チェンマイ日記1999夏

 

チェンマイでパスポートを作るの記


徳俵つま先立ち




(新日本領事館)




○パスポート受領

 二十九日、木曜日、朝。六時から起きて荷造りをすませた。満を持して日本領事館に向かう。
 おれの予定としては、パスポートは開館と同時に受け取れるとのことだったから、九時の開門と同時に入室して受け取り、代金を払う。受領書をもらってそれで九時十分。バイクを飛ばして中国領事館に向かう。着いて九時半。申請用紙に記入。写真を貼りパスポートと一緒に提出。当日受け取りを希望。これで十時。後は『サクラ』でHさんやTさんと話しつつ一杯やって、昼過ぎにバイクをスター(レンタルバイク屋の亭主)に返却。彼のピックアップ(トラック。タイ人はこう言う。クもプも飲み込まれてしまうので聞き取りにくい。白人がメルセデス・ベンツを日本人的にベンツというのではなくメルツェーデスというのと同じか)で中国領事館に早めに着き、午後の業務開始時間である二時を待つ。二時になったらパスポートを受け取って急いで空港に向かう、というものだ。
 離陸十五分前にチェック・インできるかどうかは未だに判らない。感情を表に出さないTGのエリートタイ人に冷たくノーと拒まれるのか、気のいいタイ人に早く早くと急かされて乗れるのか、それはもう運に任せよう。朝のパスポート受け取りとビザ申請が終ってしまえば、十時から午後一時過ぎまでは暇になる。おれは餘裕を持っていた。午前中は無事に終る。勝負は午後の飛行機に乗れるか否かだと。

 ところで、あの後パパとロータリーで話していて、おれが「色の黒いのっぺりとした顔の女性」と書いた領事館員は、Sさんというとても優秀なタイ人なのだと教えられた。パパによると、日本語がペラペラであることはもちろんだが、毎日漢字の書き取りの練習をしていて、その辺の日本人よりもよほど漢字も知っているという。相当に難しい漢字もすらすら書くそうだ。パパはパスポートの切り替えや諸々の事でとても親切にしてもらっていて、せめて御礼にご馳走させて欲しいと申し込んだら、わたしは漢字を書いたり日本語の勉強をしている時が一番楽しいので、どうか気を遣わないでくださいと言われたそうだ。まあおれも先日の見事に肩すかしを食わされた一件で、彼女には一目置いてはいる。
 窓口に行く。すぐにSさんが出てきた。パスポートは出来ていた。3100バーツ。今の換算レートだと一万円を切っているだろうか。十年物との差は千バーツぐらいだ。この期に及んでもまだ赤いパスポートにすこしばかり未練がある。
 窓口に行く。すぐにSさんが出てきた。パスポートは出来ていた。3100バーツ。今の換算レートだと一万円を切っているだろうか。十年物との差は千バーツぐらいだ。この期に及んでもまだ赤いパスポートにすこしばかり未練がある。
 さあて後は中国領事館に行くだけだと思ったおれは、またしてもここでショックな事を聞かされる。ちょっと待ってと言ってSさんがなにか書類を作っている。それを封筒に入れておれに差し出し、イミグレーションに行けというのだ。事情を聞けば筋は通っている。つまり今おれの目の前にある新しいパスポートは真っ白である。そこにはおれが日本からやって来てタイという国に入国した事は記されていない。おれは今、世界的住所不定の状態にある。このままではおれはタイから出国も出来なければ日本に帰国することも出来ないのだ。そのためにはチェンマイ・イミグレーション・オフィスに行き、古いパスポートから新しいパスポートへ、今回のタイへの入国に関する部分を書き写してもらわねばならないのだという。
 おれは蒼ざめていた。Sさんの言うことは正しい。その通りだ。だけどこれからそんなことをしている時間があるだろうか。イミグレの連中がいかにトロくていい加減かはよく知っている。そして、いつ行っても混んでいることも。


