チェンマイ日記2k秋





 バンコク、ドン・ムアン空港に着いた。
 タクシーをつかまえに行く。いい運ちゃんに当たってくれよと祈る。コツは到着口ではなく、出発口まで行って客を乗せて来た良質そうなタクシーを捕まえることだ。

 日本人の常として、メーターで走った運ちゃんにチップをあげることにはやぶさかでない。だがメーターを使わずボろうとする奴には拒否反応が出る。現在のところ、市内まではメーターで140バーツぐらいか。それに高速料金の70バーツを足して210バーツぐらい。ぼくはいつも300バーツを渡して「マイ・トン・トーン(釣りはいいよ)」と言う。気のいい運ちゃんだと「コップンマークカップ(ありがとうございます)」という礼と笑顔が返ってくる。バンコクでの第一歩がそういうふうにスタートすると気分がいい。

 以前、ハイウェイを使ってもいいよと言ったのに、この時間は空いてますからと一般道路を行き、道もよく知っていたのだろう、ホテルまでたった120バーツで着いてしまったことがあった。ハイウェイ代は客の負担だから、混んでいるときはもちろん空いているときでも、タクシードライバーはハイウェイを行きたがる。これは珍しい例だった。ぼくは彼に礼を言って300バーツを渡した。車内で交わした会話も楽しかったし元々それぐらいの出費は覚悟している。なにしろ空港内にある正規のリムジンタクシーですら600バーツなのである。

 十年前でさえ、このリムジンタクシー(という名のマイクロバス)は350バーツだった。公共のものがボっているというのがいかにもこの国らしい。今現在、メータータクシーに気持ちよく乗れたら300バーツは安いものである。120バーツに300バーツの支払いだったから、彼は一瞬戸惑った顔をした後、いい笑顔で礼を言った。こういうのは楽しい。
 いつもこうは行かない。一度など空港のタクシー乗り場から走り出した後、メーターでは行かない、300でどうだと言われたので、だったら降りるとクルマを停めてもどったこともある。愚かとは思うがこれだけはまだ譲れない。同じ300でも気分が違う。

 バンコクのメータータクシーに関して新鮮な発見をしたことがある。二年ほど前のことだ。中華街のタイスキ屋「テキサス」で食事をしたとき、ウェイトレスの可愛い娘達と話が弾み、もう閉店間際だったので、仕事が終ったら送ってあげるよとなった。彼女たち二人の住処がぼく達の帰る方向の途中であることは確認してあった。

 閉店になる。店の前で待ち合わせて出発する。その時の運賃が63バーツとかそんなものだった。四人で乗ったから助手席までいっぱいである。ぼくは100バーツを払おうと思っていた。すると彼女はぼくの持っていた小銭から60バーツを運転手に払い、それでよしとしたのである。運転手も文句は言わない。たった3バーツのことではあるがそれはぼくにとって驚きだった。

 日本で、1920円の料金に2000円払うことはあっても、2070円を2000円でいいだろうとはならない。これはタイのゆるやかな文化のひとつであろう。運転手も70バーツ受け取ってお釣りの7バーツを探すなら、どうせどこかでまた釣りを取らない客もいるだろうから、どうでもいいやという感覚なのだ。

 ぼくはそれまで、63バーツだったなら小銭があれば80を、なければ100を払ってきた。それは運転手個人へのチップのつもりだったが、この経験をしてから、ぼくのあげた端数は、他の客が端数をはしょるときに役立っているのだと思え、見知らぬ人との連帯感(笑)を覚えるようになった。

 金のある奴は半端な額に上乗せして払う。ない奴は半端な額を切り捨てて払う。95バーツの人が100バーツで釣りを取らない。その分、105バーツの人が100バーツで済ませる。これはタイ的な合理主義だと思う。ぼくも今度お金がないとき、すこしばかりの勇気を出して、63バーツを60でいいだろうというのをやってみたい。

 そのテキサスの娘達は自分たちが降りるとき、ぼくらも下車させ、彼女たちのアパートに招待してくれた。その後、近くの市場で一緒に食事をした。彼女たちとの思い出話はまた別の機会にしよう。

 ペップリータットマイ(新ペップリー通り)のプリンスホテルに泊まるのは、その時以来になる。






 このホテルを教えてくれたのは神谷さん(チェンマイのカラオケ「オリビア」、焼肉「北門」の経営者)だった。『サクラ』で食事をしていたとき。八年前のことになる。バンコクの中華街を卒業したぼくが、どこかいいところはないかと訊いて教えてもらった。

