チェンマイ日記2002秋

●チェンマイ日本食考


餃子で目覚める!
 チェンマイの街中。
 もうすぐチェンマイを去ってランパーンの田舎に籠もるTさんをバイクの後ろに乗せ、毎日うまいものを食い歩き、飲み歩く日々を送っていた。
 ある日の昼、さてきょうは何を食べようかというとき、Tさんが「××に餃子を食べに行かない。なかなかおいしいよ」と言った。今までにも何度か行っている店だった。なかなかおいしいねと私も相槌を打って食べたりしていた。なのにそのとき私は即座に応えていた。
「もうすぐ日本に帰るんで食べたくないんですよ」
 怪訝な顔をするTさんに説明する。
「ぼく、べつに食べ物にうるさくはないんですけど、ラーメンと餃子のように、すこしはこだわるものもあって、帰国まであと二週間あるでしょ。ここで半端にまずい餃子を食べると早く日本に帰って本物を食べたくなってしまうんです。だから今は日本食は食べないほうがいいんです」
「ああ、なるほどね、そういうものかもしれないな」とTさんが応える。そうして私たちはステーキを食べに行った。

 もう二度と帰国しないと決断しているTさんにもうしわけないことを言ったかなと思いつつ、前々から思っていたそれを口にしたことにより、この十年間へばりついていたかさぶたが剥がれ落ちたような気がした。
 それが本当の気持ちなのだ。それを言えないままここまで来てしまった。
「あの日本食堂の××はおいしい」「△△ならあそこが本格的だ」とチェンマイの日本食について書いたことがある。それはチェンマイにおもねっていたからだ。前々からその嘘に気づいてはいた。そのまましらんふりをするつもりでいた。でももうそれはごまかしておくべきことではないと思うようになった。



アグネス・林論争」というのがあった。もう何年前になるだろう。アグネス・チャンの日頃の発言に林真理子が「いいかげんにしてよ、アグネス」と題してかみついたのだ。私は全面的に林を支持した。ごもっともと頷ける点が多く拍手喝采だった。アグネスの発言を支持し大学の講師にまで迎えるところをバッカじゃないのと思ったものだった。しなやか長野方面だったが(笑)。

 その中のひとつに「あそこの国の人はみんないい人で」のようなアグネスお得意の発言に、林が、曾野綾子さんの言葉を引用しつつ書いた「どこの国にも泥棒はいるし、その国全体をみんないい人なんて発言をすること自体がウンヌン」との意見があった。その通りである。ひとつの国に対して「みんないい人」と言える人もヘンなら、それを頷いて聞いている人もまた異常である。「ソ連や北朝鮮は夢の国」と同じ感覚だ。そんなところがあるはずがない。

 私は自分の中にある「チェンマイはみんな最高」の嘘に気づいていた。四十近くなって見つけた隠れ家のような場所だったから、愛しくして愛しくてたまらない。過剰に賛美していた。最初の頃はしゃいでしまったのは仕方がないだろう。誰だって夢中になればめしいる。しかしそれをいつまでも引きずっているとなると問題だ。まして、その嘘に気づいているのに自我を守るために気づいていないふりをするようになったらビョーキである。それが進行すると、朝日新聞のようにかつてソ連や北朝鮮を夢の国と言った過ちを、明白な証拠が残っているのにしらんふりをしているのと同じになってしまう。
 正直なことを書いておくことが正しい姿勢だと思った。



うまい日本食はない!
 チェンマイにうまい日本食はない。あたりまえだ。そこは日本ではない。まして日本食の美の根元が四季にあり、その中でも晩秋や厳冬の温度差が醸し出す味わいなのだから、常夏のタイにおいしい日本食などあるわけがないのである。
 といってまったくないわけでもない。たとえばロイヤルプリンセスホテルの『みゆき』に行けばほぼ日本と同等のものが食える。しかし日本の安居酒屋で飲み食いして1500円程度で済むものに1万円以上払わねばならない。毎晩それをやり、いやあ日本と同じですな、私はタイ料理がダメですから助かりました、最高ですと言って帰国する三泊四日の旅行者もいる。だけどここまで来ると、だったらなんでタイに来たの、となってしまう。それに、経済的にこれを日常と出来る人もそうはいないだろう。

