チェンライへ走る 4
      

■古式按摩
 北村さんと一緒にマッサージに行く。「古式按摩」と漢字で書いてあるチェンライでは有名な店だ。おれももうずいぶんと前から来ている。十年前から看板は変っていない。町中に漢字が多いことから、この地が敗走した国民党が逃げ込んだ特殊な地域であることが解る。

 按摩という字も言葉も、日本ではもう完全な死語扱いとなり、見かけることはなくなった。中国では今も按摩だから、いたるところで目にする表示である。発音は「アンモー」のような感じになる。たぶん日本では、「按摩=盲人」から、差別表現に気を遣ってタブーとなったのだろう。どこでもマッサージという表記である。だけど按摩という言葉に罪はない。おれはこの種の問題に関して「英語に置き換えればそれでいいのか?」と憤っているのだが。

 最初にそれがマスコミ的話題になったのは、ジャニス・イアンの「恋は盲目」だった。盲目というタイトルが問題となり、このレコードは原題の「LOVE IS BLIND」に変更される。盲目はダメでブラインドならいいというのもへんな話だ。1970年代初頭のことになる。それまでは、例えばザ・ピーナッツの歌った「黒い瞳のドミニク」なんてのは「ドミニク、それはメクラの少女、黒い瞳は閉ざされていた」なんて歌詞が、テレビでもラジオでも流れていたのだった。それ以降、日本語は規制の嵐に飲み込まれて行く。

■削られた差別語
 おれはずっとIME(未だにFEPと言ってしまいそうになるが)はATOKを使って来た。職業物書きがワープロを使うことはまずない。テキストエディターばかりを使用するので、せっかく買った一太郎は、三太郎あたりから最新の十太郎まで宝の持ち腐れ状態なのだが、ATOK欲しさに今でも買い続けている。

 呆れつつ感心するのは、辞書の中から、差別に繋がるらしい単語が、細心の注意を払ってカットされていることである。例えば「土方」「白痴」なんて言葉ですら辞書にない。十万語、二十万語の単語数を誇りつつ、その種の言葉は一切使えないようになっているのだ。

 くだらないことだと思う。人を差別したり傷つけたりする言葉は使わない方がよい。ただそれは利用者が判断すべきことであって、IMEの制作者がそんなことにまで気を配る必要はないのだ。子供にケガをしたら危ないからとナイフで鉛筆を削らせないような、今の日本には転ばぬ先の杖ばかりが横行している。転んで覚えることだってあるだろう。そういう教育を受けて成人した子供が、初めてナイフを使ったのが、人を殺すときだったりする。ナイフで自分の指を切る痛みを経験していれば、簡単に人は刺せない。

 言葉の規制に関して、井上ひさしは、「もしもぼくの友達がセン人などという言葉を使ったら、ぼくはそいつを軽蔑する、絶交する。だけどだからといって、セン人という言葉をなくしてしまってはならないと思う」というようなことを語っている。セン人というのは、朝鮮人を侮蔑するときの言葉らしい。この言葉は知らなかったが、彼がここで言っていることは正しい。

 今、支那という由緒ある言葉が差別語として封じられようとしている。もちろんワープロでは変換できない。言葉を規制することは、正面から立ち向かわなければならない問題を、ただ単にすり替えることでしかない。

 一応おれは、若いときの土方体験を、売文では「建築現場作業員」のように書いたりする。土方と書いても直されてしまうことを知っているから無駄な突っ張りはしない。でもおれのやっていた仕事は土方なのであり、どう考えても建築現場作業員ではなかった。昔のことを今の言葉で置き換えるのは不自然だ。それが商売である編集部はともかく、ATOKにまで自分の言葉を規制されたくはない。

 『ノートルダムのせむし男』は『ノートルダム男』になったらしい。これじゃ地名を表していたノートルダムが、形容詞になっている。その辺の白痴面した女子高生に「ノートルダム男ってどんな意味?」なんて訊いたら、どんな答が返ってくるのだろう。表面だけ繕ってもどうしようもないのに、時代は益々そちらに流れつつある。

 物書きとして疲れるのは、そういう表現にこだわる自分、こだわらざるを得ない環境にいるということだ。おれはこのHP上の文章で、第一話の競馬の部分に「そんなことはキチガイ沙汰なのだ」と書いたが、ものを書いて金をもらうようになってから、他人様に読まれる文章にキチガイという文字を書くのは初めてだったので(たとえ書いたとしても編集部で言い換えられてしまう)、ものすごくドキドキした。日常的に使っている言葉なのに、書くときには使えないというのは、それだけでもう歪んでいる。

