四年前。それは、パリの凱旋門賞に、タイ経由で行くというヒロさんとの二人旅だった。行きにまずタイに一週間、そこからパリに二週間、帰りにまたタイに一週間という予定である。目的はパリにおける仕事だったが、気分のメインは前後のタイである。
さらに遡ること二年前、最初にこの「タイ経由ヨーロッパ行き」という方法を教えてくれたのが、F1のおっかけで頻繁にヨーロッパに行っていたヒロさんだった。
F1ブームだったその頃、ヨーロッパで撮ったマシンやレーサーの生写真を鈴鹿で売ると、三日間で百万円もの純益になったという。一枚500円だというからすさまじい売れ行きだ。だからヒロさんは単なるおっかけではない。趣味と実益を兼ねていたのだ。
当時一番安いヨーロッパ直行便が12万円ぐらいだった。ぼくはヨーロッパで仕事を済ませ、帰国してから改めてまたタイに遊びに行くつもりでいた。当然新たにチケットを購入せねばならない。
それが日本からタイ経由ヨーロッパ行きというのがあり、チケット代が10.5万円という安さで、しかも航空会社は大好きなタイ航空なのである。チケット代は出版社が出してくれる。こちらは仕事の前後に出版社持ちの航空券でタイを楽しめるのである。
ちとせこいが、ヨーロッパでの取材費を節約すれば残金をタイで使うことも可能だ。たとえば一日ホテル代等も含め2万円で収めなさいとなっている場合、節約して1万円で収めれば差額はこちらの小遣いになるのである。すべてが丸く収まった。こんなおいしいことがあっていいのだろうかと、含み笑いが止まらないほどだった。
もっともそれは獲らぬ狸の皮算用で、物価の高いパリでは節約など無理だったし、元々が浪費家の上、馬券という悪魔が待ちかまえていたので、取材費の節約どころか有り金全部すってんてんになり、ほうほうのていで逃げ帰るという有様だった。
とはいえもしも以前のままだったらタイになど行けなかったろう。改めて買うチケット代がない。なのにこの方式だと、手元不如意とはいえ無料でタイに寄れるのである。画期的な発見であったことはたしかだ。
それが六年前の出来事。話はまた四年前にもどる。
ぼくは編集長に頼み込み、カメラが趣味のヒロさんを、ぼくの仕事のカメラマンとして起用した。タイ経由ヨーロッパ行きという方法を教えてくれたヒロさんへの御礼のつもりだった。
雑誌が発行された後、それは十万円程度のギャラでしかなかったが、ヒロさんは長年の夢が叶ったと自分の写真の載った雑誌を嬉しそうに見ていたものだった。
その頃ぼくはシャープのMebiusを持ち歩いていた。4キロもあるA4フルノートだからACアダプターやCDソフトなどの付属品を加えるとかなりの重量になる。しかも本革製のがっちりしたバッグに入れていた。
今思うとよくこんなものをと思うが、その頃のぼくは、国内でも海外でもどこに出かけるにも、その最新高額高性能ノートと豪華な特製バッグを持ち歩き、自信満々得意満面だった。まだまだモバイルノートの優れ物がなかった時代だった。本革製の重厚なバッグも、その頃はカッコいいつもりでいた。後に、パラシュート素材で作ったなんていう1グラムでも軽いバッグを好むようになってゆく。
このパリでの取材のように、現地での仕事がある場合、ぼくは連日ホテルでパソコンに向かって仕事をする。原稿を書き上げてしまう。書き上げはするがまだ送稿はしない。熱いまま出すのは良くないと考えている。フランスで書いた熱い原稿を、しばらくの間、寝かせておき、冷静な目になった日本で推敲して仕上げる。それがぼくの流儀だった。その寝かせる時間がタイでの滞在期間になる。つまりタイでのぼくは暇なのだった。
行きのタイで彼女と出会い、本気になったヒロさんは、帰りのタイでもすぐに彼女の店に行きホテルに連れ帰ってきた。この後一緒に向かうチェンマイにも連れて行くのだと張り切っている。
二人が動き出すお昼まで、朝八時には起きてしまうぼくは、するべき仕事もなく手持ちぶさたになる。パソコンで日記を附けたり、将棋や麻雀をやったりしていた。
ぼくの部屋の前にメイバーン(メイド)達の休憩室があった。
毎朝、挨拶を交わす。もう顔なじみだ。二畳ぐらいの板の間。日用品が置いてある。
みんな直に床に坐って話している。タイ式だ。誘われたぼくは、車座の中に加わり彼女たちと話した。休憩中の彼女たちにインスタントコーヒーをご馳走になった。
このホテルは各階のエレヴェイター前に机があり、フロア担当の男性が座っている。このことからここの経営者が中国人であり中華旅社の流れを汲んでいることが解る。まったくもってタイは華僑に牛耳られていると詳しくなるほどに痛感する。
そのフロア係の彼も輪の中に加わってきた。みんなの興味は異国人のぼくにあった。ぼくもまたタイ語を学ぶことに熱心な時期だったから話が弾んだ。
なんであんたは女を連れ帰らないのだと問われる。いやぼくはオカマなんで、本当はしたくても役立たずなのでと、バカな会話を交わして笑いあった。白人、アラブ人、日本人と、必ずと言っていいほど女性を連れ帰るらしく、ぼくは相当に珍しい客であるらしかった。
特に、連れのヒロさんが連日女性と一緒であり、一緒に行動しているのに、ぼくの方にはまったくその気がないことが彼女たちの興味を呼んでいたようだ。