 庶民感覚で語ろう。町中にある日本食堂だ。庶民感覚と言っても実はこれでもかなり高い。日々の暮らしを重ねて行けば気づく。私の場合、いつものよう三品ぐらい取り、ピールを飲んで300バーツから400バーツ。これに慣れてしまっているのだが、たまに同じ事を屋台や市場でやると100バーツもしないので驚く。日本食堂は異国で日本食を食べる特別な場だという意識も必要だ。それはおいといて、テーマは、そういう町中の日本食堂にうまい日本食はあるのか、である。
 私はないと思う。いやあるんだけど(どっちだっつうの)、賛美するほどのものはないし、その感覚を押さえ込んでお世辞として賛美するのは間違いだと思うのである。

 旅人感覚でなら、ある。「ああ、ついに念願のチェンマイに来たぞ」とそのことに酔っていたなら、「おお、なにもかもが最高のチェンマイには、なんとこんなおいしい日本食まであるではないか!」と感激がさらに高まる。初めて来たときの私がそうだった。
 在住日本人感覚でも、ある。「日本食があって助かるよ」との素直な感謝から、「所詮日本食もどきのまがいものなんだけどね」のひねくれたものまで、形は違えど長期滞在する人は、チェンマイで日本食が食えることを喜んでいる。

 しかしこのかってに昂揚している旅人感覚や、ここにいなければならないという在住者の諦観を剥ぎ取り、ごく素直に「チェンマイの日本食はおいしいのか」と考えたら、やはりそれは「日本食もどき」であり、うまくはないのである。その理由は前記したように、日本料理は日本の風土のものであり、肝腎要のそれが無理なのだからおいしいはずがない。諸外国でも比較的おいしい日本食を食べられるのは、やはり海のある寒い国だ。ましていくら割高でもそこそこのタイの値段でやろうとしたら不可能に決まっている。金に糸目はつけないのならともかく。
 これは決してタイを否定しているのではない。うまい日本料理とは日本にしかないものだと極論しているだけである。するとここで基本的な「うまい日本料理とは何か!?」のテーマが出る。本格的な話はしていない。普通の日本人が普通に食べる食物の話である。おいしい日本料理を考えるとき、ポイントは、四季の変化と海だろう。チェンマイにはどちらもない。望むのが無理だ。
 
 それはタイ側から言っても真理である。「日本にはうまいタイ料理はない」になる。日本在住が長いタイ人がみな口を揃えて恋しいと言うソムタムでも、日本のタイレストランで、食材をタイから輸入した20倍の値段のソムタムを食べつつも、誰もがみな口にする。早くタイに帰ってホンモノのソムタムを食いたいと。そんなものである。味は風景や空気までも交えた土地のものでもある。

■と、ここまで書いて、明日からチェンマイなので、うまいラーメンと餃子を食いに町まで出かける。チェンマイでそれらを食する気はないので一ヶ月の食い納めである。あ、今年の食い納めでもある。

中華丼考!

新『サクラ』店内

 チェンマイの日本食はうまくない。それは日本じゃないのだから当然と私は考える。
 近年の『サクラ』の話を書く。夕暮れからは日本食に興味のあるタイ人の家族で賑わい、もう安定経営だし、私がちょっとぐらいキツいことを書いても波風は生じないだろう。
 一例として中華丼を挙げる。これが味が安定していなくて評判が悪い。旧『サクラ』で初登場したときは評判を呼んだメニューだったのに、今じゃ常連は誰も頼まなくなってしまった。理由は簡単だ。作る娘たちによって味が違うからである。それは作るタイ娘の中に「おいしい中華丼」という味が存在していないのだから仕方がない。

 『サクラ』は有山パパがシーちゃんに日本食の味を教えることから始まった。シーちゃんが食べたこともない日本食を、パパから見よう見まねで教わり、常連からの感想を聞きつつ、日々試行錯誤、切磋琢磨をしてきた。二人三脚で懸命に作っていた頃が、二人にとっていちばんしあわせな時期だったろう。
 開店当初の頃はパパとシーちゃんとダーオの三人でやっていた。それがしばらく続く。ダーオの妹等、何人かの娘を経て、今もがんばっているドゥアンとシーちゃんの体制になる。この頃もまだ問題はなかった。常に日本人の舌を持ったパパが店にいたし、店も小さければ、作るタイ人女性も二人に限られていたからである。クレームがあればすぐに作り直してくれた。中でもドゥアンはシーちゃんよりも上手だと評判がよかった。問題は現在の新『サクラ』になってからだ。



