凱旋門は遠かった '97
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●春、ヒロさんから手紙が届いた
〈僕は今、鈴鹿の自動車工場で働いています。今年のF1は、九月にオーストリアとドイツに行き、そして帰ってきて鈴鹿に行く予定です。もしもよかったら一緒に凱旋門賞を見に行きたいと思っているのですが、予定はどうでしょうか。〉

 ヒロさんは俗に言う期間工だ。正しくは臨時工だろうか、その辺の分類はよく分からない。一定の期間、工場などに住み込んで働き、お金を貯めては外国旅行を繰り返すという海外で出会う風来坊によくいるタイプである。旅を生き甲斐にしている彼ら自身、半年以上働く気はないのだろうが(旅に出たくて我慢できない)、工場の方でもそれ以上働かれると、保証やら何やらで色々と面倒な問題が出てくるのだろう、適当に辞めてもらった方が助かるらしい。需要と供給のバランスが上手く取れている。

 彼らは工場の寮に住み込み、一切の無駄遣いを排除してお金を貯める。ケチケチ生活だ。このとき条件のいい職場とは、給料の額はもちろんだが、それ以上に寮費や食費のかからない所となる。いくら倹約して貯めるといっても、半年ではせいぜい百万円程度らしいが、それでも発展途上国に行けば価値が違う。旅人の間ではケチで有名なある日本人の実話がある。半年工場で働いて百数十万円貯める。後の半年はタイの田舎町で暮らす。一ヶ月の生活費は三万円。半年で十八万円。残金百万円。帰ってきてまた半年働く。この気楽な人生の繰り返しで、年に百万ずつ貯金が溜まるのである。彼は今、二千万円の貯金を誇り、これをうまく活用すれば今後働かなくても生きてゆけると豪語している。タイの金利は十パーセント近くあるから(※1)、二千万円あれば、彼なら死ぬまで遊んで暮らしてゆけるだろう。

 月三万円の生活というのは、タイの田舎町においては十分に普通の暮らしである。一人暮らしの現金収入としては多い方だろう。ただそうなると市場に行って地元の人と同じものを買い、自分の部屋で食べるという完全地域密着型の生活になる。日本人でなかなかここまで出来る人はいない。
 こういう発展途上国の人々の中にとけ込み、彼ら以上に彼ららしい暮らしをしている日本人の十人の内七人は大阪人である。彼らの根性はたいしたものだと思う。抱腹絶倒の逸話には事欠かない。後の二人は名古屋人。これまた個性豊かなのが揃っている。残り一人の枠に、やっとその他の地域が一人という割合だ。海外でよく耳にする「日本には三種類の人種が住んでいます。日本人と大阪人と名古屋人です」という冗談をなるほどなと思い知らされる。




 ヒロさんと初めて出会ったのはタイとビルマの辺境の村だった。山岳民族の中に三ヶ月も住み込んで写真を撮っているというヘンな日本人がヒロさんだった。これもすごい話だ。電気のない村である。生活や料理も想像がつく。風呂は近所の川。想像もつかない(※2)。
「トイレがねえ、竹のヘラで尻を拭うんですよ。これがダメでトイレットペーパーだけは持ち込んでました」とヒロさんは悔しそうに言っていた。チャレンジしたが、どうにも尻を拭う竹のヘラだけは(共用なのだろうか?)なじめなかったという。

 ヒロさんは北海道出身。知り合ってもう六年ほどになる。二年前には一緒にポルトガルを旅行した。海岸の保養地・エストリルで観たのが私のF1初体験だった。その後彼はドイツのF1へ、私はパリの凱旋門賞へと向かった。そのとき勝ったのはラムタラ。今は種牡馬として日本にいる。競馬の月日が経つのは早い。

 それからヒロさんの消息は不明だった。どこかの工場で働き、次のF1追っかけのための資金を貯めていたのだろう。昨年の秋、ポルトガルから絵はがきが届いた。「今年のリスボンは寒く雨続きで、去年一緒に観た楽しかったF1が嘘のようです」と書いてあった。
〈出来たら凱旋門賞で競馬の写真を撮ってみたいと思っています。時速三百キロのF1よりも、むしろ時速六十キロの馬の方が難しく、それに競馬はF1と違って周回しないので勝負が一瞬です。ほんとはもう工場は辞めている予定だったのですが、まだ頑張っているのは、競馬用に五百ミリの望遠レンズを買おうと思っているからです。もしも凱旋門賞に一緒に行けるなら、カメラマンの取材章をお願い出来るでしょうか。〉