 もちろんATOKでは、「気違い」も「気狂い」も変換できない。使いたかったら単語登録するしかない。JUST SYSTEMの関係者はキチガイという言葉を知らないのだろうし、知っていても決して使ったりはしないのだろう。ワープロソフトを製作しているのに、なんでそんな見当違いの心配りをするのだろう。順当に躍進してきたJUST SYSTEMが経営的に躓いたのは、不思議でも何でもない。ヴェンチャービジネスが常識の顔色をうかがうようになったら、そこにはもう凡人の発想しかない。辞書の中から差別用語を削ったとき、きょうの停滞は見えていた。

 もう十年以上、ATOK以外のIMEを使っていないので解らないのだが、ちゃんと土方も白痴も「群盲象を撫でる」も変換できるIMEはあるのだろうか。あるのならそれに替えたい。使い慣れたATOKと離れるのは辛いが、それが物書きとして筋を通すことだと思う。

 安易な言葉の規制は表現の広がりを殺してしまう。でも勝新太郎が死んだとき、テレビで流された追悼映画で、「へっへっへ、あっしゃドメクラですからね、メクラですから、そんなことはわかりませんよ」などと、メクラという言葉が連発されたとき、規制に毒されているこちらとしては、ひとりで見ていたのに、思わず心配して周囲を見回してしまったりもした。まるで言葉を規制されているテレビ人が鬱憤晴らしをしようと、『座頭市シリーズ』の中でも特にそういう作品を選んで来たのではないかと思えたほどだった。

 言葉を規制し、カタワやフグシャを身体障害者に置き換えても、やがて時が流れればそれは、シンショーシャという差別用語になってしまうのだ。今度は何と言い換えるのだろう。

 現に今、小学校の運動会には「障害物競走」というのがない。障害という言葉が身体障害者を想像させるからという心遣いであるらしい。「山あり谷あり競走」という。ワープロで「しょうがい=障害」という言葉が変換されなくなる日も近いだろう。

 外国語はテレビで覚えるのが良いと言われる。アメリカのテレビ番組を見ていると、映画とはまるで言葉遣いが違うことに気づく。ハリウッド映画を観て米語とはこんなものなんだと覚えるのは危険だ。ファック、ファッカー、ファッキングが連発されているが、あれはきちんとした場では絶対に使ってはならない言葉である。

 老若男女、誰もが見ることの出来る(=見る可能性のある)テレビでは言葉を規制し、限られた人間が有料で見る映画では言葉を解禁するという、あちらのその使い分けは正しい。日本では、たとえ映画でも差別的な言葉やテーマは一切規制される。規制されることによってより陰湿な形態となって行く。そこがこの国の病んでいる点だ。

 タイ語もテレビやラジオのニュースで学ぶのがいい。トーラタット(テレビ)をティーウィー、チャカヤーン・ヨン(原動機付き自転車)をモーターサイと訛った英語が俗語となっているが、ニュースではきちんと正しいタイ語を使っている。

 というわけで按摩の話にもどるが。

■動詞の名詞化
 タイ式マッサージは、タイ語で「ヌアット・タイ」である。揉むという意味のヌアットは、「ヌアッ」で、トは聞こえないのだけれど、「タイ語の心がけ」に書いたように、こういうことにこだわり始めると切りがないので、とりあえず以降も日本のタイ語教科書に載っているようなカタカナ表記で話を進める。

 ソープランドは、俗に「マッサージ・パーラー」と呼ばれている。これもジを発音するタイ人はいないので、タクシーやトゥクトゥクの運ちゃんは、旅行者に「マッサー、マッサー」を連発してくる。まともに働いて稼ぐ一日の利益より、客をひとり送り込んでもらうバックマージンの方が大きいのだから、奴らの勧誘もしつこくなるってなもんだ。これを純粋なタイ式マッサージと勘違いすると、ソープランドに連れて行かれてしまう。実体験あり。この種の体験談をHP上で書くのが好きな人は、マニアックにMPなどと略したりしているようだ。そうはなりたくないものである。