 いま『サクラ』には何人の娘が働いているのだろう。シーちゃん、ドゥアンの下に四人の娘か。朝番のシーちゃんのお姉さんも入れると七人だろうか。シーちゃんは経営者として現場から遠ざかり、ドゥアンが仕切るようになっている。そのドゥアンもいないときは娘たちがかってにやる。この四人の娘の作る中華丼がそれぞれ味が違うのである。見た目は見事だ。きちんととろみもついていておいしそうな中華丼になっている。だがある娘が作るのは酢が入ってなくてパサパサだったり、ある娘の作ったのは酢が入りすぎていて酸っぱくて食えなかったりと一定していない。いずれも我が身で体験して書いている。同じ事を言う人も多い。今はもう注文しないメニュになってしまった。

 しかしこれ、しかたないだろう。なぜなら「おいしい中華丼とはどんな味か」を知っているのは誰もいないのだから。みな先輩から見よう見まねで教わり、らしきものを作っているだけだ。パパから教わってシーちゃんが作り、シーちゃんからドゥアンが覚え、ドゥアンから新入りの娘へ、と伝わって行く内に、まるで伝言ゲームのように、見た目だけは保たれているが肝腎の味は変質していってしまったのだ。いつしか見た目だけの中華丼もどきになってしまった。

 かといって希望がないわけではない。たとえばデンという娘はなかなか味のセンスが良いとみんなが褒めている。デンが担当しているときにみんなが中華丼を注文し、それに気をよくしたデンが自分なりの中華丼の味を安定させて行き、後輩にもそれを伝えていったなら、『サクラ』流のおいしい中華丼があらためて完成されるかもしれない。異国における味とはそんなものであろう。

 かくいう私が近年好んで何を食べているかというとカレーである。これはなぜか毎回シーちゃんが大鍋で作り、冷藏庫に入れて日持ちさせているから味が安定していて安心できるのだ。日本の家庭で作るカレーライスの味と同じである。もちろんこれにも出来不出来はあり、私は作者に今回の出来はいいかどうか聞いてから注文する。ここがタイのおおらなかところだが、シーちゃんもドゥアンも、正直に「今回のはおいしい」「今回のは失敗作だ」と教えてくれるのである。中国からもどってこれを食べるとほっとする。ある人が三日連続でカレーを食べている私を笑っていたが、中国に二十日間行っていた身に、それがどれほどうまいものかはわかるまい。また、安定した味の安心感も。



 ここに挙げた問題点は、「日本食を知らないタイ人が作る日本食の味」についてである。素人娘のレヴェルでの話だが、かつて某日本食店が自慢していた「バンコクから連れてきたタイ人板前」でも、それほどの差はないだろう。とにかく体内に「おいしい日本料理とは何か」の感覚を持っていないのだし、食材はタイのものなのだ。そこにあるのは日本食もどきでしかない。期待するほうがおかしいと思う。どこにでも味の天才はいるけれど、それは高望みだ。

 日本レストラン経営者から聞いた話。
 タイ人のコックに日本料理を教えても、味を変えてしまうそうである。タイ人好みの味つけにしてしまうのだ。彼は良かれと思ってやるのだろうが、日本人の客には評判が悪い。店主が味をチェックして気づくのだそうである。そもそもの味覚が違うのだ。彼はよりおいしいものを作ろうとして味を変えた。タイ人客が来たらうけたかもしれない。でも日本人客には不評だ。まずくなったと叱られる。不愉快だ。それが原因で辞めてしまったりする。それぐらいもっている味覚センスが違うのだからタイ人板前に期待はできない。

 ある日本食堂で私が好んで注文していたのは「カニカマ」だった。これをマヨネーズにつけてビールのつまみにしていた。料理ではない。市販品だ。でも味が日本の製品と同じなので日本の感覚が欲しいときにはちょうどいいのだった。チェンマイの庶民的な日本食堂なんてそのレヴェルである。

 何年か前、どなたかの旅行記で読み、その時は首をかしげたが、今はわかる感覚に「カップ麺の話」がある。そのかたが書かれていたのは、バンコクのホテルで深夜に食べる日本から持参した「赤いきつね」がいかにうまいかという話だった。短期旅行者である。初めて読んだときは、なんとまあ、と思った。この人もタニヤの日本レストランで日本食を食べたりしているのである。でもそれよりも確実に日本を感じさせてくれるのは日本製のカップ麺の味なのだ。今はこの気持ちがよくわかる。タイの日本食は似て非なるものだ。その点、日本製カップ麺は正真正銘日本の味なのである。いつしか私も持参するようになった。かさばるから二、三個しかもてない。こうなると百円のカップ麺が超貴重品である。



その存在価値!



