凱旋門は遠かった '97
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●北駅前
 ヒロさんと待ち合わせたホテルへと向かう。電車駅から地下鉄をいくつか乗り継いでたどり着くと、それだけでもうくたくたになってしまった。

 フランス人とドイツ人の体質の違いを、生産する自動車の特徴で言い表した表現がある。「フランス車は室内が応接間のように豪華で居心地がいいが、故障したときボンネットを開けてみると配線がこんがらがっていて手に負えない」というものだ。ドイツ車はその反対になる。パリの地下鉄もその例に漏れず、かなりこんがらがっていて、両手荷物で入り組んだ階段を昇り降りするには辛いものがある。パリは東京と比べると小さな街だからタクシーを利用すればいいのだが、そうなると今度は語学力が問題になってくる。誰もが知っているようなホテルに泊まっているわけでもないこちらには細かな指示が出来ない。無精ひげを伸ばし紙巻きタバコをプカプカ喫いながらおんぼろ車を運転している煤けたジャン・ギャバンみたいなパリのタクシー運転手に、英語が通じることは滅多にない。いきおい待ち合わせ場所は、北駅(GARE DU NORD=ガール・デュ・ノール)のような私たちでもタクシーに指示できるような場所になる。

 ヨーロッパの石畳はキャスター付きのトランクを引きずって歩くのには向いていない。ガラゴロと転がるはずのトランクは、ガッコンゴッツンと跳ね上がる。両肩からバッグを提げ、トランクを引きずっている私は、たとえ田舎者専用の駅前旅館と笑われようと、数えるほどの歩数で駅からすぐチェックイン出来るホテルがいい。で、結局今回も北駅の駅前ホテルである。恥ずかしいけど今の私の現実だ。

 パリで最もリーズナブルなホテル利用法は、パリ中心部から離れた郊外(=東京で例えるなら埼玉の大宮、千葉の松戸辺りか)に、二人で泊まることだろう。これだと一泊一万六千円ぐらいでノボテルクラスのホテルに泊まれる。そんなことをしていた時もあった。今回私たちがそれをやらないのは、ヒロさんが喫煙者で私が煙草嫌いだからである。私も昔は一日三箱の煙草中毒だったのだが、今では十メートル先から流れてくる煙もダメになってしまった。この〃かつて愛煙家の今禁煙者〃というのには獨特の傾向があっておもしろい。これはまた改めて書くこともあるだろう。


オテルへ

 来佛して最初に泊まった駅前旅館に行く。受けつけの柴俊夫に似た兄ちゃんが、私を覚えていてくれて愛想良く笑った。外国で日本の有名人に似た人を見かけると、日本人はすぐにその名で呼び始める。まあ、外国人だってそうだけど。

 バンコクの安ホテルに日本人から「シロー」と呼ばれている兄ちゃんがいた。一目見ればその理由が判る。今にも電線音頭を踊り出しそうなほど伊東四朗にそっくりなのだ。ヴェトナムの旅行代理店にはプロレスラの三沢光晴そっくりの青年がいた。私たちは「ミサワ」と呼んでいたが、といってもこれはプロレスファンにしか判らない。アルルのレストランには伊集院光そっくりのウェイターがいた。動きは緩慢だが愛想はいい。関わった日本人は、その内彼を「ヒカル」と呼び始めるだろう。デブは暑苦しくて嫌いだが、食い物関係でだけは、料理が美味そうに見えるからいいような気がする。
 日本のオタク関係の若手文化人はデブばかりだが、あれはなぜなのだろう。オタクはデブなのか? どこかでその原因と理由を特集してもらいたい。雑誌の特集ネタとしてどうだろう。

 フランス語はH(アッシュ)を発音しない。ホテルがオテル、ヘルメスがエルメスになる。エリシオの綴りがヘリシオであることは昨年のジャパンカップで知った。ヒロさんは「イロさん」になる。イロという日本人が泊まっているはずだがと柴俊夫に訊くと、たしかに居た。昨日から泊まっていると言う。この場所でこの日を約束していたのだから居て当然なのだが、私とヒロさんの歴史ではまともに会えたことがないのでかえって驚く。