 タイ語での名称は、「アップ・オップ・ヌアッド」になる。看板にはタイ文字でそう書いてある。日本語に訳すと「浴びる、蒸す、揉む」という動詞を三つ並べたものだ。

 この「蒸す」という部分に、タイのこの種のものが日本のトルコ風呂から派生したという名残(なごり)がある。売春禁止法以降に登場した、法の抜け道である日本のトルコ風呂は、形式的にはトルコ風スチームバスが発祥である。時折タイ人に、「日本にもアップ・オップ・ヌアットはあるのか」と質問される。もちろんおれは「そんなものありませんよ。こんな素晴らしいものがあるのはタイだけです」と応えることにしている。

 短音節言語は動詞の羅列で名詞を作り出すのだろうか。この辺、おれは正規の学問を修めた者ではないので詳しくは知らない。クリーニング屋の看板も、「サック・ヘン・リート」となっている。これも「洗う、乾かす、アイロンを掛ける」という動詞を三つ並べて作った名詞である。
(下の看板写真ではサック・オップ・リックになってます。)



 おれと北村さんが行ったのは、「アップ・オップ・ヌアット」ではなく「ヌアット・タイ」の方だ。チェンライにもアップ・オップ・ヌアットは一軒だけある。だけどどうせデパートで買い物をするなら、田舎町に一軒しかないしょぼくれたデパートより、銀座や新宿にある老舗や高級店に行った方がいいだろう。

 不況らしい。客はひとりもいなかった。十人ほどの娘及びおばさんは、皆やることもなく昼寝していた。
 北村さんは何回か指名しているお気に入りの娘がいるらしく、さっさとその娘を指名してしまった。困った。おれはどうしよう。べつに誰でもいいので、近くにいた女性にする。

 北村さんと知り合う前から、ここには数回来ているが、マッサージのレヴェルは、可もなく不可もなくというところである。
 タイ式マッサージに関しては、けっこう通になってしまったからか、最近ではあまり、いわゆる飛び込みで見知らぬ店に入るということがない。チェンマイで、マッサージが上手な気に入ったおばさんが二、三人いるので、そこでしかしなくなっている。このおばさん達にたどり着くまで、不愉快な思いもいっぱいしているわけで、やっと作り上げた安寧の場から抜け出せなくなった。

 バンコクでも、時たま飛び込みで入ってみるが、満足したことはない。タニヤの「有馬温泉」やその近辺の店は日本人に人気があるというのだが、おれの知る限り、チェンマイほど上手な人はいなかった。逆に下手くそなくせに、チップの話ばかりするいやなおばさんに当たったこともある。




 北村さんと馴染みの娘が、手慣れた感じで世間話を始める。
 「どうして何ヶ月も来なかったの」
 「日本に帰ってたんだよ」
 「いつ来たの?」
 「三日前」
 「だったらすぐ来なさいよ。三日間なにしてたの」
  なんてことを話している。
 「一緒に来た友達はタイ語を話せるの?」
 「うん、とても上手だよ」
 「でもさっきから全然話さないね」
  そんな会話が仕切りのカーテン越しに聞こえてくる。

 タイ語を話せるようになった頃は、こういう場で、すぐに話し始めたものだった。まるで話せることを自慢したいかのように。いや、たしかにそんな気持ちもあったのだろう。

 このごろはなかなか話し始めず、相手の様子をうかがうなんてズルいこともする。話せない振りをしていると、マッサージ嬢同士が、「あんたのお客、どう?」「うーん、なんかケチな感じ」「あたしの客もそう、チップくれるかな」なんて会話があったりして楽しめるのである。あとでこちらがタイ語が話せ、その内容を理解していたと知り、赤面する彼女らを見るのも楽しい。すこしばかり悪趣味だが。

 おれの相手は無口な女性だった。黙々とマッサージをするだけなので、こちらから話しかける。隣が会話が弾み楽しくやっているのに、黙っているのは申し訳ないと思ったのだ。

 二十九歳。離婚経験有りの子持ちだった。タイ式マッサージのおばさんは、こんな経歴の人が主流である。二十九歳の女性をどう呼ぶかは難しいが、タイでは間違いなく〃おばさん〃になる。顔立ちがおれの考えるチェンライ顔とはちょっと違うので、出身を尋ねてみると、メオ族だという。山岳少数民族ということになる。家のあるのは、メースアイから北上して行くとんでもない奥地で、タートンのすぐ近くだった。

