チェンマイ日記2002暮


1/1日(水)
元旦
 2003年になった。
 朝、十時。電話の音で起こされる。ケイタイのディスプレイにNさんの名が出ている。TさんがNさんのナコンピンコンドから掛けてきているのだろう。しばらく逡巡したが、どうにもTさんと話す気にはなれず、出なかった。死を目前にした昏睡状態の奥さんを見捨てて自分だけチェンマイに帰ってきた人と、正月早々なにを話せばいいのだろう。苛立つのは、そういう行動を取ったTさんに、最期を看取ってくれと約束して送り出したぼくやA子さん夫妻が怒っていることに、Tさんが気づいていないことだ。気づいていたなら昨日もきょうも平然とぼくに電話を掛けてくることはあるまい。その無神経さに腹が立つ。すべては「最期を看取ってくれ」から始まったことなのだ。
 
 目が覚めてしまった。昨夜は部屋にもどったのが三時過ぎ。その後パソコンに向かって寝たのが五時過ぎだった。
 らいぶさんに電話。パパが雑煮を食いに来てくれと言っていたと伝言。一家でタンブン(お寺参り)に出かけるところだった。それが終って行けそうになったら電話をくれるとのことなので、ひとりで言ってもつまらないから(顔なじみばかりではあるが)らいぶさんの電話を待つことにして部屋でThinkPadに向かう。
 ひどい宿酔いだ。Sといるとタバコの煙で翌日が気持ち悪い。無神経で無頓着で人に煙を吹きつけるような吸い方をする。あれほどタバコマナーの悪いヤツを見たことがない。大晦日という大切な時間にたっぷりとSとつきあい、ほとほと疲れてしまった。バカだなあ、おれ。なにをやってるんだ。

 五、六年前、Hさんのクルマで、Sさんと三人、日本食堂巡りや置屋巡りをしたことがあった。旧『サクラ』の時代だ。まだHさんが景気のよかったころである。そのとき、一緒に乗せていってくれとSが割り込んできた。ぼくの知り合いということで容認したのだが、そのあまりの態度の悪さにみんなが怒ってしまったことがあった。今もHさんやSさんはSと会ってもしらんふりをするだろう。Sさんはいま行方不明だが。
 Hさんのクーラーを効かせたクルマに銜え煙草で乗り込んでくる(ぼくら三人はタバコを喫わない)。とんでもなく乱暴にドアを閉める。それらを注意されてもまず言いわけをして絶対に謝らない。そういう性格の男だった。乱暴な口をきく。いちばんの年少である。とにかくSの言葉遣いには誰に対しても敬語がないので不快になる。

 ドアの閉め方、なんていうと神経質に採られそうだが、Hさんの新車のシビックを、ぼくら三人がボム、ボム、ボムと普通に閉めるのにSだけドッシャーンと叩きつけるように音を立てて閉めるのであって、これは誰から見ても異常だった。何度もそれが続くので、一応ヤツといちばん親しいぼくがそれを注意する係になる。するとまず「あ、そう。おれ、自分のクルマのドアが堅いんでついつい強く閉めちゃうんだよね」と謝るより先に言いわけをする。車内でのタバコも、「おれ、自分のクルマの中でいつも喫っているから」と、自分の側の事情だけを訴え、見事までに他人の状況に合わせる気など毛頭ないことをさらげ出すのだった。

 そういう性格でみんなに嫌われていったから(ただし本人はまったく気にしていない)、凝っているゴルフでも一緒に回ってくれる人がいず、ほとんどひとりで回っている。今回はケイタイの番号を教えてしまったばっかりに、暇になるとまずぼくに電話を掛けてくるようになってしまった。Sは一緒に食事をしていても、自分だけ食い終るとさっさとタバコに火を点け、気持ちよく煙をこちらに吹きかけてくる。まだ食べているこちらに気を遣うなんてことはまったくない。どうすればここまで無神経になれるのか。今後のためにも、すこし強いことを言って距離を置こう。と、気弱オヤジ、ささやかな決心。
 昼過ぎにらいぶさんから、あと二十分ぐらいで行けそうだと電話がある。見計らってバイクで向かう。
 『サクラ』は満員だった。丸テーブルで近年の常連の人たちに新年の挨拶をする。郵便関係のAさん、土建業のTさん、古老のHさんなどが居る。
 みんな席を空けてくれて坐れと進めてくれたが、奥の方にらいぶさん一家がなんとかひとつのテーブルを確保していたのでそこに行く。

 らいぶさんがぼくに昨夜のこと(=ご近所のパーティ)を教えてくれていたら、九歳の娘さんに「お父さん、声が大きい。下品だから声を小さくしなさい」と注意される(タイ語)。娘ってのはこんなものか。小さいときから女なんだな。かわいい少女の向こうに将来の口やかましい女房像が見えた。
 昨夜のバーベキュー形式のパーティーは、ご近所の奥さんばかりの集まりで、男はらいぶさんと隣のご主人のみ、しかもそのご主人は酒を飲まないというので、酒飲みのぼくは行かなくて正解だったろう。かといってSと過ごした大晦日も惨めだったが(笑)。

 『サクラ』元旦恒例のサーヴィス雑煮をいただき、ビールでらいぶさんと新年の乾杯。パパに挨拶。
 カウンターに紙袋があるので見てみると「あい」と書いてある。年末にあいさんのお母さんがチェンマイに見えていて、そのお土産をあいさんがパパに届けていったらしい。いいこだねえ。パパにそれを言う。パパはあいさんがいつ来たのかも、そんなお土産が届いていることも知らなかった。お礼を言いたいが電話番号を知らないと言うのでぼくのケイタイからあいさんに電話をする。朝早く届けに来たらしい。らいぶさん、パパと受話器を受け渡しつつ新年の挨拶。ケイタイは便利だ。日本よりタイでしみじみそう思う。

 二時過ぎにらいぶさん一家が帰り、丸テーブルに移る。
 Hさん(頻繁に出てくる人とは別人)、ランプンのAさん、ナコンピンのKさんらと呑む。Sもやってきた。
 Hさんに手作りのドブロクを呑ませてもらう。うまい。Hさんは立教大学卒の元JAZZミュージシャンで(でも喰うためにはハワイアンでもなんでもやったそうだが)物知りである。特製のお屠蘇も持参していて、振る舞ってくれる。お屠蘇を知らないSがその意味を教えてもらっている。ほんとになあ、こいつはどういう育ちをしたのだろう。なんでこんなに何も知らずに四十男になれるんだ。
 名古屋のIさんがLotusに行かないかと誘ってきた。バイクで行こうとしたら、Iさんの買ったばかりのトヨタのピックアップトラックがある。乗せてもらうことにした。来たばかりの時、バスタオルを買うのにバイクで案内してもらったが、それ以来のIさんとのLotusである。ここ近年で仲良くなった人としては貴重な人だ。お酒が飲めないのが残念だけど。

 クルマの中でIさんがTさん批判を始めた。IさんもTさんにお金を貸している人だからその資格がある。「日本に帰って働くなり、体調が悪いなら病院に行くなりすればいいじゃないか。死ぬ死ぬって言ってばかりいて、いつまで経っても死なないし、なんなんだよ、あの人は」。酒もたばこもやらず、中学を出てからずっとがんばってきて、やっと今念願のチェンマイ生活を開始したIさんにとって、高邁なリクツを言う割には破綻した生活を送っているTさんは苛立つ存在らしい。
 昨夜チェンマイに帰ってきたとも言えず、適当にごまかすしかない。



 Lotusの店内を一回りし、Iさんがあれこれと買い込む。ぼくもなにか気に入ったものがあったら買おうとは思っていたが、特に目に附くものもなかった。帰国が近いこともある。Iさんは通年でコンドを借り自分の城を持っている。旅行者のぼくとは違う。でもいつ行ってもLotusは楽しい。それにしても3000バーツのシャツなんてのが並んでいて、平然と買っている人もいる。月給3000バーツの人もいっぱいいるから、その格差になんとなくため息が出てしまう。まあ日本でも30万円のシャツなんてのもあるんだろうけど、そういう場を知らないので(笑)。

 コーヒーを飲もうと誘われブラックキャニオン(珈琲チェーン店)に入る。本格的な珈琲の少ないタイでは最も日本的な珈琲の飲める店になる。甘ったるいタイ式インスタントコーヒーに慣れたぼくには無縁のところだが。
 一階の出入り口に近いところだから、出入りする「スタイルのいいタイ娘」が見放題である。お正月だから人出も多く、あっちからもこっちからも「おっおっおっ」と、抜群のスタイルを誇るジーンズ姿の娘たちが次から次へと現れて、すけべオヤジには眼福としか言いようがない。なんであんなにかっこいいんだろう。日本人とはまったく違っている。