こういう場合、たとえば深夜に何時間か女性が来て、サッと帰ってしまったとしても、ベッドメーキングのプロである彼女たちは敏感に察するらしい。また早朝番から深夜番まで情報は伝わっているらしく、ぼくが一週間も泊まっているのに完璧に女っ気のない客だというのは話題になっていたのだという。
というあたりで、朝の一戦を終えたヒロさんと彼女が登場し、食事に行こうとその場は解散になった。
その日の夕方、ぼくはネスカフェの大瓶と角砂糖を買い彼女たちに差し入れた。珈琲も砂糖も残り少なくなっていたことを確認していた。ご馳走してくれたそれが、安給料の中から小遣いを出し合って買った大切なものであることも知っていた。
それから後、ぼくがプリンスホテルに泊まると、メイバーンやフロア係は親しげにぼくの名を呼んで声を掛けてくるようになっていったのである。
書こうとしていたのは、八年前からの定宿であるプリンスホテルに今回泊まるのが、なぜ二年ぶりかということだった。
四年前、インスタントコーヒーやお菓子を差し入れしたり、食事を奢ったりしてメイバーン達と良好な関係を築いていったのはいいが、度が過ぎるというのは良くないもので、いつしかぼくの中には、あまりに馴れ馴れしい彼彼女らとの仲を疎んじる気持ちが芽生えつつあった。
タイ人が妙に記憶力がいいことは、タイに関する文章でよく見かけることだが、彼女たちの場合も同様で十年以上勤続している彼女たちは、ぼくが初めて泊まった時のことから、昨年は何月と何月に来たということまで記憶していて、その確かすぎる記憶力にぼくはちょっと腰が引けつつあった。
それでも、何カ月ぶりかで着いた異国のホテルで、あちこちから「ユキ、サバイディマイ(元気?)」「ユキ、マームアライ(いつ来たの?)」と名前を呼ばれ声を掛けてもらうのは悪いものではない。
メイバーン達はタイマッサージのおばさんが皆そうであるように、離婚して女手ひとつで子供を育てている人が多かった。焼き肉を奢るなんて言うと子供二人を連れて来たりして、総勢十人以上になってしまい、三千バーツ以上の出費になることもざらだったけれど、それもまたそれで楽しいことだった。
何よりも良かったのは、彼女たちは客と個人的に接することを禁じられているらしく、どんなに親しくなってもぼくの部屋に遊びに来るようなことがなかったことだ。もしもそうなっていたら、一人でいることを尊ぶぼくはこのホテルから逃げ出していたろう。
一緒にみんなで食事に行くときも、だいぶ離れた外のバス停で、隠れるようにしてぼくを待っていた。ホテルの支配人クラスに見つかることを極端に恐れていたようだ。訊いたことはないが、罰則や馘首の厳しい規定があるのだろう。しかしそういう親しい付き合いの中から、ちょっと困った事態が芽生えてきた。
三十代の子供二人がいるぐらいのメイバーン達の照準に、ぼくが再婚相手として捉えられてしまったのである。ぼくの方に責任があったとしたら、それは旅行者特有の無責任さで軽口をたたいていたことだろう。
「男はみんな浮気者で散々苦労した。もう男はけっこう」
「そんなことないよ、世の中には浮気をしない誠実な男だっているんだから」
「わたしなんかきれいじゃないし、子供もいるから男はふりかえらない」
「たいせつなのは心の美しさだよ。外見は関係ない」
「でもタイ人の男は外見で決める」
「日本人の男は違うよ」
とまあこんな一見誠実そうな、それでいて口先だけの会話を、酒を飲みつつ彼女らと交わしていた。ぼくにはそれは一般的世間話だったのだが、誤解を生む要素はあったのかもしれない。自分たちと年の釣り合う、四十代の日本人男で、どうやら獨身らしく、しかも部屋に女を連れ込んだりせず、金払いがよい(=それなりに稼いでいるらしい)ということから、ぼくはなんだかヤバいことになってきたのである。
二年前、いつものようみんなにご馳走した後、解散となり、ぼくはひとりのメイバーンとタクシーに乗った。皆同じように仲良しだったが、中でも彼女が真剣にぼくをターゲットにしていることは知っていた。
彼女達が複数で借りて住んでいるホテル近くのアパートに寄り、彼女を降ろし、ぼくはホテルに帰る予定だった。
しばらくしてタクシーがホテルとは逆方向に走っていることに気づく。やがて着いたのは彼女の実家だった。ペップリー通りと空港の真ん中辺りだろうか。夜も遅かったのに、いきなり両親と子供に挨拶である。
もう遅いから泊まって行けとなる。すこしだけビールをご馳走になった後、ぼくは早朝に日本へFAXを送らなければならない仕事があるからと言って席を辞した。もちろん嘘である。
あのまま泊まっていたら彼女が夜中にのしかかって来たのは間違いない。酔っていたぼくがそれを拒めたかどうかも怪しい。今思えば、同方向に帰るメイバーンもいたのに、彼女とぼくだけになったのは不自然だった。彼女なりに勝負を賭けて、同僚にもそう宣言していた夜だったのだろう。もしも彼女とそうなっていたら、ぼくのタイライフは今とはずいぶんと違う様相を呈していた。ただまことにまことに申し訳ないけれど、ぼくは彼女を恋愛対象として考えたことはただの一度もなかった。
翌日、ぼくは早朝にチェック・アウトした。しばらくはこのホテルに近づかないほうがいい。そう思っていた。二年前の出来事である。
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