 凱旋門賞を撮るためにヒロさんが三交代制の工場で頑張っている春、私はタイで、交通事故に遭うわ、ジェット機は火は噴いて墜ちそうになるわで、とんでもない体験をしていた。事後処理を済ませ、這々の体で帰国したその夜、『競馬ダイジェスト』で見たのが、サクラローレルとマーベラスサンデーを外から一気に差し切るマヤノトップガンの天皇賞春だった。


●夏、ヒロさんから電話が来た
「新聞で読んだんですけど、サクラローレルは凱旋門賞にほんとに行くんですね。楽しみが倍になりました。凱旋門賞挑戦決定だと聞いたので、思い切って五百ミリ買いました」
 声が弾んでいる。嬉しそうだ。マニアが好きなものをやっと手にしたときは、おっさんでもこんな少年のような声になるんだなあと可笑しくなる。メビウス7760(ノートパソコンの名)を買ったばかりの私も、あちこちでこんな声を出していたのだろうか。恥ずかしい。五百ミリレンズは六十万円したという。カメラは金を食う。パソコンも負けないが。
「ついでにEOS(イオス)のRSも買ったんです。『優駿』見ていたら久保さんが持っていたんで」
 イオスはかの有名なキャノンの一眼レフカメラ。その中でRSというのは、最近発売になったプロ仕様最高級機種らしい。私の持っている初期の型なんて、きっともう相当に時代遅れなのだろう。「久保さん」とは、馬の写真、特にレース写真に関してはナンバーワンの久保吉輝さんのことだ。ヒロさんの憧れのカメラマンのひとりらしい。
「あれこれ買い物したから、すっからかんになっちゃいました。でもこれでもうドンと来いです。サクラローレルの勇姿をばっちり撮りますよ。ところで、あれの方、だいじょうぶですよね?」
 「あれ」とは凱旋門賞の取材章のことだった。今回の電話も、ヒロさんは間もなくヨーロッパに出発するので、「あれ」の確認のために掛けてきたのだろう。いい写真を撮るためにはそれなりの場に居なければならない。そのために取材章は不可欠となる。ヒロさんの口調は、私の力強い断言を強要していた。「凱旋門賞に行く」と。「取材章は任せろ」と。
 春に手紙をもらった後、私も返事を書いた。そこで私の言っていることは「久しぶりにヨーロッパに行こうかな」であり、「凱旋門賞に行く」ではなかった。「フランスの田舎町でのんびりしてみたい」とは書いてあっても、ヒロさんの求める凱旋門賞と取材章の話はまったく出てこなかったのである。競馬を撮るために五百ミリ望遠レンズを買い込み、新たにイオスのプロ仕様まで買ったとあっては、ヒロさんにとってもう凱旋門賞に行くことは確定なのだ。取材章を世話してくれるはずの私がふらふらしていては困る。決断を迫られていた。
 このときまで凱旋門賞に行くかどうか流動的だった。その理由はサクラローレルにある。もしも久々に日本最強馬が凱旋門賞に出走となったら、日本人応援団が大挙して押し掛けるはずで、そのことで起きる軋轢は行く前から想像がついた。それはかなり憂鬱なことだった。たとえば四人でやる麻雀というゲームを、上手三人に下手一人でやったとする。場を仕切るのは一人の下手である。勝つのは三人だ。下手の一人負けになろう。だが場の流れやリズムやポイントは、すべて一人の下手によって支配されてしまうのである。結果は一人負けでも、下手一人が上手三人を振り回したことになる。つい先日もそのことを経験したばかりだ。楽しいのは下手一人だけで、時間の無駄遣いだと空しくなったものだった。
 何万人かが入場するロンシャン競馬場も、日本から来たサクラローレル応援団が、日本と同じようにふるまい、悪い意味で、競馬場を支配するのは間違いないのである。電車の中で騒いでいる中高校生と出会ったら、大人として注意することもなく、逃げるように車輌を替わるという卑怯者である私は、出来ることならそのような状況には出会いたくなかった。逃げたかった。だが、ロンシャン競馬場の凱旋門賞という車輌は替わりたくても替われない。だったら行かない、となる。