 ところでぼくはよく「スタイルのいいタイ娘」という言いかたをするが、スタイルがいいからといって美人というわけではない。へちゃむくれも多い。性格の悪そうなのもいる。だけど「見てるだけ」のこちらには顔も根性も関係ない。造形物として美しいものを見ることは楽しい。と書いてまた思うのだが、「なにが美しいか、なにがセクシーか」は人によって違う。一般的に「タイ娘はスタイルがいい」と言って間違いではないと思うが、それを好きなのは単なるぼくの好みなのかもしれない。世の中には「デブ専」なんてのもいるらしいし。

 コーヒー代は、いつもカラオケを奢ってもらっているからとIさんが払ってくれた。90バーツだったか。地元感覚だととんでもなく高い。なのに「安いもんですねえ」とオヤジ二人の意見は一致。あの席はいいなあ。何度でも行きたい。
 『サクラ』の前までIさんに送ってもらい、Iさんは帰る。
 ぼくもバイクに乗って引き上げようと思ったら、ランプンのTさんが手を振っている。Eさんもいる。川崎のTさん(とにかくイニシャルTさんは多い)も来ている。

 そこにひょこひょこと歩いてTさん登場。電話したのに通じないと言われて後ろめたい気分になる。たしかに、意図的に無視したから。
 Tさん、ビールの小瓶を頼み、タバコを喫いつつ上機嫌だ。Iさんがいなくてよかった。こういうときIさんは「昼からビールとは、いいご身分ですな」と皮肉を一発言う。
 昨夜はMさんのところに行って麻雀をして、おせち料理をごちそうになって、いい大晦日でした、わっはっは、とやるが周囲は無反応。
 といっても、虫の息の奥さんをほったらかしてどうのこうのというのはぼくやあいさん、らいぶさんしか知らない話。周囲は関係ない。それでもみなもうすぐ死ぬとこまめに口にするTさんに三万や五万という小銭を貸したことのある関係なので、未だに悠々自適のTさんに批判的なのだ。さすがに気まずくなったのか、Tさんは早々に席を立った。
 話し相手になってくれる人もなく、しょんぼりと帰って行くその後ろ姿が寂しそうで、また佛心が起きそうになるが、精一杯やったぼくらを最悪の形で裏切り、なんの反省もしていないのはあちらなのだからとその感情を押さえ込む。さすがにぼくも「Mさんのところで麻雀とおせち料理」にはむっとしていた。すくなくともそれはぼくの前で口にすべき事ではなかったろう。

 その後もGさんやらMさんやらとひっきりなしに新顔が続々やってきて、最初アイスコーヒーだけで話につきあっていたぼくも次第に体調が整うに連れ呑みたくなり、いつしかカールスバーグを五本ほど呑んでいた。昔はビールなら底なしだったのだが、さすがに齢を取って大瓶を五本も飲むときつい。

 昼からまだずっといたSに誘われてロイコー通りのバーに行く。
「えっ、あんなにSの批判を繰り返していて、まだそれでもつきあうの!?」と笑われそうだが、そうなのである。これがぼくの本質なのだ。だらしない。なついてきて誘われると断れないのだ。ズルズルベッタリというヤツである。
 でもさすがにまたいつものようタバコの煙を吹きかけられていたらイヤになってきた。それに、オープンバーの白人ぶらさがりネーチャンというのは、ぼくの大嫌いなタイ人である。ならなんで行くのかというと、これはこれでSとでもなければ行くことがないから、勉強のために行ってみようと思ってしまうのである。ひとりでは行かない。そうして行った場所で、いつもの自分では経験できないことがあるのではと期待してしまうのだ。残念ながらそんなことはなく、いつも行かなければよかったと苦い思いで帰ってくる。
 ビール小瓶一本で席を立つ。Sが意外な顔をした。
 何度も何度も失敗をして、やっと悟る。人より遅い。それでもやっとその区切りの辺りに来ている。
 サンチャに行く。浦野さんがいた。昔話。あのころの『サクラ』のこと、ジェイムハウスのこと。
 別れた奥さんのこと、その奥さんの連れ子だった当時から抜群の美少女だった娘のことなどを話す。あの娘ももうお年頃か。きれいになったろうな。
 思えば、当時はみんな仲良しだったのに、今ではみな一国一城の主となり、それぞれの利害関係が生じて不仲になってしまった。浦野さんとナベちゃんにつきあいはないし、オリビアの神谷さんも商売上の問題からナベちゃんとは不仲だし、「ヴィアンチェンマイ」の記事のことから浦野さんが『サクラ』に来ることもない。かつてはみな同じ丸テーブルの常連だっのだが……。

 きれいごとを言う気はない。ぼくもまたチェンマイに住んで、商売でも始めていたなら(そんなことはありえないんだけど)きっとそれなりの軋轢が生じただろう。人と人はそういうものだ。ぼくが今も、パパともナベちゃんとも神谷さんとも浦野さんとも親交があるのは、利害関係のない旅人だからである。よそ者だからなのだ。むしろチェンマイにおける日本人関係がまだ黎明期だったあの時期、『サクラ』のひとつのテーブルにみんなが集っていたことの方が奇蹟だった。そう思うことにしよう。
 ひさしぶりに浦野さんと長話をして楽しかった。

 雨が降り出した。正月だというのに……。
2日(木)  昼過ぎ。インターネットカフェに行き、大晦日の「猪木祭り」の結果を楽しみに読む。
 サップ勝利はあたりまえ。
 ミルコはすごいなあ。レスリングも出来るストライカーになりつつある。そりゃあ両方出来たら無敵だよなあ。
 高島さんに教えてもらったことだが。
 還暦に関して、自分の誕生日を起点として、「誕生日が来ないからおれはまだ還暦じゃない」と言うのは間違いだと知った。あくまでも暦上でのことであるから、今年で還暦の人は、年が明けたら皆還暦になったのである。その点で猪木の発言は正しい。彼の誕生日は二月だがきちんとそう表明したようだ。
 市場によって、顔なじみのおばちゃん、おねーさん、おっちゃんたちに新年の挨拶。
 一杯飲み屋ですこし呑む。楽しい時間。

 部屋にもどって午後六時。パソコン雑誌を手に、いつもの屋台で夕食を取るかと走り出したら電話。バイクを停めてケイタイを取る。Sからだった。パソコン雑誌を手に屋台に行くところと、もう形は決まっているのだから「きょうはもう食べてしまった」とでも言えばいいのに、誘われたら「いまちょうど行くところだったので、一緒に食べてもいいよ」と応じている。おれって、ヘンだ。どっか壊れてないか。ほんとにほんとにSが嫌いなのに。
 今の時代、別れた恋人なのに、誘われると断れず肉体関係だけ続けている娘がいるそうだが、そういうだらしなさって自分の中にもあるなと確認。やっていることは同じだ。

 正月なのでバンライに行って食事をする。ミー(女主人)と世間話。遅れてSが来る。またもわしわしと自分だけ早めに食い終ると、うまそうにたばこを吸い始める。煙くて、途中で食うのを止めた。

 『サクラ』にお茶を飲みに行く。Sなんかと行かなければいいのに。
 でもここですこし勉強をした。この「日記」にこんな箇所がある。引用する。12月18日の分だ。

《最近の『サクラ』を昔と比べてどうしようもなくダメだと思ったのは、つい先日、上記の連中と一緒にいたときだった。下品な話が終り、やがてなぜか消費税の話になった。丸テーブルのおもしろさはこんな風に話題が回るところにある。やがてはヨーロッパと同じように20%ぐらいはしかたないだろうと北欧の税金の高さなど遡上に上げて甲論乙駁して盛り上がった。彼らともこんな話が出来るのか、昔の『サクラ』みたいでなかなかいいなと思った瞬間、おっかない顔をした(笑)ひとりのおやじが「やめだやめだ、そんな難しい話はやめてくれ、おれはタイに遊びに来てるんだ、そんな話はしたくない、聞きたくない」と大声で遮ったのだ。

 毎度言うことだが昔の『サクラ』なら、こういうときナベちゃんが「あんたはしたくなくてもおれたちはしたいんだ」とクールに言ってくれて、買春話しか出来ないそのオヤジは、我が身の話題の狭さを恥じつつすごすごと去っていったのだった。
 しかし今はナベちゃんはいない。みんなはそのおっかない顔のオヤジに気を遣うように話題をまた買春話にもどし、消費税話を始めた彼と、真っ先にそれに反応していたぼくがむしろ居づらくなって席を立ったのだった。ぼくも「たまにはこんな話もいいじゃないですか」ぐらい言いたかったけど、どう考えてもそのオヤジの顔はまともな人間の顔ではないのである。ひねくれたゴリラみたいな顔をしているのだ。怖いのである。写真で見せたい。どういう生き方をするとあんな顔になるのだろう。インタビューしたいな(笑)。 》


