チェンマイ日記1999夏
A美しい言葉



サクラ丸テーブル

 『サクラ』の丸テーブルでY子さんと知り合った。
 初対面なのになぜか波長が合い、旧知の間柄であるかのように話が弾む。頭の回転の早い人で打てば響くように反応が返ってくる。関西から来た三十代の獨身女性である。そっとバツイチだと教えてくれたが、それはここだけの話にして。
 タイに初めて来たのはほんの二年前、今回で三回目でしかないが、一回の滞在が一ヶ月以上なので、年数や回数以上にタイには詳しいようだ。タイ語の勉強が面白くてたまらない時期らしく、片時もタイ語の教科書を手放さない。バンコクの語学学校に短期入学していたこともあるという。

 丸テーブルの隣人が「タイ語の勉強してるなら、この人、タイ語ぺらぺらだよ」と私のことを指さした。私は慌てて「そんなことはないです。ぼくの語学力は小学校二年生以下ですから」と言う。
 ことばの使いかたは人によって違う。その人は特に大げさで無神経な使いかたをする人だった。カンボジアに短期で二回遊びに行っただけなのに「プノンペンのことなら知らないことはない」と豪語して、チェンマイのプノンペンマニアから嘲笑されたりしている。本人は悪気もなく私のことを「タイ語がぺらぺら」と言ったのだろうが、表現にこだわるこちらからするといい迷惑だ。私の感覚だと〃ぺらぺら〃というのは同時通訳クラスを指す。私など〃ぺ〃にも届いていない。
 持ち上げられたのに必死にそれを否定し「小学校二年生以下」という私の表現がおもしろかったらしく、Y子さんは何故二年生なのか根拠を訊いてくる。



 タイ語の勉強は一所懸命にした。時間とお金の許す限りの努力をしたつもりでいる。いつもタイ語のカセットと教科書を持ち歩いていた。電車の中ではウォークマンで聞いた。クルマの中ではカーステレオで聞いた。部屋の中ではBGM代わりに流していた。音楽もタイの歌ばかり聴いていた。タイのミュージックテープなんて何百本買ったことだろう。ひとことも話せない四十歳近いオヤジが今更ながらの勉強を始めたことに対し、頭がもう固くなっているのだから止めた方がいい、絶対に無理だと、ジュライホテルなどで知り合った日本人青年達には嘲笑された。彼らはジュライに入り浸ることによって覚えた自分たちの語学能力に自信を持っていた。それが彼らのアイデンティティだったと言ってもいい。

 ひとことも話せなかった私は、二回目に来たとき、日常会話には不自由しなくなっていた。三回目の時には彼らに並び、四回目の時にはもう抜き去っていた。彼らは私を特別なオヤジと位置づけることによって自分たちのプライドを守ろうとしたが、毎日何時間も正規の勉強を続けた人並みの頭脳をもった男が、いくらおっさんであるとはいえ、食う寝るやるだけの日々を送っている若者を追い抜いていったことは、べつに不思議でも何でもない。当然の帰結だった。

 日本語のタイ語教科書で勉強するのは当然として、私なりにヒットだと思うことに、タイの幼稚園児用の教科書を買って読み書きの勉強をしたことがある。動物や花の絵などが描いてあり、点線の上をなぞって文字を書き、単語を覚えるという日本にもある幼児教育用のノートのことだ。そういうものがあるはずと、本屋を探して入手した。幼児用から幼稚園児用、小学生一年生、二年生とステップアップしてゆく。教科書を入手して何年生まで出来るかもやってみた。獨学に限界を感じてチェンマイのYMCAで習ったりもした。その頃から自分の語学力がどの程度のレヴェルかというのは、割合意識して考えていたことだった。

 タイには日本の「大検」と同じような意味を持つ「小検」がある。不幸にして小学校に通えなかった人が、読み書きとヒアリングの試験を受け、小学校卒業程度の読み書き能力があると認定してもらう制度だ。誰でも受けられる。異国人でも受けられる。何人かこれに受かった勉強好きの日本人を知っている。数年前、努力のかいあって私のタイ語はこれに受かるところまで来ていた。合格している日本人からもお墨付きをもらっていた。受けるつもりだった。それはタイ語の勉強を初めてからひとつの目標だった。でもその前にもうひとつの目標である「通訳なしでタイで取材仕事をこなす」というのを先にクリアしてしまったので、気が抜けてしまった。「小検」を受けることなく、私のタイ語勉強熱は一気に冷めてしまう。