 競馬を始めたばかりの頃、「GTだけは生で観たい」と思ったりする。私もそうだった。いくつになってもそうかもしれない。でもうんざりするほど馬券をやってきた私の感覚は次第に変ってきた。毎週競馬場で馬券勝負をしていると、「お祭りのGTぐらいは、ビールでも飲みながらのんびりとテレビ観戦したい」となってきたのである。
 「ダービーだけは生で観たい」が、「ダービーぐらいは自宅観戦」になってきたように、一般的には「サクラローレルの出る凱旋門賞だけは生で観なくては」なのだろうが、私は「サクラローレルの出る凱旋門賞だから、日本でテレビ観戦」と思うようになっていた。
 「これだけは生で観たい」という感覚は、「歴史の立会人になりたい」ということなのだろう。それはステータスだろうか。あるいは「時代の共有」だろうか。単純明快に友達への自慢だろうか。でもその発想は、身近なことで言えば、「友人との共通の話題を確保するために見る高視聴率トレンディドラマ」と差がないような気がする。
 私に言わせるとこういうのは、〃思い出作り症候群〃の一種でしかない。私にはそういう感覚がなかった。それを欠落闕如と言うならそうかもしれない。昔はいくらかあった。若者の誰もが行っている、誰もが身につけているというような場所や物は、自分も関わらなければ置いてけぼりにされるのではないかと思う不安があった。今はない。自己が確立するとともに、世間の流行りすたりとは隔絶した場所に居着いてしまった。サクラローレルが出るから凱旋門賞を生で観たいではなく、サクラローレルが出るからこそ今年の凱旋門賞はテレビ観戦でいいというのが今の私の感覚だった。

 九月初旬。国際競馬交流協会に取材章申請をする。ヒロさんにせかされて引くに引けなくなった。ライターとして私、カメラマンとしてヒロさん。所属は「サクラローレルが出走したら観戦記を書いてくれ」と条件付きで頼まれていた雑誌社にした。立場不鮮明だった凱旋門賞に行くことが決まった。その報を聞いて、F1追っかけのヒロさんは、一足早くヨーロッパに旅立つ。「凱旋門賞用に、スーツとネクタイ、用意しましたから」と、明るく笑いながら。


●九月、チェンマイへ飛んだ


 ヨーロッパへまっすぐは行けなかった。四月にタイをドライヴ旅行したとき、運転していた友人が交通事故を起こした。私は助手席にいた。そのときお世話になったたくさんの人たちへの挨拶をしなければならない。御礼の手紙は書いていたが、それだけですむ問題ではない。被害者の方が亡くなったという報も届いていた。遺族に挨拶に伺わねばならない。撥ねたのは友人でも、責任の管轄は私にある。タイのバンコクからチェンマイへ飛び、事後処理をして、そこからヨーロッパへ向かうことにした。不惑を過ぎた男としてきちんとせねばならない作業ではあったが、気は重かった。

 ひょうたんから駒もあった。格安航空券でも、バンコクまで五万円、そこからヨーロッパへ十万円、最低でも十五万円と読んでいたのだが、旅行雑誌を読んでいて、なんとタイ航空の「バンコク経由ヨーロッパ行き」が、十万円で買えることを知ったのだ。しかもオープンチケットである。オープンチケットのタイ航空なら、成田バンコク往復だけでも十万円しておかしくない。万歳したい気分だった。掘り出し物は意外なところにある。

 もうひとつの朗報もあった。以前から「白人のもとに嫁いだアジア人の嫁」というルポをやろうとしていたのだが、知り合いの人が、フランス人と結婚したタイ人女性の住所を教えてくれたのだ(※3)。とりあえずこれでフランスでも目的が出来た。だいたいにおいて私の場合、こういう作業が当初の予定通りに行くことはなく、近くまでは行くもののそこから脱線してしまうことが多い。今回の場合も、現地で取材拒否にあって挫折するようなトラブルが無きにしも非ずという気がしないでもないが、それでもなんの目的もないよりは張り合いが出る。住所はルーアン。あのジャンヌ・ダルクが処刑されたことで名高い古都だ。どうなることやら。



 チェンマイに一週間ほどいた。最初の三日間で挨拶や御礼を済ませ、後の四日間は、なにもせずホテルの窓から雨を見ていた。それはたとえようもなく贅沢な時間だった。雨季の明けようとしているこの時期は、一日に何度か、とんでもない土砂降りの雨が降る。彼方に見えた雨雲が、すーっと近づいて来て、空が真っ黒になるやいなや、稲光が走り、ドカーンと雷が鳴り、大粒の雨が滝のように降り注ぎ始める。なにもかもが雨に洗われて行く。半年の雨季、半年の乾季。そろそろ乾季にバトンタッチする前に、空に溜まっている水を、最後の一滴までぶちまけてしまおうとでもするかのように、椰子の木に、アスファルトに、佛舎利に、古代遺跡に、激しく雨が降り続く。人々は軒下で待つ。雨の中を歩いたりはしない。ひたすら通り過ぎるのを待つ。ほんの一時間。泣いた子がもう笑うかのように、町にはまた陽射しがもどってくる。