 パパは居ず、代わりにそのゴリラおやじが丸テーブルにでんと坐っていたので、こりゃたまらんとぼくは寄らずに帰ろうと思った。するとなんとSが、そのゴリラおやじに「シショー」と言ってうれしそうになついてゆくではないか。いやこれには驚いた。そして、世間とはなんとよく出来ているのだろうと感激した。
 なんでもそのMという名のゴリラオヤジは67歳の大阪人だがゴルフがうまく、Sは師匠として慕っているのだそうな。友人がいずいつもひとりで回っているSには珍しく一緒にラウンドしてくれる人らしい。そりゃそうだろう、親子ほど年は違うが考えかたは同じである。ゴルフと女以外は何も考えない。それ以外の難しいこと(笑)を考えるヤツを否定する。パンのみで生きている生物だ。類は友を呼ぶ、同病相憐れむ、いやはや良くできたものである。感激してしまった。

 その後、ロイコーではなく前回来たときにぼくが開拓した(?)新しいオープンバーにSを案内し、バカルディを一本飲んで解散にする。明日朝早く、らいぶさん一家と結婚式に出発する。運転もするだろうからきょうは酔わずに帰り、早めに寝よう。
 「なるほどなあ、世の中はよく出来ているものだよなあ」と感心したように繰り返すぼくに、Sがしきりになんだなんだと質問してくる。わからなくていい。ぼくのようなリクツヤは、こういうふうにキッチリとリクツがあってくれるとうれしくてならない。Sとあのゴリラオヤジが親しいというだけで難しい数学の問題を解いたような快感があった。お蔭で気持ちよく眠れた。
3日(金)  早朝七時半にピチット県に向けて出発。らいぶさんの義弟(奥さんの弟)の結婚式へ。片道500キロ。らいぶさんと交代で運転したがさすがに疲れた。夕方着。
 タパーンヒンという町に泊まる。夜、らいぶさんとすこしばかり町を探検。

 以下、この3,4,5の三日間は別ファイルとする。
4日(土) ←新郎新婦と花嫁の両親。

 結婚式当日。早朝四時五十分起き。
 田舎の家でやる、素朴で感動的ないい結婚式だった。

 この日、帰チェンマイ予定を一日延ばし、スコータイ見学。ピサヌローク泊まりとする。運転的にはずっと楽になる。
 スコータイの遺跡はいつ行ってもきれいだ。ぼくは三度目。らいぶさん夫婦は初めてらしく、その美しさに坊やも感動していた。


 夕方五時、ピチットからスコータイに向かっている車内に、闘病中だったTさんの奥さんが死んだとの連絡あり。奥さんの母親かららいぶさんの家へ連絡があり、そこから留守番の娘さんがらいぶさんの奥さんのケイタイに連絡してきた。
 ぼくやあいさんに奥さんの最期を看取るという約束でランパーンの田舎に引っ込んだTさんは、大晦日にチェンマイに逃げもどってきていた。知り合いの家で麻雀をやったりおせち料理をご馳走になったりしていた。なんとも複雑な心境になる。死そのものは、九月に会ったときから年内はもつまいと予想していたので驚きはない。それにしても大晦日にチェンマイにもどってきてしまったTさんには釈然としない。

 大晦日の帰国予定を変更し九日にしたのは、これがあるからだった。この日が来たら、あいさんやらいぶさんに頼んで出かけてもらおうと思っていたのだ。だがそれは肝腎の本人が逃げ出してきてしまい、応援してきた支持者の心は冷えてしまった。私たちが葬式に出ることはない。
 結果として、滞在を延ばし、葬式に出ず結婚式に出ることになったが……。
 ピサヌローク泊まり。
 工業の町であるここは、活気はあるががさつであり、何度も来ているがどうにも好きになれない。こういうふうによそに行くと、あらためてチェンマイのよさに気づく。

 Sが電話を掛けてきた。一緒に飯を食ってくれる人が誰もいないらしい。ピサヌロークで楽しくやっていると聞き羨ましがっていた。帰ったらまた一緒に飯を食おうとついつい言ってしまう。ダメな性格だ。

「バーン・クン・ポー」という最低最悪の店で、らいぶさん夫婦の怒り爆発。この辺も別ファイルに詳細に書こう。
 酔っぱらいがそうなのだが、連れが先に酔ってしまうと自然に片方は介抱役に回る。よって、最初に怒ったのはぼくだったのだが、いつの間にか宥め役にまわっていた。しかしまあなんともひどい店だった。らいぶさんの、かつての竹中直人の藝「笑いながら怒る男」と同じく、「笑顔で言葉はバカ丁寧だが怒り爆発」という珍しい藝を見せてもらった。
5日(日)  ピサヌローク九時発。
 昼。ランパーンから大雨。Tさんの奥さんの涙雨かと思う。
 思わず赤の太字にしたが、それぐらい異常な気象なのだ。

 Tさんからぼくのケイタイに電話。いま奥さんの死を知ったという。奥さんと知り合うきっかけになったトゥクトゥクの運転手がホテルまで来て知らせてくれたらしい。

 そのTさんから連絡を受けたとあいさんからも電話。これはちょっと意外だった。奥さんの母親はあいさんが大好きだったから既にかけていると思っていたのだ。

 どしゃぶりで視界最悪。事故を起こさないよう、前のクルマのテールランプを見つめつつ、慎重に運転。
 午後五時、チェンマイ着。解散。

 これらは《ピチットの結婚式》と題して写真入りのファイルでまとめる予定。

←スコータイ


 夜、七時半。Nさんから電話。今Tさんが来ているので、わたし(Nさん)の部屋で三人で亡くなった奥さんの残念会をしませんかとの誘い。
 二人ともタバコ中毒。ぼくは煙もくもくのNさんの部屋に五分いただけで気持ちが悪くなる。
「ぼくはタバコの煙が苦手なので、ちょっとNさんの部屋に行く気はありません。お二人ともヘビースモーカーでしょう」と言う。あちらもまたタバコ嫌いのためにそれを控えるなんて気持ちはないらしい。「そうですか、わかりました。Tにもそう言っておきます」となって話は終った。

 切った後、「じゃあ場所を別にしましょう」となったらどうなっていただろうと考えた。
 以前、Tさんの息子の誕生会をタイスキのMKでやったことがある。あそこは空調が効いていて禁煙だ。「それじゃMKで食事でも」と言われたらどうしたろう。
 ぼくはとっさの嘘が下手だ。もしも嘘が下手なヤツは頭が悪いという言いかたがあるとしたら、かなり頭が悪い。とっさに現場でころころと嘘をつくことが出来ない。だから若いころ、二またがバレそうになったりしたとき、その場しのぎの上手な嘘がつけなくて修羅場になったものだった。そんなことはともかく。
 もしもNさんに、「それじゃ別の場所で」と言われたらぼくはどう応えたろう。言いわけが下手で嘘がつけないから、わかりましたと出かけたのか。それともNさんに、実はTさんとは会いたくないんですと言ったのか、しばらく考え込んだ。

 このことであらためて確かになったのは、A子さん夫妻等が自分(=Tさん)に対して不満を持っているとまでは感じているTさんだが、ぼくにはそれがなく、自分側の人間だと解釈しているということだ。ある意味、ぼくの怒りがいちばん大きいのだが、この辺の感覚のズレは難しいものである。

 誘いを断ったのにはもう一つ理由がある。これもまたTさんのズルさになってしまうから書くのはちょっと気が引けるが。
 Tさんは自分の都合のいいようにしか他者に状況を伝えない。だからNさんなどは自分がいちばんTさんのために親身になり役立っていると思っている。過日話したときも、平然とぼくに「たまにはTにも会ってやってくださいよ」なんて言っていた。初めて知り合った時期はもちろん、その後から今に至るまで、NさんとTさんの関係など、ぼくと比べたら百分の一もないだろう。数ヶ月に一度会うNさんと違って、チェンマイに居るときは朝から晩までTさんの面倒を見ている。飲食から身の下までだ。Nさんごときにそんなことを言われる覚えはない。だけどそれも、そういうふうに伝えるTさんの問題になる。ぼくと毎日会い、飯から酒からすべてごちそうになっていますと言っていればNさんのそんな発言もない。適当に脚色して都合のいいように話しているのだろう。
 こういうことは男の嫉妬みたいでみっともないから書きかたが難しいのだけど、ぼくがTさんに対していちばん苛立っているのはその辺のことになる。それはぼくよりもA子さんのことに関して顕著だ。Mさん(女性)なんて人にいい顔をする。それは、いい顔の出来るだけの関係とも言える。いちばん親身になってTさんの面倒を見てくれたのはA子さん夫婦じゃないか。なのにそれらのことには触れず、話さず、Mさんと「A子さんにも幼いところがあって」などともったいぶって話している。そのズルさが許せない。もしもMさんがA子さんにあったら、「あなたももうすこしTさんの役に立ってあげなさい」なんて勘違いしたことを言うんじゃないか。キレイゴトのMさんと違ってA子さんは自らの手を汚してTさんに尽くした。それらの勘違いが生まれるのは、Mさんの責任ではなくTさんのズルさなのである。