 日本に行きたいがどうすればいいのかと訊いてくる。そんな話になった。
 パスポートやヴィザのことなどを一般的に答えようと思ったが、どうやら彼女は、何も知らないのだと気づく。バンコクどころかチェンマイにすらも行ったことがないという。日本に行きたいというのは、漠然とした憧れなのだろう。そんな彼女に、日本ではタイ人娼婦が増えることによってヴィザ取得が難しくなったなんて事情を説明してもしょうがない。

 「とにかく日本語が話せないと仕事がないからね」
 「日本語も英語も話せない」
 「なにか得意なもの、ある?」
 「メオ語」
 「うーん、日本でメオ語を話しても、解る人いないからなあ」
 カーテンの向こうから、北村さんと相手の娘の笑い声が聞こえた。
 「日本に行ってメオ語を話しても、だれもわかんないよ」
 そう言ってその娘が笑い転げている。

 チップをどうするかと北村さんが問う。いつものようにしてくださいとおれは応える。メーコックにいる連中と一緒に来た場合、いつもチップは20バーツなのだという。じゃあそうしましょうと、おれはそれに従った。店に200バーツ。チップで20バーツ。

 いま全然客がいなくて、きょうもおれ達が最初の客だという。一時間百バーツの内、彼女らの手取りは40バーツだ。二時間で80バーツの仕事になる。だいたい彼女らの月収は三千から五千なのだが、不況で観光客の来ないこの店では、二千を切る月もあるという。子供がいるのだから、これではちょっときついだろう。おれはとても素朴なこの〃おばさん〃に百バーツのチップをあげたかったが、それは北村さん達の場を荒らすことになってしまう。自粛せねばならない。それがルールだ。

■ツーリスト・イン
 もしかして知り合いがツーリスト・インに来ているかもしれなかった。
 そのことを北村さんに告げ、ツーリスト・イン・ゲストハウスを覗きに行く。
 経営者の大久保さんは出掛けていて留守だった。
 おれの知り合いも来ていない。
 時刻は午後九時。
 どこかで一杯飲みますかとなったが、なんとなくおれは熱を感じていた。
 風邪か。今朝の冷え込みが原因だろうか。帰国を前にして、いまここで風邪を引くわけには行かなかった。いやな予感がする。

 チェンライには、日本人の大久保さんが経営しているゲストハウス、ツーリスト・インがある。初めて行ったのは、『サクラ』で知り合った人が、そこに泊まっている友人を訪ねて行くという時だった。おれはその時、バンコクで借りたレンタカーに乗っていた。チェンライのツーリスト・インに行くという彼を、じゃあついでだから乗せてゆきますよとなったのだ。タイ人女性と結婚した日本人が経営しているという、日本人に人気のあるゲストハウスを見たいという気持ちもあった。



 おれは、ケチケチ旅行を続けるバックパッカーとはいろんな面で感覚が違っていた。ゲストハウスとはそういうバックパッカーのものだ。おれとは無縁の場所だった。積極的に彼らと関わろうとは思わなかったけれど、それでも偶然パパやナベちゃんと知り合い、今まで縁のなかった世界が広がってからは、何も無理に避けるほどのことではないと思うようにもなっていた。
 ツーリスト・インに行ったとき、印象的なことが二つあった。
 ひとつは、知人を送り届け、大久保さんと初対面の挨拶を交わしているとき、彼が「バンコクから来たんですか」と言ったことだ。おれは「なんで判るんですか」と聞き返した。
 「だってナンバープレートがバンコクだから」
 大久保さんは驚いたおれに苦笑しつつ言う。ナンバーにはクルンテープ(バンコク)と書いてあったのだった。

 その頃おれはまだタイ文字が読めなかった。
 ドライヴ旅行は最初にタイに来たときからやっている。初めての町で、道路標識や看板が読めなくて苦労していた。タイ文字を覚えねばという気持ちはあった。日本でタイ文字の教科書を買ったり、チェンマイの語学学校のパンフレットを集めたりもしていた。でも『サクラ』で知り合った親しい日本人の中に、読み書きの出来る人がいなかったこともあり、日常でのタイ語会話には不自由しなかったから、やらねばと思いつつも踏ん切りがつかないままでいた。

 クルマで走り、標識が読めず苦労するときには、絶対にタイ文字を学ばねばと思う。でもクルマを返却し、いつもの『サクラ』での生活にもどると、その決意はチェンマイの暑い空気の中に拡散してしまうのだった。