 飽きもせず毎日、そうして降る雨を見ていた。知り合いのいる日本食堂(※4)に行くと、柄にもなくいつもニコニコしているので、なにかいいことがあったのかと皆に問われた。
 いいことはなかったが、それ以上に、悪いことがなかった。四月のあの日、私は刑務所に入れられてしまった友人を救おうと、目を血走らせ、日本へバンコクへと電話をかけまくり、下手なタイ語をしゃべり続けていた。現地の日本人に相談に行き、レンタカー・オフィスを訪ね、差し入れを持って片道三時間の刑務所へと通った。一向に進まない現実に苛立ちながら空回りする前進を続けていた。ノイローゼになりそうだったあの頃……。

 なにもない。今はなにも心配事がない。甘いものを食べながらもっと甘さを感じようと思ったなら相当に甘いものが必要になるが、辛いものを味わった後なら、たいして甘くないものでもとろけるほどの甘さを感じられる。チェンマイの中級ホテルに泊まり、降り続く雨を見ながらメビウス(ノートパソコン)に向かっているだけで、こんなにしあわせな気分になれる。それは新鮮な発見だった。
 一息ついて、三週間ほどのフランスの旅が始まる。


●ドゴール空港へ
 バンコクからシャルル・ドゴール空港まで十二時間のフライト。
 飛行機の中で二本、映画を見た。『バットマン&ロビン』は駄作。どうしようもない。これじゃ敵役のシュワルツェネッガーが気の毒だ。
 ジョン・トラボルタとニコラス・ケイジの『フェィス/オフ』は、「顔を切り取って相手の顔と交換し、別人間になる」というそもそもが「んな、アホな」という感じだが、アクション面も充実してかなりのおもしろさ。百四十分飽きさせない。それにしてもトラボルタがこんないい役者になるなんて思いもしなかった。所詮『サタデー・ナイト・フィーバー』のダンサーという際物役者だと思っていた。馬で言うなら新潟3歳ステークスは圧勝するが、4歳クラシックはボロボロ、5歳時には消えていたという程度のもの。それが5歳になって天皇賞・秋をレコード勝ちするような馬になって帰ってきたのだから驚きだ。薄い髪を短髪にしたニコラス・ケイジは、モト冬樹そっくりだった。ドリフターズの仲本工事そっくりの役者も出ていた。仲本工事の持ち馬で大井の女性ジョッキー、土屋薫騎手がのっていたのがモンチッチ。その担当厩務員が日高に帰り、十年後、知り合いの馬に名つけたのが、今中央で走っているモンチッチになる。薫ちゃんの最初の(?)結婚式には、仲本工事がやってきて『マイ・ウェイ』を唄ったっけ。退屈な飛行機の中で映画を見ていると、色々なことを思いだす。(※5

 タイ航空はサーヴィス抜群の大好きな飛行機会社なのだが、さすがにバンコクを経由してフランスに行く物好き日本人はいないとみえて、どの便でもたいてい置いてあるナンスーピム・イープン(日本の新聞)がなかった。どんな連中が乗っているのかと暇つぶしに見渡せば、故国に帰る白人を除けば、金持ちの中国人ばかりだった。タイも他の東南アジア諸国同様、一部の中国人に経済の大部分を掌握されている。中国人というか、厳密には漢民族と言うべきだろうが、この人種を私は嫌いである。以前は有史以来色々なことを教えてもらった兄貴分として身近に感じ尊敬していたのだが、今はとてもじゃないが好きだとはいえない。本当に二十一世紀が中国の時代になるのなら、そのときには死んでいたいとさえ思っている。うるさいし図々しいし我が強いし自分勝手だしと、いくらでも悪口が並べられる。世界をほっつき回らなければ分からなかった事実のひとつだ。あちこちの旅行記でも同じようなことを見かけるから、あながち私だけの感想ではあるまい。(※6

 そういえばヤオハンが倒産したと讀賣新聞衛星版で読んだ。あの社長も中国に惚れ込み、中国に食い込むことであそこまで伸びたが、結局はそこまでだったのだろう。中国政府はヤオハンが欲しくてしょうがなかった中国における小売店展開の免許を、ライヴァルのイトーヨーカ堂に許可したという。「戦争でご迷惑をかけたお詫びに全財産をつぎ込む気持ちで」なんて発想では中国の政治中枢には通じなかったということか。


 眼下にフランスの大地が見えている。緑のうねる豊かな大地は、この国が農業国であることの証明だ。サクラローレルの走る凱旋門賞までに、南フランスを回り、ヒロさんと合流してルーアンを訪ねよう。


●パリに着く
 ドゴール空港のイミグレーションで、それまでずっと話し合っていたタイ人の新婚カップルと「チョーク・ディー・ナ(グッド・ラック)」と言って別れる。彼らと知り合ったのはバンコクの空港だった。見るからに初々しいカップルだったので、ハネムーンですかと私から話しかけたのだ。当たっていた。新婚旅行でパリに来るタイ人なのだから、かなり裕福な階級なのだろう。