 それまではタイに行くときは、複数のタイ日辞書、日タイ辞書を始めとして、十冊以上ものタイ語関係書を持っていった。街を歩いていて解らない言葉があると、誰彼構わず質問した。すぐに手帳に記入した。手帳は一分の隙もないほど真っ黒なメモで埋め尽くされた。毎日何時間も書き取りの勉強をしたりした。二十年ぶりの受験勉強だった。
 それがいきなりゼロになった。知らない単語があっても調べようと思わなくなった。中国語の勉強を始めたこともそれに輪を掛けた。あっという間に私はタイ語を忘れた。あんなに長い時間勉強して苦労して覚えたタイ語なのに、忘れるのはとても早かった。覚えている単語の数など今、全盛期の三分の一もない。



 昔は話せた、今は話せないというのは「忘れたということを覚えている」から間違いない。一例を挙げると、私の住むアパートでは週に一度有料の部屋掃除サーヴィスがある。先日「明日、部屋の掃除をしたいが何時がいいか」とメーバーンから訊かれた。私の頭の中には「そちらの都合のいいときでいいですよ」という応えが浮かぶ。かつてそう応えた記憶がある。しゃべれた。でも今は言葉が出てこない。結局「キーモン・コ・ダイ・クラップ(何時でもいいです)」と簡単な表現で逃げた。さらに退化するときっと「十時にお願いします」と時間を言うようになり、さらには数字さえ忘れて指を十本立てるようになるのかもしれない。覚えるときは逆だった。指を十本立てるレヴェルから始まり、時間を指定出来るようになり、「何時でも良い」を覚え、もっと細やかな表現はないかと調べて、「そちらの都合のいい時間に合わせます」のようになっていったのだった。今、タイ語というかつて登った山を下りている感覚がある。見覚えのある標識があったりする。以前ここを登るときに見かけたという記憶のある標識だ。もうすぐ麓まで降りてしまう。せっかく苦労して覚えたタイ語を忘れることは寂しくもあるが、替わりに中国語を覚えつつあるのだからバランスは取れているのだろう。

 タイ人女性と結婚し、チェンマイでレストランを経営しているベルギー人のジェイムズによると、人間の脳が気持ちよく覚えられる語学は二つまでだという。ひとつは母国語が占めていて、これはなかなか出てゆかないだろうから、覚えられる外国語はひとつだけということになる。彼は、中国語を習い始めたらタイ語が頭の中からこぼれ落ちてゆくようだと言った私を慰めてくれたのかも知れない。私の頭の中の語学というテーブルは、もういっぱいになっていて、中国語を押し込むたびに、隅からタイ語がこぼれ落ちてゆくような感覚なのである。その意味で彼の理論は私にどんぴしゃだった。もっとも彼はフランス語と英語で手一杯で、タイ語を覚えられない自分を弁護したのかも知れない。タイ人の奥さんに「この人(私のこと)は日本人でもタイ語を話せるのに、あんたは全然話せない」と責められたときに言った言葉だったからだ。なにしろ各国プレスとの問答で、六カ国語で応答して世界的話題になったのはベルギーの首相だった。個人差の問題ではあろうが、二カ国語が限界ではないのかも知れない。とにかくまあ私のタイ語能力はあっという間に落ちていった。今も落ち続けている。

 ありがたいと思うのは、一度覚えた読む力というのはそれほど衰えないものらしいということだ。レンタカーでタイの田舎を走り回ることが趣味の私は、道に迷ったとき、地名や建物の名前を読むことが出来て、とても助かっている。片田舎の細い道路に入るとタイ文字だけの表記になり英語表記はないのである。「小学校二年生のレヴェル」というのは、「小検」合格の自信があったベストの時が六年生だとしたら、知っている単語数や読み書き能力が、今はその程度だという意味だ。今も落ち続けている。間もなく幼稚園児まで落ちる。タイに定期的に遊びに行っていれば、幼稚園児のレヴェルは保てるのではないかと思っているが。



