チェンマイ日記2k秋







 午前九時過ぎ。タクシーに乗って中国大使館に向かう。運転手にエンバシーという英語が通じず一瞬焦ったが、幸運にもサターントゥート(大使館)というタイ語を思い出し、なんとか事なきを得る。タイ語の勉強を止めてからタイ語関連の本を持ってきていない。せめて辞書の一冊ぐらいは持参すべきと反省した。

 今回の中国行は少しばかり変ったことをしようとしている。いつもは大荷物を持ってチェンマイに行き、アパートを借りそこをベースキャンプとして行動を始める。領事館で査証を取り、P&Pトラベルで昆明までのチケットを買う。必要なものだけを持ち軽装で飛ぶ。そうして昆明から飛行機やバスで、地方へ移動するという方法だった。
 それがラフー今永さんの掲示板で「今年四月から雲南航空がバンコク・ジンフォン間に就航した。週2便」と知ったのである。これは朗報だった。

 中国雲南省というのは日本とほぼ同じ大きさになる。省都の昆明(クンミン)と南の西双版納(シーサンパンナー)の中心地である景洪(ジンフォン)は、東京と青森ぐらいの距離、800キロ弱だ。飛行機だと一時間程度、寝台バスだと32時間以上かかる。この極端な時間差が雲南がいかに山国であるかを示している。バンコク、チェンマイ間もそれぐらいの距離だが、平地であるタイではバスは十時間で走る。それほど雲南は山国である。

 そうして着いた景洪から、彼女の家に一番近い町までまたバスで十時間かかり、そこから耕耘機(笑)に乗せてもらい、さらに二時間と、書いているだけで疲れてきたので先を急ぐ。
 日本的に喩えるなら、外国から日本という国の青森に行くとして、今までは東京行きしかなかったのに、青森直行便が出来たようなものである。昆明からの移動が毎度難行だった。それが一気に景洪まで行けるのだ。便利になった。
 早速利用することにする。本当に飛んでいるのか心配だったので、出発前にラフーさんにメイルを書き、今でも就航しているでしょうかと尋ねてみた。ラフーさんの返事は「たぶんだいじょうだと思いますよ」という若干不安なものだったが(笑)、ダメならダメでいつものようチェンマイから行けばいいやと、私は「バンコクで査証取得して景洪へ」をやってみることにしたのである。


 中国大使館に着く。気が合って楽しくおしゃべりしつつ来たタクシーに待っていてくれと言う。申請書に記入して提出するだけだ。5分もかかるまい。その時メーターは45バーツ。手持ちの80バーツほどを保証として渡す。この時タクシーが停まったのは正面玄関であり、領事部はずっと迂回した場所にあった。ぐるりと一回り歩き、そこで呆気にとられる。

 門の外まで人が溢れているのだ。長蛇の列である。何事かと思った。この列の後に付かねばならないのか。状況を確かめねばと館内に入る。それでやっと解った。この列は受領者の列だった。ぼくはきょう申請であるからこの列とは関係がない。
 それでも申請者の方も、日本の銀行のように、番号札を持って順番を待つ方式であり、ぼくの前に十数人がいた。
 中国の査証取得に関して、ぼくはチェンマイ領事館での経験しかない。待つこともなくすぐに取れる。無愛想な中国人があちらから話しかけてくるほど閑散としている。バンコクもそんなものだと思っていた。自分の発想違いに気づく。今回初めてバンコクで申請するから珍しいことをする気持ちになっていた。そうではない。これが正道で、普通の人ならあるかどうかすら知らないチェンマイの中国領事館で申請するという今までの方法こそが穴場だったのだ。




↑中国大使館

 料金は査証代が1100バーツ。これだと四日かかるようだ。本日の午後3時取得でプラス1100バーツ、明日受け取りでプラス800バーツである。きょうは木曜日。たしか景洪へのフライトは、水曜と土曜だった。金曜発はない。だったら明日受け取りでいいかと、そう申請する。支払いは取得時だ。
 何十分かかったろう、もうタクシーはいまいと思いつつもどってみると、律儀にもまだ待っていた。45バーツのメーターは87バーツを示している。保証として渡してあったのは80バーツである。もしもこのままさらに遅れ、メーターが200バーツぐらいになっても彼は待っていただろうか。そんなことを考える。
 次はチケットだ。ぼくはマレーシアホテルに行ってくれと彼に言った。