 たぶんNさんのコンドに行ったらぼくの怒りは爆発してしまっていた。すべてをぶちまけるぼくによって、今度はTさんは、Nさんに愛想を尽かされていたろう。さっと引いたNさんの態度は偶然だろうが、結果としてはよかったと思っている。NさんもTさんもいま友達がいない。そんな二人を仲違いさせてもしょうがない。ぼくもまたこんなことで醜態をさらしたくない。結果として良かった。



 夜九時。久しぶりにインターネットカフェへ。といっても三日ぶりぐらいだがずいぶんとご無沙汰の気がする。
 取り立てて何もない。新日のドーム大会の結果が載っていた。あんなもんタダでも行かんというぐらい嫌いだからなんの興味もない。UFCチャンプが永田に負けていたが、安易に挑戦させるのもおかしいし、いくら事前了承で勝ち試合にしても、ミルコに左ハイ一発でのされた永田のだらしなさがぬぐえるものでもない。まあNWFを復活させるぐらいだからもうどうでもいいけどね、親日は。

 名古屋のカズヤから新年の挨拶のhotmail。サトシにも寄越すように言っておいてくれと伝言。
6日(月)  いつものよう午前七時には起きてThinkPadに向かったが、なぜか眠くていられない。九時頃から昼までまた寝てしまう。たまにあることだが今回は初めての経験である。それだけこの三日間が強行日程だったのだろう。ホテルでもぜんぜん寝られなかったし、神経を使う運転もたっぷりした。

 一日中、本を読んではうとうとするの繰り返しだった。いい骨休めになった。なんていったら毎日激務をこなしている人に叱られるか。遊んでいるような毎日だ。でも体がそれを要求したのだから無理をしなくて正解だったと思う。日本にいてもたまにそんな日があるが、チェンマイでは初めてというぐらいの経験。

 きょうは午後一時からランパーンの田舎で、Tさんの奥さんの葬式である。あいさんもらいぶさんも私も行かない。なによりTさんが行かない。幕切れは気まずいものになった。


 夕方ステーキハウス「バンライ」へ行ってパソコン雑誌を読みつつ食事。ここもまた何も言わなくてもペッパーステーキとビアチャンが出てくるようになった(笑)。

 コンピュータセンタに行って音楽CDを二枚買う。240b。
 ニール・ヤング15枚入りと最新ヒット曲集の5。
 何年ぶりだろう、『Harvest』を聴くのは。「Heart of Gold」がヒットしたのはぼくが二十歳のころだ。彼のあの獨特の鼻づまりの声は「蓄膿症ボイス」と呼ばれたものだった。

 クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング、CSNY。日本のミュージシャンでCSNの真似がいちばんうまかったのはガロの日高だった。自殺しちゃった人ね。日本のCSNを目指したガロは結局自分たちの曲ではヒットが出せず、山上路夫橋本循作詞すぎやまこういち作曲の「美しすぎて」のB面だった「学生街の喫茶店」が唯一のヒット曲となった。ああいうのって屈辱だろうな。



 部屋にもどって音楽を聴いていたらSから誘いの電話が入る。先約ありと行って婉曲に断る。そういう自分に腹が立つ。なぜ、おまえのような口の利き方も知らない礼儀知らずとはもう付き合う気はないのだと言えないのだろう。それでも、気弱オヤジには、断れただけで進歩だ。

 クノールスープを作って飲む。これが好きだったとあいさんから聞いたTさんの奥さんのことを思った。

 いつもの屋台街に行く。毎度の店が休み。隣の屋台で(ミーゴープ)を喰うが、まずい。卵スープがぜんぜん違う。こんなにも違うものかと驚く。やはりぼくが気に入った店は特別の店だったのだ。だよねえ、今までにも何度も食べていながら、今回「こんなおいしいものになんで今まで気づかなかったんだろう」と初めて思ったわけだけど、そうじゃなくてそこが特別においしい店だったんだ。

 本を読みつつ、九時頃に眠ってしまう。眠り病気味。
7日(火)  今朝は四時に起き(前夜九時に寝れば当然か)すぐにThinkPadに向かった。
 ティーシャツ一枚では肌寒く、コーデュロイの長袖シャツを羽織った。

 九時までびっちり仕事。気分がいい。
 バスタブに「長野五色の湯」を入れて楽しむ。最後の一袋。計算通り。
 このアパートの電気式瞬間湯沸かし器には当たり外れがあり、外れるとぬるま湯しか出ないのでこんな肌寒い朝は入れないのだが、この部屋の湯沸かし器はかなり熱い湯が出るので助かる。なにしろかなり大きなバスタブに、あの湯量のすくない瞬間湯沸かし器の蛇口から溜めるのだから、かなり熱いのが出ないと冷めてしまうのである。炭シャンプーで体に磨きを掛ける。

 先日Uさんに聞いた話によると、メーサイのゲストハウスにはガス式の瞬間湯沸かし器のところがあるらしく、それはもう完全な熱湯が出るそうだ。だろうね、熱量が違うから。メーサイはチェンマイより寒いからその必要があるだろう。
 先日の結婚式でピチット、ピサヌローク、スコータイにひさしぶりに行ったが暑くて参った。ドライヴ中はいいのだが、普通の生活をしているとき、暑くてたまらず、なんどもクルマの中に逃げ込み、クーラーを効かせて暑さをしのいだ。クーラーのあるのはクルマしかなかった。ああいうところに行くとチェンマイもまた涼しい北部なのだと実感する。


 風呂上がりに電話が鳴る。なんだかかなり訛りの強い早口タイ語でなにか言っている。最初誰からかかってきたか、用件は何事なのか意味がわからなかったのだが、やっと状況が浮かんできた。

 先日のピチットでの結婚式。3日のことだ。途中ターク(ターッとクは飲み込みましょう)のガソリンスタンドに寄って一休みしていたら、話しかけてきた娘がいた。

 タークの杉田かおるとアジャコングである。二人は十六歳。獨学で日本語を習っているらしい。まだほんのカタコトだったが、コンニチハ、ニホンジンですか、と話しかけてきた。
 おっかさんはピックアップトラックの荷台でソムタム売りをやっている。ソムタムにガイヤーンにカオニオを喰いつつ、彼女らの話し相手になった。もちろんらいぶさんも一緒である。

 で、ぼくがよせばいいのに、この荷台にいるおっかさん(離婚済み。四十歳、十六歳の娘と十四歳の息子あり)に、「新しい亭主におれはどうだ」なんて軽口を叩いていたのである。この杉田かおるにも、「きょうからは新しいお父さんと呼びなさい」なんて言ってふざけたのである。
 彼女らは電子メイルもやっているらしく(インターネットカフェのフリーメイルだが)何人かの日本人のメルトモの名を記したノートを見せてくれた。ぼくやらいぶさんのE-Mailアドレスをせがんだ。というわけでそれは、旅の小さな思い出だったのだが……。

 しっかあし、それは軽口でもふざけて、でもなかったらしい。電話の向こうでなんか言っているおばちゃんの要点は、「わたしゃあんたと一緒に日本に行くよ。いつ結婚してくれるんだい」ということらしい。おろおろしつつも「タイ人女性が日本に行くのは難しい」のようなことを言うと、「結婚すれば簡単だよ、あたしゃ知ってんだ」と言っている。「あんた、あたしに惚れたんだろ、結婚するんじゃないのかい」と。
 ちょちょちょちょっとそれは勘弁してくれ。おれはこの十六の娘でもいやだ。まして四十のあんたは対象になっていない。あのなあ、五十のおやじでも十八の美少女と一緒になれるこの国で、なんでおれがあんたと結婚せねばならんのよ。いや、冗談を口にしたワタシが悪いんだけどね。もうしません。許してください。

 電話を切った後、しばらくは悪夢でも見たようにへたりこんでいた。冗談もほどほどにしないと。

 このタッで思ったのだが、「チェンマイは美人の産地」というのは正しいね。チェンマイやチェンライにばかりいるからついつい忘れがちだけど、この娘さんなんかも、色が真っ黒で(それはいいんだけど)足がぶっとくて、かなりサモア系に近い。とてもじゃないがぼくの大好きな「スタイルのいいタイ娘」ではないのである。やっぱりチェンマイはいいなあと、この地を走りつつ思ってしまった。