 なるほどねとY子さんは頷く。でもそれって謙遜しすぎじゃないですか。そうじゃないですよと私は言う。もしかしたら自惚れ過ぎかも知れません。小学校二年生のレヴェルというのは高いですよ。難しい語彙は知らないけど、日常会話、意志の疎通にはいっさい不自由しないということですからね。ちょっとした議論も出来ます。この辺のタイ語がしゃべれると自慢している日本人て、ほとんど幼稚園児の会話力もないでしょう。

 言われてみれば……と、Y子さんは考え込む。わたしなんかまだ、簡単な挨拶ぐらいしかできないんだから、やっと口が利けるようになった赤ちゃんレヴェルなんですね。
 そういう風に自分のレヴェルを正しく認識することが上達の近道だと思うんですけど、とこれは私の持論だ。水商売のオネーサンと、出身地はどこなの、いつチェンマイに来たの、恋人はいるの、休みの日に一緒に遊びに行かないかと、そんなパターニックな会話をして、それが通じていると、まるで自分がタイ語を話せるようになったと勘違いしてしまう。でもそれはそういうシチュエーションでの会話パターンをマスターしただけに過ぎない。設定を変えて、たとえば病院の中で「胃袋の奥の辺りがもやもやとした感じなんです。時々、背中の真ん中辺りからズキンと来る痛みがあって」なんて場面になったり、「この政治家の政策ってのは、金のばらまき行政なんだよね。根本的な貧困の解決にはなってないんだ」と言いたい場面では、何も言えなかったりする。自分で話せると思いこんでいるだけで、本来の話せるというレヴェルにはまだ達していないのだ。

 タイ語を勉強したことで一番印象深かったことは何かとY子さんに問われた。
 私は私のタイ語勉強の頂点になり、それ以後勉強熱が冷めてしまった「タイ競馬会の理事にインタビューしたときのこと」を話しだす。
 私はカセットやCD付きの教科書でタイ語を学んだ。意図的にビジネスタイ語の勉強をした。おそらく日本で発売されているその種の教科書はほとんど全部持っている。数を揃えれば上達するというものではないが、語学教科書を複数揃えることにはそれなりの意味があった。人間の作るものだから必要な言葉が抜けていたりする。間違った解釈があったりする。複数の教科書でそれらを補完しあうことは大切だ。
 そうして学び、実際にタイで人々と触れあって行くと、自分の学んだタイ語と相手の話すタイ語が違うことに気づく。私達旅行者が知り合うタイ人は圧倒的に庶民が多い。多少語弊があるが、下層階級と言った方がよりニュアンスは伝わる。それもほとんどは無学の水商売のオネーサン達だったりする。私の言葉は「それでさあ、あたいさあ、まいっちゃってさあ」と話す相手に、「さようでございますか。それは苦しゅうございましたねえ。ご同情申し上げます」と応じているようなものだった。



←バンコク台北旅社

 ヤワラー(バンコク中華街)で興味深い話を聞いたことがある。主人公は早稲田の学生だ。彼は日本で本格的にタイ語を勉強してきた。美しいタイ語だった。言葉の最後には必ずクラップ(です、ます)がついた。そしていきなりやってきたのがヤワラーである。ジュライホテル前の屋台で、彼の話すタイ語はかっこうの酒の肴にされた。娼婦や、彼女らと同棲することで下衆なタイ語を覚えた長期滞在組日本人は、彼の上品なタイ語を真似し、散々笑いものにした。
「なにがだよ、知らねえよ、そんなこと」とみんなが話す中で、「さようですか。その件に関しては、私は存じ上げません」と話す彼の上品なタイ語に、娼婦達は涙を流して笑い転げたという。

 その後の話が哀しい。そうして恥を掻いた(?)彼は、自分の学んできたタイ語は間違っていたと反省し、一気に汚いタイ語の世界に走ってしまうのである。私と親しくなったときも「絶対におれはクラップ(です、ます)は言わない」となぜかむきになって宣言していた。

 間違ってはいない。彼の学んできたタイ語こそが本来の美しいタイ語だった。関わる場所を間違えただけだ。外国で日本人の元アナウンサーから正しい日本語を習って来日した外人が、日本で今時の女子高生と知り合い、「ぼくの日本語は間違いだった。時代遅れだ」と正しい日本語を捨て女子高生言葉を使い始めてしまうようなものである。悲劇だ。
 私と知り合ったとき、彼はもういっぱしのジュライ・タイ語の使い手だった。それは私からすると、汚くて下品で大嫌いなタイ語だった。(この実話は、「あいつのタイ語は下品だ。乱暴すぎる」と私が言ったことに対し、彼の友人が、実は昔こんな事があってねと笑いながら教えてくれたことによって知った。)

