■タイのホテル事情のすばらしさ


 見知らぬ国や町に行ったとき、ぼくはなるべく良いホテルに泊まる。安心を買うのだ。それから慣れるに従ってランクを落として行く。そうして行くと、自分の好み、財布の中身に似合ったホテルのランクが決まってくる。

 タイならばそれが千バーツ前後となるわけだけれど、ホテル事情に関して、タイの素晴らしさは世界中でも別格のように思う。ぼくはそれなりの年輩でもあり、旅先にも文章を書くという仕事を持ち込んでいるから、ある程度の条件を求め千バーツ前後となるのだが、極端な話、チェンマイなら100バーツのゲストハウスでだって快適に過ごせる。

 でもやはりタイは特殊な例だろう。ぼくがぎりぎり満足できるホテルのランクは、パリだと八千円、ロンドンや香港だと一万円になってしまう。香港のホテルなんて一万円クラスでもかなり貧乏くさい(最近はすこし安くなったらしいが)。それがタイだとたった三千円程度で快適なホテルに泊まれるのだ。なにも無理してより安いところに泊まる必要はない。パリで、八千円を払い、シャワーしかなく、ベッドがへこんだ、三畳一間みたいなせまっくるしいホテルで惨めな気分になることを考えたら、タイのホテル事情は天国としか言いようがない。


昆明飯店


 中国の場合も、まずは最高のところに泊まる。
 そこからランクを落として行く。
 やがて値段的にも環境的にも、「この辺がいちばんいいな」というランクまで来る。そこで間違いない。経験からもう解っている。
 でも敢えてもっと落としてみる。そして「ここがもう限度だ」というところまで来る。それを確認してから、「いちばんいいな」と思ったところにもどる。そうして定宿が決まって行く。

 昆明だと100ドル以上する昆明飯店から始まり、60元の旅社まで落ち、「いちばんいいな」と思ったところにもどった。それが200元程度のホテルになる。このクラスだと、清潔なベッド、エアコン、バスタブ、テレビ、室内電話、読書灯などが確保できる。(エアコンはまず必要ないが)。



■鍵係という奇妙な風習


 単に泊まるということだけなら、もっとランクを落とすことも可能だが(無理して落とす必要はないのだけれど)、中国のホテルに関して、こだわらねばならない点がひとつある。それは「鍵をくれるか否か」だ。

 中国の安い旅社では、人間があまっているからか、各階に鍵係がいる。その階の部屋鍵をすべて管理しているのである
。外出からもどると、部屋番号をこの鍵係に告げ、鍵の束をじゃらじゃらいわせた彼女(この係には若い女性が多い)にドアを開けてもらう。面倒である。でも面倒なのはまだいい。我慢できる。

 問題は、この鍵係がよくいなくなることなのである。これはタチが悪い。
 エレベーターのない五階の部屋だったりする。外出からもどって五階まで上がる。すると鍵係がいない。自分の部屋に入れない。一階までまた歩いて降り、受けつけにそのことを告げる。係のおばちゃんがあっちこっちに怒鳴ったりする。また五階まで昇り、しばらく待つ。どこで遊んでいたのか、ふてくされた顔の鍵係(若い女性が多い)が現れて、無愛想にドアを開ける。もちろんこんな時、すみませんなんて言葉は中国人は死んでも言わない。

 足腰を鍛えるのにはいいが、この煩わしさは不愉快である。いやほんと、運動不足のぼくは、いい鍛錬になるだろうと、五階の部屋を狭い階段で昇降することには苦痛を感じない。積極的に運動するなんて気は毛頭ないから、生活の中で足腰が鍛えられるなら一石二鳥とうれしいぐらいだ。
 だが自分の部屋に入りたい時、鍵が無くて入れないことが続くとストレスが溜まるのである。
 100元以下の部屋にはこのシステムが多い。ということで、個人で鍵を持つことが出来て、それなりの設備があるとなると140元ぐらい以上になってくる。


■茶花賓館のこと


 三年前、ぼくは昆明の「茶花賓館」というホテルを知った。
 一泊一万円以上の高級ホテルから泊まり始め、千円以下のところまで落ち、二、三千円前後の宿が自分向きであると確認していた。それでも当たり外れはある。220元で鍵のないホテルもあった。立地条件も建物もよかったが、バスの発着場の近くで眠れないほどうるさいところもあった。

 あれこれと失敗を重ねた末、偶然このホテルに泊まった。まあまあ満足できる220元の部屋から、別館の快適な120元の部屋にたどり着いた時、ぼくは苦労の果てに最適のホテルを見つけたという満足を感じていた。
 ぼくの泊まった部屋の隣にラオス領事館があったことも(ホテル内の一部を領事館として使用しビザなどの発行業務をしていた)、誰も知らない意外な発見をしたようで嬉しかった。




 帰国したある日、『地球の歩き方』を読んでいたら、茶花賓館は日本人に最も人気のある中級ホテルで、ラオスビザもここで取りましょうと案内してあった。常識だったらしい。有名観光地を秘境と思った類のお間抜けさんである。

