というわけで「本文」からの引用を終り、ここからまた書き下ろしである。
ぼくはクレジットカードを持って日が浅い。まだ十数年でしかない。
元々がフリーランスの物書きなんて信用販売のクレジットカードとは最も縁遠いところにいる。さらにはぼくは何事にも歯止めが利かない方なので、カードを持たせたら最もアブナイ人間に属する。それまで持たずに来たし、欲しいと思ったこともなかった。
なのになぜ持ったかというと自動車免許に関係がある。酒飲みのぼくは免許を拒んできた。これは我ながら正しい選択だった。もしも若いときに取っていたなら、きっとぼくは飲酒による事故を起こしていただろう。自分が死ぬのはいいが他人様をあやめたくはない。学生のとき、親が金を出してやるから取りなさいと言うのに、ぼくは自分から拒んだのだ。十代のときにやったバイク事故で自分の性格も解っていた。
しかし競馬の仕事を始めてから、牧場地帯の取材のためにどうしてもクルマが必要と感じ、三十代になってから普通免許を取得する。この頃はもう粋がって大酒を飲むようなことは卒業していたから、いい時機だったろう。
スコットランドに旅行した。線路の切れた先、荒涼とした彼の地をどうしてもクルマで走ってみたくなった。
インバネスのレンタカーオフィスに行く。
そこで、外国においてはクレジットカードというものがないとクルマは借りられないのだと知る。印税が入っての旅行だったから金はたっぷりと持っていた。ぼくはクルマが一台買えるのではないかというぐらいの補償金を積んでやっとボロいFIATを借りることが出来た。
二週間ほどのドライヴ旅行は、それはそれは楽しかった。これ以後、外国でのレンタカードライヴはぼくの趣味のひとつになる。
同時にその時の彼らの、カードのない人間に対する冷たい仕打ちには傷つくものがあった。そばかすだらけのスコティッシュのおばちゃんに、カードもないのにクルマを借りに来るとは困った人だと苦笑されたことがいつまでも心に残っていた。
帰国してすぐにカードを作る。凝り性だからあれもこれもと作る。たちまちの内に十数枚のカードを保有していた。
そうしていつしかぼくの旅行は、溜まった金で行く餘裕のものではなく、外国に行ってクレジットカードでキャッシングして遊びほうけ、帰ってきてからその精算に追われるという本末転倒のパターンになって行ったのである。
昨年九月、旅行から帰った後、病気知らずのぼくには珍しく一ヶ月も寝込んだ。
チェンマイ日記1999夏-チェンライに走る!
その時に、もうこんな愚かな繰り返しは止めようと、ぼくは諸悪の根元であるクレジットカードを、仕事の付き合いがあるダイナースカード一枚を残して、すべて破棄した。
今思うと悔いもある。東南アジアのことを考えれば、せめてVISAとMASTERを一枚ずつ残すべきだった。いくらなんでもDINERS一枚だけでは不便だ。でもそういう極端から極端に走るのがぼくの性格であり、そういうことをしたくなるような体調にあった。
もう海外旅行なんてやめよう。地に足を着け、いい作品を書こう。十分に吸い込んだ。これからは吐き出す番だ。そう思った。
とはいえ彼女との関係から中国だけはまだ行かざるを得ない。タイでは不便なダイナースだが、中国ではステイタスがあることもこのカードを残した理由になる。VISAやMASTERだとあれこれと訊かれたりして煩わしい中国銀行での一万元キャッシングが、ダイナースだとすんなり出来るのだ。
海外旅行はもう極力しない。カードはダイナース一枚、それでいいはずだった。
そうして起きた事件だったのである。
落とすということに関しては、今年の春から漠然とした予感があった。
海外旅行に出るとき、ぼくはいつも使っている大振りの財布から餘分なものを外す。予備の仕事用名刺やカードで買い物をしたときの領収書、レンタルヴィデオの会員カードなどだ。それらを抜く。すると財布が痩せる。すっきりと薄くなる。
昨年までは十枚のカードが入りパンパンに張っていたカード入れの部分も、今年からはたった一枚が寂しげに入っているだけである。代わりに入っていたレンタルヴィデオ屋のカードなどを抜くと財布はスカスカになった。それを見ながら、ぼくはぼんやりと「落とす恐怖」を感じていた。カードが抜け落ちてしまうことを。その悪い予感が当たったことになる。
今ぼくは思っている。これで良かったのだと。人は慢心する。ぼくにもそれが出ていた。もうずっと旅先で失敗をしていない。失敗する人を軽んじ、自分はそういうミスをしない人間だという驕りが出つつあった。いい自戒の機会となった。これからまた謙虚な初心にもどろう。
今回の失敗で、今後何年かは緊張感が持続するはずである。なにかあるたびに、こまめに一枚しかないカードの存在を確認するだろう。先々のために、たまにはこんな失敗をした方がいいのだ。本音でそう思う。
イープン日記-「旅の準備-02冬」