↑カオサンロード


 運転手はぼくにどのような用でマレーシアホテルに行くのかと問う。ぼくはいつもチケットを手配してもらう旅行会社がそこにあり、中国行きのチケットを買うのだと告げた。
 彼は首を傾げる。マレーシアホテル近辺にそんな店はあったろうかと。カオサンの間違いではないかと。
 それから今度はかってに理論展開して、マレーシアホテル近辺には旅行会社は一軒しかないが、カオサンにはたくさんある、だからぜひともカオサンに行くべきだと言いだした。実際はマレーシアホテル近辺にはいくつもの旅行会社があり、中には日本語の通じる有名な店もあるのだが、ぼくはなぜかカオサンに行ってみたくなっていた。彼の提案に従ってじゃあカオサンにしようと行き先を変更する。


 カオサンに行くのは久しぶりだ。八年ぶりか。
 十年前、遅ればせながらのタイ中毒者となる時、あれこれと事前勉強し、貧乏旅行者達が集うバンコクの安宿街として、マレーシアホテル近辺、チャイナタウン(ヤワラー)、カオサンロードを知る。
 老舗はアメリカのベトナム帰還兵やヒッピーとも繋がるマレーシアホテル近辺だ。三つの場所をそれぞれ泊まり歩き、ぼくはヤワラーの住人となった。一方カオサンは最も毛嫌いする場所となった。カオサンは英語の街だ。アジアの国で英語を使うことに、ぼくは本能的な反感を抱いていた。どんなに下手でもその国に行ったら、その国の言葉で話したい、話すべきだと思っていた。

 ヤワラーに落ち着いてから、ジュライの連中がクスリを仕込むのに帯同して何度かカオサンに行った。いやな場所だった。タイで英語を話す白人や日本人も嫌いだったが、それ以上に、こちらが下手なタイ語で話しかけても英語で応える、白人かぶれしたタイ人がいちばんイヤだった。下手ではあってもぼくのタイ語は通じている。なぜなら向こうの応える英語とぼくのタイ語の質問が噛み合っているからだ。なぜタイ語で話しかけてくる日本人に英語で応えるのか、それが理解できなかった。

 もっとも白人かぶれしている彼女らにしてみれば、下手なタイ語を使う日本人など気持ち悪いだけだったのだろう。そうして、行く前から想像で嫌いだったカオサンは、実際に行ってみてよけいに嫌いになったのだった。
 そんな場所に今回行こうと思ったのは、時の流れとしか言いようがない。ジュライホテルが閉鎖しヤワラーは終った。きょう本人のバックパッカーが集うのはカオサン一点らしい。その風景を見てみたかった。以前なら眉を顰め腹立った風景も、今は餘裕でやり過ごせるだけの自信もあった。


 八年ぶりのカオサンに着く。きっとそれなりに変っているのだろう。いや、変ってないのかも知れない。元々興味のない場所だっただけに、変化を指摘できるだけの知識がぼくにはない。

 目に付いた旅行会社に飛び込み、チケットの有無を確かめる。立て続けに三軒ほど、そんなものはないと言われ、すこし焦る。まず景洪=JINGHONGがコンピュータから出てこない。マイナーな雲南航空のチケットも扱っていないところが多かった。そういう便はないが、バンコクから昆明まで行き、そこから景洪への便を手配できるというところがあった。それでは意味がない。だったらチェンマイから昆明へ行くのと同じだ。

 そうして四件目の店で、やっと巡り会った。あるところにはあるわけで、簡単に話は進み、5800バーツで曼谷・景洪、雲南航空のチケットを購入した。安い。チェンマイから昆明がやはりそれぐらいの値段だった。そしていつも何故か満席のことが多く、ぼくは8000バーツほどのビジネス席で行かざるを得なかった。とはいえこういう近場の路線ぐらいしか自力では快適なビジネス席を購入できないぼくは、喜んで買っていたような節もある。

 水曜日にバンコクに着き、木曜日に査証申請、チケット購入、金曜日に査証とチケットの受け取り、土曜日に中国へ出発である。旅行嫌いで手際の悪いぼくとしては、これは最上の結果だろう。この路線を教えてくれたラフーさんに感謝する。うまくチケットが買えたこともあって、ぼくはカオサンの便利さを見直す気分になっていた。すべて順調である。

 インターネットカフェがあったので入ってみる。
 そこでぼくは思わず蒼ざめるような体験をすることになる。

line

gifgif
inserted by FC2 system