 そこからいきなりフランスになった。戸惑う。やはり異国に行く場合は、その国のフラッグ・シップに乗り、機内から徐々に気分を切り替えて行くのが理想のようだ。エール・フランスに乗って「フランスに行くんだから、フランス語をしゃべらなくちゃ。勉強しなきゃ」と会話本を手に自分を追い込んでおいた方がいい。機内サーヴィスに「メルシー」と応える練習をしておいた方が、降りてからが楽だ。

 ドゴール空港はでかい。成田が小さいのか。28番の無料バスで鉄道駅まで行き、街中まで三十分。これは近い。いや、成田が異常なのだ。

 電車の中に、早速ギターを抱えた黒人の歌手が登場する。ピュアなアフリカンではない。中米出身のように思える。エフェクトをかけたエレキギターを手に、アンプとスタンドマイクを設置すると、サイモンとガーファンクルを歌い始めた。電車の中の大道芸人に出会うとパリに来たなと感じる。広場や街角はもちろん電車から地下鉄までいたるところに歌い手がいる。楽器はギターとアコーディオンが多い。オーボエとクラシックギターという組み合わせを初めて見た時は新鮮だった。オーボエは音域が狭く難しい楽器である。

 朝の八時。通勤時間の客に合わせた選曲なのだろう、『ボクサー』『ミセス・ロビンソン』『スカボロフェア』というお馴染みの曲を、厚めのフェイザーをかけたやわらかな音で歌い継いで行く。写真で言うなら「紗を掛けた」ような音だ。猥雑な夜の酒場で聞いたなら気の抜けた音なのだろうが、朝のBGMとしては見事にはまっている。ピッキングの合間にギターを叩いて出す効果音が上手で、思わず振り返って見てしまう。この時点で私のカンパは決まったようなものだった。歌い終ると帽子を手に客席を回る。にこやかに小銭を入れる人、苦々しげに拒む人、一言言葉を掛ける人。


 北駅前のホテルにチェックインする。東京でいうなら初めて上京した田舎者が上野の駅前旅館に泊まるようなもので、あまり大きな声で言えたものではないが、とりあえずここからだと、どの地方へ行くにしても動きやすい。パリというのは物価が高く一般旅行者には向いていない。ここで快適に過ごすなら、腰を据えてアパートに住むか短期間のパック旅行のどちらかだろう。私のような三週間の自由旅行などという半端な旅行者がいちばん割を食う。ましてタイのチェンマイという、私の考える「世界で最もホテル事情の良い街」から来たのだからなおさらその感が強い。チェンマイでは日本なら二万円はするだろう綺麗で清潔なホテルに三千円弱で泊まっていた。それが今、八千円も取られて三畳一間ぐらいの薄暗い部屋にいる。シャワーだけ。テレビも冷藏庫もついていない。パリの街中でまともなホテルに泊まろうと思ったら最低でも二万円はかかる。八千円ではしかたないのだが、チェンマイから来たものだから「八千円も出して」になってしまう。解っていながら「いい齢になって、なんでこんな狭くて汚い部屋に……、金がないってのは」などという不満が浮かんでくる。発想を切り替え子供の頃に読んで憧れた「パリの屋根裏部屋」にいるのだと思いこむ。そう思えば古くさい狭い部屋にいるのもそう悪いことではない。


●ラ・セーヌに箸を流す
 凱旋門賞直前までパリを離れるつもりだ。花の都もいいがフランスは田舎もいい。その前に〃木下の箸〃をセーヌ川に流してやらねばならない。どこがいいだろう。やはり真ん真ん中のシテ島あたりからがいいのだろうか。

 木下というのは学生時代の友人で、その頃からやたらフランスを賛美する男だった。好きなだけあって試験はいつも満点だったし、日常会話程度だったら流暢にフランス語を話した。エートルとアヴォワールの変化すら覚えきれない劣等生には、なんとも煙たい存在だった。〃世界一美しい言葉〃と言われるフランス語を選択したはずだったのに、現実に学び始めたその言葉は、やたらもごもごした解りにくい言葉に思え、私はとても熱心に勉強する気になれなかった。後に出現したタモリが「フランス語と東北弁の類似性」という両者をごちゃまぜにした芸を披露してくれたときは、喉の支えが降りたような気がしたものだった。