 気分直しに市場に出かける。
 いつものおばちゃんの店で朝食兼昼食。ビールを飲むかと言われるが(そのおばちゃんの店ではビールは売っていないのにぼくが欲しいと言えばよそまで買いに行ってくれるのだ)きょうは飲まないと言う。今夜はらいぶさんとお別れの飲み会になるから今は控えておいた方がいい。

 ここかららいぶさんに電話。らいぶさんとやり残したことは二つ。ひとつはまだらいぶさんの行っていないブラッサリーに一緒に行くこと。もうひとつはIさんが入れていってくれた「オリビア2」のシーバスを開けること。もう時間がないのでどちらかひとつだけでも実現しないと。
 らいぶさんは留守だった。奥さんが四時に帰ってくるから、こちらから電話をすると言ってくれる。

 インターネットカフェへ。早速サトシがメイルをくれていたので返事を書く。カズヤが伝えてくれたのだろう。行動の早いのは気持ちのいいものだ。

 部屋にもどってまた仕事をする。窓からチェンマイの空を見上げつつ、ThinkPadに向かう。それだけで満足する。その満足ももうすこし、あと二日でおしまいだ。

 Sから電話。夕食をどっかで一緒して飲みませんかとの誘い。断るべきなのだがまたも優柔不断。「以前連れて行った市場で夕方五時ぐらいから飲んでいるから、よかったら来なよ」と返事。我ながらやっていることがいいかげんだ。きちんと拒めないのだからSを非難する資格がない。でもこの優柔不断は後にいい目に出る。


 五時近くにらいぶさんから電話。用事が遅れて市場に着くのは六時過ぎになりそうだとのこと。ひとりで行ってもつまらないし、ましてSの相手などする気もないから、六時過ぎまで部屋でThinkPadをいじる。
 市場について六時二十分。らいぶさんから電話。すぐ近くまで来ているがもう一歩市場の位置がわからないと言う。目印のセブンイレブンを指名してそこまで迎えに出る。

 市場にもどって六時半。計算では五時頃から来ていたSは、ぼくが来ないので諦めてどこかへ行ってしまったはずなのだが。

 いつもの店に腰を落ち着け、さあてなにを飲むかと考えていたら(といっても安物タイウイスキーとビールしかないのだが)、やあやあと明るくSが登場。「一度来たんだけどね、いないから時間をおいてまた来たよ」。しまったと思ったが、その後ろに懐かしいKさんの顔。Sを通り越して、ひさしぶりだねえと握手。

 Kさんはチェンマイの大先輩で(ぼくより年下だけど)いろいろと教えてもらった仲だ。基本的に「宇宙堂派」なので「サクラ派」のぼくとはここのところ縁遠くなっていた。五年ぶりぐらいだろうか。

 十二年前、ぼくに今のアパートを最初に教えてくれたのはエイズで死んだKさん(別人)なのだが、実質的には当時そこに住んでいた目の前のKさんの影響を受けて住み始めたようなものである。
 Kさんは後藤茂さんのホームページにも顔写真が載っている。らいぶさんとは初対面。でもらいぶさんは「一休」のご主人だった人だからお互いに顔を見たことはあったようだ。

 なつかしい話。いろんな人の消息。お互いの情報を交換するとそれが何倍にもふくれあがって広がる。
 Kさんにまだ毛があると驚かれた(笑)。五年前にKさんは、遠からずすっかりなくなるだろうと予想していたらしい。対して四十二歳のSが地肌が見えてしまって一気にキテいる。それをからかわれてさすがに気にしていた。ロゲインを点けているらしい(笑)。
(いま地肌をぢはだと打ったらATOKに「じはだの誤り」と指摘されたのだが、これなんかヘンだよね。地球は「ちきゅう」でしょう。地が濁るときは「ぢ」だよね。「じ」じゃないでしょう。文部省のこの辺の指導は間違っている。既に識者に指摘されている有名な問題だけど。)



 今回らいぶさんの義弟の結婚式に出た。タイ式結婚式の二回目である。一回目は五年前のMさんの結婚式。ピサヌロークだった。ぼくのレンタカーにKさんを乗せていった。あれ以来になる。
 あれこれと情報交換し、むかしをなつかしんで楽しかったが、Kさんの価値はもっと違うところにあった。彼はぼくのような気弱オヤジではないのである。Sより三歳年上になる。もうビッシバシ言う。一切手加減なし。それが言いたくても言えないぼくには涙が出るほどの快感なのだった。

「おまえってほんとみんなの嫌われ者だからな。誰も一緒にラウンドしてくれないもんな」とKさんが言う。
「そんなことないですよ、きょうも××さんと一緒に回りましたよ。でもほんとはKさんと一緒に回りたいですけどね」とS。
「やだよ。回りたくないよ、おまえなんかと。おまえみたいなマナーの悪いヤツ、見たことない。誰もが言ってるよ、おまえとだけはやりたくないって。相手してくれるのは××ぐらいだろ」

 ああ~アァ、気持ちいい。ビッシバシ、ズケズケ言いたいことを全部言ってくれて、Sが縮こまっている。××ってのは、あの消費税話を遮ったゴリラ親父のこと。

「つまみがないなあ」とぼく。
「あっちにソムタムがありますよ、買ってきましょうか」と、らいぶさん。
するとKさんが、「おい、S。おまえ行けよ、いちばん年下だろ」
「え~え、おれがいくのお」
「ここはいちばん年下なんだからおまえが行くべきだろ」
 しぶしぶSが出かけて行く。気持ちいい~!!! Kさん、最高!

 そうか、Sのような躾の悪い犬は叩かなきゃダメなんだね。そうそう、犬ってのは誰がご主人様か叩いて教えないと際限なく増長するタチの悪い動物でもあるんだ。なるほどなあ、よっ、調教師、Kさん!

←夜の市場。光量不足でボケてます

 ぼくとSの二人だけだと、前記したような「後ろも前もオーケー女」のようなネタに引っ張って行かれてしまうわけである。ぼくが気弱だから。でもKさんが居ると、ぼくら三人が政治だろうと経済だろうと好き勝手に話し、着いてこられないSが、せっせとかつての「うなづきトリオ」のように、ふんふん、ふんふんと頷くだけという気分のいい展開になるのだった。あああ、最高だあ! しかし会話内容に着いてこれず、いかにもわかったふうなふりをして(その下手な芝居が見え見え)頷いているってのも惨めなもんだなあ、Sさんよ(笑)。すこしはゴルフと女以外のことも勉強しなさいね。ああ、こんな快感があるなんて。ありがとうKさん。

 いつもの食堂のおばちゃんがぼくの隣に来て、みんなのセンソム(安物タイウイスキー、正しくは米焼酎)を絶妙のタイミングでソーダ割りにしてくれる。みんな礼を言う。Sだけ言わない。それを指摘したら「いま言おうとしてたのになあ」と笑いにごまかして、けっきょく言わない。すこし時が経ち二杯目。やはりまた言わない。指摘する。「いま言おうとしてたのに」とまたごまかして言わない。「あ、すいません、わすれてた。おばちゃんありがとね」と言えば済むことなのだが、それを決して言わない。らいぶさんが「自分の非を絶対に認めないところなんてもろにタイ人ですね」と言う。らいぶさん、ナイスシュート! S、ぼろぼろ。でもこたえてないけど。ああ、こんな快感の夜になるなんて。Kさんとの出会いは大きかった。

 Kさんはノートパソコンでインターネットをやっているそうだ。パソコンを始めてもう五年になるという。後藤さんのホームページがまだ「チェンマイのさくらと宇宙堂」のころはよくロムしていたらしい。「ししまる君のころはおもしろかったよね」と笑っていた。これもパソコンなんて触ったこともないSだけが着いてこられない話題。快感。
 ぼくのこのホームページの存在は知らなかったようだ。らいぶさんが「ヤフーの検索ですぐに出ますよ」と言っていた。出るの? うまく見つけて読んでくれるといいが。Kさん、読んだらka**zoka**zo@hotmail..comまでメイルちょうだいね。



 そうそう、もうひとつKさんから勇気をもらったことがあったので書いておこう。
ぼくはずっと「チェンマイ雑記帳」に「正しいこと、間違ったこと」のような、そんなタイトルで書きたいテーマがあった。


「何が正しいか!?」とは難しい問題である。すぐに「おまえだけが正しいのか!?」と反発を喰うだろう。タイ語の言い回しとかそういうものならともかく、人が人について書いた文章にこれを適用するのは難儀である。だけどぼくは、どうしても書かずにはいられない憤懣がかなり溜まっていた。