 ドイツのF1からパリに来たヒロさんは落ち込んでいた。列車の中でまた襲われたという。まったくこの人はスペインでもドイツでも襲われている。訊いてはいないが、ハンガリーやポーランドでも襲われているのではないか。よほどチンピラ連中から見たら襲いやすいタイプなのだろう。たしかに小柄でいかにも人の良さそうなタイプではあるが、たぶん理由はそれだけではあるまい。ヒロさんの方にも問題があるのだ。

 着いたのが朝早くであり、落ち込んでいるヒロさんが昼まで寝たいと言うので、夕食の約束をして、私は部屋で旅の荷を解く。電車の中で押し合いへし合いされ、地下鉄駅で腕が痺れるほど重かった荷物が、カバンの中から輝きながら飛び出してくる瞬間だ。この時のための大荷物である。


●旅の荷をほどく


 まず窓際にワールド・バンド・レシーバーのラジオを置く。携帯用ステレオ・スピーカーを繋ぐ。最初の頃はラジオの小さなスピーカーで我慢していた。それがせっかくの外国での放送なのだからもっと良い音で聴きたいと思うようになり、こんなものまで持ってくるようになった。シャンソン局を選んでパリのムードにする。


4キロもあるA−4フルノートを、よくフランスまで持参していたものだと思う。でも苦にはならなかったけどね。それよりもうれしさのほうが大きかった。

 次いでノートパソコンを机の上に広げる。三畳一間の屋根裏部屋のような一室だが、小さな机と椅子があってパソコンで文章を書ける部屋であることだけは確かめてある。それだけは譲れない。

 愛用のマウスを繋ぎマウス・パッドを出す。色々な小物が机の上にぞくぞくと勢揃いする。〃弘法筆を選ばず〃という。私はあれやこれやと筆にこだわる。でも今では常識だが、実際の弘法は人一倍筆にこだわったのである。名人が名品にこだわらないはずがない。弘法でないからこそ少しでもその境地にたどり着きたいと努力する凡人が筆にこだわるのは当然なのである。筆なんかどうでも良いという人は、弘法になるためのスタート地点にさえ立っていないのだと私は思う。筆にこだわる割には未だにひどい悪筆であるが。

 このノートパソコンは音楽用CDも聴ける。CDウォークマンの必要がなくなった。もちろんヴィデオCDも再生できる。国語辞典から百科事典までCDーROMで揃えて持ってきている。一枚のCDに応接間の書棚に並ぶ百科事典が全冊入っているのだからなんとも便利な世の中になった。『新潮社の100冊』という一枚のCDに百冊の文庫本が入ったものも持ってきているから読書に飢えることもない。

 旅先用〃私の書斎〃が出来あがり、これで一安心。気持ちのいい音楽が流れ、ディスプレイがいつもの背景を映し出すと、自分の部屋にいる気分になる。
 パジャマとバスタオルを用意してシャワーを浴びる。バスタオル持参は異常なようだが、今回はこれに助けて貰っている。この安宿のタオルは、灰色のゴワゴワした粗末な物だった。もしかしたらむかしは鮮やかなマリンブルーだったのかもしれない。何年使い何千回洗ったらこんなになるんだろう。ふかふかのバスタオル一枚で豊かな気分になれる状況というものもある。それが今だ。


 使い慣れたシャンプーで洗った頭にヘアトニックをバッシャバシャとふりかけ、ひげ剃り後の顔にアフター・シェーブ・ローションをビッシャビシャとつける。その後シャワーコロンをシュワシュワして出来上がり。しあわせしあわせの午後のひととき。BGMにパソコンのCDからクライスラーのヴァイオリン小品集なんかを流せばもう完璧だ。
 この場合、ヘアトニックやアフター・シェーブ・ローションを、バッシャバシャ、ビッシャビシャと贅沢にぶっかけるのが肝腎である。つまり日本にいるときと同じいつもの大瓶でなければならない。旅行用のせせこましいちっこい奴ではいけない。ところがこの大瓶というか普通の製品は、中身よりも瓶の方が重かったりする。中身のせこさを瓶の豪華さで補っているような気がしないでもない。旅には不向きなのだ。でもこれこそが旅先の情緒不安定な環境を正してくれる最重要アイテムなのである。すくなくとも私にとっては。