 でも負け惜しみではなく、失敗を重ねた末に、ここにたどり着き、ついに最適のところを見つけたと感じたあの想いは、最初から『地球の歩き方』片手にここにやってきた人には、決して解らない喜びだと思っている。それは攻略本なしにゲームをクリアした快感に似ている。






 ミャンマーとの国境に近い田舎町にいた。雲南省は省都の昆明が〃春城〃と呼ばれているように、一年中春のような季節とされている。でも朝晩の冷え込みはけっこうきつい。そういう中で、最南部にある西双版納だけは特別だ。明らかに陽射しが南国なのだ。ミャンマーに近いそこは、十月下旬だというのにギラギラした真夏の陽射しに溢れていた。単に暑いのではない。雲も光も風も、輝きが夏なのである。




 送金の連絡は上手く行き、お金はもう日本を出発していた。まだ着いてはいない。確実に手にするまでは節約生活をしようと、ぼくは今までの経験で一番安い旅社にいた。50元(650円)である。

 部屋はツインベッドで、お湯のシャワーが出た。テレビが置いてあり、マット式の電気蚊取りがあった。十分である。ただトイレが簡易式水洗とでもいうのか、水洗トイレではあるのだが、単に水で押し流して階下の便漕に集めているだけなのだろう、不快な臭いがするのである。目が悪い分、鼻の利くぼくはそのことに往生していた。ドブ川のような臭いが始終トイレから流れてくるのだ。

 送金が手元に届くまで贅沢はしないといっても、ぼくは日本円を両替して五千元ほど持っていたから、なにも小銭の節約の必要はなかった。このドブ臭さにはほとほと閉口し、明日からいつものランクのホテルにもどろうと思っていた。そんな夜のことである。


 午後十時半。ドアが激しく叩かれた。こんな見知らぬ国境の町で、そんなことをされる覚えはない。何事だろう。
 こういう場合、部屋に売春婦でも連れ込んでいたなら、「やられた!」と思わねばならない。ホテルと公安の連係プレーである。連れ込みを見逃しておいて通報し、報奨金、あるいは裏金をもらう方法だ。かなりの罰金となる。知り合いに日本円にして30万円ほどを取られた人がいる。もちろん部屋に女性を入れないぼくには無関係だが……。
 いったいこんな時間に何事だろう。

 ドアの前に行き、「シェイ!?(だれ?)」と誰何する。
 すると「すいませ〜ん、日本人のかたですかあ〜」という間延びした声が聞こえた。

 鍵を開ける。(ああ、めんどくさい。いい迷惑だ)という、ふてくされた顔をした受けつけのおばさんがいて、その隣に、見るからにバックパッカーという出で立ちの青年が、ほっとした顔で佇んでいた。
「あ、日本人の方ですか、すみません、いま宿を探しているんですけど、なかなかいいところがなくて、それで下で訊いていたら、日本人がいるっていうもんですから」

 半ズボンにサンダル履き、短髪。頬から顎、顔全体に無精ひげを伸ばしている。背中にバッグをしょい、右手にはしっかりと『地球の歩き方』を持っていた。年齢は二十代半ばぐらいか。人の良さそうな顔をしている。ぼくが彼と口を利く気になったのは、その顔立ちが大きい。

「ここ50元だっていうから、もっと安いところはないかってさっきから訊いてるんですけど、なんか通じなくって。情報ノートによると(といって『地球の歩き方』の間から小さなノートを取り出す)、この町には10元(130円)の旅社があるはずなんです」

 どうやら受けつけで何事かをしつこく尋ねてくる言葉の通じない日本人を、煩わしくなったおばさんがぼくのところに連れてきたようだった。

「お金、ないの?」とぼくは訊いた。せっかくこんな辺境の地で出会った同胞だ。それぐらいの援助はしてやるつもりだった。カードを落としたぼくにとって、それは他人事じゃない。
「いえ、お金はあるんですけど、一日でも長く旅したいものですから、出来るだけ安いところに泊まろうと思って」
「10元の旅社ってありますか?」とぼくはおばさんに訊いた。
「この先にあるけど、外国人は泊めないと思うよ」と彼女は応えた。

 そういえばここは50元の安宿だが、外国人宿泊許可証だかなんだか、そんな証書が受けつけのところに飾ってあった。
 10元のところはこの先にあるけれど日本人が泊まれるかどうかは解らないらしいと彼に伝える。解りました、ありがとうございます、とりあえず行ってみますと彼は応えた。

 おばさんにトイプーチー(すみません)、シェーシェー(ありがとう)をやたらと連発しつつ去って行く。いかにも日本人らしい言葉遣いだ。おばさんは無表情である。

 その時ぼくは、日本の友人達に絵はがきを書いていた。
 名古屋の和也に「がんばれよ」と書く。洪水被害に遭い、いまごろ店の立ち直りに苦労しているはずだ。彼と和也は同じ年頃だろう。絵はがきに「負けるなよ」と書く。
 百円を惜しんで異国を旅するより日本で学べることがある。




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