「フランス人は英語が話せるのに話せないふりをする」という有名な言い伝えがある。フランス人の底意地の悪さを言うときに口にされる。それに対して「なんでフランス人が英語なんか話さなきゃならないんだ?」と笑いながら言ったのが木下だった。言われてみればその通りで、フランスで英語を話す奴の方が不自然なのである。意地悪という言葉は、フランスに行き、一所懸命フランス語を話しているのに、発音が悪いからとしらんふりをされた、そういう場合に使うべきなのであって、その点では彼らは、誇りある自国語を話す相手には、それがどんなに下手であろうと理解しようと努めてくれるから、決して意地悪ではない。不粋な言語だと軽蔑しているイギリスの言葉を、フランスで堂々と使い、通じないと怒っている奴の方が無神経なのだ。東京で、平然と英語で話しかけてくる外人に苛立つという経験を重ねている内に、いつしか私もそう思うようになった。日本に来るなら最低限の日本語ぐらい覚えてから来い。今頃になって木下の主張の正当さが解る。

 パリジェンヌと恋をして、パリで暮らすのが夢だった木下は、有名商社に入ってパリの駐在員になる予定だったが、福島出身の娘と今で言う〃できちゃった結婚〃をして卒業と同時に父親になった。折り悪く石油ショックの時代だったから、入社したのは一応商社ではあるものの、当初の目論見とは違って、とてもパリに駐在員のおけるような会社ではなかった。立て続けに四人の子供を作り、一気に生活臭くなった木下と私は、その後ずっと疎遠になる。若くして四人の子持ちになった男には、ひとり者のこちらと同等に遊ぶだけの暇も金もありはしない。

 再会したのはジャパンカップだった。プティットイルの出走した年だ。東京競馬場のオッズ版の真下にいるしょぼくれた男が、木下であることに気づくのにしばらく時間がかかった。いや木下であることは即座に解ったのだが、時が磨き上げたそのしょぼくれ具合を現実の残酷さと認識し嚥下するのにいささかの時間が必要だった。私はまず自分を見た。学生時代の若々しい木下があのようになっているということは、同じ歳月を重ねているのだから、私もまた久しぶりの友人と再会したなら彼が慄然と立ちつくすほどボロボロになっているのだろうかと。

 木下の変化は、新品の真っ白なタオルが使い古され薄茶色の雑巾になった様を思い出させた。汚い身なりをしていたのではない。妻子持ちの中年らしいごく普通のこざっぱりした格好をしていた。問題はその中身だ。生気がなかった。しなびていた。髪は禿げちょろけ、目はどんよりと曇り、肌はかさかさしていた。体中の栄養を子育てという現実に吸い取られてひからびたようだった。生活臭というのはこんな風にして男からも魅力を失うものなのだろうかと、もう一度私は自分を見る。木下ほど朽ち果ててはいないことを確認してから、私は彼に声を掛けた。彼は私を見ても呆然と立ちつくすということはなかったから、決して身びいきではなく、私は彼ほどしなびていなかった、と思う。

 木下と競馬というのも結びつかなかった。私たちの時代には、まだまだ競馬をやるのは真っ当なことではないという雰囲気があった。そのうえ木下は、当時としては珍しい麻雀すらやらない奴だった。一方、授業に出ることもなく雀荘に入り浸っていた私が、競馬に狂い果ては競馬文章まで書くようになったというのは、木下の方からは至極当然の道行きと思えたようだった。

 初めて競馬をやったのは第一回ジャパンカップの年だと言う。昭和五十六年である。日本代表のモンテプリンスとホウヨウボーイがアメリカのメアジードーツとカナダのフロストキングに歯牙にもかけられず完敗し、私は悔しさに涙したものだった。木下は第一回ジャパンカップの年から競馬を始めたのではない。ジャパンカップという西洋と日本が初めて交わる遊びに関わってみたくて競馬を始めたのだ。外国馬が強いのか弱いのか判らないということから売り上げが伸びなかった第一回ジャパンカップだったが、こういう形で競馬を始めた奴も中にはいたのだと知る。

 初めて惚れた馬はオールアロングだという。第二回ジャパンカップでハーフアイストの2着に入ったフランスの4歳牝馬だ。フランス好きの木下らしい。その後オールアロングは、翌年に凱旋門賞を勝つほど出世した。私はあの年、四時起きで府中の公開調教に出かけた。公開調教はたしか初めてではなかったか。

「ふらんすへ行きたしと思えども、ふらんすはあまりに遠し」
 府中駅前の寿司屋で木下が言った。真面目な顔で言った。ぐい飲みを呷って、もう一度言った。学生時代からあれほどフランスフランスと言いながら、木下はまだフランスに行っていないのだった。まともな奴が言ったなら吹き出してしまうような萩原朔太郎の陳腐な詩が、しょぼくれた木下には不思議に似合っていた。フランス留学を諦めて早婚と子育ての人生を選んだはずなのに、そういう夢というのは、人生に一段落が着くと、またむくむくと起きあがって来るもののようだった。やりたいことだけをやり、やりたくないことはしないという生き方をしてきた当方には想像も付かない。