 この話は私にはいい教訓になった。彼はまだ若かった。学生だった。みんなに笑われたことは辛かったろう。笑われて辛いのは私も同じだ。でも私には年の功がある。誰に笑われようとも私は染まらない。自分の学んできたタイ語が正しいものであると貫ける。
 チェンマイで多くのタイ人と知り合った。それもまたすべて田舎から出てきた庶民階級の人たちだった。毎晩のように飲み歩いた奴もいた。恋人もどきもいた。同棲まがいもした。随分と彼彼女らに注意を受けたものだ。
「若いタイ人はそんな言いかたはしない」
「その言いかたは年寄り臭い」
「それは大昔の言いかただ、今はこう言う」
「そんな気取った言いかたは気持ち悪い」
 時には「そんなタイ語はない。あんたは間違っている」とまで言われたこともある。
 私は辞書を引いてその単語を見せた。タイ語にはある。さして特別な言葉ではない。彼らのヴォキャブラリーにないだけだった。彼らのタイ語はおそろしく語彙が少なかった。正に「食う、寝る、やる」だけの世界だ。食う寝るやるに限定すれば、人間はほんのすこしの言葉で生きてゆける。それは彼らと付き合いタイ語を覚えた日本人のタイ語にも通じる。いやタイ語がどうのこうのという以前に日本語だって同じだ。日本で食う寝るやるだけの生活している人もまたおそろしいほど語彙が少ない。

 くずれたタイ語に染まらないようにするのはけっこう難しい。しつこい物売りを撃退するのに「マイ・アオ・カップ(いりません)」というよりも、「メアオ(いらねえよ)」と言った方が効果的だし、怠け者タイ人気質にうんざりするような場面では、覚えたばかりの汚い罵り言葉を叫びたくなったりする。それで私は、汚い意味の俗語は一切覚えないようにした。知っていたら出てしまう。そしてそれは、ネイティブでないこちらが軽い気持ちで言っても、向こうにはとんでもないものだったりすることがある。日本語の卑猥な言葉を外人が平気で口に出来るのと同じだ。逆もまた然り。私の知人にマザー・ファッカーという罵り言葉を、日本語のバカヤローぐらいの軽さで言い、黒人にぼこぼこに殴られた人がいる。下品な表現、下品な単語は覚えないに限る。

 なんとか染まらずに来れたのは日本人反面教師のお蔭だった。チェンマイに住み、これみよがしにタイ語をしゃべる日本人は、みなピロートークで覚えた下品なタイ語を使った。こうはなりたくないと思った。それがこなれたタイ語に流されそうになる私を支えた最後の砦だった。だから汚いタイ語使い名人の日本人Bさんなどは、ある意味で恩人である。



←バンコク ロイヤル競馬場
 そうして私は、私のタイ語学習の晴れ舞台である「タイ競馬会理事インタビュー」の場を迎える。ダイナースカードの会員誌の仕事だった。初日の取材はバンコク競馬場のジョッキー・クラブで行われた。ジョッキー・クラブとは、直訳するとまるで騎手の集会所のようだが、競馬英語の専門用語で競馬場内の貴賓による社交場のことである。ときおり競馬を知らない日本人翻訳者が訳したイギリスの競馬小説などでは、そのまま騎手クラブと誤訳されていたりもする。バンコク・ロイヤル・ターフ・クラブのジョッキー・クラブは豪華な場所だった。



 今までタイのあちこちで、どれほど「どうしてタイ語が話せるの」「上手ね、こっちに何年住んでるの」「えーっ、ただの旅行者? うそだあ、旅行者がそんなにタイ語がうまいはずないよ」なんて、くすぐったい誉め言葉を耳にしてきたことだろう。そんなことはありません、私はヘタクソですと応えてきたが、内心気分が良かったのは否めない。だがその理事からは一度もそんなことは言われなかった。それどころか彼は、私がタイ語を話せるということを認めなかった。タイ語でインタビューし、タイ語で会話し、応答をノートに記録しているのにである。屈辱だった。