 旅下手な私の荷物が経験を積む事に重くなるのは、この手の化粧品だやパジャマを持って行くようになったからだが、その原因には機械類も絡んでいる。例えばカメラだ。私は、一眼レフ・カメラにコンパクト・カメラ、インスタント・カメラに8ミリヴィデオを持って行く。更に防水やモノクロ、パノラマ仕様のレンズ付きフィルムも用意して行く。今回はこれにデジタルカメラが加わった。

 これだけのものを持って行くのだからカメラ狂なのかというとそんなことはなく、むしろ写真は嫌いな方だから、持って行くだけで全然使わなかったりもする。でも、どうしても一眼レフで撮りたい美しい夕焼けというのもあれば、小型のコンパクト・カメラで隠し撮りのようにしなければ撮れない街の風景というのもある。クルマの中から撮り続けたい動く景色というのもあれば、撮ってすぐにあげることで百万円の賄賂の代わりをしてくれるインスタント・カメラの至便さというのもある。事実某国の国境では、賄賂目当てのいちゃもんをつけてきた人相の悪い職員が、ポラロイド写真を一枚プレゼントしたら態度を豹変させ助かったことがある。使いたい時になかったという無念さを感じるぐらいなら、重くても持って歩いた方がましというのが私の方針で、いわば転ばぬ先の杖を何十本も束ねて背負っているようなものだが、最近では杖の重さで転びそうになっている。



今じゃ落ちていても誰も拾わないほどの旧式低能力のデジカメだけど、この当時は最新型。もう使うことはないが、一緒に旅行した日のことは一生忘れない。ありがとう。

 今回役だってくれたのはデジタル・カメラだった。このカメラの特徴は現像する必要がなく、パソコンに入れればすぐに見られることにある。
 フランス人の家庭を訪問した際、昼間撮ったデジタル写真をパソコンの中にアルバム状に整理し、歓迎パーティの席上でスライド・ショーをやったときは拍手喝采だった。
 もうひとつ受けたのは、くだんの百科事典CDーROM(※1)には世界の国の国歌が入っているので、そこに出席していたフランス、スペイン、ドイツの人々の国歌を順繰りに流した時だった。みな自国の国歌の時には、グラスを置いて直立不動になったりして盛り上がる。のどかな田舎町で昔風の生活をしている彼らは、なんでも出来る小型の箱に感嘆していた。


●空港で

この後ろ姿のカメラマンがヒロさんだ!


 金属探知機のゲートをくぐったヒロさんに「キンコーン」とチャイムが鳴った。シャルル・ド・ゴール空港である。
「あれ、おかしいな、なんでだろ」
 ニコニコしながらポケットを探る。
「これだこれだ」
 そう言って何枚かのコインを出し、もう一度くぐる。「キンコーン」とまた鳴った。
「ベルトなのかな、バックルが大きいから」
 バンドを抜いて置き、くぐる。また鳴った。
「金の鎖に反応するってことはないでしょうしねえ」と言いつつネックレスを外して、くぐる。また鳴った。さすがに首を傾げている。何かを外す。また鳴る。

 結局ジーパンのポケットから「ああ、そうか、これだこれだ」とワイン・オープナーを出すまでには七、八回はゲートをくぐっていた。私はまず探知機が鳴りそうな金属品は身につけないが、假に鳴ったとしても、怪しそうなものをまとめて出して一度で通過しようとする。彼の場合はひとつひとつ犯人を確かめるようにしてやるのである。面倒くさいことこの上ない。しかも犯人は無用の長物のワイン・オープナーである。
「これがねえ、ふいに街角でワインを飲みたくなったとき、最高に役立つんですよ、ふっふっふっ」
 ヒロさんは真犯人を言い当てた名探偵の気分で笑っている。待たされたこちらはたまらない。係員のフランス人のおねえさんもうんざりしていた。たしかにワイン・オープナーがなければコルクの栓が抜けず往生することはあるが、でももう帰国するんだからホテルでバッグに入れてくればいいのに。

 最奥の待合室に着く。後は出発を待つばかり。お世話になったフランス人の家に御礼の電話を掛ける。片言のフランス語が気恥ずかしい。次の機会にはマスターしてこよう。目的さえあれば会話の習得は容易だ。
「あっ、お土産を忘れた!」
 出発間際、ヒロさんが叫んだ。金属探知機のゲートの所に、買ったばかりのお土産を置いてきてしまったらしい。免税店で故郷の母親に買った眼鏡入れだ。けっこうな値段のブランド品だった。さすがに焦ったのか、走って取りに行く。