 ともあれ、そういう木下という友人がいて、そいつが死んだ。それで生前の約束だった彼の愛用の品を、私はセーヌ川に流しに来たのだった。
「茶碗の方がいいんじゃないですかね」
 ふっくらとしたしあわせ太りみたいな木下の奥さんに私は言った。奥さんがやつれていないのを見て、私は思ったよりも木下は立派な亭主だったのだと見直していた。四人の子供はまだ下の二人が学生だった。それでも家族で力を合わせれば、先行きにそれほどの心配はないようだった。
「箸だと流れてしまうけど、茶碗だと沈みますから」
 何を言ってるんだか。死んじまった奴の遺品を外国の川に流すなんて私の趣味じゃない。自分で言っておきながら、茶碗なんて割れやすい物を持たされたらたまったもんじゃないなと思っていた。でも箸ではセーヌを流れていってすぐに海に出てしまう。そうするとあいつはあの世でも「ああ、フランスから離れてしまう」と未練たらしく言うような気がした。
「あの人が、このお箸をお願いしろと言ってましたから」
 夫婦の間でそういう決め事が既にあったようで、新聞紙に包まれた奴の生前愛用していたという桜の皮を張った塗り箸を渡された。

 帰り道、なんだか腹が立ってくる。木下の住まいは、埼玉県郊外のいかにも建て売り住宅という安普請だった。たしか二十代の内に三十年ローンを組んで購入したはずだ。そこにはきちんと生きてきた男の家庭というものがあった。家族がいた。木下の生きてきた証があった。
 私の見かけは木下ほどしょぼくれてはいない。馬券だって木下みたいに百円単位じゃない。奴が本線が七百円で押さえに三百円なんてやってる横で万単位で買っていた。木下みたいに酒代に事欠いてもいなかった。寿司屋に入るのにためらったりしなかった。だけど、ほんとにビンボ臭かったのは私の方なんだなと気づかされていた。確たるものなど何もなく、博奕と酒に明け暮れているこちらが本物の貧相なんだなと思い知らされていた。谷川俊太郎の『死んだ男の残したものは』という詩が浮かんだ。木下は死んであれだけのものを残したけど、オレは今死んだら何も残らない。そんなオレが何で奴の箸をフランスまで流しに行かねばならないのだ。なんだか預かってきた箸を二つに折って捨てたくなるほど腹が立ってくる。その時、私なりの「死んだ男の残したものは」という競馬小説の筋書きが出来たのだった。たっぷり書いてやるよ木下。オレがおまえより目立つにはそれしか方法がない。


●南佛での日々
 木下の箸をセーヌ川に流し、南佛で二週間ほど過ごした。パリさえ離れれば、フランスは食い物は美味いし、人は親切だし過ごしやすい国だ。



 この「フランス人は親切」ということに関しては異論があるに違いない。ひどい目に遭った人を何人か知っている。彼らは口を揃えてフランス人の性格の悪さを指摘する。私はまだそんな経験をしたことがない。親切にされたいい思い出ばかりだ。といっても私がフランスに滞在した日数というのは合計しても二ヶ月ぐらいでしかないからあまり威張れたものではない。でも厭な目に遭う人と滞在日数というのが関係ないのも確かである。そういう人というのは、初めて行ったほんの一週間ほどの間に、スリには遭うわ、置き引きはされるわ、部屋に泥棒に入られるわ、路上で詐欺に遭うわ、馬券を買えば金額をだまされるわ、クレジットカードは落とすわと、短期間の内にあらゆる事を経験しているのである。注意力散漫や粗忽等いくつかの原因はあるにせよ、それとはまた違った異国との相性というのもあるように思う。よその国が好きになるか嫌いになるかなんてのはほんとにもう単純なことで、初心者の時に親切にしてもらったかひどい目に遭わされたか、ただそれだけでしかない。理路整然と、一切の妥協なく、異国を悪し様に批判している人にその理由を問えば、実に単純な原体験が浮かんできたりする。

 予算の都合で一万円以下の所しか泊まれなかったが、同じ値段でも南佛の快適さはパリとは段違いだった。
 ノートパソコンで「死んだ男の残したものは」を書き、『AI将棋2』で遊ぶ。パソコン将棋と付き合って十数年、現在最強の将棋ソフトであるこの『AI将棋2』のレヴェル7というのに、今年の春、初めて負けた。酔っぱらっていたしその後二度と負けてはいないのだが、それでもコンピュータに将棋で負けたというのは私にとって一大事だった。チェスだと世界チャンピオンとスーパーコンピュータで引き分け程度。オセロはもうコンピュータに勝てない。唯一将棋は人間の方が強いが、それでも市販のソフトでさえこれだけ強くなってくると、間もなくアマチュアレヴェルでは勝てない時代が来るだろう。既に詰め将棋ではプロもパソコンに敵わない。