○自己主張と年の功



 初めてチェンマイに来た時、イミグレーション・オフィスを訪れた。その頃はビザなし滞在のリミットは二週間だった。カウンターの向こうのテーブルには、滞在許可延長の申請をする白人やアジア人のパスポートが山と積まれ、何人かの係官がやる気のなさそうに仕事をしていた。(あーあ、つまんねえなあ。遊びに行きたいなあ。こんな仕事もう飽きちゃったよ。後何冊あるんだあ、ああやだやだ、やりたくない)そんな愚痴が聞こえてくるようだった。
 じっと待つ。でもなかなかおれの番はやってこない。
 中国系の連中は自己主張をする。オレの番はまだか、いま終った奴よりもオレは先に来て先に提出したんだ、この順番はおかしい、そうじゃないか、次はオレだろう、おい、次はオレだよなと主張する。大声の自己主張を下品と嫌うタイ人だが、そこまでやられるとごまかしも出来ないのか、そいつらも適度な順番で処理されて帰って行く。
 白人も自己主張し、順番通りに処理されて行く。白人に対してタイ人は気を遣っていた。アジアの中で白人の植民地にならなかった国は日本とタイだけだ。だからタイ人は白人に対してコンプレックスをもっていないといわれる。ガイドブックにはそう書いてある。それが嘘であることはタイを歩き回っていればすぐに解る。でもそれはあたりまえのことだ。テレビや映画で主役を演じる俳優、モデル、人気歌手、毎日流れるCMの中の顔、みな白人的な彫りの深い顔立ちばかりである。ハーフも多い。マスメディアのどこにも、本来のタイ人らしい小柄で平面的な優しい面立ちはない。そういうものを見て育ったなら、白人に対する憧れ、畏怖心が生まれるのは当然なのだ。

 アメリカの世界制覇の先兵は、ハリウッド映画とコーラとジーンズだった。この先兵に蹂躙された国において、過去に植民地になったならないはたいした問題ではない。自由主義陣営のタイは見事なまでにこの色に染まっていた。若者は果汁百パーセントのジュースを捨てコーラに走った。どう考えても暑いだろうにジーンズが大好きだ。かつて植民地にはならなかったかも知れないが、今のタイは精神的には完全なアメリカの属国だった。日本と同じように。そんな国で白人に対するコンプレックス育たないはずがない。

 いやそれ以前に、人間の素直な感情として、白人というのは、大柄で毛深く、目鼻立ちの造作が大きく、アクションも派手という、こちらから見たら異形の存在だ。見上げるほど背の高い、金髪で目の青い白人に、早口の英語で話しかけられ、まるで映画で見たような「困りました」という大げさなアクションでもされたなら、小柄で控えめなタイ人や日本人がうろたえてしまうのは自然の所作であろう。

 このイミグレでも、白人に対する優先的な処理はあった。アジア人が英語で抗議しても無視されるのに、白人がするとすぐに聞き入れられた。それが気に入らないと喚き立てる中国系の迫力には、それなりの処理が適用された。上手に袖の下を活用し、後からやってきてもさっさと用を済ませて行く連中もたくさんいる。そういう順番とばしのゆがみは、ただじっと待っているだけの、おれのようなおとなしいアジア人に押し寄せてくるのだった。

 自己主張も出来ず巧く袖の下を渡すこともできないおれは、椅子に座りじっと呼ばれるのを待つ。パスポートは上に上にと重ねられ、下から処理されて行く。待ちくたびれたおれがカウンターの向こうを覗くと、おれのパスポートは提出したときと同じ、相変わらず一番上に乗ったままなのだった。後から来た奴らが次々と帰って行くのに、いつまでたってもおれの番は来なかった。

 自己主張も出来ず巧く袖の下を渡すこともできないおれは、椅子に座りじっと呼ばれるのを待つ。パスポートは上に上にと重ねられ、下から処理されて行く。待ちくたびれたおれがカウンターの向こうを覗くと、おれのパスポートは提出したときと同じ、相変わらず一番上に乗ったままなのだった。後から来た奴らが次々と帰って行くのに、いつまでたってもおれの番は来なかった。