 そういえば、この時よりも前に、チェンマイのAUA(語学学校)で個人レッスンを受けたことがあるのを思い出した。一時間150バーツ、一日二時間の30時間コースだったろうか。担当の先生はチェンマイの教育大学を出たというなかなか上品な若い女性だった。

 最初はおとなしくしていた。だが次第にストレスの溜まったおれは、間もなくその講師に噛みついてしまう。彼女に責任はなかった。問題は教科書だ。あれは間違いなく日本人の作ったものだろう。コピーしたものをホッチキスでとめたその手製の教科書の、一ページ目にある最初の構文は「これはペンです。あれは机です」だったのだから。

 おれは彼女にまくしたてた。こういう勉強には意味がない、と。
「日本では中学一年から英語を習います。私もこの教科書で習いました。This is a pen,That is a deskです。しかし私は、世界の各地で、未だにただの一度も『これはペンです、あれは机です』というこの英語をしゃべったことがありません。役だったことがありません。この教科書には、タイ語で『これはペンです、あれは机です』となっていますが、これから私がこのタイ語を使うことはないでしょう。役立つとは思えません。こんな教科書では勉強したくありません」

 彼女はおれの剣幕に当惑しながら、「たしかにあなたの言う通りだと思います。あなたはもうそれだけタイ語がしゃべれるのだから、この教科書で学ぶ必要はないでしょう」と言った。それからの時間は、おれの日本から持ってきたタイ語教科書を使って、彼女に発音を矯正してもらうことに費やした。

 このことで結果的に何があったかというと、彼女に「それだけしゃべれるのだから」などと誉められたおれは、自分のタイ語会話能力に自信を持ってしまい、本格的勉強を怠ったのである。ここで恥を掻いていれば、一気にタイ文字学習まで進んだのだが、かえってそれは遠のいたのだった。

 大久保さんはタイ人の奥さんと結婚し、タイに常駐すると決意してから、チェンライの語学学校に通ったという。いや、個人教師で学んだのだったかな。チェンライに語学学校なんてあるのかな、ないよな。やはり個人教師か。いずれにしろその時、ナンバープレートの文字ぐらいは即座に読める程度の能力を身につけていたのだった。

 タイ文字を習おうと思いつつ、いつまで経っても勉強を始めないおれの怠惰さが、このとき動いた。(すごいなあ、いいなあ、タイ文字を読めるって)。きっかけを探していたのだろう。大久保さんがさらりとナンバープレートの文字を読んだというその出来事から、おれの学習意欲は転がり始めたのである。

 この旅行から帰国してすぐ、タイ文字の獨学を始める。大久保さんはそんなことがあったなんて覚えてもいないだろうが──それ以前に、ツーリスト・インに泊まったことのないおれのことすら記憶にないだろう──おれにとっては忘れられない出来事である。


■検問

↑車内から構えた私のカメラを見つけ警官がとんできて写すなと怒った。

 もうひとつの印象深い事件は、チェンマイへの帰り道で起こった。
 それから三日後、メーサイやチェンセンをひとりで走り回ってきたおれは、ツーリスト・インに泊まっていたその知人を迎えに寄る。チェンマイの学校に寄宿している子供を迎えに行くという大久保さんの奥さんも、乗せていって欲しいということで同行した。三人でチェンマイに向かう。季節は十二月の暮れ、晦日が近かった。

 山道で交通検問があった。検問はよくある。おれはいつでもバイカップキー・ナナチャート(国際免許証)を持って来ているから何の不安もない。むしろおまわりの方が国際免許証を見るとがっかりする。無免許の日本人に難癖をつけて小遣い稼ぎをしようとしたのに、こいつきちんともっていやがら、という顔だ。

 さすがにいい加減なタイでも、HEARTSやAVISのようなきちんとしたレンタカー会社では国際免許証がないとクルマは貸りられない。おれも最近では万が一のことを考え、こういう大手で借りるようにしている。これは逆に、チェンマイの街中の個人レンタカーなら、無免許でも借りることは可能だということである。

 おれの場合、国際免許証をもっていなかったことはないが、街中の個人レンタカーの方がずっと割安なので、以前はよく借りてもいた。
 こういうところの保険はいい加減だ。タイ語の契約書では何が書いてあるのか解らない。事故があったとき面倒なことになる。彼らは平然と「ミー・パッカン・タンモット(FULL INSURANCE)」と言うが、これは嘘である。後におれはイサーンを旅行しているとき、同行の友人が人身事故を起こし、大手で借りていたことを神様に感謝したくなるような経験をする。その話はまた別の機会にしよう。

