チェンマイ日記2k秋





 フロントでエアコン付きの部屋代300バーツを払う。台北は一階の受けつけでパスポートを掲示してチェック・インする普通の形式になっていた。以前は各フロアにいるランニングシャツに半ズボンという中国人ジジイにパスポートを渡し、後でそいつらがパスポートを部屋まで持ってくるというシステムだった。

 ぼくは若い頃から年輩者に憧れ、特に知識の宝庫である年寄りは心から尊敬していた。なのにここで〃ジジイ〃という下品な言葉を使うのは、ぼくなりの精一杯の悪意である。

 思えば中国人嫌いはこの頃から始まっていた。とにかくここの中国人ジジイはひどい。ろくなもんじゃない。そのろくでもなさ加減を書き連ねてもつまらないから省くけれど、そのことで思うのは「世界中どこに行っても中国人は中国人」ということだ。バンコクの中華街にいる中国人がまともだったなら、中国にいる中国人の嫌いな面を政治体制のせいに出来るのだが、自由主義国家にいてもそのイヤな面が同じなのだから、これはもう民族として持っているものと思わざるを得ない。もちろん中国人同士の連帯感、幇助の精神は、華僑の歴史に代表されるように彼ら同士の中には素晴らしいものもたくさんあるのだろう。言いたいのは、ごく普通の日本人であるぼくと、彼らの礼儀、流儀は合わないということだ。


 ここのエレベーターはいつ乗っても怖い。ワイヤーが切れて落ちそうな気分になる。一般にエレベーターの管理は、ワイヤーの寿命が十年は持つと解っていても、敢えて三年と短めに限定し、さらにその半分の一年半で交換するというような二重三重に慎重な制度を採っている。しかしここのエレベーターに乗っていると、十年が寿命のワイヤーをもう三十年ぐらい使っているような気がして不安でならない。ぼくはひとりの時、エレベーターの中でドスンドスンと確かめるようにジャンプしたり、スキー場のリフトでもブランコに乗るように思いっきり揺らしたりすることがあるのだが、ここのエレベーターに乗ったときだけは、身じろぎもせず(ワイヤーが切れませんように)と神妙に祈っている。ほんと、切れそうで怖い。


 八年ぶりに部屋に入ってみて思ったのは、(意外にきれいだなあ)ということだった。クリーム色とライトグリーンに塗り分けられた壁のペンキが真新しいから、それなりの改装もしたようだ。頭の中で固まっていた台北旅社のイメージよりも、それはずっと綺麗で爽やかな部屋だった。ぼくの中ではきっと「バンコクは嫌い→かつていた中華街も最低」のように負のイメージが先行していたのだろう。ベッドも人型に窪んでなどいず、程良い堅さで満足できるものだった。トイレは相変わらず便座がなかったが、ぼくは心の中のスイッチを切り替えさえすれば、どんなものにでも対応できるのでまったく気にならない。


 心配なのは蚊だけだった。対策を用意してこなかったので−−だってまさか台北に泊まることになるなんて考えもしなかったから−−これは重要である。ぼくはあの羽音を聞いただけで眠れなくなる。といって静寂を望んでいるのではない。街の騒音は気にならない。蚊の羽音は特別な音だ。バスルームに行き、上部の金網を確かめる。ここが空いていて廊下から蚊が入ってきたものだった。しっかりと塞がれている。念のため、瞬間湯沸かし器のお湯も確かめてみる。十分に熱い湯が出た。なんか拍子抜けしていた。ぼくのイメージの中では、台北はもっともっと問題点のある旅社のはずだったのだが……。


 シャワーを浴びる。今回の旅の缺点がひとつ出た。バスタオルがないのである。たしか台北では薄地の布のようなものを貸与していた。それがないということはあのジジイが忘れたのだろう。とはいえ今から持ってこさせてもそれを使う気はなかった。心のスイッチさえ切り替えれば、何事にもこだわらず平気で過ごせるが、こういう場所でのすり減って向こうが透けて見えるような旅社のタオルなどは、さすがにあまり使う気になれない。長い間どのように使われてきてそうなった物か熟知しているからだ。


 前述した雲南の安宿でも同じ問題に直面していた。安宿にはタオルがないのである。それでぼくは普通サイズのタオルを購入した。次の日からまともなホテルに移ったので一晩だけの経験だった。バスタオルの有無も、ホテルの下限として重要なテーマになる。

 一瞬、買いに行こうかと思った。台北に何泊するか解らないが、バスタオル購入には値段分の価値があるはずだ。と思い、いやいや違うぞと首を振る。これは原点に返るための戒めの宿泊なのだ。ぼくが子供の頃、バスタオルなんてなかった。なにをのぼせたことを言っているのだ。普通サイズのタオルで体を拭きつつ、ぼくはもう一度自分を戒めた。さてこれからどうしよう。






 以上で「チェンマイ日記2k秋・外伝」は終了である。

 この後ぼくはバンコクで十六日間を過ごすことになる。結局どこへも行かず、どっぷりとバンコクに浸かっていた。しかもヤワラーである。ぼくには八年ぶりの本格的なバンコク滞在だった。そこであったおもしろおかしい、あるいはおろかでかなしい事柄は、またあらためて書くことがあるだろう。いやはやとんでもないことを連続して経験した。今回はずいぶんと波乱に富んだ40日だった。

 ここでの終りを唐突と感じる人がいるかもしれないが、元々が本文とは離れた「外伝」であり、ぼくの方としては予定通りである。むしろ二話ほどオーバーしてしまった。

 この文章を書こうと思ったのは、後藤さんのホームページからぼくの文章が消えたことの経緯を皆さんに報告するためだった。わざわざ姓名を明かして閲覧を申し込んでくれた皆さんには、そうなった理由を報告する義務があると思った。その目的は達成できたように思う。

 それと同時に、物書きとして、久しぶりにバンコクのことを書いてみたい気がしていた。大嫌いなはずのバンコクなのだが、なんかちょっと今、見直している。嬉しい誤算だった。「チェンマイ日記」なのにチェンマイのことがすこししか出てこないが、それも最初からの予定である。




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