 そういう不愉快さにおれがどういう方法で対処したかというと、中国人的自己主張も出来ず、賄賂を渡すことにも抵抗があったおれは、イミグレに行かないことにしたのだった。当時の金額で、十日間延長してもらうのにイミグレに行き、順番を待ち、長々と待たされてスタンプを貰った後、払う費用は500バーツだった。それよりも十日間のオーバーステイをして、バンコクの空港で(一日100B×十日)で千バーツの罰金を払う方を選んだのだ。イミグレで不快な時間を過ごすことを考えれば、この500バーツの上乗せなど安いものだった。イミグレでは二時間待たされることもあったが、空港では十分で済んだ。そういうことも『サクラ』で知り合った人たちに、「あんなものキチンとイミグレで申請しなくても、空港で一日100バーツの罰金を払えばいいんだよ」と教えて貰ったから出来たことだった。景気のいいときの笹井さんなんて、半年ぐらいオーバーステイして空港で払っていたものだ。そうしておれも世慣れならぬ、タイ慣れしていった。
「なにごとにも先達はあらまわしきことなり」というが、先輩の存在は本当にありがたいものである。おれも旅の先輩に教えて貰った恩は、後輩に教えてやることで返すように心がけてきた。今はオーバーステイは一日につき200バーツの罰金らしい。ノービザで一ヶ月もいられるのだから以前と比べるとずいぶんと楽になった。チェンマイ滞在は一ヶ月が限度のおれは、あれ以来チェンマイのイミグレには行っていない。もう何年行っていないのだろう。



 こういうことに関してさすがだなと思うのはパパである。商売人であるパパは「魚心あれば水心」を熟知していた。タイに来たばかりでまだタイ語も話せないのに、役所というのはそういうものであろうと読んでいた。初めて延長を申請するとき、パスポートにそっと500バーツ札を一枚挟んでおいたのだ。すると他の人よりも早くすぐに順番が来た。効果覿面である。たまにはタイ人の大好きなジョニー・ウォーカー・ブラックを差し入れる。今ではパパが行くと、みんなが笑顔で立ち上がり、いつでも待ち時間なしで処理してくれるという。さすがである。

 Tさん、通称〃漁労長〃もその辺の気配りは巧い。チェンマイの警察署長に盆暮れにウイスキーを届けている。警察署長のところに行き、ウイスキーを渡し、いやいやこれからもよろしく頼みます、ほんとにね、よろしくお願いしますよワハハワハハと日本語で言い、笑顔を振りまいてくるだけだ。たいした出費ではない。年に二回だけだ。それを欠かさずに続けてきた。それが役立つ日が来る。交通事故を起こしたことがあった。雨の日に、渋滞の中で、居眠り運転で、俗にオカマを掘るといわれる事故を玉突きで起こしてしまったのである。パトカーが駆けつけ、元凶であるTさんは逮捕されそうになった。電話を掛けさせてくれと頼む。署長の番号に掛ける。署長が出た。現場にいた警官に受話器を渡す。それですべて解決だったという。もちろん後々迷惑をかけたクルマの修理代などは払ったが、本来なら留置場に泊まるはずが、その場から自宅に帰ることが出来、自分のベッドで寝られたのだった。

○イミグレへ



 異国で生きて行くためにはパパやTさんのような世渡りの技術が必要だ。素晴らしいと思う。酸いも甘いもかみ分けた人は、その辺の手練手管が見事だ。すごいとは思うがおれには出来ないし、それに今はもう待ったなしの時間だ。悩んでいてもしょうがない。おれはバイクに跨る。救いは領事館とイミグレーション・オフィスが近いことだ。

 時間は九時半になっている。おれが気にしているのは、中国領事館の午前中受けつけの時間が九時から十一時ということだった。もしかしたら十一時ではなく十一時半だったかもしれない。念のためこういう場合は悪い方を想定しておいた方がいいだろう。十一時前に中国領事館でビザを申請するためには、十時半ぐらいには着きたい。そう考えると、もうほとんど時間がないのだった。
 チェンマイ・イミグレーション・オフィスに着く。さすがに朝が早いせいか、ビザの更新がメーサイやあちこちで行われるようになったからか、それほどの人混みはなかった。助かったと思う。ここで人混みを見たらおれはそれだけで萎えてしまっただろう。向かって左側の建物に入る。以前はここで申請をしたのだ。入ってすぐ、顔の合った女性が、丁寧なタイ語で「お早うございます、どのような用事ですか」と訊いてくる。ここでこんな親切な女性、上品なタイ語を話す人に会ったことはない。きょうはついているのか。もしかしたらすべてがうまくトントン拍子で進むのか。二十代半ばぐらい。白のワンピースを着た清楚な女性だ。