  中華街の価値というのは、ぼくにとってイコール鉄道駅となる。このころ読んだ旅行本で鉄道好きを「テッちゃん」と呼ぶ差別用語(笑)があることを知る。ぼくにはいささかテッちゃんの傾向があるようだ。それでもあの出来のよくないタイ国鉄の車輌に、一等寝台から三等椅子席まで何度も乗れば飽きて来る。バンコクに着いて即チェンマイに飛ぶようになると中華街のホテルにこだわる必要もなくなってきた。ホワイトオーキッドホテル(白蘭大酒店)なんて気に入っていたのだが。

 600バーツと値段も安く(一見の客は660だったか)、空港にも近く、航空券などを買いに行くのにもそれなりに便利な場所にあるプリンスホテルは、以後バンコクでの定宿となった。そこそこに便利であり、(当時は)日本人がほとんどいないことも気に入っていた。

 日本人が嫌いなわけではない。中華街では親しくなった日本人といつも連んで遊んでいた。中華街を卒業したとはすなわち、すこしばかりタイのことが解ってきて、一人歩きがしたくなったということなのである。

 プリンスホテルは、ジェームス・コバーンを柄を悪くしたような白人やインドカレーのCMに出ていたようなターバンを巻いた連中が出入りしていたりして、お世辞にも上品なホテルとは言い難かったが、一人歩きを始めたぼくは、そんな品の悪ささえも気に入っていた。なによりも所詮バンコクなんて三泊以上はしないのだから、冷房とバスタブ、読書灯さえあれば、ホテルの質にこだわる必要もないのだった。


 二年前、くだんのタイスキ屋「テキサス」で一緒だった友人とは、中華街時代に知り合ったヒロさんである。なれそめは友達の友達だったが、いつしか一緒に凱旋門賞(パリで行われる欧州最大の競馬レース)に行ったり、ポルトガルのF1を観に行ったりするようになり、きっかけとなった友人(モーラム狂)とは疎遠になってしまったのに、ヒロさんとは親しいつき合いが続いていた。

チェンマイ日記97番外篇「凱旋門は遠かった」
 
 ジュライホテル専門で、その後スリクルンホテルの常連となっていたヒロさんをプリンスホテルに連れてきたのは四年前だった。

 早速ナナプラザに誘われる。ゴーゴーバーの密集する歓楽街だ。ヒロさんは踊り子のひとりを気に入りホテルに連れ帰った。そこでぼくは初めてプリンスホテルの価値を知る。それはジョイナーズ・フィーと呼ばれる「部屋に女を連れ込んだときに取られる追加料金」が無いということだった。プリンスホテルはどこの歓楽街にも適度に近い連れ込み宿として人気があったのだ。それまでもアラブ人や白人が娼婦然とした女性と一緒に出入りするのを何度も見かけていたが、自分がそれをしないためその利点に気づかないでいた。

 ぼくも十分にスケベオヤジであり、世界各地で一通り何でも経験はしている。そういう中から、旅に慣れるに従い自分の流儀というのが固まってくる。その中のひとつに「部屋に女性を連れ込まない」というのがあった。

 それを戦争物的に喩えるなら(?)、ぼくにとって異国におけるホテルの部屋とは、機密文書が山積みされた死守すべき要塞のようなものである。そこに敵のスパイかもしれない身元不明の女性を連れ込むことは、内部崩潰に繋がる言語道断の所業となる。外からは空爆されても耐えうる堅牢な要塞も、内側からは手榴弾ひとつで簡単に崩れてしまったりもするのだ。要塞内部に女性を入れる場合は完全に味方であると確認された人のみであろう。

 と、何を言っているか自分でもよく分からないが、とにかくまあぼくは、部屋には女性を連れ込まないことを主義としていた。これまで金やパスポートを盗まれるようなことと無縁で来られたのは、そのことに拠るだろう。

 ヒロさんはその女性をかなり気に入ったらしく、翌日からも毎晩連れ帰っていた。ぼくの方がタイ語は上手かったので、あれこれと通訳してやったり、みんなで食事に行ったりして、ぼくも彼女や彼女の友人達と親しくなって行く。

 ヒロさんの名誉のために書いておけば、彼はそういうことを頻繁にする人ではなかった。後にそれは彼にとってタイにおける最大の恋愛経験となる。彼女はイサーン出身の二十七歳。田舎から出てきたばかり。踊りも出来ず、ステージの上でただ棒立ちしていたという。美人でもない。そのすべてにヒロさんは嵌ってしまった。

 二人の恋愛の顛末、ぼくと彼女や彼女の友人達との関わりもまたあれこれとあって面白いのだが、それもまた別の機会に書くことにしよう。

 その連れ込むことが常識の宿で、一切女性を連れ込まないぼくには、意外な展開が待っていたのだった。



  
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