 彼の解釈も解らないではない。私は食堂のおばちゃんやバーのおねーさんと不自由なく世間話が出来る。冗談も言える。笑わせられる。ホテルのフロントでも警察に行っても過不足なく用件を伝えることが出来る。でもそれと、タイ競馬会の理事と奥さん、彼の部下と高級ホテルのレストランで食事をしながら社交的な会話を交わすことは、まったく別物だったのである。タイの政治経済、日タイの皇室のあり方の差などを論じるのに、私の語彙力はあまりに貧困だった。

 奥さんの方が気を遣って「タイ語が上手ですね、どこで習ったんですか」とお世辞を言ってくれる。すると即座に理事が「だめだめ、この人はほんのすこしタイ語を知っているだけだから」と否定する。なにもそこまで言わなくてもと反感を抱く。日本にもう何回も来ていてかなりの日本通である彼は、「この間、オーサカとコーベで大きな地震があったんだろう?」と私に話しかけながら、奥さんに「えーと、地震は英語でなんていうんだっけ」と尋ねたりする。タイ語の地震、ペンディンワイという単語を私が理解できないと思っているのだ。私は内心で(おれのタイ語をなめんなよ)と思っていた。(あんたは英語のアースクエイクを知らなくても、おれはタイ語のペンディンワイを知っているぞ)と。

 その理事のお蔭でいくつもの凄い体験をした。
 バンコクの競馬場内には一枚一万バーツ単位の馬券売場があった。大井競馬場に一万円単位の売場があるが、それよりもずっと上である。物価差を考えたらとんでもない売場だ。一枚二十万円単位の馬券売り場ということになる。十万バーツ、二十万バーツを勝負する連中がいくらでもいることを知ったのは、競馬物書きとしては貴重な経験になった。どこにでも金持ちはいる。

↓ムエタイ ラジャダムナンスタジアム
 その理事は、パッポン(バンコクの歓楽街)方面の警察署長から競馬会に転身した人らしかった。背は低いが、でっぷりと太り、鼻の下にヒゲをたくわえた、ドスの効いた低音でしゃべる強面(こわもて)のタイプだった。すこしは夜の街も見せてやろうかと、かつてしったるパッポンに私達を案内してくれる。黒塗りベンツでパッポンに乗り込むと、店のマネージャークラスが全員最敬礼である。ごきげんとりに近寄ってくる。彼は高給クラブの一角に陣取ると、そこにいた男に私とカメラマンを一回り案内してやってくれと頼んだ。それは三十代半ばの、目つきの鋭い、頭の切れるヤクザみたいなタイプの男だった。オープンバー、ゴーゴーバー、本番ショーの店、どこに行っても彼が行くだけで人が割れ、マネージャーが飛んできて挨拶し、一番いい席が私達に用意された。なんということだろう。パッポンの風景が違って見えたものだった。地を這って見上げるのも大切だが、たまには高所から見下ろすのもいい。新鮮な体験だった。

↓バンコク・リージェントホテル 室内
 そうして二日にわたる取材が終った。別れのとき理事は「あなたはタイ語を、ほんのすこし知っているだけだ。この次ぎまでにもっと上達するのが望ましい」と、散々私のタイ語を貶しておきながら、最後にまた追い討ちをかけてきた。死者に鞭打つというやつだ。わかったわかった、もう堪忍してくれという気分だ。タイ語をほんのすこし知っているだけのおれに、そんなにタイ語で話しかけてもしょうがないだろう。

 だがその後、彼はこう言ったのだ。「ひとつだけあなたのタイ語にはいいところがある。それは、あなたのタイ語は上品だということだ。汚い言い回しがない。下品な単語がない。丁寧で正しいしゃべり方をしている。どうかこれからもそれを忘れないで欲しい」と。

 これもひとつの満願成就だった。発音や声調が不正確であることは自覚している。いまさら完全なタイ語のマスターなんて無理だ。だからせめて下衆に落ちたくないと、ピロートークで覚えた連中とは一線を画したいと、美しいタイ語を話すよう、それだけを心がけてきた。それが辛口の理事から認められたのだ。彼はそれを解ってくれていた。

 帰国便の中で、私は彼から言われた「あなたのタイ語は上品だ。丁寧で正しいしゃべりかたをする。どうかそれを忘れないで欲しい」という言葉を何度も繰り返し呟いた。うれしかった。毎日何時間もタイ語の勉強をした頃を思い出す。それはこの日のためだった。下品に染まらなくてよかったと、しみじみと思った。そう思って振り返れば、彼は私のタイ語に対し「すこし知っているだけ」という表現を連発したが、下手だとも、話せないとは一度も言っていないのだった。

