チェンマイ日記2k秋





 


 バンコク、ホアランポーン駅に着いた。
 タクシー乗り場に行く。

 今回の旅行はいきなりバンコクから中国に飛んだので、チェンマイのアパートをベースキャンプにするという今までとは違っていた。荷物もいつもの大型スーツケースから必要なものだけを取り出して出かけるというのではなく、最初から肩掛けの二つのバッグのみである。内ひとつはパソコンとプリンター、接続コード類だから、実質的には肩掛けの小さなバッグ一つで40日を乗り切ることになった。着替えなどほとんどないに等しい。

 もしも今回のことを旅行随筆として商業文にするなら、切り口はこの「すくない荷物」になるだろう。いつもは200パーセントの荷物を持って来て、そこから100を選んで行動する者が、今回は最初から70パーセントの荷物しか持たずに旅に出たのである。そこにある、持ってきて良かったと快哉を叫んだもの、忘れて失敗したと悔やんだもの、なんでこんなものを持ってきたのだろうと我ながら不思議に思ったもの、商業文章を書くなら、それが味覚の中心となる。





 タクシー乗り場は混雑していた。メータータクシーの合間にトゥクトゥク(オート三輪タクシー)が何台か混じっている。台北旅社までいくらだと訊いたら60バーツだと言う。まだこんなのがいるんだなと可笑しくなった。乗らないと応える。値切る気にすらならなかった。クーラーの利いたメータータクシーでさえ35バーツの基本料金で行く距離なのに。


 ぼくのバンコク嫌いの原点に、トゥクトゥク嫌いというのがある。旅人気質のない典型的日本人であるぼくには、毎回乗るたびに運賃交渉をするというそのシステムは苦痛でしかなかった。当時はタクシーも同じく料金交渉制だった。

 若くて暇があり、一々料金交渉をするという煩わしいことを、遊びの一つとして楽しめる精神的餘裕のある人には(無駄なことに夢中になれる時代を青春と呼ぶ)、100バーツとふっかけてきたトゥクトゥクを20バーツまで値切ったり、路線番号がめちゃくちゃで複雑怪奇なバンコクのバスを乗りこなしたりすることは、ロールプレイングゲームを解き進むように面白かったことだろう。

 でも既に短気なおじさんであったぼくには、それらは単に不快なことでしかなかった。そういう文化の国であると理解し、溶け込もうという努力はした。ぼくなりにバンコクには嵌っていたのだから。

 とはいえ、ぼくは自分の思想というものが固まっている短気で頑固なおじさんだが、異国文化に対して自分の感覚を押しつけるというほど狭小でもない。そちらの文化にあわせようとする柔軟性はもっている。
 だからヤワラーでも、日本人、タイ人、誰とでも仲良くやっていたし、トゥクトゥクとこまめに交渉したり、顔なじみになった運ちゃんと親しくやっていた。

 そんなぼくを知っている人は、ぼくがそれらを実は大嫌いだったと言ったら意外に思うかもしれない。そこに溶け込むことはできる。楽しくやることも出来る。でも大人の男として、能力でそれをこなし楽しそうに演じて(?)いることと、自然体で心からくつろいでいることは違う。
 チェンマイに行き、バイクで自由自在に歩き回る味を覚えたら、ぼくはもう料金交渉のわずらわしいバンコクにもどる気が失せてしまった。



 ぼくにとってチェンマイ大好きの基本は「バイク」だった。それは他者に関わらずとも、好きな時間に好きなだけ行動できるという〃自由の象徴〃だった。ぼく流に二つの都市の象徴を挙げるなら、バンコク=移動するために他人と料金交渉をしなければならないトゥクトゥク、チェンマイ=いつでもどこでもひとりで自由に走れるバイク、となる。


 大嫌いなバンコクの象徴を、その小狡いトゥクトゥクとするなら、今回すこしばかりバンコクのことを書こうとしたこの原稿の第一回目が「メータータクシー」となったことは至極自然の流れだった。


 メーター料金で走るメータータクシー(あたりまえのことを言っているみたいだけど未だ徹底はしていない。雨が降るとメーターではなく交渉制の割り増し料金になったりする)というものが普及したから、ぼくはバンコクにもどってきた、もどってこられたのである。今もトゥクトゥク全盛だったなら近寄りもしなかったろう。川の水が綺麗になったのでもどってきた魚のようなものである。




 混雑したタクシー乗り場で、やっとぼくの番が来た。
「コー・パイ、ウォングイエン・ジーシップソン・ガラッカダー、ロングレーム・タイペイ」と告げる。何年ぶりに言う言葉だろう。懐かしい響きがした。
 八年ぶりの台北旅社に着く。




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