 同じくチェンマイのことを書いているホームページについてである。
 とにかくそこにある旧『サクラ』やそこに出入りしていた連中のことを書いた文章が間違いだらけなのだ。ここでも「間違いとはなにか」は難しい問題になる。具体的に絞って話を進める。
 たとえばAという人が居るとする。その人は假に、ぼくからすると「やさしい人だけど、ちょっと優柔不断」だとする。それを他の人が「やさしさのかけらもない狷介な性格」と書いたなら、ぼくは反発を覚える。が、それはその人の解釈であると認めねばならない。その人からそう見えたならしょうがない。だからこういうことを「間違い」とは思わない。

 だけどそういうことではなく、Aという人に関して、「これこれこういう理由でチェンマイに来たそうな」「そして帰国してから、今はこうなったそうな」と伝聞で書かれていて、しかもそれが明らかに事実と違うなら、それは「間違い」と言えるだろう。そしてそのAというのが『サクラ』にやってきたのはぼくとの縁であり、ぼくがAとは互いの家に泊まりあったほど親しいなら、そのことに抗議する資格がぼくにはあるはずである。
 そのホームページにはそういう「間違い」がいっぱいあり、ぼくはかなり腹立っていた。ここにおける「間違いとはなにか」はぼくの中でずっとくすぶっていた問題だった。

 Kさんとタイ関係インターネットの昔話をしていた。後藤さんのホームページが「ししまる君」で盛り上がっていたころはKさんもタイ関係のホームページをあれこれ探しては毎日楽しんでいたらしい。そんな当時の思い出話をしていたら、いきなりKさんが言ったのである。「あの、××ってホームページ、あれだけは許せないね、なにいってんだ、こいつ、と思ったよ」と。
 その××というホームページこそ、ぼくが間違いだらけじゃないかと腹立っていたサイトだったのである。同じくぼくよりも遙かにタイ・チェンマイ経験の長いKさんも同じ憤懣を抱いていたのかと知って、我が意を得たりと膝を叩きたい気分だった。
 するとらいぶさんも苦笑しつつ言ったのである。「あのホームページの間違いをぼくもメイルを出して指摘したことがあるんですよ。すると『これからもよろしくお願いします』と、なんか勘違いした返事が来たのでそのままにしたんですけど」と。
 そのホームページには、ぼく以外にもみんな憤懣を感じていたと知り、気弱オヤジは急に心強くなったのだった。

 その原因は割合はっきりしている。それはそのホームページを作っている人は『サクラ』丸テーブルのメンバーではなかったからである。博覧強記から変態まで、一家言のある多士済々が集う丸テーブルには参加できず、奥のテーブルでひっそりとみんなの話に聞き耳を立てていた人のひとりだったのだろう。
 ぼくも以前メイルの交換をしたことがあって、「先日見かけました。会えばわかります」と彼は言うのだが、あちらは知っていても、どうにもぼくには彼の顔が浮かばないのだった。Kさんも知らないのである。本人が思っているほど有名じゃない(笑)。唯一会ったことのある後藤さんによると、とにかく暗い人らしい。それはわかる。ぼくのようにわいわいぎゃあぎゃあやっていたのではなく、それをじーっと観察していて、文章にしているわけだ。その意味ではぼくなどより遙かに物書き的資質のある人なのだが、いかんせん直接関わることなく伝聞でばかり書いているから間違いが多いのである。これはよくないことである。
 前々から書こうと思っていたテーマを、Kさんのひとことが後押ししてくれた。そのうち書きます。



 もうひとつ学んだことがある。
 そういう旧『サクラ』からの思い出話をしていたときだ。今じゃ来なくなった連中の話をしていたら、Sがキョージュと呼ばれていたヤツの名を挙げたのだ。アメリカの大学教授なのだと言う。自称。「あんなインチキヤローはいませんよ」と、Sが激しい口調で非難している。そういえば新『サクラ』開店のころは、チョンマゲタナカ、ミスターエックスとろくでもないのがいっぱいいた(実はまだチェンマイにいるのだが)。それはすべて新『サクラ』になり、パパがシーちゃんとのケンカから来ない二年間の出来事になる。ほんとにあの時期は最悪だった。いわば保安官のいない丸テーブル無法地帯である。

 ということでぼくは、あたりまえの事実をもういちど確認した。つまり、ほんとにイヤなヤツはもう一瞬でわかるからつきあわないわけである。上記のカタカナ名などがそれに当たる。もう十メートル以内には近寄らなかった。だから、いい人だと思ってつきあったらとんでもないやつで、ひどい目にあった、なんて経験はまったくない。それから言うと、Sなどが最低ラインになるわけで、Sというのは、つきあえるぎりぎりのところにいる奴なのだと再確認した。その意味では許容範囲内のいいヤツになるわけである。

 気持ちのいい夜になった。一次会解散。
 KさんとSはコージーコーナーへ。

 ぼくとらいぶさんは、もうすこし隣の店で飲むことにした。この市場で飲むのもきょうが最後だろうから顔なじみに挨拶をしておきたかった。
 写真は「市場のブルック・シールズ」ね(笑)。ナクラの写真を撮れなかったのがなんとも残念である。
(肖像権のことを考えて写真を削除。03/5/30))

 ビールを一本飲み、みんなに別れの挨拶をして場を辞す。時間はこれで九時半ぐらいか。

 さていよいよ今夜のメインであるブラッサリーである。まだすこしステージまで時間があるが、早めに行って飲んでいてもよい。大晦日に坐れなかったぐらいだから今から行っていい席を取ろう。

 しかしなぜかいつも十時半からライヴ演奏が始まるのに、その気配もない。今夜は遅いらしい。しょうがないのでぼくらもコージーコーナーに行ってみる。KさんとSの他にも、川崎のTさん、Eさん、神谷さんと勢揃いして賑わっている。
 コージーコーナーが開いたのは十年ぐらい前か。開店当初に出かけ10%引きになるメンバーズカードのNo.7をもらったものだが(もうどっかへ行ってしまった)ぼくにはどうにもこの店のおもしろさがわからない。でも『サクラ』からサンチャ、そしてコージーというルートを日常としている人は多い。

 Sが、それじゃと言ってバイクに跨る。帰るのか。Kさんが違う違うと首を振っている。ああ、そうだ。置屋である。元気な人だ。きょうはパソコンやインターネットの話に関われなかったし、欲求不満が溜まっていることだろう。スッキリしてきてくれい。神谷さんもSに対してきついことを言っていた。どうも評判はどこでもよろしくないようだ。

 Kさんに、ひさしぶりに会えてよかったと言われた。ぼくも同じである。Sのことはまあ半分冗談としても、KさんもOさんのホームページに反感を持っていると知ったことは大きな意味があった。すくなくともOさんよりは、ぼくやKさんのほうが旧『サクラ』に深く長く関わったのは間違いないからである。



 ブラッサリーの生演奏が始まったのは零時をすぎていた。なぜかあいさんの旦那がいた。ここのところさゆりや深夜のオープンバーや、いろんなところで会う。
 トックは相変わらずのバカテクだった。いやはや凄い。「黒くない」と書いてしまったことを訂正する気はないが、必聴に値するバカテクギタリストであるのは間違いない。
 今回は写真を撮ろうと意識して出かけた。ぼくは彼のステージ写真を撮ったことがない。演奏の間、カメラマン気分で撮りまくった。大勢のお客の前で、そういうでしゃばりをするのは恥ずかしかったが、こういう写真を撮ることももうあるまいと思ったので、脚もとにかがんだり、ドラムの前から斜め前方にと、百枚以上を撮りまくった。




 らいぶさんがおねむになってきたようなので、そろそろ帰ろうと思ったのは二時近くか。まだまだ演奏は続いている。カウンターに行き精算をしていると、演奏中のトックが追いかけてきて、帰るのか、まだいろと引き留める。リードを取っていたスターギタリストが突然演奏を止め、客のひとりを追いかけて来たのだから、そりゃ目立ってしまう。嬉し恥ずかしというヤツだ。身にあまる光栄である。また来るからと約束して辞する。
 考えてみると、もう何度も日本公演をしているトックだが、ぼくはその前からの知り合いになる。それなりに大切にしてくれたのだろう。また行きたいものである。




 部屋に帰って午前三時近く。
 前々かららいぶさんは寝付きがいいと聞いていたが、ほんとこの人、バタンキューである。早い。ベッドに入ったと思ったらもう寝息がしている。
 気持ちのいい日になった。満ち足りた気持ちで就寝。
8日(水)  朝七時半に、奥さんがらいぶさんをお迎え。帰宅。
 その後、九時まで寝る。楽しい夜だったので宿酔いはない。

 いよいよチェンマイでの日々も残すところ二日となった。好きな音楽を聴きつつThinkPadに向かう。贅沢な時間だ。
 最後の二日だ。何もせず、のんびりとチェンマイの空気を楽しもう。