 本格的にタイ語をマスターしようと志す人にとって、これは光に満ちた出発点となったろう。だが私にはもう、ここはゴール地点だった。これ以上タイ語という山を極めるより、語学という山登りの楽しさを知った私は、もっといろんな山に登りたくてたまらなくなっていた。
 この時をピークに、一気に緊張感を失った私のタイ語は、糸の切れた凧のように迷走し墜落して行く。今や「食う寝るやる」レヴェルまで落ちた。でも今も下品な単語や言い回しだけはしないように気をつけている。

「やっぱりそうなんですね」
 私の話を聞き終ったY子さんは、なんだか自分の思っていたとおりだったという感じで、妙に納得し「実はわたしも」と口を開いた。
 タイ語がすこし話せるようになってきた彼女は今、くずし言葉が使いたいらしい。教科書言葉とは違う庶民言葉を言いたくてしょうがないのだ。たまに使ってみる。すると親しくしているゲストハウスの女主人から「汚い言葉はいつでも覚えられる。今はそんな言葉を使ってはダメだ。その必要はない」と叱られたのだという。みんなが使っているから彼女も、マイ・チャイをメチャイ、マイ・ダイをメダイと言ってみたい。でも女主人は「メチャイではなくマイチャイ・カー」と、ゆっくりと言いなさいとY子さんを叱ったという。育ちのいい人なのだろう。

 そう注意されてみると、人から応えられるとき、メチャイ(ちがう)という言いかたと、マイチャイ・カー(ちがいます)とでは受け取るこちらの印象も随分と違うもんなんだなあとY子さんも感じるようになったという。
 「いい人と知り合いましたね。そう言ってくれる人がいることは財産ですよ」と私は言った。普段マイチャイ・カーと優しく穏和に言っている人が、怒ったときメチャイと叫ぶのは簡単だ。でも普段メチャイを連発しているガサツな人が、いきなり相手が上品だから自分もそれに合わせようと、マイチャイ・カーになろうとしても難しい。

 日本語に喩えるなら「ふざけないでください」と「ざけんじゃねえ」だ。ふざけないでくださいは、丁寧な言葉としても通用するし、声高に叫ぶことも出来る。どこででも使える正しい日本語だ。でもいくらゆっくりと丁寧に発音したとしても、「ざけんじゃねえ」は公式の場で通用する正しい日本語ではない。だったら日本語を学ぶ異国人は、「ざけんじゃねえ」ではなく「ふざけないでください」と覚えた方がいい。それと同じ理屈である。

 今度そのゲストハウスの女主人とも話してみたいものだと私は言った。
 Y子さんは有山パパとも顔なじみだ。先日偶然街中で会い、一緒にお茶を飲んだという。今夜ロータリーに行ってパパとみんなで飲みましょうと約束して、『サクラ』を出た。


 その夜、彼女の泊まっているゲストハウスに電話をした。応対に出た少女(十七歳のアルバイトだとY子さんから聞いていた)は、彼女は今近所まで買い物に出掛けていると言った。帰る時間を問うと「マイ・サープ・カー」と応えた。久しぶりに聞いた美しいタイ語だった。知りません、わかりませんという意味の丁寧語だ。いい響きである。美しい。どんな会話本にも乗っている初歩的な言葉であり、バンコクのオフィスなどではあふれかえっているあたりまえの言葉だろうが、チェンマイの飲み屋のネーチャン達から耳にすることはまず絶対にない一言でもある。

 チェンライの中級ホテルに電話をして、私の友人が泊まっているかと尋ねたことがあった。フロントの女性はつっけんどんな応対で「マイ・ルー(知らない)」と言った。調べて欲しいと頼むと、しばらくして「マイ・ミー(ないよ)」と言う。宿泊リストに名前がないときは、マイ・ユー(いない)ではなくマイ・ミー(ない)らしい。客に対してその言葉遣いはないだろう、カーをつけろよと不愉快になった。おだやかにやさしく言う「マイ・ミー・カー(ありません)」と、煩わしそうに言う「マイ・ミー(ないよ)」では音感に天と地ほどの差がある。それ以後そのホテルには泊まらないようにした。せめてもの抗議だ。