 彼女にSさんから預かってきた封筒を渡す。彼女はそれを手にすると、右側の建物におれを案内する。その時も「どうぞこちらへ」という美しい丁寧タイ語を使った。いきおいおれも丁寧語で応える。いいんだよなあ、上品なタイ語というのは。ほんとに美しい。心をとろかすような魅惑の響きがある。その辺のオープンバーにたむろして男を誘っているニワトリみたいな娼婦が使っているのと同じ言語とは思えないほどだ。
 右側の建物に入った彼女は、何人かの係員にその封筒を見せると、おれのところにもどってきて「もうしわけないですけど、あなたの会いたい人は今外出しています」と言った。冷や汗が出る。もうダメだ。いまここにいてすぐに仕事をしてもらっても間に合わないかもという状況なのに、いないなんて。落ち込んだおれに、彼女がとどめを刺す。
「きょうはもう帰ってこないらしいので、明日ではいかがですか」
「明日では遅いんです。今すぐ必要なんです。私は今すぐパスポートが欲しいんです。きょう、中国に行かねばならないんです」
 おれは思わず叫んでいた。彼女に罪はない。彼女に怒ってもしょうがない。困った顔をした彼女は「ごめんなさい。わたしはこれ以上あなたの力になることが出来ません」と哀しそうな顔で言った。ありがとう、助かりました、感謝しますと礼を言って別れる。「どういたしまして」という美しいタイ語が背中から聞こえた。いい娘だなあ。イミグレにもあんな心優しいいい娘がいるんだ。勤め先といいあの言葉遣いといい、上流の家庭に育った娘なのだろう。絶望して歩く不毛の河原で一本の野菊を見たような想いがした。

○粘着気質の効用

 もうどうでもいいやと思った。もう中国には行けない。いい、もう行かない。諦めた。そう思うほどに、居もしない人間に会いに行けと言った日本領事館のSさんに文句を言いたくなってくる。パスポート申請の時には言わなかったが、きょうはもう自分が今どんなに追いつめられている状況かSさんにはすべてを語ったのだ。Sさんはおれの事情を知っている。それでこれはないだろう。居もしない人への手紙を託すとはひどい話だ。むかしのおれなら、領事館に腹を立て、もう二度と行かないという行動を取った。なのになぜかこの日のおれは違っていた。きょうの中国行きは諦めるが、Sさんには一言抗議しておかねばと思ったのだ。おれはまた領事館に向かった。おれには珍しい粘着気質の行動がまた新たな道を開いてくれることになる。

 訪問者は誰もいなかった。だからすぐにSさんが現れて話が出来た。おれの話を聞くとSさんは「それはおかしいですね、ちょっと待ってください。すぐ電話しますから」と首を傾げ、イミグレへ電話を掛けた。受話器を持って話しながら、封筒の隅に名前を書いている。電話を切るとこの人に会いに行ってくださいと、タイ語で書いた名前にカタカナでルビを振った。彼女の意見をまとめると「封筒の宛名はチェンマイ・イミグレーション・オフィスの所長になっている。実際のパスポート処理は普通の係官がやるが、日本領事館から処理を依頼する書類では、どんなときでも宛名は所長宛になる。だから現在所長は外出していないのかもしれないが、そのこととあなたのパスポート処理業務は関係ない。今電話で話したのはスパーンブリーさんという係の女性だ。今すぐイミグレーションに行って、スパーンブリーさんにこの封筒を提出しなさい。すぐにやってくれるはずです」となる。さすがパパが絶賛していた人だとおれは彼女を見直す。

 真っ暗闇にまた電灯がともった。おれはバイクに跨りもう一度イミグレを目指す。左側の建物に飛び込みスパーンブリーさんの名を言った。すぐに小柄な三十歳ぐらいの女性が出てきてパスポートを受け取り、何事かちょこちょこと書き始まった。一歩前進だ。もう十時を過ぎている。古いパスポートを開き「こことこことここのコピーを取ってきてください」と言われる。どこにそんなものがあるんだと問えば「カンノーク」と屋外を指差す。建物の裏のクイッテオ屋にコピー機があった。人の良さそうな白人夫妻がおれを見ると微笑みかけ、どこから来たのと話しかけてくる。オーストラリア人らしい。時間さえあればおれもここに座り込み、クイッテオをすすりながら中国人とオーストラリア人の体質の違い、「豚は本来きれい好きである」という説を一席ぶちたいのだが、今は頭の中で赤信号が点滅している。また会おうオージーよ、グッダイ・マイト。コピー代は一枚2バーツだった。相場の倍、いや三倍ぐらいしている。そんなどうでもいいことをヘンに記憶していたりする。