 私が、完璧な美人のように褒め称えていたチェンマイのあらに気づき始めたのはいつからだったろう。あくまでも日本食に関しての比喩だが。
 『サクラ』やそれに準ずる店は最初から交流の場と考えていて味にこだわったことはなかった。らしきものがあるだけで満足だった。だってチェンマイで冷やし中華が食べられればそれだけで万々歳だ。

 私はそれらより一ランク上の店として『赤門』を考えていた。そこで飲み食いするとすぐに1000バーツを超えてしまったが、その存在にそれなりに満足していた。不満を感じた最初は、やはりそこでの日本酒だったと思う。最初から刺身なんてのは論ずるレヴェルになかった。それはこちらも期待していないからそれでいいのである。いつも言うことだが、私にとってすべては、満点じゃなくてもいいのだ。合格点を保ってくれればそれでいい。合格点といっても90点、80点は望んでいない。65点ぐらいだ。それを保ってくれればいい。でもたびたび50点以下が出るようになるとしらけてしまって行かなくなる。

 あれは『赤門』でMさんと偶然出会ったときのことだった。このMさんは現在掲載していない「チェンマイ日記1999夏-日本食考」に登場するチェンマイにおける日本食のことを考えるときのキーパーソンになる。このファイルはあのファイルとペアだから、そのうち復活させようと思っている。(註・現在復活済み)

 Mさんに誘われて熱燗を頼んだ。これがひどかった。いわゆる最低値段の「箱の酒」である。それも船で揺られてきたのだろう、あまりにひどい味だった。防腐剤なのか、臭くて飲めたものではなかった。熱燗だからよけいに臭う。そんなものを飲んでいる自分が惨めになった。しかも値段は高い。高いと言ってもそれほどでもない。一合120バーツだったか。400円程度だが、それでもそれは田舎のタイ人が土方をして得る日収以上である。こんなまずいものを飲むのはいやだと思った。貧相な刺身には苦笑して平気だったのに、日本酒のあのまずさにだけは耐えられなかった。
 だがチェンマイ在住が長いMさんは、やっぱり日本酒はいいなあ、熱燗は最高だとうっとりしているのである。一ヶ月に一度の、それは最高の楽しみなのだった。これは別世界なのだと思った。あれが始まりだったように思う。あの時から私は、チェンマイの日本食と一線を引き始めていたのだ。



 あらためて言うまでもないが、これはチェンマイを否定しているのではない。もちろん『赤門』にも責任はない。外国とはそういうもの、という話である。
 十数年前、イギリスにいるとき、アサヒスーパードライを見かけた。レストランではない。邦人用食料品店だった。当時発売されて日も浅かった。後にこれがキリンラガーを抜いて日本一のブランドになるとはまだ思いもしない頃だ。現地駐在が長い友人はこれを知らなかった。私は「これが今の日本の流行品なのだ」と彼に教えようと、輸入品だからして当然高い値段のそれを買い、いそいそと彼の家に行った。
 ひどいもんだった。泡が立たない。長い間暑い船底で揺れてきたからだろう。ビール会社で仕事をしていたのでちょっと知ったかぶりをさせてもらうと、ビールは生鮮食料品である。あたらしければあたらしいほどいい。よって現地のものがいい。日本で輸入ビールを飲むなんてのもおろかである。あの泡の全くたたないスーパードライはひどかった。



 閑話休題。
 その後も新しい日本食店が開店すると出かけて行って食べた。評判のいい「キッチン・ハッシュ」にもよく通った。おいしい店である。
 間違った考えは私にあるとわかっている。チェンマイの日本食にそんな厳しい目で接すること自体無意味なのである。チェンマイの日本食とは、それがあるだけではしゃいでしまう旅行者や、そういう味を食べさせてくれるだけでありがたいと思う在住者を客として成立している。旅行者としてはひねていて、在住者ほど苦労もしていない私が、褒められる味の日本食じゃないなどとしかつめらしい顔をして言うことになんの意味があろう。