 経営者がしっかりしていれば、アルバイトの受けつけの少女までこんな美しいタイ語を話す。まだまだタイだって捨てたもんじゃない。そう、日本だって礼儀正しいきちんとした日本語を話す少女はいっぱいいるのだ。軽々と結論を出してはいけない。それは私の最も嫌いなことだったではないか。
 たった一言のタイ語が、それからの時間を、とても気分のいい夜にしてくれたのだった。
(文・99/11.最終UP02/4)





●書かなかった返事
 この原稿を後藤さんに送り、ホームページに掲載されてしばらくしたころ、私は一通のメイルを受け取った。そこにはこう書いてあった。

「いまタイが大好きで、タイ人女性と本格的に交流したい、老後をタイで過ごしたいと思っている人はタイ語を習うと同時にタイ文字の読み書きも覚えてしまった方がいい。」
 なにがいいか教えてください。

 最初の三行は私の文章からのコピーである。この人が書いたのは実質一行、四行目の12文字のみのメイルだ。

 こんにちはもなければ始めましてもない。私の文章に対する感想もなければ、自分の名も名乗らない。当然自分のタイ語レベルのことも書いてない。自分側の要求だけが書いてある。
 この失礼千万なメイルに、私は返事を書かねばならないのだろうか。ネットとはそういう世界なのだろうか。ネット不慣れな私は、この人にメイルを書かないことによって後藤さんのところに抗議がきて迷惑を掛けてはいけないし、と考え、迷いつつも返事を書き始めていたのである。なんとも愚かで気弱であり、そんな自分が今思い出しても腹立たしい。

 もしもこの人が、自分のタイ語が日常会話には困らない程度であり、この際読み書きもマスターしてしまいたいのだがなどと自分の状況を事細かに書いていたなら、私は自分の名前さえ告げないこの失礼なメイルに、長文の懇切丁寧な返事を書いていたことだろう。すると、後々目覚めてからの悔いも大きかったはずである。今はそうでなかったことを不幸中の幸い、不愉快中の愉快と思っている。

 この人は、自分のほうのタイ語状況を伝えてきていない。それで私は、「もしもあなたが初心者なら、これとこれを」「もしもあなたが日常会話には不自由しない程度に話せるのなら、これがいちばんで」と、相手のレヴェルを想定しつつ、いくつものタイプのお奨め本を紹介し始めた。
 しかしさすがに、本の名前や出版社、値段などを、本棚をひっくり返しつつ調べ、事細かに書き進めてゆくうちに、「なんでおれは、こんな失礼な手紙に、こんな苦労をしてまで返事を書かねばならないんだ」と思い始めたのである。一度そう気づけば、なんてえ失礼な手紙だ、他人様に初めてメイルを書くなら挨拶ぐらいしろ、自己紹介しろ、おれの文章に対して、お世辞でもいいから楽しく読ませてもらってますぐらい書け、と猛烈に腹が立ってきたのである。あ、思い出した。この人は「タイ好き 55歳」と、そんなハンドルと年齢だけ書いてあったのだ。それでよけいに、ガキでもあるまいし、初めてメイルを書く他人に挨拶もできんのかと書きかけた長文のメイルを腹立ちついでに削除してしまったのだった。

 それでもしばらくは、おれはとてもわるいことをしたのではないか、ネット上のマナーを破ったのではないか、後藤さんに迷惑をかけるのではないか、などと気にしていたのだからおめでたい。今はもうこんな失礼なメイルは、届いたらすぐに削除する。いい年をした大人同士の失礼や非礼に現実もネットも関係ない。
 私はまともなメイルには必ず返事を書く。それが縁で親しくつきあっている人も何人かいる。
 この「タイ語の心がけ」を読み返すと、唯一返事を書かなかったこのメイルのことを思い出す。
(02/4/25)


 中段に三枚ほど収録したバンコクの写真はこの時期に撮ったものである。どうやらこの頃、モノクロ写真に凝っていたらしい。この文章を書くために資料を整理していたら、かなりの量のモノクロ写真が出てきた。その中の何枚かをスキャンして使ってみた。モノクロ写真だけを使った異質のファイルがあってもいいなと思う。今度作ってみよう。文字と背景は何色がいいのか……。





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