 十時にいつもの店にカオマンカイを食べに行く。このうまいカオマンカイもしばらくは食べられなくなる。
 すぐにまた部屋にもどり、音楽を聴きつつ文章を書く。
「HIT POPS 5」という音楽CDは当たりである。いい曲がいっぱい入っている。
 窓からの陽射しで、部屋はちょうどいい室温。これが午後になると、ちょっと蒸し暑くなり、クーラーを入れたりする。



 午後二時、C子さんから電話。
 メイルチェックしましたかと問われる。していないと応える。
 Tさんから「このメイルを皆さんが読む頃には私は天国か地獄にいます。お世話になりました」という内容のメイルが届いたという。どうしましょうと相談される。
 それはTさんが自殺した後に流されることになっていたメイルだった。奥さんは四日(三日?)に死んだ。六日が葬式だったがTさんは行かなかった。Tさんをランパーンの奥さんの家に送り出すとき、奥さんが生きている内に自殺するというTさんに、私は彼女の最後を看取ってやってくれ、死ぬのはその翌日にしろと言った。彼はそれを了承した。タイミングとしては合っている。私はTさんの自殺に肯定的なので愕いてはいない。ついにその日が来たかと思っただけだ。
 でもどういうことだろう。これって確か、死んだ後に流してくれとA子さんに頼んでおいたのではなかったか。誰が流したんだ。

「ダメですよオ」とC子さんは言う。なにがダメなんだろう。「まだ生きているかもしれないからとめなきゃダメですよオ」と言う。奥さんが死んだからとその辺の事情をすこし言ったら、「えっ、あの奥さんて死んだんですか、病気だったんですか」と驚いている。つまりC子さんはTさんのことなど何も知らないのだ。腹が立つのは、そんな交流のないC子さんにまでそういうメイルを送るTさんである。

 C子さんは他人のために尽力するような人ではない。自分のことしか考えない人だ。その点でA子さんとは正反対である。これは非難ではない。よくもわるくも生きてゆくために個人主義に徹しているという意味だ。そのC子さんがなぜか取り乱している。
 私は冷静に、ダメですよオを連発しているC子さんに訊いた。皮肉っぽく。
「でも、お仕事が忙しくて、C子さんは出られないんでしょう?」と。
「事情が事情ですから出してもらえると思いますけど」と応える。
 ほんとにTさんのことが心配なら、C子さんにも行動してもらいたいものだと思う。
「ぼくはTさんの泊まっているところを知らないんですよ。彼から知らされていませんから。でもA子さんが知っているはずです。『サクラ』の近くだと言っていました」と伝える。
 C子さんは「じゃあ今からA子さんに電話してみます。なにかわかったらすぐに連絡します」と言って電話を切った。



 それから仕事をしつつC子さんからの電話を待った。Tさんのあのメイルは死後に発信されるようになっているのだから、その意味では今から慌てても遅いのである。しかしどうも引っかかる。誰かに出してもらったのか。それとも自分で出して、今から死ぬつもりなのか。だとしたら私も動くべきなのか。

 時間が過ぎる。C子さんからの連絡はない。あちらから掛けると言ったのだから私からは掛けない。仕方がない。自分で動くことにした。
 『サクラ』に行く。元ミュージシャンのHさんや、料理好きのRさんがいた。さて、なんといって切り出したらいいものか。川崎のTさんに、Tさんのゲストハウスを知っていますか、と問う。すると、いつもあそこの路地から出てくるから、あの辺りの奥じゃないかと言われる。険しい顔をしている私に、Hさんが「どうしたの、怖い顔して」と話しかけてくる。知らず知らずのうちに険しい顔をしていたのだろう。顔の筋肉をゆるめる。

 厨房で包丁を研いでいたパパが出てきた。「あの、Tさんのことなんですけど」と言い出したら、「あ、Tさん。さっきまでここでお茶飲んでたよ」とのこと。一気に力が抜けた。まだ生きている。
 でもまだ安心は出来ない。今頃首を吊っている可能性もある。私はいつもTさんが現れるという路地に行き、その辺のゲストハウスで、Tさんの名前を言い、容貌の特色を言って、泊まっているかを尋ねた。すぐにわかった。部屋に行ってみる。死体とのご対面になるのかと思うと、あまりいい気持ちはしない。

 二階の端の部屋に行き、ドアをノックする。すぐに返事があった。室内に入るとビールを飲んでいるTさんがいた。タバコの買い置き、安ウイスキーの買い置きもたっぷりあるのが見える。すくなくともきょう明日死ぬ人の部屋ではない。案じたことがバカらしくなった。

 ああいうメイルが届き、C子さんから心配の電話がかかってきたので来てみた。どういうことなのかと問う。「間違って送信してしまった」と言う。ヘンな話である。間違って送ってしまったなら、すぐに訂正のメイルを送ればいいだろう。『サクラ』でお茶など飲んでいずにだ。どうにもみんなに心配して欲しくてわざと送ったとしか思えない。「遠からずそうなるからそれでいいのだ」と言っている。ばからしくなって去った。

 だいたいがあのメイルの宛先には、Hさん(私が絶縁した人)や後藤さんのような私を通じて知り合った、今は何の交流もない人のアドレスがいくつも入っている。C子さんもそれに当たる。そんな無関係な人にまであんな迷惑メイルを送ってどうするというのだ。インターネットカフェでこまめに内容を書き直しているのだから、関係が薄くなった人のアドレスを削ることから始めるべきだろう。

 その後、C子さんからは何の連絡もなかった。どういう精神構造なのか、あらためて疑問に思う。もちろん仕事を抜け出して『サクラ』まで駆けつけたなんて話もない。
 結局Tさんの迷惑メイルで現実に行動し、実質的な被害を被ったのは私だけだった。



 『サクラ』にもどり、心配してくれたHさんやパパに簡単に事情を説明する。みんな首をかしげている。Hさんも私の険しい顔の理由をわかってくれた。
 簡単な真実なのだけれど、Tさんは死にたくないのだ。体の具合が悪く、金もないから、死ぬしかない状況なわけで、金さえたっぷりあったらまだまだ生きていたいのである。私もよく死にたくなる。でもその時、自分の死を知り合いに伝えるという感覚はない。そういう感覚と死は最も遠いだろう。死んだ後に『皆さんお世話になりました』なんてメイルを送りたいと生前から考えているTさんこそ、実は最も死にたくない人なのだ。

 インターネットカフェに行く。私のところにもそのメイルが届いていた。くだらん。削除する。
 竜王戦、羽生防衛を知る。



 らいぶさんが電話をくれる。荷物預かりはどうしましょうかと。
 ラジカセとバッグをひとつ預かってもらわねばならない。ちょうどステレオが壊れているそうなのでラジカセを使ってくださいと伝える。バッグも中身はなくなってもかまわないものばかりですからと確認する。明日の朝、七時に来てくれるそうだ。

 部屋で本を読み、夜、いつもの屋台に行く。ミーゴープを食べつつ、ビアチャンを飲む。
 最後の夜だ。のんびりと、なにもせずに過ごそう。短いようで早く、早いようで長い一ヶ月だった。
 たぶん、ひとりで過ごす正月としては最後になるはずである。そうでなければならない。
9日(木)  最後の夜に、それなりに昂奮していたのだろうか、それともTさんの問題だろうか、なぜか眠れなくなってしまい、だったら悶々とするのも無意味と午後十一時頃に起きだして、ThinkPadに向かった。結局ベッドに入ったのは午前三時ぐらいだったか。

 六時に目覚ましを掛けて起きる。荷造りがしていない。なにをらいぶさんに預かってもらうかきちんとしないと。
 なんとか七時にらいぶさんが来るまでにまとまった。子供さんを学校に送った帰りで奥さんも一緒だった。挨拶にちょうどいい。結婚式やスコータイでの写真を送ることを約束。らいぶさんも明後日には日本だ。



 朝日が射しこみ金色に輝く部屋の中で、昼近くまでうとうとする。さわやかな目覚めだったが、鏡を見たらなぜか顔が醜くむくんでいた。なんだろう、これは。
 なにもせずに、チェンマイの空気だけを吸って過ごすのだ。いつもの店でカオマンカイを食べた後、市場に行き、おばちゃん達と別れを惜しむ。すこしばかりタイ語が話せるので、みんなこちらで働いていると思っている。旅行者なんだってば。

 日本は空港税がいらくなくなったが(インクルード)こちらはまだいるのだろうか。いるんだったよな。手持ちの金が千バーツしかない。すこし心許ないのでナイトバザーまでキャッシングに行く。5000バーツもあればいいか。