 凱旋門賞の前日、クリーニング店に行かねばならなかった。数日前、私はスーツを、ヒロさんはシャツを預けてあった。私は首を絞めるネクタイというものが嫌いなのだが、それがこちらのフォーマル・ウェアであるというなら、それはもう郷に入れば郷に従えで、合わせねばならない。
 二年前、プレス席に入ろうとしたらネクタイなしはダメと断られた。でもそれは必ずしも背広着用というわけでもなく、色物のシャツにラフなジャケットでも、とにかくジーパン以外なら、紐を首に結んで上着を着ていればいいようだった。ヨーロッパでは「ジーンズはダメ」という場所が多い。アメリカ文化に対する反発なのだろう。が街を歩けば、ジーンズ屋に若者は群がり、時代物の古ジーンズが高額で並べられていたりする。この辺の新旧のせめぎ合いはおもしろい。

 ヒロさんが「引換券がない」と言う。これがないとクリーニング屋から洗濯物を取り出せない。「おかしいなあ」と言いながらヒロさんが探し始める。首から貴重品袋というものをぶら下げている。ジーパンの中にも、内側に貴重品入れが付いている。腹巻きのようなパスポート入れもある。財布もいくつかに分けているようだ。そういう秘密の貴重品入れから、メインの財布、小銭入れ、いくつものポケットと探したが、洗濯物の引換券は出てこない。なんだかあまりに色んな秘密のポケットがありすぎて、こんがらがっているようだった。それでヒロさんは自分の部屋にもどり、総ゆる荷物の点検を始めた。

 一時間後、ニコニコしながらもどってきて言う。
「ありましたありました。貴重品だからなくしちゃいけないと思ってパスポートの間に挟んで置いたんですよ」
 パスポートの間に挟むほどのものでもないように思う。この捜索時間の間に、土曜日半ドンのクリーニング屋は閉まってしまったのだった。翌日曜日はもちろん休店である。つまり私は、凱旋門賞のために日本から持ってきたスーツを、当日クリーニング屋に預けたまま着られないという状況に陥ったのである。笑った。本来こういうミスをするタイプではないので、ヒロさんのおかげで遭遇した間抜けな状況が珍しく、私ははしゃいでいた。

 日曜日の朝に近所の商店で安物の背広を買った。ダブルである。北駅前のホテルが上野の駅前旅館なら、この買い物は御徒町で革ジャンを買ったようなものだろう。ついでだからやけくそで、派手なシャツとネクタイも買った。チンピラファッションの出来上がりである。似合うんだな、これが。妙に。うれしいんだかなかなしいんだか。


 ヒロさんはまだもどってこない。どうなったのだろう。搭乗が始まった。次々と人が吸い込まれて行く。まったく今回の旅は、ドジでのろまでおっちょこちょいのヒロさんに振り回されてばかりいる。地下鉄の中ではスリに狙われてカメラ用の一脚を振り回し始めるし、田舎町では迷子になってみんなに捜索されるし、逸話には事欠かない。なのに私がなぜ彼に怒れないかというと……。

 プレスカードがなかったのである。ヒロさんがあれだけ楽しみにし、年季奉公(彼らは自分たちの労働をふざけてこう言う)を延長してまで買った五百ミリの望遠レンズとプロ仕様のEOSーRSを携え、スーツまで着て乗り込んだロンシャン競馬場に、ヒロさんのプレスカードはなかったのである。ははは。笑っちゃいかんな。おれの責任だ。何度尋ねても、真紅のスーツにライン入りの真紅の帽子、白いスカーフという美しいマドモアゼルは、微笑みながら「ノン、ムッシュー。パルドン」を繰り返すのみだった。綺麗だったなあ、彼女たちは。スタイル抜群で。それに比べて帽子を被った日本のおばさん達は醜かったなあ。やはりおしゃれというものは分相応にしなければならない。帽子を着こなすのは難しい。体型的に似合わない人は辞めた方がよい。帽子お化けは周囲の人を不幸にするだけである。

 それはともかく、ここで私の分のプレスカードもなければ、ヒロさんと二人、申請を代行した国際競馬交流協会を悪し様に罵り、昼間から飲んだくれて問題はなかったのだが、なぜか一緒に申請したのに私の分はちゃんとあったのである。で私は、早速旧知の連中と酒飲みと馬券買いに出かけてしまったのだった。馬券の買い方も知らないヒロさんを一人おいてけぼりにしてである。なんてひどい奴なんだろう。