 ワールド・バンド・レシーバーで地元のFM放送を聴く。ヨーロッパというのは「なかなか新しいものを受けつけないが、一度受けつけたものはずっと大事にする」という傾向があるように思う。音楽も、例えばアメリカの流行り曲などの大部分ははねつけるのだろうが、その審査基準を通り抜けて入ってきたものは、いきなりスタンダード・ナンバーとして定着しているように思われる。何年か前、ルクセンブルクの公園で『西暦2525年』が流れてきたことがあった。それは私の高校時代にアメリカのナンバーワン・ヒット曲だったのだが、それ以後日本では滅多に耳にすることのない一過性の曲でもあったから、いきなり時代がレイドバックしてしまい、硬直して聞き惚れたものだった。フランスのラジオも、朝から晩までエルトン・ジョン、ビリー・ジョエル、ポール・サイモンと、今の日本なら懐メロ特集でなければ聴けないような曲ばかり流している。バイリンガル・ギャルとかいう気持ちの悪いしゃべり方をする女達が登場してから日本のFM放送を聴かなくなってしまったが、ヨーロッパではラジオばかり聴いていた。




 日がな一日、表のカフェに座って、道行く人と街を眺めていた。旅先で私は何もしない。どこへも出かけない。ただそこにいるだけで感じられものがあるはずというのが信条で、これはまあただの出不精の言いわけのような気がしないでもないが、さすがに私ほどどこへも出かけない旅行者は珍しいらしく、ホテルのおやじに名所旧跡に出かけるよう勧められてしまった。

 ピーター・メイルの『南佛プロヴァンスの12ヶ月』でブームになったせいか、アルルのカフェでぼーっとしていると、日本語をかまびすしく話すおばさん達に何度か出会った。「日本人ですか?」と話しかけられ、道を訊かれる。ここでぼーっとしている日本人の私が地元の名店を知っているはずもあるまいと思うのだが、どういうことなのだろう。定住者に見えたのか。
 何故か私はよく道を訊かれる。パリでも「英語を話せますか?」と外人から問われ、道を訊かれたのは、今回だけでも優に十回を越えている。たぶんイギリス人なのであろう彼らが、いかにも東洋人である私にそうして問うのだから、きっとフランス人に英語で道を訊いて冷たくされた経験があるのだろう。「フランス人は英語を話せるが話せないふりをする」には、第三者(英佛人以外)には解らない奥行きがあるような気がする。

 話しかけてきた日本のおばちゃん達は、「わたし達ね、貧乏くさい旅行が大嫌いなんですよ。せっかくねえ、何年に一度しか来れない外国なんだし、三日ぐらいしかいられないんだからケチケチしてもしょうがないと思ってね、もう最高級のホテルに泊まって最高級のワインばかり飲んでるんです」と、ぐはぐはと笑いながら自慢した。こういうおばちゃん同士の旅行者に出会うと、いつも思うのは「亭主は今頃何をしているのだろう」ということである。喉元まで「そういうのを貧乏くさいって言うんじゃないですか」と出かかったが、なにもここまで来て嫌われ者になる必要もあるまいと、意味もなく笑ってごまかす。思えば大人になったものだ。
 きょうの夜、パリに向かおう。いよいよ明後日は凱旋門賞だ。(後篇に続く)



《註の解説》

※1 う〜む、そうそう、この頃はタイの銀行の年利は10%以上あったのである。私の知り合いにも、300万円タイの銀行に預け、一年で30万円利子をつけて、それを年に何回か訪れるタイへの資金にするという人が何人かいた。この後、バーツ下落になり、のびる一方だったタイ経済は暗転する。

※2 この時は未体験でまだ想像もつかないなんて言っていた。後に雲南の妻の実家で、見事に実践することになる。ただ私の場合は、そういうところが好きで出かけたのではなく、好きな女の家が、そういう環境だったということだが。

※3 『サクラ』のシーちゃんのお姉さん、チャーさんのこと。後にダイナースクラプ会員誌『SIGNATURE』に、「フランスへ嫁いだタイの花嫁」という紀行文を書いた。

※4 『サクラ』のことです。

※5 競馬雑誌に関係ない旅行記を書いているという罪の意識からか、一所懸命に無理矢理競馬の話題につなげて罪滅ぼししようとしているところが涙ぐましい(笑)。

※6 当時中国へ行ったのは三回ほどでしかなかったが、これほど大嫌いだった国に、翌年惚れた女が出来て年に何度も通い詰めることになるとは、このときは夢にも思っていなかった。






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