 もどる。コピーを提出する。彼女の仕事がまた始まった。急いでくれ急いでくれ。電話が鳴る。誰も取らない。彼女が取る。ああ、取らないでいいのに。長話が始まる。おれの怖れていたタイ人気質だ。「ちょっと待って、調べてみるから」なんて言って、隣の部屋のロッカーなどを調べ、「やっぱりないわよ」なんて応じている。仕事なのかプライベートなのか区別が付かない。確かなのは彼女がそう話している間、おれに関する処理は進んでいないということだ。

 十時五十分。「時間がないんです。急いでください」と言おうとしておれは思い留まる。以前と比べると格段に勤勉にみんな働いている。精一杯一所懸命やっている人たちに、もっと早くやれと言うのは失礼だろう。それにもしも中国領事館の午前中受けつけが十一時までだったら、もう間に合わない。十一時半であることを願うだけだ。
 彼女の仕事が終った。やった。急げば十一時に間に合うか。しかし、ああ、なんてこった。彼女は、おれのパスポートにスタンプを押すと、隣の男性の机に乗せたのだった。そこにはまだ未処理の七、八冊のパスポートが見えた。もうダメだ。こりゃダメだわ。いくらなんでも。闇夜に点いた一灯の裸電球だったが、点滅しつつ消えそうになっている。

 意外なことに、彼は素早くてきぱきと仕事を片づけていった。彼の後にまた誰かに手渡されないことをひたすら祈る。彼がおれのパスポートを手にした。何かを書き込んで行く。書き終った。どうなる、また誰かの元に行くのか。スパーンブリーさんがおれにパスポートを渡してくれる。いいんだな、終ったんだな、本当にこれで終りだな。終ったのかと尋ねる。「セット・レーオ・マイ・カップ?」
「フィニッシュ」
 彼女が言った。
「コップン・マーク・ナ・カップ」
 おれはパスポートを抱きしめる。彼女に笑顔が見えた。時計を見る。十一時十五分。


徳俵つま先立ち

 バイクで走る。ノーヘルだ。こんなときこそ落ち着かねばと、不用に飛ばさないよう自分に言い聞かせる。人間は経験で学ぶ。おれは十代の時にバイクで死にそうな事故をやっている。それで一度免許を捨てた。焦ってはいるが、中国へ行くビザよりも、もっともっと大切なのはおれの体なのだと言い聞かせる。

 十一時二十五分、中国領事館に着く。看板を見る。受付終了時間は何時だ。十一時ならアウトだ。
 午前中受けつけ「AM 9:00〜11:30」。やった。間に合った。申請の部屋に駆け込む。
 昨日挨拶に訪れていたから「どうしたの、遅かったじゃない」と係の女性が声を掛けてくれる。書類は昨日の内に書いてあった。申請。
 ようし、後は飛行機だけだ。二時にパスポートとビザを受け取って、二時二十五分の飛行機に乗れるかどうかだけだ。




 喉が渇いていた。ビールが飲みたい。『サクラ』に行こう。仕事ではないが、これはこれでひとつのことを片づけたのだから、きっとビールは美味いに違いない。

 風を切って走る。陽射しが強くなってきた。これから午後に向けて、焼けつくような暑さになる。空を見上げる。青空に夏の太陽が輝いていた。サングラスを買おうかなと思う。毎回来るたびにサングラスを買い、知り合ったオネーチャンにあげて、というか取り上げられて帰る。今までいくつ買ったろう、サングラスとラジカセ。
 お堀の中の噴水の水が、風に吹かれて飛んでくる。
 今年の春は急用があり、ソンクラーンの直前に帰ったのだった。あれは無念だった。来年こそは水掛け祭りを楽しもう。





 同じバイクで同じ道を走っているのに、さっきまでとは気分が違う。目に鮮やかな黄色の花びらが眩しい。汗ばんだ肌に吹き抜ける風が爽やかだ。ムーンムアン通りを右折してチャイヤプーン通りへ。ターペー門を左折して『サクラ』に着く。