 最終レースが終り一般席にもどってくると、何の役にも立たなかったでっかい五百ミリレンズとEOSを持って、スーツを着たヒロさんがしょんぼりと佇んでいた。その引け目があって怒れないのである。

 搭乗はあらかた済んで、待合室にいるのは私だけになってしまった。ヒロさんはまだ来ない。困った。係員に急かされる。私が凱旋門賞を優雅に楽しめるようになるのは、まだまだ先のようだった。(『凱旋門は遠かった'97』完)




※1 マイクロソフトの「エンカルタ98」のこと。




 この文章は、『競馬ゴールド』誌に掲載したものの再掲である。内容が1997年11月のことだから、雑誌に載せたのは98年の正月ぐらいか。
 タイについての記述が半端なのは本来そういうための文章だからだ。「チェンマイ日記」の項目に載せるべきものなのかどうか、本人もよくわかっていない。むしろ「雑記帳」のネタであろうか。小説でないこれは今後も単行本に収めることはないだろうから、ここに再掲した。その種の文章はこれからも積極的に載せてゆきたい。小説でない限り横書きにもそれほど胸は痛まない。
 競馬雑誌の原稿なのに競馬が出てこないのは問題である。むしろタイやチェンマイは出過ぎている。といってもいつもそうなのではなく(あたりまえだけど)毎回びっしりと競馬のことばかり書いているので、たまに息抜きでこんな遊びを許してもらった。

 その競馬雑誌に、にしきのあきらの「愛があるなら年の差なんて」をもじった、「万馬券があるならナントカカントカ」という、もう忘れてしまったけど、そんなタイトルの連載があった。それで私も、懐かしい当時のヒット曲の「帰り道は遠かった」という曲をもじって、「凱旋門は遠かった」というタイトルをつけたのだった。と、そんなこともあったっけと、これは今になって思い出した。すっかり忘れていた。まあ「帰り道は遠かった」は中ヒットで、知っている人もすくないだろう。

 ローレル競馬場にたどりつくまでの経緯を書き、いよいよ競馬の描写かと思わせたところで、いきなり帰りの空港になるというのは当初からの予定だった。後で知り合いに聞くと評判はかんばしくなかったようだ。みな、いよいよ競馬かと思ったら終ってしまったので肩すかしを食ったと怒っていたらしい。競馬雑誌に載る文章でなければ悪い構成とは思わないが、媒体は競馬雑誌であり、タイトルに「凱旋門賞」と謳ってあるのだから、フランス競馬のことをもっと書くべきだったか。それは反省すべきだろう。

 私は常に自分がいちばん書きたいと思うことを書いて商売にしてきた。もうこの時期、競馬を"すなおに書く"のには飽きていたのだろう。元々が人それぞれの心の歪みから生じるアレコレという素材を並べるテーブルとして競馬を選んだだけなのである。フランスの競馬場の描写、馬券の買い方、的中不適中の結果などを書く気は毛頭なかった。こんな文になったのは当然の帰結だった。

  この時の、一眼レフやバカチョンカメラで撮ったパリの写真がフィルム10本ほどあるはずなのだが、どこにいったのだろう。いくら探しても出てこない。デジカメ写真は残っていたので何枚か採用した。頭の中に確実に残っている「絵=写真」が、見つからないのは苛立つ。撮ったのは間違いない。ブツはあるはずだ。ロンシャン競馬場やパリの街角など、いい写真があるはずなのだが……。そのうち出てくるだろう。入れたいよなあ、そのためのホームページなんだもの。「ここにあの写真を入れる」というイメイジがあり、その写真があるはずなのに出てこないのはなんとも隔靴掻痒で面はゆい。

 尚、上記"バカチョン"は、差別用語ではなく由緒ある日本語であるので意図的な使用。バカチョンは朝鮮人蔑視の差別用語ではない。チョンは江戸時代からある由緒ある日本語である。意味は「アホでも間抜けでも」という同意の重ね強調になる。日本の××××サヨクの言葉狩りにだまされないように。
(02/5/24UP)

チェンマイ日記「2k秋外伝」





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