 無免許でも借りることは可能だが、検問の度に警官に賄賂を要求されることになる。もっとも丸テーブルの常連に聞くと、五年前ぐらいの国際免許証を出しても(国際免許証は一年限定である)、タイのおまわりはなにも気づかないそうだ。期限の切れた国際免許証を、捕まったときの切り札にするのだと大切に持っている人も多い。

 そんなわけで、それはいつものよくある検問だったのだが、いま考えれば、最初からちょっと異常ではあった。
 おれ達の前にいるタイ人のクルマは、ほとんど形式的なチェックですぐに解放されていた。なのに国際免許証を手にした運転手のおれが日本人だと解ると、おまわりはおれ達全員をクルマから降ろし、車内の点検を始めたのである。おれ達のクルマだけが特別扱いをされていた。やましいところはないから、どうぞ好きなだけ調べてくださいという気持ちだ。むしろおれは、日本でも諸外国でも今までこういう経験がなかったから、警官の執拗なチェックを楽しんでさえいた。こんな山の中じゃ珍しいバンコクナンバーのクルマだし、運転手は日本人だ。ゴールデン・トライアングルの麻薬密売人にでも間違えられたかなと、のんきなことを考えていた。

 警官が後部のトランクを開けろと言う。おれはレバーを操作し、トランクを開ける。自分も自動車の後部に行き、トランクの下の敷物までめくり挙げてチェックする警官に密着しながら観察していた。それは物書きとしての好奇心だった。それでも、いくらなんでもこれはあまりに執拗なのではないかと感じ始めた頃、不愉快そうな顔をした警官は、行ってもいいと言ったのだった。

 走りながら、大久保さんの奥さんに、これはどういうことなんだと質問する。いくらなんでもしつこすぎるじゃないか、なんでおれ達だけあんな目に遭うのだと。
 奥さんは戸惑った表情を浮かべ、「もうすぐ正月だから、警官はお金が要るのです」と言った。

 冷や汗が流れた。そうだったのか、これが悪名高いあれだったのか。
 結果として奴らの点検を間近に見ていたことが幸運を呼んだ。おれ達は三人いた。知人と奥さんはクルマの全体を見ていた。おれは警官に密着していた。あれでおれ達がそっぽを向いていたら、身に覚えのないマリファナやヘロインがトランクから出てきて、おれはとんでもない金額を要求されただろう。いま有り金全部を払えば無罪放免にしてやる。それとも十年ほど刑務所に入るかと。

 奴らはバンコクナンバーでいい気になってドライヴなんぞをしている日本人を見つけ、絶好のカモ発見と小躍りしたのだ。なのになぜかその日本人は、警官にまとわりつき、トランクにマリファナを入れる隙を与えなかったのである。一万バーツ、いや十万バーツの取りっぱぐれか。タイのおまわりはどんなチェックをするのだろうなどと、へばりついていた物書きの好奇心が良い目に出た。

 噂には、この手口を聞いていた。ジュライホテルで、朝方おまわりに踏み込まれ、まったく身に覚えのないマリファナがバッグの中から発見され、何万バーツも罰金を払わされた知人がいる。日本の親から送金してもらい、その無実の罪の罰金を払った彼は、タイは恐ろしいところだと二度と来なくなってしまった。

 その手口は知っていた。悪質なおまわりにはいつも警戒心を持っていた。でもいつの間にか知識のひとつとして風化していた。
 ツーリスト・インのことを思うと、「バンコクから来たの」と言った大久保さんと、あの山中での検問を思い出す。

■発熱予感


 なんとなく体が熱い。額を触ってみると熱があるようだ。やはりあの朝の冷え込みにやられたのだろうか。

 普段はあまり遊び歩かない北村さんは、たまにはおれと一緒に、思いっきり夜遊びをしようかと張り切っているようだ。おれもそのつもりだったのだが……。
 ナイトバザーで音楽を聴き、ビールを二、三杯飲んだ辺りで、おれはどうもヤバいようだと北村さんに告げた。風邪を引きそうだ。なんかゾクゾクする。ビールも全然美味くない。こんな時は早めに手を打つに限る。