 Hさんが新聞を読んでいるのが見えた。Tさんがビールを飲んでいる。あれ? 隣にいるのは鈴木じゃないか。そろそろ来る頃だとは思っていたが。



 ビールを呷る。美味い。駆けつけ三杯、一気に行く。申請の苦労話をみんなに聞いてもらう。鈴木が「けっきょく、その上品なイミグレの女性が一番悪いんじゃないですか」と言った。そうだなあ、言われてみるとそうかもしれない。きっと新人だったのだろう。彼女と出会わなかったらすぐにスパーンブリーさんに会え、もっと簡単に記入して貰えていたかも知れない。そうなるとあんなに時間に追われ焦ることもなかったろう。でもいいや。彼女は親切でやってくれたのだ。あの娘の上品なタイ語は今も耳に心地よく残っている。もう一度話したいものだ。終り良ければすべて良し。

 時刻はもうすぐ十二時になる。一時になったら行動開始だ。ここまでくればもう乗れても乗れなくてもいい。いやここまで来たら、なんとしても乗りたい気もする。両方ほんとの気持ちだ。やはり何もせず諦めるよりは、やるだけのことをやった方がいい。おれはやった。だからきっと賽の目はいい方に出るだろう。よし、もう一本いくか。
「シーちゃん、コー・カールスバーグ・クワッド・ヤイ、イック・ナハ」



【補記】
 この後もまた細かなトラブルが連発しましたが、なんとか無事に中国に行くことが出来ました。後になって気づいたことを記しておきます。

 タイ航空のチェンマイ・昆明は週二便ですが、バンコク・昆明は毎日便があります。そしてチェンマイ・バンコクも毎日何便も飛んでいます。私は、チェンマイからバンコクにもどり、バンコクから昆明に飛ぶという方法を採れば、今回ここに書いたような必死のドタバタ劇を経験せずに済んだのでした。
 それに気づいたのは昆明のタイ航空オフィスで時刻表を見ている時でした。なぞなぞのようなものですから、答を知ってしまえばあっけないものですが、あの時、いくら懸命に考えても私にその考えは浮かばなかったし、切れ者のプラーニットも、一度バンコクにもどるというアイディアには気づきませんでした。

 ご存じのようにタイはすべて首都バンコクを中心に動いています。一都市でGNPの半分を稼ぎ出すという極端な一極集中の国です。なにをするにもバンコクが基点なのです。
 でもそれはタイだけに限りません。例えばフランスなどもそうです。すべての鉄道はパリから放射状に延びています。ですから、地図で見て、直線距離では近そうに見える田舎町から田舎町に移動をする場合、ローカル線を乗り継いで横に移動するより、一度パリに出るという三角移動をした方が、特急や電車の本数で、結果的にずっと早かったりします。
 今回の場合も、「チェンマイ昆明」にこだわらず、「昆明により遠いバンコクに一度もどる」という発想が出来たなら、違う展開が生まれていました。

 みなさまに私と同じような緊急の事態が出現するとは思いませんが、もしもタイでなにかあったときには、それがチェンマイのような北部であれ、スンゴイコーロクのような南部であれ、とにかく、「一度バンコクにもどる」という発想を覚えておくと、役立つことがあるかも知れません。そう思い老婆心ながら補記としました。
(記00/4)






 この原稿を書いたのは、ほんの二年前のことでしかないのに、ずいぶんと情勢は動いています。
 ぼくはこれ以後、昆明に行ってからさらに中国国内便(時には一昼夜以上かかるバスで)で景洪に移動するのが煩わしく、タイ航空の「バンコク景洪便」週二便というのを利用するようになります。一気に景洪に行けるのは快適でした。さらに01年秋からは、バンコクエアウェイの「バンコク-チェンマイ経由-景洪」が週三便就航しました。ちいさなプロペラ機ですが快適です。02年1月はこれで行ってきました。

 噂では、これを利用すると、「チェンマイでストップオーバー」という手法が使えるとのことです。つまり、バンコクで景洪までの往復チケットを買い、その合間にストップオーバーという形でチェンマイに滞在するという方法にすると、バンコク景洪間の7000バーツ程度の航空券に、バンコクチェンマイ往復4000バーツを含ませることが出来ます。1月にぼくは、タイ航空のバンコクチェンマイ往復4000バーツを買い、チェンマイで、バンコクエアウェイのチェンマイ景洪往復券を6000バーツで買っていったわけですが、もしも噂通りこの手法が使えるなら、バンコクとチェンマイを楽しんで、景洪に行って来たい人には、とんでもなく割安のお買い得航空券となります。次回、早速確かめてきたいと思っています。(02/4/21)





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