠に積んである。持っているのに着ない。いかにもタイ人らしい。

 ベンチに座り、一息ついた後、運転をしていた男性がおれに話しかけようとしている。必死に知っているほんのすこしの英語を思い出そうと苦悶している様子が可笑しく、もうすこしそれを楽しんでもよかったのだが、思わずおれの方から、私はタイ語が話せますと言っていた。なんだそうだったのかと、それまでの苦悶を見られていたから、ちょっと恥ずかしそうな顔をした後、彼は勢い込んで話しかけてくる。タイ人は気さくだ。物怖じしない。

 前に乗せていたのは小学生の息子で、後ろの男性が兄だという。帰郷していたバンコクで働いている兄を、チェンダオまで送る途中らしい。この雨降りに、さすがにカッパを着ないと無理と判断し、停まったようだ。兄の方はおれを無視し、しらんふりをする。日本人に対してなにかあるのだろうか。バンコクで働いている兄と、プラオで農業をしている弟との差だ。

 雨が降り続く。ちょうど日本の雨降りぐらいだ。南国の激しい雨ではないが、小雨とも言えない。それなりの雨降りである。雨足が弱くなるかとしばらくはおれと一緒に天を見上げていた彼らだが、どうやら降り続くと判断したらしく、カッパを着込み、雨の中を走り出していった。

 山あいの四阿でひとりになった。
 日が暮れてくる。ここにいてもしょうがない。
 思い切って走り出す。冷たい雨だ。


 チェンダオに出た。一気に交通量が増える。
 雨が降り続く。何度もヘルメットの風防を手で拭い、雨を払う。
 視界が悪い。ライトを点ける。抜き去ってゆく大型トラックの風でバイクが揺れる。



 午後六時半。夜明けが遅かった分、日はまだ残っている。
 あと、六、七十キロだ。ほんの一時間ほどの頑張りだ。雨に濡れ。かじかんだ手でスロットルを回す。

 寒い。体が冷え込んでいる。熱が出てきた。風邪がぶり返しそうだ。
 やがてこの寒さが、生まれて初めてというほどの大病に繋がることに、おれはまだ気づいていなかった。
(「チェンライへ走る」完)


チェンマイ日記-2k秋外伝
後記

 これは99年夏の体験談である。
 この文章を後藤茂さんのホームページ「チェンマイのさくらと宇宙堂」に連載したのは1999年の暮れから2000年にかけてだった。連載中、文章と合った写真がないことが残念でならなかった。元より旅行をするとき、後に写真と文章を絡めたものを書くために素材としての写真を撮るなどという発想は毛頭なかった。写真を撮ることが好きでもない。それでも十年以上タイに通っていたから撮りためてあった写真はそれなりにあったのだが、どうにも文章と似合うものがない。ましてこれはバイクでチェンマイからチェンライへ行ったという特殊なものなのだから、誰かに頼ろうにも思うように行くはずがない。後藤さんも他者のホームページまで出かけ、よさそうな写真があると借りてきて載せてくれたりしたのだが……。

 すべての連載を通じて後藤さんにただ一度だけ抗議したことがあった。それがこのファイルに関してだった。チェンライの山道を走っていてたいへんだ、という回に後藤さんはどこで探してきたのか(自分が実際に経験してきたばかりだったか?)出来たばかりのバンコクのモノレール写真とその乗り方を解説した文を載せたのである。文章と写真が合っていないばかりか足を引っ張っているので、あの写真は替えて欲しいとすぐメイルを書いた。それだけ似合う写真がなかったことになる。

 自分でホームページを作るときは、なんとしてもこのファイルの内容にそった写真を添えねばならない、そのためにはもういちどこの道を走らねばと、それは私のささやかではあるが鞏固なタイ訪問の目的となっていった。
 2001年の夏にHさんのクルマに乗り、HさんとHさんの友人と私の三人でチェンライ・メーサイへドライヴ旅行をした。ここにある写真はそのとき撮ったものである。途中、頭の中にある文章を思い浮かべては、道路の分岐点や、それらしき雰囲気の場所で、何度もクルマを停めてもらい写真を撮りまくった。それが出来たのはHさんのお蔭である。今は残念ながら交友のない人になってしまったが、このときのことは今でも感謝している。
 決して満点とは行かないまでも、なんとか自分の思うような場面に、それなりの写真は添えられることになり、うきうきしながらこのファイルを作ったものだった。

 2001年11月からこのホームページを始めた。見よう見まねというか教科書と首っ引きというか、スタイルシートがどうの見出しがどうの、Logoがどうの、デジカメ写真のサイズがどうのと、懸命にこのファイルを作っていた頃が懐かしい。それは何度も作り直した初期のファイルとしては最も凝ったものだった。しかしほんのすこし時が過ぎれば、素人が見よう見まねの知識で作った目を覆うほどの不細工なファイルでしかなかった。

 今回、03年2月に中国秦皇島から始まった全面的見直しにより、やっとこのファイルも他人様に見せても恥ずかしくない程度のデザインに替えることが出来た。5部構成18ファイルに別れていたものを、5部構成5ファイルにまとめた。いくらか読みやすく、そしてデザインもすこしだけかっこよくなったはずである。なにしろ今までがひどかった。「素材日記」に過去のデザインを保存し、忘れないよう記録しているのだが、ここは記録しておく気にもなれないほどだった。よって「素材日記」には記録していない。それでもチェンマイのナティコートで、初めてのホームページ作りとして、教科書を傍らに、あのときはあのときで必死になってやっていたのである。
 たいした内容のものではないが、私にはいとしいファイルになる。そういえば2ちゃんねるでかってに引用されて(いわゆるコピペ、か)いやな思いをしたのもここがいちばん多かった。
(03/3/31 日本)


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