 チェンマイ在住が長いA子さんに聞いた話を思い出す。彼女は冷やし中華が食べたくなると旧『サクラ』に出かけていたという。当時の『サクラ』だから、狭い店だし、常連ぽいおじさんの中に二十代のA子さんが入って行くのは度胸が要ったことだろう。事実好奇の目で見られるのがいやだったそうだ。それでもそこで食べるシーちゃんの作る冷やし中華は、タイ人男性と結婚し、異国で暮らすA子さんに日本を思い出させてくれるいとしい味だった。
 これがチェンマイの日本食堂の存在価値である。これ以上も以下もない。私のようなのがケチをつけることはまったくもってくだらない横やりである。それが結論だ。ただ私個人としては、私のような立場の者が、腫れ物に触るようにまずいものをまずいと言えなかった時期よりも、今こうして思うままに言っていることのほうが、精神的にはずっと健全な形だと思っている。ま、私個人の問題になりますけどね。



本場のチェンマイ料理!


↑今は経営者が変ってしまった林さんの店で

 と、問題発言を連発してしまったが、これは決してチェンマイの否定ではない。チェンマイには本物の日本食はないと私は結論づけたが、その代わりそこには本物のチェンマイ料理がある。なぜならそこはチェンマイだからだ(笑)。チェンマイはチェンマイ料理の本場である。

 チェンマイのチェンマイ料理をうまくないと意見を言ったらそれはいちゃもんになる。うまかろうとまずかろうと、本場チェンマイのチェンマイ料理は、それこそが正真正銘本物のチェンマイ料理の味だからである。味とはそんなものであろう。それをまずいと感じるなら、それはその人にチェンマイ料理が合わないだけだ。

 チェンマイの日本食が日本食もどきであることは、口にはしなくても誰もがわかっている。要は妥協の問題だ。そのことに満足出来ず帰国するのか、そのこと以上の魅力をチェンマイに見つけ、ずっと住むかである。
 私の場合で言うなら、どんなに妻がいとしくても、中国の食い物ではストレスが溜まっていられない。いまのところ前回に滞在した二十二日が最長である。限界だった。たぶんチェンマイなら丸一年いても平気だろう。日本食を食べずにだ。それだけおいしいタイ料理の店を自分なりに見つけてある。

 先日日本で後藤さん(ホームページ「チェンマイのさくらと宇宙堂」主催者)と飲んでいるとき、カオマンカイの話になり、「うまいと書いていたけど、あれって油っこくて食えないでしょう」と言われた。後藤さんはカオマンカイが嫌いらしい。あるいは、本物のうまいカオマンカイを知らないのか。
 考えてみると、私が今チェンマイでカオマンカイを食べる店は三軒だけである。内二軒はマニア(?)なら誰でも知っている有名な店だ。後一軒はマイナーな私の秘密の店になる。あとはチェンライに行くたびに寄る有名な一軒がある。バンコクは思いつかない。それだけバンコクには疎い。

 九月にランパーンに行くとき、らいぶさんの奥さんたちと立ち寄って食ったカオマンカイは、後藤さんの言ったように脂っぽい鶏肉で、今まででいちばんというぐらいまずく、あらためて店は選ばねばならないのだと感じた。そういう意味でもランパーンってのは凡庸で魅力のない町である。

 今までにカオマンカイを食べた店は百軒を超えている。大好きなタイ料理だ。そうしてまた後藤さんに言われて気づいたのだが、自分なりにずいぶんと店を厳選している。それはまあ「チェンマイ雑記帳-快適な生活」を読んでもらえばわかる。私なりに日々の生活が不愉快にならないよう精一杯気を遣って暮らしているのだ。20バーツで食えるバーミーナム(ラーメン)だってどこでもいいというわけではない。かなり選んでいる。それは長年関わっているチェンマイだから出来たことだ。そうか、バンコクが嫌いなのも、バンコクではそういう努力をしなかった(バイクで自由に走れないから出来なかった)から「あそこのあれが食べたい」という店がほとんどないからなのだと気づく。食の問題は大きい。

 チェンマイにはうまい日本食はない。その代わりチェンマイには、最高にうまい本場のチェンマイ料理がある。これでいいのだ(と思う)。
(02/12/6 出発直前)