 北村さんも、おれが自分から具合が悪いなどと言いだしたのは初めてなので心配してくれる。おれは見た目は貧弱だが、まず病気とは無縁なのである。

 タイの薬は強烈だ。まだ日本のように成分が規制されていないからだろう。昔の日本も「睡眠薬自殺」というのがあったように、町の薬屋で買う睡眠薬で自殺が出来たりもした。今その種のものは医者を通さないと手に入らない。頭痛薬などでも、効き目よりも副作用で文句を言われることを気にしているから効きの弱いものばかりである。

 タイではまだそんなことがない。かなり強烈な薬を売っている。それでも、あまりに危ない薬はやっと規制されるようになってきたらしく、数年前まで売っていたとんでもなく強力な睡眠薬が、薬局では手に入らなくなったらしい。バスの中やホテルでの睡眠薬強盗に使われた有名な薬だ。飲むと五分ほどで意識がなくなるという。あれをタイの女性に悪用していた鬼畜のような日本人も知っている。そのこともまた改めて告発しよう。
 そんな特殊なものはともかく、日本より強烈な薬はまだまだ健在である。

 タイに、なんという薬か知らないが、飲むと大量に発汗する風邪薬がある。「なんという薬か知らないが」って、言葉もしゃべれるし字も読めるのだから、何度も飲んだ薬の名前ぐらい覚えればいいのに、どうもおれにはその辺の基本的な好奇心が缺陥しているらしい。反省せねばならない。

 チェンマイに関して、おれより後輩でも、あれこれと詳しい人がいっぱいいる。まだ三回ぐらいしか来てない人に、通りやビルの名前を聞き、「へえー、そうなんですか。あそこはそういう名前なんだ」なんてことをちょくちょくやっている。常識的に誰もが覚える知識に関して、おれは疎いところがあるらしい

 だけど──とこれは明らかな居直りだが──それは各々の資質であり、覚えないことが熱心でないとは、一概に言い切れないとも思うのである。

 競馬物書きになりたいのだがどうしたらいいかという相談を何人もの競馬ファンから受けた。彼らのアピールポイントは、歴代のダービー馬の名前を全部言えるというような記憶力の自慢が多かった。そんなときおれの言うことは決まっている。「歴代のダービー馬は、資料を調べればすぐに解ることです。あなたの限られた記憶力を、調べれば解ることに費やすよりも、その時一緒にいた女性の表情、その時の空の色、ゴールの時の心のときめき、そういう〃あなただけのこと〃に使った方がいいでしょう。人と違うことを書くためには、そういう感性を磨くべきです」と。

 だからおれは、細かなタイの日常を覚えようとはしないのだが、タイに関する小説を書く上で、それはたいしたマイナスではないと思っている。薬の名前は覚えなくても風の色は知っている。おれの書きたいのは、タイの細々とした随筆ではなくタイを舞台にした小説なのだ。

 で、おれのお気に入りの風邪薬だが。
 風邪のひき始めに限らず、かなりひどくなってからでも、おれはこの薬でタイでの風邪を治してきた。この錠剤を飲むと、三十分後ぐらいから汗を掻き出す。

 おれは若いときから、汗を掻き、衣類を替え、熱を追い出してしまうという方法で風邪を克服してきた。日本だと、何枚も衣類を着込み、重くて潰れそうなほどたくさんの布団を掛けないと必要十分な汗を掻かないが、この十錠で三十バーツもしない安い風邪薬は、厚着をせず毛布一枚でも、驚くほど大量の汗を掻かせてくれるのだ。普段、薬なんてものに無縁なおれは、たまに薬を飲むと、アフリカ土人が抗生物質を飲んだのと同じぐらい効く。

 北村さんには申し訳なかったが、今夜の夜遊びは中止とする。
 薬屋でその風邪薬を買い、おれ達は解散した。
 まだ数日はいるのだから焦る必要はない。まずは体調を万全にすることだ。
 心配なのは汗を掻いたときの替えの衣類が少ししかないことだが、うまく二人分用意されているバスタオルや、キングサイズベッドのシーツを利用すれば何とかなるだろう。

  錠剤を飲む。クーラーを切る。毛布にくるまった。
 飲んでしばらくすると、体中が熱くなり、発汗が始まった。意識がもうろうとするほど体が熱くなる。

 午後十一時。汗で絞れるほどになったシャツとパンツを脱ぎ、着替える。シーツまで汗で濡れている。ベッドにもぐる。また発汗が始まった。
 何度か同じ事を繰り返す。
 時計を見る。午前三時。
 これで朝にはスッキリするはずなのだが……。





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