 またあの最悪のバカ。ダイナースカードを出したこちらに最初に言ったひとこと。「VISAかMASTERはないのか」。ふつふつと凶暴な血がたぎってくる。こんなバカな話はないだろう。ダイナースカードの使用者がダイナースカードを使用できるコーナーに行き、ダイナースカードを差し出しているのに、係員がテメーの都合でVISAかMASTERはないのかって、なんなんだこれは。殴りかかりたくなるほど不快になる。
 ノーとひとこと言い、待っている間、こいつの名前を控えていって正規の抗議をしようかと頭から湯気を出しつつ考える。すぐにいつもの事なかれ主義が顔を出し、こういうところにもう来ないようにすればいいのだと考え直す。とにかくここには来なくて住むようなチェンマイ住まいを考えよう。しかしひどいところだ。

 バンライで食事をする。ミー(女主人)がいたのできょう帰ると言い、名残を惜しむ。
 レンタルバイクの料金を払い、午後八時に空港まで送ってもらう約束をする。

 部屋で一人、音楽と共に最後のチェンマイの時間を楽しんだ。



 午後七時。荷造りをすませた後、『サクラ』に挨拶に行った。
 ランプンのTさんがいた。毎日ご出勤である。他に行くところはないのか(笑)。
「帰る日が近いから、毎日夜中まで遊びまくってるそうですね」と話しかけてくる。「Sさんがとてもつきあいきれないって嘆いてましたよ」と続ける。そういう作り話で笑いを取ろうとしている。
 昨夜読んでいた藤沢周平の一節を思い出した。時代小説だ。それは冗談など言えない無骨な番頭が、これさえ言えば受けるとばかり、どんな顧客に対しても「お忙しそうで。さてはこちらですな」と小指をたてるというものだった。それさえすれば客は喜び、お愛想になっていると勘違いしているのだ。

 そうなのである。冗談が下手な人ほど、かってに必勝パターン(笑)というのをもっている。ぼくもそれは今までの人生でずいぶんと接してきた。このランプンのTさんも基本は司法浪人崩れのくそまじめな人である。冗談センスなどない。だからこそこんな場合、なにかを言わねばならないと力み、毎度ワンパターンのこんなおもしろくない冗談を言うのだ。
「Sとはつきあってませんから」と冷たく言ったらしらけてしまった。ぼくもおとなげない。反省する。でもだめなんだよなあ、こんなセンスのないパターニックな冗談ににこにこつきあえる大人にはどうしてもなれない。「もう最後ですからね、毎日やりまくりですよ、わはは」とでも言えば盛り上がったのだろうが……。

 パパがバイクのところまで送ってくれて、今度はいつ来るのと聞いてくれる。わかりません、と応える。これまた無難にソンクランのころにでも、と言えばいいものを。嘘が下手なのだ。でも本当に、今度いつチェンマイに来るのか予定がない。パパの心遣いがありがたい。

 ぼくは今回初めてリアルタイム進行の「チェンマイ日記」を書いた。(結果的にはアップが出来ず半分も実現しなかったが。)
 これってテレビの歌番組が最終回に時間を拡大して生放送するようなものなんじゃないのか。今までに書いたチェンマイに関することは百分の一程度で、書くことはまだまだ山ほどあるのだが、ぼくのチェンマイライフは、とりあえず今回で終りではないのか。そんな気がしてならない。

  レンタルバイク屋のスターに空港まで送ってもらう。彼の名は適当にスターと覚え、綴っていた。英語のスターの愛称かと思っていた。実は長年メルと呼んでいた本名だと思っていたヤツが、メル・ギブソンが好きだからと自称し始めた名前だと先日知ったばかりなのだ。今回初めて文字を教えてもらったら、「スッタッ(ト)」という本名だった。これからはそう表記するようにしよう。最近日本語を覚え始めた彼が、何かを言っているのだが理解できない。チョウ、ジョーと言っている。話の前後から「象」のこととわかった。Zのないタイ人はその発音が出来ない。トレッキングやエレファント・ファームへのミニツァーなどあるスッタッ(ト)には、ぜひとも「象」は覚えたい日本語なのだろうが、ジョーと言われても誰もわからないだろう。なんだか気の毒になってしまった(笑)。



 チェンマイ空港内で、小腹が空いたのでスパゲッティとビアチャンを頼む。ビアチャン110バーツ。市場で「三本100バーツ」だったことを思い出す。

 空港ロビーで友人を送りに来ていたFさんに会う。ナコンピンの住人。ひさしぶりだ。去年の夏、カラオケで西郷輝彦を歌っているのを見て以来(笑)。でもその送りに来ていた友人はぼくから顔をそらし目を合わせようとしない。別にぼくとどうのこうのというわけじゃない。初対面の人だ。社交性がないのだろう。こんな人もチェンマイで会う日本人の特徴でもある。



 バンコク。ドンムアン空港で久しぶりに国内線から国際線へ。ひさしぶりにあの長い長い通路をスーツケースをがらごろと引っ張りながら歩いた。ここ数年、チェンマイでチェック・インのTGばかりだったので煩わしく感じる。



 ビーマンにチェック・インするとき、いつものようAISLE SEATをリクエストしようとして、ビジネス席なのにそんなことを言ったら笑われるかと思いとどまる。ぼくが今まで乗ったビジネス席は、すべて二席配列だったので、すべてAISLE SEATである。よけいなことを言って恥をかくのはよそうと思った。
 大失敗だった。しっかりリクエストすべきだった。AM1:10分発の便にPM11:10分にもうチェック・インしたから、選べたはずなのである。

 機内に入って愕然とする。ビジネス席は、2..2.2が一列目、2.3.2が二列目、三列目とある合計20席だった。二列目と三列目の3席ある真ん中に中央席があるのだ。まさか、と思う。悪い予感が当たった。ぼくの席は、二列目の3の中だった。つまり20席の真ん真ん中である。この真ん中の席に当たる確率は20分の2、10分の1なのに、なんでこんなときにだけ当たるのだろう。二者択一でも負けるような運のない男が……。ついてねえ。

 この席は両脇を固められていて、ビジネス席なのにぜんぜんくつろげない上に、さらに最悪の缺点があった。スピーカーが真上にあるのである。よって「アッラー、ナントカカントカ」ってコーランみたいなのもでっかい音で頭の真上から聞こえてくるし、眠っているときいきなり機内のやりとりの「ガピーッ、ガリガリガリガリ、イエッサー、オーケー、ガリガリピー」ってのも降りかかってきて、とてもじゃないが心安らげないのである。とんでもない席だった。ついてない。

 ビーマンのビジネス席はビジネス席なのに普通席と同じ幅だなんて噂もあったが、そんなことはなく座席の広さには不満はなかった。指定された席が最悪なだけだ。一列目の2.2.2の右端や左端で気持ちよく寝ている人を、ぼくはねたましげに見つつ、両脇のオヤジと肘が触れてはハッとし、頭上のスピーカーに起こされてはハッとしで、全然眠れなかった。それでも最低最悪のビーマンのビジネス席でも、幅があり、脚もとが広いから、ずいぶんとエコノミー席よりは楽だったけれど。

 三年前のきょう、最愛の猫が死んだ。十四歳だった。生まれて二日目ぐらいに捨てられていた。目も開いていない。哺乳瓶でミルクをやって育てた。猫の排便は母猫が肛門を嘗めてやって促す。それすらもまだ知らない猫だった。してやらないと排便できず死んでしまう。水で濡らした指で肛門をとんとんと叩いてやって母代わりをした。刷り込み理論で言うなら間違いなくぼくは母だったろう。ミルクを飲んで満腹になるとぼくの指を吸いながら眠った。母猫のおっぱいを思っていたのか。息子のようなものである。

 猫は死体を見せない。死を悟ったある日、ふといなくなる。
 生前から、おれの腕の中で死ねよと言って育てた。何百回、何千回も言ったろう。約束を守ってくれた。命が燃え尽きたとき、あんなに涙が出るものかと思うほど泣いた。慟哭ってのはあれだろうな。たぶんぼくは今後あれほど泣くことはない。大好きな父を失ったときも、もっと毅然としていられるだろう。猫を失い、大げさじゃなく北朝鮮の泣き女のように泣きながら、一方でそれを恥じている自分を感じていた。男は声を出して泣いてはいけないのだと思った。ずいぶんといろんなことを教えてくれた猫だった。



 チェンマイに初めて行ったときから日記は書いてある。過去に遡るならいくらでも「日記」は書ける。それもそれでおもしろいだろう。
 果たしてまた、こんな形の「チェンマイ日記」を書くことはあるのだろうか。ぼくにもわからない。ただ、年に三ヶ月から時には五ヶ月ほども過ごした十余年に及ぶぼくのチェンマイ通いが今回で一区切り着いたのは確かである。はてさてこの後どうなることやら。
(2003年1月17日 脱稿)




続きは《云南でじかめ日記》の「北京秦皇島日記」



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