{マネーの虎」ホームページより

 先日テレビ「マネーの虎」に、「あたらしい味の麺の店を出したい」と言う大学生が登場した。三年前彼はチェンマイを旅行し(一度だけの経験ね)、「チェンマイの幻の麺、カオ・ソーイ」と出会ったのだという。スタジオでカオ・ソーイを振る舞った彼は、結果、見事にマネーをゲットしていた。400万円だったかな。
 カオ・ソーイは大好きだ。うまい。でも「幻の麺」じゃないよなあ(笑)。チェンマイのごく普通の日常食でしょ。日本のタイ料理店、チェンマイ料理店にはないのだろうか。それを無視したいかにもテレビらしい大仰な盛り上げかたに笑ってしまった。「幻の麺」(笑)。

 でも400万円をゲットし、商売を始めたこの青年がどうなるのか気になるのでまた見ねばならない。これが困る(笑)。ぼくはこういう番組を好んで見ているのではない。たまたまだった。なにかをする前、まずテレビをつけて、チャンネルを一巡して、「ああ、おもしろいのはないな、さて仕事をしよう」と確認してから始める悪癖が、二十四時間を問わず身に付いているのである。それが朝の八時だったらここを読んでいる皆さんも納得するだろうけど、午前四時に起き出してもまずそうするんだから、かなりのビョーキであると自覚している。このときもそうだった。ほとんどはすぐに消す。なのに1分で消すはずが「チェンマイ幻の麺」などというものだから、ついつい見てしまった。

 悪癖ではあるが、そんな見方をしているから、浅く薄く広く、それなりにテレビを知っている。このまったく金を掛けない奇妙な番組も、深夜枠でやっているときから知っていた。それがゴールデンタイムでも最高の曜日、最高の時間への進出である。やるもんだ。企画演出したディレクターはその夜、快哉を叫んで痛飲したことだろう。ツチヤってディレクターも「電波少年」でそんな出世の仕方をした。
 司会は吉田栄作だった。初めて深夜番組で見たときは、業界で評判の悪い吉田栄作(ほんとに悪いよ)も落ちるところまで落ちたもんだと思ったが(それは一般的な評価だった)、番組の浮上とともに彼も再び浮いてきた。わからんものである。人の運の浮沈を見ているようでおもしろい。彼だって飛ぶ鳥を落とす勢いの時だったら、深夜のこんなマイナーな番組の進行など受けなかったろう。

 青年の商売が成功するのか失敗するのかは何週間後、あるいは何ヶ月後かの話である。それまで毎週番組チェックするわけには行かない。ずぼらなのでたぶん見過ごしてしまうだろうが、それでも金曜夜八時になると(かつてはプロレスの時間だった)「あ、そういえば」としばらくは思うだろう。見過ごさないといいが。
(03/6/12)
 今夜、6/13日。なんだかその青年の結果が来週、6/20日に放送らしい。番宣でやっていた。
 覚えていたら見て書き込む。かなりの確率で見過ごしそう(笑)。
(03/6/13)
(03/6/20)
マネーの虎」ホームページより
 見ました。ワタシには珍しく見過ごすことなく。
「チェンマイ幻の麺、カオソーイ」を移動販売車で売りに出た彼のその車の名は「サワディCar」。だはは、脱力しました(笑)。

 テーマとなっていたのは麺を何にするか。チェンマイで売っているバーミー用のタマゴ麺か、センヤイ(クイッテオ用の米麺の幅広麺)にするか、彼がアルバイトしている店で思いついたというパスタ用の麺か、である。しかしここの時点でもうなにが「チェンマイの幻の麺」だかわからんぞ(笑)。
 結局三種類用意して客に注文してもらう方式。これはいいことだろう。ぼくならもちろん大好きなバーミーだけど、パスタ麺てのも食べてみたい気がする。

 一杯500円で売りに出した彼の目標は売り上げ10万円。それが出資者からの条件でもある。
 行列の出来る賑わい。ひとりではあまりに忙しく、チャーシューが切れて400円に値下げ。鼻血を流しつつ大奮闘。見事目標達成。
 これからどうなるのだろう。チェーン店として成功するのか、学生起業家!?

 でもこういうのってテレビタイアップだからね、今回大人気なのはお約束だ。問題はこれから。
 すなおに成功して欲しいと思うけど、ぼくは日本でこういうものを食べるなら、そのぶんお金を貯めてチェンマイに直接行ったほうがいいや。いつもの持論になるけど、タイ料理はタイで食べるからおいしいんだ。カオソーイもチェンマイで食べたい。ああ、チェンマイのいつものあの店でカオマンカイが食いてえなあ……。
(記入 7/2)



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